2008年6月28日 (土)

曲解音楽史38)カール5世の時代:2-中南米

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前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派 37)16世紀スペイン


レコンキスタ(「国土回復」と邦訳されていますが、「コンキスタ」の原意は「征服」です)を成し遂げ、イスラム勢力をイベリア半島から駆逐したスペイン(カスティリヤ)は、それまでポルトガルに支援を求めても良い返事をもらえず悶々としていたコロンブスに大西洋西航のための資金を提供します。これが(本来の目的とは異なりましたが)彼の新大陸アメリカ【中南米】発見として結実し、スペインはこの新大陸で豊富に産出される金銀を大量に手にすることとなりました。
王室は「新発見」したこの土地の先住者たちをキリスト教(カトリック)化するために聖職者たちを送り込みましたが、それと併行して、あるいは別個に「新大陸」に乗り込んだ民間人(貴族)たちは、彼らがインディオと呼んだ先住民族たちを奴隷化し(これはある程度は王室が許可したことでした)、従わない者は虐殺し尽くす蛮行を繰り返しました。特に中米方面でのマヤ・アステカ文明はこのことによて壊滅状態となり、インカ文明を中心とした南米も、都市文明は事実上崩壊しました。
この事実については、現地に何度もおもむいて「インディオ」の救済に努めた司教ラス・カサスがカール5世に上程した告発文を基礎にまとめた『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫に日本語訳あり)で知ることが出来ます。
スペインからの征服者(コンキスタドール)たちが「インディオ」たちを殺戮したおおもとの背景には、どうやら「インディオ」たちにカニバリズム(人肉食)の風習があることへの生理的な嫌悪があったらしいことが、南米に兵卒として赴いたシエサ・デ・レオンの著作『ペルー誌』第一部(邦訳『インカ帝国地誌』岩波文庫)前半部から窺われますが、やがてインカ文明の中心地にたどり着いたレオンは、「インディオ」の全てがカニバリズムに浸っているわけではないことに気づき、さらに、自分たちの西欧に比べて勝るとも劣らない文化・文明を持つことに驚嘆、敬意さえ示し、やがてその歴史をまとめる決意を固めることとなります。(ペルー誌第二部、邦訳『インカ帝国史』岩波文庫。第3部、第4部は未訳)。
政治・社会史的な背景は、以上の文中で触れた、邦訳も出ているそれらの書物に委ねることにしましょう。
なお、中南米の文明にスペイン人が「帝国」の名を冠した謂れは、インカに関してはヨーロッパのローマ「帝国」史観にある、との研究報告が最近出されています(「他者の帝国—インカはいかにして「帝国」となったか」)。



さて、ではスペイン人に征服された当時の中南米の人々の音楽事情はどうだったでしょう。
これは、レオンの前掲2著作から垣間見るに、インカの場合は主に次のようなものが存在したようです。

・国内史の朗誦(スペインの「ロマンセ(叙情歌)」や「ビリュシコ(宗教歌)」に例えられている)
・大祭典(ハトゥン・ライミ)の際の奏楽(歌唱は上に準じ、金製や銀製の太鼓で伴奏された)
・人身御供が殺される前に酩酊状態で歌う歌(!)
・無災豊穣の占いの厳粛な酒宴の祭の大歌会
・戦勝時の神への礼の大歌会
・和平交渉成立時の大舞踏会
文明圏についてはこのようですが、まだインカ文明の傘下にない戦闘的な民族については、
「戦いに出るときは大きな声をあげ、角笛、太鼓、笛などをはじめいろいろな楽器を持っていく。」
(「インカ帝国地誌」邦訳書130頁)という記載を見受けます。

私が耳にし得た「インディオ」音楽は、殆どが太鼓の伴奏によるモノフォニーでしたが、例外もあります。
幾つかサンプルをお聴き頂きましょう。

ホピ族の 〜祝い歌にでも属するのでしょうか。
  この民族はマヤ文明の後裔とされ、予言で有名です。

ナバホ族の
  ホピ族と今も対立している人々だそうで、他の歌も概して戦闘的です。

(以上2曲、"Native American" IMC MUSIC(Portugal) GLD 25449-2)
  
この2例以外でも、伴奏として使われる楽器は太鼓、鈴に限られたものしか聴けませんでしたが、16世紀当時の征服記には登場しないアマゾン上流域のインディオ音楽の中ではフルート族の楽器や「竹製のクラリネット(単リード楽器)が使われており、なおかつ低音が持続的に鳴り響くホモフォニックな発想が見られ、興味深いものがあります。この例をも聴いて頂いておきましょう。



 (世界宗教音楽ライブラリー41「アマゾン・インディオの儀礼音楽」KING RECORDS KICC 5741)
このアルバムには、他国人が入り込むことなく現地の先住民族が暮らし続けて来た希少な地域の音楽が収録されており、しかも先の2例に比べると多様な楽器(クルタ・イとはまた別のフルートや角笛、鈴)で演奏される器楽だけの舞踊音楽などを聴くことができます。

レオンの記載した中での、インカ圏での「祭典関係」にあたる歌唱に相当するものはあげられませんでしたが、以上の歌や器楽から、スペイン人が入り込む以前のアメリカの人々の音楽が垣間見えるようであれば幸いです。

※ なお、マヤ文字あるいはその語彙に音楽や楽器、歌い手などを現す文字がないかどうかを探してみましたが、見つけられませんでした。ご存知のかたからご教示頂けましたら幸いです。



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2008年6月12日 (木)

曲解音楽史37)カール5世の時代:1-スペイン宮廷とフランドル

Tokiomusikfroh
来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス? 36)フランドル楽派


ヨーロッパの<音楽史>にとって、果たして「ルネサンス」は存在したかどうか、という問いに対する答えの鍵を握るのは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(スペイン方面の王としてはカール1世)の生きた時代でしょうか。

高校時代に世界史を履修したかたなら、この人物の名前は割合覚えていらっしゃるのではないかと思います。
彼の王位・帝位継承および治世については、教科書には出て来ない数奇な運命が良きにつけ悪しきにつけ付きまとうのですが、それは、その後も名前だけは重んじられていく「神聖ローマ帝国」の実在を、現実には「最後に」信じて疑わず生きた皇帝だったこととも深いかかわりがあるようです。
ローマ法皇から直接戴冠を受けた「神聖ローマ帝国」皇帝も、この人物が最後です。
暴飲暴食で有名であったにもかかわらず、また、その一生はヨーロッパ各地の思惑に翻弄されたものであったにもかかわらず、カール5世は、生涯を閉じる頃には、少なくとも周囲の人々からは高潔な帝王として大きな尊敬をはらわれたひとでした。その政治顧問の中には、カール5世こそ、
「シャルルマーニュ【カール】大帝(フランク王国によりヨーロッパにかつてな偉大版図を築いたのはご承知の通りです)以来はじめて、ヨーロッパを支配する資格を持つ皇帝なのです」
と持ち上げる者もいました。
しかし、カール5世は、版図のため、よりは、キリスト教(カトリック)のモラルをもってヨーロッパの精神的統一を成し遂げたい、という、むしろ精神的に高い理想を掲げた人物だったように見えます。

版図で言えば・・・それは統一されたものからは程遠かったのが実情でしたけれども・・・カール5世の威令のもとにあった地域は、ヨーロッパ大陸だけで見ると、東はハンガリーから、チェコ、オーストリア、ドイツ圏、フランドル圏を経て、西はスペイン地方(これはこの王をもってしても統一には至らず、アラゴン地方とカスティリア地方に分断されたままでした)にまで至る、非常に広いものでした。その間にフランスが、イタリアへの野心を秘めながら挟まれていた、というのが、ヨーロッパ大陸側の当時のだいたいの政治勢力図です。
更に、カール5世の即位以前に、スペイン人たちは中南米へと進出し、植民地化しています。
一方で、アジア側からはオスマン帝国がスレイマン1世の強力な統制の元にヨーロッパへ圧力をかけつづけ、フランスがオスマン帝国と密かに連繋することによって、その圧力はアフリカ北岸を通じてイベリア半島南部にまで及んでいました。
カール5世が心を砕かなければならない地域の広さは、想像を絶する規模だった、と言えるでしょう。

地域の広さだけならまだしも、彼の時代は、「教会の支配」が崩壊に差し掛かり、宗教革命のあらしが吹き荒れ、誰の心にも共有される「モラル」というものが喪失してしまってもいました。

その中で、一方ではライヴァルのフランスとの戦いに先頭を切って指揮をとる勇敢な武人でもあり、もう一方ではルターら宗教改革派とローマ教皇を軸とするカトリックとの調停に、晩年まで諦めずに取り組んだ「徳の人」でもあったカール5世は、まさにそうした行動が象徴するように、それまでの伝統に固執することによって自らが時代遅れになってしまった、「歴史の犠牲者」であったのかも知れません。

歴史上の事実はさまざまな史書(手軽なものから専門書まで豊富にあるでしょうね)に委ねることとして、
では、カール5世の時代、音楽はどのような「位置づけ」を持っていたのかを、彼が関わった諸領域を経巡りながら観察してみましょう。

・・・となると、西は中南米のインディオのものから、東は現在の東欧諸国まで見ていく必要に迫られるのですが、全てを尽くすことは、もしかしたら最終的には私の手には負いかねるかも知れませんので、あらかじめご了承下さい。



カール5世自身は、スペイン王に即位するまでは、ブルゴーニュ伯でした。
ブルゴーニュ地方は、この頃にはフランス領になっており、伯、といってもブルゴーニュの統治には関与できず、彼は拠点をフランドル地方に置いていました。
したがって、カールの周りで流れていた音楽は、商業の盛んなこの地域が育んだ「フランドル楽派」のものだったかと思われます。
それ以前にスペイン宮廷で奏でられていた音楽はイスラムの影響をまだ残したものでしたが、カールがスペイン王に即位するのに伴って(・・・と、史実はそう単純ではないのですが、ご存知のかた、このあたりは目をつぶってくださいませ)、スペイン音楽もフランドル楽派の「支配下」に置かれることになります。


「音楽」は、学問として中世の主要な科目の一つに加えられていたこともご承知かと思いますが、学問としての「音楽」と実作としての音楽は、中世においては全く別々のものであったことを、ついでですから理解しておきましょう。

学問としての「音楽」は、パリ大学を中心に発展した「神学」の一環として、また「数学」の一環として観察した方がよいものです。
中世当時に教科書として用いられた肝心の理論書そのものは、私は残念ながら目に出来ていないのですが、そのもととなった(ローマ時代にも継承されている)ギリシアの音楽理論書の代表的な一つ、「ハルモニア論」は、天動説を確立したプトレマイオスその人の著作です。読んでいただければ分かりますとおり、「ハルモニア論」は終始一貫して「数理哲学的」なものです。ピュタゴラス派の「音程理論」をアリストテレスの手法(代表的なモデルは「形而上学」でしょうか・・・アホな私には読み解けなかった本なのですが、かすかに覚えている用語からすると間違いないと信じております)を用いて論証・あるいは反証し、結論部はプラトン的な宇宙観を、自ら天動説で表明した見解を敷衍して展開するという、およそ「演奏そのもの」とはかけ離れた内容をもっています。
こうした音楽理論の構成は、実はその輪郭は、18世紀末のキルンベルガー(大バッハの弟子)にまで引き継がれているのですから、両方を読み比べると、日本人である私たちの西欧音楽に対する感覚には大切なものが欠落しているのに気づかされます。・・・が、この話は本論から離れますので、これだけにします。

