2008年8月22日 (金)

アーノンクール・チェリビダッケまとめ

本日(2008.08.22)より3日間、所用で、新規記事を綴りません。

自分の見直し、ということもありますので、従来の「音楽史」とモーツァルトの路線をちょっとだけ外して(もちろんまた継続しますが)、このところは、チェリビダッケのベルリン時代の録音について(および当時のベルリンの事情についての若干)、アーノンクール『古楽とは何か』第1章購読と関連しての他者との演奏比較を重点的に綴りましたので、便宜のため、それらの記事についてのリンクのみ、ここへまとめておきます。

※チェリビダッケとベルリン関連
  (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)『第三帝国のオーケストラ』

※アーノンクール購読
 ・『古楽とは何か』第1章
  (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)
 ・関連する演奏比較
  (1)(2)(3)

このあと、従来追いかけてきたことのほか、トピックとしては「音楽家と<雇用あるいは労働>」、「気軽な<音楽本>の功と罪」のようなことも見つめたいと思っており、極めて「手抜き」でお恥ずかしいのですが、準備をしております。

ああ・・・ますますマニアック!

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2008年8月17日 (日)

手軽に読めるクラシック新書【音楽家が著者のもの】(+α)

活躍中のクラシック音楽家が著した新書を3点、ご紹介します。

選んだ基準は、
・とにかくプロとして活動している人が単独あるいは共著者になっていること
・その音楽家について、私自身が「未知」であるか、「主観的に嫌っていた」こと
・新書であること(したがって、文庫は含まない)

2番目が、妙ですかね。結果的に、「嫌い」と言い切れる人の書いた本には出会いませんでしたが。



まずは、オーボエ吹きとしては惜しまれつつ引退してしまったものの、人気が高くて、あちこちから「指揮してくれ」と声がかかっている、この人。宮本文昭さん。
疾風怒濤のクラシック案内 (アスキー新書 041) (アスキー新書 41)Book疾風怒濤のクラシック案内 (アスキー新書 041) (アスキー新書 41)


著者:宮本 文昭

販売元:アスキー
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・・・娘の笑里ちゃんのうりこまれかたには好感を持っていなかったので、その面では「嫌い」だったのです(記事2回綴りました。あら探しして下さっても結構です)。それで、上の基準から第1に選んでみました。
読んでみると、「オーケストラにどっぷり浸かった人でないと実感し得ない思い」が、本当は結構強烈なはずなのに、かなりさらりと綴られていて、あんっけらかんとしたお人柄を彷彿とさせる好著でした。紹介されている曲について、仮にこちらが何も知らずとも、理屈抜きに楽しめます。


つづいて、共著者の方が私は個人的には「嫌い」な、だからこそ選んだもの。
音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)Book音楽を「考える」 (ちくまプリマー新書 58)


著者:茂木 健一郎,江村 哲二

販売元:筑摩書房
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・・・江村さんは作曲家(2007年6月ご逝去)。実はまだ本格的には読んでいません。ただ、江村さんの「プロ」としての発言が本書の命。共著者の学者さんとは仲良しさんのようですが、その学者さんのほうが感情的な発言が目だつのに対し、それに「冷静に」応じて、話を深めているところが好ましく思われます。


最後に、私はお名前しか存じ上げなかったピアニスト、青柳いずみこさんのもの。
ボクたちクラシックつながり―ピアニストが読む音楽マンガ (文春新書 622)Bookボクたちクラシックつながり―ピアニストが読む音楽マンガ (文春新書 622)


著者:青柳 いづみこ

販売元:文藝春秋
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今回ご紹介する3冊の中では、いちばんしっかりした構成観のある本で、「クラシックのプロ」という仕事の実態について、人気漫画「のだめ」・「ピアノの森」と、話題映画「神童」からの例を引きながら、本質に迫る話を、これもさらりとやってのけて下さっていて・・・「青柳さんてどんなかた?」って、ちょっと惚れ込んでしまいました。

ここの本についての「へりくつ」は、新たに開設した方のブログに、随時綴っていきます。
綴り次第リンクを貼りますので、その際は併せて「へりくつ」野郎にお付き合い頂ければ幸いです。



なお、新規に開設したほうのブログでは、いま、アーノンクールの下記著書の第1章を、少し突っ込んで読む試みをしております。
古楽とは何か―言語としての音楽Book古楽とは何か―言語としての音楽


著者:ニコラウス アーノンクール

販売元:音楽之友社
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最初の節へのリンクを貼っておきます。それでご興味を持って頂けたら、順次続きへのリンクを這ってあります(11節までですが、現時点で9節目まで掲載したところです。)
気軽に、というわけにはいきませんが、こちらもおついでの時にお目通し頂き、おけなし下さい。



(付記)
本ブログが障害で一時閉鎖となったことをきっかけに、ブログは新設した方に新たな記事を書き足しておりますが、そのあいだの気分の変化のせいもあるのでしょう、「マニアック」な傾向がいっそう強まってしまっています。・・・で、そちらは、その路線で行こうと思いますが、気軽なものはこちらへ載せていこうと思います。

