2008年2月10日 (日)

こどもたち

息子にとっては、災難の一日でした。

今日、娘がレッスンを入れてきていて、それが、最近ご無沙汰しているオーケストラの練習場所の近くなので、ついでだから私も久しぶりに練習を覗きたい、息子も外出させたら気晴らしになるだろう、ということで、親子三人で出掛けたのでした。

出がけは息子も元気いっぱいだったのですが、途中から、どことなく様子がおかしい。
練習場所に着いても、いつも来るはずの友だちは、我が家と違って「賢い」ご家庭なので、受験で来ていない。・・・それでさびしいのかなあ、と、私も誤解をしていました。

夕方、楽譜を仕入れる必要から出向いた店で、行方不明になりました。
いつのまにか、トイレに行って、長いこと籠っていたのでした。・・・ですが、その店のどこにトイレがあるかなんて、私も姉貴も知らないですから、店の外まで出て探しまわった。
そこへひょっこり現れた息子に、私はただアタマにきて、
「ちゃんと行くところも教えないで! いい加減にしろ!」
ゲンコツを2発食らわせました。

元気のいいときでも長トイレの傾向がある息子ですから、このときもまだ、息子の「おかしい」原因に気が付きませんでした。

食事に行ったら、いつもなら大食いの息子が、殆どご飯に手をつけません。
これでやっと、分かりました。
「無理して食べなくていいから」
と、残させました。

この1週間、学校行事の国会議事堂見学もあったし、週3回は柔道だし。
家内の生前はおろか、つい4ヶ月前まで、運動なんか全く縁のなかった・・・むしろ、家内の持っていた「息子に怪我をさせたくない」という不安感から、家内はさせたがらなかったふしもある・・・息子が、毎回、柔道は頑張って、しかも楽しんで習いに行っています。
でも、おやりになったかたならご存知の通り、柔道の事前準備の運動も、最後の仕上げにやる運動も、結構キツい。迎えに行くとき見に行っているだけで、
「あの、腕立て伏せの1回も出来なかった子がよくぞ」
と思うくらい、腹筋は他の誰よりもきっちり出来ると誉められるようになり、ジャンプもへばりつつながらもしっかり腰を落として真面目に取り組んでいます。
帰りの電車で寝かせて、少し調子をを取り戻した息子が言うには、

「(今日、調子が悪くなったのは、この1週間)いろいろたいへんだったからかなあ・・・」

そうだったのだと思います。

娘も、受験期なのに朝夕は食事の準備をしてくれる。
「おとうさんに作らせると、不味くて食えない」
のだそうで・・・

子供たちがこれだけガンバってくれているんですから、私は恵まれた「ヤモメ」です。 (T_T)



「好き」ということと「寄り添う」ことを等式では考えられない、といった内容の記事を、それぞれ綴ってきたのですが、世の中、自分の子供を「好き」ではない親も、皆無ではありません。仮に「好き」でも、妻(や、場合によっては不倫相手?)に比べると、どう寄り添ってあげたらいいのか、我が子というのは、なかなか難しい「対象」でもあります。
お子様をお持ちのかたなら、「寄り添う」とは何か、を学ぶには最も適切な「教材」が、我が子というものかも知れません。・・・我が子との関係は、夫婦とは違い、待った無しに<絶対的>だからです。

井上ひさしさんに「四十一番の少年」(文春文庫。今も新刊で手に入るでしょうか?)というのがあります。

この小説の舞台は、井上さんの知ったことではありませんが、実は、私の小学校時代、友だちが沢山入っていた、いわゆる「孤児院」施設です。親が無い子、はもちろんですが、親の経済状態が悪くて育児しきれない家庭の子たちも預けられていました。小説の冒頭に描かれた風景は、ですから、私の子供時代の、友だちと過ごした風景そのままです。

腕っ節の弱かった私には、この施設に入っている友だちが何故か多くって、他の連中にいじめられると、よくかばってもらいました。施設にも、毎日のように遊びに行きました。
遊びに行って、ある日、仲のいいこの一人がぼそりと言ったことばが、ずっと耳からはなれたことがありません。

「このごろさあ、とうちゃんから手紙が来なくなったんだ。もうさあ、3ヶ月も来ないんだ。それまではずっとくれてたのになあ・・・」

この子のお父さんは、我が子に寄り添ってあげたくなくなって、手紙をやめたのでしょうか?
・・・そうではなかったでしょう。

大人同士の「好き」と同じに考えることとも、可愛いものにほおずりしたくなることとも、全く違う「選択の難しい枝が細々分かれている」我が子という木を相手に、この子がどうしたら、風雨に耐えられる幹を供えられるか、を、親は考える義務を、否応なく負わなければなりません。
くどくなりますが、そこには、冷静な目で見れば「好き」とか「寄り添ってやりたい」とか、あるいはそれらの逆のことを考える余地は、全くありません。余地に思いを致すことは、禁じられている、と言ってもいいかもしれない。
・・・いにしえの西行法師のように、したって寄りすがってくるのを蹴落として自らは出家する、というのも、本当は、子供への「寄り添い方」の、とある一つのかたちなのだということを、知らなければならない。西行のしたことは、今の児童虐待とは全く意味合いが違うのですが、話が込み入りますので、「違う」ということについては、どうして言い切れるのか、読んで下さるかたにもご考察頂ければ幸いに存じます。



演奏会のたびに、「次」に照準を合わせなければならないので、以下、残念ながらいまはすぐ手元に資料を出せないので、正確さを欠くことしか綴れません。

ショスタコーヴィチの1945年の作品に、7曲からなる「こどもの音楽帳」というのがあります。
たしか、「わが父 ショスタコーヴィチ」の中で、お嬢さんのガリーナ自身が話していらしたことで、伝記にも出てくるのですが、この作品、ショスタコーヴィチは彼女のために仕上げたのです。で、45年のある日、父は、高級官僚の前で、この作品をガリーナに弾かせました。ガリーナは、ところがさっぱり弾けなくなって(緊張のためだったのでしょうか?)、泣き出してしまいました。結局、ショスタコーヴィチが官僚たちに上手いこと言い訳をして、彼女に代わって演奏をした。

ショスタコーヴィチが、娘と寄り添うために作った音楽。
いじらしくて、私も好きな音楽ですが、その中から、のちに有名な「祝典序曲」のモチーフとして使われることになる「誕生日」を、ショスタコーヴィチ自身の演奏でアップして、この記事を終えます。なお、この録音の冒頭に入っているのは、ショスタコーヴィチ自身の声です。


  1946年録音 DOREMI DHR-7787

・・・明日は、尊敬するダスビさんが、交響曲第9番と11番を演奏するのです。
・・・行きたかった。でも、娘の受験日なのです!

ダスビの皆さん、(お読みにはならないかとは思いますが)応援してます!
昨年の15番のような好演を、きっと成し遂げられるものと信じております!

