2008年5月23日 (金)

木簡に「万葉集」の和歌!

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



ベルリンの「フィルハーモニー」が20日、火災となりました。被害は最少限に留まりましたが、消防の際の水浸しから立ち直るのにどれだけ時間がかかるのか・・・


定家の記事そのものが進んでいないのに、すみません。定家のカテゴリに含めてしまいました。

取り急ぎ、Asahi.comから転載・・・と19時には思っていたら、そのあとすぐ外出する用事があったので、掲載が遅くなりました。(昨日の記事、つづってあるから、いいか!)
その間に、もっとまっとうな記事がWeb上で毎日新聞にふたつ記事があったので、それをまず引用します。



<木簡>万葉集と違う表記で「安積山の歌」  成立過程に光 奈良・紫香楽宮跡
5月22日19時57分配信 毎日新聞

2008052200000041maiallsociview000写真は、史跡紫香楽宮跡から出土した万葉集の歌が書かれた木簡(「阿佐可夜(麻)」側上部)=滋賀県甲賀市で

奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町)で出土した木簡(8世紀中ごろ)に、日本最古の歌集である万葉集に収録された「安積山(あさかやま)の歌」が書かれていたと22日、市教委が発表した。万葉歌が木簡で見つかったのは初めて。万葉集とは表記が全く異なっていた。もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれており、この2首を歌の手本とする伝統が、平安時代に編さんされた古今和歌集の時代から万葉集の時代まで約150年さかのぼって確かめられた。日本文学の成立史に見直しを迫る画期的な実物史料となる。

「歌木簡」は97年、宮殿の排水路と推定される溝から出土した。長さ7.9センチと14センチの2片に分かれ、幅は最大2.2センチ。万葉集になく、木簡などで残る難波津の歌の一部が書かれていることはわかっていたが、厚さが約1ミリしかなく、木簡の表面を削ったくずと考えられていた。(栄原永遠男さかえはらとわお)・大阪市立大教授が昨年12月に調べ直して見つかった。

両面とも日本語の1音を漢字1字で表す万葉仮名で墨書され、安積山の歌は「阿佐可夜(あさかや)」「流夜真(るやま)」の7字、難波津の歌は「奈迩波ツ尓(なにはつに)」などの13字が奈良文化財研究所の赤外線撮影で確認された。文字の配列などから元の全長は2尺(約60.6センチ)と推定される。字体や大きさが異なり、別人が書いたとの見方が強い。

万葉集は全20巻のうち、安積山の歌を収めた巻16までが745年以降の数年で編さんされたとされる。木簡は一緒に出土した荷札の年号から744年末〜745年初めに捨てられたことがわかり、万葉集の編さん前に書かれたとみられる。約400年後の写本で伝わる万葉集では訓読みの漢字(訓字)主体の表記になっており、編さん時に万葉仮名が改められた可能性がある。

2首は、古今和歌集の仮名序(905年)に「歌の父母のように初めに習う」と記され、源氏物語などにも取り入れられている。筆者の紀貫之の創作の可能性もあったが、古くからの伝統を踏まえていたことがわかった。【近藤希実、大森顕浩】

<難波津の歌>

難波津に咲くや(木こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花

(訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています

<安積山の歌>

安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)

 (訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ

(いずれも「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」の表記は、万葉集の原文)

【ことば】万葉集
奈良時代編さんの日本最古の歌集。全20巻に約4500首あり、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を収録。歌人としては柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持、額田王などが知られる。天皇や皇后などの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人(さきもり)の歌なども収録し、作者層が幅広いのが特徴。

【ことば】紫香楽宮
奈良時代半ばの742年、聖武天皇が造営を始め、745年に難波宮(なにわのみや)から遷都したが、地震や山火事が相次ぎ、5カ月で平城京に都が移った。公式儀礼を行う中枢建物「朝堂」の跡が宮町遺跡で01年に確認されたが、全容は不明。