演奏家は、神学や数学とともに「音楽」を学んでいたにしても、実作上では学問としての音楽はあくまでも「創作」の背景にあるべき規律に過ぎず、しかも、それはのちに「二部形式」とか「三部形式」とかと称されるようになる音楽の形式論とは全く切り離されたものでした。

実用としての音楽は、従って、学問としての「音楽」とはあくまで区分して観察しなければならないのでしょう。・・・その中に、「学問音楽」がどのように反映されているか、は、皇帝カールの為に奏でられた音楽がどのようなものであったかを耳にしつつ、できるだけ当時の感覚に想像をめぐらして、新たに体験しなおさなければなりません。

実用に供される音楽は、学問としての音楽とは別物でした。
カトリックの支持者としては、ライヴァルであったフランスと、宗教に対する姿勢は元来はそう違いませんでしたが、スペインの音楽は、「学問」との隔たりは大きく、<ノートルダム楽派>を擁したフランスに比べると世俗性が強かったもののようです。
カール5世の即位前にも、ブルゴーニュ楽派(フランドル楽派)の強力な師弟、オケゲムピエール・ド・ラ=リューが、おそらく別々の年にスペインの宮廷を訪ねていますが、宮廷では、彼らの高潔な響きよりは、むしろ世俗的な舞曲が流れていたらしく思われます。

・ペーザロ:
  MUSIC FOR THE SPANISH KINGS(EMI veritasX2 7243 5 61875 2 8)

この舞曲、イスラムの面影も残しているのが、この地方独特のものです。これがある意味で完全に西欧化されたとき、今ではフランス起源と考えられている「クーラント」になっていきます。(「クーラント」も、通説ではフランス語でドイツ風を意味する「アルマンド」の変容したものとして扱われているようですが、15世紀のスペインに既にこのようなタイトルでこのような作品があることから見直すべきではないかと思います。・・・ただし、私はあくまで専門外ですから、まっとうな学者さんにきちんとお調べ願えればありがたいのですが。。。)

カール5世がスペイン(正しくはカスティリヤ)の王となったのは1516年ですが、最初は狂女王として有名な母ファナとの共同統治の形をとっていました。神聖ローマ帝国皇帝を正当に受け継ぐには、教皇庁との複雑な関係もあってなお年数を要しましたが、1520年にはドイツの選挙候たちの支持で「ローマ王」としての戴冠をしており、カール王に年金に関する請願をするためネーデルラントに赴いたデューラーも目撃しています。

彼がスペイン本土で過ごした実質的な年数は、即位から退位(1556年)までの40年のうち16年に過ぎなかったそうですが、それでもスペイン語の習得に努力し、スペインの王としての自覚を失うことはなく、自分の終焉の地もスペインに求めたのでした。

カール5世時代のスペインを訪れた有力な音楽家は、ジョスカンやラ=リューの次世代に当たるゴンベールでした。ただし、前世代のフランドル楽派の人々同様、彼のスペイン滞在も一時的なものだったと想像されます(カール5世に採用されたのは1526年ですが、活動したのが明らかになっている地域はブルゴーニュ及びフランドル方面です)。

話は逸れますが、オケゲムを引き継いだジョスカンやラ=リューは、カノンの高度化やフーガに繋がっていく「通模倣」という技法を用いたことで知られています。
Wikipediaでは「通模倣」の確立者はジョスカンだ、とされているようですが、萌芽はオケゲムにあり、それを後年のフーガにつながる方向へと発展させたのがでジョスカンあり(したがって、ジョスカンの作品は動機【ここでは<主題>と同義と思っておいて頂いて結構です】の登場が独立的で明快であり、それに伴って曲も明るめに響いて聞こえます)、カノンの高度化に向けて展開させたのがラ=リューであると理解して頂いた方が、私は適切だと思っております。ただ、この点、ある程度楽譜資料を集めないと、断言まではし得ません。・・・このことを記しておこうと思ったきっかけですが、実は、先日、このブログをよく読んで下さるランスロットさんの奥様がラ=リューのミサ曲を合唱なさったそうで・・・それだけ伺ったときには「でも、私ごときの概観ばっかりの音楽史ではラ=リューに触れる余地はないな、と思っていました。ですが、「通模倣」についてジョスカンだけが際立った扱いを受けているとなると、話が違います。師オケゲムの作風を素直に継承した度合いはラ=リューの方が高く、雰囲気の敬虔さもラ=リューはジョスカンに優るという点は、もっと評価されてもいいのかな、という気がします。せっかくですからサンプルをお聴きいただきますが、彼が採った「通模倣」技法が、決してジョスカンに引けを取らないものであることは、彼の作品の中では比較的分かりやすいと思われるこの曲【数作あるマニフィカトの中の、ほんの1作の、さらにほんの1曲に過ぎませんけれど)よく聞き取れるかと思います。

・ラ=リュー:
  NAXOS "The Complete Magnificats, Three Salve Reginas" 8.557896-97

で、ゴンベール、です。
この人物の作風については、すみませんが、私は自身の耳目では確認しきっていません。
彼の宗教曲はパレストリーナに繋がる非常に重要な、高度な要素を豊富に持ち合わせているそうですが、残念ながら、いま手元にサンプルを持ち合わせません。
一方で、彼は大先輩ジョスカンに優るとも劣らない世俗的歌曲を残しており、私の持っている唯一のサンプルがその一つでもありますので、参考までにお聴き頂いておきましょう。

・ゴンベール:
  MUSIC FOR THE SPANISH KINGS(EMI veritasX2 7243 5 61875 2 8)


これら、一時的に滞在したフランドル楽派の大家達よりも、カール5世当時に本当にスペインで重んじられた作曲家はカベゾンAntonio de Cabezon (1510 −March 26, 1566)という盲目のオルガニストでした。経歴については残念ながら私には把握できませんでしたが、彼が残したオルガン作品は多数残存しており、オルガン音楽の先駆と見なされています。 サンプルは、編曲ものばかりしか手に出来ておりませんが、お聴きになってみて下さい。

・カベゾン:
  MUSIC FOR THE SPANISH KINGS(EMI veritasX2 7243 5 61875 2 8)

彼の作風もまたフランドル楽派の影響を大きく被っているのが分かりますけれど、一方で、最初にお聴き頂いた舞曲と共通する、イスラム的な要素も持ち合わせた、独特のものになっていることも、同時に聞き取ることができるかと思います。さらには、フランドル楽派よりも直裁な、モンテヴェルディ的な音楽への指向も感じられるというのは、意識過剰でしょうか?

スペイン本国(アラゴン・カスティリヤ)で耳にされたであろう音楽は、だいたいこんなところです。

なお、それぞれの曲は「作曲者」が明らかですけれど、彼らは私達が認識するような「作曲家」としてではなく、あくまで宮仕えの「楽士長」として認識されていたし、おそらく自意識上もそうであったことは忘れてはならないでしょう。
ごく最近、石井宏さんがレオポルド・モーツァルトの伝記をお出しになりましたが、石井さんが適切にも仰っているとおり、レオポルト(もしくはその息子であるヴォルフガング)の時代になってもなお、私の知る限りでは、独立した都市を拠点としたモンテヴェルディやテレマンといった少数例以外の音楽家は、現代的な意味での「作曲家」としての「個」を確立していたわけではなく、世の中で「最低の」ランクの仕事である「楽士」という身分の中で、まさに、生き延びるために、名声の獲得へと躍起になっていたという内面、だからこそパトロンを求め歩いたのだという事実は、現代人が考える「個」と彼らの時代の「個」の違いを見定める上で、もっと重視されるべき課題ではないか、と思っております。
(先日採り上げた岡田暁生氏『西洋音楽史』がマショーに作曲家としての「個」の萌芽を見出していることに、同書を採り上げた記事中で軽く反駁しましたが、さらに「マショーが何故例外だったか」を裏打ちするためには、マショーは詩人であったこと、その点では、もっと古い時代の吟遊詩人たちも、たとえばヴァルター・フォン・デア・フォーゲルワイデのように「詩集によって名前が残っていた」ことと齟齬しないことを言い添えておかなければならないでしょう。詩人は中世末期までには騎士階級にまで昇格していました。騎士階級にもなりえなかった「詩人ではない」音楽家達の名前が残るようになったのは、彼ら自身の意思からであるよりは、宮廷もしくは貴族達が、その人格ではなく、その創作に価値を認め、日記や書簡等に音楽家の名を書き留めるようになったからです。・・・もちろん、このことには、もっときちんとした裏打ちと考証が必要ではあるでしょうが、基本的にはこれで間違いない、と考えます。「作曲者」の名前が何故残ったか、という、ヨーロッパ固有の問題については、また機会をあらためて考えましょう。)

次回の音楽史トピックは、いったんヨーロッパを離れて、スペインが乗り出していった中南米の状況を見ていきたいと思っております。

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2008年5月29日 (木)

曲解音楽史:36)神意・俗権・民衆〜ブルゴーニュ・フランドル楽派

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合 35)ルネサンス?