Book四十一番の少年 (文春文庫)


著者:井上 ひさし

販売元:文芸春秋
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2007年7月14日 (土)

ショスタコーヴィチ:「ひとつの音へ」

この間、定期演奏会でショスタコーヴィチを演奏し、最後の最後まで消化不良な気がして仕方がない部分がありました。

あたかも木管と弦楽器が示す浮遊霊が、喇叭の号令でブロッケン山の頂上に集結するような・・・と、過去にブログで解析したのとはまた別のニュアンスでの凄みを感じる箇所なのですが、肝心の「凄み」が出ません。
理由は・・・浮遊霊は「E」とい「うひとつの音」に集約されていくことにより激しい緊張感を生み出すのですが、その肝心の「E」音に、オーケストラの響きが集結しない。
リンクした部分はムラヴィンスキー東京ライヴの名演なのですが、録音のせいもあるのでしょう、彼の指揮による他の録音にくらべると、やはり緊張感は薄い。

この箇所は、練習を重ねれば重ねるほど、
「ショスタコーヴィチにとってはずいぶん重要な意味を持った部分なのだろうな」
感じるたびに背筋がぞくっとする思いをしたものでした。

「ひとつの音」から音楽が徐々に拡大していく例は、19世紀およびその伝統を継いだ作品に幾つも見られます。
嚆矢はベートーヴェン「交響曲第7番」第2楽章でしょう。E音がー・・|ーー|ー・・|ーー|ー・と9拍半、12音連続で旋律を構成する、というのは画期的だったはずです。12音目からは上昇音型に変じ、それによってここまでの緊張をフウワリと緩めてみせる手法には、唸らされるしかありません。

単音(ではないのですが)で開始し、豊かな和声へと拡大していく最も壮大な例は、ワーグナーの でしょう。「非道徳人間」ワーグナーが書いたとは信じたくないほど、これは作品のタイトルとは逆に、象徴的な創造神話の見事な音響化です。混沌から光と陰が分かれ、陰の中で形のはっきりしないものがうごめき出し、次第に自律的運動を始め、やがてくっきりと輪郭を示すのです。

ベルクの「ヴォツェック」は、単音が急速に音の激しい渦を描くことで、初演時に既に聴衆(観客)をとりこにしてしまいました。ここで構築されたのは、ビッグバンの宇宙論の世界に人びとを放り出してしまう、驚嘆すべき音空間です。

ショスタコーヴィチは・・・こうした「単音からの拡張」に組すべきかどうか、もしかしたら生涯迷い続け、最後には
「いや、そうではなく!」
へと到達した人ではなかったのでしょうか?

交響曲の世界だけでそんな仮説を立てるのは無謀のそしりを免れませんけれど、実例でお聴きになってみて下さい。

本来そのまま進んでいたら叙情的な作家になっていたかもしれないことを示す第1番、急激にアバンギャルドへと傾斜した2、3番までの時期は、彼はただ信じたままに、何を信じているのかの姿を知る必要さえないままに、したい通りが出来た「普通の」天才だったように思います。
第4は、時代背景もかぶさってきたことがあるのでしょうか、ここまでのショスタコーヴィチとは明らかに断層を挟んでいます。
「ひとつの音へ」
・・・そう呼んでも良いかと思われる指向が、第4以降には動機として頻出するようになります。

ショスタコーヴィチの「ひとつの音へ」のベクトルには2つの方向があって、適切かどうか分かりませんが、それは
1. 「迷い」を力ずくで集約することにより、<信念>の中へと消し去ろうとする
2. じつはふらついている<信念>にこだわることをなだめつつ鎮め、浄化へと導く
とでも言ったらいいのかな、と考えております。

第4には、すべての楽章に、この2つのベクトルが混在して現れます。とくに、「1.」のベクトルにはすべての楽章で出会うことができます。「2.」のベクトルは、終楽章の練習番号191〜193などで出会えます。

以後、しかし、ベクトルはさいごの交響曲である第15までは、「1.」に限られています。
はっきり分かる部分だけを取り出してみましたので、お聴き下さい。
・先ほど挙げた


心ならずも得てしまったいのち、その運命から、「悩むこと」を意地でも振り払おうとしているかのようです。

第15だけが、特異です。これは、第4が持っていた2つのベクトルの、2つ目の方を「ようやく」思い出し、その「2.」のベクトルに「安住」する道を選ぼうと意図しているようです。
・第1楽章は のですが、都度、 、「拡張」して行こうとする「音の力」を阻止します。・・・この「ウィリアム・テルの動機」、」よく耳を傾けてみると、やはり「ひとつの音へ」指向を持っていることが分かります。
は、「2.」のベクトルの結晶とでもいえる、天国的な音楽です。
ダスビさんの第15の演奏会で終楽章の最後の一音が消えたあと長く続いた沈黙は、聴衆がみんな「浄化」の至福に浸ることの出来た、すばらしい時間でした。)

ざっと並べてみましたが、お聴きになってみて、果たしてこんな見方が正しいかどうか・・・どうお感じ頂けますでしょうか?

「ひとつの音へ」・・・それは、ショスタコーヴィチにとって、いのちとは何か、運命とは何か、についての音楽的思索において、従来の作曲家たちとは一線を画した、非常に大切な「モットー」なのではないでしょうか?

なお、ショスタコーヴィチの音のサンプルは、第5、第8以外はバルシャイの全集盤からとったものです。
第8は、スヴェトラーノフの日本ライヴでの演奏です。
ワーグナー「黄昏」はベーム指揮のバイロイトでの演奏です。

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2007年6月21日 (木)

お聴き下さい:第44回定期演奏会(東京ムジークフロー)

チャイコフスキーコンクール・ヴァイオリン製作部門第1位を獲得された菊田様より、ご紹介した記事にコメントを頂きました。JIROさんのところでワガママで「是非私のも読んで下さい」とダダをこねたのにお応え下さった恰好です。・・・お恥ずかしい。「手仕事」への素直な思いがこもった素敵なお言葉を頂けました。是非ご一読下さい。



この間の録音、担当したMさんがいち早く送ってくれました。
「メンバーに売るまで発表を控えましょう」
と言ったのですが、
「別に構いませんから」
と言ってくれましたので、さっそくアップします。
(音質・音量が落ちていますから、団員のかたはより細かいチェックのためにはMさん作成のCDを入手して下さい。)

今回の演奏会直前に亡くなったHさん、その他40年のあいだに亡くなった諸先輩、加えて私の家内のためにまで、当日は開演時にメンバーが「マタイ受難曲」中のコラールを追悼演奏してくれました。
これについてのみは、演奏会そのものとは異なりますので、音をアップしません。
何卒ご了解・ご許容下さいませ。

聴いて下さる皆様へ:
なにせ「初心者から老人まで(失礼!)」という団体ですので、お聴きになって、出来にご不満も多いかと存じます。とりあえず精一杯の演奏ではございます。
精緻な技術が今後身についていく保証は・・・団員のためにも・・・ゼロ、とは断言はしませんけれど、細かいパッセージを器用に演奏できる、と言うことよりは、「よりよい響きを目指す」ことを最優先に今後とも精進してまいりますので、暖かい気持ちでお聴き頂け、今後ともご支援を賜れますよう、(かく申す私は名目ばかりで腕の悪い「コンサートマスター」ではございますが)心からお願い申し上げます。
・・・あ。
ですので、ショスタコーヴィチの第1楽章と第2楽章は、どうか飛ばしてお聴き下さい!
お願いいたします!

