2008年2月26日 (火)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(4)第2楽章

    街に雨が降るように
    わたしの心には涙が降る。
    心のうちにしのび入る
    このわびしさは何だろう。

    ----ヴェルレーヌ、渋沢孝輔 訳----



第1楽章からだいぶ間があいてしまいました。

「全体像」で述べましたように、この交響曲は、以下の4要素からなっているのだ、ということを、再確認しておきましょう。

1)標準的な全音音階の上昇と下降・・・全体的に、あるいは部分的に
2)協和音程の跳躍・・・完全8度、完全5度、長3度、短3度、あるいはそれぞれの反転
3)同一音による「タタター」というリズム
4)以上3要素の、文脈の中での必要性に応じての非和声音付加あるいは増減音程化

・・・ただ、これをまとめるとき、「要素」ということにばかり目が行って、それぞれの持つ「意味合い」については、きちんと考えきっておりませんでした。

殆どの要素は、第1楽章で、既にきちんと「意味付け」されていたのですね。

1)は、特に「三度上昇二度下降」として、第1楽章の第1主題を形作っていますが、より重要なのは後半の「二度下降」の部分です。
これは(前にもどこかで述べた気がするのですが)バロック以来の伝統的な音型で、
<嘆き>
を現します。

2)は、今回の第2楽章でより明らかになりますように、要素3)の複線です。

3)は、これも前に述べたと思いますが、チャイコフスキーの「運命の動機」

4)は副次的なもの。冒頭主題の構成で、とくに大切な働きをしますが、後で掲載する譜例で、この点をご確認下さい。



で、第2楽章ですが、楽式は「分析」だなんて大袈裟なことをしなくても、誰の耳にも
「あ、最初の軽やかな踊りが、真中でセンチメンタルになって、また最初の軽やかさに戻って、名残惜しそうに終わるのよね」
ってことがハッキリ分かってしまう。複合三部形式、だなんていっちゃうのは余計なおせっかいと言うものです(が、おせっかいしておきます)。

で、楽式よりも重要なのは、
「じゃあ、どうして、こんなに手にとるように、目に見えるように、この楽章は素直に出来ているのか」
という点です。

注目すべきことが、3つあります。

まず、冒頭から奏でられる主要主題は、第1楽章の第1主題の変形です。上昇を二段階に行ない、間に修飾の要素4)を巧みに絡めてカモフラージュしていますが、「ラメント(嘆き)」をそれとなくうち秘めている。

第2に、中間部の主題は、「上昇」部をもたない要素1)、すなわち「ラメント(嘆き)」そのものとなっている。

第3に、特に中間部では、低音部に常に要素3)の「運命の動機」が鳴り響きつづけている。

ですから、音楽のストーリー全体を見渡すには、参考として、チャイコフスキー自身がオペラ化しているプーシキンの悲劇的な文学2作が作曲者の念頭にあったはずだ、ということは忘れてはなりませんし、一応「エフゲニ・オネーギン」、もしくはこの交響曲により近い年に作曲された「スペードの女王」(台本はチャイコフスキーの弟モデストにより、チャイコフスキー好みに変えられています)はご一読なさって置くことをお勧めしたいと存じます。とくに、後者が重要です。

なお、第2楽章でハッキリすることは、要素2)の音程の協和的な跳躍は、実は要素3)の「運命の動機」の変形だという事実です。

以上、相変わらず汚くて恐縮ですが、いくつか拾い出して譜例を作成しましたので、参考になさって下さい。似た音型は、譜例から、どの要素に当たるかを類推すれば、間違いなく「これだ」というものがひとつだけ当てはまるのをお分かり頂けるもの、と、確信しております。



Tchaikovsky62図はクリック数と拡大して鮮明になります。

ということで・・・って、分かりにくかったかもしれませんが・・・、演奏に当たっての重要なポイントは二つ。

※「運命の動機」が、示す意味を適切に表現するように奏でられているか?
※「ラメント(嘆き)」の要素が、常に奏者に意識されているか?

です。

これを、例によってカラヤン54年盤と岩城N響盤で比較してみましょう。

<弦楽器群がオクターヴで上下するところ>

カラヤン盤のように「滑らかに」繋がっていないと、この跳躍の正体が「運命の動機」なのだということが不分明になるのではないかと思います。技術力の上がっているはずの岩城盤での演奏の方が「ブツ切れ」で演奏されているのは、ちょっと悲しい・・・


<中間部のテーマ、ティンパニとバス>

弦の低音部がテヌートである一方で、ティンパニは八分音符、なのがミソなのです。「運命の動機」自体は、あくまで旋律の背後で響いている<陰の存在>であるべきものですから、うまく目立たない(耳に立たない)ようにする配慮は必要ですが、ティンパニが八分音符で叩いていることが「ハッキリ」分からないと、
「ああ、踊り手は決して<幸福な>明日を信じてはいないのだ!」
とでも言うべき音楽の性格がボケてしまいます。
それが証拠に、岩城盤では、本来「ラメント(嘆き)」の動機である主題部が、なんだか明るく華やかに聞こえてしまいます。
カラヤン54年が、この点ではムラヴィンスキーの演奏も含め、最も「ラメント」の読み取りが明確になっている演奏で、中間部(第2部)になる前(第1部のコーダ)で大きくリテヌートをかけています。
ここでわざわざカラヤン盤の全貌をお聴き頂こうとまでは考えておりませんし、ヨーロッパの伝統的な解釈では「ラメント」の要素とティンパニの輪郭を大切に考えていることについてはムラヴィンスキー/レニングラードの演奏でも充分すぎるほどに分かりますので、記事の最後にそちらでご確認いただければよろしいかと存じます。



「運命の動機」なる言葉を何べんも述べましたし、それが彼の第4、第5交響曲と基本的には同じモノである事も前に申し上げましたが、だからといって、これら3交響曲をチャイコフスキーの「運命交響曲」だ、と言ってしまうことは誤りであろうと思います。

「悲愴」に限って言えば・・・本当は終楽章まで観察を終わったところで申し上げようかと思っていたのですが・・・、なぜ「スペードの女王」との対比にこだわってきたか、には、私なりの言い分があります。

第6を他の有名作品になぞらえるなら、私はベルリオーズの「幻想交響曲」が最もふさわしい、と思っているのです。

第2楽章に舞踏会を配しているところ、また、「幻想」では間にもう一楽章入りますが、舞踏会の後の寂寥を経て、狂乱の行進曲が繰り広げられるところ・・・作品の構成が大変に似ている。

終楽章はベルリオーズとチャイコフスキーそれぞれの「恋愛観」・「死生観」の違いから、異なる結末を迎えるのですけれど、それは終楽章に触れる際に述べましょう。

ただ、同じ舞踏会でも、ベルリオーズの場合と最も異なるのは、ベルリオーズは憧れの女性を「追いかけている」のであって、一緒に踊ることは無い。だから、「血相を変えている」切迫感がある。

チャイコフスキーのほうは、間違いなく、恋人同士がペアで踊っているのです。でも、この二人は、結ばれるは運命にない、という諦観をどちらか一方が持っている。本楽章の第2部が女性的であることからすると、第3楽章との関係を考慮した場合、諦観を抱いているのは女性の方かもしれません。第1部で、
「いや、必ずどうにかなるよ」
男性の方は、肩を落としながらも懸命に自分を見つめてくれる彼女の瞳に向かって、やさしく微笑んで見せている。

そんな幸せもひと時のこと。
物寂しいコーダの中に、チェロによって突然強く現れる「ラメント」の動機が、二人の将来への絶望にへし折れそうになりながら、それを笑顔で隠しつつ分かれていく恋人同士の姿を、はかなく描いて見せます。

・・・なお、その直前の「音階上昇」の連続は、解釈上
*小節ごとに区切る
*4小節をひとまとまりとする
の二通りが可能ですから、そこは指揮者に従うことになるでしょう。
(個人的には前者だと思っております。)



ということで、お手元のCDなどで全楽章通しでお聴きになってみて下さい。


「ラメント」・「ラメント」と気軽に綴りすぎたので、「ほんまかいな」と疑われても困りますから追記します。
バロック期までには、まず曲種としての「ラメント」(代表的なものはモンテヴェルディの「アリアンナの嘆き」など)が、オペラのアリアの定型から徐々に独立して存在しました。ナクソスで1〜3までのシリーズでまとめたものが出ています(買ってませんが)。
それに伴い、動機としての「ラメント音型」というものが成立しますが、これはモンテヴェルディの4声のミサのクレド楽章に現れる半音下降音型が、私の知る限りでは初めての「明瞭な」ものです。・・・気をつけて聴いたことがなかったのですが、バッハのロ短調ミサでもクレドの一環であるCrucifixusにこの動機が現れるとのことで・・・チャンと確かめておこう!

・・・ということで、根拠がなく「ラメント」の連呼をしているのではありませんから、ご了承頂ければありがたく存じます。

2月27日追記:
「ラメント」について、半端な把握でしたので、本日はその補足を記事と致しましたのでご覧頂ければ幸いです。半端をして本当にすみませんでした。



   ・前提
   ・全体像
   ・第1楽章
   ・第2楽章
   ・第3楽章
   ・第4楽章

チャイコフスキー:交響曲第4番、第5番、第6番「悲愴」Musicチャイコフスキー:交響曲第4番、第5番、第6番「悲愴」


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2008年2月 8日 (金)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(3)第1楽章

    月はすべてむごく、太陽はすべて苦い。
    ----ランボー「酔いどれ船」より。渋沢孝輔 訳----



各楽章に、具体的に入っていきましょう。

第1楽章から。

詳しい内容が不要なかたは、末尾まで飛んでっちゃって、楽章の全体をお聴きになって悦に入っていただければ幸いです。・・・あ、演奏する人は、ダメよ!

昼飯食いながら喫茶店で殴り書きしたものですので、醜い手書きで恐縮ですが、第1楽章の中で、前回触れた4要素がどういうふうに現れるかを、数箇所サンプリングしてみました。ちょっと目立たない個所もありますので、スコアで該当小節を確認なさってみて下さい。なお、その時持ち合わせが赤いボールペンだけでしたので・・・ご容赦下さい。(クリックして拡大すると像が明瞭になります。)

Tchaikovsky61

さて、楽章の構成については、私が手にした音楽之友社版の、千葉潤さんの解説でリスト化されているものを、そのまま掲載します。TMFのかた、あるいはお手持ちのあるかたは、スコアをお手元にご用意下さい。その前に、「主観は避ける」と言っておきながら、少々、私の感じるイメージを「開陳」させて下さい・・・またまた余計なことを!(スミマセン。。。)

前にも別に綴ったことがあるのですが、子供達が小さい頃、まだ「生まれたて」のときの記憶があって、質問したら、
「最初は真っ暗だったんだけど、急にね、まぶしくなったの」
と言ったようなことを、二人とも言いました。
第1楽章冒頭部は・・・チャイコフスキーはペシミスティックに描いていますけれど・・・誕生の瞬間の、この「真っ暗だった」ところへ(オーボエで)「まぶしい」光が見えた、その情景を描いているような気がしてなりません。
主部は、「悲愴」という訳語は間違いだ、ということが分かれば、捉えるべきものが「既成概念」のものとは入れ替えておく必要があります。<前提>でご紹介した、チャイコフスキーの「人生交響曲」の構想が「悲愴」にも生きているのだとしたら、第1楽章は<悲しみの>音楽ではなく、<青春の苦さ>の音楽です。・・・捜索したときのチャイコフスキーの年齢が既に青春を通過しているはずだ、という決め付けは、禁じなければならないと思います。年齢と「青春」とは、ロングセラー歌謡曲のタイトルのように「青春時代」などと時期で区切られる関係にはありません。

・出て行かなければならない吹雪の外界へのドアを開こうか開くまいか、への激しい迷い(第1主題部1)
・一旦ドアを開いてみるものの、襲ってくるのは、激しい雪あらし。冷たい風と氷。(第1主題部2)
・ドアを一旦閉めて、瞑想します。自分は、外界に対してどんな夢を抱いていたのか?(第2主題部)
・今度こそ、決心してドアを開く。旋風と氷雪に、立ち向かう。(展開部)
・決闘!(再現部第1主題部〜具体的な個所は、後述の「構成」参照)
・とりあえずの(仮の)安堵(再現部第2主題部)
・第2楽章は「恋人」の待つ舞踏会なのです。そこでのロマンスを夢想しながらの平安(コーダ)

----あーあ、やっちまった! まあ、例えばこんなふうにストーリー付けしてみてもおいて下さい。以上はあくまで、(本当は禁止事項の!)私の妄想です。
ちゃんと楽式分析をすると、千葉氏が掲載しているとおり、客観的に、以下のような区分になります。

(構成)
序奏 1-18
呈示部第1主題 19-41
エピソードと推移 42-88
第2主題 89-100
(第2主題)中間部 101-129
(第2主題)再現 130-160
展開部導入部 161-170
第1部 171-201
第2部 201-229
第3部 230-258
第1主題疑似再現 244-258
第4部 259-304
再現部第2主題 305-335
コーダ 226-354

・・・ドヴォルジャーク第8と同様の考え方の「ソナタ形式」である点に、ご着目下さい。千葉氏は、この点を的確に捉えています。すなわち、再現部は、第1主題については呈示部どおりには開始しておらず、第2主題の(ドヴォルジャーク第8ではもっと単純なつくりであったために見られなかったことですが)中間部(「悲愴」第1楽章の第2主題は有名な旋律の間に、フルートの音階上昇で始まる「トリオ」とでもいうべき副次主題を持っています)を省略しています。・・・その分、充実したコーダ(弦楽器のピチカートを伴奏にした、管楽合奏による第1主題の吹奏)を作り上げているわけです。