<ルネサンス>問題の延長です。 この言葉が「人間の再生」を意味することは前回も触れた通りですけれども、ヨーロッパ史上の時代区分用語としてしまうと、<ルネサンス>期は、むしろ「混乱と破滅」が横溢していました。 言葉を生んだイタリアが、はるか昔の西ローマ帝国崩壊を未だ引きずった内乱状態にありましたし、アルプスやピレネーという峻険な山脈を挟んでいながら、イタリアを囲む大陸部各地も、常に戦乱の坩堝でした。

よくよくたどってみますと、これはヨーロッパ(東西とも)が「ローマ帝国」世界の最大版図を幻影として引きずり続けていたことに根ざすことのようです。
まず、滅亡したはずの西ローマ帝国は、その後もヒスパニヤ・フランク・ゲルマン民族が混在したままの(カエサル『ガリア戦記』の舞台となった、現スペイン・ポルトガル、フランス、オランダ及びベルギー、ドイツ・オーストリア・チェコ・ハンガリー、ブルガリアあたりまでを包括した)広い地域でその皇帝位が神聖視されつづけ、紆余曲折を経て、西暦800年にカール大帝がローマ教皇から戴冠を受けたことにより、名目上の再生を遂げました。
ところが、この帝国もカール大帝が死ぬとすぐに崩壊し、現代の国境とは一致しませんが、ほぼフランス・フランドル・ドイツ地域に分断されてしまいます。
分断の後、今度はローマ教皇がカール大帝を戴冠した、という実績から(これも複雑な諸々がありましたが、省きます)、のちに「カール大帝の意思を継ぐ」明確な意思表示をしていた東フランク国王オットー1世が961年にやはり教皇からの戴冠を受け、以後、「ローマ」を象徴する「皇帝」の称号はドイツ・オーストリア圏の国王に継承されていくこととなりました。(現在ではオットー1世の戴冠以後、ナポレオンの登場による帝国崩壊まで、さらに体面上は20世紀初頭のハプスブルク家引退まで、ドイツオーストリア圏のこの帝国を、一貫して「神聖ローマ帝国」と呼んでいます。実質はそれほど単純ではないのですが、詳しいことは歴史専門の書籍で確認して下さい。)
「皇帝位」は、のちにまた名目上のものでしかなくなるのですが、ヨーロッパ世界にとっては神聖なものでありつづけ、時代が下り、かの「太陽王」を名乗ったルイ14世がこの称号を欲したものの、許されませんでした。



東に目を転じますと、こちらは以前から瀕死状態だったとはいえ、16世紀半ばまで「東ローマ帝国」が存続しつづけていました。存続しえた最大の要因は、首都コンスタンチノープルが、政治的には末期にはイスラム教を奉じる大国オスマントルコとすぐ向かい合わせにあった不利を抱えたものの、経済的には(まだスペインがインドとの直接交易路を持っていませんでしたから)東西貿易の重要拠点であり続け、富を保ち得ていたところにあったのではないかと思います。
その東ローマ帝国が滅びると、こちらの「皇帝位」は、東ローマから逃れてきたキリスト教徒たちを庇護したロシアが自主的に名乗りだすこととなります。かつ、それを妨げる何者も存在しませんでした。地理的にも、東ローマ帝国滅亡後のロシアは西ヨーロッパとの接点はしばらくの間無に等しく、「神聖ローマ帝国」皇帝との間に「正当性」を争う必要は全くありませんでした。
・・・そんな次第ですから、ロシアについては、しばらくは目をつぶっておきましょう。


再び、西です。

イベリア半島(ヒスパニア)は、レコンキスタと称してイスラム勢力を完全に駆逐し、航海に巧みな連中を雇い、スペイン・ポルトガル両王国が、地中海経由を必要としない、インドとの直接貿易経路を開拓して巨富を得ます。さらに、中南米へも進出し、新奇な物品でなお裕福さを増していきます。・・・このことに伴って中南米に何が起こったかは、また観察することになるでしょう。

それに先立って、フランスは、教皇のお膝元ローマに最も近い、という地理的な利点から、教皇との結びつきを確保することに躍起となり、ついには自国南部のアヴィニヨンに教皇を強制移住させる(第2バビロン捕囚)など、対外政治では強圧的な姿勢の堅持に努めます。

「ローマ」を継いだはずのドイツ圏が、政治・経済面では最弱でした。というのも、帝国を称していたとはいえ、その内実は有力な貴族(皇帝は貴族達の選挙でえらばれる、というのが建前でしたから、その選挙権を持つ彼らは「選挙公」と呼ばれました)が各々の自領について多くの特権を有したままであり、とても「統一されている」とはいえない状況下にあったからです。そのため、皇帝の代替わりの度に新たな勢力争いが生じ、内乱が絶えませんでした。(これが結果的に、音楽面では18世紀にドイツ音楽を多種多彩な優れたものへと育成していくことになったのですから、世の中、何が良くて何が悪いか、分かりません。)



歴史そのものの話としてはかなり大雑把なのですが、以上からまず明確になるのは、まず、宗教上、カトリックの伝統が最もよく保持されたのはフランスだったということです。
実際に、カトリック聖歌の最初の発展は、フランスを舞台としています。
ペロティヌス・レオニヌスの世代にノートルダム寺院を舞台として萌芽した、複声化(ポリフォニー化)した音楽は、アルス・ノヴァ(新芸術)と称し、14世紀を代表する音楽家ギョーム・ド・マショーを世に送り出します。
それが次には、フランス王国内のブルゴーニュ伯領に引き継がれ、「巨星」と称されるギョーム・デュファイを生み出し、より美しい響きへと昇華していきます。
さらに、その伝統は、東洋貿易によるイベリアの富と、地中海貿易によるイタリアの富が、海と川の両方から集積されるという、地理的に非常に有利な位置にあったフランドル地方へと引き継がれ、代表例としてはオケゲムの敬虔な音楽へと結晶することになります。

<聖界>の音楽は、おおまかにはこのようなものですが、実はデュファイなどはミサ曲の作曲に際して民衆の間で有名だった流行歌を下敷きにしたり、と、このころから、音楽は<神意>の中に<民衆>を取り込むようになっていきます。
それが最も明確になるのは、ジョスカン・デ・プレの作風です。
ジョスカンの音楽は、宗教曲においても、師のオケゲムよりも明るい、開放的な色調を帯びます。また、彼自身の作曲した世俗曲も、16世紀初頭までにはほぼ西欧に定着した印刷術の助けもあり、幅広い支持層を獲得したと思われます。

それぞれの活動拠点から、デュファイは「ブルゴーニュ楽派」、オケゲムやジョスカンは「フランドル楽派」と呼ばれますが、系統的には<アルス・ノヴァ>からまっすぐに繋がっていると思ってよいでしょう。すなわち、西欧音楽の流れは、<人間の再生>という方向からではなく、<神意>をより輝かしく飾る方向へ進みつつ、そこに「民衆音楽」を組み込むことで、伝統を断絶させることを回避しながら発展してきた、と言っていいのかと思います。
実際にお聴きになって、確かめてみて下さい。

・マショー :ノートルダムミサから (アルス・ノヴァ)〜デラー・コンソート
・デュファイ:イムヌス (ブルゴーニュ楽派)〜テルツ少年合唱団
・オケゲム : 〜ヒリヤード・アンサンブル
・ジョスカン:ミサ「パンジェ・リンガ」から 〜クレマン・ジャヌカン・アンサンブル
       

デュファイやジョスカンによって、当時の民衆音楽の様子も記譜されたものから推測できるようになるのですが、彼ら自身は宮廷に仕え続けたのでして、その点では、
・創作していたのは<神意>の音楽
・演奏の場は<俗権>の世界
だったのです。
これが、以後の西欧音楽を「宮廷のもの」と「民衆のもの」に分け隔てていく源となります。
その分化の様子は、またしばらくの間窺いにくくなりますが、別途イギリスの音楽を観察することによって、ある程度推測することは可能だろうと思います。・・・これについては、あらためて見ていきます。

フランドル楽派の時代、この地方には思想面でも興味深い動きが現れます。
こちらの面の代表者として、エラスムスを例に出しましょう。
彼の「対話集」の中には、デュファイやジョスカンも曲を付けている伝統的なカトリック聖歌の効果について、愉快なエピソードが見られます。

<難破>から
アドルフニス 君があの場にいたら、われわれがなんともあさましい場面を演じるのを目撃しただろうな。水夫たちは「めでたし元后(サルヴェ・レギナ)」を唱い、聖母にお助けを請願し、彼女のことを、やれ「海の星」だの、やれ「天なる女王」だの、やれ「世界の女主人」だの、やれ「救いの港」だのと呼び、そのほか聖書のどこを探しても見あたらない称号をやたらと奉ってお追従を並べあってていたっけ。
アントニウス マリアと海とどんな関係があるのかね?たしか彼女は一度も船旅なんかしたことがないと思うがねえ・・・・・・。
アドルフニス 昔はウェヌスが水夫たちの守り神だったんだがな。海から生まれたと信じられていたからね。ところが水夫たちの面倒をみることを彼女がやめてしまったので、この処女ならざる母の役を聖母が引き継いだわけさ。(渡辺一夫訳)

エラスムスがこれを書いた頃は、折りしもルターが宗教改革を断行しようとしている真っ最中で、エラスムスは最初はルターを応援しながらも結局は相互の思想の差に気づいて断交したりしています。
背後ではフランドル生まれのカール5世が、ハプスブルク家の巧みな婚姻政策で、神聖ローマ帝国皇帝となったばかりか、スペインにも君臨する、という時代を迎えています。
輝かしく見えるカール5世ですが、帝王としては苦悩の一生を送った人物でもあり、退位の際には涙ながらに
「これまで、私は皆に良かれと信じることをなしてきたが、結果がそうではなかったのなら許して欲しい」
と発言したそうです。
彼の人生は、西はスペインの中南米支配、東はオスマントルコとの抗争とも密接に関わっていますし、宗教改革運動にも絡んできますので、また別立てで、彼の送った人生に即した「音楽」を見て見たい気がしております。(そのときには、フランドルからイタリアへ、さらにイタリアからドイツへと、音楽が輸出されていくさまを知ることができるでしょう。)
このカール5世の戴冠の時期には、ドイツの画家デューラーが(新帝の関係者から年金の保証を得るため)ネーデルラント旅行に出向いており、道中で片目の見えないラウテ奏者の画像を描いたりしています。デューラーも音楽には大変関心が深かった、とのことですが、残念ながら私にはそれがどの程度のものだったかを知る材料は得られませんでした。ただ、その道中記に、街中での奏楽の様子を書いた文が一ヶ所だけ現れます。

(1520年)8月19日
聖母被昇天節の後の日曜日にアントウェルペンの聖母教会の大行列を見た。(中略)合間合間に華美な大燭台が担がれて通り、それにはフランス風の長い銀のラッパ隊が従った。またドイツ風の鼓笛隊も大勢いた。音楽は高らかに吹かれ、また激しく奏された。
(後略。デューラー「ネーデルラント旅日記」前川誠郎訳 岩波文庫 2007年)

屋外では管楽器の演奏が常識だったらしいことが、ここからは推測出来ます。当時にしては国際色豊かなのが、土地柄を表しています。

民衆音楽そのものかどうかはなんとも分かりませんが、出版が栄えていたおかげで、多くの舞曲の楽譜もまた、この地で印刷されています。
最も有名なのはスザートの編んだ曲集やプレトリウスの「テレプシコーレ」で、今の日本でも、中学生くらいからこの曲集のものを金管アンサンブルで楽しんだりしています。

・スザートの舞曲集から 〜マンロウ/ロンドン古楽コンソート

・・・これは、ひょっとしたら、お耳になさったことがあるのでは?
・・・でも、変わった音でしょう? ラケットという楽器が使われています。

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2008年5月17日 (土)

曲解音楽史:35)音楽にとっての「ルネサンス」とは?

