2011年3月20日 (日)

アマチュア音楽家のお仲間へ

連日の地震で、ご心労のことと存じます。
アマチュア音楽家のみなさまがお元気でいて下さることを、心から祈っております。
どうぞ、ご無理のありませんように。

また、大きく被災した地域にご家族ご親族がいらっしゃる皆様に、併せてお見舞いを申し上げます。

地震につきましては、たとえば昨日宵の口の地震もあくまで余震でして、確実に規模は小さくなってきております。

大地震の後は1ヶ月前後余震が続きます。

東京隣接の県につきましては、昨日、小売店の物資状況を見て回ったところ、だいぶ落ち着きを取り戻しています。
ぜひ、安全第一にお過ごし下さいますように。

私自身が東北の生まれ育ちですので、地震発生後、ばかみたいに地震情報や関係リンクをブログに載せ続けました。
予想外に、たくさんのかたがご覧になったようでした。
ただ、役割を果たせたのかどうか、は、こころもとありません。
それも、もうすぐ終息だ、と、いま確信しております。

初期情報の役割はもう終わったと思っておりますが、その中に、皆様が生活情報を得る上で有益なリンクも張っております。なにかございましたら、下記リンクからお探しになって、お役立て頂けたらと存じます。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat22626942/index.html

皆様の元気なお顔を拝見出来る日を、とても楽しみにしております。

まずは、どうぞ、ご無事でお過ごし下さいますように。
ご自分が演奏するなんてことは、いっとき忘れて頂いても結構ですから。
そういうゆとりは、そんなにたたないうちに、またご自身のうちに戻ってきます。

くれぐれも、ご健康とご安心を大切になさって下さいね。

長々お邪魔致しました。

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2010年9月12日 (日)

プロとアマの差、は歴然と存在します。

ヨーロッパ在住の非常に優れた古楽奏者阿部千春さん(Vn.コンチェルト・ケルン等で活躍)による「バロックヴァイオリンコンサート」は10月8日(金)新高円寺のスタジオSKで。



日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)は、2010年9月23日(祝)、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。1回券はローチケ(ローソンチケット)で(入手法まとめました)・3回パスポート・5回パスポートはopus55にて入手出来ます。

上記の阿部千春さん・大井浩明さんによる「モーツァルト:作品2」、昨年大好評の作品1に続きより充実の響きです。10月13日。(リンクでは大井さんの師カニーノとアッカルドの演奏引用で曲のサワリをご承知頂けます。)

プロとアマの差、は歴然と存在します。アマは責任を取らずに済みますが、プロはそうはいきません。それを知らずにプロなさってる方は、どんなご職業だろうと、アマに転向なさったほうが宜しいです。

モラル的「責任」ならアマチュアでやっている事でもさんざんとらされて参りましたが、泣いてもそれで命に困ったことはないです。本気の<職>なら一つの「過ち」でも絶命です。故意に「過つ」覚悟がいる場面もあります。

エピソード3の1)ある出稼ぎ大工さん、歌が上手い。仲間曰く「こいつデビューしてレコード出したことあるんだ、千枚も売れんかったけどなぁ」本人「むふふ〜、本職やるにはいろいろ覚悟がいるけんのう、あはは〜」

エピソード3の2)あるアマチュアオケ、演奏旅行に行きましたとさ。明けてビックリ、メンバー50人に対してお客は5人。でも「大成功だったね〜」と打ち上げで主催者のお金でしこたま飲み食いして帰りましたとさ。

エピソード3の3)「黒字出したい」「あと何人入ったらええんですの?」 「○人」・・・演奏家さん、夜中の3時まで必死で宣伝メール。翌朝8時には出掛けて、特殊楽器なのでスタジオで夕方のステリハまで自己練習。この行動がなければ赤字だったかもしれなかたところ、が大入りかつ非常にウケた演奏会になりました。

こういう切迫感の違い、分かります?・・・世界が違っても、いっしょです。技術云々、ハート云々なんてぬるま湯ん中でプロさんが

「プロとアマの差?そんなもん無いんじゃない。出来る人はできるし、できない人は出来ないし。」

なんて安易な発言はするべきではない。アマにどんな責任を負わせるおつもりか?



野村誠さん・片岡祐介さん「音楽ってどうやるの」「即興演奏ってどうやるの」、もっと早く知っていたかった好著でした。ご一読を強くお勧め致します。

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2009年11月 2日 (月)

ヘーゲルの言葉から

ヘーゲルの「歴史哲学講義」は聴講者によるノートであり、ヘーゲル純正の著作ではありませんが、歴史を題材にしているという点で、ロマン派への転換期を迎えたドイツの、どちらかというと保守側の精神的状況を、彼のどんな主著よりも明らかにしており、後の世代にはなりますがヘーゲルとは対照を成すマルクス、ヘーゲルよりも内面的な指向の強いショーペンハウエルの、いずれも簡便な諸著作と併せて、比較的分かり易く貴重な文献です。

ヘーゲルやマルクス、ショーペンハウエル、あるいはバルザック、さらに先へ進むならばカフカやロマン・ロランの記述から読みとれる19世紀の感性とロマン派音楽との関係は、音楽史の話題で観察するとして・・・実質上ヘーゲルに始まる東洋への「偏見」には東洋人として寂しさも覚えるのですが、日本人の場合は明治以後はヘーゲルの歴史観にそのまま染まってこんにちに至っていますので、いまだに純粋に東洋人としてヘーゲルの歴史観に異を唱える感性は熟していないかと思われます、それでもなお・・・彼が古代ギリシャ精神を「解釈」した発言(実はそれを聴講した無名人の解釈なのかも知れません)には耳を傾けるべきものがありますので、音楽に直結させても良かろうと感じられるいくつかをご紹介を致します。テキストは岩波文庫(長谷川宏訳)の上下巻のうちの下巻によります。

「哲学はおどろきから出発する、といったのはアリストテレスですが、ギリシャの自然観もおどろきから出発します。・・・ギリシャ精神は、あたえられた自然をぼんやりとうけいれるのではなく、最初は違和感をいだきつつも、しかし信頼できるという予感のもとで、自分と親しく、自分が積極的にかかわることができるようなものとして自然に信頼をよせるのです。・・・自然物は、むきだしの自然物としてではなく、精神の息のかかったものとしてとらえられる。」(25-26頁)

「予感に満ちて耳かたむけ、内面の意味をさぐろうとする自然との関係をイメージ化したものが、牧神パーンの全体像です。・・・空おそろしさをよびさますパーンは、笛吹きとしてもあらわされる。・・・このイメージには、一方で、怪物の音楽が聞こえてくるという意味とともに、他方で、聞こえてくるのは聞き手自身の主観的な想像音だという意味がこめられています。」(26-27頁)