「悲愴」交響曲の第1楽章で面白いのは、序奏がそのまま呈示部の第1主題に直結していることで、このような作例は、他に有名なものでは(って、それしか私は知らない!)シューマンの第1番「春」だけかな、と思います。

で、第1楽章に限らないのですが、演奏に当たっては、

・どのパートがどこのパートから音楽を受け継ぐのか
・作曲者の記号付けやディナミークに忠実に演奏できているかどうか

の2点が、最低でも非常に重要なポイントになります。これを、お約束どおり、1954年のカラヤンが指揮したときのものと、後年岩城宏之さんが指揮したときのものとで、比較して聴いて頂きます。色の変わったところ(オレンジ色でしょうか)を右クリックすると、別ウィンドウで聞けます。
なお、音は、容量の関係で全てモノラルとしましたので、ご了承下さい。1954年カラヤン盤以外は、CDを入手していただければ、ステレオで聴けます。

*序奏から呈示部第1主題前半まで
 ・
 ・

岩城盤では、序奏の木管の入りがばらけていますし、主部に入ってからは、繋がるべき音楽に、しばしば「切れ目」が入ります。・・・よくお聞きになってみて下さい。


*第2主題登場前の小結尾
 ・
 ・

チェロからヴィオラの受け継ぎの意思が、カラヤン盤ではハッキリ聴き取れます。ですので、岩城盤のお粗末さが耳についてしまいます。・・・もっとも、こないだ映像を乗っけた74年のベルリンフィルとの演奏では、カラヤンもここは「お粗末様」です。


*呈示部第2主題中間部の終盤
 ・
 ・

弦楽器の伴奏は途中からテヌートが書いてあるのですが、岩城さんの方では守られていません。


*展開部〜一旦沈静化すると見せかける個所
 ・
 ・

トランペットが加わる個所、岩城盤ではモロにトランペットの音色が聞こえてしまいますが、ここは最初から明瞭にトランペットの音色を聞かせるべき個所ではありません。カラヤン盤ではこの点に気を配っています。


*再現部クライマックスに入る前のティンパニ
 ・
 ・

・・・ここ、スコアをご覧になると、ティンパニは「ディミヌエンド」なんですよね。岩城盤に限りませんが、多くの演奏ではこれを守っていません。その方が「いかにも!」と聞こえるからでしょう。
ですが、このディミヌエンドは、私は「遵守すべきもの」だと考えています。・・・先生が「別にいいよ」と仰ったときには、まあ、こだわりませんけれど。でも、カラヤン盤では、ちゃんとディミヌエンドしています。ムラヴィンスキーもやっています。・・・難しいのは、どの程度ディミヌエンドすればいいのか、なのですが。やりすぎると、次から始まる強奏が唐突になりますが、全くやらないと、実は、チャイコフスキーがこのディミヌエンドに込めたかった、比喩で言えば「結果が敗北であろうが、僕は立ち向かう」と、ここでいったん自分を省みておきたい、という演出意図が、別の演出に差し替えられてしまうのです。


*再現部第2主題
 ・
 ・

これ、最初の「ソーファミ|ミーレー」は、メゾフォルテなんです。これも、カラヤンのほうではやっていて、岩城盤ではやっていません。その前がp(ピアノ)になりきっていないためです。・・・で、やはり岩城盤流が、世間では一般的です。・・・前項同様、チャイコフスキーの意図した演出とは別効果になってしまうのですが・・・
ムラヴィンスキーは、メゾフォルテ、というには強すぎて聞こえますが、やはりディナミークは1回目は2回目よりも「ちゃんと」控えめ、抑え目にしています。後半部の岩城盤でのN響の金管のブレス取りは、目だつほどではないものの、感心できません。ユニゾンなのですから、カラヤン盤で実践しているように、各自場所をずらしてブレスを取るべきです。

もっとサンプリングしたいところですが、手間もこれ以上かけるのが面倒なので、あとはサボります。
(なお、ワープロ打ちしている時点では音を聴いておらず、記憶のみで綴っていますから、聴いて違ったらご指摘・ご叱責下さい。・・・あらかじめ、「ゴメンナサイ」って、言っておきます。)


あとは、たとえばムラヴィンスキー/レニングラードフィル(1960)で全体を聴いて見て下さい。
全体で是非傾聴いただきたいのは、金管の音色変化の多様さ、にもかかわらず絶対に崩れない和声感、です。

今回は、以上。




   ・前提
   ・全体像
   ・第1楽章
   ・第2楽章
   ・第3楽章
   ・第4楽章

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2008年2月 5日 (火)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(2)全体像と読譜上の注意点

まとまったことを綴る前に。
「ウツ」だし、「ヤモメ」だし、職場の人が気を使って下さるので、家事を理由に毎度遅れての出社、夕食や子供の習い事を言い訳に定時での帰宅を許して頂いているだけでも心苦しいのに、対外折衝の出来ない状態ですので、1、2月は仕事が暇です。ですので、繁忙期なら昼休みや電車の中でメモしたものをもとに綴っているブログも、今は職場のPCで下書きしている頻度が高い。何もしないより、頭を動かさなければいけないから、申し訳ないと思いつつ、そうしています。

寛容な職場の皆さんに(このブログのことは殆ど職場では知られないようにしているのですが)深く感謝している次第です。



・「悲愴」が「悲愴」ではない、ということ
・この交響曲の前に、チャイコフスキーは「人生」交響曲を思い描いていたこと

を、既に<前提>で述べましたから、作曲者の精神的背景についての記述は、もう済んだものとして話を進めましょう。

各楽章ともメロディックで明快に聞こえますから、あまり「構造がどうのこうの」ということに立ち入るのは、本来無意味なのかもしれません。
何故か?
「悲愴」が明快な理由は、チャイコフスキーが、音楽をいかにも「部品」で作り上げたように見せることを巧みに避けているところにあります。
ですから、鑑賞する立場であるだけなら、ただ音楽の流れに身を任せ、それによって自己の内面にかもし出される「わが人生への情緒」に、聴き手が浸ることを、この交響曲は無条件に受け入れる。

初演で聴衆の反応が今ひとつだったにも関わらず、この第6交響曲が「最も満足な作品」であるという自信が、チャイコフスキーにとってゆるぎなかったのは、彼が自作のこうした普遍性を良く計算し、理解していたことを物語っているかと思います。


私達(TMF)は、今回は演奏者側に回るわけですから、やはり全体像は一緒に演奏するメンバー同士で共有しておかなければならない。
・・・ただし、そこに主観的な意味付けをすることは、(比喩を使ったほうが分かりやすい場合を除き)可能な限り避けていこうかと思います。
「悲愴」の作曲された1893年の前後は、ショスタコーヴィチの生きた混迷の時代に比べ、(ほんの半世紀前ではありますが)ヨーロッパ情勢も、ロシアも、比較的安定していました。4年前の1889年にはパリ万博が開催されているほどです。・・・ロシア国内にしても、ほぼ10年前に起きた皇帝暗殺事件の暗い影も、この頃には薄れていたかのように見えます。
ですから、チャイコフスキーが描いた「人生」は、人々に共有されるべき強烈な何ものか、であるよりは、個々人の内面に眠っているものを静かに起こして、
「あなたのなかで、あなたと語ってみて下さい」
そうささやきかける類の音楽になっている、ととらえる方が妥当ではないかと考えております。

では、チャイコフスキーの計算した「普遍性」がどうやってもたらされたか。
この交響曲、ベートーヴェン的な意味で、ではない「動機」活用を存分に駆使しています。方法論的には、「積み重ね」方式ではなく、悪口で言われた「パッチワーク」の方が似合う、しかし、そんな表現では済まない、非常に精緻な「縫い合わせ」方式での動機活用であるため、旋律性が損なわれず、調べが如何に悲劇的な部分であっても、聴衆を疲労させることがありません。

「前提」では断片的な特徴についてのみ述べましたが、全般には、この交響曲は大きくは4つの要素を全楽章に一貫して用いることで成り立っています。

1)標準的な全音音階の上昇と下降・・・全体的に、あるいは部分的に
2)協和音程の跳躍・・・完全8度、完全5度、長3度、短3度、あるいはそれぞれの反転
3)同一音による「タタター」というリズム
4)以上3要素の、文脈の中での必要性に応じての非和声音付加あるいは増減音程化

羅列してみると特別なことのようですが、現実の音符を眺めると、「楽典」の教科書の実践に過ぎないんじゃないか、と思えてしまうほど、あまりにも「あたりまえ」な要素ばかりです。

「じゃあ、他にこれだけの単純要素で作り上げられた音楽作品は巷に溢れているんじゃないか?」

・・・いえいえ、そんなことはありません。
モーツァルトにも、ハイドンにも、ベートーヴェンにも、勿論それ以前以後の有名作曲家にも、これだけ簡単なルールだけで一貫した音楽を作り上げた例は、あまりないのではなかろうか、と思います。
チャイコフスキーの4番以降の交響曲に限っても、この4要素に当てはまるかどうかをお考えになってみていただければ分かりますが、
例1)第4〜終楽章の音階下降の主題は、「ドーシーラソ」までは確かに音階のまんまですが、次からは「・・・ミソラシラソファミドミファソファミレミレドシドシラソラソファミレ・ソ・ド!」と、複雑です。
例2)第5〜冒頭のテーマを第6と比較したとき、第6は「3度上昇2度下降」という比較的単純な(1番目の要素しか使っていない)構造なのに対し、第5では「ドードド|レードシ|ドーラー」、と、同音反復・3度下降・3度跳躍という3要素も使っていて複雑です。
6番では、こうした複雑に入り組んだ使われ方で各要素が現れることは、全くありません。

いかが?

以下、括弧の中は、マニアックでない方・・・この記事をまっとうに読んで下さるかた自体、もう既にマニア、だとは思うのですが・・・より程度が高いマニアと言う意味です・・・は、サラッと通り過ぎて下さい。

(旋律については「移動ド」と呼ばれている読み方を採用していますが、ホンネは最近、「移動ド」とか「固定ド」という呼び方は適切なのかなあ、と疑問に思っています。理屈はともかく、私は「移動ド」読みに関しては「旋法読み」という呼び方に変えたいと思います。現在の西欧音楽の場合には、<旋法>は「長音階」と呼ばれているものと「短音階」と呼ばれているものの2種類しかありませんが、それぞれを「長旋法」・「短旋法」と呼んでもいい、と考えています。・・・とはいえ、一般的ではない上に独善的な見方かもしれませんから、「長音階はドレミファソラシド、短音階はラシドレミファソラ、と読みまーす!」と宣言しておくに留めます。)



各楽章は、上記の4要素のうち、どれを前面に打ち出すか、によって、それぞれの章の「色づけ」を決めてあります。

第1楽章:要素1)・・・弱奏の部分は3度上高2度下降、強奏の部分とコーダは音階下降
第2楽章:旋律は要素1)と4)、伴奏部に主部は要素2)、トリオは要素3)。(この絡みが重要)
第3楽章:要素2)。印象付けの素材は要素3)。但し、序奏部は要素1)に要素4を加えたもの。
第4楽章:要素1)、下降系主体。コーダは要素3)

第2楽章がいちばんおしゃれに聞こえる理由は、4要素が豊富に「前面に」押し出されているためだ、ということが、以上から伺えるかと思います。

なお、要素3)は、第4・第5交響曲でチャイコフスキーの「運命の動機」と呼ばれているものと同じものだ、ということは付言しておくべきでしょう。第4楽章をこの要素を用いている意図も、それによって明らかになります。(第4では「ドードドドド|ドー」でした。第5でも始まりは「ドードド」です。

以上、
・「悲愴」は4要素だけで出来ている
点、ご銘記いただければ幸いです。
具体的には各楽章でまた見ていきましょう。



各楽章を見ていくときに、参考の音声をつける所存ですが、それには次の素材を用います。
・カラヤン1954年来日時の、NHK交響楽団を振った演奏
・岩城宏之、最後のN響定期での演奏
この2つを対比します。
おなじN響であることも、なのですが、2つを比較して面白いことに気づいたからです。

1954年のカラヤンは、まだ世界的メジャーではなかったため、この年、N響に呼ばれて何十回も演奏するという、翌年以降では絶対に考えられないことをしてくれています。
で、このときの「悲愴」の録音・・・人格や、残した演奏についてはこんにち様々にいわれてしまう人ですが・・・スコアに実に忠実であることに気づき、私は聴いていて驚愕してしまいました。また、当時N響のメンバーが必死でカラヤンから「アンサンブルの本質」・「音楽の本質」を吸収しようとしている姿勢が鮮明に出ています。カラヤンのモノラルの「悲愴」録音は1949年のベルリンフィルとの物が、なんとダイソーで105円で買えてしまうのですが、日本人はまだまだ拙かったかもしれないとはいえ、54年の演奏では49年のベルリンフィル以上に「熱く」音楽に向かい合っています。
岩城さんとの最後の定期の方は、悪い演奏ではない・・・初めて聴いたときには私は非常に気に入ったのですが・・・、でも、54年の演奏に比べると、N響のメンバーが、大切な何かを忘れているのが感じられます(あくまでこのときの演奏に関しては、ですから、念のため)。岩城さんも、スコアに忠実だとは言えない。音楽も音色も、途切れる個所が多い。これは、54年の演奏と対比してお聞かせしようと考えております。