<歌木簡>聖武天皇の前で音読、庭で曲水の宴…膨らむロマン
5月22日22時8分配信 毎日新聞

紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市)で出土した、万葉集の歌が書かれた8世紀半ばの「歌木簡」。わが国最古の歌集が編まれる直前、聖武天皇が造営した5カ月の短命の都で、どのような歌の世界が繰り広げられたのか。専門家は、さまざまな場面を想像する。【近藤希実、花澤茂人】

木簡には、万葉集の「安積山(あさかやま)の歌」、もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれていた。

安積山の歌の文字を発見した栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授(日本古代史)は「聖武天皇のいる場で、手に持って声を出して読んだのではないか」と推測する。歌木簡が2尺(約60.6センチ)と長いのは、読み間違えにくい1字1音の万葉仮名で記したため。大切な儀式や宴会で役人が朗々と読み上げる姿が浮かぶ。

奈良時代の歴史を記した「続日本紀(しょくにほんぎ)」に登場する8首の歌のうち4首が紫香楽宮の時期に集中している。宮町遺跡の「朝堂(ちょうどう)」(公式儀礼を行う中枢施設)の跡で「歌一首」と墨書した土器も出土しており、歌詠みが盛んだったらしい。

歌木簡は溝に捨てられていた。同時期の平城京には池と曲水路のある庭園があり、中国の唐のように、杯が流れる間に歌を詠む「曲水の宴」が行われていたらしい。小笠原好彦・滋賀大名誉教授(考古学)は「紫香楽宮にも歌会をする場所があったのだろう。近くを調査すれば、宮中の歌会や儀式で使われた歌木簡が続々と出てくるのではないか」と期待する。

木簡の2首は「歌の父母」とされた手本。上野誠・奈良大教授(万葉文化論)は「当時の役人は、日本固有の名前を万葉仮名で表記する能力が求められた。2首の手習い歌を人に読んでもらって書き取る練習をしたのではないか」と想像する。

「難波津の歌」は天皇を賛美する「公」の歌、「安積山の歌」は感情を吐露する「私」の歌。中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)は「役人が公私の歌をきちんと書き留めているということは、紫香楽宮が安定した都だったことを示すとも考えられる」と話す。



上の記事に載った歌は、表のものは、講談社文庫本(底本:西本願寺本)の万葉仮名は毎日新聞の記事の通りです。(巻十六、3807)
歌が書かれていることが判明した木簡での表記の方が簡便なもの(ひらがな一字相当分が万葉がな一字となっている)であるところには、注目したいですね。・・・「万葉集」の方の表記は、この集を編纂したのが、「インテリ」として選ばれた人物であったことを示唆していると言っていいでしょうから。
逆に言えば、最初の記事通り、木簡は「読みやすいように」一字一字を記したのだとすると、当時の宮廷人の、それでも一般よりやや学識があったと思われる連中の「読み書き理解度」も、何となく伝わってくるようです。
  
裏の歌は(日本書紀に載っているのだとしたら・・・しまいこんじゃって今行方が分からないのですが・・・)日本に論語や千字文をもたらした王仁(わに)の歌だとされているようですが(Wikipediaに記載あり)、法隆寺五重塔の落書に次のように記されているものです(一部しか分かりませんでした)。
奈爾波津爾佐久也己・・・
こちらは、法隆寺五重塔のものより、新しく解明したもののほうが、「ひらがな」に近づいて来ているのを示唆しているようです(もっとも、法隆寺落書の現物を見ていないので、この比較が当を得ているかどうかは分かりません)。「爾」に対して「迩」(前者の、「しんにょう」が付いたものの略字、またそれより略された「尓」が使われていますし、もし読みが記事の通りで正しいのなら、tsuの読みに当たる字がすでに「川」から崩れた「ツ」になっているあたりも・・・パソコン上はこれはカタカナですが、おそらく実際の字はひらがなの「つ」に変形する途上の形状である筈です・・・「ひらがな」の醸成が万葉仮名の汎用化と並行して進んでいたことを示す例として、仮名の資料としてみただけでも大変に価値があるものと思います。

