2008年6月24日 (火)

訃報拾い出し:千葉馨氏(元NHK交響楽団首席ホルン奏者、国立音楽大学名誉教授)

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昨日昼間の時点で、webの新聞サイトでは読売新聞の記事しかありませんでしたが、ぼちぼち見当たりましたので、拾ってみました。(なお、地方紙webは参照していませんが、続々と掲載はしているようです。垣間見た限り、内容は全国紙と殆ど変わりません。)
日経新聞web(記載期日不明):ホルン奏者の千葉馨氏が死去

 千葉 馨氏(ちば・かおる=ホルン奏者)21日、遷延性無呼吸のため死去、80歳。自宅は東京都新宿区中落合1の11の3。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻、玲子さん。

 NHK交響楽団で長年、首席奏者を務めた。国立音楽大名誉教授。



おくやみ(2008年6月23日22時04分 読売新聞)
千葉馨氏=ホルン奏者

 千葉馨氏(ちば・かおる=ホルン奏者)21日、遷延(せんえん)性無呼吸で死去。80歳。告別式は22日に近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。自宅は東京都新宿区中落合1の11の3。喪主は妻、玲子さん。

 日本のホルン演奏の草分け的存在で、長年NHK交響楽団で首席ホルン奏者を務めた。1983年に退団後は、国立音楽大教授として後進の指導に当たった。



訃報:千葉馨さん 80歳 死去=ホルン奏者、国立音楽大学名誉教授
(毎日新聞 2008年6月24日 東京朝刊)
 千葉馨さん 80歳(ちば・かおる=ホルン奏者、国立音楽大学名誉教授)21日、遷延性無呼吸のため死去。葬儀は近親者だけで済ませた。自宅は東京都新宿区中落合1の11の3。喪主は妻玲子(れいこ)さん。後日お別れの会を開く予定。

 長年、NHK交響楽団のホルン首席奏者として活躍した。



元NHK交響楽団首席ホルン奏者、千葉馨さん死去
(2008年6月24日7時52分 朝日新聞)

 千葉 馨さん(ちば・かおる=元NHK交響楽団首席ホルン奏者、国立音大名誉教授)が21日、遷延(せんえん)性無呼吸で死去、80歳。葬儀は近親者で営んだ。お別れの会を後日開く予定。喪主は妻玲子さん。自宅は東京都新宿区中落合1の11の3。

 東京音楽学校(現東京芸大)在学中からN響に在籍。カラヤンに認められてドイツやイギリスに留学、国際的に活躍した。テレビ番組「オーケストラがやって来た」で解説をするなど「N響の顔」としても親しまれた。



・・・音楽家の死は、哀しきかな。日本の新聞での取扱いは、いつもこの程度です。武満徹氏のときでさえそうでした。今年亡くなった素晴らしいベテランには、江藤俊哉さんもいらしたし、鈴木清三さんもいらっしゃいました。やっぱり似たようなものでした。事情はクラシックだろうがそうでなかろうが、あまり変わらない気がします。・・・大々的に報じられたのは「美空ひばり」さんくらいだったんじゃないでしょうか。

各紙webとも判で押したように、「長年NHK交響楽団で首席ホルン奏者を務めた」だけが出て来て、生前の千葉さんの人間性を表しているのは、かろうじて朝日の
「カラヤンに認められてドイツやイギリスに留学、国際的に活躍した。テレビ番組『オーケストラがやって来た』で解説をするなど「N響の顔」としても親しまれた。 」
という記述くらいです。

千葉さんの人間性について豊かに綴っている文章はJIROさんのブログとそのリンク、あるいはそれらへコメントを寄せていらっしゃる方々の言葉のほうに見受けます。リンクを貼っておきますので、ご一読下さい。

「美しい」音:かつて、毎コンの講評でホルンの千葉馨(かおる)氏が仰っていたこと。

日本のホルン演奏の草分け、千葉馨氏が死去(6月23日15時2分配信 読売新聞)

明石南高等学校放送部・千葉馨インタビュー


昭和40ー50年代に地方で少しでも幅広くクラシックに接する機会がほしい、となると、NHK交響楽団のテレビ放送・ラジオ放送以外に手立てはありませんでした。 で、テレビでホルンが大映しになるときに、その画面を占有するのは、九割九分、千葉さんの顔でした。 「こわそうなおじさんだなー」 と震えながら見ていたものでした(!) でも、そういう人ではなかったことは、上にリンクを貼った文章でお分かりいただけます。

映像では、N響での演奏姿をこちらでご覧頂けます。

アンセルメが80歳で来日したときの、1964年のもの。
3分7秒のところで終曲の最初を吹く千葉さんが映し出されます。
(このときのN響の響きの素晴らしさにもご傾聴下さい。)

千葉さんの音を、電波を通して聴きながら、私はオーケストラへの、とくにホルンへの憧れを強くしていきました。語彙の持ち合わせが少ないので
「その重厚さに体全体が包み込まれ、圧倒される気にさせられたから」
としか、いま言葉が浮かびません。
が、千葉さんが吹く雄渾なシューベルトの「グレート」冒頭、ブラームスの第1のフィナーレ、一転して軽やかなベートーヴェン「田園」のスケルツォ、柔らかくて優しさに満ち、厳粛だった「第九」3楽章のソロ、寂寥感を湛えながらもさりげなく奏でられたチャイコフスキー「第5」2楽章のソロ・・・みんなみんな、耳の奥にしっかりと刻み込まれています。

そんな千葉さんのおかげで、私は最初はホルン志望になったのでした。転校、そして行った先の学校にブラスバンドがなかったおかげで、1年で諦めざるを得ませんでしたが、中学1年の分際でベートーヴェンのホルンソナタを吹いてみたりしていました。第1楽章の前半部くらいなら、いまでもホルンパートを暗譜しています。文化祭ではベートーヴェン「第8」第3楽章のトリオを、いやがる友人を無理やり口説いて、舞台で二重奏したりしました。
・・・直接のご縁は全く持つことはありませんでしたし、現在では私はもうアパチュアもまっとうにつくりあげられませんので、ホルン自体吹けなくなってしまいましたが、千葉さんはずっと私のアイドルでした。

ついでながら、「馨」という字は、私の亡妻の名前の一字でもあり、今では法名の一字でもあります。・・・が、これは単なる偶然です。
ただ、この字は大変いい字で(って、前にも綴ったことがあったかもしれません)、本来は「磬」という、中国の石製の楽器をあらわす文字から派生したものです。「磬」は石でありながら鐘の一種だと思っていただいた方がいいもので、しかも金属の鐘に比べると柔らかくて暖かい音がします。この楽器の音は、遠くまで澄み切って響きます。この文字の下の部分が「石」から「香」に変わっていることで、意味が
「よいかおりが世界にあまねくひろがる」
と、一層豊かなものになります。

この字にふさわしい音楽をなさった方でした。
天国でも、素晴らしい音楽をお続けになって下さることと思います。



娘の用事で昼に走って出かけたCDショップで、例によって追悼コーナーがないか、と探しましたが、これについても江藤さんや鈴木さんと同じ結果でした。

いい音楽家は、本来は名前なんかいらなくて、生きているあいだに周りの人の心を優しく包み込もうと一生懸命に努めて、最後はそーっと、舞台から姿を消すものなのかも知れません。



ついで話にしてはずれ過ぎですが、やはり訃報で、舞台での「セーラームーン」を演じた女優の神戸 みゆきさんも、6月21日、24歳と言うお若さでなくなった由。
姪が大ファンだったので・・・でも、まだ小学校低学年。ピンと来るかなあ。

コレクション・オブ・ホルン・パフォーマンスMusicコレクション・オブ・ホルン・パフォーマンス


アーティスト:千葉馨

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2008年3月30日 (日)

忘れ得ぬ音楽家:7)ズデニェク・コシュラー

TMFのかた向けに今日の練習記録をとらなければならないところですが、それは簡単にとどめます。



1)ミヨー「フランス組曲」
これは、「フランス人の歩きかたは六拍子だよね」という比喩を忘れないこと、フランス語の発音をお聴きになれば音楽作りのヒントになるだろうこと、のみ申し上げれば充分かと思います。

・・・ を聴いてみて下さい!