「解釈は詩ですが、自分勝手な空想ではなく、自然のなかに精神的なものを読みとる知性ゆたかな空想です。」(29頁)

「ギリシャ精神はいわば石を芸術作品につくりあげる造形芸術家です。・・・石は自然な石でありながら、精神を表現するものとなり、そのように加工されたのです。逆に、芸術家は石の精神的な可能性を理解するために、色その他の感覚的な表現形式を必要とする。そうした材料がなかったら、芸術家は自分の理念をみずから意識することもできないし、他人に対象としてしめすこともできません。芸術家の理念は思考の対象となることが出来ないものですから。」(32-33頁)

このところ綴った記事

・曲解音楽史61):近世日本2
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/61-4454.html

・「悲しい」と正直に言えば喜劇になる
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/15end-1107.html

・CD本、読みますか?
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/14-2852.html

・たとえば「モーツァルトを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/13-6e6d.html

・たとえば「ガーシュウィンを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/12-6254.html

・たとえば「グールドを聴く」
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-ac04.html

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2009年4月18日 (土)

花から若葉へ

遅い満開だなあ、と思っていた桜も、あっというまに、花から葉っぱに変わりました。
すると次は、ウチのあたりは花ミズキの番です。
ピンクの花をつけるもの、白い花をつけるもの、と、2色だけなのですが、これだけでも不思議なもので、道がはなやかに彩られるような錯覚をしてしまいます。この花は、東北では見かけず、私はずっと名前を知りませんでした。教えてくれたのは、新婚早々の頃の家内でした。

花は、いっときです。

この花ミズキが散ると、花をつけるのは、また別の種類の木です。

それでも、
「また来年も咲くから」
と、大好きな花が散ってしまうことを、不思議に明るい気持ちで諦める。
そんなことを毎年繰り返しているのですね。

来年咲く花は、今年咲いた花とは、ほんとうは同じではないのです。
ひとつの花のいのちは、散ったらおしまいです。

それでも、明るい気持ちでそれを受け入れることが出来るのは、いのちのおおもとである木が枯れないうちは新しいいのちが続くことを安心して信じられるからなのでしょうね。

それにまた、花は一瞬であっても、いのちは葉となって初々しい薄緑で生え始めます。
葉の方は、生えて来て当たり前、と思われてしまう損な立場にあるかもしれません。
しかも、生えてくるや、だんだんに埃で黒ずみ、肉も厚くなり、ふてぶてしい濃緑色に変じていきます。

そんな葉っぱたちも、秋になれば花にも劣らない鮮やかな赤や黄に身を染めて、自分たちのいのちの最後を飾ります。

それをみて、
「ああ、もみじも、また来年だな」
これまた、明るい気持ちで諦める。

木、という、おおもとのいのちがあればこそ、のことなのだなあ、と、しみじみ思いながら、私は、まだ産毛のような若葉の方をも、咲く花と同じように愛でてやりたい、と思っているところです。

今週綴った記事

・ハイドン伝(ガイリンガーによる):1(1732-1740)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/1732-1740-40ab.html

・騙されちゃいけません!・・・ある「美響」の求めかた
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-578a.html
 ※ ノリントンの映像に興奮して、浮かれたことを綴りました。
   その後続けて幾つか見て、感じ方が変わって来ていることも多くあります。
   彼の堅実な練習、楽員さんの明るい表情は、彼への先入観を払ってくれます。

・Schubert "The Great" の映像:第1楽章(YouTube)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/schubert-the-gr.html

・C.Brown "CLASSICAL & ROMANTIC PERFORMING PRACTICE 1750-1900" Intriduction
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/cbrown-classica.html
 ※ 読めてもいないのに、洋書のご紹介。継続していきます。

・モーツァルト:1779年作品概観
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/1779-90be.html

・LOVE LEGEND
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/love-legend.html
 ※ 妹に連れられて一家で見たミュージカル歌手のコンサート。
   ミュージカル界に疎いので、印象記としてはかえって純かも知れません。

・4月11日練習記録(TMF:弦分奏)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1056.html

この一週間もまた、どなたもお健やかに過ごされますよう。

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2008年6月18日 (水)

CDで臨む「クラシック音楽」

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。



最初に申し上げますと、この一文は、世の中の「CD推薦書」、あるいは「推薦CDを明記しない<名曲>紹介書」のいずれに対しても持っている私的な疑問から綴ろうと考えたものです。ですが、それらをまっすぐに批判していいのかどうかとなると、これはまた私だって日々ブログでいずれにも相当するようなことを綴りつづけているわけですから、そうはいきません。
ですので、「じゃあ、自分はどうなのか」を確認しておこう、というものだとご了解下さい。その分、話は極めて抽象的になります。
かつ、以下の制約を設けておきます。

演奏法については
・自分が永久に未熟であること
・尊敬する諸家の著作を真っ当に読めていないこと
から、このたびは、自らが演奏する場合、ということを含め、考えることを遠慮します。

音楽を聴く、ということはどういうことか、も、全般を考えると課題が多岐にわたるし、自分の聴いていない「ジャンル」も多々ありますので、こちらも焦点を絞らなければなりません。
そこで、
・クラシック音楽を「聴く」とはどういうことか、ということについてのみ、考える
ということにします。

また、聴く、ということには、聴く場所、音の媒体の問題が付きまといますので、
・ナマ演奏他については、今回は考えない。CDのみに絞る。
・どういう場所で聴くか、という問題は考慮しない。

こういう条件で、話を進めたいと思います。



極めて大まかに分けますと、いきあたりばったり、や、そのときの興趣で、ランダムに、という<気まぐれ>を排除すれば、クラシック音楽にCDで接する形態は4通りかと思います。

ひとつめは、個別の作品を特定の演奏で聴く。
ふたつめは、作曲家または演奏家個人(あるいは特定の団体)の作品を全集・選集で聴く。
みっつめは、同一の作品をさまざまな演奏で聴き比べてみる
よっつめは、メーカーが組んだ特集盤(単体または集合)で不特定多数の作品・演奏を聴く。

具体例を先にあげますと(私の例)、
ひとつめ=シューマンの「森の情景」をヴィルヘルム・ケンプのピアノでだけ聴く
ふたつめ=バッハのカンタータをリヒターの選集かアーノンクールらの全集で聴く
みっつめ=今は、特になし
よっつめ=ハルモニア・ムンディ社50周年記念セット50枚組を聴く

・・・まあ、いろいろ、ですが、これが最近の例です。サンプルだ、とだけ思っておいて下されば幸いです。



ふと振り返ってみて、それぞれ、聴くときの意味合いが違っているなあ、と感じ出しました。
それぞれに、それぞれの大切な出会いを求めて聴いている。ですが、求めている出会いの中身が、違うのですね。
一般論にまでできるかどうかは分かりません。ただ、少なくとも私個人の内部においての、「求める出会いの違い」に屁理屈を付けてみようか、という心算です。