二首とも、古今和歌集仮名序には(割書きの部分を省きますが)このように引用されています。

難波津の歌は帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり。--(割書き略)--安積山の言葉は釆女のたはぶれよりよみて、--(割書き略)--この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける。(岩波文庫なら11頁)

古今集仮名序に並んで出てくる歌が表裏に書かれていた意味について、なお面白い考察が出てくることを期待したいと思います。

先ほどのWikipediaの記事によれば、「難波津の」は平安時代には「誰でも知っている歌」であることが常識だったそうで、毎日新聞2記事の最初の記事の方に「源氏物語にもとりいれられている」とあるのはちょっと大袈裟なのです。「源氏」に登場する「難波津」の歌は断片でして、「若紫」の巻で、光源氏がまだ幼い紫上に無茶ともいえる懸想する場面で、紫上の保護者である尼君が
「まだ難波津をだにはかばかしう続け侍らざらめければ」
と、(要するに、まだ読み書きもままならないのに無体なことを、という尼君の気持ちを込める比喩として)なんとか断ろうとする場面にちょこっと引かれているだけです。
むしろそのあとに、安積山の歌を本歌にして源氏と尼君がこんな歌のやり取りをしているのが、難波津の喩えとセットで出てくるところに、当時の常識を踏まえた面白さがあるのでしょう。(但し、安積山は浅香山にすり替わってしまっています。)

(源氏)浅香山あさくも人を思はぬになど山の井のかけはなるらむ
(尼君)汲みそめて悔しと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき

この部分、角川文庫でしたら第1巻の172頁にあります。このあと、源氏は継母である藤壷宮と密かな情事に走り・・・藤壷は大変な後悔をしながらも源氏の子を「桐壺帝」の子として生むことになり、「源氏物語」の暗い世界の面が大きく展開していく・・・のだそうですが、私は途中で投げ出して、そこまで読めておりません。つまり、あとはちっとも知りません。念のため。

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2007年8月17日 (金)

定家:後鳥羽との邂逅(1)

<定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:
藤原定家の作歌活動をたどってみようと思いつつ、なかなか先へ進みません。「千五百人歌合」で支えっぱなしです。しばらくご容赦下さい。
記事一覧はこちら



正治二年(1200)、突如「和歌」に目覚めたらしい後鳥羽上皇が、にわかに二十余名に対し百歌を詠ませ上呈させようと計画したことで、定家の心は大きく乱れました。
そのあたりの経緯は堀田善衞「明月記私抄」その他に詳しいですし、定家愛好者のよく知るところですから、省略させて頂きます。少しだけ客観的と思われる記述を目崎徳衞「史伝 後鳥羽院」から引用しますと、
「『初度百首の人選は、おそらく通親との緊密な協議によって進められた。二十三味の詠進者は(中略)ほとんど皆、院が生まれて間もない頃俊成が後白河院の勅命によって撰進した『千載集』に入集の輝かしいキャリアを持つ。いきおい年齢も比較的高い。その中には六条派(略)と、これに対立する立場の、御子左家(略)、および彼らの仕える権門(略)などがバランスよく入っていた。したがって・・・この人選がいかに妥当だったかを示している。」(57頁)
定家に軸を据えた堀田著書等は、この目崎氏の実地評価をよく踏まえた上で、なるべく客観的に読むよう心がけるべきでしょう。
で、このときの、いわゆる『正治二年後鳥羽院初度百首』ですが、他の作家は措いて、後鳥羽その人と定家についてのみ比較をしてみましょう。
この比較が、なぜ後鳥羽がこれを機に急に定家を高く評価するようになったかの鍵を、私たちに明示してくれると思うからです。

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定家:後鳥羽との邂逅(2)

まず、後鳥羽上皇の作歌から、印象的なものをいくつか拾ってみました。
本来ならば、これらと類似した主題を扱った他の人の歌を併記すると後鳥羽の個性がより明確になるかと思うのですが、私の狭い視野ではそれをやりきることが出来ません。
で、2つだけ、『六百番歌合』中にある同主題のものと併記してみます。「違い」に着目下さい。