参考になります?
ちなみに、この会話の内容はは次のうち、どれが正解でしょう?
a.さまざまな言葉が話されている国や地域
b.子供が行ってみたい国
c.世界の国と首都
(白水社「コレクションフランス語6 聞く」)
・・・じつは、私、フランス語はそんなに知りません! でも、この問題の答なら、多分誰でも分かります!

いや、答えが分かることがことが大事なんじゃなくて、フランス語のリズム感を感じてもらえればいいだけなんですが。中身が分かると、リズムも掴みやすいでしょ?



2)「悲愴」第3楽章
第3楽章の説明記事の最初の方をご参照下さい。結局はこのことに尽きるのだな、と、先生の指摘を受けとめましたが、如何でしたでしょうか?
この前の練習記録も(3月1日分なのでずいぶんあいてしまいましたが)第3楽章に関するものです。結局のところ先生の指摘と大差なかった(足りない点はありますが)ので、そちらをご参照の上、演奏例も是非もう一度聴き比べてみて下さい。


練習の合間に、先生と話していて、
「こないだY君(私の大学の先輩)に会ったよ」
と仰っていたので、Yさんの話でちょっとだけ盛り上がりました。
帰り道で、私たちの大学オーケストラを一度指揮しに来て下さったズデニェク・コシュラーさんのことを思い出していました。なぜなら、話題になったYさん、クラウディオ・アバドに似た人で、コシュラーさんはそのアバドと一緒に勉強していた時期があり(リンクしたWikipedia記事にも載っています)、お酒の席でYさんを指差しては「アッバード、アッバード!」と愉快そうに連呼していた記憶が甦ったからです。

詳しい経歴を存じ上げないのですが、同じお酒の席で、失礼も省みず、
「コシュラーさんはなんで背中が曲がってるんですか?」
という質問をしました。
「ナチスの収容所にいたことがあってね、それでなんだ」
と、おっしゃいました。
ユダヤ人でないはずの彼が、なぜナチスの収容所に入ったのか、は、未だに突き止めておりません。ご存知のかたがいらしたら、教えて頂きたいとも思っております。
かすかなのですが、ご兄弟で犠牲者になったかたもいらした、と伺ったように記憶しております。

たびたび来日し、親しみやすい人柄で結構好かれた人でしたのに、いま、日本で彼のことをどれだけ覚えているか、は、はなはだ心もとない状況です。
なぜなら、彼はカリスマ性を備えた人ではありませんでした。
要求する音楽は、地味なほど堅実で、チェコの大御所だったターリヒやアンチェルのような「演出」はしませんでした。その分、外国人が期待する<チェコらしさ>をチェコ音楽で表明してもいません(ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」と「タラス・ブーリバ」のCDは今でも入手しやすいもののひとつですが、他の演奏をお聴きになったあとでは、そのあまりの地味さに、<え?>と首をかしげてしまわれるのではないかと思います)。
そんな彼が、しかし、やはりそんなに極端な演出をしてきたとは思えないノイマンに比べて知名度が落ちるのは、「運」としかいいようがありません。ノイマンはスメタナ弦楽四重奏団の前身となった四重奏団の創立メンバーだったりして、チェコの音楽界では早くから「名士」でした。かつ、ノイマンの方が5つ年上でもありました。ノイマンはラファエル・クーベリックが急病のとき、そのの代役でチェコフィルの指揮台に立つ、という幸運にも恵まれ、クーベリックがチェコの共産国家化に反発して亡命した後釜にすわることに成功しています。・・・同じ頃、コシュラーさんはまだ歌劇場の方の練習指揮者で、音楽院で勉強中でもありました。
前途を、塞がれていたに等しいともいえます。

彼のバランス感覚は、しかも、先輩連中に比べると「観光チェコ」的な起伏を求めない、中庸のものでした。
ですから、チェコ以外の音楽でも、中庸を保ったいい演奏を残しています。
中庸ゆえに退屈、と感じる人には向かない演奏だった、ということも、併せていえることにはなります。

私たちの大学オーケストラは、彼に指揮を依頼するとき、
「是非ドヴォルジャークを!」
とお願いしたのですが、コシュラーさんは、
「いや、是非、ショーソンの交響曲をやりたいんだ!」
と譲りませんでした。もう一曲、彼が指揮したがったのが、モーツァルトの交響曲第40番でしたが、これについては(ト短調の激しさがどちらかというと女性的な印象を与える風潮があったからでしょう)
「これは、オトコのシンフォニーね!」
と何度も繰り返して言っていました。実際、私たちの期待した繊細な演奏を、ではなく、骨太の演奏を要求し続けました。・・・今思うと、適切だったと感じます。
なんとか妥協して取り上げてくれたのが、ドヴォルジャークの「謝肉祭」でした。スマートに仕上げさせられました。

ただし、私たちの大学で指揮するとき、来日していたスロバキア・フィルの演奏会も併せて指揮していて、そこで演奏されたドヴォルジャークの交響曲第6番は(私はこの曲をそのとき初めて聴きました)、心に残る名演でした。ブラームスの2番の影響を受けながら独自の世界を開いた作品なのですが、後にアマチュアで試奏したら、どうしても間が抜ける。理解して演奏しないと、ブラームスと違って冗長にしか思えない曲になってしまうのです。そんな作品が、コシュラーさんの棒の下では、きりりと緊張感を保っていました。

そのうちコシュラーさんの名前も聴かなくなり、来日情報もなく、どうしたのか、と思っていました。
池袋を友達と徘徊しているとき、たまたま、演奏会を終えて飲みに行こうとしているチェコフィルのメンバーに会い、ウィ−ン留学経験があってドイツ語の堪能な友人を介して
「コシュラーさん、どうしてます?」
と訊いてもらったら、
「オオ・・・彼、シニマシタ」

絶句しました。帰宅してから、涙が止まりませんでした。

1995年、ノイマンと同じ年に亡くなっていたのですね。67歳では、指揮者としては早すぎる死です。
もう少し長生きしたら、その名前も、ここまで忘れられることはなかったのではなかろうか、と、非常に惜しく思っております。

CDではモーツァルトのレクイエムが500円で出ているのが、最も手軽に手に入りますが、ケースの背面を見ないと、彼の指揮したものだとは分かりません。500円CDシリーズの中にあるのが勿体ない、よい演奏です。
指揮姿が見たくて、同じ曲がNAXOSでDVDで出ているのを知って入手したのですが、これは演奏者ではなく、風景を録画したもので・・・彼との再開は果たせませんでした。

私も家内のそばに行くのを許される時が来たら、あちらで探し出して、
「学生時代、お世話になりました! あなたは私を覚えていらしてなくても、私はあなたがとても好きです」
そうお話ししたいと思っております。

ヤナーチェク:シンフォニエッタMusicヤナーチェク:シンフォニエッタ


アーティスト:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 コシュラー(ズデニェク)

販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント

発売日:2007/04/18
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2008年1月29日 (火)