「ひとつめ」、です。

初めて「クラシック音楽」に出会った瞬間・・・ここまでを含め、「出会う」という言葉には「心が動かされる」との意味をも付け加えています・・・というのは、キリスト教で言えばパウロ(サウロ)がキリストの声を電撃のように受けた瞬間と同じような、同様にはイスラム教で言えばマホメットが神の啓示をなかなか体で受け止めるのに苦しんだような、あるいは仏教で言えばガウタマ・シッダルタが修行から離れて差し出された牛乳を飲んだときの安堵のような、興奮とも苦痛とも静寂とも判別のし難い精神状態が、自分にもあったのだろうな、と、最近思い返しています。
ただし、宗教上の偉人達と凡愚の私の大きな違いは、それが純粋な感動として「持続」しないがために、CDという「モノ」への執着というかたちで「クラシック音楽」への依存心を生み出しているのかもしれません。

この、初めての瞬間、というのが、先にあげた4ケースで言うと「ひとつめ」に該当するのは明らかです。
初めてその曲を聴き、初めてその演奏に魅入られる。「ひと目惚れ」ならぬ「ひと聴き惚れ」といってしまったら、ちょっと<人聞きが悪い>けれど・・・あ、失礼しました。

瞬間の回顧の為に、私はその曲については、その演奏だけを、常に繰返し聴くことになる。
極端な場合は、同じ曲は他の演奏では絶対に聴けない。すなわち、その曲について、私は相対的な価値判断の手段を放棄してしまった、ということにもなります。
それが善か悪か、と自問しましょう(冒頭での制約に沿って、今は「自分が演奏する場合」にこのことが与える影響は考慮しないことにします)。
導かれるのは、禅問答みたいな答えしかなさそうです。

「善であり、悪である」

「絶対」と「相対」の違いと言うもの自体が、論理的に(数学的にも)明確に区分され得ないものである以上、相対的な価値判断の放棄、ということが「善」か「悪」か、という二者択一に繋がることはないでしょう。
問題は、「この曲を聴く」ときの私が、素直か捻れているか、という、多分に精神的なものなのでしょう。
CDという媒体を前にして、同じ演奏を常に「最高のものだ」と感じている点は変化しないにしても、それはその演奏を純粋に初めて聴いたときと同じ心情を再び私にもたらすことは、おそらくないでしょう。同じ曲の、同じ演奏で、同じ賞賛の思いで耳にしていながら、同じであるはずの私は、あるときは「爽やかな気分で」、あるときは「涙を催されるような感慨で」、また別の時には「救いを求めてすがるように」接する。繰返し聴くことのできる媒体が存在するからこそ生じる、わるく言えば、ご都合主義的な聴き方への<許し>が、ここには生まれる。<許し>は、この音楽を前にしての私の懺悔を必要としないだけでなく、傲慢をも受け入れる。
これは、無差別な<許し>である以上、私になんのモラルをも強要しないという意味で、「善でもあり、悪でもある」のです。禅問答的な、と言いましたけれど、実は禅語に、

「不思善不思悪」

というものがあります(出典は忘れました)。

いってみれば、CDの聴き方の「ひとつめ」の形態は、
「では、私は執着に留まるのか、パウロの改心やマホメットの開眼や釈迦の頓悟に近い道へと一歩を踏み出せるのか」
という問いかけを、暗黙のうちに私自身に投げかけているのだ、と考えるべきなのかも知れません。

すげー、大袈裟!



「ふたつめ」に行きましょう。

一人(ないし関連する数人)の作曲家の曲を、複数にわたり集中して聴く、あるいは作曲家を演奏家に置き換えても、とにかく特定の誰かの「音楽」を聴く、という行為には、「ひとつめ」とは違い、最初から限定された何らかの目的があることが前提となるでしょう。
では、どんな目的が想定しえるでしょうか?

・その作曲家の作風、その演奏家の流儀を熟知し、人間性や理想型に触れたい(負の評価も含む)
・嗜好上、その作曲家またはその演奏家以外の演奏では聴けないから、それだけを収集する

他にもありますか? では、すみませんが、私が思いつくのはこの二つだけです。この二つで考えてみることをお許し下さい。

後からあげた方の条件から見ていきましょう。
これは、「ひとつめ」の延長線上にある、と見なして、ほぼ支障がないと思っております。ただ、「ひとつめ」に比べると、聴く私の「執着心」が非常に強い、という特徴があり、したがって、相対的な価値判断の放棄の度合いも高まることとなります。・・・となると、これには病名をつけてもよさそうです。

「特定作曲家(演奏者)依存症」。中毒、ですね。
タバコやお酒への依存度が高まれば、不健康に繋がります。・・・音楽で特定のものに依存してしまい、それ無しには生きていけない、となった場合には、これは果たして幸福なのか不幸なのか?
「許容範囲が限定され、かつその範囲が大きな面積を占めると、価値観が歪曲される」
すなわち、価値判断を放棄したことが自らの心を閉じることや、範囲外のものを「押し付けられた(相手側にはその意図がないにしても、そう受け止めてしまう)」ことに繋がる以上、音楽が対象であっても、やはり「中毒症状」は不健康ではないか、と私は考えます。

では、前の方の「作風・流儀の熟知の為に」という聴きかたは、どうでしょう?
これは、案外、一筋縄では行かないのではないかと思われます。
作曲家にしたって演奏家にしたって、よっぽど特別な例外でなければ(録音は残っていませんが、パガニーニなんかはそういう例外だったのかなあ、と想像しています・・・余計な話でした)、実はその師匠・先輩やライヴァルから、正負に関わらず、多大な影響を受けているのが普通です。したがって、個人的には、私はそうした影響への考慮無しに特定の対象だけを追いかけても、面白くもなんともないだろう、と思っています。
ただ、一方で・・・これは意識的に行なう場合に大きな意味を持つのではないかと感じるのですが・・・ある人が、その人の内面で一生かけてやったことを知りたいと思えば、私もそれのために一生を費やさなければ、とても追いつけない、という面もあり、そこまで覚悟をするのでしたら、たとえ人様からは馬鹿者にしか見えなくても(まあ、もともと愚かであれば気にする必要は全くないですし)、「全集」と生涯を共にするのもいいかも知れない。いや、幸せに死を迎えるには、誰にも姿を見られず、ひっそりとひとりで「全集」の前にたたずんで時を過ごすのが、もしかしたら最良の生き方なのかもしれないなあ、とさえ思います。


「みっつめ」。

これは、大変に難しい聴き方ではないかなあ。。。
「自らの演奏」をも考慮する場合には理由付けが簡単なのですが、今回はそれを放棄していますから、純粋に
・「聴き比べ」なんかすることに、いかほどの意味があるか
を考えなければなりません。