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ
    34)イスラムと西欧の融合


さて、再び西欧に戻って来ました。
マルコ・ポーロがヴェネチアに帰着した1292年以前のイタリアは、それまでのおよそ8百年、およそ3つの領域に区切られた行政下にあったとみていいのかなあ、と思っております。
すなわち、半島の北半分は、ゲルマン人と上手く接点を見いだして力を維持していたローマ教皇が西ローマ帝国の残影とは言いながらもそれなりの高い権威を維持して傘下に置いており、南半分は東ローマ帝国に服属、シチリアは移住して来て治めていたノルマン人がイスラムを受容した結果、ノルマン王朝の衰微後もイスラム圏に組み込まれた恰好でいちおうの安定を見ていました(厳密な史実はさまざまに錯綜していますから、正確な言い方にはなっていませんが、目をつぶってくださいね)。
分立しているように見えながら、シチリアを除けば、もう滅びてしまった、あるいは滅びつつある『古代ローマ」の精神のもとに潜在的な連携意識が存在し、かつシチリアがイスラム圏であることの(客観的に見た場合の)メリットとして、経済的には才知に長けたイスラム商人を手本に、地中海貿易を盛んに展開することで、着実に「商業の重要性」への目覚めの直前まで達していました。

ただ、イスラム商人が主導権を握っていた地中海貿易では、当然、イタリア人が直接手に出来るわけではなく、商業とは何かへの覚醒に近づいていた彼らは、自らが被っている「損」に対しても、意識しだしていたはずです。
『東方見聞録』はおそらく、損に気づきだしたイタリア商人の活動をも記録したひとつの典型例に過ぎませんが、それまで陰に隠れていた「商業上の被害者意識」は、このような書物が出たことで一気に顕在化したのでしょう。
しかし、「被害者意識」の解消を最初に積極的に図ったのは、イスラム勢力への対抗力を増しはじめていたスペインであって、イタリア人ではありませんでした。
イベリア半島のこの王国が先行出来たのは、イタリアとの間で河川を用い貿易していたフランドル地方(現ベルギー、オランダ)が、イタリア経由で手にした富を、フランスと対抗するためにイベリアの2国に肩入れして優先的に分配した結果であって、その証拠に、イスラム圏を経由しないでインド貿易を可能にしたイベリアの利益はフランドルの方をいっそう豊かにしていきます。スペインと同じくフランスと対抗関係にあったイタリアは、結果的にフランドルに漁父の利を与えたのだ、と言えるでしょう。


スペインが独自のインド貿易路を確保した背景には、イタリア中部については、急速に進行した東ローマ帝国の衰微が、北部については西ローマの「帝権」を引き継いだと称する現ドイツオーストリア圏(神聖ローマ帝国)からの圧迫が、かろうじて底流に残っていたイタリアの精神的統一感情を破壊してしまう結果を招いたところにありました。また、南部は、イスラム勢力の隙をついて十字軍後に巧みにシチリア・ナポリに入り込んだフランスが教皇支配圏を踏み越え、実質上の分国としてしまっていました。

その結果、それまで「教皇の国家」とみなすことが可能だった北・中部は、北は主に幾つかの公国(最終的には神聖ローマ帝国のあるじとなったハプスブルク家の支配するミラノ公国が主導権を握ります)に、中部は東側はヴェネチア、西側はジェノヴァ、中央はフィレンツェがリードしたと見なし得る多くの都市国家へと分裂してしまいます。同時に、教皇の権威は、名目的には最上のものであり続けたものの、実利の面では大きな後退を余儀なくされたのでした。

日本の<世界史>教科書では、この時期のイタリアに<ルネサンス>という輝かしい時代が到来した、と明るく語るだけで済ませて来ていました(確かめましたら、今なおそうであるようです)が、はたして、<ルネサンス>というのは、輝かしい<時期>の名称だった、と安易に受けとめることは正しいのでしょうか? なおかつ、<ルネサンス>とは、中世と近世を橋渡しする、全西ヨーロッパ的な<時代>をあらわす言葉として捉えてよいのでしょうか?


ご存知の通り、<ルネサンス>とは「人間の再生」を意味する言葉ですが、最初は歴史用語としてではなく、(この語を時代用語として捉えている目からすればまさにその時代のさなかである)1550年に、画家のジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜1574)が用いた言葉に過ぎません。それを歴史用語まで敷衍したのは19世紀のブルクハルトです。

<ルネサンス>を、時代用語にまで敷衍してよいのかどうか、という疑問は、音楽の面から見ると、どうしても強いものになります。
<ルネサンス>の言い出しっぺであるはずのイタリアが、こんにちいわゆる「ルネサンス時代の音楽」と呼ばれているものについては、<ルネサンス時代>当初は全くリードしている形跡が見られないからです。
日本での最大の先学である皆川達夫氏は、かつて講談社現代新書から出版されていた「中世・ルネサンスの音楽」の中で、この時期のイタリア音楽が・・・すっとばしてきてしまいましたけれど・・・同時期に既にマショーを代表としてアルス・ノヴァ(新芸術)の域に達していたフランスに比べ、大きく遅れをとっていたことを示唆しています。

語意からする<ルネサンス>は、イタリアが嚆矢であったことは間違いありません。すでに14世紀にはペトラルカの素晴らしい詩や書簡集、ボッカチォの画期的な「デカメロン」が誕生しており(ダンテの「神曲」がそれらに先行しています)、無数とも言える人々が、伝統を根底から反省する必要性を声高に訴える優れた言葉を残しています。(このあたりについては、素人ですから読みやすいものばかりを数年間当たってきたのですが、岩波の「ジュニア新書」と称しながらも、澤井繁男「ルネサンス」が最も優れていると感じており、これに勝る本は、成人向けでは見つけていません。2002年刊。)


ところが、音楽は、そうした思想界、あるいは政治界の変換への動きとは、イタリアでは全く連動していないのは、先の皆川氏の発言の通りです。<ルネサンス>中期まで、イタリアで大事にされた音楽は、情感の豊かさでは他国に引けを取らないものの、単声の歌曲でした。14世紀の代表的なそれは、ランディーニ作の有名な「涙まなこに溢れ」です。・・・「イタリア歌曲集」の楽譜をお持ちの方なら、その第1集(でしたね?)にこの歌が載っていることを十分ご承知かと思います。

15世紀に入っても、年譜を見ると、ポリフォニー(イングランドにおいてはホモフォニーですが、いったん考慮の外に置きましょう)への道を着実に歩んだ音楽家は、「漁父の利」を手にしていたフランドル地方の出身者に独占されているかのようです。そうしたなかで、かろうじて、まずギョーム・デュファイが1428年から44年まで、ジョスカン・デ・プレが1474年から5年ほど、イタリアの特定の箇所に一時的に場をウツしているに過ぎません。

果たして、デュファイやジョスカンら、いわゆる「フランドル楽派」の音楽の時代を「ルネサンス」と呼んでしまってよいのかどうか、は、今度はイタリアから拡大して、やはりフランドルでエラスムスによって身を結んだ人文主義(ユマニスム)という思想的な動きと、<ルネサンス>という言葉を直結させてよいのかどうかにかかってくるわけですが、その評価は、また別に行なわなければなりません。
そして、この「見直しをされなければならない」音楽の延長線がようやくイタリアにまで至るのは1510年代のガブリエリ(父)の頃が初めてであり、ついで「カトリック音楽の牙城」を築いたパレストリーナがようやく1530年代に生まれ、それからほとんど時を隔てず、30年後にはもう「バロック音楽の創始者の偉大な一人」であるモンテヴェルディが生まれているのです。


こうやってみてきますと、<ルネサンス>を、少なくとも音楽の時代区分をあらわす用語として用いることには、私は無理があるのではないか、との思いを抱かざるを得ません。<時代区分>としてではなく、音楽語法の上で(デュファイやジョスカン、オケゲムという先行する他国人を無視せずとも)人間の内なる「神聖さへの謙虚な帰依」を完成させたのはパレストリーナであり、「人間的な情感の多様さの描法を確立」したのはモンテヴェルディです。
いちおう、パレストリーナは現行の「音楽史」の中では「西欧のルネサンス期の音楽」の後期に位置づけられていますが、本来ならば、あくまで時代用語としての<ルネサンス>にこだわるのであれば、音楽のうえでそれを文学上のペトラルカに対比し得る創始者として位置づけられるのはパレストリーナなのであり、同じくボッカチォに対比しうるのはモンテヴェルディ(こちらはバロック初期に位置づけられている)なのであって、音楽における<ルネサンス時代>は、イタリアにおいては文学からみて200年は遅かったのだ、という仮説を、今回は呈示させていただこうと思います。

したがって、適切な音楽の例を音で示しませんが、ご容赦頂きたく存じます。
音の例は、フランドル音楽のほうを観察しながら、この仮説の検証に用いて行く所存です。

・・・ちょっと、大袈裟な話になっちゃったかな?

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2008年5月15日 (木)

あるべき「問い方・答え方」?

日常考えていることから派生してきた、ささやかな疑問です。

音楽はどう発生し、どう受け入れられてきたのだろうか、ということ(すなわち、一口で言えば音楽史)を考え、調べるようになって、中世にまで達したところで、はた、と手が止まる思いがしました。

単に「音楽」の観察からだけではなく、今の世の中をその観察と重ね合わせてみたとき、地域によっての思潮の傾向の落差は、どうも5,6百年前に根ざし、現代にまで引き継がれているのではなかろうか、との印象がぬぐえなくなってきました。
このことについては、これから観察していくことですから、
「結論はこうだ」
と断言できるお話は、一切ありません。

いつもの通り、「時事」の話ではありません・・・と先に申し上げても無効なのは、ゴールデンウィーク前に重々承知はしておりますが、「時事」の「時」は「(今の)時」という限定が入り、それだけ主観的要素にも左右されやすくなります。
もともと極めて主観的な人間である私は、「『時事』の話ではない」とお断りしておかないと、どう暴走するか分かりませんので、これによって自分自身に足枷を嵌めているのだ、とご了解下さい。(手かせまで嵌めちゃうとキーボードが打てなくなるので、そこまではしておりません、ハイ。)

先に、こんな疑問を抱いた背景には、このところ立て続けに起こった、東・東南アジアでの大地震と、その救援についての世界各地の申し出方の姿勢・それを受け入れる側のそれぞれの政府の姿勢があります。なおかつ、私の中で悶々とくすぶっているチベット問題もなくはないのですが、こちらにまで範囲を広げますと、現代だけでもイスラム問題やパレスチナ問題にまで話が広がってしまう上に、それぞれの問題の起源を遡って行けば行くほど、それらについて何かを語る資格は私にはないと思っておりますから、「地震」の例だけを出発点に据えます。(それだけでも、採り上げない問題についてどう考えていくべきかのヒントは得られるのではないか、とも思っております。)



最初に事例を挙げますが、これは本論ではありません。

まずミャンマーで、続いて中国四川省で起きた地震は、日本で最近最大規模だった阪神淡路大震災の4〜5倍に及ぶ被害を引き起こしました。
大陸部では「地震」という経験自体が殆どなく(これは発生メカニズムの関係で、海溝から隔たった陸地では地震が起きる確率が非常に小さいことによるのでして、過去も地震での大被害は大陸内部が圧倒的に多いはずです)、建築物に耐震性など求める習慣がもともと存在しないためであり、まず「被害の大きさ」自体には、それぞれの国あるいはその国の住民の方には何の責任もない、ということは認識しておくべきでしょう。