断片的なサンプルに終始しますが、お聴きになるにあたって、とくに金管群のかたにご注意いただきたいのは、
「主観的な耳で受け止めないで欲しい」
ということです。
特に、ムラヴィンスキー盤をはじめとするロシア系の演奏では、強奏の個所では金管はバリバリに割れた音色で聞こえますが、これは彼らがアパチュアを意図的に狭くして音を鋭くしているためでもあり、肺活量も相当あるために実現できていることです。それが証拠に、第1楽章のコーダでのトランペットのp(ピアノ)は、実に柔らかい音色に変化しています。・・・さらに、強奏部分でも弱奏部分でも、金管セクションとして楽器の違いを超えて音色感を統一させており、和声もきっかり構築している点は、是非、冷静な耳で、かつ、自分はどうしたらそれが実現できるかを考える頭で、聴いていただければと存じます。

打楽器は、出のタイミングでいかに他のパートを聴いているか・・・つまりは音楽の流れを理解しているか、というところに立ち返る材料として聞いていただけるとよろしいかと存じます。音色感もまた然りで、場合によっては、用いる楽器そのものを考えなければなりませんし、予算がなければ(ないですけれど)いまある道具で最もいい響きを出すにはどうするか、再考しなければならないと思います。

木管群はユニゾンでの音程の正確さと、溶け合ったときの音色を学ぶべきでしょう。また、セクション内でいかにお互いのタイミングを読み取るか、また、弦・金管の橋渡し役としてどれほど重要な役割を荷っているか、を肝に銘じて頂くには、この作品は恰好の素材だと思います。

弦楽器は、まず、「大勢いるから一人くらい弾けなくても・・・」という甘えを断つ、という、他セクションに比べると最も基本的なことから考え直していただければと存じます。

最後のほうは僭越を申し上げました。
職責に免じてご容赦下さいますよう、心からお願い申し上げます。



   ・前提
   ・全体像
   ・第1楽章
   ・第2楽章
   ・第3楽章
   ・第4楽章

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2008年2月 1日 (金)

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」(1)前提

     お聞き、夜のなかで、
     ひとつの声が嘆くのを、
     「おもいだして」と。

     ----アルフレッド・ミュッセ「おもいだして」より。入沢康夫訳



最初に。
過日、ボロディン弦楽四重奏団の記事を読んで下さったsergejoさんに、当ブログを過分のお言葉と共にご紹介頂きました。厚く御礼申し上げますと共に、自分のブログをご紹介頂いた記事へのリンクは恥ずかしいのて、トップページにあらためてリンクを貼らせて頂きます。・・・また、気後れしますから、当該記事にはあらためてコメントはお入れしませんので、sergejoさん、ご容赦下さいね。
sergejoさんは、私などより広く「クラシック音楽」を楽しむための資料のご紹介に努めていらっしゃる上に、言葉は優しいのですが、「聴く」ということに、とても真剣にお取り組みであることが、お綴りになっている文から良く伝わってきます。「聴く」ことに真剣である、というのは、「人の心と常に思いやりを持って対峙する」、一つのかたちであるかと思います。心から敬意を表させて頂きます。


TMFのサイトでも、次回の定期演奏会のメインがチャイコフスキー「交響曲第6番<悲愴>」であることが掲載されました。

ですので、昨年ショスタコーヴィチの第5で試みたのと同じように、さっそく作品の検討にかかりましょう。

ダイレクトに作品そのものに入っていく前に(・・・実は、スコアはいま手元になく、気に入った版が見つからないので、新調も出来ていません【付記:この記事下書きしたあと、即、買いました】)、前提としてTMF団員各位に知って頂ければ嬉しいな、と思うことを4点、述べます。

第1には、<悲愴>というタイトルと、その是非について
第2には、この交響曲の創作の前身として検討しておく必要のある、彼自身の作品について
第3には、創作時期にチャイコフスキーが影響を受けたと思われる他者の作品について
最後に、作品理解にあたっての構造的な留意点について



第1の、タイトルの件からいきましょう。

タイトルはチャイコフスキー自身がつけたのですから、それはいいとして、<悲愴>という訳がすっかり板についてしまったこの作品、聴衆がチャイコフスキーに
「まさにレクイエムだ!」
(背景については末尾掲載の、音楽之友社版スコアに付された千葉潤さんの解説を参照下さい)
と感想を漏らしたり、冒頭楽章・終楽章(特に後者)が悲壮感(悲愴感ではなくて)を湛えているうえに、初演のたった9日後に作曲者が急病で死去してしまったため、一般的には未だに「死のイメージ」とだけ直接的に結びつけられ、演奏され、聴かれがちです。
交響曲について謎を深めたのが、リムスキー=コルサコフがチャイコフスキーに
「この交響曲には標題性を感じますが、どんな意味がこめられているのでしょう?」
と質問したところ、チャイコフスキーが
「いまは答えたくない」
と語り、結果的にその死をもって、永遠に意味が明示されることがなくなった事実です。(伊藤恵子「チャイコフスキー」音楽の友社2005 参照)

で、タイトルの日本語訳を<悲愴>とすることの是非については、楽譜研究などで大変すばらしいサイトをお作りになっているKANZAKIさんの記事の中に明確に綴られたものがあって(KANZAKIさんのサイトは、是非一度ご覧になってみて下さい。いろいろ為になるのですが、軽率に私のところにリンクしたりしてはいけないかなあ、と思って遠慮していました)、ここに以下の記述があります。

(引用)
自筆総譜の表紙に記されたロシア語のпатетическая(パテティチェスカヤ)は、辞書を紐解くと、「悲愴」というニュアンスとはちがって、「情熱的、感情のこもった」という意味が示されている。このずれは、森田稔氏が『新チャイコフスキー考 没後100年によせて』(ISBN:4-14-080135-2)の最後に次のように書いたこともあって、けっこう注目されるようになった。

日本語で「悲愴」と訳されているパテティーチェスカヤという単語には、ロシア語の辞書を引いても「悲愴」という意味は出てこない。これはロシア語では「情熱」とか「強い感情」といった意味の言葉なのである…(中略)…チャイコーフスキイはこの時まったく死ぬつもりなどはなく、遺言としてこの曲を作曲しようなどとは全然考えていなかった。つまり、作曲家の死後に、人々の間に形成されていった噂話がヨーロッパにも伝わって、この曲のイメージをすっかり変えてしまったことになる。

更に詳しくは、KANZAKIさんご自身の記述をお読みいただければ幸いです。
・・・終楽章の動機は前に「(失意に向かう)嘆きのイントネーション」の例として私自身が掲載したことがあるのですけれど、だからといってそれが「自身の直近の死を前提としての嘆き」であるとは決め付けられません。
・・・チャイコフスキー自身は1910年までは生きたい、と漏らしていたそうですし、交響曲第6番初演の翌年も、既にスケジュールがいっぱい詰まっていたそうですから。



第2の、第6交響曲の前身と考えられるチャイコフスキーの作品群ですが、以下のとおりです。

・バレエ「眠れる森の美女」(1889)
・オペラ「スペードの女王」(1890)
・オペラ「イオランタ」(1891)〜私は未聴
・バレエ「くるみ割り人形」(1892)
・ピアノ「18の小品」(1893)
ピアノ協奏曲第3番第1楽章(1893、以下の楽章は1895年タネーエフが補作)
〜最後の、ピアノ協奏曲第3番の第1楽章が、もとはチャイコフスキーが「人生」交響曲として企画したものの転用です。しかし、第6交響曲と音楽的に繋がるものは、どれほどあるでしょうか?

以上のうち、とくに交響曲第6番と(内面的に?・・・少なくとも、構造的に!)関連性があるかなあ、と感じているのは、「スペードの女王」、およびピアノのための「18の小品」です。

「スペードの女王」は、プーシキンの原作(岩波文庫に翻訳収録)に比べて入り組んだ筋書きの台本を弟モデストが作ったものにつけられたオペラですが、その筋書きは、不倫に近い恋愛のハシカ熱にうなされた主人公が、恋人を完全に獲得するだけの資金を手にするため賭博に手を出し、結局はすってんてんになって、恋人への詫び言をつぶやきながら自殺する悲劇です。・・・交響曲「人生」は変ホ長調として仕上がる予定でしたけれど、そちらでチャイコフスキーが思い描いた人生は
「第1楽章は、仕事に対する衝動や情熱、それに自信。短くしなければならない(挫折の結果としての最後の死)。第2楽章は愛、第3楽章は落胆、第4楽章は死(やはり短く)。」 (Wikipediaからの引用)
というものでしたから、「スペードの女王」に似通ったものがあります。
これに多少変更が加わった「人生観」が交響曲第6番に反映されている可能性は大きいと思います。

音楽としての「ストーリー付け」については、「18の小品」に、そのミニアチュールをいくつも聞き取ることが出来ます。
交響曲のそれぞれの楽章については「18の小品」の第何番だな、という紐付けも試みてみたのですが、この作品の録音自体は入手しにくいかと思いますし、楽譜については出版事情を把握しておりませんので、交響曲全体ともっとも関連性が深いかな、と感じられる (色の変わっている部分を右クリックすると別ウィンドウで聴けます。)お詳しいかたには「え? 逆なんじゃないの?」と思われる妙な言い方をしますけれど、この第14番、
<リストの叙情をショパンの技法で奏でている>
もので、交響曲第6番の全ての音楽語法の要素が集約されています。
例示はしませんので、お聴き取りになってみて下さい。
 M.Pletnev(piano),LIVE , June 2004 at Zurich Tonhale
Deutshe Grammophone 00289 477 5378



第3に、交響曲第6番創作の直近の時点で、チャイコフスキーはマーラーやリヒャルト・シュトラウスと出会い、影響を受けている、といわれています。
これは、チャイコフスキーの作品から省みても、なるほどそんなこともあるかな、と思われます。
ですので、チャイコフスキーが耳にした可能性のある、この二人の作曲家の、年代の近い作品を、参考までに挙げておきます。

マーラー:「交響曲第1番<巨人>」(1888)
R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」(1888)、「マクベス」(1890)

・・・少ないかもしれませんが、有名曲ばかりですし(「マクベス」は、そうでもないか)、チャイコフスキーの第6自体とも思想的・情感的に近似性が認められる点は、着目しておいてもよいかと思います。



最後に。・・・これは、「演奏なさる」かたが、チャイコフスキーのこの作品を「暗記」して下さっていることを前提に述べます。(アマチュアであっても、演奏する以上は、旋律的な前後関係、付けられている和声を、本来は全て記憶していなければなりません。・・・勿論、全てのパートについて、どこでどの楽器が入る、という細目まで完全に記憶している必要はありませんし、和声の記憶は主和音か属和音か程度でいいのであって、なんというコードネームで表されるかまで細かくなくてもいい。でも、大切な音が何かは、曲全体をあらかじめ記憶していないと、慌てて練習しても見つけ出すことは不可能です。で、案外、聞いてくださるお客様の方が、よく覚えていらしたりしますから、肝に銘じたいところです。)

現在はどうなのか分かりませんが、私が子供の頃は、
「チャイコフスキーは<繋ぎ合わせ>で創作をした人だ」
・・・つまり、彼の音楽はベートーヴェンのように動機を積み重ねた建造物ではなく、パッチワークみたいな、いくぶん精神的価値の低い作品ばかりを作った、という評価が、日本では定着していました。私が初めて聴いた<悲愴>交響曲の録音(LP)の解説に、駄目押しのように、こう書かれていました。
「この交響曲も例外ではない!」

けれども、ちょっと観察すれば分かることですが、この認識は明らかに間違いです。
第1楽章冒頭のファゴットの2音上昇動機、その延長としての3音下降動機(第1主題の途中【木管主体の箇所】と弦楽器が有名なメロディを奏でるところで登場します)が、全曲を支配していることは、注意して聴けばすぐに分かることですし、次回以降はそのことに重点をおいて作品検討をしていきたいと思っておりますが、代表的な部分についてごくかいつまんでいえば、明瞭なのは

3音上昇2音下降の動機〜第1楽章ファゴット、ヴィオラの第1主題、第2楽章のワルツ主題(Ⅰ、Ⅱとも)
3音下降動機〜第1楽章第2主題(有名な旋律)、第4楽章の第1主題、第2主題

といったところですね。第3楽章は判別しにくいですけれど、テーマの部品として(たとえば3音上昇2音下降を3音上昇4音下降に延長したりして)有効活用されていますから、よくお聴きになってみて下さい。第2楽章での用法も、割合に複合的です。


ごちゃごちゃならべたててすみませんでした。 何卒、意をお汲み下さいますよう。 

追記:この記事の下書きをしたあと、帰り道にスコアを買いました。2004年版の音楽之友社のものが見やすく改善されていたので、それを購入したのですが、解説を読んで仰天しました。丁寧で適切な内容なのです。音楽之友社で刊行中の「作曲家○人と作品」シリーズでショスタコーヴィチの巻を担当された千葉潤さんのものでした。・・・私が上に綴ってきたことなんて、この解説を読めば、つまらんもんです。 が、せっかく綴ったので、載せます。ご容赦あれ!

