2016年9月19日 (月)

神様の贈り物

家内は、とても寂しがりな僕にとっては、神様の贈り物でした。

東京の外れに勤務になると同時に、アマチュアでオーケストラなる楽隊に入って、ヴァイオリンを弾き始めたのですが、家内は僕より先にそこの団員になっていて、ヴィオラを弾いていました。

僕は何せどうしようもない寂しがりなので、団内に気になる独身女性がいるとすぐ惚れてしまうような調子だったのですが、そのうち女房になるだろう彼女のことは、これっぽっちも気にかけたことがありませんでした。
東に小柄で瞳の綺麗な女性がいれば、きいて
「もう好きな人がいる」
と知って諦めました。
西から「研修で来てる」という若い時の栗原小巻似の美人さんがいれば、その帰郷を追いかけていくも(合意の上でしたので、念のため)周りに
「この土地に骨を埋めるんでなければ嫁にはさせん」
と責め立てられて逃げ、するようなありさまでした。
けれど、彼女はまったく目に入っていないも同然だったのでした。

楽隊では春と秋に合宿をやります。
彼女は車で合宿に来ていました。
近いというほど近いわけではなかったのですが、春の合宿の帰りに、
「よかったら、お住まいの近くまで送ってあげますよ」
と声をかけて乗せてくれたのが、彼女が目に入ったきっかけといえばきっかけでした。
ですけれど、他のおじさんも同乗していたし、僕は別の女の人に入れあげていたし、これで彼女が気になった、というのではありませんでした。

秋の合宿で、初めて二人で帰りました。
ありがたいとは思っていたものの、僕は異様にトイレが近いので、そんなのを知られたらみっともないなあ、と、複雑な気持ちでもありました。
案の定、乗って30分もしないうちに、我慢が出来なくなりました。困っていると
「あ」
と、彼女はすぐ先のパチンコ屋さんの駐車場に入って、
「ここで、大丈夫ですよ」
と言ってくれたのでした。
助かりました。
お礼に、と思って、途中で飯をおごることにしました。
蕎麦屋さんでした。
太っている僕は、遠慮して、ふつうのお蕎麦を頼みました。
彼女は丼物に蕎麦付きを選んで、ぺろりと平らげました。
「よく食う女だ」
と、呆れました。

冬の、クリスマスイヴにコンサートがありました。
打ち上げのパーティーで、僕はなぜか彼女の真後ろにいました。
最後にみんなで「きよしこの夜」を歌うことになりました。
前から、ひときわ透き通る女声が聞こえてきました。
彼女の声なのでした。

それから二次会へ、これもなぜか二人並んでいきました。
入った二階の狭い居酒屋さんで、先に来ていた現地の人に、
「あら、お二人、ご夫婦ですか?」
ときかれました。
「ちがうわよぉ。そうなっちゃえばいいのにねぇ」
と、身内の団員のおばさんが言いました。

僕は店を真っ先に出たのでしたが、階段を踏み外して数段分落ちて、潰れた蛙のように踊り場でぺったんこになりました。
なぜだか彼女一人が真後ろにいました。
ぺったんこな僕のところへ駆け寄ってきて、助け起こしてくれるのかと思ったら、そうではありませんでした。
僕の襟首をちょこんとつまんで、げらげら笑い出したのです。
さすがに腹が立って、おい、と手をつかんで、そのままぐんぐん歩きました。
とは言っても行き先は駅のホームで、翌日いっしょに出掛ける約束をさせたのでした。

翌日のデート先で、いきなり
「僕の子どもを産んでくれない?」
と言いました。
バカだとは思ったけれど、他の言葉が浮びませんでした。
返事は二週間保留されました。
中華屋さんで、二人で飯を食いました。彼女はあいかわらず大食いでした。

二週間後、承知の返事をもらって、そのまま二人で外に泊まりました。
それから、住まいの決まる三ヶ月後まで、夜はいつもいっしょにいました。
仕事が終わると待ち合わせるのですが、携帯電話なんて普及していない頃です、忙しかったのだろうけれどかなり遅れてくることもありました。そうすると、べそをかいて僕に謝ってくれるのでした。