無茶、だな。

言えるとすれば、理想の伴侶を見出せないために旅を続けるのと等しい聴き方です。
あるいは、「こっちもいいけれど、あっちも捨て難い」・・・浮気性な臭いのする聴き方です。

「聴く耳」を持つ人には、それなりのメリットはあるかも知れません。
それぞれの演奏がどのように違うか、の判別が出来るようになる。

でも、「聴く耳を持つ」とはどんなことを指すのか、は、必ずしも明らかではありません。
少なくとも、現代語訳された古典から「原文」が復元できるほどの能力を指すもの、と定義してしまったら、敷居は非常に高いと言えます。
古文献を扱う学者さんがよくやるような、
「この演奏Aには元のモデルとしてβがあり、そのβは原点に直結していたが断絶してしまった流儀αから引きうつされたものである」
・・・そんなふうにして「クラシック音楽を聴こう」などという殊勝な心がけは、通常、私はとてもとても、もてません。
ですから、私の場合は、自分、あるいは自分の仲間、所属する楽隊が次の演奏会でその曲をやる、とか言う場合に限って、この聴き方を採用するに留めています。

それ以上の意味は、あまり見出しにくい気がします。
演奏者が違うからって、同じ曲ばっかり聴くくらいだったら、その時間を別の曲の鑑賞に当てた方がいいなあ。

とはいえ、優れた例が世の中にはあるものでして、web上でも、ふるたこさんのように、ショスタコーヴィチの交響曲をいろんな演奏で追いかけつづけている・・・これは「ふたつめ」の聴きかたの前の方の例の範囲拡大型でして、ふるたこさんの「ショスタコーヴィチCD評価」記事は脱帽モノです。

いずれにせよ、自分の<ものさし>をしっかり持っていない以上、こういう聞き方によって形成される<ものさし>には、目盛の幅の狂いや<ものさし>自体の屈曲が生じてしまいそうに思います。


「よっつめ」に来てしまいました。

実は、私個人の「よっつめ」に上げた「ハルモニア・ムンディ」記念盤について、「がっかり」という言葉を用いて検索してこのブログの中の記事を検索なさったかたがいらしたようでした。
「え? なんで?」
と思ったのですが、理由を知る手立てはありません。
それに、とりたてて理由を問うつもりもありません。
この聴き方、すなわち「企画に乗っかって、そこにランダムに収録されたいろいろな演奏を楽しむ」ということ自体は、そういう選択をした時点で既に、「がっかり」すべき権利は私にはもうない、と思っているからです。

企画特集セットは、初めて「クラシック音楽」CDの選択をする場合にはお勧めしない旨は、前に綴ったことがあります。演奏の出来不出来が無造作に詰め込まれているケースも多いし、最初から粗悪なものしか含んでいない場合も、往々にしてあるからです。
ですが、そう言っている自分自身が、あえて意図して選択した以上は、人様に「おせっかい」をしたのとおなじことを通じて「がっかり」するなんてことは、あってはならないことだと考えます。
何故なら、私はそのセットの中に
「粗悪な演奏もあるかもしれない、でも、それが面白いかも知れない。ものすごい当たりが入っていることも十分考えられるしな」
などと、いろいろ覚悟の上で決断してセットを入手してしまっているのです。
宝くじを買うのと、何の違いもありません。

別な呼び名をつけるとすれば、「よっつめ」は「博打聴き」、という具合になるでしょうか?

これは、4つ上げたケースの中でいちばん不純かも知れませんが、それだけに、いちばん頭をカラッポにして(あるいは欲だけでいっぱいにして)無心夢中で楽しめる聴きかたなのかも知れません。



・・・はて。
・・・いったい、なにが言いたくって、こんなに長々綴っちゃったのかなあ。。。

要するに。
CDでクラシック音楽を聴く、ということには
・「惚れ聴き」
・「崇拝聴き」
・「希求聴き」
・「籤引聴き」
があるんだ、ってことかしら。

・・・なあんだ、たいしたことないことで、うだうだと。



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便利です。


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2008年4月29日 (火)

楽譜の読み方3(調・旋法・音階)

さて、
1回目では五線譜の主な記号の意味、それによって示される「音の高さ」を
2回目では音符に棒や点(ホクロ)が付くことで示される「音の長さ」を
すっごーくかいつまんで記してみました。

いわば公式集みたいなものですから、分かりにくいでしょうか?
でも、市販の「楽譜はこうしたら読める」という本に比べれば、面倒なことに立ち入っていない分、
「ドレミファソラシド」と唱ってみて頂けるだけで、感覚的には掴みやすいのではないか、と思っております。

・・・いや、ここまではしょると、かえって分からないかなあ・・・不安。

でも、とりあえず、「楽譜(正しくは<五線譜>が読める)」最小限については、綴り尽くしました。
あとは本当に理屈を突っ込みたくなったときに突っ込めばいい話ばかりだ、と、私は思いこんでおります。



「読み方」の話は、とりあえず今回で締めくくりますが、前の2回とは毛色が変わります。
最初から、ちょっと面倒なお話ですが、理解しておいて頂ければありがたく存じます。

前2回では、「長調=長旋法、短調=短旋法」という言い方をしましたが、どうしてそんな言い方をしたのかは、あえて突っ込みませんでした。

実は、(いろんな本でいろんな言い方をしていますが、それらの主旨にある通り)「調=旋法」ではありません。

これも歴史的な背景を述べると面倒ですが、
・「調」という場合には「絶対的な音の高さ」を基準としています。
・「旋法」という場合には、「唱われる音の相対的関係」を表しています。

音楽は本来「唱われる」ものですから、一般人には「旋法」のほうが大切です。
ところが、もともとは奏楽の専門家が学ぶべき音楽理論の用語である「調」の方が、いつの間にか、「旋法」よりも普通に使われるようになり、西欧音楽では「旋法」が17世紀後半あたりには「長旋法」と「短旋法」の2つきりに集約してしまったために、「調」と「旋法」が混同されてしまいました。

(ちょっと面倒な注釈:バッハの有名な「トッカータとフーガニ短調」は「ドリア調」というニックネームを持ちますが、実態はドリア「旋法」ではなく、短旋法が使われています。)

西欧に限らず、ヨーロッパに流布していた「唱い方」は、グレゴリオ聖歌の普及と共に神学者さんたちによって整理され、「教会旋法」と呼ばれる4種類の旋法にまとめられました。図示しませんでしたが、これはさらに「正格」と「変格」の二つに分けられましたので、実際には8つの「旋法」がまとめられました。それを音階として示したのが、下の図です。「変格旋法」については終止音のみを赤で描きましたが、たとえば「正格」のドリア旋法の<終止音>が「レ」、でしたら、「変格」は呼び名のアタマに「ヒポ」と付けて「ヒポドリア」と呼び、終止音を下から5つ目の音(=正格旋法の吟唱音・・・2回目の話の後半参照)に持ってきます。

