2014年8月 4日 (月)

菜の葉にとまる蝶の話(8)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶3】

模様の世界の蝶は平安中期以降はアゲハが多く、描かれる背景の季節は春夏秋まんべんなく、である様子を見てみました。

文芸上はどうだったのでしょうか?
(6)でみたネット上の質問に
「江戸時代以前には和歌に読まれた蝶も、蝶を描いた絵画もなかったという話を聞きました。」
とあったのでしたが、そんなことは全然ありません。

たしかに、万葉集では詞書にしか蝶が現れません。

815〜天平二年正月十三日
帥【大伴旅人】の老(おきな)の宅(いへ)にあつまりて宴会を申(ひら)く。時に、初春の令月にして(中略)庭には新蝶舞ひ・・・

3967〜・・・春は楽しむべし。暮春の風景は最も怜(あはれ)ぶべし。紅桃は灼灼にして、戯蝶花を廻りて舞ひ・・・(大伴家持)

春の花に蝶がやってくるありさまを描いてます。

漢詩ですと、『懐風藻』(751年成立)にいくつか、蝶の詠まれたものがあります。

 

21.犬上王 遊覧山水(五言詩) 4行目
  桂庭舞蝶新(桂庭 舞蝶新たなり)

 

22.紀古麻呂 望雪(七言詩) 9行目/12行
  柳絮未飛蝶先舞(柳絮いまだ飛ばず蝶まづ舞ひ)

和歌以外を先に見ますと、次のような感じです。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」に生々しく出てくる毛虫と蝶は、ずっと昔であっても日本人が現実に抱く感触は今とさほど変わらなかったことを知らせてくれます。

 蝶は捕ふれば、手にきりつきて(鱗粉がついて)、いとむつかしきものぞかし

等々。
が、ふつうの文章であっても、残っていてよく読まれるものの中ではこれは例外に属します。(*1)

『枕草子』の若干の記述と、『源氏物語』の胡蝶の巻が、後続の和歌にも繋がる世界を築いています。

『枕草子』43段には「虫は すずむし ひぐらし てふ(蝶)・・・」とならべたてられているうえに、239段に「みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける」とすでに慣用句化していた蝶が登場します。万葉集の詞書たちもそうでしたが、蝶の具体的な姿を描くことは関心の対象になっていないようです。

『源氏物語』「胡蝶」の巻は歌二首をともなっています。
  花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらむ
  こてふ(胡蝶)にもさそはれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば

こちらも、蝶は花に添うものとの定型的な図式を掲げているに過ぎません。

勅撰集には最初はまったくないのかなあ、と思っていましたが、探したら『古今和歌集』に蝶の登場する歌が「物名」のなかにありました。  

  散りぬれば後はあくたになる花を思ひしらずもまどふ蝶かな(435 僧正遍正)

『枕草子』や『源氏物語』の図式と異なるところがありません。

勅撰集ではほかに見つけていないのですけれど、個人の歌集(家集)となると新古今集の有名歌人である西行・九条良経・後鳥羽上皇・藤原定家はみんな蝶の歌を詠んでいます。

  西  行 「ませ(籬)に咲く花に睦(むつ)れて飛ぶ蝶の羨ましきもはかなかりけり」
    (『山家集』【1167?】下 1026 雑〜和歌文学大系 191頁)

  九条良経 「わが宿の春の花園見るたびに飛びかふ蝶の人なれにける」
    (『秋篠月清集』十題百首)

  後鳥羽院 「うすくこき園の胡蝶たはぶれて霞める空に飛びまがふ哉」
    (正治二年八月御百首【1200】春二十首の七首目〜和歌文学大系『後鳥羽院集』4頁)

  藤原定家 「人ならば恨みもせましそのの花かるればかるる蝶のこころよ」
    (建久二年「十題百首」774。笠間叢書『名古屋大学本 拾遺愚草』52頁)

季節に縛られている感はうすい気がしないでもないのですけれど、ほぼ春の印象かな、というところです。
『夫木抄』(巻二十七)に源仲正の

  面白や花に睦るる唐蝶のなればや我も思ふあたりに

という歌があって、これとさっきのの西行の歌とは、鴨長明による『発心集』の説話で、佐国という人が花マニアだったために死後蝶になったとするものがあるのに依っている、とされていますが、『発心集』の成立の方が時期が後だと思いますので、説話が先にあったのでしょうか。

花に睦れる蝶のイメージの他には、『堀川院百首』にある大江匡房の歌(1538番)の 

  百年は花に宿りて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞ有ける

があって、荘子の有名な「胡蝶の夢」を踏まえていることが明白です。

室町期に入り、連歌の中に、蝶は春のイメージを引き継いで現れます。(*2)

享徳二年宗砌等何路百韻【1453】
      (別れつる庭は籬【まがき】も形見にて)
 (二裏4) 飛びかふ蝶も春やしたはん (行助)
      (舞の名の鳥の入方霞む日に)

天正十年愛宕百韻【1582】本能寺におもむく光秀が催したもの
      (たわわになびくいと萩の色)
 (二表13) 秋風もしらぬ夕やぬる胡蝶 (昌叱)
      (みぎりも深く霧をこめたる)・・・春に転換できず、まずい付きかたとのこと。

蝶は基本的に春の風物だ、という認識は、このように奈良時代という極めて早い時期に文芸には根付いていて、しかも他に何の具体性も伴わないまま江戸時代まで引きつがれたもようです。
そこには、古来の日本人が見続けてきた蝶はどんな大きさで何色だったかとの情報はまったくないのでした。
そこはしかし、江戸初期になって、『誹諧初学抄』(寛永十八【1641】年跋 *3)の中春に「上羽(あげは)ノ蝶」と出て来ることを参照すると、かろうじてアゲハだったのかなあ、と思われはするのでした。とはいえ後鳥羽院の歌などから推測するにアゲハに限定されるわけでもないようです。
実はすでに『懐風藻』にこんな詩もあるのでした。

 14.春日 詔に応ず(紀 麻呂)7行目
   階梅闘素蝶(かいばい そちょうをたたかわし)

素蝶は白い蝶をあらわします。

モンシロチョウには「キャベツ(葉牡丹)とともに入ってきた外来種ではないか」との疑いももたれていたりしていて(*4)、江戸時代より前の日本人が見ていた蝶は白くなかったんじゃないか、と思ってみたりもしていたのですが、この詩で白い蝶は奈良時代にも見られたことが分かってしまったのでした。

ともあれ、実際には夏に多く現れる蝶を自然の中で見る、という姿勢では、日本人は蝶に接してきてはいなかったのでしょうね。籬(ませ、まがき)だとか「わが宿の」とか「園の」とかあるので、人家や人にとって身近な場所で目撃した蝶が、歌を詠む契機になるくらいではあった感じです。

江戸時代の俳句は蝶すなわち春の世界観を継承するところから始まるのですが、しかし五七五という和歌よりさらに切り詰められた詩世界ゆえにむしろ蝶のすがたをより具体的に描くようになっています。
それについては、またあらためて見てみることにしましょう。


*1:『堤中納言物語』中の「逢坂越えぬ権中納言」が天喜三(1055)年の作だとは昭和13(1938)年に判明。角川文庫解説(245頁)。所収の他の物語、「よしなしごと」以外は1271年以前、おそらくは平安時代後期から末期の成立と推測されている由。全篇がこんにちのかたちにまとめられたのは元中二(1385)年と思われている。ただし近世以前に遡る伝本はない。

*2:新潮日本古典集成『連歌集』昭和54年

*3:古典俳文学大系2『貞門俳諧集』昭和46年 「誹諧初学抄」の該当箇所は365頁

*4:中村一恵「スズメもモンシロチョウも外国からやって来た」PHP研究所

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2014年8月 1日 (金)

菜の葉にとまる蝶の話(7)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶2】

いまの私たちは蝶にどんな印象を持っているか、実際の日本の蝶の生態はどうなのか、見ておいたわけですが、では歴史的に日本文化の中で蝶はどのように捉えられてきたか、を、そこに重ね合わせて行きたいと思います。

文様や文学が、見ていくのには良い素材かと思います。

文様の方から覗いてみましょう。

(2)でちょっと触れましたが、ネットの掲示板に
「江戸時代以前には蝶が和歌や絵に出てこなかったのはなぜですか?」
なる質問がありました。
「江戸時代以前には和歌に読まれた蝶も、蝶を描いた絵画もなかったという話を聞きました。鳴く虫は王朝の昔から文学に出てきますが、同じ虫でも蝶が取り上げられなかったとは不思議です。その理由を教えてください。」
という内容なのでした。(*1)

5つ寄せられている回答の中にあるように、文様としての蝶は既に正倉院御物の中に見られたりし、平安時代、鎌倉時代、と切れ目なく受け継がれています。上の質問の絵画のことばは別段独立して描かれた絵というほどの意味はないように思いますから、この事実をもって充分に「江戸時代以前に蝶を描いた絵画は」あった、と言えるでしょう。

古書で探すと、蝶の文様だけを集めた手軽な美術書には、カラー図版が多く種類別分類で見やすい小学館版『日本の文様5 蝶』(1986年 *2)と、図版解説のしっかりした光琳社出版『日本の文様7 蝶』(昭和46【1971】年 *3)がありました。前者は282(内カラー152)、後者は253(内カラー13)の図版を収めていて、重複が少なく(*4)、蝶模様の意外な豊富さを知らせてくれるものとなっています。小学館のほうに掲載されたエッセイで原田一敬さん(執筆時は東京国立博物館金工室にご勤務、ネット上には情報がありませんでした)がこう仰っています。