ひとつ気がかりだったのは、僕の勤め先がおんぼろなプレハブだったことです。
「こんなところで働いてるんだけど」
と、連れて行っておそるおそる見せました。
「ふうん」
と言ったきりで、彼女はニコニコ笑っていました。

親たちへの挨拶も、適当なものでした。
まず僕の実家へ連れて行ったら、なにを思ったのか、おふくろが剣玉を持ち出してきました。彼女は目をキラキラさせてそれを受け取って、剣玉三昧に陥りました。
彼女の実家では、僕が
「みんなで楽しくやりましょう!」
とか、わけの分からないひとことを言ったきりで、彼女のご両親もあっけにとられていました。
結納はありませんでした。

家内にとっては高齢出産の危険もあったので、できた子どもは結局二人でした。

結婚式をやるつもりはなかったのですが、家内のお母さんも、それでは、とたいへん心配なさったし、たしかにやらないのはよろしくないかも、と、渋谷のレストランを借り切って、席もおおざっぱに決めただけで、楽隊の仲間にいろいろ弾いてもらって、どんちゃん騒ぎでやりました。
家内の親族一行は、家内のお父さんのチャーターしたバスで、お披露目の後みんなでどこか温泉旅行に行ったようです。
娘が娘なら、父も父です。
まったくもって、良い家族に恵まれました。

お披露目のとき、娘が家内のおなかの中で6ヶ月でした。

いま、その娘は二十代になって、歌の勉強をしています。
母親の歌声を聞いていたからかどうかは、よく分かりません。

独り立ちの近づいた子供らも、なかなか独り立ちとはいきませんが、だんだん相手にならなくなってきたし。

僕にとって神様の贈り物だった家内は、先に神様のところへ帰ってしまったし。

なんとか誰かと過ごす時間をとりながら、と紛らわす機会は探すものの、亡妻にはいつも寄り添ってもらっていたことが思い出されて、今は、ぽつん、と一人置いていかれている気がしてなりません。

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2016年9月16日 (金)

ジローのこと

暗くなって仕事から帰ると、僕の乗っかるエレベーターに、いっしょに乗っかる猫がいました。
エレベーター待ちをしている僕を見つけると、近づいてくるのです。
片目のない猫でした。それが、僕の下に座り込んで、見える方の目で、鳴声もたてずに、じっと僕を見上げるのです。
「なんだ、今日もか。しかたないなあ。」
ってんで、いっしょにエレベーターに乗せます。
僕たち一家は、集合住宅の、エレベーターで昇った方がいい程度の高さのところに住んでいます。
そんなウチの前まで二人、ではなく、ひとりと一匹で歩きます。
着いてドアホンを鳴らすと、ただいま、ではなくて
「おーい」
と小学四年生の息子を呼びます。
出てきた息子を見るなり、猫は、鳴こうとして口を開きます。でも、声が出ませんでした。
息子が駆け寄って、猫の頭をなでます。猫は猫で、嬉しそうに息子にすりすりしています。
それを見届けたら、僕は中へ入ってドアを閉めるのでした。可哀想だけれど中には入れてやれませんでした。

息子は変わった子で通っていて、学校で人間の友達が出来ませんでした。
それでも、困った様子はまったくありませんでした。
学童保育に通っているころも、普通に歩けば、教室から学童保育室までは、3分もかからないはずでしたが、息子はいつも30分以上かかって到着するのでした。
そのあいだ、なにをしているのかというと、通路にあるパーゴラを見上げて、届きっこない高さの葉っぱに手を伸ばして取ろうと飛び上がったり、着地に失敗した自分の足取りがさも可笑しいというふうに、その場で一人でけらけら笑いながら踊り出したりしていたのでした。
担任の先生がいつもそれを面白く眺めていたらしくて、親として面談に伺ったときに
「やつは可愛いんですよ」
と先生に目を細められて、どう受け止めていいのか、困ってしまったものでした。

人間の友達が出来ないので、近所の野良猫と仲良しになったのでしょうか。

ウチの前で猫をなで始めた息子は、そのまましばらく中に入ってきません。
「ジロー、今日も長居だね」
と、中で姉娘と家内が笑っています。
僕が晩ご飯を食べ終わっても、まだ戻りません。
表を覗いて
「さ、そろそろだな」
と声を掛けると、ようやく
「ジロー、またね」
と、息子がお別れのあいさつをします。
すると、ジローはくるっと向こうを向いて、すたすた帰っていくのでした。
ジロー、というのが、息子のつけた猫の名前でした。どう見てもメス猫だったのですが、ジローとつけてしまったのだから、しかたありません。