作曲家 人と作品 チャイコフスキー (作曲家・人と作品)Book作曲家 人と作品 チャイコフスキー (作曲家・人と作品)


著者:伊藤 恵子

販売元:音楽之友社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品)Bookショスタコーヴィチ (作曲家・人と作品)


著者:千葉 潤

販売元:音楽之友社
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   ・前提    ・全体像    ・第1楽章    ・第2楽章    ・第3楽章    ・第4楽章


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2008年1月 3日 (木)

「のだめ」4,5日登場曲から~「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」

年明け1月5日にTMFの演奏会を致します(無料)。上野や浅草から近いので、お気軽にお越し下さい。
くわしくはこちらをご覧下さい。



三が日も終わり、今日の夕方には帰宅します。帰宅前に、「自分への気合入れに成るかな」と思い、「のだめ」にかこつけて、過去にメーリングリストに載せた文を少し構成しなおして掲載しました。かなり長いので、読みにくいかとは存じますが、お許し下さい。


1月4日、5日放映の「のだめ」inヨーロッパでは、

R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28
(1895年完成、初演)

もとりあげられるので、もう2年前の3月に行ったものですが、作品の内容の解析と演奏比較を綴った文を掲載させていただきます。

編  成:フルート3、ピッコロ、クラリネットD2・B2、バスクラリネット、ファゴット3、コントラファゴット、ホルンF4・D4(任意)、トランペットF3・D3(任意)、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、トライアングル、シンバル、大太鼓、小太鼓、ガラガラ、第1ヴァイオリン16名、第2ヴァイオリン16名、ヴィオラ12名、チェロ12名、コントラバス8名

比較素材〜記事末尾に記載。

*聴きやすい曲で、CDをお持ちの方も多いと思います。ただし、自作自演版もある上に、後述のように、私が確認した限りでは、後輩たちに受け継がれた演奏には、大きくは「シュトラウス晩年系」と「フルトヴェングラー系」があります。改めてお聞き直しいただくと、面白い発見ができます。

端的に言えば、6小節めから出てくる有名な「ティルの動機」を
・テンポをほとんど変えないのが「シュトラウス晩年系」
・2回目の登場でテンポが速くなるのが「フルトヴェングラー系」
と聞き分けるひとつの目安です。
なお、「ティルの動機」が加速していく演奏でも、
・加速の程度の低いもの
・金管楽器を「押さえ気味」に吹かせているもの
はR2型とみなし、フルトヴェングラーの影響も受けていることから(F)と付記しました。
詳しくは<比較概要>2−2)をご覧下さい。
    
お手持ちをお聴きになってみて、いずれをお持ちかをご確認の上、
・「シュトラウス晩年系」だった方は<比較概要>2)の系譜F
・「フルトヴェングラー系」だった方はシュトラウス自演か系譜R1ないしR2
を別に聴き比べてみると面白いかもしれません。
なお、シュトラウス自身の演奏(1944年録音)に一番似ているのは、ベームの演奏であることを、参考までに申し上げます。出だしのテンポなど、シュトラウス自身と全く同じです(29年も44年も、この部分はシュトラウス自身全く同じテンポで演奏しています。これはこれで驚異でした!)



<比較概要>
*要点
:作品の「筋書き」を確認します。
:作品の演奏形態に2種ある点を「観察」し、「演奏の伝統」を概観します。
:「文学」との関係の考察をし、作曲者の創作意図を探ります。
:作品形式の考察をし、実際の仕上げで作曲者が自己の意図をどう収拾したかを探ります。


1)作品の「筋書き」(指導動機名は、スコア等の注記を参考に、私が勝手に付けました)
R.シュトラウスが後年ひとに請われて行ったコメントが元になっています。
演奏時間は15分程度です。

1.昔々のその昔、:「語り始め(と回想)の動機」〜弦楽合奏主体でゆったりした部分です。(1〜5小節、4/8拍子)

2.ティルという悪戯者がいました。:「ティルの動機」(6〜46小節。以下、主に6/8拍子)

3.以下、ティルがこれから繰り広げられる悪戯の限りをご覧に入れましょう。:「いたずらの動機」(46〜49小節)

4.新しいいたずらを求めて出発です:「スキッブの動機」・「いたずらの動機」(50〜110小節、ここまでソナタ形式の「呈示部」にあたる。)

5.「待っていろよ、意気地なし共め!」:「いたずらの動機」(111〜428小節間。展開部)

6.第1の悪戯は、市場に侵入、馬で女共を蹴散らし、一歩で7マイルも進める長靴を履いて逃げ去る:「いたずらの動機」・「悪意の昂揚の動機」(133〜153小節)

7.次は何にしようか・・・ネズミの巣穴に潜んで考える:「悪意の昂揚の動機」・「いたずらの動機」・「『いたずらを決めた』動機」(154〜178小節)

8.第2の悪戯は、僧侶に化けてもったいぶった口調で道徳の辻説法:「説法の動機」(179〜194小節)ここのみ2/4拍子、八分音符の呑気なテーマ。

9.道徳を説きながら、自分の先行きに不安を感じる:「恐怖感の動機」・「なんとかなるさの動機(いたずらの動機の変形)」(196〜208小節)

10.騎士に化けたティルは、美しい娘たちと挨拶を交わす:「いたずらの動機」・「ティルの動機の変形」(209〜221小節)

11.ティルは一人の娘に言い寄る:「いたずらの動機」・「困った娘の動機(グリッサンドの下降音型を含むもの)」(222〜244小節)244小節で肘鉄を食わされる。

12.肘鉄を食らわされたティルは嘆き悲しむが、「こうなったら全ての人間に復讐してやる」と心に誓う。:長調となった「困った娘の動機」でティルが笑顔で娘と別れた事を示すが、同じ動機が8小節後には激しい短調に転じ、「ティルの復讐の動機」へと変貌していく。(245〜288小節)

13.気持ちも新たに学者に交じり、とけっこのない謎を出して議論を紛糾させる:「いたずらの動機」・「ティルの動機」の変形、重みを付けた「スキップの動機」(もったいぶったティルと学者たちを暗示)、時々暗示的に「復讐の動機」が聞える。締めには昂揚した「いたずらの動機」(289〜374小節)

14.そんな自分に瞬時「これでいいのか?」と自問するものの、気を取り直して鼻歌を歌いだす。:「流行歌(鼻歌)の動機」・「不安の動機1(クラリネット)」・「不安の動機2(オーボエ、ティルの動機の変形)」・「機嫌の回復(410〜428小節)」(375〜428小節)

15.:以下、ソナタ形式の「再現部」にあたる。いまや激しい悪事を重ね、高笑いするティル。:既出の「ティルの動機」・「機嫌の回復」・「いたずらの動機」に485小節(練習番号41)から「高笑いの動機」が加わる。いたずらは「「説法の動機」の昂揚で頂点を迎える。(429〜573小節)

16.以下、コーダ。ティルはとうとう逮捕され、最初は鼻で笑っていた。:「処罰の動機(金管の和音)」。ティルは弱音の「いたずらの動機」で、ことを軽く受け止めている様子を示す。(574〜593小節)

17.絞首刑に処せられることとなり、命乞いも甲斐なく処刑が実行されて、ティルは昇天する。:「処罰の動機」・今や悲鳴に変じた「いたずらの動機」・「恐怖感の動機」・「処刑の実行(「ドン・ファン」最終部と共通する手法が610小節に見られる点、注目)」・「窒息し、息絶えるティル(615〜631小節)」(594〜631小節)

18.「昔々、こんな奴がいたんだよ」と、人々が懐かしむ。:「回想の動機」4/8拍子(632〜649小節)

19.「それにしても、痛快じゃないか!」:(650〜657小節)



2)シュトラウス没年時(1949年)の各指揮者の年齢、DVD・CDでの演奏オーケストラ、演奏年、演奏時間、系譜(R1=シュトラウス壮年期系、R2=シュトラウス晩年系、F =フルトヴェングラー系)

            作曲者没年時年齢  Orch.    演奏年 演奏時間 系
  本人(1929年演奏、65歳)      Berlin Op.  1929  14:28  R1
  本人(1944年演奏、80歳)      Wienna Ph.  1951  15:20  R2
  ウィレム・フルトヴェングラー  63歳  Berlin Ph.  1943  14:57  F(R2*)
  ウィレム・フルトヴェングラー  63歳  Berlin Ph.  1950 約15:30  F
  クレメンス・クラウス      56歳  Wienna Ph.  1951  15:06  R2
  エーリヒ・クライバー      59歳  Norddeutscen 1953  13:34  R1*
  カール・ベーム         55歳  Berlin Ph.  1963  15:12  R2
  ヘルベルト・フォン・カラヤン  41歳  Berlin Ph.  1973  15:30  F
  ルドルフ・ケンペ        39歳  Dresden st.  1975  14:40  R2(F)
  ゲオルク・ショルティ      37歳  Berlin Ph.  1996   15:11  R2(F)

  
2-2)演奏「系譜」の考察
欧州が第2次世界大戦への悲劇的な道のりを歩み始めようとしている1933年、R.シュトラウスと共にドイツの帝国音楽局の幹部を引き受けたフルトヴェングラー(シュトラウスが総裁、フルトヴェングラーが副総裁)は、解釈家としてはシュトラウスと対照的な性格を多分に持ち合わせた人でした。
幸いにして「ティル」の演奏について、作曲者シュトラウス自身の録音と一部映像、フルトヴェングラーの全曲演奏の録音と映像が残っていますので、この2人の違いが現在でも明確に分かります。二人は決して仲が悪かったわけではなく、年下のフルトヴェングラーは、彼の書簡から読み取る限り、シュトラウスに少しは敬意を払っていたようです。

さて、「ティル」の演奏における二人の関係はいかに。

スコアには曲の緩急・表情に影響を与える指示が豊富に載っています。
ところが、これらの指示の読み方が、作曲者本人とフルトヴェングラーでは大きく異なっているのです。
  
作曲者シュトラウス自身の演奏は、1929年のものも1944年のものも、スコアの指示から想像するものよりはテンポの変化が少なくアインザッツが安定しており、各楽器に指示したディナミークを遵守させていると共に、自身が後輩に示した「指揮十則」にしたがい、金管楽器はfffであっても幾分抑え目にしているのが特徴です。(29年の演奏には、それでも「アッチェランド」と楽譜に書いた部分よりも前の部分からアチェランドしたり、と、少しゆらぎがあります。)
オーケストラ全体の響きが彼の美的感覚を損なうほど破裂するのを嫌っており、音楽の流れが「スコアに書いた」以上に誇張されることも望んでいません。

対するフルトヴェングラーは、彼のベートーヴェンやブラームス演奏でもしばしば聴き取れるように、音楽の「比喩」しているものが何であるかによって、テンポもバランスも大きく変化させています。アインザッツの崩れも多少は気にしない、音楽の流れが喪失しないほうが重要だ、という方針だったとも言われています。(これは彼が演奏家・解釈家として優れていた一方、作曲家としては成功できなかったことと大きく関係しているように考えられます。フルトヴェングラーの「交響曲第2番」は、マーラー並に長いのに、曲想は古典にとどまっているため、演奏バランスの取りにくい作品です。)

この二人の、とくに1940年代から1950年代演奏様式の違いが、日本的な「流派」とまではいきませんけれど、「ティル」の演奏の基本姿勢に、以後大きな二つの流れを産んでいくことになりました。
「流派」が演奏時間だけで判定できないことは、2)に掲げた表から明らかです。
(たとえば、フルトヴェングラー1943年の演奏ととカラヤンの演奏時間を比べて下さい。)
違いは、次に列挙する、テンポ運びや楽器音量のバランスにみられます。

二人の主な相違点は、いずれも2つずつ比較した全曲演奏時間の違いにかかわらず、以下の個所で特徴的です。

・最初にホルンに出てくる「ティル」の動機(「筋書き」2のはじめ)
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜動機登場時のテンポを2回目も保つ
 フルトヴェングラー〜2回目の登場に向けてアチェランドしていく。
 
・372小節からのアチェランド(練習番号26「ティルの唄う流行歌」の前)
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜(とくに29年演奏では倍テンポの)アチェランドをしている。
 フルトヴェングラー〜表記とは逆にリテヌートしていく(カラヤンはしていない)
 
・577小節以降の「ティルの逮捕、判決」の部分
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜「威嚇的にdrohend」と記した部分のテンポをあまり遅くしない。
 また、クラリネットによるティルの「恐怖感の動機」を強調しない。
 「絞首され昇天したティル(練習番号40)」の部分は最後まで一貫したテンポで演奏している。

 フルトヴェングラー〜「威嚇的にdrohend」と記した部分のテンポをかなり遅くしている。
 また、クラリネットによるティルの「恐怖感の動機」を強調している。
 (後年のカラヤン以下の演奏に見られるほど極端ではない点は留意しておきたい。)
 「絞首され昇天したティル(練習番号40)」の部分はクラリネットの上昇音型を速く、
 その後618小節のフェルマータを受け継いだオーボエ等の下降音型をかなりリテヌートして
 Epilogの前を終わる。

 
・不特定個所ですが、金管の取り扱いにおいて
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜トランペット・トロンボーン・チューバにffと記譜していても、
 567小節からの(ティルが捕まる直前の)クライマックスまではワンランク以上小さい、
 mf程度のディナミークで吹かせている。
 他にffで吹く事を許しているのは650小節以下の最後の部分だけである。

 フルトヴェングラー〜基本的に記譜どおり、あるいは記譜よりワンランク上のディナミークで
 金管を吹かせている。
 とくにトランペット・トロンボーンはmfの個所を往々にしてfで吹かせている。
 275小節からの練習番号18番[トランペット、トロンボーン共]、
 練習番号31の486小節からのトランペット2本等々。

 
・テンポについて
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜前述の通り、一定の「区間」[ほぼ、1)の「筋書き」の区切りと一致]
 では変化が小さく、安定しています。

 フルトヴェングラー〜古典を演奏する時と同様、クレッシェンドするにつれて
 速く、ディミヌエンドにつれて遅くしていく傾向が強くみられます。

・指揮法について
 シ ュ ト ラ ウ ス 〜映像では確認出来ませんでしたが、フェルマータのあとは、
 明らかに振り直しています。
 なお、
 「R.シュトラウスはすぐれた指揮者だったが、それが確認出来る映像は残っていない」
 と、解説中で述べている人がいます。これはとんでもない間違いだと思います。
 「君は指揮の中で汗をかくべきではなく、聴衆が熱くなるべきなのだ。」
 「大事なサインはちょっと目で合図すればよろしい。」
 彼自身が立てていた「指揮十則」のこうした姿勢は、片手振りの彼の姿からでも、
 その視線の行く先、棒の合図の的確なタイミングから充分察する事が出来ます。