「・・・蝶ほど装飾文様として好まれ、また多く表された昆虫は他にみあたらない。とくに和風化が進んだ平安中期以降は、料紙・調度から仏具に至るまで幅広く用いられている。」(p.161)

小学館版で蝶文様は染織(カラー52点、単色49点)・漆工(カラー46点、単色36点)・金工(カラー39点、単30点)・陶磁(カラー15点、単色15点)に分類して掲載されており、どの分類にもほぼ満遍のない点数が収められていて、蝶文様の普及ぶりを裏付けてくれています。ただ、こちらは時代別が分かりにくいので、光琳社出版のほうに収められた単色図版の数で時代別を見てみますと(同じ品物の表裏や部分図掲載分を重複計上しない、明記していないものは除く)、
・奈良時代 11
・平安時代 24
・鎌倉時代 10
・室町時代 15
・桃山時代 10
・江戸時代 67
と、時代の新しい桃山期江戸期を例外として、ほぼそれぞれの時代区分の長さに比例する点数が掲載されています。掲載された図版をそのまま偏りなくサンプリングされたものと見なしてよいならば、これは蝶模様が時を問わず一律に愛好されてきたものと見なせるのですけれど、どうでしょうか。とくに奈良時代のサンプルは正倉院御物に限られていて、特殊事情を想定しておかなければならないかも知れません。

蝶文様の変化の史的傾向については、光琳社出版のほうの巻末にいくつかあるエッセイ風解説のうち、河原正彦さん(昭和10【1935】年生まれで、平成24年まで滋賀県立陶芸の森 http://www.museum-cafe.com/museum?muse_id=1333 の館長さん、であるかたでしょうか?)による「蝶の文様 和様意匠の成立と展開」(巻末p.11〜22)が詳しくも分かりやすい説明になっていますので、それからいくつか引用させていただきます。(はさんだ図はネットで探したものです。リンク先を併記します。引用元の書籍とは直接の関係はありません。)

「日本における蝶に関する詩や歌、造形芸術にみられる蝶文様は、やはり中国大陸における蝶愛好の風潮にならって行われはじめたように思われる。(中略)古代の日本人の心情をみごとに謡いあげた『万葉集』にも蝶を謡った歌は見あたらない。ところがほぼ同時期の漢詩集『懐風藻』には、決して多くはないが蝶をよみ込んだ詩をいくつか見ることができる。」

「・・・正倉院御物に施された蝶文の著るしい特徴は・・・器物を飾る意匠上の主役にはなっていないということである。・・・様式的には全く唐鏡背文の蝶の系統をひいている。蝶は翅を平らにのばしたもの、翅をたてたものに分けられるが、頭や胴の描写が著るしく、翅は翅脈をそえる程度の簡略さである。・・・このような蝶の意匠は当時の人々がまだ極めて漠然と春の野を飾るものとしてしか蝶を考えておらず、中国唐代に様式化された蝶のスタイルをそのまま受け入れ、蝶自体の美しく変化に富んだ姿態について深く注意をはらっていなかったためと考えられる。」

Shosouinban

http://avantdoublier.blogspot.jp/2006/11/blog-post_10.html

「平安時代も中期、いわゆる藤原時代になると蝶に対する観察は、とみに精細なものとなり、文様意匠の上にも見事な発展のあとを示している。」

Kasennutaawase

http://www.suntory.co.jp/sma/jp/merumagakaiin/vol51/interview.html

「・・・記録や遺品などから見ても、平安中期以降では「蝶文」がずいぶん流行したらしい。それは蝶の美しい色や可憐な姿がその頃の貴族たちに好まれたために他ならない。蛾に近いスタイルの蝶がこの時代の人々には好まれなくなり、ほとんどすべては嘴翅の大きく見事な揚羽蝶がえらばれている。」

「鎌倉時代も後半期になると(略)蝶の形姿にも次第に定った様式化が進み、平安時代のもののように自由さは見られなくなる。」

「こうして平安中期から鎌倉初期にかけて大いに流行した「蝶文」の意匠はひとつの揚羽蝶のスタイルを決定し、後世に引きつがれてゆくことになる。」

蝶の文様としてもっとも行き渡ったのはなんといっても紋章でして、平安時代に流行りだし鎌倉時代の家紋普及により定着してきたとのことです。
小学館版では120、光琳社出版版でも125ほどの紋章を巻末で紹介しています。
その意匠を小学館版では「揚羽蝶(光琳社出版版に「止まり蝶」ともいう、とある)、「飛び蝶」、「蝶丸または輪蝶」の三つに大別されるとし、光琳社出版版のほうではさらに「(種々の植物や器物を蝶形にアレンジした)見立て蝶」を加えています。

Choukamon

http://www.harimaya.com/o_kamon1/zukan/tyou_z.html

書籍には豊富に掲載されていることが確認できた蝶の文様ですが、ネットで歴史的なものを探しても、なかなかこれというのが出てきません。みごとなものがたくさんあるはずなのですが、ちょっと残念です。
ただ、先の二つの画集本から総じて言えるのは河原さんのお話の通りのことで、平安中期以降の日本では揚羽蝶の文様が愛好されるようになっていき、定着していくさまが、図例から手にとるように分かります。

小学館版の原田一敬さんの文章から再度引用をしますと、河原さんのとは少し時期がずれるところもあるのですが

「藤原時代での蝶は、あくまでも草花・鳥などとともに存在するため、蝶自身は小型のものがふさわしく、したがってシジミチョウのような単純な形が多く用いられた。しかし、蝶が主文様になるにしたがい、その文様表現が大きくなり、細部までが表現されるようになると、小型の蝶では文様としては不足となり、アゲハチョウのような大型蝶が表されるようになったと思われる。」(p.165)

と、日本独自の文化意識が醸成されて以降は揚羽蝶の文様が主となることを認めています。

これは実生活で人々が揚羽蝶をよく見たから、ということよりも、目撃する蝶のなかでやはり大型のアゲハがもっとも強く印象に残ることを是とするようになり、実際に目にする機会の多寡にかかわらず、蝶文様と言えばアゲハ、とのプロトタイプを作り上げた結果に他ならないのではなかろうかと思います。

季節感については、冬の景色には織り込まれていないこと以外にはとりたてて春・夏・秋のどれかに限定されるようには見えません。植物が一緒に描かれていて、その植物が何であるかも明確に分かるものを、光琳社出版版のほうで拾ってみますと、秋草(単独の種類ではない)19、牡丹13、菊6、梅7、ススキ8、紅葉、ナデシコ2、桜4、椿、瓜(!)、ケシ、アジサイ、柳(!)2、カキツバタ、ヒメシバ2、オモダカ、ユリ2、萩、というぐあいに分散していて、見た例ではどちらかというと春より秋が少し優勢です。

文様に現れる江戸時代までの日本人の蝶へのイメージは、ざっとこんなところです。


*1:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3424697.html
*2:http://www.amazon.co.jp/dp/4095860057/
*3:http://www.amazon.co.jp/dp/B000J91MRC/
*4:いくつかある重複掲載品目のうち、光琳社出版のほうの単色116「尾花揚羽蝶散唐織」(岡山美術館)と小学館版のほうのカラー5「紅地蝶芒模様唐織」(林原美術館)は、岡山美術館が林原美術館の前身(1986年改称)なので同じものだと思いますが、名称が違っています。その他、小学館版で色が確認で来てありがたいものがいくつかあります。

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2014年7月31日 (木)

菜の葉にとまる蝶の話(6)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶1】

筋立てみたいなことはなく、とにかく興味に向かって突き進んでいます。
なので、読み返すと自分でもとっても読みにくい!
ほんとうに先が見えて整理が出来るようになったら一からまとめなおすんだ、と、いちおうそんなことを楽しみにしましょう。

今度は菜の葉をいったん離れて、日本人はそもそも蝶をどのように捉えてきたのか、を探ってみたいと思います。


最初に、身近なお友達に教えていただいた蝶の色イメージを載せておきましょう。

【蝶といえば何色?】〜これは楽隊の身内にヒヤリング。
 白10人 黄6人、具体的に蝶の名前をあげたひと2人。
 ・・・見るのはアゲハで「真っ黒なやつ」が多いんだよね、というひと2人。

【よく見る蝶は?】〜SNSで答えて下さったもの
 ・一番多いのはキアゲハ。ごく普通に近所で咲く花の蜜を求めてます。
 ・クロアゲハ、随所、春の終わりから真夏にかけて。近所に畑はありません。
  子どものころには見かけたモンシロチョウはもう何年もまったく姿を見せません。
  熱帯化を感じます。
 ・アゲハ蝶、ミカンの木で育って。家の軒先から羽化します。
 ・クロアゲハ系が多いですが、
  すこし前まではツマグロヒョウモンもよく見かけました
  ( 庭で羽化したこともあります )。
 ・モンシロチョウ。保育園周辺。いまくらいの季節の前後辺り。
 べつにじかにお聞きした例ですが、小さい畑が近くにあるお宅だと、
 モンシロチョウをいちばん見るんだそうです。作物は不明でした。
 ・子供の頃は、ジャノメチョウをよく見ました。
  家の裏にイチジクの木があったのを思い出します。今は見なくなりました。
 ・白または黄色で、アゲハ蝶よりも小さいです。
 ・うちの庭に白い小さい蝶が、飛んでいます。かわいいです。
 ・ウチの周りのブドウ畑はモンシロチョウが多いし・・・
   ・・・あ、これはドイツ在住の方。(^^;;
 ・夜の蝶は見たことある←論外!!!