忘れ得ぬ音楽家:7)ボロディン弦楽四重奏団

本当は先日ちょっと触れたコシュラーさんのお話をしたかったのですが、急遽取り寄せた映像の入手に1ヶ月かかるらしいので、あらためます。



就職後、最初は営業職、つづいては出張商売の日々で、コンサートに行く機会もめっきり減りました。
結婚後はすぐ子供も生まれましたし・・・今にして思えば家内の術策にハマった気がしないでもないのですが・・・、自分の所属する楽隊で(ちなみに、「楽隊」という言葉は、本職さんでもヤマカズさんの世代では好んで使われた表現でした)ヘタクソなヴァイオリンを弾くしか能がない日々が続き、数少ないチャンスに、数少ないコンサートを聴きに行けるだけでも嬉しかったのですけれど、家内も死んでしまったうえに、子供たちはちょうど進学期ですから、今は全く行けないも同然の日々になってしまいました。

ですが、音楽は、やっぱり「演奏する姿を実際に目にしながら」が、いちばんいい。何故か?・・・息遣いが、表情が、音楽をより広がりのあるものにしてくれるからです。
ポップのコンサートでは当たり前なこんなことが、
「え、クラシックもそうなの?」
と思われてしまうのは残念ですが、確かに、ドラマ「のだめ」でやっていたような、ポップ的盛り上がりはありません。そのかわり、じわあ、と、静かに胸に響き、ゆるゆるとしみ込んでくるものがある。
・・・とはいえ、私は寂しがりで、相棒無しで独りコンサートに足を向ける、なんてことは思いもよりません。
そういう自分を、まだ「コンサートに行く」ということを覚えたばかりの中学時代の自分自身に比べると、弱虫になってしまったかなあ、と思います。



となると、新入社員時代に仕事から夜中に帰って、自分一人で部屋にこもって、(当時はまだLPレコードに針を落として)涙しながら聴いた音楽の数々に、再び私の慰め役をしてもらうしかありません。

いくつかの曲と、これでなければならない、という演奏がありました。
大学時代にオーケストラに入団してからは(アマチュアオーケストラ活動自体は高校1年のときからしていましたが)クラシックオンリでないとやっていけない暮らしでしたから、ほとんどクラシックでした(僅かに、ビートルズ【アビイ・ロード】や、マイナーなパンクロック・・・名前は忘れてしまいました・・・が混じっていただけです)。

そのなかで、心変わりしないでずっと聴き続けていたのが、ボロディン弦楽四重奏団の演奏による、「ボロディンの弦楽四重奏曲第2番」です。作曲家の名前を冠した団体だけに、この曲については、彼らの演奏を超えるものはない、と、未だに信じています。



ちょっと余計な長話をします。
この曲、4つの楽章から成り、聴いて頂ければ がいちばん有名なのですが(モノラルですけど から、聴いてみて下さい[London 223E 1164] 。「あ、知ってる!」・・・でしょう?)、私の好きなのは、有名なその楽章ではなく、第1楽章、つまり、作品のいちばん最初の音楽でした。今でもそうです。
学生時代、腕のいい先輩たちがよく挑戦しては敗北(つまり、途中で引っかかる)しているのを脇で聴いていて、
「オレはいつか、ボロディン四重奏団みたいに弾いてみせるぞ!」
と意気込んでもいた、憧れの作品でもありましたし、何よりもボロディン弦楽四重奏団という四人組自体が、奇跡的な存在でした。
当時は、ロシアが「ソビエト連邦」で、「鉄のカーテン」などという言葉もまだ活き活きと使われていましたから、彼らの出す音は「鉄のカーテンのようだ」と、その演奏を聴くたびに思いました。

録音で、だけではなく、学生時代に、実際に2、3度、ステージ上の彼らを目の前にしました。
でも、コンサートでボロディンを弾くのを聴いたかどうかは、今、はっきり覚えていません。ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番を弾いたのは、間違いなく聴きました。
この4人組、実際、やはりソビエトの超一流団体だったベートーヴェン弦楽四重奏団に次いで生前のショスタコーヴィチと縁の深い人たちだったのは、ショスタコーヴィチファンはご存知の通りです。ショスタコーヴィチの四重奏曲の全集を作曲者の生前に13番まで完成し、その後メンバーが入れ替わって15番までの全集をも完成しましたが、最初の13番までのものの方が断然いい演奏だと勝手に思っています・・・話ががそれました。

そんな名演奏家たちですが、街での演奏会ではなく、ちょっとハズレの、田んぼの中のホールでコンサートを開いたことがありました。じつは、その時のお話がしたかったんです。
車数台で出掛けたように記憶しています。



学生で図々しかったのもあり、その日はサイン会があるわけでもなんでもないのに、終演後、勝手に楽屋に押し掛けました。・・・田んぼの真ん中のホールだけあって、楽屋、といっても立派なものではなく、鏡もろくにない大部屋でした。が、そこはロシア人、大部屋でもまだ狭い、という感じ。窮屈そうに楽器の掃除と片付けにかかっているところでした。
「どんな楽器を使ったら、こんなに強靭な音がするんだ?」
興味津々で、通訳もいなかったし、言葉も通じないのをいいことに、片付けているメンバーに近寄って、ヴァイオリンやヴィオラを覗き込みました。
この頃には、アメリカ系のオーケストラはニスの上に艶出しを上塗りして弦楽器をステージのライトでビカビカに光らせるのが流行っていました。
ですが、ボロディン四重奏団の楽器は、そんな艶出しをしていませんでした。
たぶん、国家貸与の、クレモナあたりの銘器だったのでしょうけれど、見る目のない学生には、光っていない分、大変安っぽい、素朴な楽器に見えたのを覚えています。
・・・でも、たしかに、その方が音がいいのです。
・・・木材が余計なコーティング(お化粧)をされていない方が、ヴァイオリン族弦楽器は素直な音がする。本物の美人さんと同じです。ですから、見たとたん、
「ああ、きれいだなあ!」
と感激しました。
感激のあまり、こちらの面々は、よっぽど「餌を前にした狼」みたいに目をギラギラさせていたのでしょうか・・・彼らは慌てて楽器のケースの蓋を閉じました。

そのとき、閉じる蓋のどれもに、写真がはさんであるのに気づきました。
有名団体でしたから、世界各地を飛び回る生活が1年のうちの3分の2以上を占めたはずです。
写真は、そんな長い旅行期間中に、彼らが思いを馳せ、安否を気づかい続けているご家族のものだったのでしょう。
お待ちになっていた奥さんやお子さんも、同じく、彼らの安否をいつも気づかっていたことでしょう。

今ほど国際電話料金も安くなければ、インターネットはおろか、パソコン通信などというものもなかった頃でした。



話が変わって恐縮ですが、モーツァルトが妻コンスタンツェと旅行中に、子供が死んでしまっていた・・・夫妻はウィ−ンへ帰宅後初めてそれを知った、ということが、モーツァアルトの伝記には必ず出ています。ですが、その時の夫妻の思いについてまで触れているものは、全くありません。旅の間に子供を失ったことが、モーツァルト夫妻は悲しくなかったのでしょうか? もちろん、当時、乳幼児の死亡率は非常に高かったんですけれど。ボロディン四重奏団の写真のことを思い出すたびに、モーツァルト夫妻のこの件をも、つい思い浮かべてしまうのです。


学生時代、他に聴いたクァルテット団体は、巌本真理弦楽四重奏団(これは高校時代で、お客も高校生が中心で、これだけは「のだめ」見たいに盛り上がりました。巌本さんはすごーい美人でした)、バルトーク弦楽四重奏団、スメタナ弦楽四重奏団、アルバン=ベルク弦楽四重奏団。。。アルバン=ベルク四重奏団だけが今度解散、でしたかね。他もみんな、解散したり、メンバーが物故してしまいました。とくに、巌本さんが思いがけず早世なさったのは、寂しかったな。