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2008年7月 2日 (水)

目次紹介「バッハ 演奏法と解釈」

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村治奏一リサイタル at つくばノバホール 是非足をお運び下さい! 7月6日(日)午後3時から。
昨日おすすめした パウル・バドゥーラ=スコダ「バッハ 演奏法と解釈」 は、税抜7,500円という高価なものですので,図書館でお読みになれるのでしたら図書館の利用もご検討なさったらよろしいかと思います。 ただ、本文部分だけで622頁、楽譜及び作品、文献の参考リストに前書き・あとがき等を加えると686頁の大著でもあり,そうした資料部分やちょっとした文章にも無駄なところがありません。本当に読み込むためには、あげられた譜例も逐一「観察」すべきです。 言えるのは、確かにこの本は副題に「ピアニストのためのバッハ」とある通り、鍵盤奏者を念頭に置いて書かれた本ではありますが,鍵盤楽器が弾けない人、あるいは楽器は全く演奏出来ない人、さらに楽譜が読めない人でも、バッハ作品を通じて「音楽の本質とは何か」を考える上で非常に有益な情報を得ることが出来、考える材料を豊かに提供してくれる、ということです。

そこで、以下に目次だけでもご紹介し、必要に応じ、たとえば「楽譜が読めない人も大丈夫です」・「これは演奏者なら熟読すべきです」等の簡単なコメントを添えて置きたいと思います。



日本語版によせて

はじめに

第1部 演奏に関する諸問題

第1章 18世紀の演奏を伝承するC.F.コルトの手回しオルガン
この本が実は「ミステリー」に匹敵するスリルがあることを、最初のこの章がよく知らせてくれます。ですから、内容はヒミツです。楽譜が読める読めないに関わらず、この本を手にしたら必読です。

第2章 リズムの研究
「リズム」とは「ブレス」ありき、であるというところから念頭に置いて読むべきです。楽譜が読めない方は譜例は「絵」として眺める程度で参考にすることは必要でしょうが、それで理解が大変になるようでしたら、まずは楽譜は見ないで、本文の趣旨をお掴み下さい。その際、むずかしい用語については、「だいたいこういう意味かなあ」と推測するだけでも結構です。

第3章 バッハの正しいテンポを求めて
<はじめに>以外は楽譜の知識がないと読むのが大変かもしれません。その場合、<はじめに>だけは是非お目通し下さい。

第4章 バッハのアーティキュレーション
この章と次章は譜例が豊富なので、楽譜の知識がないかたには理解するのが大変かもしれませんが、逆に楽譜が読めても著者の言わんとするところが汲み取れなければ、そこに秘められた非常に重要な<意味>は分からずじまいに終わります。些細な譜例(では決してないのですが、敢てそう言っておきます)に囚われず、じっくり本文をお読み下さい。

第5章 強弱法
第4章と同じことがいえます。

第6章 響きの問題
本章と次章は譜例が少なく、楽譜の知識がなくてもほぼ大丈夫です。が、バッハがこんにちの「ピアノ」の前身を弾いていたかも知れず、「音楽の捧げもの」はその楽器を念頭に書かれたかも知れない、など、歴史的に貴重な、面白い読み物でもあります。ただ、そうした記述の表面に囚われず、標題にあるとおりの「響きの問題」を・・・これはちょっとした著者の意地悪だと思えてしまうのですが・・・本文を通じて、自分なりに問題設定し直し、考察し直さなければなりません。

第7章 チェンバロとピアノのテクニックおよび表情豊かな演奏について
第6章に準じます。

第8章 原典版楽譜の諸問題
*鍵盤作品の楽譜にご興味のある方だけしか、実用上は用がないでしょう。・・・ただし、版の考え方・選び方についてどう考えるべきかの重要な議論がなされていますので、演奏をなさる方は目を通しておくことをお勧めします。楽譜に縁のないかたでも、もし文献などの比較検討、注釈の是非に関してご興味がおありでしたら、本文を追いかけてみるだけで、「ほう、音楽の世界ではこう考えるのか!」ということが、視界を広げてくれるでしょう。

第9章 作品の構造と演奏のまとめかた
短い章ですが、この本における、一つの頂点です。必読、とだけ申し上げておきます。

第10章 平均率クラヴィーア曲集第1巻の<プレリュードとフーガ第8番>
・・・楽譜を読めない方は、いちおう、お読みにならないほうがいいかもしれません・・・というのは、この章はCD等の録音を聴きながら読むべき章ではないからです。この点は、楽譜をお読みになれるかたもご留意下さい。この章は、楽譜の「読み方」についてのレクチャーです。


第2部 装飾音の研究
※この「第2部」については基本的に章の名称を記すに留めますが、大切なことは、第2部から受けとめるべきことは「装飾音の種類別の演奏法」ではなくて、「装飾音」というもの(とくに記譜と各種文献や習慣との異同比較を再読三読して概観的に掴めるようにしたうえで)、その現象を通じて、第1部第7章及び第9章にまとめられた「豊かな音楽表現は如何にあるべきか」を考察するディテイルが、ここにリスト化されているのだ、という本質です。ですから、演奏にあたる人は、自分が理解出来るかぎりの範囲で(私などは力量不足で理解しきれなかったのですが)、この第2部をいつでも大切な「手引き」として参照出来るよう読み込むべきであると考えます。