季節については春か夏、というところでおおむね一致していて差がありませんでした。

「何色?」の質問で答えて下さったのと似て、実際に見るのはアゲハかモンシロチョウが多いようです。


それに対し、実際の蝶の生態はどうか、というところを、日本の蝶の生態を日本チョウ類保全協会編『フィールドガイド 日本のチョウ』(2012年 誠文堂新光社)によって手短にまとめてみます。(*1)

世界中だと1万8千以上の種に達する蝶ですが、日本で見られるのは240種以上だということで、本書では外来種を除くと255種掲載されていました。
日本人が触れてきた、と言っても、そのうちまず北海道と東北、四国九州以南、沖縄あたりでしか見られない種は、歴史的にどうだったかを古典文学から探ることは出来ません。
さらにまた高山など人が入りにくい場所にしかいない蝶は検討の対象が意図しなければならないかと思います。
そんな制約を勘案し、関東以西の本州で見られる蝶に対象を絞りますと、該当するのは71種ほどになります。
内訳はアゲハチョウ科10種、シロチョウ科7種、シジミチョウ科17種、タテハチョウ科28種、セセリチョウ科9種、といったところです。

それぞれの特徴を整理しますと、

・アゲハチョウ科(該当10種)〜5月から8月によく見られる。森林や公園、農地に多く現れる。おもな食餌(幼虫の食べ物のこと)はミカン科の葉。

・シロチョウ科(該当7種)〜8月にもっともよく見られる。河川や農地に多く現れる。食餌は3種がマメ科、4種がアブラナ科。

・シジミチョウ科(該当17種)〜5月から9月によく見られるが、4月にも4種ほどよく見られる。森林、公園、人家周辺等比較的どこでもよく現れる。食餌はおもにブナ科。

・タテハチョウ科(該当28種)〜5月から9月によく見られるが、3月にも4種ほどはよく見られる。森林、河川に多く見られ、林でもっとも多く見られる。食餌はおもにスミレ科/イネ科。

・セセリチョウ科(該当9種)〜5月から8月によく見られる。林に多い。主な食餌はイネ科。

蝶の成虫は圧倒的に夏の虫であることが分かります。なおかつ、ここでだけ菜種に触れておきますと、菜種(アブラナ科)を餌にするのはシロチョウの仲間だけであることも判明します。

また、生態上人家周辺でみかけやすいはずのシジミチョウ科が(「うちの庭に白い小さい蝶が」という一例が該当するかも知れないのを除き)実際に見かけるとの答えに現れていないのが印象的です。

じつは蝶のことをこんなふうに考え始めてから気づいたのですが、たしかにチラチラ飛んでいるのを見かけるのはシジミチョウ科のものが多いのです。けれども小さいのであっというまに見失うし、印象にも残りません。・・・このあたりはちゃんと統計をとるべきなのですが、どういう軸でとったらいいかを決めかねてしまいました。
私自身、目撃して印象に残るのはどうしてもアゲハで、やはり大きいからなのではないかなあと思います。モンシロチョウも、あるいはモンキチョウも、シジミチョウに比べれば大きいのです。
私がほんとうはいちばん目にしたらしい小型の蝶は、色合いからするとヤマトシジミではないかと思うのですが、じっととまってくれませんし、すぐ見失うのでした。(*2)

ということで、いまの人が目にして最も印象に残るのはアゲハ科の大型蝶、次いで白か黄の蝶なのだ、と、当面は記憶しておきましょう。

もうひとつ気に留めておかなければならないのは、先述の、蝶の成虫は圧倒的に夏の虫である、という点です。
この先の話で触れることもあるかと思いますが、現在の俳句では蝶は基本的に春の季語で、それは連歌以来の伝統です。しかしながら現実の蝶(の成虫)は夏の出現率が高いのです。ここにも何か探らなければならないことが潜んでいるかも知れません。はっきり分かるかどうかはこころもとありませんけれど、このことを忘れずにおこうと思います。

と、こんなあたりを念頭におきながら、次から古典などの世界で捉えられている蝶の像と現代の蝶の像との共通点や乖離する点を、また少しずつ見てまいります。


*1:他の図鑑類もいくつも目を通しましたが、この本がいろいろな点でいちばんよくまとまっていました。ただし幼虫(毛虫や芋虫)についての情報は掲載されていません。

*2:チョウの大きさについてまとめたサイト http://nakaikemi.com/zenshicho0.htm

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2014年7月12日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(5)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【「蝶々」の元詞はいつできたのか】

触れてこなかったことにちょっと触れますと、上田信道さん「岡崎発の『蝶々』〜学校唱歌の源流をめぐって〜」では唱歌『蝶々』の詞(これの前半、「蝶々、菜の葉にとまれ」やそれに似ている歌詞を「菜の葉の小歌」と呼ぶことにします)についてとても詳しくフォローしていて、(4)でみた『童謡古謡』やその他の例にも触れた上で、栗田維良『弄鳩秘抄(ろうきゅうひしょう)』(調べてみると江戸時代の水戸地方のわらべうたを集めたものだそうです、19世紀初頭刊)に
菜の葉がいやなら手にとまれといふは、後につくりて、岡崎女郎衆に合せたるなり
とあることに着目したのでした。「岡崎女郎衆」は江戸後期にずいぶん流行った歌のようで、山東京伝の黄表紙のネタにもなっています。唱歌『蝶々』の歌詞は、それをつけた野村秋足がこの「岡崎女郎衆」を知っていたから付けたのではないか、なる観点で講演をなさっていたのでした。
「菜の葉の小歌」はヨーロッパ起源のメロディにつけられた時点で、もとの「岡崎女郎衆」のメロディを失ったのだ、とのことで、これは示唆に富んでいていいお話です。

前回見た『嬉遊笑覧』にもあったとおり、19世紀初頭には江戸で「蝶々とまれ」なる玩具も売られていたようで(前回参照、「二十三番狂歌合」は江戸の物売りを描いたもののようです *1)、文政期の浮世絵(英泉の画)でも左の女の子の着物の模様になっているので(http://edococo.exblog.jp/m2009-03-01/)、けっこう流行っていたのでしょう。「蝶々」の元の歌詞は、「蝶々とまれ」のおもちゃで遊ぶ子供たちが「岡崎女郎衆」のメロディで歌っていた、と想像するのは楽しいことです。

Eisen


上田さんのお話の中で、けれども

「菜の花」を「菜の葉」にする。それから「菜の葉」が嫌なら「桜に止まれ」という発想。これらは、わらべ唄の世界に見られる発想だ、ということが分かります。
さらに、江戸時代の行智という人が著した書物に、わらべ唄集『童謡古謡』があります。そもそもこの「蝶々」というわらべ唄、さほど古いものではないのです。なぜかというと、菜の花を栽培するのは、ナタネ油を採るためです。ナタネ油は天ぷら用ではなく、灯り用ですね。灯りをとるために油が必要なんです。そのため、換金作物として全国的に菜の花が栽培されますが、一般化するのは江戸時代のなかごろ以降のことです。 菜の花の咲き乱れる情景を歌ったわらべ唄は、これ以前にはありようがない。だから、 これは江戸時代のなかごろ以降に生まれた、と考えて良いわけです。

とある部分が私の別の関心を生んでいたのでした。

1)菜の花(畑)が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?
2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?
3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

ちゃんと疑問の文としてまとまったのはつい昨日今日のことなのですが、漠然と続いていた思いが、くどくど調べ始めるきっかけになったのではありました。


1)菜の花が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?

上方落語に「野崎詣り」というのがありまして、三代目桂春團治の演じるところで聴きますと(*2)、最初の方、野崎の観音様への男女の道中を描く場面のお囃子(ハメモノ)・・・こういうのが歌われるところが華やかでいいですねぇ・・・で、道の脇の菜の花畑の見事さが三味線と拍子木に乗ってあでやかに歌われます。いまの大東市なんだそうですが、近世末には菜畑でいっぱいの景色だったのですね。昭和初期には東海林太郎が歌ってヒットした「野崎小唄」にも同じ景色が描かれています。一断面ではありましょうけれど、近世の菜畑がいかに見事だったかが窺われます。
この景色は、どれくらい遡れるものなのでしょうか?
江戸中期とは具体的にいつの時点を指すのか明確ではありませんが、江戸時代は西暦1600年〜1870年ですから、真ん中は1730〜40年頃です。
(3)で菜の花の栽培史を追いかけ、俳句(誹諧の発句および付け句)と照らし合わせてみると、法令政令の発布状況や句の内容から見て、元禄年間(1688~1704)には菜の花の畑は少なくとも関西では普通の景観になっていたものと想像されます。以後、俳句の世界では、菜の花は年次を問わずほぼ千句に3、4句の割合で安定して詠まれているので、1700年頃以降は菜畑の景観に大きな変化はなかったのではないかと思います。とはいえ、上田さんの推測から時期が遠く離れるものではありません。
そしてまた、元禄期を遡ると菜の花や菜畑の句は、まったくといっていいほど見当りません
寛文七【1667】年刊の北村季吟『増山井(ぞうやまのい)』(*3)では「菜種(まくは秋也)」と「菜畠」が季節に関係づけられることなく「植物」の誹語として登場します。
寛永十五【1638】年には成立したとされる松江重頼『毛吹草』(*4)には、何遍ひっくり返してみても菜の花も菜畑も現れません。
幕府が郷村御触というので「田畑共に油の用として菜種作り申すまじき事」と発令したのが寛永二十【1643】年のことですから、菜畑の景色が広がり始めるのは、『増山井』と『毛吹草』の境目で郷村御触の出る1640年前後からと思われます。
だとすると、上田さんの推測より100年くらい遡ります。


では・・・

2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?