ジローは僕たち家族の顔はみんな覚えていたようでした。
働いていた家内も何度か、帰ってきたとき、エレベーターの前でジローの待ち伏せにあいました。
「あれまあ」
ってんで、家内もジローをいっしょにエレベーターに乗せたのでした。

そうやってジローがウチへ息子を訪ねてきたのが、どれだけの間のことだったか、残念ながら覚えていません。
とても長かったようにも思うし、ほんのわずかなあいだだったような気もします。

冬が来て、ウチでは家内が急死しました。
仕事先で倒れて救急車で運ばれて、いったん帰宅したものの、翌朝早くに息絶えていたのでした。
心臓の脇の血管が破裂してしまったので、あっという間でした。

親族や手伝いの人がたくさんウチに集まってくれていたので、もう起きることなく眠っている家内の、生前寝ていた布団をクリーニングに出すことにして、僕と子どもたちは布団をかついで出掛けたのです。
帰ってみたら、
「いないあいだに猫が来て入ろうとするから、追い払ったのよ」
と言われました。
最初、何のことだか分かりませんでした。が、
「あっ、ジローだ!」
と思い当たって、慌ててまた子供らと三人、表へ飛び出てジローを探しました。
でも、見当たりませんでした。

その日以降それっきり、僕はジローを見つけることが出来ませんでした。
ジローを見た僕の記憶が、この出来事でふっつり切れてしまっているのです。

もしかしたら、少なくとも息子はジローに会えていたのかも知れません。
でも、息子の記憶も、僕と同じところで途絶えています。

ジローはどこに行ってしまったのかなあ、と、いまでもときどき思います。

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2016年9月10日 (土)

しばらく放置していました

しばらく放置していました。

もともと鬱からのリハビリのつもりでブログを始め、すぐ家内の突然の死にあったことにも拍車をかけられ、マニアックな内容ばかりになってしまっていたのでした。

幸い鬱からも脱出して数年を経ました。
まだ義務教育過程だった子供らも、おかげさまで成人しました。

ブログも本来お役目終了ではあります。

まあ、せっかく場所があるので、これからは不定期に、気の置けない思い出話なんかを、のんきにでたらめに綴ろうかなと思います。

ときどき覗いてやって下さい。

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2013年8月24日 (土)

山口(日記から)

20日に仙台から戻り、体重計に乗って愕然とした。2ヶ月かけて減らした体重が元の木阿弥になっていた。
娘も
「おなかがすかないから晩ごはんはいらない」
と言う。しかし息子は腹ペコである。飲み物を買い出しに行き、ピザをとった。

昨21日朝、まだ寝ぼけているガキどもに一応声をかけて出発、上野で息子の高校PTAのお母さん二人と待ち合わせ、東京駅で校長先生と落ち合って、新幹線で山口に向かう。ぼんやり移動するだけだと5時間の移動も一瞬である。ただ、神戸を過ぎると、露出した岩肌の三角山続きになるのが面白い。新幹線で広島より西に向かうのは初めてで、ふと仰いだ空が見たこともないほど透き通っているのには、ため息が出た。
宿は宇部寄りの外れたところで、向かう電車は1時間に一本しかない。それで、どうせだから日の高いうちにどこかへ寄ろうということになり、タクシーを頼んで瑠璃光寺に案内してもらった。鎌倉時代から栄えて戦国時代に滅んだ大内氏の建てた五重塔がある。運転手さんが親切で、塔の手前の「うぐいす張りの石畳」というのに寄ってくれた。幕末の藩主、毛利敬親の墓所だが、手前の石畳で手を叩くと音が気持ちよく反響する。石畳を少しでもはずれると響かない。ぐるぐるうろついて秘密を探ったが分からなかった。
「わざわざこんなふうに作ったんでしょうか?」
と運転手さんに質問したら、
「いや、参拝した人が偶然に気付いたらしいです」
とのことだった。
それから向かった五重塔には、圧倒された。山の緑に囲まれて、遠目にはふうわりと柔らかく、近寄るとゴツゴツ固く見える、不思議な塔だった。