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2008年1月22日 (火)

訃報:江藤俊哉氏~20世紀日本最大のヴァイオリニスト

私にとって大学時代の思い出が深い江藤俊哉さんが、亡くなってしまいました(近ごろでは車椅子での生活でいらしたそうです)。
・・・いや、いろいろ思い出をお持ちのかたは、たくさんいらっしゃるでしょう。
学生時代に、かなりの体調不良の中、ブラームスの協奏曲を私たちのオーケストラと共演して下さいました。(この演奏より前にベートーヴェンの協奏曲を共演したときもそうだったのですが、ブラームスのときも、ものすごく緊張なさって、演奏はぶっつけ本番で、終わった後、確か救急車で病院に運ばれました。最近、友人が私にプレゼントしてくれたばかりの、そのときの演奏の録音を、アップします。

 1982.12.11 仙台市 東北大学川内記念講堂にて
 (録音に当たっては、ソリスト用のマイクは特に用意していませんでした。)
指揮は、江藤さんの御著作にも名前が出てくる菊地俊一氏。大学オケの伴奏です。

好奇心のお強い、いつも童心を忘れないお人柄だった、との印象を持っております。
そんな印象を、前に「忘れ得ぬ音楽家」のお一人として、綴らせていただきました。・・・先日の鈴木清三さんといい、今日判明した江藤さんといい・・・寂しいです。演奏終了の拍手と一緒に、どうぞ、江藤さんの人生を拍手をもってお見送り頂ければと存じます。

ヤフーのニュースから訃報を引用しておきます。関連項目でウィキペディアに掲載のあるものへは、極力リンクを貼りました。
(以下、引用)

江藤俊哉氏死去=戦後日本を代表するバイオリニスト

1月22日14時1分配信 時事通信

 日本人音楽家として戦後初めて国際舞台で活躍し、音楽教育にも尽くしたバイオリニストの江藤俊哉(えとう・としや)氏が22日までに死去した。80歳だった。東京都出身。葬儀の日取り、喪主などは未定。
 4歳でバイオリンを始め、12歳で第8回音楽コンクール優勝・文部大臣賞、さらにNHK交響楽団と共演するなど天才ぶりを発揮。東京音楽学校(現東京芸大)卒業後、戦後初の音楽留学生として渡米し、エフレム・ジンバリストに師事した。1951年にはカーネギーホールでリサイタルを開くなど、米国を中心に演奏活動を行った。
 61年に帰国、スケールの大きさと包容力を感じさせる演奏で人気を博す一方、後進の育成にも情熱を傾け、堀米ゆず子千住真理子らを育てた。また、自らタクトも振り、オーケストラとアンサンブルにも深い理解を示した。 

1月22日12時56分配信 毎日新聞
(前半省略)
カーティス音楽学院教授を務めたあと、61年に帰国。演奏家として活動しながら、千住真理子さんや諏訪内晶子さんら後進を指導した。桐朋学園大学の学長なども務めた。
 71年、モービル音楽賞を受賞。日本芸術院会員。ヴィエニャフスキ国際バイオリン・コンクールなど、国内外のコンクール審査員にもなった。コーヒーのCMに「違いがわかる男」として出演したこともある。

1月22日12時18分配信 読売新聞
(前半省略)
61年に帰国後も活発な演奏活動を続け、華やかな技巧や豊かな音色で印象づけた。内外の国際コンクールの審査員を務める一方、桐朋学園大などで後進の育成にあたり、安永徹、諏訪内晶子さんらを育てた。97年から2004年まで桐朋学園大の学長。79年に日本芸術院賞、85年都民文化栄誉章を受けた。

朝日新聞Webに掲載された最新記事
バイオリニストで元桐朋学園大学長の江藤俊哉さん死去

戦後日本を代表するバイオリニストで、教育者として多くの演奏家を育てた元桐朋学園大学長の江藤俊哉(えとう・としや)さんが22日午前6時36分、肺炎による心不全で死去した。80歳だった。葬儀は近親者のみで行う。後日お別れの会を開く予定。

東京都出身。4歳から早期音楽教育「スズキ・メソード」で知られる故鈴木鎮一氏のもとで学び、12歳で音楽コンクール(現日本音楽コンクール)で優勝した。

東京音楽学校(現東京芸大)卒業後に渡米。カーチス音楽学校で名教育者としても知られるジンバリストに学び、24歳でニューヨークのカーネギーホールでデビュー。日本人離れした大胆な弓使いと深みのある音色で世界に認められた。

演奏活動の傍ら、桐朋学園大や上野学園大で堀米ゆず子さん、矢部達哉さん、諏訪内晶子さんらを育てた。エリザベート国際コンクールなど海外コンクールの審査員も歴任。71年にモービル音楽賞、79年に日本芸術院賞、00年に渡辺暁雄音楽賞特別賞を受賞。97年から04年まで桐朋学園大の学長を務めた。

指揮者、ビオラ奏者としても活躍。音楽家の地位向上を求める社会的発言も多かった。「違いがわかる」というインスタントコーヒーのテレビCMに出演、茶の間でも知られていた。

Amazon(JP)での江藤さん関連商品リスト(アフィリエイトではありません。)

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2008年1月14日 (月)

訃報:鈴木清三氏〜戦後日本の代表的オーボエ奏者

日本フィル、その後、新日本フィルで長くオーボエの首席奏者をお務めになった鈴木清三氏が、去る1月12日、多臓器不全の為に亡くなられたとのことです。
山本直純さんの「オーケストラがやって来た」にも登場する「名人」でした。単独で演奏なさった録音は少ないのですが、山本直純指揮「宿命」のCDで、その名手ぶりを聴くことが出来ます。

現在プロのオーケストラで活躍中のオーボエ奏者に、お弟子さんが沢山いらっしゃいます。

私が入っていた大学のオーケストラでは、木管楽器の指導を長年にわたってお引き受け下さいましたから、管楽器メンバーにとっては忘れ難い存在であったはずです。鈴木先生のご指導のもと、アマチュアながら、その大学オケからはオーボエの名手が続々と誕生しました。
私たちの学生オケで、山田一雄さん指揮の「モーツァルト:小ト短調交響曲」でオーボエの1番を吹いて下さいました。その時の演奏( )です。色の変わったところをクリックしてお聴き下さい。張りと艶のある、のびのびした音色に、どうぞ耳を傾けて下さい(先日、友人の好意で入手できたものです)。

心よりお悔やみ申し上げます。

追記:昨日のAsahi.comに訃報が掲載されていました。以下、引用。

オーボエ奏者の鈴木清三さん死去(2008年01月13日20時07分)

鈴木 清三さん(すずき・せいぞう=オーボエ奏者、桐朋学園大学名誉教授)が12日、多臓器不全で死去、85歳。通夜は14日午後6時、葬儀は15日午前10時から東京都葛飾区立石7の11の25の源寿院で。喪主は妻みどりさん。

72年、小澤征爾氏らと共に新日本フィルハーモニー交響楽団を結成した。名誉首席奏者。

毎日新聞web掲載の訃報から、ご経歴の引用。

1944年、東京音楽学校(現・東京芸術大学)器楽部を卒業。72年、小澤征爾さんらと新日本フィルハーモニー交響楽団を結成し、首席オーボエ奏者として活躍。後に同楽団のオーボエ名誉首席奏者となった。

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オーケストラがやって来た (単行本)