19世紀初頭に流布していたのは「岡崎女郎衆」だとか「童謡古謡」だとか、あるいは(1)でみた清元「玉屋」の例、上掲英泉の浮世絵などから、ほぼ間違いないと考えてよかろうと思います。良寛さんの遺墨にも「菜の葉の小歌」を書いたものがあるそうです。
ちょっとドキッとしたのは、地歌「菜の葉」関係の検索をしているとき、
「坂田籐十郎の襲名披露公演で・・・『曽根崎心中』・・・第二場「天満屋」の幕が上がったところで、『菜の葉』がほんのひとふし唄われます。/可愛いということは 誰が初めけん ほかの座敷もうわの空・・・」http://blog.goo.ne.jp/mayumi5312/e/9fc3deeba70a32f11957453c87dcede7
なる記述が目に飛び込んで来たことでした。この地歌の歌詞には
「菜の葉にとまれ蝶の朝」
という文句が含まれているからです。
近松門左衛門の『曽根崎心中』が初演されたのは元禄十六【1704】年(この年3月に改元となって宝永元年)、地歌「菜の葉」は1759年の『糸のしらべ』というのに載ったのが初出で、作った歌木検校は1720年頃の生まれだそうですから、もし『曽根崎心中』のオリジナルに地歌「菜の葉」のことばが含まれているなら、地歌は近松をパクったことになってしまいます。
で・・・記憶力が悪いので「え〜、そんな箇所が『曽根崎心中』にあったっけ?」とテキストを読み直しますと、これはさすがに近松のオリジナルにはありません。念のため、たいへんありがたいことに映像化されている坂田藤十郎襲名披露講演の『曽根崎心中』(*5)を見て確認しますと、地歌はバックグラウンドミュージックとして利用されているだけのようでした。文楽で復活した際の上演では「菜の葉」は演奏されていません。

しかし問題は、近松のテキストの方です。
『曽根崎心中』冒頭の「大坂三十三番観音廻り」のなかに、

  ・・・あちやこち風ひたひたひた。
     羽と羽とをあはせの袖の。
     染めた模様を花かとて肩にとまればおのづから。
     紋に揚羽のてう泉寺。(*6)

という箇所があります。これだけだと近松門左衛門が「菜の葉の小歌」を知っていたと断言はできないのですけれど、享保6年【1721】、近松晩年の『津国女夫池(つのくにめおといけ)』にはまたこんな箇所があります。

     ・・・思ひ出でたりその昔、唐の帝の三千宮蝶の宿りのささめ言。
        それをうつしていざ爰に花の香慕ふ蝶々の、宿りし袖こそ我が妻よ。
        おふおふお手に、手に手に、手折り折り取る花の枝。
        宿りの蝶の立つや霞にひらひらひら。
        ふるは羽色か桜か雪か、こがれ羽思ひ羽ふうはふうは、
        露もこぼれてゑいころころころ。
        蝶々とまれこの枝にとまれふりはへ。かざし揚羽の蝶。・・・(*7)

この最終行は「菜の葉の小歌」を知っていないと書けないのではないかと思います。

そしてまた近松を遡ること50年、芭蕉が共鳴した先輩俳人である西山宗因のこの句が、「菜の葉の小歌」を引いている、と柳亭子によって言われていることについては、前回載せた通りです。

  世の中やてふてふとまれかくもあれ

「菜の葉の小歌」成立は、柳亭子の言を信用するなら、菜畑流布発祥の1640年前後にまで遡るのではないかと推測できることになります。
なおかつ、「京師八坂の茶屋の事をかけるものに蝶々とまれ云々、の小歌見えたり。宗因これをとりたる句也」とあることから、その発祥は八坂すなわち祇園あたりに求め得るかも知れない気がしてきます。
さらには、宗因も大坂で晩年を過ごした人、近松は大坂の人形浄瑠璃で大活躍した人、そして下って地歌「菜の葉」を作った歌木検校も「大坂の八橋流の箏曲家 佳川検校の門下」とのことで、ここから「菜の葉の小歌」の流布には大坂が重要な場所だったのではないかとも思われてきます。
宗因と八坂の関係から、「菜の葉の小歌」の成立は花街と切り離せない可能性もあります。「近松作にとりいれられていると見えることについても、劇場のロケーションを考えますと、「菜の葉の小歌」が花街と密着していたことの裏付けになるように感じます。このあたりかしかし、日本人の蝶の受容史や花街色街が分からないと、より確かなことが言えませんね。


3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

もうひとつ気になるのは、近松においては「菜の葉の小歌」が揚羽蝶と結びついているように見える点です。
これは、「菜の葉の小歌」が流布に当たっては生活実感をすでに伴っていなかったことを表すものと考えます。
といいますのも、菜の葉にとまる蝶はアゲハではなくモンシロチョウの系統だからです。アゲハが止まるのはミカン系の木です。
(1)で触れた通り、モンシロチョウは菜の花ではなく菜の葉に止まるのだ、それは幼虫が菜の葉を餌にするからであり、モンシロチョウは産卵のために菜の葉にとまるのである、ということは、いくつかの本で説明されています。
蝶の生態と、蝶に対する日本人のイメージについては、まだ触れてきているところではありません。が、とりあえずはこのことが明らかですから、「菜の葉の小歌」が蝶々を「菜の花」にとめたのではなく「菜の葉」にとめたのは、わらべうたの発想ではなく、モンシロチョウの生態によるものであることも明らかです。

そうしたことがありますので、「菜の葉の小歌」をたどるには、チョウのイメージの変遷なり花街の変遷なりについても見ていかなければなりません。

※ 「菜の葉の小歌」は祇園発祥、大坂でヒットか?
※ 歌い始めた人は菜の葉と蝶の関係を身近に知っていたのではないか?

みたいなところが引き続きの謎なのですけれど、分かるあてはないものの、引き続きゆるゆる探って参りたいと存じます。


*1:東京国立博物館で展示された記録は見つけましたが、博物館が設けている画像検索のデータの中には「二十三番狂歌合」がありませんでした。

*2:ビクター落語 上方篇 三代目桂春團治3 VZCG-260 YouTubeでもべつのときの口演が聴けますけれど、CDでのもののほうが不思議に臨場感豊かです。

*3:古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収 昭和46年 集英社

*4:『毛吹草』岩波文庫 1943年刊 新村出校閲 竹内若校訂

*5:松竹『坂田藤十郎襲名記念歌舞伎狂言集』DC-0001 平成18年

*6:角川ソフィア文庫の本文だとp.130)

*7:(第四のうち 千畳敷其世かたり) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876723
全体の翻刻は近松全集第十二巻(1990年)掲載。新日本古典文学大系にも収録されています。近松全集には注がついていませんが、新日本古典文学大系を覗いたら、この箇所は(仮称)「菜の葉の小歌」による旨の注が付いていました。

*8:http://wikimatome.com/wiki/%E6%AD%8C%E6%9C%A8%E6%A4%9C%E6%A0%A1

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2014年7月 9日 (水)

菜の葉にとまる蝶の話(4)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑3】

『類船集』というものを見つけましたら、「胡蝶」のところに、しっかり「菜の葉」と書いてあるのでした。

Ruisensyu

胡蝶(見出し語) かすみの籬 霞む外面 
         菊 花園 春雨の跡 やまふき
         藤 ぼたん 閑なる朝日 源氏の巻
         猫 夢 軒ばの梅 松虫 菜の葉
         瓶子 (以下、略 *1)

これは、いったいどういう書物なのでしょう?
初期の俳諧集や『芭蕉七部集』などでも、句は一人一人が独立して五七五を詠んでいるのではなくて、前の句への連想をしながら次の七七が原則別の人によって詠まれています。そしたまた連想によって次の五七五がまた別の人によって詠まれる、という具合に続いて行きます。続け方について細かくはいろんなルールがあるんだそうですが、そのことは省きます(*2)。こういうやりかたを「付合(つけあい)」というのだそうです(*3)。
『類船集』は延宝五【1677】年刊行の、高瀬梅盛(たかのせ ばいせい 1619~1702?)という人が編んだ、この付合の手引です。いろは順に並んだ見出し語の下に、その見出し語と付け合わせるのにふさわしい語を並べ、そのあとに説明を加えているものです(*4)。
いまの私たちの常識ですと俳句には季語が付き物なのですが、『類船集』には季節による語の分類がありません。
これを『はなひ草』(森川昭蔵 寛永十三年 *2所収)という誹諧式目集(誹諧のルールブック)と比べてみますと、『はなひ草』では前半がやはり特別に分類はされないで見出し語がいろは順にならんでいます。けれどもそのあとに『はなひ草』は句を連ねて詠むときのルールを手短にまとめ、次いで「四季乃詞」として月々(1月~12月)をあらわすのにふさわしい語を並べ立てています。『類船集』は『はなひ草』の前半部分を独立させ詳しくしたようなものだ、と理解すればいいのでしょうが(*5)、ちょっと性質は違います。
『はなひ草』は最初は
「い」 岩船 水辺にあらず。天津神駕し給ふ舟也。舟の字には五句嫌。
というぐあいに始まっていろは順に詞が並んでおり、その使い方が述べられ、その後ルールの補足があって、次いで四季之詞となります。付合については記されていません。このあたりは書物の目指すところの違いですね。