被害が起きてしまった・・・その先の、(これは国家単位でしか考えられないところがイタイのですが)ミャンマー、中国に対する他国からの救援支援の申し出を受けた側の「答え方」、さらにそれに対する、申し出た国の「問いかけの仕方」を、ちょっと見ておきましょう。

中国については、まず、援助を臨機応変に受け入れるのはやぶさかではないという姿勢で、紛糾する点がまったくありませんでしたね。これは(民族問題は災害よりも後回しでよい、という、「人命尊重」の基本的な優先順位にはかなっているためにでしょうか)中国が「経済成長政策」に転じて以降、国家運営のバックボーンとなる「基本思想・主義主張」を引っ込めてでも他国への門戸を開いておいた方が良い、との判断をしてきたことが、救援を申し出た側から見れば「実を結んだ」ものでして、中国側から見ても、外国資本を取り入れても自国に経済損失はなかった、むしろ大トクをしたという実績を築いたうえでの自信が、受け入れ申し出に特段拒絶する必要を感じなくなったという、この国の、ここ四半世紀ほどの「変質」が大きく関与している点は、(当事者側の中国はどう考えているかは分かりませんが)他国側はほとんど意識していないものと思われます。
(16日付記:この記述、私自身世の中に疎いので、中国が必ずしも「援助受け入れ」に積極的ではない・・・四川省はチベット系を含む少数民族も多く、事情はそう簡単ではない、という点について認識漏れがあるようですが、ミャンマーとの対比の上ではそれでも「緩い」事情は間違いではなさそうなのでこのままとします。)

一方のミャンマーは、各国の救援の申し出をかたくなに拒絶したことで、現在の国家運営責任者である軍事政権は、手始めにフランスという、地理的にはるか遠くにある国からケチョンケチョンに非難され(すなわち「なぜ受け入れないのか」とキツい口調で問いかけられ)、その他の諸国もほぼその非難に同調している状況です。結果的にミャンマーの軍事政権は、「親善国」であるタイ・インド・バングラデシュ・中国からのみ支援を受け入れる、と表明しました。これは、他の国から受けた非難に屈したからでしょうか? そうではないでしょう。
「国家」という単位でなければ、現状、ミャンマーは日本のNPO法人からの支援などを受け、現地の人たち自体も支援を受けるにあたって、拒否的ではなく親善的な態度で臨んでいるとのことでもあります。
ですから、軍事政権の「拒否」は「国家対国家」という(正体としてはヴァーチャルな)視点での話に過ぎず、人と人、という対話の上に決定されたものではない、というのは、案外、盲点になっているのではないでしょうか?
軍事政権でなければ、民主国家を標榜する政府になっていれば、ミャンマーは他国全ての「救援」申し入れを受け入れたのでしょうか?・・・軍事政権以前にもミャンマー(ビルマ)が非常に長期間にわたって鎖国を続けていた理由は、ここでは等閑視されています。

「今」に目を奪われると、そこに至ったプロセスは等閑視される。
今回はほぼ同時期に起こった地震による甚大な被害に対し、それぞれの「国」がどう対応したかで、それぞれの「国」が辿って来た過去のプロセスの差異や本質も浮き彫りにされた、という点を、本来は他国は<接し方をより深く考えるために>注目して然るべきかと思われますのに、そういう視点からの報道ないしコメントは、少なくとも私の耳目にし得る限りの狭い世界では全く見当たらない、というのが・・・長くなりましたが・・・私の「疑問」の出発点です。



隣近所との交流、というのは、別に現代でも、いちいち記録される習慣は存在しません。
これが、離れた土地同士の複数人の交流、となると・・・文字に書きとめられるようになるのは、その必要性を人々が感じるようになって初めてのことですから、いつから始まったか、を特定することは困難です。すなわち、こちらについても、もともと記録する習慣はなかった。

話題が逸れるようですが、中世後期から、音楽は、おおまかには東洋では無記名のままで、西洋では記名性をもって作曲ないし演奏される、という区分が生じてきます。
これは、私の身近でルネサンス以降の音楽にもお詳しいかたに言わせれば
「文字文化と印刷文化が西欧では発展した、そのことによる影響が大きいのだそうですよ」
とのことでしたが、そのお話を伺ったときに私の方から言ったのは、
「いや、西欧では音楽家も宮廷の支配者の<ステータスシンボル>としての価値を持つようになったからなんじゃないでしょうかねえ」
という、やはり素朴な疑問でした。
いま、そのことの真偽を調べたい、と思って読書を続けております。

関連して、薄手ながら興味深い本を読みました。未知だった異文化圏との交流に関する、ヨーロッパでも早い時期に属する記録のひとつだと見なしてよいものではありますが、標題が、驚愕モノです。
「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(ラス・カサス著 柴田秀雄訳 岩波文庫)
という書名で、コロンブスの中南米<発見>以後、現地に赴いたスペイン民間人が、その地のインディオたちを如何に謀略にはめ、隷属させ、殺戮の限りを尽くしたか、を、同じ中南米に赴いたスペインのカトリック司教が国王に対して告発した文書です。(ついでながら、インディオの殺戮の不当を訴えたこの司教も、黒人奴隷については是認していたらしい痕跡がある、とのことですが、アフリカの黒人達をヨーロッパ人が奴隷として使役するようになった起源についての明確な記録は、私は目にしていません。)

この本からは、自分たちの目から見れば未開である民が、無尽蔵のお宝を有する土地でその価値にも気づかず暮らしていたことが、「征服者」にとっていかに好都合であったか、を読み取ることが出来ます。その目を蔽うばかりの残酷な記述は「偽りであって欲しい」と祈りたくなるものですけれど、現実に、それまで南米に存続していた「帝国」は、征服者に太刀打ちできる外交について全く未経験であったためもあるのでしょう、この本が書かれた頃には風前の灯となり、まもなく滅亡してしまっています。

かつ、この本のその後の経歴も、解説で知られる限り数奇な運命をたどっており、17世紀にはフランドル地方の独立のために「スペイン人とはこれほど残虐なのだ」というプロパガンダ構築に利用され、19世紀には、今度は南米に移住した白人の子孫により、同様に先祖の国の束縛を逃れるために、支配者スペインの冷徹さを裏付ける史料として用いられたのでした。

本来は、「このような憂うべき事実を、スペインの国王に阻止してもらいたい」との主旨で書かれた本書は、当初、スペイン国王(実際に着手したのはカルロス1世=神聖ローマ皇帝カルル5世)が自国民の南米での無謀を阻止するために・・・時既に遅しではありましたが・・・活かされたのでした。「事実」を為政者が確認し、「事実」に対処するために、という、元来の目的に答えて欲しいが為に本書は書かれ、それなりに効果も発揮したのです。
ところが、時を経ると、こんどは本書の救済の目的であったインディオとは全く別の集団が、彼らの都合のいいように本書を解釈し、利用するようになったのですから・・・それによってもたらされた結果の良し悪しは別として・・・実に皮肉なものです。



日本の高等学校の「世界史」教科書がいまなおそうなのかは知りませんが、私の高校時代の教科書では、「インディアスの破壊・・・」の書かれた時代は、<大航海時代>と<ルネサンス>という二つの定型句によって、西欧の最も輝かしい時期であった、と称揚されるだけでした。おかげでインディオの帝国が滅亡した、などという側面には、ひとこと程度しか触れていませんでした(ひとことあっただけでも幸いだったのでしょうかね)。東側に目を向ければ、西欧が<大航海時代>なるものを迎える以前に、すでにイスラム商人の活発な活動でインド洋諸国は交流を深めており、しかもこの時代にはインドにはムガル、中国には元〜明という強力な帝国が存在したこと、かつ、これらの帝国は(幾度もの争乱は避けられなかったものの)近隣の小王国に対してはそれを滅亡させる、というまでの発想はなかったこと、かつ行き来した商人の主流もイスラム教徒だったとは言っても、相手国の宗教に対しては干渉しなかったことなどもあって、インド洋諸国の交流は西欧の介入後に比べると、ずっと平和なものだったのです。


「財宝を我が物に」
に最大の価値観を置く点では、西洋・東洋の差は、それまではなかったと感じております。

「財産家には名誉を」
というふうに集約してしまっていいのかどうか分かりませんが、早期に絶対王権(帝権)を確立していた東洋世界では、個人に特定された名誉というものは助長されようがありませんでした。

西欧の<大航海時代>は、それまでの芯であった「ローマ帝国」が、まず西、その千年後に東、と崩壊しており、とくに東ローマ帝国滅亡後は「神聖ローマ帝国」という抽象的な理念の元で誰が<帝国>を再構築するのか、に最大の関心が払い始められ、同時並行で<いまさら、帝国よりも、我々自身の富・名誉だ>という、まずは富者中心の<個人主義>が蠕動し始めた時期でもありました。
それが、西欧の活動が東は既存のインド洋貿易、西は未開の中南米征服というかたちで外向けに展開されたとき、これは良心的に解釈して、ではありますが、大帝国未確立の状況下では自らのステータスシンボルの新たな獲得と明示を急務とせざるを得なかったため、自分たちの故地ヨーロッパで「名を売る」ことに熱中した結果、自分たちでも思いもよらなかったほどの残虐さを発揮する結果をもたらしたのではないか、と、およそ今時点での私には、そのようなヴィジョンが脳裡に浮かんできて、抑えようがありません。

かつ、このように考えると、この時代以後、東洋世界が西洋世界に対し順次「鎖国的」政策をとるようになって行ったプロセスも明確になるのではないか、という<妄想>さえ抱いております。(さらには、日本が「開国」後、なぜ無反省に西洋世界の「帝国主義」を受容したのか、まで筋道をつけて見通せる気さえしているのですが、そこまで話を拡大するのはやめておきましょう。)
音楽においても、このような文脈の中で「高い名声を誇る音楽家」個人がステータスシンボル足りえる価値を獲得したが為に、以後、作曲活動も演奏活動も、先ずは宮廷の、続いては資産階級の「特にふさわしい地位を示す財産」となることを前提に、「記名性」が重要視されたものへと変貌していくことになったのではないか?

