2015年2月15日 (日)

【古典ひとこと00】『江戸端唄集』〜なぜ古典に触れるのか

Edohauta

サラリーマンの私には、時事や流行の一端を知っていることはたまに必要ですが、世の中で「古典」と呼ばれるものに何の縁がなくても生活に支障はありませ ん。「古典」は大好きですけれど、専門知識もありませんから、いろいろお詳しいかたと違い、満足なことは何も分かりません。誤解もいっぱいしています。
では、なぜこんな、当座の用などない「古典」が好きで夢中になるのか。
「古典」には人間の得て来たこと・失ったものを書きとめ描きとめてあって、その重さに惹き付けられるからかも知れません。
ひとりひとりの人間は死ねば意識も消え、世間の記憶からもあっというまに消え失せます。生きているあいだでさえ、自分の成功も失敗も明日には忘れてしまっています。そんなですから、どうしても目先の「いま」に溺れます。
「いま」を泳ぐとき、「いま」にしか視線が向いていないと浮輪の在処が分かりません。けれども浮輪をまだ見えない未来に求めることも出来ません。どうしたらよいのか。
占術や未来科学に目を向けるかたもいるのでしょう。
で も私にとっては、昔の人が描いたままに自身も忘れてしまっていただろう事柄や記述のなかに人間らしい苦悶やそれを繰り返さないための知恵や、どうにもなら なかった諦めを読みとる方がずっと魅力に感じられます。自分より前の人たちはどうやって浮輪を見出して浮かび、あるいは見出せずに沈んでいったか。その喜 びや悲哀や後悔をかえりみるほか、自分の運を確かに占う手だてもなさそうに感じるのです。
人の一世代を二十五年程度と考えますと百年で四世代。祖 父母が生きていれば百歳超なので、これくらいの幅が適当なようです。すると、千年前の「古典」に触れても実はせいぜい四十世代前をかえりみられるに過ぎな い。こんなわずかな世代の営みの中で、人間という生き物は、いかに多くのことを忘れてきたことか。
その忘れて来たことがまた繰り返されているのか、再び思い出されずにいるのか、ある日突然また記憶に呼び起こされるのか。
みずからの愚かさを思い知るのに、これを見つめるくらい厚みがあって、日々のおのれの小ささを笑いとばすために頼れる行動指針もない、と、このごろしみじみ思うのです。

そんなことで、今年はちょっと、いくつかに色分けして「古典」の手短な散歩をしてみたいと考えているのですが、こんな企ては日本なら江戸時代の終わり頃の「棚のだるまさん」という端唄に

あまり しんきくささに たなのだるまさんを ちょいとおろし
はちまきさせたり 転がしてもみたり

(『江戸端唄集』岩波文庫30-283-1)

とあるようなことをいまさらやるのに過ぎないのでしょうね。
どうなりますことやら。

岩波書店『江戸端唄集』紹介ページでは、この本に収められた端唄から10例ほどを実際に歌ったものが聴けます(ことばに違うところがあるのも面白いです)。どうぞ覗いてみてくださいね。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/3028310/top.html

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