後鳥羽:梅が枝はまだ春立たず雪の内に匂ひばかりは風に知られて(4)
六百番:(春上 十二番)
     左 勝  (九条良経)
     空はなほ霞みもやらず風冴えて雪気に曇る春の夜の月
     右    (寂蓮)
     梅が枝のにほひばかりやはるならんなほ雪深し窓の曙

後鳥羽:さらにまたうすき衣に月さえて冬をや恋ふる小野の炭焼(61)
六百番:(顕昭)
    残りゐて霜をいただく翁草冬の野守となりやしぬらん
    
・・・どうでしょうか?
六条・御子左・権門、どの代表的作者にくらべても、後鳥羽の歌には、より遠くにまで及んでいる「まなざし」を、私は感じるのですけれど。他の歌もあげてみましょう。

2. 春きてもなをおほ空は風さえてふる巣恋しき鶯の声
10. 花か雪かとへど白玉岩根ふみ夕ゐる雲に帰る山人
14. 春のあした花散る里を来てみれば風に波よる庭のあは雪
22. 来るかたへ春の帰らばこの此やあづまに花のさかりなるらん
30. 五月雨に伏見の里は水越えて軒に蛙の声聞こゆなり
32. むら雲はなをなるかみの声ながら夕日にまがふささがにの露
50. あけぐれの空もたどらぬ(=まよわずにいく)初雁は春の雲路や忘れざらなん
54. 佐保姫の染めしみどりやふかからん常磐の森は猶紅葉せで
73. 思ひわびねられぬ物をなにとまた松吹く風のおどろかすらん
77. 身をつめば厭ひし人ぞあはれなる生駒の山の雲を見るにも

77番に「伊勢物語」の影を感じたりはしませんか? その他も物語絵から切り出したような、余計な「含み」のない鮮やかさです。このあたりが、後鳥羽を定家に近づける要因になった気がします。

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定家:後鳥羽との邂逅(3)

さて、定家の方の百首ですが、中から3首ばかりはのちに「新古今」にとられることとなるものの、後鳥羽に比べると、やはり「臣下の詠」だな、と思わせられる、すなわち先に引いた寂蓮や顕昭に近い「狭さ」があるようです。
それでも後鳥羽を引き込んでしまったこの百首、いったいどんな点がそんなに上皇を引きつけてしまったのでしょう?

後の有名歌集には一首も引かれていない「秋二十首」の前半を、並べてみましょう。
一首一首は、たしかに、たいしたことは無いかも知れない。でも、九首をひとつながりのものとしてお読み下さい。そこに何があるか。

けふこそは秋ははつせの山おろしに 涼しくひびく鐘の音哉
白露に袖も草葉もしほれつつ 月影ならす秋はきにけり
秋といへば夕のけしきひきかへて 又弓はりの月ぞさびしき
いくかへりなれてもかなし荻原やすゑこす風の秋の夕ぐれ
物おもはばいかにせよとて秋のよに かかる風しも吹はじめけむ
唐ころもかりいほの床の露さむみ はぎの錦をかさねてぞきる
秋はぎの散ゆく小野のあさ露は こぼるる袖も色ぞうつろふ
秋ののに涙は見えぬ鹿のねは わくるをがやの露をからなん
おもふ人そなたの風にとはねども まづ袖ぬるる初雁のこゑ

「はぎの錦をかさねてぞきる」とか、「こぼるる袖も色ぞうつろふ」とか、凝ってみようとしてはいるものの、それが巧みかと言われれば巧みではない。それでも、少ない期日に慌てつつ、何とか一首一首にしがみつくように詠んだ定家の必死さは伝わってくるようです。
そんな、血相を変えながらの作歌であるにも関わらず、この九首を一連の詩として捉えた場合、そこに見事な「暮れ行く秋の切ない心情」が物語として展開されている。
これは、単に手腕とか慣れから来たものではない、やはり天分というものでしょう。