 フルトヴェングラー〜特に後半、フェルマータのあとは、引き続き一気に振ります。
 したがって、間が空きません。
 彼以降の指揮者たちは、フルトヴェングラーに倣っています。
 こちらの映像についても、パンフレットなどの説明に、フルトヴェングラーにしては、
 「リズムが複雑な曲のせいか、拍をしっかり、ふるえない棒で振っている」とあります。
 これも大変な誤りです。
 確認可能なフルトヴェングラーの映像の中では、「ドン・ジョバンニ」序曲なども
 ほとんど「ふるえない」棒で振っています。
 その上、こちらのティルの映像では、曲がクライマックスを迎えると、
 やはり棒はふるえています。ふるえている場所は、決して「リズムが簡単なところ」に限りません。
 書籍や「ブラームス」・「未完成」のリハーサル映像によって
 評の筆者が「固定観念」を抱いてしまい、それによって
 「ティル」の映像まで評価してしまっているものと思われます。
 こうした事は私たちに共通して頻出する問題点ですから、ぜひご用心下さい。

 
後輩の指揮者は、記憶や印象に残っている、二人のうちのいずれかを継承し、数ヶ所にあまり目立たない独自の演出を加えている程度で演奏しています。
後輩の独自演出はR.シュトラウス系でも
・冒頭6小節目からの「ティルの動機」をややアチェランドすること
・「威嚇的にdrohend」と記した部分のテンポを遅めにとること
・同じ部分のクラリネットによるティルの「恐怖感の動機」を強調すること
等フルトヴェングラー系の演出をより誇張すること等々というケースがほとんどです。
フルトヴェングラー自身、シュトラウス生前に行なっている実況録音ではシュトラウス自身の演奏を規範にしたと思われる個所も沢山あります。
後年のケンペとショルティはシュトラウス自身の演奏の記憶を前提にし、フルトヴェングラーの演奏でより効果的に感じた部分を採り入れた折衷型の演奏を、程度の差はあれ、誇大演出気味に行なっているように思います。

この点、フルトヴェングラー以外でシュトラウスと身近に接した指揮者、クラウスとベームは、シュトラウスの演奏R2スタイルにほぼ忠実に随っています。

カラヤンが、独自であるよりはフルトヴェングラー型Fにほぼ忠実に沿っている点は興味を惹きます。
演奏団体がベルリンフィルであるのはベームと共通ですが、カラヤンの方がベームに比べて団員に対し歩み寄りを行なった結果なのでしょうか。
ショルティがR2型を指向していると思われるのに(テンポ・アインザッツへのこだわりが聞えてくるような演奏なのです)、やはりフルトヴェングラー型にならざるを得なかった部分が多々あるのも、ベルリンフィルというオーケストラ自身の伝統に随うしかなかったという事情が背景にあると勘ぐらせます。ベーム以外は、「私はシュトラウスと本音で接した」と断言出来なかったであろうことが、この2つの演奏カラーに大きな影響を及ぼしていると言って良いのではないでしょうか?

例外はエーリヒ・クライバーだけです。クライバーは当時としては珍しい(そして子息によってもっと極端な形で受け継がれる)フリーな立場での演奏を好んだ人でした。また、かなり速いテンポを好んだようです(後年、子息カルロスが、「父は『英雄の生涯』を38分で演奏した』と語っています。通常45分はかかる曲ですが、カルロスは父のテンポを本番で再現しようとし、オーケストラを大混乱に陥れたとのことです。「舞台裏の神々」に載っている話です。但し、この話は誇張があるようです。シュトラウス自身、この曲を35分程度で演奏した録音を残しましたし、ケンペは約40分で「英雄の生涯」を演奏しています)。
父クライバーには、R.シュトラウス本人の演奏テンポが随分速く感じられており(シュトラウスは速いテンポが好きでした。ベートーヴェンの第九を45分で全曲演奏しきった人ですから!)、かつ彼自身の好みで、2)の表中最速のテンポを示す演奏を残すことになったのではないかと推測されます。速いという意味で仮に「R1」系としましたが、実際は独自スタイルといえるでしょう。

なお、「ティル」はトライアングルを効果的に使っている曲ですが、644小節にある最後の一打が、トライアングルにとって非常に難関です。上手く叩けているのは作曲者本人による2つの録音、ベーム盤、ケンペ盤かな、というのが私の感想です。

それにしても、作曲者自身は年齢を重ねてテンポは少し変わったものの、各個所の表現は年齢を問わず「芯」を通しています。
にもかかわらず、別の優れた解釈者が作曲者の生存中に出現し、作曲者と著しく異なるテンポ設定を行なったりしてもいる。
 一人一人自由気ままに演奏しているように思われがちな西欧音楽にも、演奏法には厳然と「伝統・流派」が存在するのです。
いくつかの「流派」が混合することで、また新たな解釈が生まれる・・・それが再び違う「流派」を生み出していく。
「流派」と言う語彙にはマイナスイメージも強いでしょうが、このように「流派」が盛衰と回生を反復している事実に、「あまりにも人間的な」文化の、本来の豊かさを感じずにはいられません。



3)作曲者の意図は? 「作品」をどう受け止め、「楽譜」をどう読むか
シュトラウスは、最初「ティル・オイレンシュピーゲル」をオペラとして企画、作曲を開始したそうです(諸伝記等に明記)。
1)で挙げた「筋書き」が恋愛沙汰を伴い、ティルの処刑という「劇的」なエンディングを迎えることからも、彼の当初の企画が伺われます。
しかし、オリジナルの「ティル」の物語は小噺の連続で、ティルの誕生から死までを「時系列」に扱ってはいるものの、決して「劇的」ではありません。
まず、
・恋愛沙汰は全く登場しないこと
・女性にからかわれた噺はあるものの、その女性は「老婆」であること
・ティルは幾度か絞首刑にあいかけるが、都度巧みに逃れ、最後は「安楽に」死ぬこと
・かつ、「糞」の出てくる噺が非常に多いこと(中世の禁忌に起因する)
・ティルは「庶民」ではなく、「非人」、流浪者として描かれており、
それゆえ中世の身分制度の急所を突いた悪戯を繰り返し得る性格を持っており、まさにこのことが人々の間で彼の物語の人気が保たれる要因になっていることといった特徴が見られます。
フンパーディンクが素材にした「ヘンゼルとグレーテル」等の一連のメルヘンオペラの題材とは似ても似つきませんし、ワーグナーの「指輪」のような壮大なスケールを持たせることも不可能な作品だったことが、シュトラウスをして「オペラ化」を諦めさせた決定的な要因になっているものと思われます。

次に、シュトラウスが取り上げた「悪戯話」には、原話からとったらしいものと、シュトラウスの創作によったオリジナルが入り組んでいます。
以下、原話のあるものは原話の番号を記します。シュトラウスの捜索したと思われる項目はオリジナルと記します。
(番号は阿部謹也訳「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」による)

・市場を(馬で)荒らし回る:「馬で」はオリジナル。49,87など。
・ネズミの巣穴に隠れる:オリジナル。「馬の腹を割いてその中に入る」
話が原話25にある。
・聖職者に化けて説法する :31。
・騎士に変装する :オリジナル。
・若い女性を口説く:オリジナル。
・女性にバカにされる :67。ただし、相手は老婆。
・世間全体への復讐を誓う :オリジナル。
・学者に化けて難解な議論をする:28。
・絞首刑にされそうになり、逃れる :25,58。
・(絞首刑に処せられる) :オリジナル
なお、原話では、ティルは
・遺産(実は小石)を残し、病死する:94
のです。最後まで残った遺産を巡って、周りの人を大騒させるほどのいたずら者でした。
ティルは実在の人物だとも、架空の人物だともされ、正体がはっきりしませんが、「ティル」遺跡はドイツの各所にのこっているとのことです。

以上から伺われるように、シュトラウスは「ティル」の劇化に彼のオリジナルの挿話を作ったり、雰囲気の統一のために話を改変するなど、相当苦心をし、筋に「まとまり」を持たせることまでは出来ました。
が、この「まとまり」は到底「オペラ化」には役不足な、せいぜいオペレッタ的なものにとどまったのです。
「ならば、それよりは自分らしさを前面に出せる交響詩にしよう」
ある時点で、彼は決心したに違いありません。
交響詩なら、すでに彼は「優れた作品を書ける」ことを世間に認知されていました。
「ティル」発表までに、彼が作曲した交響詩は「マクベス」・「ドン・ファン」・「死と変容」の3作があり、「ティル」以後には「ツァラトゥストラ書く語りき」・「ドン・キホーテ」と、文学(「ツァラトゥストラ」も哲学書であるよりは一連の逸話集という趣を持ちます)という、「器楽だけの物語」路線を歩みます。ティル以後の3曲で劇的構成の制作に自信を深めたのでしょう、最後の交響詩「英雄の生涯」では文学を離れ(1899年)、1901年の「火の欠乏」を皮切りに、創作の比重を大きく「オペラ」に置いていくこととなります。


以上のような経緯を見ていく時、「ティル」はシュトラウスにとって「劇的構成」を真に成就した最初の、記念碑的な作品だとみなすことも可能でしょう。
従って、私たち、「ティル」を享受する側は、この曲を「歌を伴わないオペラ」として理解する必要に迫られます。
(「ツァラトゥストラ」・「ドン・キホーテ」についても同様のことが言えます。)
「第三帝国のR.シュトラウス」の著者、山田由美子さんは、元来スペイン文学の研究者なのだそうですが、あるオーケストラのプログラムに「ドン・キホーテ」原典とR.シュトラウスの交響詩の関係を解説するように求められ、調べていくうちに、シュトラウスが原典を深く読み込み、作曲に際し物語を厳選して適切な音楽を付していることに気がつき、それが「第三帝国のR.シュトラウス」執筆のきっかけに繋がっていったそうです。)
「ティル」は上で見た通り、原話を参照しながらも「物語」はシュトラウスが創作したものであり、「物語」を読み取るには、シュトラウスのコメントを参考に
・スコアから各種の動機を判別し、
・動機がシュトラウスのコメントした「物語」のどの部分に
 *どんなディナミークや表情記号で
 *動機の「原形」からどのように変化して
 用いられているかを観察し、
・そのうえでシュトラウスがイメージした「物語」を再構築する
という3段階の分析を経なければなりません。
1)に記した「筋書き」に、私の読み取った「動機」を、「動機」の性格に沿って名前を付けて併記しました。仮のものではありますが、もし「ティル」をお聴きになる時に、スコアをご覧になる参考になれば幸いです。



比較素材〜「R.シュトラウス直接体験」のある指揮者の演奏ばかりを選びました。
DVD:アート・オブ・コンダクティング
      作曲者自身の演奏の一部映像(ウィーン・フィル、1944年)
   :アート・オブ・コンダクティング2
      フルトヴェングラーの全曲演奏(ベルリン・フィル、1950年)
C D:Richart Strauss CONDUCTS Ein Heldenleben (DUTTON CDBP9737 自作自演集)
     ティルの演奏は1929年録音、ベルリン国立歌劇場管弦楽団(14分28秒)
    :L'Heritage de Richart Strauss LYS LYS291(自作自演集)
      ティルの演奏は1944年録音、ウィーンフィル(15分20秒)
    :Wilhelm Furtwaengler/Berliner Philharmoniker DeutshGramophon5枚組471 294-2
     ティルの演奏は1943年録音(14分57秒)
      [フルトヴェングラーとシュトラウスの接点については後述]
    :Clemens Krauss/Viennna Philharmonic TESTAMENT SBT1185
     (1951年、15分06秒) 併集〜ドン・キホーテ、ドン・ファン
     [クラウスはシュトラウスのオペラ「平和の日」の初演者、親交も深かった]
    :GREAT CONDUCTORS OF THE 20TH CENTURY:ERIHCH KLEIBER
      (EMI & DECCA 7423 5 75115 2 0)
    ティルの演奏は1953年録音、北ドイツ放送管弦楽団(13分34秒)
     [明確な記録を見いだしていないが、接点が何度もあったはず。]
    :Karl Boehm/Berliner Philharmoniker DeutshGramophon 459 243-2
      (1963年、15分12秒) 併集〜ツァラトゥストラ、ドン・ファン
    [ベームはシュトラウスのオペラ「ダフネ」の初演者、親交も深かった]
    :Herbert von Karajan/Berliner Philharmoniker DeutshGramophon 447 441-2
     (1973年、15分30秒) 併集〜ツァラトゥストラ、ドン・ファン他
     [カラヤンは「影のない女」上演でシュトラウスに絶賛を受けた
    :Rudlf Kempe/Staatskapelle Dresden (Richart Straus Orchestral Works Disc3)
      EMI 5 73614 2(9CD Box Set) (1975年、14分40秒)
      [ケンペはゲヴァントハウス首席オーボエ奏者としてシュトラウスの指揮に何度も接した]
    :Georg Solti/Berliner Philharmoniker デッカ ベスト100 UCCD-5042
     (1996年ライヴ、15分11秒)
      併集〜ツァラトゥストラ、7つのヴェールの踊り
     [ショルティはシュトラウス家に招待され「バラの騎士」解釈について教えを受けた]
         
参考素材:スコア〜音楽之友社OGT 228 2004年 第3刷 税抜1,100円
    :阿部謹也訳「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」
      岩波文庫1990年、絶版)
    :「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」音楽之友社 税抜2,500円
      日本リヒャルト・シュトラウス協会編 2003年のうち
      「シュトラウスの音楽の調性について」W.サヴァリッシュ
      「台詞のない芝居・・・シュトラウスの交響詩をめぐって」諸井誠

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2007年10月25日 (木)

ドヴォルジャーク「交響曲第8番」第4楽章

ドヴォルジャーク「交響曲第8番」につき、
全体像
・第1楽章:構成について練習上の留意点について
・第2楽章:構成について練習上の留意点について
第3楽章についてはまとめて
記して参りました。
また、アーノンクールの述べている、作品理解のうえでの示唆も引用しました。
(リンク先をご覧下さい。)



TMFへの練習に伺えない償いとしての、とりあえず最後の記述です。
・・・練習に行けないことは、寂しくもありますねえ。
・・・それに、こんなもの記して、お役に立っているかどうかも心もとありません。
   お会いできた時にひと言でも頂けたら、嬉しいです。
   もちろん「役に立たなかった」であっても、「言葉」を頂くことが嬉しいのです。
   ご理解頂けるでしょうか?