第11章 はじめに
第12章 17〜18世紀における装飾法の発展
 *トリルは上から始めるべきか下から始めるべきか・・・それが問題だ!
  答えは、この章をまず読んでみて下さい。楽譜が読めなければ本文だけ読んでも興味深いです

第13章 J.S.バッハの装飾
第14章 プラルトリラー(第2部の中で最も長大で重要な章です)
第15章 アポッジャトゥーラ
第16章 長いトリル
第17章 モルデント
第18章 アルペッジョ(17、18章は、読む方によっては「目から鱗」になります!)
第19章 記譜されていない装飾音の適用
第20章 バッハの鍵盤作品における自由な装飾


エピローグ

付録1 鍵盤作品の主要楽譜
付録2 <半音階的幻想曲とフーガ>におけるテキストおよび演奏に関する諸問題

編集後記

参考文献一覧
楽曲索引(バロック時代の作曲家はともかく、古典派から20世紀音楽まで幅広く引用されていることが分かり、驚嘆なさると思います。引用例にはマーラー「大地の歌」やベルクの「叙情組曲」他などまであるのです!)



図書館で、充分に時間を割いてお読みになれる場合、1〜4章、6〜7章、9章は是非、楽譜が読める読めないに関わらず、お目通しをお勧めします。ただし、図書館で読む場合には、楽譜に拘泥しないで、文意を「大きく」捉えられるよう、ある程度「跳ばし読み」することも辞さない読み方をなさったほうがよろしいでしょう。

ピアノで演奏なさるかたにとっては、目の前に特定の作品しかなく、発表会も迫っている、という時には、ちょっとタイミング的に役に立たないかもしれません。表層的に「課題曲」の部分だけを読んでも、そのかたのためになるような記述は全くされていないからです。
演奏者にとっては、どこにどの譜例があるかまで読み込んで「事典代わり」になるのが理想なのでしょう。・・・私にはちょっと無理そうでしたが、本来はそこまで読み込めなければいけないのだ、と痛感しております。

・・・それでも、自分が「フレーズ」を考えるためには、たいへん参考になりました。とても悔しかったのは、自分たちの演奏会の前に読み終えることが出来なかったことです(実は昨日やっと1回目を読み終えました)。・・・バロックの演奏会ではなかったとはいえ、「ああ、演奏会の前に知っていれば!」と、とくに第2部に関して傷みを覚えるほど切なく感じた本でした。

この本の価値が、上手く伝わりましたかどうか。自信がありませんが、今回はこれにて。

アフィリエイト

Bookバッハ 演奏法と解釈 ピアニストのためのバッハ


著者:パウル・バドゥーラ=スコダ

販売元:全音楽譜出版社
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2008年6月30日 (月)

「ウソ」に真実はない

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村治奏一リサイタル at つくばノバホール 是非足をお運び下さい! 7月6日(日)午後3時から。
私は別に特定の政党や主義を支持する人間ではありません。いわゆる「無党派層」とでもいうのでしょうか?

政治への関心を前面に押し出すべきだ、とお考えのかたから見れば、
「はなはだ無責任」
な層の一人です。

ですが、世の中、よく言ったもので、
「政治的でない人間はいない」

<人を「測って」いた私>という記事に綴りましたとおり、私は人に話し掛けながら、あるいは人から話し掛けられながら、相手がどんな人物かを「測る」習慣が、この1年半ほどみに染み入っていました。
・・・このような行為だって、充分に「政治的だ」と言ったら語弊があると思われてしまうでしょうか? 私自身はそうは思っていないのですが。
しかも、現実には日常のことから先々のことまで、あるいは新聞やテレビで騒ぐような事件にまで、全く無関心、ということでもありません。
ただ、そうでなくても個人というものは「特定の価値観にとらわれ」たり、「安直に集団や世間に合意ないし反発をしたり」というのは、自分も例外ではないだけに、出来るだけ避けたい、と思っているだけです。

自分が非常に主観的な人間だ、ということは、思い知っているつもりです。

ですから、これから述べることも、そんな「非常な主観から」述べることです。

ただし、それは、これから「批判」しようと思っている特定の個人さんの、特定の著作に対してのものではない・・・ということは前提としてご理解いただければ、と、ワガママながら前置きしておきます。

かつ、今日の題材は、最近見られるいろいろな事象のうちで気にかかっているものの中の、ほんのひとつに過ぎず、そういう点では「私の主観」の「ほんの入り口」に過ぎないことをも、おことわりしておきます。



私達の国の、おばさまたちに大変人気のあった、しかしながらご自身は離婚して独身を貫いていらっしゃる、某元首相がお書きになった、クラシック関係の新書が、書評でもAMAZONのレヴューあたりでも、わりに好評なのには、ちょっと意外な感を受けておりました。