団員・演奏者各位:
当初、各曲の反省点をこちらに併せて掲載しようか、と考えておりましたが、それは別途と致します。
当面、各自が胸に持っていることがあると思いますし、聞けばそれを自分で確認出来るでしょう。それにお任せします。(ただし、いずれまとめは綴ります。)



各曲目の解説は、本来プログラムに掲載したものを転記すべきですが、私が過去に綴った関連記事へのリンクでご容赦下さい。(曲名にリンクを貼ってあります。)
ただし、グリークのピアノ協奏曲の解説だけは、故Hさんが綴った遺稿にリンクを貼りました。

エルガー:「海の絵」訳詩:当団A氏による)




グリーク:ピアノ協奏曲

(7月12日付記:ブログ不具合で第1楽章音声を一旦削除しました)
ショスタコーヴィチ:交響曲第5番



アンコール

*音声をモノラル化しました。ご了承下さい。(2008.2.3)

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2007年3月20日 (火)

読解ショスタコーヴィチ第5−とりあえずの結び

モーツァルト、体調都合でちょっとサボってます。すみません。


*とりあえずショスタコの5番が好きだ、という方
 (ツウ、でなくてもいいです。ちなみに、私は残念ながらショスタコ通ではありません。)
*今度私たちTMFで一緒に演奏してくださる方

とり急ぎ、自分たちの演奏に向けて、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」のスコアの読解を、まずは
全体のつくり(ムラヴィンスキー1982年のライヴ感想と併せて)
第1楽章
第2楽章
第3楽章
第4楽章
と、「読み」の試みをしてきました。

(各節にはこの「結び」へのリンクを貼りますので、いつでもここへ戻ってきて、また各節へといっていただければ幸いです。)

専門家でもない一私人の「読み」がどこまで的をはずしていないか、は確信を持ってはおりませんが、演奏ならびに鑑賞のご参考に役立つようでしたら非常にありがたく存じます。

「全体像」では、この作品全体が、第1楽章冒頭に既に現れる主要動機の3つの要素で貫かれている点に着目しました。その3要素それぞれに(記事そのままではありませんが)、



と、仮に3つの名前を付けました。
その上で、
「ある日、自分の家の冷蔵庫がカラになっていた!財布もカラだ!」
という比喩を用いて、ちょっとふざけたストーリー付けをしてみました。
シリアスに、ではなくても充分この作品に一貫したストーリーが摘要できることで、ショスタコーヴィチの第5が古典たりえるのだということを明らかにしたいと思いました。・・・その際、ただし、第5にはこの作品が出来上がった頃の暗い時代背景があることをコメントとして付けました。

第1楽章第2楽章第3楽章第4楽章は1節ずつとし、それぞれ、全音版スコアの練習番号に即して、どの個所がどんな音であるか、も聞いていただけるようにし、私の「読み」との整合性を確認しながら、各楽章ごとの「つくり〜構成」を理解していただけるように努めました。

遺憾ながら、言葉を用いての説明は「読み」だけを心がけていても、「解釈」が入ってきてしまう隙があります。そのため、私情も多分に絡んでしまい、自分で考えていたほど<作品を客観的に把握していただく>ものとなったかどうかには、甚だ自信がありません。
いちおう、なんとかそれでも、各楽章の「つくり」もご理解頂け、それらがどう繋がりあっているかも、<全体像>に戻ってお読み下されば分かっていただけるところまでは、何とかご用意できた、ということにしておきましょう。

ここまで道具がそろって初めて、鑑賞する方にとっては
「解釈」
が始まるわけで、ここはお読み頂けたそれぞれの方にお委ねしようと存じます。
ですので、
私が綴ってきたことは「解釈」ではないのだ、
ということを、どうかご了解頂けますよう、まずは伏してお願い申し上げます。

また、演奏する、ということにつきましては、「つくり」を理解した上で、今度は「演じる」にはどうしたらいいか、という読み替えをしていかなければなりません。
それについては3月18日の弦分奏の記録に2例ほど掲載しましたので、「つくり」に思い入れをし過ぎず、よりよい演奏が出来るためには
「どう読み直すか」
につき、各々でお考えを詰めて行って頂きたく、併せてお願い申し上げる次第です。

18日の練習記録に綴ったことと併せて、「読み直し」のコツをいくつか上げておきます。

・新フレーズを開始する前には、充分なブレスが必要(楽器を問わない)

・上記のブレスは、フレーズを共有するメンバーと同じ深さと長さとタイミングとなる
 (そのために「つくり」を他パート分まで細かく見ておく必要がある)

・良いメロディ(対旋律や切分音であっても)にはメロディそのものに力がある
 したがって、良いメロディに不要な思い入れをすると、却って醜く崩れる

・合奏音楽には、全員あるいはセクション全員の音が1つに集約されるクライマックスがある
 クライマックスの個所は先のブレスの採り方を考慮しぴったり合わせると音楽に凄みが出る
 (集約はただ1つの音にされるとは限らず、一定の協和音であることも多くあります)


ショスタコーヴィチの第5交響曲に関しては、とりあえず以上で一連の「読み」の試みを終えます。 演奏なさる方にとって、ひとつのスタートラインが引けているようであれば良いのですが・・・

スコアの「読み」の勉強は、次はグリークのピアノ協奏曲について行なっていこうと思います。
こちらは19世紀末の西欧音楽の定石に素直に沿っていて、構造的に特殊な部分はありません。
その代わり、同時期の他作曲家同様、調の移り変わりによって彩りを豊かにしています。
そのため、音符を移動ドで読んで置かないと、音楽が充分理解できなくなりますので、是非、移動ドを体得しておいて下さいませ。
鑑賞にあたっては、楽譜に邪魔されないので、むしろ素直な耳で臨めば充分な作品です。

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2007年3月19日 (月)

解読ショスタコーヴィチ第5-第4楽章

とりあえずの全体像
第1楽章
第2楽章
第3楽章

「むすび」


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象徴としてドラクロワのこの絵を持ってくるのがあまりに「陳腐」な気がして、ひっかかっておりました。
が、結局この絵を本楽章にそぐうものだと結論づけたのは、ショスタコーヴィチの第5を「革命」というニックネ−ムで呼ぶ人もいる、ということとは全く関係ありません。
第1楽章で引いた絵は一見すると「個」の悲劇を題材にしたものだとしか思えなかった事でしょう。ですけれど、あの絵の標題も「フィレンツェのペスト」という、広く社会に行き渡った悲劇の一場面です。それを私個人の今の「悲しみ」と重ねあわせている事も否みませんが、悲しみというものは、たとえそれが集団の中のものであっても、共感としてよりは、一人一人の孤独な魂に突き刺さるものとして動作するのではないかと思っております。
では、「悲しみ」から奮い立つときには、「個」だけが奮い立てば何とかなるのか、というところに、ショスタコーヴィチが見いだした答えが、彼自身の説明にしたがえば、この第4楽章だ、ということになります。
で、一聴したところ、ショスタコーヴィチの見いだした解答は、あまりに「陳腐」です。
全音版スコアに、バーンスタインが述べた次の言葉が引用されているのは、お読みになっているでしょう?
「彼のすさまじい創造精神はその凡庸(註:主題最初のミ・ラーシードーという4つの構成音があまりにありきたりだ、という意味)をのりこえ、それを新しい芸術的な表現手段とする事が出来たのです。」