Yamaguchirurikouji

ここを北上すると津和野に行ける。秋芳洞や萩はもっと近い。しかし行くゆとりはなかった。名物のSLも、先頃の豪雨で鉄橋がいくつも落ちたとのことで、運行していなかった。
タクシーの運転手さんが教えてくれて面白かったのは、県道のガードレールのことだった。普通のガードレールは白い。が、山口の県道だけは、ガードレールが黄色いのである。言われて眺めれば皆みごとに黄色い。県花がナツミカンで、その花の色にしたのだそうだ。さらに面白かったのは、このあと宿に向かうために乗った二両編成の電車も、ナツミカン色だったことだ。

今日22日は高校PTAの全国行事で、宿が外れなので早朝出発だった。缶詰めでどこにも行けないかな、と諦めていたが、夕方少し早めに解放していただいて、念願の中原中也記念館に行くことが出来た。

Yamaguchichuuya

中也の詩は、中学生の頃大好きで、真似をしてみたことがあった。でもそのうち、詩なんぞ書くのは心が病んでいる輩のすることだ、と、ふつふつと思うようになって、やがてやめた。詩を書く中也のイメージも、病んだものへと歪んでしまったままになっていた。その歪みが、中也の写真の澄んだ目にそぐわなくて、中也を思い浮かべる度にひっかかり続けてきた。あの目は長く僕の憧れのままだった。
初めて直に見る中也の筆跡は、健康だった。字の美しさは、健康すぎるほどだった。この人に、やっと素直に対峙出来た気がした。
受付で中也の詩をフランス語訳した本を手にとったら、読めもしないのに離せなくなった。中也が生きていたら手放しで喜んだろうな、と思って、いや、あの人のことだから、顔では喜びなんか出さないのかな、と考え直したりして、そんなこんなするうちに受付のお嬢さんと
「これ、よそで買えますかね」
「いえ、ここだけだと思います」
などと会話して、とうとう財布の紐を緩ませてしまった。

Yamaguchichuuyabooks

中也記念館を出て、最寄りの湯田温泉駅まで三人連れで歩いた。途中に招き猫のような像がいくつもある。気付いてみると、猫もどきの持ち物が店によって違う。酒屋では酒、文具店ではクレヨン、自転車屋では車輪、という具合。自転車屋さんのおばちゃんが
「猫じゃないんですよ」
と教えてくれた。ここの温泉を見つけた白狐さんたちなのだそうだ。

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湯田温泉駅の脇には、足湯があった。おばちゃんと若い妊婦さんが足をひたしていた。それを見て靴を脱いで足を入れたら、
「熱い!」
45℃あるのだった。
妊婦さんは中国人のお嬢さんだった。根掘り葉掘り聞かなかったが、頑張っているらしい。出産予定は来月で、
「今とっても不安です」
と言い、お母さんたちに
「大丈夫だから!」
と励まされていて、それまで少し緊張していた顔がほころんだ。
列車が来るまで30分、みんなでゆったり足湯した。足の疲れが、こんなにすうっととれるものか、と、ちょっと驚いた。

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仙台後半(日記から)