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2008年1月12日 (土)

聴いてきました「ウィーン・リング・アンサンブル」

先日掲載したウィーン・リング・アンサンブルのコンサートに出掛けてきました。
メンバーは昨年と全く同じ。皆さんお元気で、よかった!
(メンバーの経歴は昨年の記事に綴っています。ただ、昨年分からなかったクラリネットのヒントラーさんについては、1989年入団で、遡る80年にはシュミードルさんの助手をなさっていたとのことです。)
ただ、4日から名古屋を皮切りに、さいたま〜佐倉(千葉県)〜福岡〜東京〜大阪〜今日の松伏(埼玉県)というハードな移動、かつコンサートがなかった日は8日と10日だけ、というスケジュールで、明日は松本(長野県)、最終日のあさっては東京(早稲田大学大隈講堂)。
もちろん気づかれないように、ではありましたが、クラリネットのシュミードルさんが1回だけリードミスをしたり、ホルンのヘーグナーさんも目だたないところでちょっとミスしたり、キュッヘルさんも時々音がかすれたり、と、お疲れが気になる瞬間もありました。
とはいえ、大変楽しいコンサートで、お客さんは大満足だったはずです。

プログラムは
・「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲(ニコライ)
・ワルツ「天体の音楽」(ヨーゼフ・シュトラウス)
・妖精の踊り(ヘルメスベルガー〜ブラームスと同時代の、ウィーンフィルのコンサートマスター)
・ポルカ・シュネル「浮気心」(J.シュトラウスⅡ)
・ポルカ「狩り」(J.シュトラウスⅡ)
休憩を挟んで
・「くるまば草」序曲(J.シュトラウスⅡ)
・ポルカ・シュネル「人生は喜び」(K.M.ツィーラー)
・ワルツ「うわごと」(ヨーゼフ・シュトラウス)
・ジプシーのガロップ(J.シュトラウスⅠ)
・マリアのワルツ(J.ランナー)
・「メリー・ウィドウ」メドレー(レハール)
・狂乱ガロップ(J.シュトラウスⅠ)
アンコールは3曲でしたが、最初のポルカ・シュネルがなんという曲だか分かりませんでした。
あとは「青きドナウ」と「ラデツキー行進曲」で、昨年と同じです。
ハードスケジュールでサイン会が出来なかった分なのでしょうか、1曲余分にサービスしてくれました。
(ただし、帰りのバスにシュミードルさんが乗り込むところをつかまえてサインをもらえた人が数人いました・・・じつは、そのうちのひとりは、私です!)


今回は、ステージ上手(かみて)のすぐ脇で「見る」ことが出来ましたので、昨年より細かく勉強をさせてもらえました。
「アンサンブルはかくありたい!」
という話です。それを綴ることにしましょう。
室内楽で管と弦が混在するコンサートを目に出来るチャンスは少ないはずですので、アンサンブルの基本を知るには、リングアンサンブルのような演奏に接するのは、大変良いチャンスです。
そして、彼らは大編成のオーケストラでも、必ず同じことをしているのです。
編成が小さい分、オーケストラでは見そびれてしまう「基本テクニック」が、手にとるように分かる・・・こういうコンサートを、なるべく多くの演奏者に「見て」貰いたいと感じました。


彼らが一流だから、という訳ではなく、「聞ける」アンサンブルをなさるかたならどなたも心得ていることを、当然ですが、リングアンサンブルのメンバーも実行していました。

・常に「アイコンタクト」を取り合い、タイミングをズラさない
 (だから、結果的に、特定のリード役がいらない)

・同じ主題を担当する楽器どうしで、主題のニュアンスを事前によく打ち合わせて揃える
 (弦楽器同士〜使う弓の位置、スピード、弾み具合を「相似形」的に揃える)
 (管楽器同士〜息の量、スピード、切り上げ方を「積分」的、「相似形」的に揃える
 (弦と管〜上記の順番で奏法が対応するので、対応する奏法を積分的、相似形的に揃える)

・伴奏に回るパートは、伴奏者同士で、やはり同じことを行なう。
 ただし、主題が頭の中に叩き込まれていて、主題といっしょに歌っており、
 かつ、主題よりワンランク後ろに引いて演奏する

おおまかには、こうしたことです。・・・変ないい方だから、通じるかしら?


リングアンサンブルならでは、の大きな見物はふたつ。

ひとつは、コントラバスの運弓でした。
ワルツが主ですから、ワルツを例にしましょう。
コントラバスは「ブン・チャッチャ」の「ブン」を担当しますが、全てダウンボウ(下げ弓)で弾くだけだったら他でもやります。
ウィーン流だなあ、と感心したのは、主題のニュアンスが柔らかくなると、弓の当て方を和らげ、ほんのちょっと当てて、かつ、そっと、いとおしむように弓を弦から放すのです。で、ワルツが勢いづく場所では全弓で弾ききる・・・ただし、あくまで紳士的に。

もうひとつは、キュッヘルさんの存在。
ファーストヴァイオリンだけが・・・恐らくはこれが大きなオーケストラの中であっても・・・アンサンブルの中では特異なのだなあ、というのが、よく分かりました。
他の連中は、伴奏のときは伴奏の時、主題のときは主題の時、相手が弦同士か管同士か、弦と管か、のいずれをも問わず、わざと体を寄せあってみたり、大きく目配せしたりして「遊んで」いるのです。
キュッヘルさん個人が、という意味ではなく、音楽的に、ファーストヴァイオリンだけが、明らかに違うのです。
ファーストヴァイオリンは、さっきセカンドに歩調を合わせさせていた(もしくは合わせてもらっていた・・・このアンサンブルの場合、後者なのですが)かと思うと、次の瞬間にはフルートと、そしてまたチェロ、続いてホルン、と、目まぐるしく「合わせてもらう」相手を取り替えなければならない。気の毒なくらい、忙しい。
それを、お客さんに「忙しい」とは感じさせず、美しく切り替えていかなければならない。
ですが、極端な話、ヘマをしたらしたで、他のパートが「音楽の作り」は補ってくれているので、仮に「どうせヘマだらけ」なんだったら、別にファーストヴァイオリンなんかには弾いてもらう必要も何にもない。
・・・もちろん、アンサンブルが「完成している」団体にして初めて許されることではあるのですけれど、
「あ、そうなのか、内声や低音が上手ければ、ファーストヴァイオリンなんかいなくてもいいんだ!」
・・・そういうことになります。
・・・孤独です。

世の中の「ファーストヴァイオリン弾き」は、この点、よくよく知っておかなければならないようです。
もちろん、キュッヘルさんは見事にご存知のようでした。
他の連中が「遊んで」笑っていても、彼だけは終始、目が「マジ」でした。
キュッヘルさんの「マジ」は、前任の偉大だったコンサートマスター、ヘッツェルさんの事故死の後を受けて大変なご苦労をなさったことが、今でも影を落としているのだろうと思わされます。ヘッツェルさんが山で事故死しなかったら・・・ボスコフスキー時代のウィーンフィル「ニューイヤーコンサート」の映像では、若き日のキュッヘルさんは満面の笑みを浮かべていたのが見られますから、また違う表情で自らの「責任感」を示すことが出来ていたのではないかなあ、と、下衆の勘ぐりをしてしまいました。
尊敬するかたですから、なおさら大袈裟に、勝手にそう感じただけかもしれません。

その他にも面白く思ったことはいくつかあるのですが、偉そうなことを言っておきながら弾くヴァイオリンはヘタクソな私にとって最も愉快だったのは、セカンドを弾いているザイフェルトさんが、「マリアのワルツ」で自分の弾く主題(ファーストの主題の対旋律になっています)を、前半は弓を寝せて、あたかも弱音器をつけたような効果を出して演奏しておき、後半再度同じ主題が現れた時には、ファーストと対等の、輪郭のはっきりした音で演奏する、という弾き分けをなさっていたことです。

いつも飄々としているヴィオラのコルさんも、私は大好きです。

どうも、毎度長くてすみません。

こんなところで。

付記:トラックバック下さった雅哉さんのおかげで、分からなかったアンコールの1曲目について判明しました。ツィーラー作曲の「ヴィネアガロップ」だそうです。ツィーラーは、19世紀後半にウィーン宮廷舞踏会の音楽監督を務めたことのある人物です。

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2008年1月 9日 (水)

ウィーン・リング・アンサンブルin松伏2008

Wienna2008知りませんでした。
昨日、ハガキが届いて、急遽申し込みました。
(娘の受験直前だというのに! 娘も是非聴きたいとのことなので。)
東京都内で聴くよりはお安めの料金かもしれません!