さてしかし、蝶は春を表すのではなかったのでしょうか? 『類船集』では松虫と付け合うことにもなっているのが気になります。
菜の葉も春のものではないのでしょうか。
こちらはしかし、たったひとつ見つけた『芭蕉七部集』中の曠野巻之五 の句は

  水棚の菜の葉に見たる氷かな

で、冬のものでした(前回参照)。

『はなひ草』には蝶も菜の葉や菜の花も見当たりません。
『誹諧初学抄』(*2)というのにも手を伸ばしてみて見ると、中春のところに「上羽(アゲハ)の蝶」とあります。
季節のことばを主眼にして編まれた『増山井(ぞうやまのい)』(北村季吟 寛文七【1667】年 *2)でも春のことばとして蝶があげられています(蝶~胡蝶。黄蝶、俳。蝶々、同。あけはのてふ、同。)。ただしまた別に、秋の胡蝶(てふに霧を結ひても【秋也、を略】)。ああ、これで『類船集』の胡蝶のところに松虫が付け合わされていても不思議ではない理由がなんとなくわかりました。

この『増山井』では末尾に「増山井非季詞」として特定の季節を表さない神祇、釈教、天象、名所、生類、植物のことばがならべられています。
その植物のところに、「菜種(まくは秋也)」「菜畠」があります。

菜種、は春の季語ではなかったのか?
そう、そうではなかったんですね!

『類船集』も『はなひ草』も『誹諧初学抄』も『増山井』も、芭蕉の登場に先立つ貞門誹諧と呼ばれる人たちの手になる書物ですが、季節を示す詞のほとんどは和歌の伝統的な季題によっています。これらは芭蕉門下たちの時代になると「竪(たての)題」と呼ばれ、そうでないものは「横(よこの)題」と呼ばれることになったそうです(*6 25頁)。
芭蕉以後の蕉風誹諧になると、芭蕉がとりいれた新たな横題が積極的に使われるようになります。研究をまとめた書籍は古書でも高価で手が出ませんのでしっかり確認は出来ませんでしたが、菜の葉ではなく「菜の花」は、この新たな横題のひとつだったのでした(*6 200頁 付録)。
こんなところにも、菜の花やその畑は近世の新たな風物であったことがうかがえると思います。
そしてまた当然のことではありますが、花は春であっても、その葉や茎や、植えてある畑は存在が春に限定されるわけではありません。こちらは俳句~俳諧の世界でも現実的に反映されているのですね。やはり曠野の巻之五にある

  はる近く榾つみかゆる菜畑

もまた冬の句です。

俳句を通じてですが、これで菜の花や菜畑の景色が日本にみられるようになったのは江戸時代以降と考えて間違いなさそうだといえるようになりました。それが『増山井』や『類船集』の出た1670年前後までさかのぼれたわけです。

では、俳句の世界で菜種(アブラナ)、菜の花、菜の葉が蝶と結びついたのはその実景によるものだったのでしょうか?

元禄五年【1692】年の『椎の葉』にあった

  舞蝶に飛ついて折るナタネかな

の句は、意味からして間違いなく実景に基づくものです。

しかし、これ以外は一茶が詠んだ1813年まで、見た限りの俳句の世界には菜種と蝶の結びつきはあらわれません。
狭い範囲を眺めただけですから仕方ないのではありますが、江戸期の菜の花の実景をたどるには絶好の素材だった俳句を、蝶と菜種の関係を日本人がとらえた時期の推測に用い続けることは、どうやら無理そうです。

すると、この関係を早く書き留めた『類船集』(1677年)は、なにをもって胡蝶~菜の葉を結びつけたのか、を考えなければなりません。

俳諧は、人々がいまこのときを鋭敏にとらえるおかしみを許容したからこそ、松永貞徳以後、人々の間に爆発的に普及することとなったのでした。
そうした俳諧の題材の中には、・・・「古い小歌」といっているのがちょっと気になりますけれど(*7)・・小歌も積極的に採り入れられたらしいことが分かっています。
最初に見た
「蝶々とまれや菜の葉にとまれ」
が清元だの地歌だのによって普及していたことからすると、この結びつきは当時の歌謡に由来するものではないのかなあ、と思われてきます。『類船集』が実体験に基づいて結びつけた、とは考えにくいような気がします。

そこで、あらためて「蝶々とまれや菜の葉にとまれ」・・・これを小さな歌謡と推測して、仮に「菜の葉の小歌」と呼びます・・・のほうに戻って見直してみますと、この菜の葉の小歌が意外とあちこちでマイナーロングセラーになっていたもののようです。
見つけたなかでいちばん古いのが(1)で載せた『山家鳥虫歌』であるのは目下変わりありませんが、これは大和すなわち今の奈良県のものとされていたのでした。しかしこれは、たまたま採集されたのが大和だったというのに過ぎないのかも知れません。
時代がやや下りますけれど、19世紀初頭には、江戸でも大阪でも、「菜の葉の小歌」は根付いていたらしく見えるのです。また、良寛さんの遺墨の中にも、これを書き留めたものがあるそうです(*8)。

19世紀の『童謡古謡』(文政三【1820】年)というのが当時の江戸に残っていたわらべうたなどを集めたものなのですが、ここに

 蝶々とまれや菜の葉にとまれ 菜の葉がいやなら手にとまれ

と載っています。

新古典文学大系でこの江戸の童謡に付けられた注に、興味を引かれました(*9)。

「蝶に向かって言う唱言。傍書にもあるように本来は恋の流行小歌であろう。近松の浄瑠璃・津国女夫池(中略)などに同形あり。」
そうですか、近松門左衛門にありますか。そうだとすると、『山家鳥虫歌』より確実に古いですね。

江戸絡みでもう少しあさってみると、豊富な考証をまとめた『嬉遊笑覧』(文政十三【1830】年)巻之六 下(*10)に
「今もある蝶々とまれといふもの(中略)蝶々も明和よりありしか。」
と、これはなんと子供のおもちゃをさすことばとして「蝶々とまれ」がでてくるので、またびっくり仰天!
そしてこのあとに続くのは

『宗因が句』に、「世の中は蝶々とまれかくもあれ」といへるは(中略)柳亭子云、「京師八坂の茶屋の事をかけるものに蝶々とまれ云々、の小歌見えたり。宗因これをとりたる句也」といへり(「菜の葉に止まれ」といふはむかしの小歌なり。下総佐原辺にて、「蝶々とまらんかのめ飛すがらんかのめ」とうたひて踊る、これもおなじたぐひとみゆ)。

という説明。あら、菜の花を最初に季語に使った西山宗因さんが、また登場します!

 世の中やてふてふとまれかくもあれ

と、「菜の葉」はなくて、「蝶々とまれ」のところに「菜の葉の小歌」が部分的に使われているというのです。
宗因は大坂で晩年を過ごした人。近松門左衛門も大坂で活躍した人です。
うむ、「菜の葉の小歌」は何か大坂に縁があるのでしょうか?
ただし、宗因がこれをとったと言われている八坂は、八坂だけに京の祇園です。

おもちゃの「蝶々とまれ」のほうは、ネットで写真を見つけることが出来ました(*11)。

二十三番狂歌合(江戸時代・19世紀のものの由)

Chouchoutomare

載せて下さっていた人は

手元の筒を下に向けると、紙でつくった蝶々が、飛び出し、上に向けると筒先にちょこんと止まるような仕組みのおもちゃだったらしい。
 絵の右側に書かれた売り声は、「てふてふとまれよ、なのはにとまれ」(写真では上の方が切れてしまった)のようだが、もしかして、みんなが知っている「蝶々」の歌詞は、江戸時代の売り声にインスパイアされていた???

と仰っています。私と似たようなことを感じてらしたのね。(切れてしまった、とする写真のことばは、大丈夫しっかり読めます。)

さらに、出久根達郎『春本を愉しむ』に次のような文がある由。
え? 春本ですか(*12)。

幕末安政に公刊された人情本「真情春雨衣」のなかで、「深編笠の男女の胡蝶売りが」「篠竹に紙の蝶を糸で結んだ幼児玩具」を、「胡蝶とまれや菜の葉へとまれ、菜の葉いやなら葭(よし)の先へとまれ」と歌いながら売っていたそうです。

おっと・・・これはまた(1)で見た清元「玉屋」前半とほぼ同じではありませんか!

蝶々とまれ、は、やはり子供の素朴な歌ではなくて大人の恋歌、それもなにか色街絡みなのでしょうか?