本題に入る前に。
「え? 昨日は<不幸論>で今日は<幸福論>かい?」

はい。見掛け上は。
(本当は「<幸福・不幸は1円玉>論」をやりたかったのですが。今日は欲求を抑えておきます。)

なんでもいい、「ああ、愛すべきもんだなあ」と、初めてあることを好きになった時のことを思い浮かべて見て下さい。
「好きになる」はじめは、文字通り、初々しいものです。好きになった、その瞬間は、最高に「幸せ」なひとときです。
この「幸せ」というやつは、でも、神様が仕組んだ罠ではないか、と、このごろ、とみに思います。
いったん「幸せ」の味をしめると、人は今度はそれが「瞬間であるから素晴らしい」のだということを、とたんに忘れます。「せっかくだから、いつまでも続けばいい」と思い始めます。
「ああ、あのとき<好き>だと思えたその幸せを、どうやったらずっと手にしていることができるだろうか」
こんな考えが幻影であることに、精神が健康なら、すぐに気が付くこともできるのでしょう。
ところが、人の心というものは、もともとそういうふうには出来ていない。(って、私だけ?)

音楽の演奏を、いつになく素晴らしくやり遂げたとき、私たちアマチュアオーケストラのメンバーは、とっても幸せです(プロではないのでプロの方のことは分かりません。滅多に打ち上げをやらないでしょうしね)。
で、この「幸せ」が永続するはずだ、と信じて、打ち上げでどんちゃん騒ぎをしまくります。
・・・明日にはお互いそっぽを向き合っているかも知れないのに。

本番では第8も最終楽章に至り、クライマックスを乗り切った瞬間には、この「罠」が待っています。
今から手ぐすね引いて待っています。
ですから、いまのうちに、
「幸せとはどういう試みをした結果から得られるのか」
を、各々のかたが客観的に考え続けて下さることを、まず最初に強く祈念致します。
客観的に考えられるようになってさえいれば、「幸せ」は段々に「過去の幻影にあなたを陥れる罠」ではなく、いつかは知れなくても、もしかしたら将来も再現可能な現実の感動への、またとない虹の架け橋に姿を変えてくれるでしょう。

・・・「幻影」ばかり追い続けることから逃れられずにいる私が申し上げても、説得力は全くありません。
・・・ですから、私も、自分がここに記した「精神の姿勢」を自分も守っていけるように努力したい、と願っております。



演奏上の留意事項を第2楽章、第3楽章では第1楽章の半分も数を綴っていなかったことには、お気づきかもしれません。第1楽章での留意事項を忘れなければ、・・・「全体像」で述べました通り、lこの作品には一貫性があるため、後続楽章に応用がきくことが非常に多いのです。
第4楽章も、2、3楽章と同じです。
ですので、昨日に引き続き長文になるのを恐れずに、第3楽章同様、「構成のこと」・「演奏向けに練習すべきこと」を併せて綴っておきます。


<第4楽章の構成について>
これも、スコアや伝記の解説は、私にはどうしてもしっくりきませんでした。
素直に読めば、スコアの解説ほど複雑ではありませんし、変奏曲の応用、といった「自由度の低い」形式でもありません。以下で述べる読み方が、お聴きになっての印象にいちばんしっくり来るものなのではないか、と、私は感じておりますが、いかがでしょうか?

単純に言ってしまえば、この楽章は「ソナタ形式」です。複雑に言っても、「原則的ではないロンド・ソナタ形式」、もしくは「ロンドと変奏を道具に用いたソナタ形式」です。
それ以上のものではありません。学者さんほど一般的な楽式の概念に縛られるのでしょうか、なんだか知らないけれど複雑なことを仰っていますが、演奏するにあたっては、このくらいに割り切ってしまっても何の支障もない。
かつ、「序奏」は後から付け加えられた、という話ばかりが、いろいろなものにことさら書かれていますけれど、その後どのような経緯でこの楽章が完成に至ったかの過程を明らかにする努力を学者さんたちがしていない(公表していない)以上、演奏者は序奏は「付加物だ」などという意識を持つ結果になるばかりで、いいことは何もありません。考える必要はありません。

序奏部:Allegro, ma non troppo (1〜25)
主題A(1):Un poco meno mosso (26〜42)
主題A(2):同上。(1)変奏と言えば変奏ですが、飾りを変えただけ、と言えばそれだけです。
主題A(3):Un poco piu mosso (59〜74)=変奏ではありません。これが「A」の実体です。
主題B:(75〜92)
主題A(3)&codetta1、2:(93〜107、108〜111、112〜122)
主題C:ハ短調(下属調の同主調、123〜145)
主題A(3)の変形(変奏ではありません。146〜157)
主題C’:(158〜188)
以上の部分のcoda:(189〜252)
変ロ短調で始まり、219からは序奏のテーマを主として主調のト長調に回帰します。
※ここまでがロンドであり、かつ「主題Aにとっての呈示部」にあたります。

主題A(1)の変奏1:Temp I , Meno mosso (253〜270)
主題A(1)の変奏2:(271〜294)
主題A(1)の変奏3:(294〜310)
以上のcoda:(311〜338)
※ここまでが「展開部」に当たります。展開の方法が「変奏」だ、というだけです。

主題A(3)の(短いですが)「再現部」:(339〜355)

全体のコーダ:(356〜389)

すなわち、「呈示部」は拡大手段として、あとは二度と使われないB、C主題を用いたロンドをひな形に用い、「展開部」は音楽の明解さを保つために「変奏曲」方式をとり、「再現部」は第1、第2楽章同様、短く分かりやすいものにして、全4楽章の作曲方針の一貫性をあらためて強調しているもの、と受け止めれば、充分なのではないでしょうか?



<練習上の留意点>

01*序奏部のトランペットは、最後のppまで張りを失わず、音質が変わらないよう、充分計算して。ということは、基本的にアンブシュアは音高によって変えてはならないことになります。アパチュアの変更も望ましくないとなると、口腔内の体積をどう変化させるかを考慮して演奏しなければならない、ということになります。

02*序奏でとトランペットを引き継ぐクラリネット、ホルン、ティンパニはボケずにクッキリ。とくに、ティンパニは音域的にボケやすいホルンを上手に補強して下さい(他の楽章にもありましたね、そう言う箇所)。

03*26小節からのファゴットのスタカートは、コントラバスのピチカートと響きの長さを揃えて。

04*34小節以降のヴィオラ、2ndVnは第2楽章の冒頭部と同じ注意が必要です。

以下、先行3楽章から応用すべき箇所を、各自で発見して下さい。

05*146小節からの弦楽器のトレモロは「和音」のチカラが必要なのであって、腕や肩の力は必要ありません。肩の力を抜き、弦がよく振動するように。弦が間違いなく幅広く振動しているかどうかは、目で確かめることが出来ます。(ひいている最中に、弦がチャンと振動しているか、ご覧になったことはありますか?)

06*156〜157小節のヴィオラ、2ndVnのディミヌエンドは、長いサイクルのフォルテピアノだ、と捉えて極端な効果が出るように。フォルテシモの時間を1拍取り、2拍目で音量を落として、157小節に入ったら初めはp、小節の終わりまでにはpppになるくらいの意識で練習しておいてみて下さい。実際にどの程度の効果にするかは、最終的には指揮者に従うにしても、練習では上記のようにしておかなければ指揮者の要求には応えられません。

07*練習記号H(170〜)のヴィオラ、チェロは1本の弦の上でポジション移動して弾くべきです。移弦が入るとリズムが狂います。ヴィオラは3番線で、C音を基準に、低い方は第1ポジションで、高い方は第3ポジションでとれます。チェロは同じくC音を基準にして、指使いはヴィオラとは変わりますが、同じ理屈で取れます。指を幅広くできるのでしたら、なるべく4の指は使わない方が輪郭がしっかりしますが、音程が危うくなるようでしたら4指を使った方が無難です・・・ポジションの移動を、その分きちんと練習しておく必要があります。

08*練習記号Lでのファゴット、ヴィオラ、チェロとバスは、八分休符をしっかり守り、入りを正確にしなければなりません。

09*最後になってしまいましたが、主題A(3)の登場する部分および最終コーダでの金管、打楽器は、原則として木管楽器よりは一段ディナミークを落とすべきです。これらの部分はすべて「クライマックス」を形作りはしますが、木管の音色が消えないことが必須です。トロンボーンのリップスラー(363)は、リズム通り正確に出来ないのでしたら(自信から、ではなくて、メトロノーム等を用いて「自身の客観的な耳」でご確認下さい)、リズムの正確さはトランペットに委ね、拍が性格に出せる音(第1音、第5音)で正しいリズムに合わせるようにしておくべきです。

生意気を重々承知で綴って参りました。
他の楽章とも併せ、意をお汲み頂ければ幸いに存じます。

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2007年10月24日 (水)

Finlandia(フィンランディア)

うつくしくて有名な を含む作品です。(色の変わったところを右クリックすると別ウィンドウで聴けます。)
中学の卒業式で合唱させられて、「つまんねー」と思ったものでした(音楽の先生、嫌いでした)。でも、クラシックから出来るJ-POPは、「ジュピター」から間が空きましたから・・・この曲なんか、どうですかねー。タイトルは工夫がいりそうだけれど。



と、気楽に始めてしまいました。以下は少々固いので、これだけ聴いて「いいなー」と思って頂けただけで、まずは嬉しいです。
TMFのかた、ドヴォルジャークの終楽章は後回しになりました。すみません。
かつ、以下の話も、2段階に分けます。

長いので、「あ、ここまででいいや」というところまでお読み下さいね(除く演奏者)。



屁理屈第1弾。

「自分は間違っていない」と人に譲れない人は不幸ではないかしら。自分という檻から永久に逃れられないからです。「人に譲ってばかり」もまた、不幸ではないかな。毎晩、寝床まで奪われてしまって、休らう場所がないから。
「自分は言い分を変えたことがない」と主張する人、これまた不幸かも知れません。本当はゴムボールより柔らかく自由に弾めるかも知れないアタマの中身を、あなたはみすみす石に変えて、水底に沈みっぱなしにしてしまっていやしないでしょうか。じゃあ、「あたしはいつも臨機応変よ」って人は?・・・たくさんの恋人に恵まれ、たくさんの恋人を幸せにできる素晴らしい人なのかも知れません。が、相手はそれぞれ、じつは「あなただけが恋人なんだ」と思っています。そのなかのAさんとBさんが、もしあなたの「臨機応変」に気づいたら、AさんもBさんも大切なのに、そのいずれかを失うか、どちらをも失うか、然らずんばあなた自身が苦悶の末の「心の死」を迎えなければならない。

でも、ものは考えようで、こうしたものを含めて「不幸」を抱えることも、案外おおいに結構なことなのかもしれません。
自分の「不幸」に、その理由に本当に気づいた時に待っているのは、大きな苦しみです。けれど、真剣に苦しみ抜くことは「幸せ探し」の大切な過程です。結果は、分かりません。でも、「幸せ」とはなんなのか、がしっかりこの目に見える日を願わずにいられなくなってはじめて、わたしたちは生きていることの本当の意味を知る入口に一歩だけでも進むことができる。たとえばカフカがある短編で描いているように、その門が永遠に開かないものだったとしても、その前に座して耐えることが出来るようになる・・・(なんだか、自分のために綴ってしまっているような気がしないでもありませんが)。

ここに、上に一部を引用した作品の演奏を4つ挙げます(聴く方法は最初と一緒です)。
お聴きになるだけで充分、というかたは、私がテキトーにつけた「見出し」から好みに合いそうなものを一つだけお選びになって、「案外いいじゃん」とか、「しょせんこんなもんかいな」とか、自由に感じて頂くだけでも結構です。何せ、同じ曲なのに、1つ聴くだけで8分以上かかります。標準的なポップスの倍ですね。ただ、先の「不幸論もどき」に照らし合わせて、「クラシック」だとかなんだとかいう、いわゆる「ジャンル」などというものは人が勝手につけたものに過ぎない、いいものはいいし、よくないものはよくない、世の中にはそれしかない、判断するのは自分しかない、というところに思いを致して頂ければ、幸いです。
かつ、聴いていて
「まあまあいいんだけど、ちょっとここは気になるなあ」
という個所があったとしたら・・・お聴きになった演奏は、そこに「不幸」を抱えているのです。
(この曲をこれから演奏するんだ、という方にはなおさら、そのことに傾聴頂きたいと存じます。ですので、演奏に臨むかたには4つとも聴いて頂きたいのです。演奏の抱える「不幸」については、そのあとで述べます。)

演奏を目的としない方は、次の4つのうちの「一つだけ」から「四つ全部」までを自由に選んでお聴き下さい。
そこまでなさって下さっただけで、とりあえずではありますが、心から感謝申し上げます。
()の中は、演奏している団体がある国です。(具体的な団体名は、記事の最後に明かします。なお、容量削減のためモノラルにしてありますが、パソコンで聴く分には問題がなさそうですので、ご寛容に願います。)




曲目は、シベリウスという人の作った「フィンランディア」です。
故国では第二の国歌として愛されています。(国歌がシンボルたり得ないどこぞの国とは大違い!)