同時代の『源家長日記』によれば、後鳥羽が定家の百首の中でとりわけひかれたのは次の述懐の歌だ、ということになっています。

君がよにかすみを分しあしたづの さらにさはねにねをやなくべき

実はこの時の百首には「鳥の歌」や、自分の不遇を歌う(述懐)歌は詠むな、という禁令が伴っていたのを、上記の歌は俊成と定家が共謀してわざと作って百首に入れたのだ、という話が堀田『明月記私抄』にも登場します。
家長がことさらこうして記しているのを見ると、『明月記』そのものの記事なども参照してしまったあとでは、いかにも定家の言い分を哀れに思って、後鳥羽はこの百首を見るなり定家を引見した、というふうに文脈が読めてしまうのですが、家長という人が単に後鳥羽に従順で後鳥羽の言葉通りにしか物事を捉えられなかったのか、いや、賢いからあえて本当のところは伏せたのか・・・分かりませんけれど、後鳥羽は、こんなつまらない述懐の歌には定家を引見する都合のいいきっかけを見つけ出したにすぎず、むしろ、後鳥羽自身の心に展開していたはずの物語絵的な世界が、何の苦もなく『一連の詩」としてさらさらと書けてしまっている定家の「天分」に対し、強い興味を引かれたのではないかと思います。
八月、俄に内昇殿を赦された、そのときの定家のぬか喜びようは、『明月記』本文をひくまでもないと思います。そこにはまだ、この二人のうたびとが、それぞれの天分の相違点により大きくぶつかって行くことになる、初めての小競り合いすら、まだ展開されていない。定家はひたすら、あまりの感激に、後鳥羽の前にひれ伏しているにすぎません。・・・そういう意味では、「邂逅」という表現はまだ大げさに過ぎ、「初顔合わせ」とすべきだったかもしれません。

12・3

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2007年5月28日 (月)

定家:「邂逅」前夜(1)

<定家関係記事>
千載和歌集:123456789
後白河法皇:1234
松浦宮物語:1234
六百番歌合:123
仁和寺宮五十首:123
(空白期):123
正治二年後鳥羽院初度百首:123
千五百番歌合:
私たちの大切な友、Hさんの死を通じて考えたことは、こちらに綴りました。



昨年のHさんの名演を、こちらでお聴きになって頂ければ幸いです。

正治元年(1199)、三十八歳の定家は安芸権介に任ぜられます(堀田善衞「定家名月記私抄」年譜、村山修一「藤原定家」年譜)。このことと関係があるのか無いのか、正治元年と翌二年の「名月記」はにわかに記事が充実します。
朝廷の中央では、元年六月、九条良経が左大臣に、源通親が内大臣に、と、翌年の定家の歌作活動の鍵ともなるだろう重要な人事がありました。が、予知能力がある訳ではない定家は、このときはただ、主家の九条良経の立身に無邪気な喜びを見せるにとどまっています。
同年七月二十五日の日記には、九条家から三崎庄を賜った旨が記され、二十九日には早速現地に使者を送っていることが分かります。三崎庄は現在の千葉県銚子市辺りの広大な荘園です。荘園とは何ぞや、どう管理されたものなのか、は専門家にしか分からないのではないかと思われるくらい複雑です。で、素人が間違いを恐れずに概略を述べれば、荘園とは地主(鎌倉幕府成立後の呼び方では地頭)が京の有力貴族と納税契約を結んだ一定範囲の地域で、収税者は国家(そのままイコール朝廷、とならないところがまた面倒なのですけれど)ではなく、地頭と契約した貴族です。この収税者は「領家」と呼ばれます。
さて、定家は「三崎庄を賜った」のではありますが、土地を貰った訳ではありません。じゃあ、収税権を貰ったのか、というと、これも違うのです。「領家」は、あくまで九条家のままです。定家が賜ったのは、収税監督権とでもいうべき、ワンランク下の権益です。それでも大喜びしたのは、収税に成功すれば・・・これも素人の私には全く割合の見当がつきませんが・・・そのほとんどが自分の懐を潤すことになるから、だったはずです。
こんな慶事を予告するものだったのでしょうか、三崎庄を「賜る」十五日前に、定家は夢の中でこんな歌を詠んでいます。