うーむ、ドキドキですが、そのへんのこと、大坂のことは、またこの次に。


*1:『誹諧類船集』京都大学国語学国文学研究室内 近世文学研究会(昭和30年 非売品)を参照。ガリ版刷りを製本したものだったのでしょうか、分担した人によって字の読みやすさがまちまちです。同じ梅盛が先行してまとめた『便船集』はネット上で昔の金沢大の方がまとめたものが読めますが、途中までなので残念です。こちらだと四季之詞だとか神祇、釈教だの恋だのが別にまとめられているようなのですが。

*2:斎藤徳元『誹諧初学抄』や松永貞徳『天水抄』など(古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収 昭和46年 集英社)

*3:世界大百科事典 第2版の解説 http://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E5%90%88
つけあい【付合】 連歌・俳諧用語。〈寄合(よりあい)〉と同義に用いることもあるが,普通には17音節(5・7・5)の長句と14音節(7・7)の短句を,ことば,意味,情趣などを契機として付け合わせたもの,また交互に付け連ねることをいう。付合の集積によって成立した連句文芸では,発句(ほつく)以外の句をすべて付句(つけく)と呼ぶが,2句一章の最小単位では,付けられる句を前句,付ける句を付句と称する。前句が長句,付句が短句の付合は短歌に似るが,前句が独立しつつも蓋然性に富む意味内容をもち,その判断を付句の作者の読みにゆだねるという点で,短歌とはまったく異なる。

*4:http://kotobank.jp/word/%E9%A1%9E%E8%88%B9%E9%9B%86
   http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/014.html

*5:四季のことば、すなわちこんにちの季語と、季語以外のことばとが誹諧にあるのは和歌の伝統を意識してのことなのですけれど、いまは誹諧がテーマではないし、私が詳しいわけでもないので、そのあたりの事情については省きます。作品の配列を通じた具体例は『芭蕉七部集』でもうかがえます。
なお、有名な『毛吹草』は『はなひ草』より構成が拡大していて、四季之詞なり付合なりのことばが大変充実しています。巻第一「指合」・巻第二「誹諧四季之詞・非季詞・連歌四季之詞・誹諧恋之詞・連歌恋之詞・世話 付古語」・巻第三「付合」・巻第四「名物(当時の各地の名産品です)」で、あとは発句集となっています。岩波文庫 1943年

*6:宮坂静生『季語の誕生』 岩波新書1214 2009年
ちなみに小学館『日本古典文学全集 近世和歌集』に載った江戸期の和歌1106首の中には一首も菜の花や菜種、菜畑を歌ったものはありません。かわりにとりあげられているのはスズナです。江戸時代後期に滝沢馬琴が編んだ歳時記では、菜の花はスズナのことだとありますが、こちらは和歌の教養が邪魔したものでしょうか?

*7:寛文十二【1672】年刊行の『時勢粧(いまやうすがた)』、古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収、p.86 また続く句の分類参照→*2

*8:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB4QFjAA&url=https%3A%2F%2Fir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F123456789%2F4715%2F1%2FGA44053.pdf&ei=OEi9U6jEEIi68gW3n4HACg&usg=AFQjCNHm7-XuPxAoImEz8eiuvTPSqDw2cw&sig2=dvPjo79c4QsLmgidxouRuA

*9:新日本古典文学大系62 岩波書店 1997年、356頁

*10:喜多村節信『嬉遊笑覧』(三) 岩波文庫  2004年 358頁。(五)巻末の索引では誤って368頁にある、としています。

*11:http://nora-pp.at.webry.info/201212/article_1.html

*12:http://2.suk2.tok2.com/user/68bi51/?y=2009&m=12&d=16&all=0

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2014年7月 5日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(3)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑2】

菜種油の生産については初期の歴史が分かりにくいのですけれど、見つけたかぎりを整理すると

・・・「菜種は古くは戦国時代の頃に既に栽培されていたが、それはその茎や葉が食用として用いられるためであって、まだ油の原料としては利用されるに至らなかった。」(八尾市史(近代)本文篇 *1)
1612年【慶長17】遠里小野の油茶屋で菜種油の値段が1升75文だとの記載が日記類にある由(『搾油濫觴』から *2)
1643年【寛永20】(幕府)郷村御触「田畑共ニ油の用として菜種作申間敷事」(前回参照
1698年【元禄11】(幕府)油種・油買〆禁止(*3 以下、断りがないかぎり同じ)
1713年【正徳 3】(幕府)菜種買〆禁止
1723年【享保 8】(幕府)油価格引下を命令
1726年【享保11】(幕府)問屋以外の種物取引請禁止
1729年【享保14】幕府が菜種油価格を下げる目的から菜種の増産奨励に初めて乗り出した由(八尾市史による)
1743年【寛保 3】(幕府)在地絞油屋の油直積・他国種物買入禁止
1759年【宝暦 9】(幕府)油の江戸直積、種物の道買・道売・隠蔽の禁止
1770年【明和 7】(幕府)油方仕法改正・・・在地油稼株の認可と原料購入圏指定
1791年【寛政 3】(幕府)兵庫に菜種引請問屋設置 等
1797年【寛政 9】(幕府)(再)種物の道買・道売・隠蔽の禁止 等

『芭蕉七部集』、新古典文学大系の『初期俳諧集』・『元禄俳諧集』・『天明俳諧集』(蕪村周辺のものがほとんど)に限っての散策ではありますが、目立つほどの菜種栽培を物語る菜の花が俳句(の発句や付句)に現れるのは、下記の通りです。
・元禄期以前には菜の花や菜畑の語がまったく見当たりませんでした。
・句集によって編纂の特徴もありますし、手拾いですので落ちもあるかと思われますが、割合に関しては若干の拾い漏れがあっても大勢に影響はありません。

『芭蕉七部集』
(菜の花等出現率0.28% 3570句中10句)
(菜の花等の出現率は、曠野集までに限ると0.48%、7句)

曠野 元禄二【1689】
曠野集 巻之二
 麦の葉に菜のはなかゝる嵐哉 不悔
 菜の花や杉菜の土手のあい/\に 長虹
 なの花の座敷にうつる日影哉 傘下
 菜の花の畦うち残すながめ哉 清洞
曠野集 巻之五   
 水棚の菜の葉に見たる氷かな 勝吉〜菜の葉(冬)
 はる近く榾つみかゆる菜畑哉 亀洞〜(冬)
曠野集員外
 菜畑ふむなとよばりかけたり 兮

猿蓑 元禄四【1691】
猿蓑集 巻之三
 菜畠や二葉の中の虫の声尚月

続猿蓑 元禄十一【1698】
続猿蓑集 巻之下            
 伏見かと菜種の上の桃の花 雪芝〜菜種
 居りよさに河原鶸来る小菜畠 支考
*岩波文庫でも読みましたが上記はデジタルデータを写し取りました。
http://www.j-texts.com/kinsei/h7buah.html

『新撰 都曲(みやこぶり)』元禄三年【1690】
 273 尼寺よ只菜の花の散径(こみち) 言水

『卯辰集』元禄四【1691】金沢の句集(菜の花出現率0.61% 全652句中4句)
 105 里の昼菜の花深し鶏の声     牧童
 106 なの花や幾野かがやく朝日影   拾葉
 107 菜の花に虻しづか也朧月     其糟
 108 梨一木菜の花二間四方かな    春幾

『椎の葉』元禄五年【1692】二月の旅     
 舞蝶に飛ついて折芝種(ナタネ)哉

『其雪影』明和九【1772】(菜の花出現率0.2% 全434句中1句)・・・ナタネ
 022 麦あをあをと菜種まばゆき    几董

『あけ烏』安永二【1773】(菜の花出現率0.34% 全296句中1句)
 187 菜の花の一反ばかり盛かな    東走

『続明烏』安永五【1776】(菜の花出現率0.4% 全756句中3句)         
 183 菜の花に雨の近づくにほひ哉   士巧
 184 菜の花やよし野下り来る向ふ山  太祇
 185 菜の花や月は東に日は西に    蕪村

『仮日記』安永六【1775】(菜の花出現率1.2% 春の句174句中)
 006 菜の華や朱雀までなる老の旅    其梢
 102 菜の花や牛よけた手につかまるる  茶合

見た本で元禄と天明のあいだが抜けていたために、この間のことは分かりませんが、元禄期から天明期に引き継がれる状況と大差はなかったものと推測します。
で、菜の花や菜畑のことばは、元禄期にいったん登場してからは人が千句詠む中に3、4句は詠まれるのが普通になったことがうかがわれます。
ためしに芭蕉の句全部の中での菜の花・菜畑出現率をみますと0.2%くらい(全981句に菜の花等2 *4)、蕪村の死後編まれた『蕪村句集』では0.5%くらい(全868句中4句)、同じく『蕪村遺稿』で0.7%くらい(全580句中4句)です(*5)。上記『仮日記』も春の句のみでの割合ですから、四季で単純に4倍の句数としますと0.3%程度に薄まります。
一茶の『七番日記』には8074ほどの句がありますが、菜の花や菜畑の句は27首ほどですから、これも0.3%程度の出現率です(*6)。

最初の年表を見ますと、菜種油の普及は元禄期頃から広まったと読み取れます。元禄期以降の俳句へのその登場割合が安定しているところから、菜種油の普及に伴う菜畑の広がりは、元禄期には定着した景色になっていたと見て差し支えがなさそうです。