なぜなら、その書物のタスキに、
「『真実のうそ』は感動的だ」
と、述べられているからです。

・・・これは、私からすれば、それこそとんでもない大嘘です。

この人が、一国の宰相でありながら、自分の服は自分で洗濯したり、ホテルで床にお湯だったかをこぼしたときに、誰にも任せず自分で拭き取って後始末をした、という姿には、評判の如何に関わらず、この人の人柄のよさを好感を持って受け止めさせられてもいます。
しかし、人柄のことと、その人の発想とは切り離して観察しなければなりません。

客観的にこの本を読んだら、どうか。

やはり、この本の最大のいやらしさは、繰り返しますが、タスキにある

「『真実のうそ』は感動的だ」

という言葉です。

文中、筆者が本当に「うそ」の良さを語る部分は、93頁からの、ほんのわずかな箇所に過ぎません。
ですが、タスキから印象づけられる「うそ」と、筆者が注目している「うそ」には、大きなズレがあります。
「映画や歌舞伎の『忠臣蔵』でも私は『うそ』の場面が好きだ。」
・・・ほら、やっぱり、と思って先を読み進むと、筆者は「うそ」の場面が「うそ」だとは、ひとことも言っていない。南部坂の場面(内蔵助が雪の降りしきる中を内匠頭未亡人に面会に行き、「討ち入りですか? そんな無駄なことを、いまさら」と平然と言って帰るシーンです)について、こう述べている。
「この場面に感動するのは、批判に耐えてあえてうそをつくところだ。」

せいぜいこんな具合で、筆者は
「音楽は虚構の世界だ」
あるいは
「ウソを描いたものだ」
とは一言も述べていません。

他の部分は、ある意味で、クラシック音楽についての、徹底的に素人としての雑談です。

この人物がとった政策は、私はある意味で今の日本を苦境に追いやる結果をもたらした、としか思っておりません。(世間の仕組みには音痴なので、本当に筋を通してみたらどうなのか、までは分かりません。ただ、感情的には賛成出来ないことが多々ありました。・・・そのての批評は、でも、適切な人が適切なところでやっているものも沢山ありますので、ここでは触れません。)
ですから、そういう「元首相」が書いた本、として読んでしまったら、好きだ、とはとても言えません。
かつ、素人談義にしては、ちょっと「ツウ」みたいなコメントを挟んだりしていて、その部分も好きではありません。

ですが、内容だけとるならば、これは某有名脳科学者が「本格的に通ぶって」書いた本に比べれば、遥かに素直で、間違っていない・・・音楽の本質を体で捉えている・・・と理解出来る部分があります。
小見出しから拾ってみます。
・音楽の好みは押しつけないほうがいい
・「音学」より「音楽」を(補足すれば,演奏家は「音学」をもっとするべきです)
・(オペラの)読み替え演出はやらないほうがいい
・歌と踊りは世界共通(これも補足すれば、内容は共通ではありません。が、音楽する行為としては,世界共通であることは確かです。そこから「違うもの」に対する共感が生まれるのだ、と私は感じています。)

要するに。
・・・これを、この本を褒めた記事だとは思わないで下さい。値段も、内容の薄い新書にしては高過ぎ。
・・・私たちが,純粋に素人として音楽を素直に捉えるとはどういうことか、のヒントにはなる。でも、完全に純ではない。ただし、これは人の常だ、というのが、私の本書の読後感です。

そうは言っても、批評家の本に比べたら、こういう素直さは、私は遥かに好きです。

小泉純一郎著『音楽遍歴』

著者の経歴とタスキと値段が罪深い本のご紹介でした。
書物の名前(昔風にいえば名と字【あざな】、この本の場合はタイトルが名であるとすれば、あざなに当たるタスキは非常に罪深い)は、このような付け方をされるべきではありません。そこに対する配慮がたんに主情的だったり、マーケット狙いであるという「フロー経済的」なものであるだけで(さらに値段までそうだとあっては)、もはや罪です。なぜなら、書物とは「知恵」という<財産>を提供すべきものだからです。

リンクは、ですので、アフィリエイトにはしておりません。(著者をお好きなかたには、ごめんなさい。)



これは、じつは、いま「流行している」とN○Kの朝のニュースでも採り上げられた某小説に対して、過去に繰り返されて来たのと変わらぬ「浅い」読みで「批評」を掲載した記事にネット上で出会い、今回の本とは逆の意味での「誤読」に繋がりかねない、それは社会に本来プラスの影響を与えるだけの力を持った作品なのに,そう「皮相に」読まれては身も蓋もない・・・一歩間違うと再び「反動的な世界」に支配されるのではないか(現に、近年の立法は規定が弱者保護には不充分であるばかりでなく、むしろ縛りが厳しいばかり、という現実がありますし)という危惧がきっかけで考えはじめたあれこれが、まだまとめられないがために綴った文であることを付記しておきます。

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2008年6月19日 (木)