日時:2008年1月12日19時開演(18時30分開場)
場所:田園ホール・エローラ
   〒343-0114
   埼玉県北葛飾郡松伏町ゆめみ野東3-14-6
   電話048-992-1321/048-992-1001

残席わずかですが、まだあるかも。
公式サイトをご覧下さい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~ellora/newyear.htm

昨年聴きに行った時の感想思い出話は、前に綴りました。
(色の変わっているところにリンクを貼りました。行った時の感想の方には、出演者のウィ−ンフィルでの経歴も簡単に綴っています。)
家内が楽しみにしていたコンサートで、家内が切符を手配していましたが、残念ながら去年のコンサート日は、家内が死んでから12日後でした。遺影を連れて行きました。

埋葬を済ませてやるまでの1年間は、私にとって一生、「長い1年間」になるはずですが、去年のリング・アンサンブルのコンサートからの1年の「早さ」は、夢を見ているようです。
・・・でも、今回は、遺影は連れて行くのはよそうかな? 怒るかな?

この日だけは、僕の魂と家内の魂が入れ替わってくれたらいいな、と思っていますが、これも
「あんたの体じゃダサくてやだよ!」
って、敬遠されるかな?
(女装しても、ダメかなあ・・・高校の文化祭で女装させられて、当時のガールフレンド【え、いたの?〜はあ、1年もしないでふられました・・・】に選りすぐりの服を借りて、美容院で化粧もしてもらったんだけど・・・当時すでに「オバハン」と呼ばれてしまった私です。ですので、「そのテ」のお店に勤めることも出来ません。スネ毛とか、薄いんですけどね・・・こんな脱線をしていいのか?)

すみません、まっとうな話に戻りますが、このメンバー、少人数でも立派にウィーンフィルの音がします!
リンクした昨年の感想思い出話で、演奏の雰囲気もメンバーのお人柄も汲み取っていただけると思います。お読みいただければ幸いです。

さて、でも、今年はサインをもらえる材料を用意していないなあ。
去年、たくさんサイン貰っちゃったからなあ。。。

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2007年11月26日 (月)

忘れ得ぬ音楽家:6)山田 一雄

最初に・・・私的なことながら。
家内の11ヶ月目の月忌です。
お引っ越しなさったばかりでお忙しいのに、とくに家内関係の事務処理をたいへんご支援下さった方が、わざわざお花をお持ち下さいました。また、今の住まいでずっと懇意にして下さっているクリーニング店のおじさんがお線香を上げて下さいました。心から御礼申し上げます。
ちなみに、クリーニングやのおじさんも、3年前に奥さんを亡くされたばかりで、笑い話で
「残されて、いつまでも泣いてるのはダンナの方みたいね。」
「女の人はドライだからね。」
・・・ホントに、そう思います。
(歌舞伎舞踊に「保名(やすな)」というのがあって、恋人に死なれた男性が狂気に陥る、というものですが、こういう演目は珍しい。踊りや劇の世界で、恋に苦しむのは女性なんですよね。・・・でも、現実は、オトコの方が弱いようですね。極端な話、ストーカー事件を起こす犯人が女性である率が極めて低い・・・おそらく男の方が9割9分犯人でしょう? あ、変な方へ話が逸れました。昨日、ちょっと空き時間が出来て、私はつい、持っていた「保名」のDVDに見入ってしまいましたものですから。)

我が家は、3人暮らしのペースもごく普通になり、子供たちが家事を分担してくれ、私の服薬量も、やっと減り始めました・・・もっとも、今日はちょっと元に戻りました。3連休がずっと、娘の学校見学でしたので、娘に比べて体力不足な私には、 すこし堪えたようであります。夜、ちょっとしたことで短気を起こして、「あ、いつものだ」と思って、慌てて薬を飲みました。これでおさまるんだから変な話でもあり・・・なさけなや、でもあります。

晩飯は
「おとうさんが作ると不味い」
と不評ではありますが、月曜日は娘は習い事ですので、私が作るしかありません。かえって来た娘には悪態をつかれます。
「やっぱり、不味い!」
・・・救いが欲しい。。。(T_T)

すみません、長話しました。


こちらの記事にちょっとフルトヴェングラーCD体験をつづりましたら、コメントを頂けました。
拝読して思い出した、何人かの指揮者がいます。
そのなかで、自分が直接接したことのあるかたについて、ご紹介しておきます。


・・・と言っても、標題で名前を出しただけで、
「あ、この人知ってる!」
ってかたが(年齢層はどこまで広がるか分かりませんけれど)多いに違いありません。

山田一雄さん。通称、「ヤマカズ」さん。

そのたくさんのエピソードについては、いまさら綴るのもヤボでしょう。今でも、日本のクラシック関係の書籍には、頻繁にお顔を出されています。
・・・でも、亡くなってから、もう16年経つのですね。

私が中学生の頃は、とある出版社で出していたクラシックの雑誌(学校を通して購入するものでした)には、必ず17センチ盤のLPが付録についていました。
最近は音楽雑誌にCDやDVDが付いているのが当たり前のようになりましたけれど、当時(1970年代前半)としては、画期的なものだったはずです。ちなみに、その頃私はロックの雑誌も読んだりしていましたけれど、こちらは付いているのはギターのタブ譜ばかりで、レコードが付いたことは、ついぞありませんでした。

この、付録のLPには、当時の日本で最も活躍していた人たちによるクラシック音楽の演奏が収録されていました。
記憶に残っているところでは(間違いもあるかもしれません)、
・豊田耕児ソロ「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲」(東京交響楽団、名演でした)
・朝比奈隆とどこかのオケによるベートーヴェンの「運命」全曲
・近衛秀麿指揮のベートーヴェン「第九」の終楽章(表裏ひっくり返して聴かなければなりませんでした)
・秋山和慶指揮・日フィルによるチャイコフスキー「くるみ割り人形」
などなど。

そうした中で、際立って面白かったのが、「ヤマカズさん」指揮の次の2つでした。
・「モルダウ」
・ブリテン「青少年のための管弦楽入門」

後者では、ヴィオラの部分にヤマカズさんの「唸り声」まで入っていました。かつ、雑誌本文の解説のオマケにヤマカズさん自身の言い訳があって、
「指揮者は唸るくらいでしか演奏に参加できない、寂しい仕事です」
みたいな意味のことを述べていらしたので、思わず吹き出してしまったものでした。