さて、しかし、「陳腐」で「凡庸」に聴こえるテーマにごまかされ、私たちは第4楽章を先行3楽章と切り離して読んでしまってはいけません。作曲者自身が言っていますね。
「この交響曲の第4楽章がほかの3つの楽章のスタイルと差異があるという意見を聞いている。私はそうは思わない。なぜなら作品のフィナーレは、基本的にテーマに対応して第1楽章に課されたすべての問いにたいする答えである。」
じっさい、第4楽章を読込んでみると、作曲者の発言が如何に正直か、を強く感じます。

おおまかに、この楽章の構成を見てみましょう。
これも専門家から見たら間違いなのかも知れませんが、私は本楽章は擬似的なソナタ形式だと捉えて差し支えないと思っております。

呈示部:第1主題A〜練習番号97、第1主題B〜同98-99、展開〜同100-107
    第2主題〜同108-110、呈示部コーダ〜同111
展開部:練習番号112-120
擬似的な再現部:練習番号121-128(悲しげに静かに開始する)
※ただし、128はコーダへの橋渡し
コーダ1:練習番号129-130
コーダ2:練習番号131-134

以下、説明をクドクド綴ると、より冗長になりますので、 各練習番号の箇所の音(色のついた箇所をクリックすると聴けます)に、コメント風の「ストーリー」をくっつけてみるにとどめます。そのため、抽象度が高くなってしまいますが、ご了承下さい。
ただし、前の3楽章と同様、「ストーリー」は比喩としての一つの例だと思って下さい。
なお、スコア各箇所も掲載するつもりで準備しましたが、画面が鬱陶しくなるので載せませんでした。お手元でご確認頂ければ幸いです。

例によって第1楽章の主要3動機を「直面」・「拒絶」・「自問」と仮称しています。

呈示部第1主題
:「自問」は「直面」と融合する。〜以下、こういう表現でいきます。この場合、主題が「自問の動機」をベースにしつつ「直面」の動機と融合しているのだ、ということを言っています。
:「拒絶」を散文的に客体化し、肯定的意味に変貌させる
:ここまでに、「自問」は内省的なものから外的主調へと変貌する
:外面化・公衆化した「自問」が<前進>を急かす。「進め!進め!」
:・・・しかし、まだ足が地に着いていない。。。

呈示部第2主題〜やはり「自問」の動機がベース
:<地に足をつけよ!>と、先唱するトランペット。
:それまで個々に上がっていたトランペットへの応答が、ここで一体化する

展開部
:第2主題ベース、克服しつつある悲劇への、最後の回顧
:第1楽章コーダの回想、すなわち、「自問」の意味の再確認
  ※クラリネットに、第1楽章にあった「自問」の捻れが聞こえる事にも留意
練習番号117:悲劇の克服へ向けて明るく転化して行く精神。「拒絶」の動機の反転を「直面」の動機が柔らかに、天から見守る

擬似的再現部は、呈示部で昂揚した精神が展開部を経る事で静かな、しかし悲壮な決意へと「足固め」を完了した事を示している。そのため、呈示部の「再現」となるわけにはいかなかったのだと思われる。

コーダは長大で、2部に分かれる。
-130:「直面」する我(われ)も「拒絶」する我も・・・130でのトランペットの確固たる「自問」の動機が示す通り・・・いずれも我である。
:130での準備を経て、この後半のコーダは完全な、しかも<集団的な>自己克服を謳歌する。
:「自問」には、もはや揺るぎがない。A音に集約されている八分音符は、宇宙が不動の私たちを抱擁するエーテルである。

紋切り型で分かりにくく、なんだかええかっこしいに見えなくはないか、と懸念もしておりますが、こんなところで。

とにかく、以上で構成をご理解の上、お手持ちの演奏で全体を通して聴き直してみて下さい。

なお、もしムラヴィンスキーの演奏できくときには、本楽章にかぎらず、原稿出版スコア通りではないところがあるのは、お好きな方はご承知の通りです。ご承知でなくても、とりあえずお気になさる必要はありません。

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2007年3月 7日 (水)

解読ショスタコーヴィチ第5-第3楽章

とりあえずの全体像はこちら
第1楽章についてはこちら
第2楽章についてはこちら

「むすび」


どうも、自分の今の「思い」に引き寄せた「解釈」とお受け止めになられてしまうきらいがあります。
現実問題として、精神状態からそのように採られて仕方の無い綴り方をしがちなのは否めません。
が、目的は「音楽の構成を理解して頂く事」
なので、私の思いに見える部分も、あくまで比喩としてご理解頂ければ幸いです。比喩を「解釈」として固定されてしまうと窮屈になりますが、言葉を使って表現しようとすると、やはり制約を感じざるを得ません。

第1楽章の説明が「屍を前にして」という事を前提にしたので、余計にいけなかったかな。絵も使ってしまったので、鮮烈過ぎたかしら。
・・・全体像では、そんな誤解がイヤだったので、敢えて別の比喩を使ったのですが、作曲時期の時代背景を考慮すると第1楽章で用いた比喩は私の今に関係なく「分かりやすい」と思っておりました。
この点、偽書ではありますけれども、ヴォルコフ「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)の記述をご参照下さい。
ヴォルコフの本書は気鋭の学者さんファーイの研究で偽書である事が証明された、というニュースもありますが、そうしたニュースを待つまでもなく、グラズノフに関する記述がショスタコーヴィチ本人なら知っていたはずの事実につき誤認されたものになっている事からも<ニセモノ>なのは明確です(グラズノフにはロシア在住中に設けた娘さんが一人ありましたが、「証言」ではグラズノフは結婚もせず子供もいなかった、といったふうに書かれています。亡命前のグラズノフの家庭事情はショスタコーヴィチはよく知っていたはずです)。それでもなお、ショスタコーヴィチの子息マキシムは、「『証言』は当時の雰囲気を良く反映している、と語っています。
さらに付言すれば、音楽が始まった瞬間から、音楽の中に「屍」はありません。もう1点は動機への命名の適切性に関わると思いますが、これは適宜各自で命名しなおして頂いて結構だと考えている事は、全体像の記事の中で述べた通りです。ただし、今回も、説明の一貫性を保つために、自分の命名をそのまま使用します。

前置きが長くなりました。

色のついたリンクは音が聴けます。
第3楽章概要は次の通りです。

冒頭部が(これも正統な分析では「非」となるでしょうが、この後に続く文脈を考慮すれば明らかに)第2の「拒絶」の動機の反転型を元としています。話はそこから始まります。
この楽章では、第1楽章冒頭の3つの動機がフル活用され、かつ、第1楽章の練習番号1の箇所を効果的に回想する事で、第4楽章で示される「解答」を周到に準備します。