「解読 アルキメデス写本」(書籍紹介)

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。



「こんなタイトルの本が、何で音楽に関係あるの?」
・・・というのが、お読み頂く前に抱かれる疑問になるでしょうね。

ご紹介するのは、西欧音楽理論の原点である古代ギシリアの「音楽論集」(2編)の翻訳を、偶然店頭で見かけた、というのが、この本を私が読むことになった、そもそもの始まりだったからなのです。



先に、「カール5世の時代1」と銘打って、いつものへそ曲がりな音楽史記事を綴り始め、参考に当時の音楽の再現演奏を耳にしながら、16世紀の西欧音楽が、どうやら「教会や大学で説かれていた<音楽理論>」と全面的には直結してはいないようだ、ということを、「なんとなく」といういい加減さからではありながらも、感じずにはいられませんでした。

ですが、中世当時大学で用いられていた「音楽理論」のテキスト、さらにはその大元となった「古代ギリシャの音楽理論書」を、私は読んだことがありませんでした。
それでも上のような感触を抱いたのは、

・第一に、中世から近世の音楽を話題にした啓蒙書に、カトリック教会が築き上げた音楽理論の断片的な知識が必ず出てくること

・第二に、その知識は「古代ギリシャの音楽理論」を元に構築されたと明記されていること

・第三に、上の2点にも関わらず、啓蒙書で触れられている「音楽理論」は、実作された曲と符合するのは「旋法(音階)の中の音の並び」に限られており、<聖歌>以外は必ずしも「旋律はこの音で歌いだされ、この音で終止する」というルールと合致しているとは思えなかったこと(これは厳密に調べたわけではありませんが、「グリーンスリーヴス」のメロディでもいえることでして、このメロディは近代的な短音階という捉え方は誤りであり、中世でいうドリア旋法である、というのが正しい・・・より正しくはドリア旋法と短音階の入り混じったもの、なのですが・・・にもかかわらず、歌いだしの音は理論上のファ、ソ、またはラ、ではなくてレですし、4つあるフレーズの第1フレーズと第3フレーズに関して言えば、終わる音もまた理論上のレではなくてラなのです。※)

という理由からでした。
また、中世の理論では、実作品に活き活きと現れるリズム、ロンド的その他さまざまな形式の規則性については、おそらくは触れていないだろう、ということも推測されましたが、何せ、大元となるものに触れていないのですから、「理論化されたもの」と「実際に作られたもの」の乖離(へだたり)について、本当のところは全く確かめようがありませんでした。

※「グリーンスリーヴス」を短音階で読んだ場合とドリア旋法で読んだ場合の階名唱(第1フレーズ)
  短音階で読んだ場合:ラ|ドーレミーファ#ミ|レーシソーラシ|ドーララーソラ|シーソミ・
  ドリア調で読んだ場合:レ|ファーソラーシラ|ソーミドーレミ|ファーレレードレ|ミードラ・
・・・ただし、偶数フレーズは理論どおり「レ」を終止音としています。それでドリア旋法だと確認できるわけです。
このとき、「ド」の音は上行導音化し、「ド#」になります。
これが、のちにドリア旋法のシがラに向かう際半音下がることと結びつく、などの事情と複雑に絡み合って、近世には「旋律的短音階」というものを形成することになります。ついでに勝手な憶測を付け加えるなら、「短調」はミクソリディアから起こったとよく言われるのですが、これは誤りであるはずです。短調の起源はドリア旋法にあるはずです。
なお、「ラ」は厳密には曲の最後の終止を示しているのではないので、これも一応教会旋法上の「吟唱音」であると見なせば、中世の音楽理論には合致はします。・・・ただし、オクターヴ下、という「朗誦」には適さない高さになっていると言う点では理論からはみ出します。
なお、「グリーンスリーヴス」全体をこんにちの特定の旋法(音階)で一貫してみるとすば、ニ短調とイ短調を行き来する、という、転調を挟んだ難しい構造になってしまいます。



世の中、よくしたもので、そんな疑問をもって初めて、少し出来た時間の合間にふと立ち寄ったと言うだけの書店で、古代ギリシャの「音楽論集」の翻訳が、実はとっくに発行されているのをたまたま目にし、入手できる、という偶然に恵まれるのです。(中世の方はあいかわらず見つけていませんが、あっても高価なうえに読み解くまで時間がかかるでしょう。)

ところが今度は、この「古代ギリシャの「音楽論集」が、めくれどめくれど、さっぱり理解できない。
翻訳がわるいわけではありません。とても真っ当な日本語です。注釈も丁寧すぎるくらいについていて、古代ギリシャ語の知識のない私には非常に助かります。それだけの配慮はしてある。
・・・でも、分からない。
理由は二つありました。

一つ目は、古代ギリシャの「音楽理論」の記述は、現代に出回っている「楽典」とか「和声学」とか「対位法」とか「楽式論」の、どれにも当てはまらない。あえて近いものを上げるとすれば、今の日本語の書籍には該当するものがありませんが、「旋律論」くらいのものでした。演奏に関する書籍には載っている、前古典派以前の「音程(音律)」についての記述が最も近いのですが、現代のその類いの記述はあっさりしたものが多く、比較できません。(*)