このヤマカズさんに、まさか、後年、学生オケで指揮して頂けるとは、想像もしていませんでした。

私の入った大学のオーケストラへ、ちょくちょく客演して下さっていたのです。
もちろん、いらっしゃるときは、ビップ待遇でした。

伝説もありました。
私が大学に入る少し前はミニスカートブームだったのですが、その頃客演なさったときには、団員の中に美人チェリストがいて、それも必ず最前列で弾いていたのだそうです。
ヤマカズさんは・・・練習中、しょっちゅう彼女の前に指揮棒を落としては、それを拾いに行くときに彼女を下から見上げるようにした、とか。

「下品なオジサン」

なのか、と思うと、実際練習するときには、言葉遣いは妙に丁寧で、
「あらまあ、どうしてそのようにお吹きなさるの?」
という具合でした。

「キザなオッサン」

なのかなあ、と思いました。

ビップ待遇の指揮者がいらしたときには、学生オケでは昼食をご一緒できるメンツはリーダークラスやOBに限られていて、ヤマカズさんのときも例外ではありませんでした。
・・・私は、当時、平団員でした(今は永久平社員ですが、関係ありません)。

ところが、ヤマカズさん、何をお思いになったのか、ある日、平団員だけを呼び集めて、喫茶店へ連れて行ってくれたのです。
そこで彼の口から出た言葉。

「オレたちゃしがない楽隊屋だがな、君らは立派な総合大学に入ったんだ、いろんなことを、しっかり勉強しなきゃいけねえよ」

うまく表せないのがもどかしいほど、見事な巻き舌べらんめえの江戸弁だったのが、いまでも強烈に胸に刻み込まれています。・・・そのくせ、ちっとも勉強しませんでしたが。

彼が亡くなったあとの何年か前、書店で山田一雄自伝「一音百態」を見つけまして、なつかしくて手にとりましたら、そこでの口ぶりがまた、インテリっぽい、礼儀正しい言葉遣い。なおかつ、内容は破れた初恋の話とか、やたらとセンチメンタルなものなので、

「やっぱりキザなジイサンだったのかなあ・・・」

首を傾げてしまいました。

「日本のカラヤン」と呼ばれていましたが、本人はそんな呼ばれ方をどう思っていらしたんでしょうね。
当時よく読まれたご著書の「指揮法」には、どんな拍子も(斉藤秀雄方式とは違って)流麗な図形がかかれていて、それだけ見れば、なるほどカラヤン的なのかな、と想像してしまいます。
が、実際の指揮ぶりは、カラヤンには程遠いものでした。
およそ、「拍」というものは振りません。この点ではフルトヴェングラーと「方針」は近い。
でも、フルトヴェングラーともまた、振り方が違っていました。
だいたい、肘を直角に曲げたまま、直線的に・・・見方によってはロボットのように・・・カクカク、と振る。
音楽がクライマックスに達するほど、小柄なその前進に渾身の力をこめて、しかし、それを(最近の指揮者が良くやるようには)最後に大きく腕を広げて爆発させる、などということは、まったくなさいませんでした。
ブラームスの第3の終楽章は、静かに音楽が消えていくのですが、ここでは棒をまったく止めてしまうので、オーケストラは自分たちの判断でその先の作りこみをしなければならなかった。

いやあ、たいへんでした。

でも、分かりにくい棒だったか、というと、その逆でした。

音楽の持つ力を、「引き出す」と言うよりは、「より内側に溜め込ませていく」、そういうタイプの音楽家だった気がします。

晩年には團伊玖磨の交響曲全集のうちの1、2番を、ウィーン交響楽団と録音しています。
チャンスがあればご一聴下さい。(残念ながら、今は中古でも品切れですが。)

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2007年10月20日 (土)

忘れ得ぬ音楽家:5)アンドレ・クリュイタンス

先週、上岡敏之/ブッターパール交響楽団の演奏会の余韻に浸りながら、お誘いを受けて数人の方と会食を楽しむことが出来ました(暮らしも変わり、持病の「うつ」には出口が見えず、自分たち演奏会の打ち上げも半分しか参加できませんでしたから、家内の死後初めての、ありがたい、幸せな会でした)。

その席上、「でも、音楽会の感動が、そのまま録音にすっかり残せるものだろうか」という話題になりました。
私はその際、
「アンドレ・クリュイタンスが1964年に来日したときの、東京文化会館での<幻想交響曲>のライヴはいいですよ」
という旨の発言をしました。

この年は私は地方育ちの幼児で、当然、演奏会そのものを聴いてはいません。ですが、<幻想>のライヴは、初めて聴いたとき、次の3点で、私の心をとらえました。
・当時の日本では最先端技術だったステレオ録音だが、ディテールまで捉えた優秀なものである
・たとえばヴァイオリンがミュートをはずすカリカリ、という音まで暢気に入っていて、ふくよかな臨場感がある
・なによりも、60〜70年代のオーケストラはこういう音だった」ということがはっきり記録されている
最後の点については、次のような試みをして頂けると、よくわかります。

67年にはクリュイタンスは亡くなってしまい(従って、残念ながら私は彼の指揮を生で目に出来ることはついにありませんでした)、率いていたコンセルヴァトワールのオーケストラはパリ管へと発展解消してしまいました。ですから、70年代にパリ管がセルジュ・ボドと録音したフォーレやメシアンには、クリュイタンスと蓄えてきた彼らのノウハウがしっかり残っていることが分かります。ですが、80年代に入ると、パリ管の響きは変わってしまっています。

実は、クリュイタンスとコンセルヴァトワールのペアが残した最も素晴らしい録音は、モノラルになりますが、同じ64年来日時のラヴェルシリーズ(私が初めて入手した当時はその一部を1枚ものとして聴くことしか出来ませんでしたが、現在ではAltusから2枚組で発売され、全貌を聴くことが出来ます)だと思っています。
これは実際に聴いた人が、
「ダフニスが始まったとたん、会場全体がふうわりと、音の渦の中に巻き込まれてしまっていた」
と感激の弁を述べていらしたのを伺っています。実際、このときの「ダフニス」は、同じペアがスタジオ録音で残した演奏よりも遥かに優秀で、かの感動の弁の通り、冒頭部の音の広がりには胸を強く打たれます。とりわけスタジオ録音に比べて優れているのは、木管群が模倣する、朝焼けの中を飛翔する鳥のさえずりで、これがこの世の楽器で演奏されたものだとは、とても信じられません。

そもそも私がクリュイタンスという指揮者の素晴らしさを思い知らされたのは、中1の頃EMIが<セラフィム>というレーベルで発売した1,000円盤LPの中に含まれていた、彼の指揮したものを2枚ほど聴いた時でした。
オーケストラは、ベルリンフィル。曲目は、なんと、ベートーヴェンの第4、第7、第8でした。
この3曲ばかりは、いまだに、この演奏を超える美しさを持つものを(生を含め)聴いたことがありません。
残念ながら彼がベルリンフィルと録音したベートーヴェンの交響曲は、現在では全集でしか入手できませんし、この3曲以外は特別な出来というわけではありません。
ですが、この全集、おどろくべきことに、ベルリンフィルにとっては初の「ベートーヴェン交響曲全集」でした。
しかも当時は、ベルリンフィルと言えばカラヤンかベーム、と相場が決まっていました。
そんな中、しかし、ベルリンフィルが
「ベートーヴェンの全集を残すならこの人と!」
と指名した指揮者がクリュイタンスだった、という事実は、注目すべきです。

ベルギー生まれで、フランス音楽のエキスパートと思われがちなクリュイタンスですが、1955年にはバイロイトでワーグナーの堂々たる演奏もしています。

映像も数種入手可能ですが、「ライヴ・イン・モスクワ」だけは、ジャケットにごまかされて買ってしまったものの、正面からの彼の姿は全く映っていませんでしたから、おすすめしません。

上記で触れた以外のディスコグラフィーは、下記リンクの通りです。

80年代には失われてしまったオーケストラの響きを、是非、彼の演奏を通じて、存分に味わって頂ければと思います。それはじつに暖かくて、品位があって、しかも、聞く人誰もが心の中に持っているはずの「もう一つの太陽」を呼び出し、抱擁してくれます。

こうしたオーケストラの音が是非戻って来てほしいと願っております。

HMV
TowerRecords

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2007年10月17日 (水)

ラウテンバッハーさんをご存知ですか?