ここまで記述してきたことは、最近起こった事実から、私が連想し、私が私に問い、私に仮説としての答えを出してみたものです。

これが「あるべき『問い方・答え方』」に成りえているのかどうか・・・さらに慎重な検討が必要なのではないか、とも感じ、考えている最中です。



ここで、16世紀の西欧人の手になるものですが、こんな私に熟考を促す恰好の著作物があります。
著者をエラスムス、書名を『痴愚神礼讃』といいます。
<愚かさを司る神を礼賛する>という書名にも関わらず、内容は古代ギリシア・ローマの古典を豊富に典拠として引用し、比喩に用いているため、私たち(いや、これではどなたにも失礼なので、私だけ、と言っちゃって構わないのですが)には適切な注釈なしには読解することが出来ません。
そのためでしょうか、ずっと以前には文庫本化もされていたのですが、今では新訳で読むことが出来ません。(中央公論新社から、渡辺一夫氏の旧訳が再発刊されています。)
それでも、この書物、インディアスを破滅に追いやっている同国人を告発した人物と同じ、いや、それ以上の精神で、国家レベルから個人レベルに至るまでの「人間の愚かさ」について、典拠をもって白日の下にさらしていく、外野として読む分には痛快な、自身のものと捕らえて読むには非常に酷なエッセイです。
中に、このような言葉があります。

「善い法律というものは、疑う余地もなく悪い風俗があってこそ生まれるものですからね。」(渡辺一夫 訳)

これに、今、はた、と考え込まされているところです。

煩雑な文にお付き合いさせてしまい、恐縮でした。

インディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)Bookインディアスの破壊についての簡潔な報告 (岩波文庫)


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痴愚神礼讃 (中公クラシックス)Book痴愚神礼讃 (中公クラシックス)


著者:エラスムス

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2008年5月12日 (月)

曲解音楽史31-32補遺:スマトラ島の音楽

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 補遺:スマトラ島
    33)東アフリカ



マルコ・ポーロの元からの帰路に沿った世界の音楽を巡る旅は、いちおう前回で終わっていたのですが、その中で素材が見つからず断念していたものの一つに、なんとか触れることが出来ましたので、「補遺」として簡単に掲載します。

東南アジア島嶼部の「スマトラ島」です。

結論から言えば、触れ得たのはこの島の西部、すなわちインドネシアの中では歴史的におそらく最も初めにイスラム文化と接触した一帯に残されていた音楽なのですが、想像とは全く異なり、実際には「イスラム教的」というよりは、より東南アジア伝統そのものに近い(分かりにくい言い方ですみません)ものでした。

耳にしえるものは、この島に何種類も残っている伝統音楽のひとつに過ぎないのかもしれませんが、それが「銅鼓ガムラン」でもなく、イスラム的、あるいはヒンズー的な撥弦楽器でもないものであったところに、大きな意味を感じます。

西スマトラの音楽は、「竹笛を伴奏とした歌唱」なのでした。

これは、(今まで採り上げていませんが)ビルマ残っており(ちなみに、ビルマ【ミャンマー】の古典音楽はタイの宮廷音楽を18世紀に輸入したものとみなされているのですが、竹笛についてはどれくらい遡るのかは不明です)、バリ島ではガムランの中にも取り入れられており、さらにフィリピンの土着音楽にも定着しているものですから、インドやアラブの影響以前の「東南アジア世界」の音楽の原型を最も忠実に引き継いでいる可能性があります。

念のため柘植・植村著「アジア音楽史」(音楽之友社 92頁)を確認しますと、以下のように記述されています。

「東南アジアの音楽においては、外来音楽を取りこみはしたが、それが音楽の構造と様式を決定づけるものではなく、基層文化の要素を自ら発展させて独自の文化を作り上げたということができるのである。」

かつ、面白いのは、この竹笛文化、(いつごろのことかは突き止めなければなりませんが)、響きを聞いていると、日本の尺八と、調べの上で非常に似通った印象を受けます。・・・これは、是非、洗いなおしてみたいところです。wikipediaの記事には鎌倉時代以降の移入とありますが、東南アジアとの交流史が必ずしも明確ではなく、典拠を知りたいと思っております。

また、竹笛文化は、パプア=ニューギニアの音楽にも引き継がれています。
パプア=ニューギニアの音楽の例は前に上げていますので、そちらをまたお聴き頂ければ幸いに存じます。

さて、西スマトラの音楽(アルバム「ミナンの風」KING KICW 1080に収録されているもの。現在、入手困難)は、前口上を伴う歌唱が主体で、歌い回しが非常に魅力的なのですが、歌を伴うのは長いものばかりですので、恐縮ですが「サルアン(スリン)」と呼ばれる竹笛の独奏曲の方を聴いて頂きます。

(パウア村の太鼓)

興味深い点が2つ。
西欧音楽ですと管楽器では(「管弦楽法」の教科書以外では明確に意識されることが無い)フラジョレットの技法が多用されていること・・・それによって標題音楽的な効果を狙ったのでしょうか・・・。これはタイの擦弦楽器ソードゥアンでフラウタート(弦楽器で多様なフラジョレットを用いるのは非常な困難を伴うため、弓を糸に浅く当ててオクターヴ上を出す奏法、すなわちフラウタートを用いているのだと思われます)を多用するのと同じ発想から生まれた様式ではなかろうかと推定されること。
もうひとつは、音程です。
西欧音楽で言えば「ドレミファソ」に当たる五音の中に収まってしまっていますが、それでいて単調に陥りません。
なお、音程は西欧式の平均率に慣れていると
・「ド」が低く、それに伴い「ソ」も低く聞こえ
・「ド」に対して「レ」が高く、従って「ミ」が低く聞こえ
・「ファ」が西欧音楽で言うところの微分音的な音程に聞こえます
・・・が、「ド」・「ミ」・「ソ」の関係は純正調、すなわちピュタゴラスの発見した音程関係になっているのであって、「レ」・「ファ」の音程の位置も、その中で決めているもののように聞き取れます。すなわち、モノフォニーであるために、音程関係を人工的に調整したものを「是」としていない点は、実はある意味では高度なことなのだということは、銘記して頂いてよいと思います。
(但し、今回上げたサンプルは短音階的な旋律、したがって上で採り上げた旋法とは違っていますので、「(ソ)ラシドレミ」で受けとめると「シ・ド」の音が高く聞こえる、という風になっています。旋法によって音程関係を変えているのは、響きを考慮してのことかと推測しております・・・装飾的な冒頭部を除き、音楽本体で実際に使われているのは「ソラシド(=ドレミファ)」の四音で、終止音が「ラ(=レ)」です。「3)音程から音階へ」をご参照下さい。)

なお、スマトラ島には、この他にオーボエ系の「スルネ」、両面太鼓「ゲンドラン」などの楽器もあるそうです。(若林「世界の民族音楽辞典」・・・残念ながら詳しい記載に欠け、民族分布と楽器の関係についてはこの本だけでは分かりませんが、それでも手元に置いておくと、民族音楽について最も簡便に調べることの出来る本ではあります。若林さん自体のHPなども参照すると良いでしょう。)

ほんのわずかな補遺で、スミマセン。

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著者:若林 忠宏

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2008年5月 9日 (金)

曲解音楽史:34)マルコ帰着(コンスタンチノープル)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア 33)東アフリカ



マルコ・ポーロも、とうとうヨーロッパに帰着します。
ですが、彼がヴェネチアに帰る前に、私たちは彼とお別れしましょう・・・彼の今後の健康を祈りながら。
どこでお別れするか?
ヨーロッパの玄関口、コンスタンチノープル(コーンスタンティノポリス、現イスタンブール)です。

コンスタンチノープルを首都とする東ローマ帝国は、マルコの時代まではよく勢力を保ちましたが、既にイスラームに対する劣勢は否めず、縮小の勢いは加速的に増していき、陥落直前の領域は、コンスタンチノープルそのものだけに限られてしまっていた、と言っていいほど狭まっていました。
それでも海上貿易の重要拠点だっただけに、華やかな文化は衰えることがなかった、との印象があります。

歴史上の東ローマ帝国の盛衰についてはしかるべき史書もありますし、悲劇的なコンスタンチノープルの陥落については、それをトピックに取り扱った研究書のほかに、塩野七生さんの小説でも生々しく(もちろん、フィクションを交えて、ではありますが・・・征服した側のメフメト(マホメット)2世の器の大きさも髣髴とさせてくれる点で歴史書にはない魅力があります)描かれています。
・・・なお、このオスマントルコの帝王を主人公にした歌劇を19世紀のロッシーニが作曲しているのは興味深いことです。地中海圏では、ホスロー1世と共に、ながいあいだ忘れ難い恐怖を与え続けた人物だったのでしょうか?

目をもっと西に転じると、しかし、一方ではイスラーム勢力はほぼ同時期にイベリア半島から退却を余儀なくされています。
(コンスタンチノープルの陥落は1453年、グラナダ陥落は1492年です。)

マルコの当時は勿論、それまでのほぼ2百年間は、地中海周辺の音楽は、イスラーム的なものと南ヨーロッパ的なものが入り混じった、一種独特な・・・というより、ヨーロッパ内陸部の吟遊詩人だとかグレゴリオ聖歌だとか、やや固定化しつつあった類いの歌に比べると、多様な展開を見せていたと思われます。

惜しいことに、その復元の試みは、決して多くなされているようではありません。

ただ、数少ない復元演奏をざっと眺めただけでも、

・ユダヤ系の歌唱がユダヤ教徒に限らず広範囲に行き渡っていたであろうこと
 (26でご紹介した「セファラド」〜そちらで述べましたように、スペインを表す言葉ですが、そこで採り上げた曲のタイトルを見て頂ければ分かりますように、このユダヤ系の歌唱は東欧圏にまで広がっていたようです。こちらにご紹介したブルガリアの歌唱も、再度お聴きになってみて下さい)

ペルシア系の古典音楽も、地中海世界の西端にまで達していたであろうこと
(今回はそれをお聴きいただくつもりですが、おそらく何らかの形で記譜されたか、口承で伝わっていたものが後年採譜されたか、で、これも27でご紹介した本来のペルシア古典よりも自由度の低い、すなわち演奏者による違いの少ないものに変化してはいます。)

という、2つの大きい潮流は確認出来ます。

マルコが家族との再会に胸を躍らせながらコンスタンチノープルの港を出発した頃には、この港では、上記のような、東西世界のあい混じった響きの世界が、彼の背中を見送ったのではなかろうか、と想像しております。

「セファラド」でご紹介したのとは別の復元演奏で、その名も「コンスタンチノープル」という団体の録音から、どうぞお聴き下さい。(ATMA classique ACD 2 2314

ちょっとだけで恐縮ですが。


  〜ペルシア発祥の「ラディーフ」が固定化した様子がうかがえます。


  〜これは、ルネサンス期のものとされるヨーロッパの舞曲に繋がっていくことが明らかですね。
   スペインを経由し,フランドル地方に潜伏したもののようです。(「テレプしコーレ」など。)
   さらに言えば,「コプト聖歌」のなどを参考にしたとき,この系統の音楽は、
   エジプトやチュニジアあたりに起源を発するリズムを持っている気がしないでもありません。