なお、自宅スキャナ不調、職場のスキャナを使うゆとりが無かったので、スコア画像はケータイでとったものです。歪んでおります。汚い字が時々入っていますが、電車の中での書き込みですので一層判読しづらいかと存じます。ご容赦下さい。

(説明は順次加えます。)
から音楽が始まります。
冒頭部のスコアの、第3ヴァイオリンをご覧下さい。
200703082230000_1
2章小節〜5小節は「自問」の動機と「拒絶」の動機の融合したもので、この融合には1小節目の3拍が重要な役割を果たしています。命名したままの動機の性質を用いて文にすれば、
「拒絶したままでよいのか」
という、静かな反省の開始です。これが練習番号77に入ると第2ヴァイオリン主導で「拒絶」の動機がエスプレッシボかつクレッシェンドとディミヌエンドの短いサイクルの交替で「息づかい」をやや荒げますから、精神の基本はまだ「拒絶(直面の回避)」に留まっている事がはっきりします。

に至ると、「果たして、そのままでいいのか?」と、「自問」の動機が輪郭を明確にします。

から80にかけては、 の、第3楽章用に再現ですが、フルートで演奏されているのがひとつのミソです。フルートという楽器に、一般的にイメージされるのは、「思いの浄化」ですが、ここではまだ「思いの抽象化」を示していると受け止めるのが妥当かと思います。楽章の末尾に近い練習番号94で、この再現は再びなされますが、その際はヴァイオリンによって演奏されます。弦楽器は、オーケストラの中ではカンバスの地の色にあたりますから、抽象性が薄まる事になります。
練習番号79のスコアは次図の通り。
200703082231000

練習番号81から82は第3楽章の冒頭部を、静かなままに、ではなく、83以降の再々度の「自問」(これの「自問」が楽章の中でのターニングポイントとなります)へと昂揚させて行きます。

は、「直面」の動機の後半部を発展させたもので、もう目の前には無い事実に、心象として「直面」します。「心象」には実体的な生々しさがありませんので、いかに「直面」しようとも、像はさまざまに形を変えます。この「直面」が、まずオーボエでまず暖色系のイメージとして、次に(練習番号85)ではクラリネットで寒色系のイメージとして、最後(練習番号86)にフルートで透明度の高い・・・事実には最も遠い、結晶体としての透明度に限りなく近付いた色合いで、繰り返しなされます。ここにきて初めて、精神は「拒絶」する姿勢の非を自覚し始めると言えるでしょう。
練習番号84のスコアは次図の通り。
200703082231001

では、88冒頭の、クラリネットの低音による、非常に暗い「自問」によく耳を方向けて下さい。その暗さゆえ必然的に、「自問」は煩悶し、捻れ(練習番号88、次図参照)、切実な「直面」(練習番号90)に向かってクライマックスを築いて行く事となります。
練習番号88の<捻れ>た音符の模様をご覧下さい。
200703082233000

は、「自問」の動機のリズムを芯に吸え、それを「直面」の動機(チェロ、練習番号91からは木管が賛助)と「拒絶」の動機(練習番号91からのヴァイオリン、とくに144〜145小節)へと巧みに変身させ、さらに、「拳を壁に叩き付ける」仕草を思わせるコントラバスのスフォルツァンドフォルテシモの鋭く短い八分音符で、「直面」しなければならない精神の苦悩を悲痛に響かせる。
練習番号90の譜例です。
200703082233001

練習番号92は「自問」が、たどり着くべき頂点を見いだした事に「喜び」ではなく「悲しみ」を表明している点に留意しなければなりません(短調です)。悲しみは、下降音型で諦念へと向かい、93からふたたび冒頭部の音楽によりながら、浄化へ向かって上昇を始めます。

は、前述の通り、第1楽章練習番号1の、この楽章なりの再現です。第1楽章では「自問」を初めて提示するところに意味がありましたが、ここで再現されているときには「自問」を結論へ向けてどう締めくくろうか、との沈思黙考となっています。
練習番号94のスコアです。フルートによる再現お際もそうでしたが、ここでもハープが「直面」の動機を無限的に奏でている事には注目しておかなければなりません。
200703082234000

は、練習番号83以下でいったん進んでいた、しかしその後さまよう「自問」に妨げられていた、心象化した現実への「直面」の、最終で、天国的な浄化です(チェレスタとハープ)。
練習番号96の譜例です。
200703082235000

極力、絵画的イメージを回避する記述にしてみましたが・・・自分の「解釈」が反映されているようでしたらご容赦下さるとともに、割り引いてご理解下さい。あくまで、構成をご理解頂きたいと存じます。

以上を踏まえて、お手持ちの演奏で第3楽章全体をお聴きになってみて下さいませ。



ショスタコーヴィチの証言


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ショスタコーヴィチの証言


著者:ソロモン ヴォルコフ

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2007年3月 5日 (月)

解読ショスタコーヴィチ第5-第2楽章

・とりあえず、の全体像はこちら
・第1楽章はこちら

「むすび」


この楽章を聴くといつも思い出すのは、パドゥーラ=スコダがモーツァルトの解釈方法について述べた著書の中であげている、だいたい次のようなエピソードです。
「ある冬の日、友人がモーツァルトを訪ねると,モーツァルトと妻のコンスタンツェはダンスの真っ最中だった。部屋はとても寒かった。<こんなに寒いって言うのに,君たち,よくそんな陽気にダンスなんかしていられるね>友人が言うと,モーツァルトが答えて曰く<暖房費もないから,ダンスでもしてないとあったまらないんだ!>」

以下,この楽章は要素が定型的ですので、譜例をあげず、参考となるような絵画も上げず(適切なのが見つかりませんでした。この音楽は,決して「死の舞踏」ではありませんので・・・),音だけ聴いて頂けるようにしますが,それでも充分「読み切れる」のではないかと思います。

第2楽章について全音スコアの解説は
「スケルツォという名前通り、楽しいくつろぎの音楽である」
と記していますが、これは特に「くつろぎの」という言葉で、筆者の読み誤りが明確でしょう。
まず、主観的にはショスタコーヴィチファンはこんな言葉は信じっこありませんし!
客観的には、この楽章全体が、第1楽章冒頭で明示された主要3動機のうちの第3、 だけで創造されている、という事実に目を向けなければなりません。そして、時折あいだに現れる付点リズムは、(正統的な分析の手法では「そんなはずがない」ということになるのですが、作曲する立場からの心理としては同じく主要動機のうちの第2、 の変形だということを感じ取るのが適切だろうと考えます。

すなわち、第2楽章は「悲劇的な現実を、悲劇だと自分に言い聞かせるのを拒み,底抜けの陽気を装う」音楽となっています。

もう1点、スコアの解説文には「スケルツォ」とありますが、少なくとも全音版のスコアの第2楽章そのものには「スケルツォ」とはどこにも書いてありません。手元のCD5つ(他は貸し出してしまったので)を確認しても、スケルツォとは書いていません。では、ショスタコーヴィチ自身はどう見なしていたのか・・・家のどさくさで文献がほとんど(まあ、たいした数ではないのですが)行方不明なので、確認出来ませんでした。今参照出来るのはファーイによる伝記だけです。
そこに引用された、当時の何人かの見解をあげてみましょう。