18日、朝食後すぐタクシーを呼んで出発、娘と息子と3人で平泉へ向かう。行ってしまえばささやかなものでしかないのだけれど、金色堂を見せておきたかった。連れ歩ける機会もあとどれだけあるか分からない。連れて行けるうちである。
新幹線で40分ほどで岩手県の一関に着く。そこから在来線で2駅。その在来線の発車番線を間違い、慌ててとって返したら発車のベルがなり、もう間に合わないとあきらめたら、車掌さんが身を乗り出して
「どちらまで?」
と声をかけてきた。
「これを逃したら1時間待ちですから」
とドアを閉めるのを遅らせてくれた。
それで順調に平泉駅まで到着。
案内所で巡回バスの一日乗車券を買おうとしたら、バスで売ってますから、と、にべもない。短気なのでムッとしてバスに向かう。
中尊寺で降り、水分補給用飲料を3人分仕入れ、月見坂という急坂を上る。普段が冷房の中での内勤に肥満で運動不足なためバテてしまう。子供らはすいすい上った。
平らになると弁慶堂というのがあり、義経と弁慶の木像がある。子供たちに覗かせた。それから中尊寺の本堂にお参りして奥に向かう。
金色堂は昭和の大修理で金箔をきれいにはりなおしたあと、コンクリート造の覆堂におさまった。5メートル四方だそうだから、そう大きくはない。暗い覆堂の中で空調に守られガラス越しに見ることしか出来ないので、やはり子供たちへのインパクトはいまひとつだった。が、見たことが記憶の片隅に残ってくれればいいので、それはそれで良しとする。
境内の建物を一通り眺め、お宝の展示を眺め、実家で握ってくれた握り飯をほおばり、中尊寺脇の店で冷やし甘酒なるものを飲んでから下山。そこで父ちゃんは半ば脱水症状になり、頭が痛くなりだした。
父ちゃんの頭痛にもかかわらず、そのあと義経最後の地と言い伝えられる高館にのぼり、またバスに乗って毛越寺に向かう。こちらの浄土庭園は子供らをやや圧倒したようだ。
西日を受けながら駅まで歩いた。
ホームに入ったら、ガリア風の美人さんが向かい側にいた。学校の美術室にある石膏のヴィーナスのような顔立ちだった。大型リュックに靴をぶらさげている。サンダル履きである。勇ましいものだと思った。

Hiraizumi

今日19日は予備日である。
朝にテレビで甲子園の準々決勝第一試合を見たあとは夕方までだらだら寝て、日が暮れかかってから買い出しに向かった。
じいさんは外を自由に歩けないし、ばあさんは重い荷物を運べなくなっているので、近場の生協でトイレットペーパー半年分くらいを買い占めてくるのである。
ついでに少し遠出をして、僕と娘はお世話になっているかたへのおみやげを発送依頼し、それからばあさんを交えて4人でサーティワンのアイスを食った。

明日は昼過ぎにはまた暑い関東にもどり、子供らはてんでに自分の都合で暮らし、僕は明後日からPTAの用事で山口行きである。

普通のペースでの生活にもどらないと、体重も血圧も管理下におけないので、ちょっと困るのだけれど、どうしようもない。

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仙台前半(日記から)

5日朝に自宅を出、昼に大宮から新幹線に乗って仙台へ。はやぶさだと1時間10分で着いてしまう。就職したてのころの東北新幹線は大宮止まり、大宮~仙台間は2時間20分くらいではなかったかな? 在来特急でも4時間、夜行の急行で6時間だったが、ずいぶん速く感じた。今は、旅気分のかけらもない。それでも最初のトンネルにさしかかると、ああここをくぐると白河だな、東北だ、と、少しほっとするのである。

仙台に着くと牛タン飯屋を探すのが、ここ数年の習慣になった。子供らに味を覚えさせておきたいからだ。あたりはずれがあって、今回はハズレのほうだった。焼きすぎでかたかった。
牛タンを食ってから商店街をぶらぶらし、夕方実家に入った。晩飯のあと疲れてすぐ眠った。以降、行動していないときは気力もわかず、たった1冊持ってきた文庫本も読み進まず、なんだかいたずらに体重だけ急増している気がする。

16日はお寺に塔婆を頂きに行き、それから郊外の墓園までお参りに行った。べったり暮らしていたころに比べて、新しい道があまりにたくさん出来ていて、運転していてどこを走っているのか分からないので困った。夜に姪二人が来て泊まって、夜中は暗がりでガキどもの笑い声がずっとやまなかった。姉のほうはラーメン屋のバイトでお店でも重宝がられて張り切っているようだ。妹のほうは中学生になって剣道部に入った。僕がその年頃に使った竹刀を持って行っているらしい。

今日17日は姪たちの親どもも朝やってきて、うちの3人と総勢7人で松島へ。子供たちを乗せたくて遊覧船の切符を買い、いざ乗船したら、2階に行きたければさらに600円払えというので仰天。ここいらの船は昔からあまりに割高な気がするのだが。