  さかきはを吹秋風のゆふかけて神の心をなひけとそをもふ
  
(原文通りなので濁点を省いています・・・さかきは=榊葉、なひけ=なびけ」)

1・

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定家:「邂逅」前夜(2)

まあしかし、世間というものはそう順風満帆にはいかないのが常ですね。
翌八月には、自家が領家である越部庄(兵庫県。播磨国風土記にも既にその地名が出てくる由ですが、いま風土記を引っ張りだせませんので確認していません)が十九日の洪水で大被害を被り、十日後にそれを知った定家は日記に絶望的な言葉を書き連ねます。
荘園からの実入りは、こうした自然災害にも、また地頭や現地民と徴税請負人とのトラブルにも大きく影響されるものでした。総じて、貴族自身が国司となって任地に赴いていた数百年前に比べ、長い時間の間に、現地人との通信だけにおんぶして、国政を崩壊させた荘園という、ある意味「絵に描いた収入源」だけに経済基盤を求めるようになっていたことは、当初はそれでよかったにせよ、いずれは崩壊の危険にさらされるだろうことが目に見えていたはずです。見えるはずのものが見えない・・・これが、人間の性(さが)と言うものでしょう。定家の、越部庄洪水で受けた打撃は、そんな人間の愚かな営みがもたらした結果の、ほんの一例にすぎません。
自分の経済力をどう保つかは、八百年前の定家もいまの私たちも・・・手段の違いはあっても、日々難問である点では、本質的に変わりませんね。

・2・

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定家:「邂逅」前夜(3)

良経の左大臣就任で、それまで沈んでいた定家の歌作活動も再び活発化します・・・いや、これだけ活発になった定家を目にしたのは初めて、かな?
正治元年・二年の日記には歌作関連の記事が非常に目立ちます。が、今は不精をして、原文を引用せず、村山著「藤原定家」の年譜を引用してその様子を列挙することにします。

正治元年
12月2日:兼実の詩歌会出席、和歌題十を給う
12月7日:良経第文会出席
12月22日:良経第連歌に出席

正治二年
2月5日:守覚法親王歌合に六首入る
2月9日:良経第詩歌合出席
2月23日:十題和歌の料の歌詠進
2月25日:十題歌合右方の歌を選び御堂歌会参加
閏2月1日:良経第十題歌合出席
閏2月18日:良経第作文参加
閏2月21日:法性寺良経歌合参加
閏2月23日:藤原良輔に従い歓喜光院にて詠歌
閏2月28日:良経と大原来迎院に宿し、また歌序を書く
3月2・3日:自邸に人々を招き詩歌披講
7月18日頃:後鳥羽院百首作者のことでライヴァル六条家の季経と対立

4月から6月にかけて活動が一旦止まって見えるのは、4月に定家が良経に無礼をはたらいたらしく蘢居を命じられたからのようです。無礼の内容は分かりません。
その間に、定家が後鳥羽と出会いを遂げることになる、いわゆる「院初度百首和歌」の企画が進んでいたようで、上の年譜では7月に関連記事が初めて登場します。この件はまた豊富な話題、検討材料を提供してくれるはずですから、次回にまわしましょう。
(またまた綴るまでに間が大きく空くでしょうけれど。。。)