(クリックすると拡大します。)

Gakuhusetsunei3


図の最下段に例として<グリースリーヴス>のメロディを書いてみました。
いま普及している読み方ですと、この楽譜は「イ短調」ということになりますが、唱い始めがレであり(これは教会音楽のルールだと「ド・レ」として始まるべきものなのですが、最初の「ド」が歌の性質上欠落したものと見なし得ます)、2番目の音は変格旋法の吟唱音である「ファ」で、かつバツ印を付けた音が半音下げになっていないことから、ヒポドリア(変格ドリア)旋法であることが確認出来ます。

(またもやちょっと面倒な注釈:始まりの音から想定されるのは「シ」の音が半音下げになること、かつニ短調になること、なのです。「イ短調」ならば「ミ」で始まるのが、短旋法としては正しい・・・これはしかし、この旋律では考えられないことです。最初の「レ」や、3小節目・・・あ、前に説明していませんでしたが、小節からはみ出た短い音からメロディが始まる場合、その短い音は「弱起」といって、小節としては数えません。ですから、3小節目は「ファーレレードレ」とある小節になります。・・・3小節目が前の小節から「ファ」の音へと引っ張って来られるのを見れば、吟唱音が「ファ」だという事実が歴然とするからです。すなわち、短旋法を前提として<グリースリーヴス>のメロディを読むと、ニ短調とイ短調が入り乱れていることになってしまい、複雑です。まさに、バツ印をつけなかった「シ」の音の存在が、『このメロディは短旋法ではない』ことを示しているのです。)

20世紀に入って「教会旋法」と称して用いられるようになったものには、ほかに3つ(イオニア、エオリア、ロクリア。ただし、イオニア旋法は長旋法と同じもの)あります。

ですが、起源の古いヨーロッパの歌は、中世の理論でまとめられた4旋法の正格・変格いずれかに当てはまってしまいます。(それが民謡収集のかたちで初めて明らかになったのは、なんと20世紀に入ってからでして、発見者はバルトークとコダーイなのです。発見した旋法を活かして書かれたバルトークの「ミクロコスモス」は、1〜4巻は初歩のピアニストのための教本の一種と見なされていますが、実はそれ以上に、17世紀以降に「宮廷化・ブルジョア化・市民化」されていった音楽の中で見失われてしまっていた、本当に古くからのヨーロッパ音楽の原点を一から学び直す意図を持って編まれており、まさに「音符だけで学ぶ音楽史」といった側面をも併せ持っているのです。)

ちなみに、アジアやアラブの音楽は「五音音階」だといわれますが、どの世界にも「音階」上の音しか使っていない音楽、というものはありません。日本も、まず理論的には(中国からの輸入ですが)7音音階を構成できるだけの音を「認識」しています。ただ、一般的に歌われる歌が、たとえばいわゆる「都節」だの「田舎節」だのと呼ばれるような音からのみで成り立っていることが圧倒的に多い、ということで、それを考慮すると、

・まず、「旋法」を「唱い方」と定義したとする
・すると、上図は「旋法」を「音階」に集約したものであって、「旋法」そのものではない
・「音階」とは、従って、「旋法=唱い方」を抽象化したものに過ぎない

ということがわかります。
かつ、実際の歌の中では、旋法を抽象化した「音階」には含まれない音も現れます。

上図では、参考までに、日本の「都節」がフリギア旋法であること、「田舎節」がミクソリディア旋法であることをも示しておきました。
日本の「都節」は、上向型と下向型で構成音が違う(上から2番目の音が、上向型ではレ、下向型ではド)とされていますが、上向だろうが下向きだろうがレである場合もあり、ドである場合もあり、旋法を「音階」に抽象化するときには、本当ならもっと気をつけるべきだ、ということは併せて申し上げておかなければならないでしょう。

小難しい屁理屈話になって済みませんでした。

ですが、これが、20世紀にとって「調」とは、「旋法」とは何だったかを考える上で、もっとも簡単な入り口のお話です。

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2008年4月28日 (月)

楽譜の読み方2(音の長さ)

<楽譜の読み方1>と称して、いま一般的に出回っている五線譜の読み方の、おおもとの決まりについて記しました。世間に出回っている本にくらべると、かなりかいつまんだ説明になっていますので、とっかかりにくいと思いますが、図にしたことを「暗記」して頂いてしまえば、後は面倒な説明を読む必要はないはずです。

でも、こんな会話が起こりそうですね。
「まだこんだけじゃあ、読めないよ」
「どうして」
「だってさあ、前の説明で音の高さは分かったとして、長さが分からない。結局、はじめて楽譜で見たメロディはどう言うものだか、わかんねーヨ」
・・・そう言われてみりゃ、そうですね。



ですので、音の長さを楽譜からどう読み取るか、の補足をしておきます。


ヘタクソで恐縮ですが、説明用に、図の楽譜のようなメロディを作りました。
(右クリックで別ウィンドウで聴けます。)
です。

で、説明図。(クリックすると拡大します)
Gakuhusetsunei2

いちばん上のA'としたのが、元々の楽譜です。
最初の4小節は、音がどのような目印で長さを示すのかを分かりやすくしてみました。
最初にある4/4は分数みたいですが、これは<拍子記号>といいます。ここでは
「白丸だけの音符ひとつを4つ分として、その4つ分で1小節(線で区切られた箱1つ)を書いてありますよ」
ということを示しています。算数で習う分数とは意味が似て非なるものです・・・が、完全に違うともいえません。このことについてあんまり喋ると泥沼にハマるので、これはこれくらいにしておきます。

で、楽譜の下の丸数字2に記しました通り、
・白丸音符に縦棒がつくと、もともと4つ分の長さだった白丸の長さが半分になります。
・縦棒のついた白丸の中身を黒く塗りつぶすと、さらに半分になります。
・縦棒に旗をつけると、またまたさらに半分になります。
・・・以下、旗の数が2つになればさらに半分、3つになればまたその半分、という具合になっていきます。

さらに、どの種類の音符でも、其の右隣に「ホクロ」がついていたら、長さが1.5倍になります。2つ以上ついたらどうなるか、・・・それこそ「泣きボクロ」が出来るくらい私は悩んでしまいますから、長さの説明はここまでにしておかせて下さい。