Matsushima

湾を一周するなかに、牡蠣棚がぽつりぽつりあって、50%回復したとアナウンスしていたので安堵した。両隣の町は津波でひどいことになったのに、この辺は島がたくさんあるのが幸いして、波高が2メートルにしかならなかったのだそうで、伊達政宗が海岸沿いに建てたお堂も無事だった。
姪たちの住んでいるところは仙台市内だが、津波の直後に津波が被ったと地図に出て、3日間連絡もとれなかったので、もしかしたらとあきらめたのだった。その話をしたら、姉のほうのお友達はひとり、のまれたのだそうである。母親と買い物に行っていて、忘れ物をした、とひとりでうちに帰ったところで地震にあい、そのまま津波にもあってしまったらしい。

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2013年3月27日 (水)

毎年同じ景色でも

おとといは雑務がたてこんだ隙間に子供らの歯医者&唇タラコ騒ぎ対応があり、、で、予定していた通院を一日伸ばしにしてもらっていた。

きのう、それで午後には職場を1時間抜け出してお医者にかかった
風邪でやや息苦しい感じなのでどうかと心配したけれど、血圧は病院で測ったのでは初めて正常値だった。
「風邪なんです」
熱はありません、といったが、念のためと測ることになって、みたら微熱である。それで風邪薬も処方してもらった。

夜は例によって外食である。
リクエストは、ピザおかわり自由の店。そこでたらふく食った。
ほんとうは、どんなに安上がりでも、家庭で「おふくろの味」がいいんだが、我が家では永遠の幻である。子供らの先々を思うと、かわいそうになるのだけれど、いまを考えると、僕のふところがかわいそうである。

うちの前のテニスコートは、満開を保っている。おとといから雨で、気温も低くなったので、花がもっている。帰ってくるおじさんおばさんが、思わず立ち止まって、ケータイで写真を撮る姿が目立った。毎年同じ景色でも、いまこのときが素敵なのだ。

娘は昨日は中学時代の友達9人で近所の公園までバスに乗って出掛けて「花見de女子会」で楽しかったのだそうである。女子会だなんて、生意気なことを言うようになった。

息子は、昨日からのはずだった塾の春講習が今日からになって、これで月内はだらだらした春休みではなくなるだろう。変わり者だから集団ではだめだと、高いのに目をつぶって生徒二人の個別指導カリキュラムを選んだのだけれど、成果のほどは分からない。うまくいくもいかないも「自分次第」だからな、と、うるさい、分かってるよ、と言われても繰り返しているけれど、さて、どうなることやら。

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2013年2月17日 (日)

「見られる」意識

昨日は息子が留守で娘が眠り惚けているうちに、「わが心の歌舞伎座」という映像を見て、ひとりで涙をこぼしていました。役者さんに語らせながら、2010年に建替えのため閉鎖された歌舞伎座の舞台と日常の人々の暮らしを描いたものですが、この中で喋っている 中村芝翫さん、中村富十郎さん、勘三郎さん、團十郎さん、と、4人もの役者さんが、新歌舞伎座の完成を見ずに亡くなってしまいました。どの人も、数少ない観劇経験の中で、舞台から直接、演じる面白さ、素晴らしさを印象づけられたかたたちばかりです。

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http://www.amazon.co.jp/dp/B008FRVT7S/

この映像を見ると、劇場は芝居の工場だ、と、思い知らされます。

大きな世界から見ればささやかな建物の中で、決してお客に直接目に触れることのない人たちが、想像を絶するたいへんな数で、みんな芝居のために立ち働きながら、隠れた日常を過ごしている。しかも、見えないところにいながら、誰もが、(お客様に)「見られる」のだという、はっきりした意識の中で、自分たちの最終製品である舞台上の芝居に向けて一心不乱になっている。

直接の舞台まわりに限って2つだけ。他はまたメモしたいと思います。

Amazonのレビューにも載っているのだけれど、「仮名手本忠臣蔵」の判官切腹の場面で、塩谷判官(浅野内匠頭)の切腹の場に控える家臣を演じる役者さんたちは、ずっと静かに平伏している。舞台に乗っている人たちは、当然です。・・・実は、舞台から見えない袖のところにも、家臣に扮装した役者さんがびっしりといるのです。この人たちは、お客様の目に触れない。でも、舞台の上の人たちと同じように、ずっと静かに平伏している。
「忠臣蔵」は幸いにして前半だけ一度じかに拝見するチャンスがあったのですが、この場は空気が張りつめて客席からも咳一つきこえない。この緊張は何だろうか、と思っていたら、こんなことがあったのでした。