こうして年譜や名月記本文を眺めつつ、
「じゃあ、定家の本職は何だったんだろうか」
という疑問が、いつも頭をかすめます。
本来、定家は朝廷に属する役人です。ならば歌は余技だったのか、というと、違う。彼は父、俊成を継いだ「歌の家」の人物で、専門歌人として評価を受けている。このあたりに当時の貴族の生活手段と精神活動の二重化が見え隠れしています。そしてそれは、いまの私たちにも繋がる精神と生活の分離を示す兆候でもある気がしてなりません。
この年譜のように「歌」で多忙な時期、定家は兄と姉の死に遭い、父の重病と自らの咳病に悩み、甥が不倫事件で殺される事件なども起きたりし、純粋に歌のことばかりを追いかけられる環境では全くないのです。にもかかわらず、時間は定家の私事、心に関心を示すこと無く、淡々とすぎていく。
・・・私たちの日常と、何の異なるところも無いではありませんか。

次に定家をと入り上げられるときに、やっと、彼と後鳥羽との接触について触れ始められます。
・・・そのために買っておいた、一番参考になるはずの本が、まだ行方不明で、こまっちゃったなあ。高い本だし、古本屋にしかないし。

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2007年2月16日 (金)

おもふ思のおもがわりせで(1)

<定家関係記事> 千載和歌集:123456789 後白河法皇:1234 松浦宮物語:1234 六百番歌合:123 仁和寺宮五十首:123 (空白期):123 正治二年後鳥羽院初度百首:123 千五百番歌合:

「六百番歌合」について綴ってから、またもやだいぶ時間があいてしまいました。

定家は正治二年(1200)八月、後鳥羽院の「初度百首和歌」に詠進することによって大飛躍を遂げることとなるのですが、今見ていく建久年間の時点では、まだ数年先のことです。
人間は往々にして、記念碑的な業績でのみ自他を強く記憶します。けれども、そこに至る地味で長々しいだけの時間のほうが生きている意味に占める割合は高いのであって、それに比べれば、記念碑などというものは、所詮は生の営みの断片に過ぎません。

「六百番歌合」の歌を召される前、定家は母の死に遭遇しています。建久四年(1193)二月、定家三十二歳のおりのことで、この年の秋には父・俊成と、母の死をめぐって歌の贈答をしています。この贈答そのについては、様々な人がその心の深さを云々しているにもかかわらず、とりたててのものではないかと思います。むしろ、母の死を通じて、定家の想いがじわりじわりと切り刻まれ、ヒビだらけになる・・・そこへまた、天から慈雨が降り注ぎ、思いの裂け目に初めは淡く緑が芽吹き、徐々に濃さを増していく。こちらについてよく見ておいたほうがいいのではないか、とも考えます。

母の死そのものについても、その後の心の移り変わりについても、残っている限りの「明月記」中には何も語られていません。ですが、「六百番歌合」で既に芽吹いている彼独自の耽美的な詠歌法が、この時期から「新古今」時代に向けて着々と徹底されていくのを眺めるのは、思いのほか壮観でもあります。
定家の編纂した自作歌の集成「拾遺愚草」中に具体的に残っているのは「「建久七年九月十八日 内大臣家 他人不詠」の書き入れのある「百二十八首和歌」、二年後の夏の「仁和寺宮五十首」だけですし、堀田氏「定家明月記私抄」によっても他に数首あるだけらしく、堀田氏はこの時期の定家について
「とても本職の歌人とはいえない」
状況下に置かれていた、とみなしていらっしゃいますけれども、「百二十八首和歌」と「仁和寺宮五十首」の歌ぶりの違いを目の当たりにしますと、この時期あまり外的な歌作活動をしていないことが、定家にとってはむしろ幸いしたのではないか、と、感じられてなりません。

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おもふ思のおもがわりせで(2)

この時期の定家の作歌が少ないのには、政情と主家である九条家の動向との関係が反映しています。

建久年間から正治元年にかけては、源平合戦の終結・鎌倉幕府の成立(おそらく、こういう紋切り型の要約は当時の人々の時代感覚とは合致していないはずです)後の、新たな世情不安が、歴史の子宮の中でもぞもぞと動き出している期間です。この不安が、まさか承久の乱の年までという長きにわたって成長しつづけることになるとは、まだ誰も・・・乱の当事者となった後鳥羽上皇も北条義時も・・・想像だにしなかったでしょう。