この楽譜、前回の図3・4と比べて頂くと、「ハ長調」もしくは「イ短調」であることが分かります。
ですが、先に音を聴いてお分かりになって頂けたかと思いますが、これは「ハ長調」です。
じゃあ、音が聴けないで楽譜だけ見た時には、
「ハ長調なのか、イ短調なのか、それが問題だ」
ということになります。
これは、丸数字の1に戻りますが、(少なくとも19世紀までの音楽では9割9分)「ハ長調」ならばおしまいの音が「音名(覚えて頂いていますか?)」で「C(は)」になっていて、かつメロディの最初のト音記号の隣には「#」とか「b」が一切ついていません。
したがって、今回のメロディはどうかを観察しますと、
・最初のト音記号の右隣には「#」も「b」もついてないな!
・お、メロディは「C(は)」で終わっているな!
ということで、「ハ長調」と判定できるわけです。

普通、「楽典」なる音楽の教科書には、この「音階の最初の音」の呼び名を<主音>としているので、この<主音>という呼び方も覚えておいても構わない・・・世渡りのためには覚えておいた方がいい・・・のですけれど、それは、調(旋法)が長調と短調に絞られてしまって後の呼び方で、ヨーロッパ音楽の長い歴史の中では、
「曲の終わりを示す音」
という意味で<終止音>と呼びます。



以下、おまけの面倒な話です。これもまた、前回同様読み飛ばして頂いて結構です。

中世ヨーロッパの聖歌理論では、<終止音(フィナリスあるいはフィナーリス)>の他に、唱い出しの音として<発唱部>というセクション(曲頭部)、あるいは歌の中で芯となる役割を果たす音としての<吟唱音>というものが、旋法によって決まっていました。決まっていた、というよりは、たくさんの歌が、そのような構造をもつものとして結晶化されたのですね。<吟唱音>はイタリア語でcorda di recitaと呼ばれましたが、同時にまた<ドミナント>dominante salmodicaとも呼ばれました。
和声の初歩をやると、
・トニカ=ドミソ
・ドミナント=ソシレ
・サブドミナント=ファラド
というのが出てくるのですが、この近代和声学でいうドミナントと、中世の理論上のドミナントとは意味が違ってきます。
楽譜の読み方を覚えたいとなると、どうしても「和音」のことまで欲張って知りたくなるのですが、これは16世紀から19世紀前半までと、過渡期である19世紀後半から20世紀初頭、また現在進行形である現代和声の、まだ決着を見ていない和声学の考え方それぞれで違いがあり、上記の初歩的な和声を覚えておくことは、逆に音楽を考えるアタマを「固く」してしまう恐れもあります。
「いまピアノが弾けないんだけど、手っ取り早く伴奏だけはしてやらなくちゃいけないんだ!」
という差し迫った事情がない限り、当面、和声のことについては触れないのが賢明でしょう。
・・・まあ、そんな事情で差し迫ることは、まずないかもしれませんが、幼稚園や小学校の先生では、全く考えられないことではありません。そうした場合には、

・中田喜直 著『新版 実用和声学』音楽之友社

をお勧め致します。

難しかったですか?
今回の話題までは、学校の勉強の暗記ものと同じです。

あ、譜例に『転調』を取り入れていたのですが、それについては長くなりすぎるといけないので、今回は説明を省きます。
図からある程度イメージできると思いますが・・・イメージ出来なくても、いまは構いません。

無責任だなあ・・・

実用和声学―旋律に美しい和音をつけるためにBook実用和声学―旋律に美しい和音をつけるために


著者:中田 喜直

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・つづきはこちら。(わけわかんなくなるかもしれません!)
・前回分はこちら

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2008年4月26日 (土)

楽譜の読み方1(五線譜の初歩)

「楽譜さんと話す」とか、歴史的経緯をたどっていると、かえって混乱してしまいますので、楽譜の中で、いま最も一般的な五線譜の読みかたについて、極めて手っ取り早く説明してしまうよう試みます。

(五線譜を読めるようにしておいて頂くと、これから実際必要になるかどうかまで見通してはいませんけれど、まずはバルトークがアタマに描いたことを読み取って頂くサンプルを、主観的な「音声」ではなく、楽譜から客観的につかんで頂けるかもしれませんので、念のため、でもあります。)

まずは、「ト音記号」と「ヘ音記号」がなぜあんなかたちをしているか、について。

図の1と2を見て下さい。

Gakuhusetsunei11

姿の変化が歴史的に正確かどうかは問わないで下さい。
ト音記号は、Gの字が修飾されたもの、ヘ音記号はFの字が修飾されたものです。
で、それぞれ、
・「G」の鍵になっているところ(曲線の底と曲がった直線)の間に書かれた音符が英語で「G」の名前をもつ音を示している・・・アルファベットの順番でGは7番目なので、日本語訳は「いろはにほへと」の「と」となる・・・ので、「G=と」の音を示すこの記号を「ト音記号」と呼ぶ。
・「F」の二つの横棒のあいだに書かれた音符が英語で「F(日本語訳では、イロハの6番目の<へ>)」を表すので「ヘ音記号」と呼ぶ。

で「G」は音名、その下に記した「ソ」は階名、最下段のひらがなは「日本音名(音名を日本語訳したもの)」です。(「階名」はグレゴリオ聖歌の「聖ヨハネ誕生の祝日の為の讃歌」に由来するもので、「音名」よりも後から出来上がったものですが、現在は、音の名前としては、これがいちばんなじまれています。)

それぞれの記号の名前の由来と、それが示す意味は以上の通りです。
ここでは、記号の意味の他に、
・西欧音楽では、日本では音に3つの名前、すなわち「音名」・「階名」・「日本語訳の音名」がある
ということを覚えて置いて下さい。



続いて、図の3と4を見て下さい。

Gakuhusetsunei12

ヘ音記号とト音記号を繋いで二行にした五線譜を「大譜表」と呼びますけれど、わざとそれで書いてみました。
ふつう、日本の高校までの、音楽を専門としない人が接する音楽には、2つの「調(旋法)」しかありません。
・長調(長旋法)
・短調(短旋法)
です。
(いま、わざと「調」という言葉と「旋法」という言葉を併記しましたが、とりあえずは気にしないで下さい。)
階名で読むと、
・長調=ドレミファソラシド
・短調=ラシドレミファソラ
です。
ト音記号やヘ音記号の右隣に何の記号(#やb)も付けられていない場合、それぞれ、
・長調は(調の)最初の音が「C(は)」になるので、「ハ長調」
・短調は(調の)最初の音が「A(い)」になるので、「イ短調」
と呼ばれることになります。

このとき、ド=Cなのが、感覚的には不自然なのですが、ラのほうがAとなっているのは古代ギリシア人が決めてしまったものであり、中世ヨーロッパの人たちは古代ギリシア人の音名をひきついだので、こういうことが起こったわけです。



今回の最後にいってみましょ!