菜種は米の裏作として栽培することが出来、たびたび価格や販路統制が出ていることから推しはかれるように搾油の需要も多く、関西を中心に栽培が定着したのだそうです。
関西中心、ということについて特別な裏付けは見つけられませんでしたが、関連して面白いのは『芭蕉七部集』で、全体では10句ほどある菜の花・菜畑の句のうち7つまでが、名古屋でまとめられた曠野(員外まで。)に入っており、のこり3つ(猿蓑、続猿蓑)の詠まれた地もしくは読み手も近江・伊賀上野・美濃出身という具合になっていて、当時の菜種栽培は少なくとも関西の方が盛んだったことをうかがわせてくれます。
興味深いのは金沢の句集である『卯辰集』(元禄4)での菜の花出現率の高さで、京への物流至便だったこのあたりでは早くに菜種栽培がなされていたかのように見えます。実際に石川県野々市市の子供向けサイトには江戸時代から野々市周辺での菜種栽培が盛んだったことが述べられています。残念ながらこれは詳しい年代までは窺えませんでした(*7)。『卯辰集』の句では「菜の花二間四方かな(108番)」ですので、元禄期はそれほど大規模とは言えなかったのかな。

蕪村のころの関西での広々した菜畑風景は『続明烏』掲載の有名な句にもっとも良く描かれていますが、それが播磨方面の海沿いであったことは

  菜の花やもよらず暮れぬ (『蕪村句集』211番)
  なの花や昼ひとしきりの音 (『蕪村遺稿』32番)

のほうではっきりします。これらの菜畑は六甲の摩耶山のふもとだそうですけれど、裏作で菜種を作っていた花熊村(現 神戸市)の農家の変遷史が新保博著『封建的小農民の分解過程』(*3)にまとめられていて、菜種農家が経済的には必ずしも菜種からの恩恵を受けていなかった姿が詳しく研究されています。こうした生活についても、蕪村の

  菜の花や油乏しき小家がち(『蕪村遺稿』18)

に見事に絵画化されています。

これが関西での18世紀後半の風景ですが、関東と信州を行き来した一茶の『七番日記』にさかんに菜の花・菜畑と現れるようになりますので、19世紀には関東でも普通になっていたのでしょうか。蕪村の名句といい勝負である

  なの花のとつぱずれなり富士の山

は、文化九年(1812年)2月のおしまいの方に書き入れられています。このころの一茶の滞在先は西日暮里の本行寺もしくはその近辺のようですから、これは武蔵野の風景です。

このように元禄期以降、菜の花はごくあたりまえに俳句に出て来るようになったかと見えます。菜畑は耕すのが冬なので冬の句に出てきますが、菜の花は春です。
その菜の花に蝶が戯れる様子も・・・蝶は春の季語だといういまの常識からすると季がダブるにもかかわらず・・・一茶の『七番日記』文化十年正月に描かれています。

  よ梅よがてんてん舞をまふ
  麦ににてんてん舞の小てふ

それより前の年代にはかろうじて1句を見つけただけですが、1692【元禄五】年ですから、菜の花と蝶の結び付きは菜種栽培の広がると同時にはもう人の目に普通にとまっていたことが分かります。これは、上にもあげた『椎の葉』中の句です。

  舞に飛ついて折芝種(ナタネ)哉

これが載せられた『椎の葉』は才麿という人が記した2月の紀行文で、「芝種(ナタネ)」とありますけれど、季節的にもこれは菜の花だと読めます。

さて、菜の花と蝶はこうして俳句でも結び付きが書かれていること、それが17世紀末までは遡れること、が分かりました。

しかし、菜の「葉」となると、俳句には曠野集のひとつ以外には、一向に現れません。

ふうむ、「葉」は「花」じゃないだけにハナがないからか・・・とつまらんシャレを頭に浮かべてぼんやりしつつ、もういちど

  舞蝶に飛ついて折るナタネかな

の句が載ったページの下の注釈に目をやったら、・・・え? なんだって? と、瞬間、のけぞってしまいました。

注釈によれば、この句の読解は「芝種(ナタネ)」は菜の「花」ではないのでした。

「舞い飛ぶ蝶を掴もうと飛びついて足もとのナタネの茎を折ってしまった。・・・

そりゃそうだ。蝶に「飛びつい」たのはこの句を詠んだ「私」以外にありえないので、蝶と菜の花の結び付きに気をとられて意味をちゃんととっていなかったのでした。

さらにこの注に、
「蝶−菜の葉(類船集)」
と書かれています。それで「類船集」なるものを探したら、幸いにしてデジタル化されていました(*8)。

・・・で、見てみると、、、

Ruisensyu

・・・「胡蝶」の下4行目。

・・・なんだこれは!?!? 「菜の葉」だ!(草書で書かれています)

・・・蝶と結びついてるじゃありませんか!

・・・続く、と思う。


*1:八尾市史は公的にPDF化されていて、こちらから読めるんですね。 http://web-lib.city.yao.osaka.jp/yao/yao-archive/

*2:『搾油濫觴』事態は目にしませんでした。こちらのサイトにまとめて下さっているのを拝見しました。 http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den009.htm

*3:新保博『封建的小農民の分解過程』306頁の年表による。新生社 1967年

*4:今榮藏『芭蕉年譜大成』でナンバリングされている数によった。角川書店 平成17年新装版

*5:尾形仂校注『蕪村句集』岩波文庫 1989年

*6:丸山一彦校注『一茶 七番日記』岩波文庫 上・下 2003年

*7:http://www.city.nonoichi.lg.jp/rekishitabi/rekishi_2_11.html

*8:国文学研究資料館 電子資料館 http://www.nijl.ac.jp/pages/database/
   『類船集』胡蝶〜http://t.co/SGrKM7D15x 

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2014年6月26日 (木)

菜の葉にとまる蝶の話(2)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(1)の文意の通らない箇所を少し修正しました。


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑1】

さて、菜の花と蝶が舞う風景が繰り広げられるためには、まず、たくさんの菜の花が咲いている場所が人目に触れやすいところになければならないでしょう。
となると、必要なのは

 ♪ 菜の花畑に入日薄れ

の、菜の花畑でしょう。

菜の花畑はいつごろから日本に広がったのでしょうか?

文芸作品を眺めてみると、蝶のほうとは、日本人は付き合いがわりと古いのです。
ネットに「江戸時代以前には蝶が和歌や絵に出てこなかったのはなぜですか?」という質問が出ているのですけれど・・・絵のほうはいま調べていませんが、この質問への回答に載っている事例で充分でしょう  (*1)・・・たしかに蝶の出てくる和歌は、室町時代までのものにはなかなか見つけられません。
けれども決して、全然ないわけではありません。
詩歌ということで探してみますと、漢詩でしたら既に奈良時代の『懐風藻』(751【天平勝宝3】年)で2つは取り上げられています。
和歌ではどうでしょう。
『万葉集』では歌にこそ詠み込まれていませんが2か所の詞書に出て来ています。
平安時代に入って、まず古今和歌集巻十(物名)に僧正遍正の

 散りぬれば後はあくたになる花を思ひしらずもまどふ蝶かな(435)

がある他、『源氏物語』のその名も「胡蝶」の巻では和歌に蝶が詠まれていますし、蝶そのものを詠んだとは言えないながらも『枕草子』の中や『堀川院百首』中の大江匡房の歌に、慣用句と絡めた歌や「荘子、夢ニ胡蝶トナル」の故事と絡めた歌が現れます。
その後、西行や九条良経、後鳥羽院といった有名歌人の作にも蝶がうたわれています。
室町時代の連歌にも蝶はたしかに登場します。
見つけるのが難しいというところに、考えなければならない宿題があるのですけれども、ひとまず蝶についてはこんな概観で済ませておきます。

いっぽう、菜の花だとか、菜の花畑という言葉は、江戸時代より前の文芸作品にはまったく現れません。
江戸時代の俳諧でも、岩波の新日本古典文学大系で読める『初期俳諧集』の句の中にはひとつも菜の花を見つけることが出来ませんでした。『元禄俳諧集』に収められた『新撰 都曲(みやこぶり)』(1690【元禄3】年)に至ってようやく菜の花が現れます。しかし菜畑の光景ではありません。

 尼寺よ ただ菜の花の散るこみち(下巻273番、かな書き換え)

手近に読めるものでいちばん早い年代の、菜の花や菜畑の句は、芭蕉が詠んだものでした。やはりすでに17世紀後半のものです。

 山吹の露 菜の花のかこち顔なるや (1681【天和元】年)
 菜畑に花見顔なる雀かな (1685【貞享2】年)

最初の方の句は、菜畑の光景を切り出したものとは思えません。
次の句ではハッキリと菜畑の語が使われていますので、なんの疑問もありません。

以下、菜の花はアブラナの花、菜畑はアブラナの畑だと前提し疑わないことにします。

そもそも、アブラナがたくさん栽培されるようになったのは、その種を絞って出る油を灯りのために用いる必要がたくさん生じてきたからだったのでしょう。
年代をはっきりさせるのは難しいとはいえ、柳田國男『火の昔』を読んで感じるに、それはどうやら室町時代から江戸時代にかけてのことのようです。
「室町時代には油座といって、油を売る人たちだけの団体があって、油屋は仲間どうしの規則を設け、品質をきめ、値段を統制し、租税を前納して専売の特許を受けていたといいます・・・」(角川文庫版 p.50)
「他の商品にくらべると油は相応に高いもので、それだけにまた一度にたくさんは買っておきませんでした。」(角川文庫版 同)
「・・・なつかしい子供の油買いも、やはり大昔からのものではなくて(中略)、しばしば油を買いに出たのは、種油(=アブラナの油)以後のことであります。」(角川文庫版 p.52)