*大バッハの弟子、キルンベルガーの著作(最近、東川清一さんが翻訳なさいました)では詳しい記述が巻頭の章にあり、こちらならば比較するのに好都合です。

ふたつめは、それが「数理哲学」的に記述されている、ということ。しかも、これは最近の、音程を論じたさまざまな書籍と違って、たとえば「ドとソの比は具体的に何分の何である・・・それを綺麗に響くようにするためにはコンマいくつ分だけ音程を調整しなければならない」といった類いの数値的な記述が見つけにくく、音程比の数表が掲載されているわけでもない。・・・記述する上での発想が、近代以降とは全く違うらしいのです。

理由の二つとも、おそらく、古代人と近代人の「もののみかた」の差に原因するのではないか?
であれば、古代ギリシャ人は「数(すう)」というものに対してどう考え、それを文章にするときにはどんな流儀を使ったのかを、是非知らなければなりません。

「そんな本、素人向けには絶対出てないよな」
私はもう、匙を投げていました。



ところが・・・あったのです!

これもまた、昼休みにふらりと覗いた本屋さんの棚にさりげなく置かれていたのを、つい手にした・・・そして仰天し、夕方慌てて買いに走った・・・という偶然の出会いを強引に捉えた結果なのでした。

そして、この本からは、単に当初の「ギリシャ人の数についての記述法」(極めて概略的に説明されているだけですが、素人にはそれで充分でした)を知りたいという目的をかなえてくれただけではなく、もうひとつの、より汎用的な・・・つまり、日々の私たちが「文化的財産(これにはたくさんの意味をこめたいと思います)」をどう考えたらいいのか、について暗示されている、いわば「財を大切に生きる」方法を知るという思わぬ収穫も得ることになったのでした。



話は逸れますが、夕べ私の尊敬するY先生(音楽の先生ではないのですが)と歓談するチャンスがあり、子供に頼み込んで時間を作り、お話をしました。
その際、Y先生から、ビル・ゲイツが言ったというこんな言葉を教えて頂きました。正しい記憶でもなく、英語で教えていただいたものの正しい訳でもないかもしれませんが、それはこういうものです。

「あなたは、この<知識>に対していくら(の対価)を払うかね?」

お話している最中には失念していたのですが、実は、ビル・ゲイツという「線分」は、今回ご紹介する『解読 アルキメデス写本』の描く世界が円であるとすれば、彼が言ったこの言葉という「点」を<接点>として、円に対する接線をなしています。・・・なんとも、古代ギリシャの幾何学的な関係です!・・・奇縁ですね。

このことに触れる前に、ビルの言葉を日本で言う「知的財産権」なるものと結びつけることは、今回の話では避けておくことをお断りしておきます。

同時に、これから少しだけ垣間見る『解読 アルキメデス写本』の世界は、ビルの言葉と併せ、とかく「知」を巡っても事務的に集合し、<(有形無形の)財の価値>に対してではなく事務にのみ出資をしあい、「知」の提供者には「事務としてのペイ」しか与えない日本の「知(痴)的社会」と見事な対照を見せていることをも、先に申し上げておきましょう。



「解読 アルキメデス写本」の構成には、面白い特徴があります。

奇数章は、「解読する」ことになったアルキメデスの羊皮紙製の書物を巡って、
・着手前のその書物(ある民間人がオークションで落札したのですが)がいかにひどい状況にあったか
・復元に当たって、オーナーが、しかしどれだけ資金提供を惜しまなかったか
・資金の問題を考えずに済みながら、しかし、まず書物の復元にどれだけの年数と手間がかかったか
・さらに、書物はオリジナルのアルキメデスのテキストを消した上に別の文が綴られていたため、アルキメデスの文を読み取るにはどれだけの学問的知識と画像処理技術が必要だったか
・アルキメデスを読み取ることが出来るようになった副産物として、他にどれほど面白い発見があったか(書物の元来の製本過程・アルキメデス以外の人物の貴重な文献が併行して使用されていたことの判明・更には何故この書物がずっと行方不明であったかの理由までが判明したという奇跡的な事実)
と、もっぱら書物そのものの復元技術に払われた多くの努力およびその努力の結実について記されています。