関東側の視点で、「吾妻鏡」から、主だった事件で興味深いものだけを、ざっと拾ってみます。

・建久四年五月~頼朝の富士の牧狩のさなかに曽我の仇討が発生
・同年八月に頼朝の弟、範頼が、十二月にはやはり有力親族の安田義定が失脚
・正治元年、頼朝没(「吾妻鏡」記事欠落)
・同年十二月、頼朝の股肱の臣、梶原景時失脚。翌年正月、追跡され敗死

頼朝没の前後の事件は、クーデターの匂いを漂わせています。
曽我兄弟は仇である工藤祐経を討ってしまえばそれで用済みのはずなのに、さらに頼朝の幕営を襲撃しようとしています。
引き続いて起こった範頼の失脚の際には鎌倉の重鎮だった大庭景義や岡崎義実が出家したりしています。
梶原景時の失脚と敗死は頼朝の死から一年も経ていないときの事件です。

これらの出来事から伺われるように、関東側では、平家亡き後の新体制を求めて、顕在的にも潜在的にも、自分たちの立場固めへ向けての政変欲求が渦巻き始めていました。

そのあおり、と考えられるのが、京側では建久七年十一月に起こった定家のあるじ九条兼実の関白解任劇で、九条家は以後数年間、陥れられた谷から這い上がれないことになります。
当然のごとく、定家も公式の場で詠歌する機会をうしなうこととなったのでしょう。

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おもふ思のおもがわりせで(3)

「明月記」には、現代の目からは重大に見える主家の失脚事件に触れた記事が全く残されていません。
(ついでながら、関白を解任された兼実当人の日記である「玉葉」にも、残っていません。)
野次馬根性の人一倍強かった定家のことです、残っていない部分の記事が今後もし再発見されれば、そこには面白いことがかいてあるのかもしれません。ですが、私としては、
「主家の一大事を記事に留め、後人の目に触れさせることは甚だ不都合である」
定家がそのように判断していっさい記事を書かなかった、と信じたいなあと思っています。それくらいの優しさは、定家にはあったのではないか。。。
それというのも、自身が不遇であったはずのこの時期になお、定家は「明月記」の数箇所で、親しかった人や、友の兄の死を、心の底から悼んでいたりするからです。

さて、三ヵ月後の兼実失脚などまだ思いもよらない建久七年九月に定家が九条家(内大臣家~内大臣は兼実の息、良経)に詠進した百二十八首和歌は、
・春16首 ・夏12首 ・秋20首 ・冬16首 ・恋16首 ・述懐16首 ・山家16首 ・旅16首
という構成です。
それぞれの部が一連の詩として読みえるほどに見事なつながりを見せていますが、個々の歌となると、どちらかというとまだ父の俊成に近い、おとなしくて雅びたものにとどまっています。そのためでしょう、この百二十八首和歌から「新古今」に選び入れられた歌は、1首にとどまっています。

一方、沈潜の時期であったはずの二年後に詠まれた「仁和寺宮五十首」からは、「新古今」に6首の歌が採られることになります。しかも、それらは定家の代表歌といって差し支えないものばかりです。
「仁和寺宮五十首」の各歌相互の詩的連関については堀田氏が「定家明月記私抄」で素晴らしい例示をなさっていますから、そちらをご覧頂くとして、今回はこの五十首から採られた新古今の歌を見て頂くことで、いったん終えておこうと思います。

 おほ空は梅のにほひに霞つつ くもりもはてぬ春のよの月

 霜まよふ空にしほれし雁がねの かへるつばさに春雨ぞふる

 春の夜の夢のうき橋とだえして 峯にわかるる横雲の空

 夕ぐれはいづれの雲のなごりとて 花たちばなに風の吹らん

 わくらばにとはれし人もむかしにて それより庭の跡はたえにき

 こととへよ思おきつのはまちどり なくなくいでしあとの月影

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