「勧進帳」を演じる白血病上がりの團十郎さんが、最後の六法で花道を駆け終わってお客様の目に触れなくなったとき、力も尽きて息も上がって、付き人さんに抱きとめられるのは、病気上がりだからとばかりはいえない舞台への賭けを強く感じさせる姿でした。
團十郎さんは上手な役者さんではなかったと思います。
まだお父さんがご健在の時に共演していた助六で、かつぎを演じていたのを見たけれど、十代の時のなんか、まるで素人演技です。
その人が、二十歳そこそこで大きな後ろ盾となるはずだった父親を失い、それからヘタクソなりに必死で、たぶん、自分には役者しか道は無いと思って血相変えて生きてきたのです。そんなのは面相に出さない鷹揚な人だったけれど、お書きになったものを読むと強く感じます。

こうしたドキュメンタリーを見ていて、ああ、自分はどこまでも甘いなぁ、と、つくづく思いました。

自分も、年に2度だけは、お客様が「見ている」と意識しなければならない場所に縁があります。それは自分個人が見られるのではなくて、所属しているオーケスト ラが見られるのであるけれど、その部品としては、いちおうお客様にはっきり「お前はこういう部品だ」と見止められます。役割をきちんと果たさなければアン ケートには名指しでご批判を受けます。自分自身の中ではきちんと果たしたつもりでいても、お客様の目と耳にそぐわなければ、叱られます。
それを素直に受け入れられてこなかったなぁ、という思いが一つ。
もうひとつは、いまごろそのマズさに気づくなんてお粗末だなぁ、との苦笑い。
正月の演奏会のアンケートがまとまって、オーボエの年下の方の子がそれを読んで
「みなさん辛口ですねぇ」
とつぶやいたので、いや、そんなでもないよ、と笑ってやったのだけれど、辛口を仰って下さるのは、アマチュアの芸ごとでもお客様が真剣に見聞きして下さっている大事な証しなのです。しかも、正月は、いらして下さったお客様のほぼ全員がアンケートを出して下さったのだということです。僕らの団体なんて、人一倍拙いことしかできていないのだから、有り難いと思わなければなりません。
要約からは省かれていたけれど、当日ひとに教えてもらって、中の一枚に
「あいつの表情が良かった」
と書いてあるのを目にした時は、胸を撫で下ろすのと同時に、この歳になってやっと入口の前に立てたとは、ほんとうに恥ずかしことだなぁ、でも、気づけて良かったなぁ、としみじみ感じたのでした。

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2013年2月16日 (土)

右と左

昨日だか一昨日だか、店で出されるコーヒーカップの把手がどちら向きか、というのでリンクを紹介しているかたがいらっしゃいました。

で、探してみたら、イギリス式は取っ手が左、アメリカ式は右、というのでやんやと喋りあっている掲示板がありました。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2006/0307/081001.htm?o=0&p=2

いまは、良いカップの、とくに内側の模様が見えるようにするために、把手は右なんだ、という、これがもともと紹介して頂いたリンクでした。
http://www.oishicoffee.com/cup/muki_cup.html

あれ、いつも行っているドトールはどうだったっけ。私は何につけ無神経なので、全然覚えていませんでした。
右でした。これは、ロゴが書いてある方を飲み手側に向けたときそうなるように出来ている。左にすると、文字のない方が飲み手側に来るのです。

Doutorcoffee

そうか、と思って、先週行った系列店(コロラド)や、その前に行った星乃珈琲店で写した写真も調べたら、みんな右でした。今日昼飯に行ったデニーズで、おかわり自由コーヒーを頼んだら、特別な絵やロゴもないのに、やっぱり右で出して下さった。

最初のリンクの方で、なぜ右か、いや左か、を、たくさん実用から理由づけなさっている。どれも一理あるのだけれど、本当は、特別にこれだ、と決められるものはないんじゃないかな、と感じています。
合理的な説明、というのは、見た目にあとからくっついてくることも少なくないんじゃないだろうか、とは、最近いろいろ考えるところです。