アルキメデスその人が「どういう発想でモノを考えたか」については、各奇数章に続く偶数章で、古代ギリシャ数学の現代最高の専門家ネッツ氏が、直前の奇数章に対応する範囲をベースに据えながら、可能な限り平易に綴っています。
重要なのは、これが、アルキメデスの数学的証明の「全て」を記すのではなく(もし「全て」が書かれていたら、私などにはお手上げだったでしょう)、途中の過程は省略してでも、アルキメデスその人が、数学的証明を「どのような語り口で」語っているかを明確にしてくれている、偶数章の記述方法です。
そのおかげで、私にも、なんとなく、ギリシャ人が数について述べるときの「クセ」が理解できるようになりました。
それでもなおアルキメデス固有の発想があって、それは「図形」をユークリッドのように「完全な抽象概念」としてではなく、ときには「物体」に変身させてしまい、本来は平面に書かれた単なる模様であるのはず物(これでは位置が羊皮紙の上に固定されてしまいます)を自由自在に他の場所に移動させる・・・つまり、彼の頭の中でアニメーションを用いて、「図形」を動的に扱うことにより、実際にそこに物質は存在しないのに、図形だけで「ものとものが釣り合う点(重心)」を見つけ出したり、曲線で囲まれた図形が直線で囲まれた図形と分数で表されるという非常に単純な面積・体積の関係にあることを証明したりしていることには、読者としては興奮を覚えざるを得ませんでした。・・・普通は、数学の入門書がアルキメデスの考えたことを述べる際に「近代数学」の図形を用いてしまっているために、アルキメデスその人が考えたとおりの手順では、アルキメデスの「発見・証明」が述べられておらず、このことが「古代ギリシャ音楽論」の数理的な文章を読むときにも私の先入観となってギリシャ人たちの発想法を読み取る妨げになっていましたので、内容そのものは「アルキメデス固有の」であっても、同時代人の発想法に近づくためには最もよい導き手となってくれました。



本書の内容は、ざっと以上のようなものです。
読んで得られる充足感は、ぜひ実物を手にとって味わっていただければと存じます。

偶数章の素晴らしさは(言葉がヘタで恐縮ではあるものの)上に述べた通りですが、奇数章の魅力については、さらに付言しておかなければなりません。

まず、奇数章を書いた学芸員さん(何も知らぬままアルキメデスの書物の解読作業プロジェクトという重責を担わなければなくなった人、ノエル氏です)が、作業の当初から何度も見舞われた大きな障害を前にし、いかに「適任者の協力」を仰ぐ努力と根気を惜しまなかったかを謙虚に語っていること。

次に、そこにかかれた人々が、それまで持ち合わせた知識では対応しきれないような新たな難問に次々とぶつかりながら、それに対し、殆ど「無私」ともいえる精神で「知識・技術の仕切り直し」を行ない、そのためには自分の中や外にあるどのような制約をも乗り越えようと、作業を楽しみつづけたかがくまなく記されていること。(殆どの人にとって、しかも、解読のための作業は本業と併行しながら行なったボランティア的活動であるにも関わらず、手抜きは全くしていないのです。)

最後に、これは奇数章の著者が述べていることの主旨ですが、
「この書物の買い手が公的機関や大学や、ビル・ゲイツでなくてよかった」
というくだり。

さきほど、ビルの「知識に対していくら払うのか」という発言を「線分」と見なしましたが、この本に記されたアルキメデスの解読作業は、単純に一本の線で表されるようなものではなく、大きな円をなしているのを、私の拙い紹介文から察していただけるなら、ビルの言い方は確かに「点」としてはこのプロジェクトに接しているかも知れませんが、円の中に入り込んでもおらず、入り込むだけの方向性も持っていないことが、併せてご理解いただけるのではないかと存じます。

このあたりの差異を詳しく知りたければ、これも最近刊行された
「ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?」
に描かれた、まったく別質の「知」の求め方」についてご一読くださるとよろしいでしょう。



長々綴ってしまいましたが、この本を読んだ後、ホンネは「あ、これはすぐにでもアルキメデスそのものに触れたい」衝動に駆られました。というのも、本書の解説をなさっている日本人数学者も、このプロジェクトの当事者のお一人だったからですし、そのかたによるアルキメデス紹介書も、比較的最近発行されています。もっと知るには絶好の条件は揃っているのです。

ですが、それはとりあえず数学にお詳しい方にお任せしなければなりません。

私は当初の目的に戻って、今日、また最初からギリシャ「古代音楽論集」を読み直し始めました。
前にはチンプンカンプンだったのがウソのように、こんどは彼らの言いたいことがすんなりと頭に入ってくるのを実感しています。

・・・ある過去を、可能な限りあるがままに知りたい、と希求するようになったら、今現在から見える風景ではなく、やはり原典そのものの発想がどうであるか、自分の頭脳を、原典を記したその人の頭脳に置き換えてみる(これも、こうやって記してみると、アルキメデス的な発想であることを実感します)くらいの努力はしなければならないのですね。

貴重な読書経験を、また一つさせて頂いた次第です。
願わくば、愚鈍の私にも、その経験が充分活かせるだけの根気がありますように。

解読! アルキメデス写本Book解読! アルキメデス写本


著者:ウィリアム・ノエル,リヴィエル・ネッツ

販売元:光文社
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ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?Bookビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?