念のため申し上げますが、皮肉っぽい「見出し」にはしていますけれど、どれも「名演奏」ではあります。アマチュアが悪口を言える類いのものでは、本来はありません。「見出し」は<野次馬的好奇心>をそそって頂くための、仮のものに過ぎません。

では、「聴衆」で充分のかた、ありがとうございました。

「演奏する」かたは、屁理屈第2弾までお付き合い願えれば、と存じます。


屁理屈第2弾

「演奏」には(本来はジャズだろうがロックだろうが民謡だろうがなんだろうが)、たとえアマチュアであろうとも、本当に楽しみたい場合、ましてやお客様を前にする場合には、複雑怪奇なことをいっぱい考え、訓練しなければなりません。
小難しいことを考えずもとも「カラオケなら上手いぜ」という話もあるのですが、これにはまた面白い例がありますので、機会があれば綴ります。
いま、必ずしもそうしなければならないわけではないのですが、まずは、「カラオケが上手い」ケースについては、忘れて下さい。

で、複雑怪奇なことは、きりがないので、後でご自身で試行錯誤なさって下さい。

ここで問題にしたいのは、「響き」についてです。
たったこれだけでも、もっと沢山の要素についていちいち検討するのが筋ではあります。

ですが、<和声>と<タイミング>で、どこまで「響き」が変わるか、についてのみ、例をお聴きになりながら考えて頂くだけで、かなり有益ではないかと思いますので、先の演奏に、それぞれ耳を傾けておくべき最小限の箇所についてコメントを付けて置きます。
お聴きになりながら、是非、ご熟考下さい。

ポイント地点は、次のものに絞ります。(後ろに記した数字は、その場所の小節番号。使用スコアはブライトコップフ&ヘルテル1987年発行版)

ポイント(1):冒頭の金管のコラール(1~23)
ポイント(2):続く木管のコラール(24〜29)
ポイント(3):木管から弦、トロンボーンへのつなぎ(53〜62)
ポイント(4):練習記号D、金管のタイミング(74〜77)
ポイント(5):練習記号F、特に木管とホルンのバランス(99〜106)
ポイント(6):練習記号I、最初に引用した木管と続く弦の旋律(132〜178)

なお、特記しませんが、打楽器の音質が「響き」をいかに劇的に変えるか、にもご傾注頂きたいと思います。ティンパニの音程と(おそらく)鼓面の質、大太鼓の張り、トライアングル、シンバル・・・どれもが重要であることをこれほど雄弁に教えてくれる作品は、なかなかないと思います。

また、2番目の演奏を除き、私には冒頭のホルン1、3番の音程が高すぎて聞こえるのですが、これは私の耳の癖かもしれません。かつ、金管系の楽器は、フォルテ、フォルテシモになると、並の奏者はむしろ音程が下がるので(たとえばワーグナー「リエンチ」序曲冒頭のトランペットでそれを自覚的に経験し、苦労した方にはよくお分かりになるはずです)、音程が高いことは、これらの演奏の奏者たちは、むしろ技量は高いということを物語っています。

では、特徴を列挙していきます。


(1):冒頭から、楽器毎の音色が孤立せず溶け合うよう制御している
(2):金管の音程を(一瞬ふらつくが)引き継ぎ、やはり楽器別の音色を分離させない
(3):オーボエは音が立ちやすいにもかかわらず、(2)同様の配慮を怠っていない
(4):チューバは最初だけであとはトリルに変じる箇所だが、それを含め、竪の線が
  しっかりそろっている
(5):譜面上、木管はスラー付き、ホルンはスラー無しだが、
  ホルンのスラー無しを尊重することで、全体が揃って聞こえるよう配慮している
(6):(2)同様の配慮をしている。
・・・すなわち、全般に、各楽器固有の音色が極力分離して聞こえないよう心がけていると同時に、
   木管、金管、(打楽器、)弦各セクションで音程、和声の聞こえかたが変化しないよう
   かなり強力に統制しています。
   (好みでいえば、テンポに不満な箇所がないわけではありませんが・・・)


(1):冒頭の和音各音の間隔を幅広めにとり、先の演奏より荘重感が出ている
(2):先の演奏よりも確実に、金管の音程を引き継いでいるが、和声がバラけ、音楽が崩れる
(3):2番オーボエが低すぎることが発端で、やはり音楽が集約されない
(4):テンポ設定が急激に変わっているのに、金管のリズムがついていけず、不揃い
(5):木管はスラーを、ホルンはスラー無しを守ろうとし過ぎ、乱れて聞こえる結果を招いた
(6):オーボエの主旋律だけを尊重したのか、和声にふくよかさがない
・・・解釈としては最も面白いし、読みが深いのですけれど、「響き」の点では完全に失敗です。


(1):ディナミークの問題が絡むが、スコア指示をワンランク落とす演出で成功している
(2):・・・が、ここで木管全体が低い音程になり、接続が非常に悪い
(3):これも2番オーボエが低い気がするが・・・かつ、(2)より集中力が落ちている
  もっと困るのは、(2)で低くなった音程を金管と弦がかばって低く受け継いでくれているのに、
  ここへ来るとまたもっと音程が下がってしまう
(4):線はそろっているが・・・揃えることに気を取られすぎて硬くなっていないか?
(5):木管のスラーを基本的に外すことで、全体がそろって聞こえるようにしている。
  これに関しては、むしろ「基準演奏」より木管の存在価値が発揮されている
(6):・・・ねえ、だから、どうして音程が下がって、しかも各楽器バラバラな音色なの?


(1):最初の演奏にいちばん近い。が、全体に必ず、和音構成音としては音程が高すぎるパートが
  入れ替わり立ち代わり存在する
(2):木管の音程が、やはり下がる
(3):金管、弦が「下げて」維持してくれた音程を、今度は何とか死守している(ここが「妥協」)
(4):基準演奏と同様の冷静さがある
(5):基準演奏と同方針だが、テンポは基準演奏よりゆったりとっているので、豊かになっている
(6):残念! また音程が下がる。ただし、木管同士での「バラけ」は無いよう、健闘している

いかがでしょうか? 「ここは違うのでは」という点は、是非ご指摘下さい。私の勉強のためにも。
(打ち明けますと、いちばんけなしたように見える2番目の演奏が、実は、私はいちばん好きなんです。面白いから。)

こんなに長々お付き合いさせて・・・まいど、悪いヤツですね! スミマセンでした。
「どう聞こえる演奏にしたいか」のヒントにして頂ければ、ありがたいのですけれど。。。

最後に、それぞれの演奏の素性を明記しておきます。

・一応基準の演奏〜カラヤン/ベルリンフィル(1967)DEUTSHE GRAMMOPHON UCCG-5021
・気合い勝ち過ぎ?演奏〜バルビローリ/ハレ管(1966)EMI TOCE-59034
・部課対立型演奏〜ベルグルンド/ヘルシンキフィル(1972) EMI 7243 5 74491 2 0
・妥協型演奏〜ザンデルリンク/ベルリン響(1972)BERLIN Classics 0185712BC

※演奏の「記憶」に基づいて記したため、一部「入れ違い」で覚えてしまっている危険性があります。あとで検証して修正する場合がありますので、ご容赦下さい。

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2007年10月19日 (金)

ドヴォルジャーク「交響曲第8番」第3楽章

「人生は短く、術は長し」
(セネカ『人生の短さについて』に引用された、ヒポクラテスの言葉)

ドヴォルジャーク:交響曲第8番につき、

全体像
・第1楽章:構成について練習上の留意点について
・第2楽章:構成について練習上の留意点について
記して参りました。
また、アーノンクールの述べている、作品理解のうえでの示唆も引用しました。
(リンク先をご覧下さい。)

今回は、第3楽章について、構成・留意点ともに述べます。
(使用スコアは、音楽之友社OGT238です。)

構造は他の楽章に比べ、異論の余地が全くない明解なものですね。

第1部(緩やかな3拍子のスラヴ舞曲)・第2部(そのトリオ)・第1部・コーダ

特記すべきなにものもありません。

練習にあたっては、美しくセンチメンタルなメロディを持つだけに、メロディ担当者だけが「気が入ってしまい」、伴奏はメロディとどうリンクすべきかを「考えない」ミス(同様の雰囲気の楽章ではよくあることで、プロでもこの過ちは・・・メロディアスなものは軽く考えられがちなのでしょうか・・・かなりの頻度でおかしているのではないかと思います)をしてしまいやすいので、注意しましょう。
ドヴォルジャークが用意した、音色とリズムの巧みな配置こそが、この楽章の「いのち」です。
まずは、この点をご銘記下さいますようお願い致します。

なお、小節番号は使用スコアでは「通し」で付けられていますので、それに従います(パート譜を参照していません。ごめんなさい。)

01*(アウフタクトを除き)ヴィオラは2小節伸ばしの後はスラーが付いていなくても、音の変わり目は常にレガートです。
29小節からのホルンに、全く同じことがいえますので、あらかじめ申し上げておきます。
ドヴォルジャークがここにスラーを書かなかったのは意地悪からではないことは、試しに書き込んでみればどれだけ楽譜が見づらくなるかを試してご覧になれば分かります。legatoという言葉を敢て使わなかった理由は、主旋律と他の伴奏音型の兼ね合いから、オーケストラ団員なら常識的に判断できることですから、わざわざ書く必要がなかったまでのことです。・・・ということは、「legatoと書いてないからごつくても構わん」と考えるヤツは大バカもんだ、と自分から表明しているに等しい、ということでもあります。大バカもんで結構なら、そうなさってみても構いませんけど。(ボクは、やろう!)

02*第1部の主題のフレージングをきちんと読んでおきましょう。基本構造が、最初は[{(2+2)+(2+2)}+{(2+2)+4}]、次が[({(2+2)+(2+2)}+{(2+2)+(1+4)}]で、しかも、2回目は各2+2の最後が次の2+2と切れ目が入らないようにしたい、という作曲者の意向でスラーで繋がっています。ただし、このスラー効果が必要なのは主旋律のみであって、伴奏各音型は、基本のフレージングを崩さないようにしなければなりません。主旋律のスラー効果に「合わせよう」としてしまうと、逆にスラーの意味する「この程度の接着力が欲しい」という狙いを妨げることになります。練習上は、()単位、{}単位、[]単位の順で、小さい単位から音楽作りが上手くいくかどうか思考し、上手くいったらより大きなまとまりへと進め、最後に大きなまとまりで「歌える」ようにすると、この主題の意図が理解できるでしょう。ただし、こうした「まとまり」の掴み方は個人練習(頭の中だけででも出来ます)でやっておき、全体で合奏する場合は「大きなまとまり」で練習すべきでしょう。

03*同部分、コントラバスは音符こそ16分音符ですが、ファゴットと同じラインを「歌っている」ことには充分留意して下さい。

04*「A」からの木管(トランペットを含む。すなわち、ここのトランペットは木管楽器の音色でなければならない)と1stVn.、ファゴット、コントラバスの交代は、たとえにしてしまうと先に出る木管群が女性の踊り手、エコーで答える残りの群が男性の踊り手なのだ、と意識して、踊りの流れが途絶えないようにはお互いにどう手を取り合えばよいのかをしっかり考えて下さい。また、フォルツァートの効果は長め、短めの両方、および鋭め、柔らかめの2X2通りを想定して置いて下さい。どれになるかは指揮者の解釈次第です。

05*ティンパニ、2ndVn、ヴィオラのトレモロは、フォルツァートのタイミングが「04」で述べたことを想定するとともに、それらのパートとタイミングがずれないよう、充分に気をつけて下さい。弦楽器は1拍に4音符入るだけですから、慌てないで、きちんと拍を数えて下さい。練習する際には粒が揃っていた方が望ましいと思います。「いや、そこはむしろ輪郭がボケるようにバラバラにして!」という要求があれば、それに従えばいいのですけれど、チャンと指示に従える、ということは、前提として「臨機応変にできる基本形が出来ている」ことが重要なのを忘れないで下さい。

06*39小節からの弦楽器は、たとえば「アルルの女」組曲第1番のメヌエット(第2曲)の1stVnを思い出して下さい。あれのスラーをハズしたものであって、要求している「軽やかさ」は同じです。あるいは、女性の踊り手が、次はどの男の踊り手を相手にするかを、ヒソヒソ話で決めあっている・・・

07*「B」は、ディナミークはpですが、「色っぽい音」でなければなりませんから、ディナミークよりも音の豊かさに気を配って下さい。ヒステリックに、ではなく、見物人にため息をつかせる美しい飛翔を見せる箇所です。チェロとセカンドのやり取りは、ブラームスの第2交響曲や第4交響曲にある、ひとつながりの音の流れを別の楽器に分割した書法ですので、「仲良くして」下さいね。

08*53小節は、あくまでメゾフォルテです。1stヴァイオリンは最高音のfなので、とくにこの点、気をつけて下さい。ポジションは決して高いわけではありません(ほかの弦でならともかく、1番線での第7ポジションは決してとりにくいものではありません)。d音を1でとればfは3でとれます。それだけでふくよかな音になります。

09*85、86小節のチェロとコントラバスによる第1部の最後は、最後の一音まで大事に弾いて下さい。初めは「ディミヌエンド」がないものとして、音程がしっかりとれていることを確認し、確実になって初めてディミヌエンドを導入するのが望ましいのですが・・・

10*第2部が始まります。敢て記しませんので、フレージングを02と同様に分析し、お互いに話し合って、「合意」に達して置いて下さい。ただし、一つだけご注意申し上げれば、大きな固まりとしては104小節までは切れ目がありません。(あったとしても1ヶ所ですが、第1部に比べたら開きはずっと小さくなければなりません・・・というのは私の「解釈」になってしまうかな?)
チェロの16分音符は、ppでもffでも変わらず弾けるよう練習しておくことが望ましいと思います。