これまた一昨日、拝読したあるかたの文に、雛人形の男雛の右左の話題がちょっと出てきたのが面白かったのでした。
雛人形のことはともかく、それを拝読する僅かばかり前に読んだ服部幸雄「大いなる小屋」(講談社学術文庫)に、日本は左側を高位と見る価値観が根強かった、だから上手【かみて】は(演じ手 から見て)左なのだ、と、実際に劇中で低い身分の仮の姿から高位の本来の姿に変わる時の役者の位置の移り変わり(下手の低いところから上手の壇上に変わっ て行く)を載せて説明してありました。

なるほど、杓子定規にそうなのではない、と断りはあったけれど、それで舞台を見ると、役柄による配置が、時代物の「熊谷陣屋」でも世話物の「髪結新三」でも原則として守られているのが面白い。

熊谷陣屋〜首実検の場面で、
【しもてから】熊谷妻(下)〜敦盛母(上)、熊谷直実、義経


髪結新三で、
【しもてから】新三、源七親分。新三の下剃の勝奴は基本は後ろに下がっています。


二幕目第三場では、しもてから勝奴、新三、家主長兵衛となります。

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2013年1月25日 (金)

アルジェリア組曲

私たちは、充たされていると・・・充たすものが幸せであろうと、「不満」と書く充満物だろうと、あるいは不幸せであろうとも・・・他所の大きな幸せ不幸せに、つい、自分なりの口出しをしたくなります。

それはその人あの人たちの喜びや悲しみであるのに、幸せか不幸せかというおもて面だけ見て、こちらの勝手な思い込みで、幸せや不幸せの価値を決めつける。そのときは決して、人を見つめてなんかいないのです。

ほんとうは、自分をからっぽにして眺めるのでなければ、「幸せなその人、不幸せなあの人」は、見えない。

ふと、それに気付くと、胸がぎゅっと詰まります。

黙って喜び、黙って悲しむしかないのか?

お釈迦さんの出した答えは、実はそうなのでした。神秘をとう問いには沈黙で答えた、とはよく説明されていますけれど、つまるところは、感覚に正直である以上に説明を求めることの奇妙さを雄弁に拒否する「沈黙」だった。

お釈迦さんのところでは、こんなこともありました。
たくさんの人に優しくし、たくさんの人に慕われた尼さんが、盗賊に惨殺されたのでした。
そのとき、みんなは憤って、
「なんであんなに徳の高いかたが、そんな死に方をしなければならないのか」
と、釈迦に詰めよりました。
「徳の大きさと、どんな死を迎えるか、には、なんの関係もない」
釈迦の答えは、そういうものでした。
(瀬戸内寂聴さんが著書で採り上げている話でもあり、原典の翻訳で読んだこともありま したが、出典をいま思い出せません。生前は国際的な作曲家として日本でも高名だったものの鋭すぎる毒舌で死後も恨まれ一般にはなかなかかえりみられずにい る作曲家、松下眞一の「シンフォニア・サンガ」第2楽章が、この原典を題材にしていたはずです。)

アルジェリアの事件をめぐっては、たくさんのかたが、いろんな感情を抱かれたり抱いたりなさったかと思います。
いま、それを私なりに語りたいと思っても、なんのことばも持ち合わせません。それは、お釈迦さんの示した積極的な沈黙でもなく(現に、こんなにお 喋りです)、世間並みな感情をお釈迦さんのように超越したものでもありません。ただ、勤め人の端くれとしての私の感慨は、日揮の広報の部長さんが
「大変残念な結果だが、全員の確認ができて……大変よかった」
と声を絞り出した,とネット新聞の記事にあるのを拝読して、切なくなったことに、つきている気がしています。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2405W_U3A120C1CC1000/

私は、いまだに外国をじかに知らない、今の世間では化石のような人間です。
アルジェリアは、カミュの小説「異邦人」から、気候の穏やかな地だということを教えられているに過ぎません。

いまは、手元に「異邦人」がありません。

ついさきおととし、自分たちの素人楽隊でやったサン=サーンス「アルジェリア組曲」の、そんなに上手いわけでもない演奏をききながら、見たこともないアルジェリアの夕景色の柔らかい静けさを、宙に描くばかりです。

(夕べの幻想 プリダにて)

なんにせよ、うまく言えません。

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