この系列の音楽は、しかし、メフメト2世のコンスタンチノープル攻略とともに、イスラーム世界、ヨーロッパ世界双方で、以後、影の存在(別の言い方をすれば地下化した存在)となってしまい、芽生えだした「芸術音楽」は東西に分離していくこととなります。
それでも、音楽世界はユーラシアでは本来「ひとつ」だった、と言いうる鉱脈が、各地方の民族音楽に、こんにちまで保たれる結果をももたらしたのは、15世紀中葉までの音楽が、およそ「芸術音楽」などという「ステータスシンボルに付随するもの」にならずに、民衆という地下世界の中に深く潜っていてくれたおかげでもあるのかもしれません。

そのあたりは、また引き続き観察してみましょう。

Terres TurquoisesMusicTerres Turquoises


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コンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)Bookコンスタンティノープルの陥落 (新潮文庫)


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2008年4月17日 (木)

曲解音楽史:33)マルコの帰路に沿って-4(東アフリカ)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽 32)インドネシア



東南アジアを通過したマルコ・ポーロは、セイロン(スリランカ)を経由し、南インドから西インドに寄港しつつ、ホラズムに至ります。
マルコが「東方見聞録」に豊富に記事を綴っているスリランカに関しては、当時の文化は「東方見聞録」と「ムガル帝国誌」の照合で何とはなしに妥当性の度合いを測れますが、音楽についての記述はなく、現在の民族音楽の音源についても、私の現状やショップでも入手が困難であり、残念ながら、その独自性を実際に推測することは出来ませんでした。
南から西インドにかけては、インドの中世そのものについて以前ちょっとした考察をしました。また、ホラズムの所在するイラン(ペルシア)音楽についても同様です。
したがって、スリランカからペルシアにかけては、省略します。

「東方見聞録」から窺えるのは、当時の商人たちの地理的知識が思いのほか広範囲について把握していたものだった、ということで、マルコの記述中には、北はシベリア、ロシア、北欧方面に至るものまでが含まれています。ただし、それぞれが相当に荒唐無稽な内容であることからすると、実際に足を踏み入れたアラブ人・西欧人の数は、かなり限られてはいたのでしょう。

マルコの帰路は、13世紀のインド洋貿易のルートに乗ったもので、その主導権を握っていたのはイスラム文化圏の人々でした。
そこから分かる面白い事実は、イスラム圏の人々によるインド洋貿易は、東アフリカまでを包括していた、という点です。
その影響で、マルコは、ザンジバル(現タンザニア領の諸島)やマダガスカル島をも「インド」に含めています。
当時の地図のうち、イブン・ハルドゥーンによるもの(を分かりやすく地名比定して訳者が作成したもの)を岩波文庫『歴史序説』(第1巻巻頭)から掲載しておきます。見づらいですが、13〜14世紀にイスラム圏の人々が把握していた地理上の知識が集約されていて非常に興味深いものがありますので、地図上の番号と、それに対応する地名を、どうぞじっくりご覧になってみて下さい。(クリックすると拡大します。)

World


この地図から分かるのは、広範な活動をしたいスラム商人たちでも、このころにはまだ、南アフリカ(赤道以南)については「熱暑で人が住めない」と思い込んでおり、したがって、その方面の知識は持ち合わせていなかったことです。
また、インドや東南アジアの形状、中国との分離具合についても、把握がされていません。これは、中央アジアからチベットにかけての「陸路」とインド洋側の諸国を遮る峻険な地形(砂漠やヒマラヤ山系など、およびヴェトナム・チベット・中国を分け隔てる高原)の存在により、ユーラシアの大陸北部と南部の関係も、東西の関係も、地理的視点からの融合がなしえなかったためではないか、と推測しております。

インド洋沿岸部の正確な地形は、ヴァスコ・ダ・ガマのインド洋遠征でも把握されえず、それからさらに半世紀を経て、ポルトガル人によって測量されたことから、ようやく明確になったのでした(『世界地図の誕生』参照)。

そうしたことはさておいて、マルコの情報などをもとにヨーロッパ人がイスラム圏を介さない、すなわち、イスラム圏という1次・2次問屋に利益を持っていかれないで稼げる、直接的な「インド洋貿易」に乗り出すまでの間に、ヨーロッパ人でも把握していなかった広範な地理的知識に基づいて交易を進めていたイスラム商人の逞しさには、ただ目を見張る思いがします。

マルコは直接でかけていませんから、ザンジバルやマダガスカルについては伝聞による知識を語ったものと思われますが、これら東アフリカ地域も、インド洋貿易の中では香辛料の供給などに非常に重要な役割を果たしていたことを、私たちは念頭に置かなければならないでしょう。

アフリカは、かつてカルタゴが栄えたりエジプトやモロッコ王国が存続したり、さらにはイスラムが直接支配した北アフリカ方面を除き、中世でもまだ、他地域からはその歴史を垣間見るチャンスがない場所でした。それがなおかつ、いわゆる「大航海時代」・「帝国主義時代」を通じ、主にヨーロッパ人によって、この大陸のほぼ全土が植民地化されてしまったが為に、20世紀までには、アフリカ各国で独自にあまれていたはずの歴史記録は散逸してしまい、20世紀末期になってようやく、その再構築作業が少しずつ軌道に乗り始めたばかりだとのことです。
決して、他の大陸に劣る未開地だったわけではないのは、南アメリカや南太平洋諸国と同様です。

そうした次第で、中世に起源を求める出来るものではありませんが、マルコに縁があった場所のもの、ということで、今回はマダガスカルの音楽を1曲お聴き頂いておきましょう。


  「アフリカの音楽」ビクター VICG-41140所収

<COLEZO!>アフリカの音楽/オムニバス[CD]

この他、有名なピグミー族のポリフォニーや、おそらく由来が古いであろう西アフリカの仮面劇の音楽などもあるのですが、これらについては別に触れる機会を設けるべく、少し私も勉強を進めておこうと思います。

Bookアフリカ史の意味 (世界史リブレット)


著者:宇佐美 久美子

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「世界地図」の誕生 (地図は語る)Book「世界地図」の誕生 (地図は語る)


著者:応地 利明

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2008年4月 5日 (土)

曲解音楽史:32)マルコの帰路に沿って-3(インドシナ島嶼部〜インドネシア)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」 31)ヴェトナム伝統音楽



前回、「大陸部ではマラッカ以外に寄港していない」としたのは誤りでした。
本文を読み直したら、チャンパのどこかの港(現在のヴェトナム南部)には上陸したらしく思われます。
すみません。

次に寄港したのがジャヴァ島(ジャワ、ですね)のようですが、そのあと幾つかの島を経てスマトラにたどり着いたと思われます(159〜170)。・・・が、そこに記載されている島々の位置関係は、本文上では錯綜もあるようです。マルコの記憶によるのか、当時の航路の事情が絡んでいるのか、の、いずれかでしょう。複雑ですが、ジャワ島に寄ったあとでマラッカに至り、その後にスマトラに向かったものと思われます。

かつ、実際にはスマトラより小さいジャワの方を大ジャヴァ島、大きいスマトラの方を小ジャヴァ島と呼んでいますが、これはマルコ当時のインドネシア地方の経済力が、スマトラよりジャワの方が大きかったことを反映しているのかどうか、は、私には分かりません。ただ、ジャワについて記述した部分には、すぐ後にヨーロッパで珍重されることになる香辛料の名前がいくつも現れるのに対し、スマトラに付いては、記事数は多いものの、島内が小さな王国に分離している状況が伺われる程度の記述しかなされていません。
スマトラの諸地域については、北部に偏って、おおむね正確な順番で記されています。すなわち、フェルレク(ペルラク)、パスマン(パサイ)、サマトラ(サムードラ)、これは私に配置が分かりませんがダグロイアン、ランブリ(ラームーリ)という具合です。()内は、『パサイ王国物語』(東洋文庫690に邦訳あり、野村亨氏)と呼ばれている、14世紀中葉に原型が成立したと考えられているインドネシア(その大半がスマトラ北部を舞台としています)に現れる地名です。現代の地名でいうと、外れているかもしれませんが、ペルラク(ラングシャーより西北の町)、ロクスコン、ロクスマウェ、?、バンダ・アチェ、あたりでしょうか?(英語の地図上の発音を仮名にしたので、日本製の地図と読みが違っていたらゴメンナサイ)
このあとは、もうインドの領域であるニコバル島に向かいます。

中国と民族も地理的位置も近いために古くからの歴史を記述して残していたヴェトナムとは異なり、インドネシア方面には『パサイ王国物語』よりも古い歴史関係書は無い模様でして、かつ、この『パサイ王国物語』も、内容は日本の『古事記』に相当するような、半ば神話的な世界像を描いているだけです。しかも、この物語の成立の背景には、マルコの時代にはまだぼちぼち、だったと思われるイスラム商人の力が増してきたため、それまではおそらく全体がヒンズー国家だったインドネシア地域でも最も西よりにあるスマトラが、自らイスラム教を受け入れるにあたり、自分たちが正当なイスラムの継承者である、とアピールして貿易を有利に進めたい、という政治力学が働いていたのではないか、と想像されます。このあたりの詳しい事情は、弘末雅士『東南アジアの建国神話』(山川出版社 世界史リブレット72)をご一読頂けると分かりやすいかと思います。

『パサイ王国物語』には、音楽面での記述が5ヶ所ありますが、1ヶ所を除き、すべて「大太鼓」だけが楽器名として明示されています。戦いの場面にはラッパも登場し、インドとの類似を見せています。他に明示されているひとつの楽器名は「フスパ・ラガムという名の非常に美しい音色の楽器」とされており、邦訳の註では「おそらくガムラン系の楽器であろう」としているものの、同時にこの名称がサンスクリット起源で「音楽の花」という意味になる、とも記しており、果たして現行のジャワ島やバリ島のガムランの楽器と関連性があるものかどうかを確かめたく思いました。ですが、残念ながら、スマトラ島の音楽のCDは、(注文画面にはあったのに!)現在メーカーでも品切れで、この試みは断念せざるを得ませんでした。

したがって、インドネシアの音楽の観察にあたっては、ジャワ島とバリ島の「ガムラン」を大まかに比較する試みをします。
この地域は影絵劇を初めとする多彩な個性的芸能が今でも息づいていて、あれこれ浮気してみたいのはやまやまなのですが、まずは、前回見たインドシナ大陸部との繋がりがどのようなところに見られ、どのようなところでは見られないか、を確認するに留めることが、「中世」の時空領域を超えずに済ませるには妥当ではないかと判断しました。

ガムランというと、私たち異邦人は、金属製の、ピッチ(音程)を持った楽器だけを連想してしまいます。が、実際のインドネシアのガムランには、擦弦楽器も声楽も取り入れられていますし、竹笛(ラオスのものが有名ですが、ガムランでも用いられますし、ガムランの金属鍵盤楽器とでもいうものの共鳴筒は竹製です。東南アジアからニューギニアにかけて、竹は音楽の上で重要な役割を果たしています)も、さらにバリ島では口琴も用いられます。バリのケチャ的な唱法(もともとは祈祷で叫ばれるサンギャンの規則的な発声)も、声による器楽ガムランだ、とみなされていたりします。(つまり、あの「チャッ、チャッ、チャバチャバ」は、歌ではないわけです。)