図の5と6を見て下さい。

Gakuhusetsunei13

今度は、ト音記号の右脇に、なにやら記号がついています。
「#」がひとつついたものと「b」がひとつついたものの「長調(長旋法)」です。

これを、先ほどの、記号のない「階名」で読んで唱う方法を「固定ド」唱法と言いますが、これだと、同じ長調でも、記号がついていないときには「ドレミファソラシド」だったものが、

・#1個ついたら「ソラシドレミファソ」と読むことになり、かつ、「ファ」は記号のないときより音を高めて読まないと不自然、すなわち「長調」に聞こえなくなる。
・b1個ついたら「ファソラシドレミファ」と読むことになり、かつ、「シ」は記号のないときより音を低くして読まないと不自然、すなわち「長調」に聞こえなくなる。

ということが起こります。

で、記号がついたときの最初の音を長調では「ド」、短調では「ラ」という「階名」で読んで唱うようにする方法を「移動ド」唱法、と言います。
これだと、記号が幾つに増えても、調の始まりの音を長調なら「ド」、短調なら「ラ」で読めばいいので、「固定ド」唱法の階名唱より分かりやすくなります。
で、
・「#」が幾つついても、最後についた「#」の位置にある音が「シ」
・「b」が幾つついても、最後についた「b」の位置にある音が「ファ」
なのだと覚えてしまえば、読み替えが簡単です。
#、bのそれぞれが二つになったらどうなるかをいちばんしたに書いてみましたので、確かめて下さい!



以上を頭に叩き込んでしまえば、移動ドで唱うことはとても簡単になります。
ですから、ピアノなどの鍵盤楽器以外を演奏する場合には「移動ド」唱法の方が音楽のイメージを把握しやすく、便利です。(ピアノでも、曲の構造を理解してミスタッチを防ぐには、移動ドを頭の中で併用できるようにしておいた方がラクになります・・・って、ほとんど弾けない私が言うのも変な話ですが・・・)
とはいえ、「移動ド」唱法は曲の途中で調が変わった時に、少し入り組んだ曲ではよくあることですが、
・よっぽど慣れていないと絶対的な音の高さを見失う
・あるいは、調の最初の音が途中で変わったことに気づかないと、「固定ド」と同じ結果しかもたらさない
という側面もあります。また、<無調音楽>の楽譜を読む場合には階名唱法を採用できません。
ですので、五線譜の読み方を覚えたてのうちに訓練しないと、移動ド読みにはなかなかなじめないことになります。
覚えてしまい、<無調音楽>では使わない、ということさえルール化してしまえば、歴史的にも「移動ド」唱法の方が自然ですし、まちがいなく便利です。


以下は、少しだけ面倒な話なので、読み飛ばして頂いても結構です。

現在の日本では専門家も、専門家の卵を指導するにあたってさえも「固定ド」唱法を使用していますが、じつは、「旋法」という用語を併記したのには以下のような意味があります。

・「固定ド」唱法では「調の途中での変化」を気にしなくて済む

というメリットはあるものの、それが欠点にもなって、

・曲の途中で、たとえばト長調からニ長調に変わる箇所がどこか、を把握できない音楽家を育ててしまいもする

というデメリットも抱えています。

普通に「ハ長調」とか「ト長調」と呼ばれている「長調」は、本来は「長旋法」とでも呼ばれるべきもので、「長旋法」は「ドレミファソラシド」に決まっています。
実際、「長調(=長旋法)」の前に音名を付す習慣は、だいたい16世紀後半以降に合奏が発達すると共に始まったもので、これは楽器の種類が違う時に、それぞれの楽器を「絶対的な音」で揃えて演奏する必要に迫られた為に起こったことです。
それまでは、中世に楽譜が発明された当初は、集まった人がいちばん揃えやすい高さを、任意に自由に「最初の音」にすれば良かったので、絶対的な音の高さとしての「ABC・・・」だなんてことを気にせずに済みましたので、「C major(ハ長調)」だの「F major(ヘ長調)」だのと、絶対的な音高を指定する必要がありませんでした。
ただ、まだ「階名=ドレミファソラシド」は定着していた訳ではありませんでしたから、
・長調(長旋法)はCDEFGABC
(実際には中世には長調、短調ではなくて、ドリア調とかフリギア調とか、別の「調(旋法)」概念があったのですけれど)
を決めごとにしていましたので、その「相対的な」音の位置を「階名」ではなく「音名」で捉えていましたから、歌を揃える必要上、Cの位置、Fの位置を明示しておくことで、唱う人が楽譜を見た時に「旋法」を理解する助けとしたのが、今回触れなかったハ音記号とヘ音記号の起源となったのです。

こうした入り組んだ事情が、合奏で絶対的な音高がどうしても必要となってしまった際に、「固定ド」と「移動ド」というふた通りの読みの可能性、悪く言えば混乱のもと、を生み出す結果を(他の国ではどうなのか知りませんが)、五線譜が近代日本に輸入された際、同時にもたらしてしまったわけです。(これにはヨーロッパ人の旋法・調意識と日本の旋法・調意識の差異も影響していて、日本の場合は基本的に雅楽が音楽理論の原型をかたち作ったのですが、これが最初から純器楽合奏をふくむ音楽であったために、絶対音高を基本としていたのです。もしかしたら、「固定ド」だの「移動ド」だのということが問題になるのは日本固有のことなのではないかしら? そうなのかそうでないのか、ご存知のかたがいらしたら、どうぞ、教えて下さいね!)

ハ音記号、ト音記号、ヘ音記号が元来は絶対的な音高を示すためのものではなかった、という点は、理解をしておいて頂けましたら幸いです。

・・・つづきは、こちら

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2008年4月22日 (火)

「ありのまま」と「美化」

「ありのまま」をそのままに、というものには、なかなかに巡り会えないものです。
子供たちを家内任せに出来なくなって、いっそう、それを感じるようになりました。

子供たちのほうには、そんな頓着は、ありません。
日々、自分の感情のままに生活している。自分の周りにあるもの、自分に接してくるもの、それらすべての相手は、相手の「ありのまま」で自分のほうを向いているんだ、と信じて疑わないようです。

昨日の、晩飯をめぐってのやり取り。
娘は夕方からレッスンなので、帰りが遅い。で、前の晩から弟に指示を出していました。
「おつゆを作っておいたから、それにうどんを入れて煮て、食べとくんだよ!」
「うん、分かった」
ノンキな弟君のほうは、でも、姉貴のこの指示をすっかり忘れていました。
夕方早目に帰宅した私が、台所の鍋を見て、留守番していた息子に訊きました。
「この汁でうどん煮るんだったよな」
「うーん、どうだったっけな」
「覚えてないの?」
「どうだろうな」
で、娘の方のケータイにメールを入れました。
「鍋の汁でうどん煮ればよかったんだっけ」
「昨日言ったじゃない!」
「お父さんは脳ミソすりへってるし、弟君は人の話聞いてないのが常識だからさ」
「家族のために一生懸命作ったのに!!」
・・・怒りの返信。
「まあ、分かったから、気をつけて帰ってきな、大事な娘!」
おべんちゃらの返信でお茶を濁す悪い大人。
でも、素直な感情をぶつけてもらえるのは、本人には大迷惑だったでしょうが、私には幸せなものでした。