大蔵永常『清油録』(1836【天保6】年 *2)の総論に次のような記述があります。
「神功皇后の御時 摂津国のほとり遠里小野(おりおの)村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の燈明そのほか神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」
「摂津国遠里小野村 若野氏 菜種子油をしぼり出せしより 皆これにならひて油菜を作る事を覚え 油も精液多く油汁の潔き事是に勝るものなければ他の油は次第に少くなり かつ 菜種子の油のみ多くなれり」
「大阪は諸国へ通路便宜なるに随ひ 元和【1615〜1623】の頃より遠里小野其外油うりのともがら多くこの地に引うつりしと見え その後搾具の製作まで追々細密に工夫を用ひたれば 明暦【1655〜1658】の頃より古風の製具絶しと見えたり」

これによると菜種油の普及は17世紀前半には達成されていたかのようです。
実際、幕府から全国向けに出された寛永20年(1643年)の郷村御触というのに
「田畑共ニ油の用として菜種作申間敷事」
なる条文があって(*3)、裏を返せばこの頃までに菜種すなわちアブラナの栽培があるていどは盛んになっていたことを表しています。すなわち、冒頭の疑問、菜の花畑が日本に広がったのはいつか、ということの答えは「17世紀半ばごろ」になります。

ところが、この年代は、下限(1640年頃)をとっても、芭蕉の句に菜畑が現れる40年も前です。

菜の花が季語として用いられた俳諧の句は西山宗因(1605〜1682、談林派のボスにまつりあげられたけれど、あまりその気にならなかった人)の

 菜の花や一本咲きし松のもと

というのが最初だと言われているそうで(*4)、芭蕉がこの宗因とじかに接したのが分かるいちばん早い時期は1675【延宝3】年です(*5)。それから芭蕉が自らの句に取り入れるまで6年の時が必要だった、というのであれば、芭蕉自身が体感した時間としてはそんなに長いものではなかったかも知れません。菜畑の景観は、それがひろがってからさらに40年ほどかかって、ようやく日本人の心にも定着したのだと言えるのでしょう。

ただし、宗因の句にしても、芭蕉の句にしても、また『都曲』にある句も、菜の花と蝶の結び付きはありません。
「菜の花」と「蝶」が春の季語で、両方出すと季節が重なってしまうからなのでしょうか。・・・実はそういうことでもないのです。

このあたり、菜の花や菜畑が出てくる句をいろいろ眺めてみたいと思うのですが、またこの次。

「菜の葉」の話も少しだけ急展開します。


*1:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3424697.html

平安末期までの美術史的な回答は下記のようになされています。

『蝶は正倉院御物の「金銀絵箱」「紺地花弁蝶紋錦」や法隆寺所蔵の屏風裏模様にも描かれており、決して古の人々が避けていたというようなことはありません。平安時代以降にも蝶の文様はますます広がり、衣服・調度・甲冑などに用いられました。これらは「年中行事絵巻」「平治物語」「紫式部日記」「北野天満宮縁起」などの絵巻物によって確認出来ますし、「源平盛衰記」などの記述にも見られます。
蝶紋は治承年間に平維盛が車紋として用いていたとされる記述が今のところ最古のものであるようですが、「大要抄」に「蝶丸は六波羅党」とあるように次第に平家の専用紋のような扱いを受けるようになっていったようです。』

このほか、江戸時代の着物の蝶模様の変遷を調べた論文をネット上で読むことが出来ます。

*2:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847582 (近代デジタルライブラリー)

*3:本城 正徳『近世幕府農政史の研究-「田畑勝​手作の禁」の再検証を起点に- 』(大阪大学出版会  2012/10/18)が研究の出発点の史料として上げているものです。

*4:「菜の花が江戸や京都の近辺で生産されるようになったのは十七世紀からで、季語の「菜の花」もそのころに成立した。冒頭にある宗因の句【引用元掲載:菜の花や一本咲きし松のもと 西山宗因 1605〜1682】が、菜の花を季語とする最初の句と言われる。蕪村の活躍した十八世紀半ばには菜の花畑がごく一般的な風景になった。菜の花の俳句は数を増やし、広々とした風景が詠まれていく。」(今泉恂之介 双牛舎類題句集:菜の花、花菜、菜種の花、花菜雨、花菜風、油菜、菜の花畑、諸葛菜、紫花菜 http://sogyusha.org/ruidai/01_spring/nanohana.html

*5:今榮藏『芭蕉年譜大成』新装版 角川書店 平成17年(原著 平成6年) 24頁

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2014年6月21日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(1)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


新婚のお盆に実家に帰って、縁側にすわっていましたら、私の鼻に紋白蝶がとまって、しばらくじっとしていたことがありました。
それを見て、家族が異口同音に
「ああ、死んだおばあちゃんがきたんだね、あんたをかわいがっていたからね」
と言うのでした。

蝶はとまるところを間違えただけだったのかもしれません。
蝶がとまるべきなのは菜の「花」です。「鼻」ではありません!
歌でも
「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」
というではありませんか。

・・・あれ?
菜の「花」ではなくて、菜の「葉」ですか?

これも何かの間違いなのか、と、歌詞をもういちどながめますと、そこではたしかに菜の「葉」となっています。

これはもともと外国のメロディであったものに歌詞をつけた野村秋足という人が国学者で、愛知県岡崎市勤務のときに上司の命令で集めたわらべ唄からことばをもってきたのだそうです。(*1)

この蝶がモンシロチョウだとするならば、たしかにとまるのは菜の「葉」であって「花」ではないのです。それは「菜の葉」がモンシロチョウの幼虫にとって大事な食糧であるからで、だから成虫の飛ぶモンシロチョウは産卵のため菜の「葉」にとまるのです。(*2)

ふうん、そうなんだ、と感心してしまいました。
それに目をやっていて詞にした人たちもすごいなあ、と思ったのでした。

そもそも、なんでこんなことが気になりだしたのか、というと、私の鼻に蝶がとまったのを思い出したからではありません。
夏も近づき怪談話を漁ろうかしら、と、欲を出して、四谷怪談で有名な鶴屋南北の全集をめくりはじめましたら、『四天王楓江戸粧』(*3)という歌舞伎脚本の中から突然、

 てうてうとまれや菜の葉にとまれ(てうてう=蝶々)

という詞が飛び出してきたのを目にして、ビックリ仰天したのが始まりです。
もしかしたら、蝶々に「菜の葉にとまれ」と呼びかけるのは、江戸時代のうちにかなりあたりまえになっていたのかも知れない、と考えました。

それで「菜の葉にとまれ」の唱歌「蝶々」の詞の由来が気になって調べましたら、先の野村秋足のことを調べた先生が、わらべ唄からきたのだ、と仰っているのを見つけたというわけです。

もっと目で確かめてみなければなりません。

文字になっている資料で「菜の葉にとまれ」にはどういうものがあって、年代はどれくらいさかのぼれるのでしょう?
とりいそぎネットを検索しまくったり立ち読みをしまくったりして、わらべ唄には見つかりませんでしたが、次のようなのが出てきました。

・清元「玉屋」1832年(天保三年)~二世瀬川如皐作詞 初世清元斎兵衛作曲
  蝶々とまれや
  菜の葉にとまれ
  菜の葉いやなら
  葭の先へとまれ
  それとまつた葭がいやなら
  木にとまれ

 http://www51.atwiki.jp/junhogaku/pages/154.html

・地歌「菜の葉」~歌木検校 ( 1720? - 1790? )
   言葉さげたら思うこと
   菜の葉にとまれ 蝶の朝

 http://kousenn.com/okeiko/okeiko-2.html#nanoha

・『山家鳥虫歌』(1772)大和 (岩波文庫 39頁)
  蝶よ胡蝶よ菜の葉にとまれ
  とまりゃ名がたつ浮名たつ

さらっと探したわりにはぽんぽんと出てきました。

・・・が。

18世紀半ばより前のものとなると、目を皿にして探しても、これっぽっちも出て来ません。

はた、と行き詰まってしまいました。

これはどういうことなのか。

蝶が菜の花畑で目につく光景が、18世紀半ばより前の日本にはなかったのでしょうか?
そうではなかったのなら、18世紀半ばになるまで、菜畑を飛ぶ蝶の光景がなぜ日本の人の目には入らなかったのでしょうか?

たったこれだけ見ての感覚では、「菜の葉にとまれ」の詞は、清元だの地歌だのにとりこまれているところから、わりと流布していたような気がするのでした。
花ではなく葉にとまる、と観察できていたからには、詞にした人たちは当然、菜畑で蝶が飛ぶ光景をあたりまえに目にしていたことでしょう。
でもそれが畑をはなれずにいる暮らしの人たちだけだったとしたら、清元だの地歌だのになんか、なりっこないのです。これらは「都会」の芸能だからです。
そのへんに、この詞が馴染まれるようになった年代や社会の、なんらかの特徴や背景があるのではないでしょうか?

こんな具合に興味が湧いてきましたので、いろいろ調べてみることにしました。

たいそう時間がかかるでしょうから、まず自分の趣旨を忘れないためにこの1回目を綴っておきまして、これからゆるゆると先へ進んでまいります。



*1:上田信道『岡崎発の「蝶々」∼学校唱歌の源流をめぐって∼』 http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/19okazakigaku/19-1.pdf

*2:稲垣 栄洋、三上 修『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(角川ソフィア文庫)ほか

*3:『鶴屋南北全集』第一巻 成立:文化元年【1804】 「てうてうとまれや菜の葉にとまれ」のある箇所は南北ではなく烏亭焉馬の作。「足柄山の場」背景の長唄

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