まずトルストイ(大作家の方ではありません)の、最終楽章に対する見解ですが、
「交響曲の最終楽章は、最初の三楽章に置ける悲劇的なまでに緊張した瞬間を、人生肯定的で楽観的な構想に溶かし込んでいます」
終楽章に対するもの、としての見解としての妥当性は措くとしても、少なくとも第2楽章が「楽しいくつろぎの音楽」とは見なしていなかったことが分かります。
次に、当時最大の交響曲作家であったミャスコフスキーの日記。
「最高なのは第一、第三楽章。第2楽章は(メヌエット、レントラーの特徴が)マーラーの焼き直し・・・」
これも、マーラーの焼き直しかどうかは問わないこととしますが第2楽章をスケルツォとは考えていません。

では、なんなのか? メヌエットでもレントラーでも、あるいはワルツでもいい、舞曲なのは間違いないのではないか?
とにかく、どんな種類の「舞曲」なのかを特定しないでおきましょう。
今は、この楽章は「決して陽気なものではない」ということを承知しておきましょう。
ちょうど、チャイコフスキーの「悲愴」における第3楽章が陽気さの裏に狂気を秘めているのと類似した意味付けを持っている音楽だ、と見なしておけばよいのかと思います。ただし、チャイコフスキーとは文脈が違っています。あちらは滅びて行く貴族社会を象徴するような哀感を持つ5拍子のワルツの後でやってくる狂気です。ショスタコーヴィチのこの第2楽章の方には、「狂気」はありません。構造が極めて理性的です。

形式は古典的な複合三部形式で、極めて大まかに捉えるなら
第1部:A、B、B
第2部:C、C、D、C’、D’、D’’、C’’、D’’’
第3部:A、B、B、コーダ(Cによる)
という構成になっています。ダッシュを無視し,同じ記号だけに注目すれば,要素は4つだけです。(原子、ではなく分子レベルでの要素だと思って下さい。)

4つの要素の音は、以下にリンクしてあります。

(これのみ前半部が「拒絶の動機」の変形です。)

これが先に示した3つの部の中でどのようにオーケストレーションを変化させているかを、どのように読むかがポイントですが、大切なのは第3部のA(練習番号63)は、冒頭のモーツァルトのエピソードで言えば,
「寒さを忘れようと踊っていても,確実に訪れてくる寒さは無視出来ない」
ということにあたりますし、続くBの後半がまずトランペットに割り当てられているというのは・・・トランペットという楽器の象徴するものを考慮すれば・・・「寒さという現実を前にしてなお,軍人的決意で寒さを強制的に忘却する」のです。このあたりはソルジェニツィンの小説「イワン・デニソヴィッチの1日」あたりがムードをつかむ上で参考になると思います。

ということで、上の4要素をご承知の上で,全楽章をお聴きになって、読みをお深めになって頂ければ幸いです。

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2007年3月 4日 (日)

ダスビダーニャ第14回定期演奏会

自分たちの練習は夜で、家庭の事情で行けません。娘は期末試験の真っ最中でもあります。
が、百貨店に法事のお返しを仕入れに行かなければならない。
迷った末、ふるたこさんに無理を申し上げ、娘には
「勉強は土曜のうちに終わらせろ」
と無茶をいい、おかげさまでオーケストラ・ダスビダーニャの第14回定期演奏会をききにいくことが出来ました。

終演後楽屋に御礼にも伺えず無礼をしましたが、ふるたこさんにはいくら御礼を申し上げても申し上げきれない思いでおります。本当にありがとうございました。

一番の目当ては、今回演奏される交響曲第15番でした。

が、他の演目も大変に魅力的でした。
それぞれに簡単なレヴューをすることで、ふるたこさん、また、素晴らしいひとときを過ごさせて下さったダスビの皆様への感謝に替えさせて頂きます。(曲目標記はダスビさんはダスビさんの強いこだわりがあるので、プログラムのままとします。)

・映画音楽「ピロゴフ〜先駆者の道〜」の音楽による組曲
アトヴミャーン編のものだそうですが、組曲としても音楽そのものも、私は初めて耳にしました。ジダノフ批判で不遇をかこった時期のショスタコーヴィチが映画音楽を量産した話はどんな伝記にも語られているところですが、作品としての評価もそれに伴い低いのが一般的のような気がしております。
しかし、この作品、聴衆のかたが、たとえば「ベルリン陥落」の音楽をご存知の上でお聴きになったら、格段に質が良いのがお分かりになっただろうと思います。開演早々、さすが、日本一のショスタコ理解者集団であるダスビさんらしい、魅力のある音楽の、これまた魅力ある演奏でした。激烈な箇所と静寂な箇所の対比、歌う場面の過剰にならない旋律表現は、賛美に値します。

・ヴァイオリン協奏曲第1番
独奏者の荒井英治さんは、東フィルのソロコンマス。ですが、ショスタコファンの間では、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏全15曲を演奏する目的で「モルゴーア・クァルテット」を結成したことで名前を知られています。
初演者のオイストラフが音楽の厳しい孤独に焦点を当てたものだったとすれば、荒井さんのアプローチは「孤独ゆえに見いだされる深い愛の精神」に迫ろう、というアプローチではなかったか、という受け止めかたをしましたが、いかがでしょうか?

・交響曲第15番
ショスタコーヴィチが「自分自身」に還ったときの独特の音響は、交響曲では第1、第9、そしてこの第15ではなかろうか、というのが私の個人的な思い込みです。第9は意味合いとしては別のものをもっているのではずして考えますが、「トリスタン」の引用を含む第1に始まり、「神々の黄昏」の動機を用いる第15で幕を閉じるショスタコーヴィチの交響曲創作過程は、これら最初と最後の交響曲を枠組みに据え、この2曲の間にある「類似点」と「相違点」それぞれの謎を、間に挟まれた13曲の交響曲で解き明かして行かなければならない、「人類に残された最大の知恵の輪」である気がしてなりません。
管、弦、それぞれに効果的なソロを持ち、何よりも全篇を通じてこれ以上ないと思われるほど巧みに打楽器を駆使している第15番は・・・いろいろな解釈はあるのでしょうが・・・非常に「楽しめる」作品であり、同時に「胸を打たれる」音楽に溢れてもいます。
最初の3楽章でもそれが見事に再現されていましたが、私が最も打たれたのは、終楽章でスネアが力強くナタを振り下ろす箇所以降です。スネアが鋭く響いた瞬間、私は客席で、同時につい「ウン!」とうなり声をあげてしまい、隣の人に顰蹙の目で見られました。・・・しかし、その鋭さの後、スネアが見事に静寂の中へと姿を消して行くさまには、ほんとうに、涙がこぼれました。
賛美したい箇所は多々あったのですが、これをその中の代表例として綴っておくことでご容赦頂きたいと存じます。ソリストの皆さん、コラールを奏した金管の皆さん、そして精妙なアンサンブルを見せて下さった打楽器の皆さん、どなたも、素晴らしかった。

指揮者の長田さんも、実は初めて拝見した方ながら、堅実な棒、抑制を効かせた演出、でいながらメンバーが望むままに伸び伸びと誘導する懐の深さには、大変頭が下がりました。