直接接した方の思い出も、まだいくつかあります。が、それは徐々に、ということにします。

で、今日は本当は別の「指揮者」のことを綴るつもりでいました。

が、そんな時に、ある2枚組のCDを発見し、そちらに心が揺れてしまいました。
そのCDのこと、演奏している人のことに、少し触れておきたいと思います。



306
スザンネ・ラウテンバッハーというヴァイオリニストをご存知ですか?
(日本語での標記は、なぜかスザーネとなっていますが、私が彼女と顔見知りの恩師の口から聞いている彼女のファースト・ネームは、「スザンネ」です。)

1932年生まれですから、今年はもう75歳のおばあちゃんです。

小5から中3にかけて、諸井三郎さんの書いた「ベートーヴェン」の伝記(当時は旺文社文庫で出ていました)に夢中で、同時に、小遣いが貯まれば、それまで聴いたことのないベートーヴェン作品のLPを買うのを、いつも目標にしていました。
当時はLP1枚2,500円でしたし、お金の価値は今思うと現在のほぼ2.5倍でしたから、小学生中学生ごときにはLPに手を出すのは結構大変でした。
幸いだったのは、ちょうどこの時期(最初に出たのは多分1970年から71年ごろ)、「廉価盤」と称する1枚1,000円のLPが続々出始めたことでした(最も安いものはフォンタナというレーベルを冠したシリーズで、数年間は900円でした)。

ただ、この廉価盤、一部の例外を除いて、初期には、日本ではさほど有名ではないために「売れない」録音をレコードにしたものが多かったように記憶しています。それでも、私が中学生に上がって少し小遣いが増えた頃に現れた「セラフィン」シリーズ(エンジェルレーベルの廉価盤、EMI)が良質な演奏をドーンと発売したことが引き金になり、知名度の高い演奏家の録音へと入れ替わっていくようになりました。(じつは、触れたかった指揮者と言うのは、セラフィンレーベルでベートーヴェンの名録音を聴かせてくれたアンドレ・クリュイタンスなのでした。また近日中に触れます。)

と同時に、知名度の低かった音楽家が認識されるチャンスも減った、ということになり、後で考えると「本当にそれでよかったのかなあ」との思いも、ないわけではありません。

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、なかなか廉価盤が出ず、やっと見つけて手に入れたのが、オーケストラの名前もうろ覚え(南西ドイツ放送交響楽団、ってありましたっけ?)で指揮者の名前も忘れてしまったような、本当に当時としては日本人の全く知らなかった演奏家によるものでした。その録音で独奏を弾いていたのが、ラウテンバッハーさんでした。

オーケストラのことも指揮者のことも忘れたのに、彼女の名前は忘れたことがありませんでした。
なぜなら、それ以前に、
「こんなに素晴らしいヴァイオリンの演奏を聴いたことがなかった」
からです。
カデンツァは、後で分かったことですが、クライスラーのものを弾いていました。
カップリングされていたのが、同じベートーヴェンのロマンスト長調・ヘ長調でした。
ヴァイオリンを習い始めていたくせにヴァイオリンには正直のところあまり興味がなかった(オーケストラに入りたい一心で、オーケストラの中でいちばん人数の多い楽器がヴァイオリンだから選んだまでだった、というお話は前に綴ったことがあったかと思います)・・・そんな私が、即、協奏曲・ロマンスともスコアを手に入れに走ったくらい、夢中になって聴きました。
後年、有名演奏家によるベートーベンの協奏曲の演奏をいくつも聴きましたけれど、後に大好きになったオイストラフの演奏でも、どこかに納得のいかないものが残りました。ずっと
「これしかない」
と思い続けていたのが、ラウテンバッハーさんの演奏でした。

ですが、CDの時代になって、いまのところ、この録音は再発売されていません。有名サイトで探しても、彼女の録音で入手できるものは、ほんのわずかです。

非常に残念なことだと思っていました。

ただ、学生時代からお世話になっている恩師が、たまたま彼女と知り合いでした。
恩師は、自分のヴァイオリンの弟子がドイツに留学する時、ラウテンバッハー女史を教師に推薦したんだったか、推薦状を書いたんだったか、その辺は忘れましたが、実は彼女はとても厳しい人で、弟子の方は彼女のお眼鏡にかなわず、結局はラウテンバッハーさんにモダンヴァイオリンを習うのは断念し、古楽の方へと路線を変更して、現在ではそちらの方面でそこそこの成功を収めています。

ラウテンバッハーという名前を出すと、恩師は
「ああ、あのばあさんねえ・・・」
とニコニコして話してくれるのですが、其の話してくれる内容たるや、ぞっとするようなもので、
「人が休憩していても練習。本番前にみんなが食事していても、練習。練習の鬼」
なんだそうです。
その話を聞いて以来、
「きっと、おっかない顔をしたオバハンなんだろうな。もしかしたら角はえてるかも」
と、ずっと思っていました。

それが、ついおととい、彼女のCDをとうとう発見し、破格値だったので購入し、聴いてまたもや感動してしまいました。しかも、ジャケットに写った彼女の顔・・・キリッとした美人です。1974年の録音だそうですから、42歳のころのもので、写真はもう少しお若い時のものを使ってあるかもしれません・・・角は、生えていないようですね。

曲目は「バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」全曲です。
TowerRecordsの方が若干安く手に入ります。)

これまた、ベートーヴェンの協奏曲と同じ、いや、それ以上の「納得度の高い」演奏内容です。
「無伴奏」はいろんな名手のものを聴いてみましたが、楽譜をイメージすると、どれもバッハの書いた「音」の大切な要素を、ヴァイオリンという楽器の都合で改変しています。自分で弾けるナンバーは数少ないとは言え、やはり、「見本に出来ない」演奏は、如何に名手のものであっても「見本にならない」のです。

ラウテンバッハーさんの演奏は、私にとって、初めて「見本になる」演奏でした。
とくに、過去耳にした演奏(録音だけでなく、実演を含みます)では主題の線が途絶えても平気で力で乗り切るフーガ演奏ばかりだったのに対し、彼女の弾いているフーガは全くそうではありませんでした。
表現、という点では、「これはもっと軽妙でもいいんではないかい?」という印象をお持ちになる楽章もあるかもしれませんが、彼女の演奏は、表面的なニュアンス解釈にとらわれることなく音を大事にした、希少価値の高い「規範」です。

フーガ楽章は残念ながら長いのでご紹介できませんが、たとえば、

をお聴きになってみて下さい。
伴奏部の八分音符をこれだけ丁寧に、きちんと弾いた演奏には、初めて出会いました。

また、「軽妙」さにとらわれてお粗末になりがちな

ですが、これは私自身、人前で弾く時に悩み抜いた作品(弾くというだけなら難易度は低いのですが)なので、彼女がどこを聴かせどころにすべきかをどれだけ考え抜いたかに、非常に共感を覚えます。

既存の「無伴奏ヴァイオリンソナタ・パルティータ」に、どこかしっくりしないものを感じる方には、是非手にとってみて頂きたいと存じ、急遽ご紹介した次第です。

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