11*105から118までのティンパニとトランペットは、ディナミークの変化にかかわらず、常に広々としていなければなりません。叩き方、吹き方が安定し、かつ窮屈にならないにはどうするかをよくよくお考え下さい。とくに最後のppをどう「美しく」残すか、がポイントですから、そこへどう向かっていくかを、しっかり設計なさって下さい。

12*151小節からの16分音符は、最終的な解釈に関わらず、「テヌート」・「スタカート」・「其の中間」いずれでもアンサンブルが揃うような、メカニックな練習をする時間があるのでしたら、是非それをある程度は徹底してなさってみて下さい。

13*「CODA」はディナミークがpであるなかでアクセントをどう揃えたらいいのか、オーボエとファゴットでよく擦り合わせをして下さい。セカンドヴァイオリンは、1拍4音符です。正しく。右肩に力が入らないように。

14*190小節からのオーボエのスラーは、他のパートのための「残響効果」ですから、ベタ吹きになって響きを台無しにしないよう留意して下さい。8分音符のパートはアインザッツと音の長さとを揃えなければなりません。

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2007年10月16日 (火)

ドヴォルジャーク「交響曲第8番」第2楽章(2)

記事本文の前に・・・
上岡敏之/ヴッパータール交響楽団、大変によい演奏会でした。お読み頂ければ幸いです。



ドヴォルジャーク:交響曲第8番

全体像
・第1楽章:構成について練習上の留意点について
・第2楽章の構成について
記して参りました。
また、アーノンクールの述べている、作品理解のうえでの示唆も引用しました。
(リンク先をご覧下さい。)

今回は、第2楽章の練習で留意すべき点ついて述べます。
(使用スコアは、音楽之友社OGT238です。)

01*6小節目の内声部(2nd,Vla)、とくにセカンドヴァイオリンの音程が重要です。これは、ネックの上に垂直に指が立つほどに左肘を体の中心まで引いて、楽器に体重を良く乗せて下さい。練習の初期に試してみて頂いた通りです。もう少し詳しく言えば、セカンドの音は一瞬だけ調が変ホから変ニ長調に転調(正しくは変ロ短調なのですが)したとき、その(長調ベースでの)主音に当たる音であるため、核を作るのです。なお、同じ変ニ音はヴィオラ、チェロ、コントラバスによっても強調されています。ところが、ここでセカンドヴァイオリンがしばしば音程が崩れるため、台無しになるケースを、何度も耳にした経験があります。是非ご留意下さい。(ある意味で楽章全体の出来を決めます。)

02*10小節目のホルンの入りは、本来、ボケるとまずいのです。が、音域が音域ですので、ティンパニがくっきり入ってやって下さい。ホルンはティンパニの入りに上手く助けてもらい、音が震えず直線になるように留意して下さい。・・・ただし、ディナミークはppです。ティンパニはpppですが、叩き始めをホルンより強めに、けれどアクセントには聞こえないように、ご工夫下さい。難所です。

03*「A」からは、クラリネットとファゴットは音色を統一して下さい。膨らましのタイミングもぴったり揃えるべきでしょう。また、18小節からは音色を徐々に明るく変化させていくことになりますので、留意して下さい。

04*21小節最後のホルンの16分音符にはスタカートが付いていますが、弦はテヌートです。従って、ホルンのスタカートは「pesante」の効果を狙ったものです。先生の解釈にもよりますが、練習では「押す感じ」の発音を心がけておくべきでしょう。ブルックナーをイメージすると分かりやすいかと思います。

05*「B」の木管は、28小節までの薄暗いクラリネットに対して不安を表明したヴァイオリンに対し、「カツ」を入れる役割を担う経過句です。スタカートのイメージは(こちらは弦楽器を伴っていませんが)04のホルンのニュアンスを記憶しておき、それを更に厳しく明瞭に吹くべきでしょう。

06*37小節からは、「カツ」によって目を開かれた弦に対して「どうだい? 新鮮な静けさが、ここにあるだろう」(こう綴ってしまうと解釈になってしまうので、本当はいけないのですが)と、彼らの目を優しく広げてやる場面となります。これなくして「C」の軽妙さは導き出せませんから、表情を上手く切り替えることは大変重要です。かつ、フルートとオーボエで一つの楽器であり、クラリネットはそれに調和した音色でなければなりません。ですから、可能な限り広いアンブシュアをとる必要があります。

07*「C」からは、ヴィオラとチェロのピチカートは、音程がボケないよう強めにはじいて良いと思います。タイミングはコントラバスと良くアンサンブルして下さい。2つのヴァイオリンもアインザッツ(音の入り)と各音のタイミングを、あたかも一人で引いているように揃えることが望ましい箇所です。弾き方は最終的には先生の指示に従って下さい。練習では、粒が揃えにくければ、まずは「跳弓」で、揃うようにして置いて下さい。先生は最後は「跳ばさないスタカートで」と仰るかもしれません。

08*「D」の管楽器は、07でのヴァイオリンがヘタクソだったら、そのまんまのニュアンスでやって下さい。・・・ソロが下手でも構わなくなるので、非常に助かります! まんざら冗談でもないのですが・・・本来は、「時計のように」機械的であることが望ましいはずです。先生は「拍子のアクセントを意識して」と仰るかもしれませんし、そう仕上げなければなりませんが、仕上げに至るためには、どの音も同じ音量と長さで吹けるようにしておくことが大切です。セカンドクラリネットは付点四分音符のあとにブレスをとってしまって、16部休符の仲間入りをしてごまかしてしまうのが無難かな? 先生にバレたら、また別の道を考えて下さい。

09*同じく「D」のセカンドヴァイオリンは、楽譜通りに数を弾けることが原則です。ご無理な方は、拍の変わり目を(八分音符単位で)きちんと変わって下さい。ずれないように気をつけて。ヴィオラのピチカートはアルペジオになっていますが、一本指で一気に弾けば、ソロにとてテャありがたいスピード感になります。(先生が「ダメ」と仰ったら諦めますが。)

10*65小節から「群舞」になりますが、「C」以降の要素のディナミークがフォルテになるだけですから、ニュアンスが変わらないように注意して下さい。その上で、「表情を変えるんだ!」という支持があれば、奏法は変えず、表情だけ変える「お芝居」をするのです。忘れないで。

11*69小節からのティンパニ、3連符が正しく3連符になっていること。従って、休符を正確にカウントして下さい。

12*「E」のホルンとトランペットは、絶対に力まないで下さいね! 朗々と。とくにトランペットは2オクターヴ吹かなくてはなりませんから、音が上昇するに従って輝かしくなっていく、ということは上野音程ほどアパチュアが狭まらないよう留意しておく心の準備が必要だ、ということです。なお、ホルンがⅠオクターヴ吹いた続きを75小節目で引き継ぐのがオーボエです。ですので、オーボエの音色は(無理難題に思われるか知れませんが)ホルンの音色でなければなりません。これは古典派(モーツァルトかハイドンでいいでしょう)のシンフォニーの事例でよくご研究頂くことをお勧めします。

13*78小節、80小節のトランペットのファンファーレは、フィナーレとの結びつきも強いもので、単なる効果以上に重要な意味を持っています。「大切に」吹くにはどうしたらいいか・・・ご熟考をお願い致します。

14*「F」4小節目(84小節)のセカンドヴァイオリンとチェロの音程は、とりわけ重要です。セカンドは半音下降は指を滑らせたりズラしたりしてとってはいけません。1音1音、別の指でとって下さい。85小節後半のチェロのトリルは、(低い音ですが、それでも)鳥のさえずりのサイクルが必要です。

15*86小節からのティンパニ、休符を正しくカウントして下さい。息を正しいリズムに保って叩くことが重要です。

16*105小節のフルート、オーボエは、4本で一つの楽器です。(これ以上言葉はいりませんね?)

17*「H」のティンパニは八分音符である点に、充分気を配って下さい。それより長くても短くてもいけません。

18*「N」の木管とホルンの32分音符は、アインザッツをきちんと揃え、長さも合わせて下さい。トランペットにffが書いてありますが、ワンランクディナミークを落とした方がいいと思います。ffで本当に欲しいのは163小節の2つ目の八分音符からですが、それは他の管楽器と調和した大きさでなければならず、それを量るためにも、「N」の最初の2つの四分音符は、まだディナミークは控えめにしておいて、指揮者の意向を伺うのがベターでしょう。ただし、輪郭はボケてはいけません。

19*164小節後半からはトランペット次第です。pppまで効果的にディミヌエンド出来るためには、ここから少なくとも167小節まではアンブシュアに変化があってはいけません。168小節目は、ティンパニはトランペットの邪魔をしないように、むしろ手助けするように、正確に叩いて下さい。トランペットはテヌートのニュアンスは最低3種類くらいは工夫できると思いますので、パートで試して置いて下さい。

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2007年10月13日 (土)

ドヴォルジャーク「交響曲第8番」第2楽章(1)

本日の記事をお読みになる前に、是非、
「うらやましいなあ、行ける人。(上岡/ヴッパータール)」
にお目通し下さい!
イチオシ! 絶対お勧めのライヴです!
14日当日でも、間に合います!
かつてクララ・シューマンとも共演したという、伝統ある名門オケです!


ドヴォルジャーク:交響曲第8番

全体像
・第1楽章:構成について練習上の留意点について

記して参りました。
また、アーノンクールの述べている、作品理解のうえでの示唆も引用しました。
(リンク先をご覧下さい。)

今回は、第2楽章の構成について述べます。
練習で留意すべき点は別の回と致します。
(使用スコアは、音楽之友社OGT238です。)

この楽章については、解説では「交響詩的な創作手法」がとられていると述べています。
では、交響詩的手法とはなんでしょうか?
ドボルジャークは、本当に、「交響詩的な創作手法」なるものを使っているのでしょうか?

一般に、交響詩は、核となる人物または理念を定型的に動機化し、それを既存の音楽の構成の枠に当てはめず、作曲者が独自に組み上げた「ストーリー」の中で発展的に取り扱っていくものです。
ただし、「ストーリー」には「ストーリー」の定型、とでも呼ぶべきものがあり、結果的には、あまり大規模ではない交響詩は、完全な自由形式であるよりは、既存の二部形式、三部形式、ソナタ形式のようにまとまってしまう場合も皆無ではありません。

リヒャルト・シュトラウスの小規模な方の作例で言うと、「ドン・ファン」はロンド・ソナタ形式に近いものがあります。ただし、それにしては、完全な「再現部」というものは存在しません。また、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」は、短いが故に、序奏部-呈示部-展開1-展開2----という具合に接続していくことが分かりやすい。でも、既存の音楽形式には当てはめられません。最終部は、序奏部を回想する短い節ではありますが、決して「再現部」ではありません。

これと比較した場合、ドヴォルジャーク第8の第2楽章は、果たして、そこまで自由な形式をとっているでしょうか?

結論を申し上げれば、「ノー」です。

大枠で捉えれば・・・既存の形式とは呼べるものではありませんが、「ソナタ形式に類似した四部形式」とでも言うべきものです。
但し、最終部は「第2部」をほぼ忠実に再現したものにコーダを付けて成り立っており(「再現部」に相当する)、第3部は「展開部」であって第1部の再現部ではないのが特徴です。
この点に留意しておかないと、曲の統一感を見失うことになります。「解説」は、そうした見失いをしているのではないかなあ、と感じております。

・「第1部」は、さらに3つの部分から成っています。
 (1)1〜10小節:宗教的とも言える序奏部で、和声が重要です。
    (練習上の留意点で述べます。)
 (2)11〜31小節:膝をついて祈る人に、木の上から鳥が「外を見てごらん!」と。
    フルート・オーボエのペアの呼びかけにに対し、
    クラリネットが徐々に視線を向け、見上げていく状況がポイントです。
 (3)32〜45小節:見上げた外は、予想に反し、ただ底抜けに明るいものではない。
    それが、のどかだった動機が激しい表情に転じることで示されます。
    人は、自分の内面だけではない、外界もまた「敬虔であるべき」ことを悟ります。

以下、そんな風なストーリーを、ご自身なりに持ってみて下さい。ここまで記したことで充分にイメージできるはずですし、それをご自身の中に組み立てておくことが、聴くだけの場合でも、第2楽章の理解に役立つものと思います。

・「第2部」は5つの部分を持っています。
 (1)46〜56小節:時が踊っているような印象の部分
 (2)57〜64小節:ヴァイオリンソロがゆったりと踊る(ワシには踊れん!)
 (3)65〜80小節:群舞
 (4)81〜88小節:舞いの興奮から、再び静謐へと、人びとは黙想する
 (5)89〜100小節:敬虔な祈りの反復

・「第3部」は「展開部」にも相当します。まとまりとしては、101〜132小節のひとかたまりしか持ちませんので、当時の大きな交響曲から見れば、展開部とは見えづらい。ですが、新しい要素(動機)を用いるのではなく、第1主題の動機を主体としています。その点、第1楽章の「展開部」と「再現部」の関係を、「第4部」との間に持っており、ドヴォルジャークの作曲姿勢に一貫性があることも確認出来ます。

・「第4部」は
 (1)第2部(第2主題)の(短めの)再現
 (2)複構造の長いコーダ
 からなりたっています。
 (1)は、133〜148小節を再現部とし、
    149〜155小節を、その延長としての小結尾(コデッタ)としています。
 (2)155小節から170小節までが、正式なコーダです。

以上、スコア無しではお分かりになりにくいかもしれません。補筆時間が取りたいところですが、とりあえずご容赦下さい。

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