全体として惜しむらくは・・・これはアマチュアオーケストラのほとんどすべてに当てはまることで、これを言ってしまうと私が私自身の首を絞めることにもなるのですけれど・・・とくに弦楽器は合奏がブラスバンドのように普遍的な機会を持っていませんので、和声感覚の欠如が曲の最も美しくあるべき箇所の緊張感を緩めてしまう結果になりがちです。これは、ですからプロであるはずのトレーナーの方にお願いをしたいことですが、
「弾ける・弾けない・どうしよう」
に焦点を置いたトレーニングは、そろそろ卒業ということになさって頂きたく存じます。
今回の録音を後でお聴きになると、緩徐楽章や弱音で歌う際に、弦楽器の音程がしばしば低くぶら下がってしまっていることにお気付きになると思います。また、ソリストの方は私など到底及ばないほど巧みにお弾きになっていらっしゃるのですけれど、「音程を指の位置で取らなければならない」という先入観をお持ちではないかな、と危惧します。単純な長音階・短音階ならば、それでもなんとか「耳」が補正を手伝ってくれますが、ショスタコーヴィチの書法は既に長短の音階を超越していますから、たとえハイポジションで苦しい、という箇所でなくても(いえ、ハイポジションでご苦労はなさっていませんでしたね)、ごく普通の位置のポジションでも、音楽にそぐわない音程になってしまっている箇所があります。
そのあたりを、是非、演奏なさった方もトレーナーの方も真摯にご確認頂き、「響き」を大切に音楽を構築して行ければ、これだけの技術を保持しているダスビの皆さんのことです、一層素晴らしいショスタコーヴィチ、世界に胸を張れるショスタコーヴィチを高らかにアピール出来るようになって行かれることと信じております。

失礼を綴った段は平にご容赦下さいませ。

とにかく、全体としては、大変に満足、かつ、感動した演奏会でした。
15番の後、拍手までの静寂が長かったことが、聴衆すべての、今日の演奏でおのれの「祈り」が満たされたことを悟った至福のひとときを、よく象徴していたと思います。

ほんとうにありがとうございました。

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2007年2月28日 (水)

解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(前振り)

<前説>

この部分は、TMF団員の方に向けたお話ですので、ショスタコーヴィチの交響曲第5番がどうなっているかだけに御興味があって覗いて下さった方は、お読みにならなくても構いません。ムダを綴って本当に申し訳ございません。

団員の方は、できましたら、ネットをなさっていないかたにもお伝えしたいと願っております。

2月25日に、ショスタコーヴィチ「交響曲第5番」の全体像を(少なくともTMF団員の方には)把握して頂きたくて、長々と綴りました。
あまりに長いせいか、中身がまだまだ抽象的に過ぎるせいか・・・いちおう、自分の文章力のなさはやむを得ないとして・・・、この記事、人気がありません。

アクセス数なんか、家内の逝去後ピークに達した後は日に平均70人くらいの方が2,3回読んで下さるくらいのマイナーブログですから、別にどれがどれくらい読んでいただけているかなんて気にしても詮無いことです。本人も、
「あ、仲良しの方が読んで下さったかな?」
以外のことは、あまり気にしていません。

が、しかし、団にとっては次回はスペシャルゲストがいらっしゃるとはいえ、交響曲がメインの演目ではありますから、

「やっぱり、作品設計への展望は、どなたにも持って欲しい」

と思っております。

練習をお休みしがちになってしまう環境下でもあります、お会いすれば消える心配もたくさんあるのだとは思います。
が、今のような環境下になってみて初めて、
「うーん、もう長いこと、伝えるべきことを伝えずに練習に臨んできたのかなあ。ボクのお役目からしたら、義務の不履行だなあ」
と、痛切に思うのです。以前は家内に愚痴をこぼして、
「ああ、そう。まあ、仕方ないんじゃないの?」
って言われて(プロセスはまじめに聞いてくれての話なのでしたが、結論はこれに決まっていました)自分の気持ちが収まればそれでおしまい、にし続けてきましたから。・・・それではいけなかったのです。オイラはバカだったなあ、と、つくづく思います。

アンサンブルの技術(純粋に技術的なことだけ)については前回、管楽器では(不足は多いものの)集中的にお伝えできたとは感じております。あとは敷衍して頂ければ、いろいろお気づきいただけるはずです。
弦は・・・自分自身、マンネリなのかなあ。。。今の状況があたりまえ、と思い込んでいるのかなあ。。。それなのに背伸びをして
「本当は、もっとこうなんだよ!」
という点まで欲張ってしまうから、結果的に空回りするのでしょうか? たしかに、後で振り返ると、「アンサンブルの技術」でじはなくて、次に述べる問題点のうちのふたつめにまで踏み込んでしまっていました。もう少し頭を整理して臨めば良かったと反省しております。

一時期TMFで一緒に演奏してくれて、まもなく富山へ引っ越してしまった後輩が、後で録音を送ってやったら
「おかしいな〜、もっとうまく出来ていたはずなんだけれど。。。」
ごく素直な、戸惑った口調で言ってくれたことが思い出されてなりません。

彼が首を傾げてしまった原因を反省してみますと、大きく二つあります。

ひとつめが、先日の分奏で管楽器の方で重点的にやった「アンサンブルの技術」の欠如です。
こちらは、音の気配を感じ合える連帯感を養うことで、かなりの程度解消できていくはずです。

ふたつめは、演奏する作品への、ヴィジョンの不揃い及びそもそもの無認識です。
この問題の発生には次のような要因があります。

・自己の音楽受容のみへの偏執
 (自信過剰・不自信過剰、他者を聴けない耳、作品を受け入れない精神)

・特定の個所のみへの過度のこだわり
 (演奏できない個所、「分かった」と思い込んでいる個所、無意識で「やれちゃってる」個所)

すなわち、せっかく何十人も集まっているのに、もしくは何十人もが無秩序に集まってしまっているがゆえに、何十もの
「木を見て森を見ず」
が発生する。仮に技術が身についたとして、それで解消する問題ではないことはご了解いただけるのではないかと思います。

これは、
「指揮者が指揮者の解釈で家事を取ってくれるから、それでなんとかなる」
そう簡単に結論付けられがちですけれど、そう簡単ではありません。

「解釈」はディレクター、即ちオーケストラならば指揮者の領分であるのは間違いないことです。
ですが、たとえば演劇に事態を置き換えてみて下さい。
ディレクターは統合的な演出と、それに必要な演技指導は行ないますけれど、ディレクターの実現したい「全体像」は、個々の演技者が配された役どころをどのように理解し、どう演じて見せてくれるか、が点検できない限り、ディレクターにとっても実現不可能な全体像のままで終わるのです。

ここのところを念頭においていただければ幸いです。

以上をご理解頂いてはじめて、次項の<本説>で申し上げることの主旨をも分かっていただけるのではないかと思います。

今回は、第1楽章のみについて綴ります。スコアの必要個所も掲載し、該当個所の演奏例もつけます。
どうしても「比喩」を用いなければならず、そのせいで「解釈」になってしまっていると誤認されては元も子もないのですが、場合によって、ヒントとなる美術作品の画像も添付します。