金属打楽器を中心としたガムラン音楽は、なにもインドネシアの専売特許ではなく、北はミャンマー(ビルマ)から南はフィリピンにまで分布している由、柘植・植村『アジア音楽史』に記載がありますが、やはりガムランを主体とした音楽世界を築き上げているのは、インドネシア特有のこと、と見なして良さそうです。

ガムランの諸楽器、バリの場合の音楽については、『神々の島 バリ』(春秋社)に詳細な説明がありますので、ここで半端な詳説を私ごとき素人が行なうのは避けておきましょう。

ただ、ジャワとバリのガムランには、おおむね次のような違いがあります。

*ジャワでは、擦弦楽器、歌が普通に取り入れられる。笛はあまり用いられないようであり、口琴を用いた例は、少なくとも私は耳にしていない。リズムは、比較的ゆったりしている。

*バリでは擦弦楽器、歌を採り入れることが少ない。笛は多用される。バリには口琴に世界でも類を見ないほど多くの種類があり、そのためガムランの中に口琴が採り入れられている事例もある。

さほどはなれた距離にあるわけではない二つの島で、これだけの相違があるというのは、二つの島の文化全般のあり方とも関係がありそうです。
すなわち、ジャワ島は人口の大半がイスラム化している一方で、バリ島のイスラム教徒は島の西、すなわちマルコの時代以降、イスラム貿易の入り口だったと推定される地域に少数存在するだけであり、他は(バリ化された)ヒンズー教を信仰しています。
これは、バリ島の方が、古い時代の東南アジア島嶼部の流通経路であったらしいインド貿易時代の文化を色濃く残している可能性を示唆しています。

南インドにはガムラン系の音楽がないことを考慮しますと、ジャワにせよバリにせよ、金属打楽器はヴェトナム地方から南下してきたドンソン文化を受け継いだもので、これがまず第1波だったでしょう。それ以前に竹笛と口琴は、インドネシア地域には元々根付いていたかもしれませんので、これは端から土着だった、というふうに考えておいてもいいかと思います。

第2波がどんなものだったかの推測は、少し難しいですね。擦弦楽器は仏教国タイでも盛んに演奏されていますから、イスラムの影響、と断言することは出来ません。しかし、擦弦楽器にも歌にも重要な位置を与えているジャワのガムランは、イスラム貿易へと流通が変化した時期に成立した、と見なすのが、バリとの差異を考慮した時には妥当であるように思えてなりません。

それぞれの特徴をよく表している演奏例をお聴き頂きましょう。なるべく極端なものを選びました。

・ジャワのもの:
  「ジャワの宮廷ガムラン2」NONESUCH WPCS-10711

・バリのもの:
  「バリのガムラン1」NONESUCH WPCS-10706

同じ「ガムラン」と呼ばれながら、これだけ印象が違います。
音楽って本当に面白いですね!・・・って、言ってしまっていいのかな?



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2008年3月24日 (月)

曲解音楽史:31)マルコの帰路に沿って-2(インドシナ大陸部)

前の回:1)音という手段 2)リズムの成立 3)音程から音階へ
    4)言葉と音楽  5)トランス 6)古代メソポタミア
    7)古代エジプト 8)古代インド  9)古代中国 10)古代ギリシア
    11)古代ローマ 12)初期キリスト教の聖歌について
    13)ササン朝ペルシャ  14)西暦5,6世紀ユーラシア音楽横断
    15)中世前半の西ユーラシア  16)唐朝と朝鮮・日本 17)「声明」の伝来
    18)モンゴルと中央アジア北方 19)「十字軍時代」の西ユーラシア
    20)日本固有(?)の古歌 21)グレゴリオ聖歌
    22)平曲と能楽:付)発声法について 23)アンブロジアン聖歌・ローマ聖歌
    24)西ヨーロッパ中世 25)ジョングルール 26)十字軍時代前後のイスラーム
    27)ペルシア伝統音楽〜中世からの遺伝子 28)インド中世 29)宋・元時代の「中国」
    30)日本の「オラショ」



マルコ・ポーロは、海路で帰郷するのですが、私の手にできた訳書(校倉書房、1960【1983年23刷】)巻末に付いた地図では、インドシナ大陸部(今のヴェトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ミャンマー)によれば、マラッカ以外寄港していません。この地図、地名の記載も少なく、こころもとないものです。ですが、本文中にも、大陸部に寄港したらしい様子がうかがわれる箇所がありません。

それでも、中国の泉州を出発したあとには「インドの話」として、インドだけではなく、<インド>ではない諸国の話まで、おそらくは殆ど第三者からの伝聞によって(あるいは「東方見聞録」じたいが個人の記述ではなく、伝聞の集成である可能性もあるかと思うのですが)154節(章?)以下に記していまして、その最初のものがチパング、すなわち日本だった、という次第です。

続いて現れるのが「チャンパ」です。現代のヴェトナムですが、マルコ・ポーロが航海した元の時代には、この周辺の領域図は現代とは異なっています。

「チャンパ」は、現代のヴェトナムの直接の先祖ではありません。しかし、マルコの記事に現れるのは、あくまでチャンパです・・・これは、当時のインドシナ情勢上、まだ当然のことです。ですが、マルコ(「東方見聞録」)の記述が本当にチャンパのことを記しているのかどうかは、怪しいところです。

元朝を含む中国の歴代王朝は、現在のヴェトナムの主要民族であるキン族の支配する領域(現在の都市フエよりもやや北方が南限)を、自王朝の支配下にあると見なしていました。実際、ヴェトナムが中国から独立したのは西暦968年のことです。ヴェトナム側からみれば、以後、自国は中国(独立当初は宋朝)への朝貢はするものの、干渉は退ける立場を貫いている、という明白な意識がありました。
チャンパは現在のヴェトナム南部に存在した別個の国で、こちらは中国側の認識としても、あくまで独立国でした。
チャンパ(林邑)はしかし、マルコの寄港当時は衰退期に差し掛かっていました。
これはキン族とて事情は同じなのですが、インドシナは現在のタイやカンボジア、ミャンマーの人々が抗争を繰り返し、それぞれの主要民族の治める領域が15、6世紀まで安定しませんでした。
そんな抗争の中で、わりあい力を持って振る舞っていたチャンパですが、12世紀初頭から13世紀初頭の百年間にわたるクメール(現カンボジア)との戦争のあいだに併行して内紛が生じ、北方で確実に地歩を固めていたヴェトナムに大幅な譲歩をし、南方のみに領土を縮小していき、18世紀には姿を消します。

話は変わりますが、インドシナ諸民族の発祥の地は、アルタイ山脈の麓からチベットのあたりにかけてだった、と考えられています。すなわち、インドシナ大陸部に現在住んでいる人々の祖先は、北から移動してきた、というわけです。
すると、音楽も、当然、より北方に起源を持つであろうことが推測されます。
民族も、また(曖昧な点は残っているそうですが)言語のルーツも、それぞれ微妙に異なりますが、現ヴェトナムの大多数を占めるキン族は雲南省と密接な関わりがあったと思われます。言語も、シナ・チベット語族に属しています。
では、その祖先はどんな音楽を奏でていたか。
原典資料を目に出来なかったので定かではないのですが、出土した古代の遺物は中国同様に青銅器を主体としたもので、銅鼓などが発見されています(ドンソン文化)。
銅鼓であれば、ガムラン音楽を連想するのが自然です。
ところが、今、ヴェトナムで奏でられている伝統音楽には、銅鼓系の打楽器は登場しません。
また、雲南省方面の諸民族の音楽は撥弦楽器やフルート系の笛が主のようですが、ヴェトナムの伝統音楽では二胡やリードを鳴らす管楽器で、雰囲気は明朝以降の京劇の音楽に似ています。ただし、そんな中でも比較的打楽器が多く活躍するのが、次に掲載する音楽です。


 「ベトナムの儀礼音楽」KING RECORDS KICW1063

伝統音楽からみた現ヴェトナムは、むしろ中国の中央に近い南部との繋がりを思わせますが、それは同時に、独立国となってからの対中国政策(遜るが妥協しない)を明確に反映し、音楽は「中国に対し遜る姿勢を表現するための道具」として発展したのではないか、と感じさせられてしまいます。
とはいえ、その芯の強い響きには、ガムランとはまた違う強烈な個性をも覚えさせられます。
さらに脇道にそれますが、銅鼓はインドネシアのガムランの他、ミャンマー(ビルマ)に伝統を残しています。(ミャンマーの方の演奏例は、残念ながら手にしておりませんが、写真が残されているのを確認しました。)

話をチャンパに戻しますと、日本の雅楽に「林邑楽」と称されるものが残っています。
歴史的な経緯からすると、チャンパはもしかしたら全く違う系統の音楽文化を持っていたのかも知れませんが、そうでなければ、本来はヴェトナムに残っていなければならなかったはずの銅鼓系の・・・ガムランに近い音楽が奏でられており、それがさらにインドネシアへと伝わった、とも考えたいところです。なぜなら、消えてしまったチャンパも、今は大多数がイスラム教徒となったインドネシアも、マルコの頃にはヒンズー教国だった、という共通点があるからです。
ですが、「林邑楽」は、聴いてお分かり頂けますように、かなり日本化されていますので、今となっては、チャンパの音楽の本来の姿は想像することもできません。


 東京楽所「雅楽の世界(下)」コロンビアCOCF-6196

まとめますと、ヴェトナムは独立と共に、おそらくは自国のものであった「雲南系」の音楽を、より中国の中央に近い性質のものへと転じたのかもしれず、ヴェトナムに圧迫されたなどの要因で滅びさったチャンパは、もしかしたらガムラン系の音楽を奏でていたかも知れません。

ついでながら、「東方見聞録」には現れませんが、タイの伝統音楽には擦弦楽器によるものがあり、これは彼らのルーツがアルタイ山脈方面である、という説と合致しますので、興味深く思われます。

ソードゥアンという楽器の独奏
 「タイの古典音楽」KING RECORDS KICW1030

・・・なお、この曲で使われてはいませんが、タイの伝統音楽で多用されるかすれた音は、わざと出してるもののはずで、しかも、技術的に大変高度です。ヴァイオリン属で言うと「フラウタート」と呼ばれる技法と同種のもので、弦を鳴らす弓の当て具合を微妙に調整して、弦を押えている場所で本来出る音のオクターヴ上あるいは倍音列上の違う(高めの)音を出す技術です。西欧音楽では技法は伝承されているものの、作品上では(変わった現代音楽を除けば)殆ど用いられていません。確実な演奏の習得がフラジオレット(指で弦を押えるのではなく、弦に触れるだけにして倍音を出す)よりもむずかしいからです。・・・余談でした。


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