息子君は、あさってまでに中学校でどんな部活動に入らなければならないかを決めなければなりません。
「吹奏楽部がいいかな?」
「あ、あれは、やめときな、ひどいから。顧問好みの演歌しかやらないし!」
とは、自分が部長だったくせに威張って阻止しようとする姉の言い草。
(実際には、演歌はやってません。)
「それなら、卓球部かな?」
「あ、暗いから、だめ」
「じゃあ、美術部だ」
「あんた、絵のセンスあるの? まあ、描くのは好きだからいいけどね」
姉弟の会話ですヨ。で、弟君は姉の言葉になんの「企み」も感じていない。いわれたそのままが、部活動の「ありのまま」らしい、と思い込んでいる様子。
さほど悩んでいるわけではないけれど、私に
「せっかく続けてた柔道があるじゃないか!」
と駄目押しされて、頭の中は混乱。
「まあ、でも、3年間頑張って続けられるものを自分の意思で決めるなら、任せる」
そこまででいったん、話はおしまい。
息子君のケースの方には、姉の価値観による部活動の反「美化」があります。
そうなると、たぶん、弟としては、自分の中でどれかひとつを「美化」しなければ、選択の決断が出来ない。卓球部だって「あの早い動きがしてみたいんだ」とか、吹奏楽部だって「僕なりに満足できるように吹ければいいんだ」とか、美術部なら「自分らしい絵が描ければ、人がなんと言おうと充分じゃないか」とか・・・思いに「割り切り」という結晶を作らなければ、という重圧がかかる。
(「柔道」になんとなく拒否的になったのは、小学校最後の頃に、通っていた道場に、あまりにも勧誘熱心なおかあちゃんがいたので、なんとなく分かる気がするんです。)
・・・これはちょっと、姉の「うどんのつゆ」とはまた別の形で失礼しちゃったのかな、と、反省しています。

今朝、
「あんたの中にいるおかあさんと、よく話し合ってきてごらん」
そういって送り出したのが、せめてもの償いでした。

素直な気持ちで、余計な思いをもたないで、「これがいい」と選ぶのが、息子にとってはいちばんいいのかも知れない。
どうせなら上手くなる、とか、キレイに出来る、とか、余計なことを考え始めると、むしろ心が害されていくのかも知れない。

話のついでですから、

・上手く
・キレイに

という意図が、果たしてプラスに働いているかどうかを、音楽の例で、判定してみて頂きましょうか。
(右クリックで、別ウィンドウで聴けます。)

まずは、ブルガリアン・ポリフォニー。

 「西アジア・東欧の旅」JVC VICG-60576
 「ブルガリアの音楽」KING KICW1096

前者は、実は20世紀になって舞台芸術化されて以降に構築されるようになった響きです。

続いて、ルーマニアの音楽。

 "ROUMANIA:WILD SOUNDS FROM TRANSYLVANIA" WDR BEST.-NR.:28.300
 "Bartok Orchestral Works" BRILLIANT 6488

バルトークがコダーイと共に、トランシルバニア地方の民謡を収集したことは、つとに知られています。
上でお聴きいただいた作品も、伝統的なものに比べ、旋律にはよく原型を保持していることが窺われます。
それでも、これは「美化」された響きです。

バルトークは、なにを目指して、こうした「美化」を行なったのでしょうね?
突き止めるためには、彼の記した「音楽論」を参照しなければなりませんが、今回はそれはあえてせずにおきます。

「素朴」と「美化」のあいだに、どんな相違があるか、それぞれ「素朴であること」、「美化されること」にはどんな意味や精神がこめられているか、は、簡単に結論付けられる話でもありません。
私も、まずはゼロから考えてみようかと思っております。
一緒にお考えいただけるようでしたら、このうえない幸いです。

世界音楽紀行 西アジア・東欧の旅Music世界音楽紀行 西アジア・東欧の旅


アーティスト:民族音楽,ファーティマ・バエージー・パリーサー,メスティアの男声合唱団,ツィナンダリ男声合唱団,ユスフ・ゲブゼリ,フィリップ・クーテフ・ブルガリア国立合唱団,ナダカ・カラジョバ,ギリシャ正教会

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ブルガリアの音楽 バルカン・大地の歌Musicブルガリアの音楽 バルカン・大地の歌


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追伸:杉山欣也著「『三島由紀夫』の誕生」、引き続き宜しくお願いします! 名著です!

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2008年4月14日 (月)

吉川吹奏楽団定期演奏会(4月20日)のお知らせ

昨年家族でお邪魔した吉川吹奏楽団の定期演奏会ですが、今年の開催について本日お知らせを頂きましたので、PRさせていただきます。


吉川吹奏楽団第18回定期演奏会

日時:2008(平成20)年4月20日(日)14時から、でよろしいですか?
場所:吉川中央公民館(埼玉県吉川市、電話048-981-1231)
入場:無料(違ったらゴメンナサイ。コメント頂ければ修正します)
曲目:団員さんのお知らせが無いので詳細は分かりませんが・・・別ルートからの情報です。
    ・ワシントングレイズ
    ・オリエンタルワルツ
     他

アクセス:JR武蔵野線「吉川駅」から歩10分かかりません!
     吉川駅北口の道を、右手に「ライフ」(四葉のクローバーの看板の大きなお店」)を
     右手に見ながら直進、斜め右前方に栃木銀行のある交差点を右に曲がって
     まっすぐ行きます。
     JAが見えますが、そのまま通り過ぎてなおまっすぐ行って下さい。
     「マツモトキヨシ」まで行っちゃったら、行き過ぎです!
     そんなに分かりにくくはないと思います。

昨年、本ブログで吉川吹奏楽団さんの演奏をご紹介した記事は、こちら


<リンク> ・吉川吹奏楽団の公式ページ

お近くの方はもちろん、「誰でも楽しめる音楽」のかたちを、文字通り楽しく追い求めていらっしゃる方達の素敵な笑顔に巡り会いたい方は、是非、お出掛けになってみて下さい。

本日は宣伝まで。

    



なお、先日ご紹介した杉山欣也さん「『三島由紀夫』の誕生」は、本日20:50現在、Amazonの<三島由紀夫>の本で売り上げの12位にランクされています。まだのかた、是非!
(4月15日現在で2位に躍り出ました! 専門書としては快挙ではないでしょうか。)

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