分析が目的ではありませんので、「構造」云々は致しません。
ですが、ショスタコーヴィチが第1楽章をどのように設計したのか、なるべく充分に分かるように試みます。

本来全楽章を一度に俯瞰できるのが望ましいのですけれど、まずは第1楽章の展望を見出して下さる一助となれば、このうえない幸いです。

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解読ショスタコーヴィチ第5-第1楽章(本編)

「むすび」



長い記事の2連続になってすみません。

いきなり、曲に入りましょう。

が、その前に、まず、あなたの前に、愛する人の「屍」が横たわっているのを、「突然に」見出して下さい。ただし、ご留意下さい。これから「聴く=読む」音楽の中には、あなたが今目にした「屍」は存在しません。

これをお分かりいただけた上で、先にお進み下さい。(お時間にゆとりのあるときの方がいいでしょう。)・・・なお、楽譜の画像がデコボコしている点は平にご容赦下さいませ。

冒頭が3つの動機から成っていることについては前に綴ったとおりですけれど、同趣旨を繰り返します。ただし、前に仮に名づけた動機の名称は、単純化します。これに拘泥すると「解釈」になってしまいますので、場合によってはお好きな名前に付け替えて下さい。ただし、説明の一貫性を保つために、私はこれで通します。

譜例を見つつ、お聴きください。なお、聴くたびに画面が切り替わってしまうので、申し訳ございません。ブラウザの「戻る」の矢印やメニューで、またここへ戻って来て下さいね。色のついた箇所をクリックすると音が聴けます。なお、逐語的に内容を示していきますので、私の文章の下手さもあって、分かりにくいかも知れません。それでも何度か素直に追いかけて頂ければ、前回抽象的に綴ったものに比べれば、設計の具体像が「見えて」くるだろうと思いますし、そうであって欲しいと願っております。スコアがお手元にあるなら、どうぞ、練習番号の箇所を実際に対比してみて下さいませ。

・冒頭動機の楽譜はこうです。
I00_1

音で聴いて見ましょう。

これは、第1動機であなたが「枕頭で屍を直視して絶叫」し、
第2動機で、「ウソ、ウソでしょ!」と顔を背け、
第3動機で、「何故、こんなことに・・・」と、誰に問うても答えのでない問いを、迷いのうちに自己に向けて発するわけです。動機を分けてきいて頂くなら、次の通りです。
〜ヴァリエーション:緩やかな跳躍音型(上向・下向とも)
〜ヴァリエーション:付点八分音符と十六分音符
〜ヴァリエーション:リズムの反転、音程の上下、音階への延長

例えば、この絵のような心情でしょうか?
I00_2
(フランソワ=エドゥアール・ピコ「フィレンツェのペスト」)
ただ、この絵で嘆く母の片手に抱かれた無心な赤子は、音楽の方には(まだ)登場していません。

この3動機、とくに「自問」の動機は、第1楽章に限らず重要な役割を果たします。

すぐあとの部分を聴いて下さい ( )。 チェロ・コントラバスとヴィオラが「直面」に失神しつつあるところを、ヴァイオリンが「自問」のリズムを反転させた3音で開始する旋律によって辛うじて支えています。この一くさりが終わると、「直面」(ファゴット)と「拒絶」(第2ヴァイオリン)が、屍からやや離れたうえで回想されます。
以下、第1ヴァイオリンの「拒絶」に始まり、オーボエとファゴットによる、事実を肯定するか(上向音型)否定するか(下降音型)の静かな葛藤、を経て、あなたはもう一度「屍」に近付き、涙にくれるのです。

・音は です。
ここで、あなたは肯定も否定も出来ない自問にさいなまれながら、何とか心静かに現実を受け入れようとします(第1ヴァイオリンによる、「直面」の動機の拡大型)。

けれど、それは、「自問」がぐらつく(ヴィオラ下声部)ことにより、苦悶(ヴィオラ上声部)へと転じていきます。ヴィオラにあえて相当高いポジションを要求しているのは、「苦悶の音色」を求めているためです。
の譜例 〜色のついた部分でこの箇所の音が聴けます。
I12


「自問」は、次第に平穏を保てなくなり、ホルンが「拒絶」の動機の拡大型を、腹の底から悲しみを絞り出すように奏します(ホルンにとって「絞り出さなければ響かない」音域を用いていますよね。トランペットがそれに続いています)。
の譜例〜色のついた部分でこの箇所の音が聴けます。
I17

まですすむと、「自問」は事実を肯定するとも否定するとも決めかね、烈しい葛藤を繰り広げます。ここで「自問」の動機は「直面」と「拒絶」の似姿をとって右往左往し、
に至って、ついにあなたは有無を言い得ぬまま悲しみへと引きずり込まれます。
の箇所は、死神たちの行進をスネアドラムによって是認するあなたの「自問」への仮の解答が示されます。
I27
これは練習番号31番まで続き、
以降で「直面」の動機を、木管楽器と弦が縮小型で、金管楽器が拡大型でやり取りしあいますが、<直視せよ>と宣告する金管に対し、他の楽器群は拒みたくても拒めないため、激情に身を委ねるしかなくなってしまっているわけです。

は、「拒絶」の、最後の烈しい試みです。それを金管・打楽器が冷徹にさえぎります。
I36

そしてついに、練習番号38を過ぎた a tempo con tutta forzaの箇所で、「自問」の動機は「直面」の現実に屈服します。(この部分、音ファイルを造り忘れました。ゴメンナサイ。)
この箇所、四天王に踏みしだかれた鬼の姿を、「自問」の動機に求めればよいでしょう。
Todaiji02
写真は東大寺の広目天像ですが、広目天の方ではなくて、鬼サンの方の顔を見て下さいね。
この鬼サン、ここまでひどい踏んづけられかたをしていながら、悲惨な顔をしていませんね。
を聴いて下さい。
I39
「自問」の動機の上を滑る「直面」の動機(フルート、ホルン、やがてクラリネット)の、なんと穏やかなことでしょう。これが、鬼サンの顔が悲惨ではない理由を表現しています。
とはいえ、「自問」は答えを見いだしたわけではなく、再び捻れながら、
に至って、
「じゃあ、アタシはどこを見ればいいんだ?」
・・・「直面」していながら、目は焦点を失い、心は空中へ浮遊していくのです。



読み返すと
「やっぱり拙いなあ」
としか感じられず、本当に申し訳ない限りですが、以上を何度か追いかけてみて頂ければ、第1楽章の「設計」は、輪郭に留まらず理解して頂けるはずです。保証します。・・・文の方はだいたいの趣旨を汲み取って頂く程度で、とにかく、

・誰がどの動機を担当しているか
・すると、担当すべき役割は、場面場面でどう変化するか

に気をつければ、見えて来ます。

見えて来たな、と思ったら、お手持ちの演奏で第1楽章を「通し」でお聴きになり、確認してみて下さいませ。(「屍」云々は比喩の一例に過ぎませんが、第5誕生の時期を鑑みると適切かな、と思い採用しました。)

ほんとうに、お粗末様でした。・・・気分は尻切れトンボ。。。

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