著者:ウィリアム パウンドストーン

販売元:青土社
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2008年6月14日 (土)

本の紹介:「仕切りたがる人」

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。


バッハのカンタータデータをOpera(ブラウザ)でじかに綴っていたら、アップしようとしたとたん、エラーで全部消えてしまいました。・・・いまどき。

で、気力が尽きましたので。

本1冊ご紹介して終りにします。

仕切りたがる人 ~相手を見抜くタイプ心理学~ [マイコミ新書] (マイコミ新書)Book仕切りたがる人 ~相手を見抜くタイプ心理学~ [マイコミ新書] (マイコミ新書)


著者:佐藤 眞一

販売元:毎日コミュニケーションズ
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今日の夕食は外食で、帰りにその店の向かいにある本屋で手にしました。

・ん、これは、やつだ!
・ん、これは、あいつだな!
・おう、これは・・・

なんて調子で、楽しんで読めますヨ。

でも、読み終わってみると
「なんだ、全部オレのことじゃん」。

この手のご本がお好きな方はどうぞ。
結局私は、子供たちが買いたい本があったので、泣く泣く買うのを諦めました。 (T_T)

もっとも、「うつ」の人にはお勧めしません。真面目に読んじゃうと厭世観が強まります。

ちなみに、娘が買ったのはこれ。(他の血液型のものもあります。)

B型自分の説明書BookB型自分の説明書


著者:Jamais Jamais

販売元:文芸社
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息子が買ったのはこれ。

環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks (024))Book環境問題はなぜウソがまかり通るのか (Yosensha Paperbacks (024))


著者:武田 邦彦

販売元:洋泉社
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息子はなんでこんな真面目な本を!
オヤジと娘で低レベルを争っております。

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2008年6月 6日 (金)

一つの理想としての通史〜岡田暁生『西洋音楽史』

火曜日には、とんでもない記事を綴りました。(でも、ホンネです。)

その中で、対照的な良書のひとつとしてご紹介する腹積もりでちょっと名前を出しておいた、

・岡田暁生『西洋音楽史』中公新書(<クラシック>の黄昏、という副題の方は、うーん、どうかなあ、とは思いますが、現実ではないのか、というと、そうでもありませんので・・・

について、あえて引用を交えず、かいつまんでお話したいと思います。



私は素人目の、本当に漠然とした<音楽ってなんだろう>という疑問の一環として、耳に入る限りの世界あちこちの音楽を時間軸の上で横並びで捉えられないか、と思いつつ、「曲解音楽史」なるカテゴリを設けて、音楽の歴史を見直すことを自分の課題の一つにしています。
何故世界のあちこちか、といえば、

・メディアがそれをある程度許すようになった
・一方で、それを「時代を追って」眺めた史資料は、まだないか、横断的ではない
・豊富に目にするのは専ら西欧音楽に限られるが、それには特殊な要因がある
・しかし、音楽を享受してきたのは別に西欧人やその文化に接した人種・民族だけではない

からでして、2・3点面に関しては、世間一般では暗黙の了解のうちに受容されているのが現状ではないか、であれば、その先の4つ目の視点を開く試みは・・・過去の新しい視点がおおよそ素人文化を発祥としていることに力づけられるならば・・・私なんぞがやってみても、悪くないんじゃないか、という発想からだけです。資料も、
「次はどっち方面をしらべるかな・・・」
という方向が見えて初めて揃えだすので、綴る当初は明らかに不足していまして・・・打ち明けた話が、古代ギリシャについて綴った頃には手に出来ていなかった当時の音楽理論書はやっと最近入手し、難しくて分からなくてふうふう言いながら読んでいて、
「ああ、あの時綴ったことでは不足だったなあ」
と、痛感しているところです。

などという無駄話をしても仕方ないのですが、いちおう、この話は、岡田さんが「個人で」なさった通史の価値を正当に評価する上で、対照的となる一つの事例にはなるかと思います。



こうなると、最初に、「個人で通史を書いた」ということの意味の大きさをアピールしたいですね。
通常、「西洋音楽史」の本は、岡田さんが著書の中で言っているとおり、何冊もに分かれていたり、そうでなくても分厚すぎたりして、まず、一般には(好奇心を抱き始めた人にとっては特に)通読に向きません。
1冊物の場合も、複数の執筆者が各自の専門分野を受け持つことが圧倒的に多く、連続性がないために、読んでいて戸惑うことも必定です。
岡田さんの『西洋音楽史』は、その点、岡田さん自身が言っているように、「岡田さんの音楽史」であって、岡田さんの「私」を貫いた言葉で一貫して読めますから、少なくとも心象上での不連続なひっかかりは感じることなく、読者は著者の作った流れに安心して身を委ねることができます。
(実は、この点では、岡田さんがせっかく個人で書いたのに、という最大の引っかかりが私には感じられるのですが、それは後述します。)

次に、岡田さんがこの本を書く決心をした経緯、この本で貫こうとした定義は、それぞれ「あとがき」と「はじめに」に明示されていますが、その精神が明朗かつ輪郭のクッキリしたものであることは、非常に好感が持てます。
経緯については措くとして、著述に当たっての定義は、欲張らず、西洋の「芸術音楽に限定する」と領域を確定しているのが前もって読者にあきらかにされていますから、これによっても、読む上での安心感が私たちに保証されることになります。

内容は、岡田さんが過去に数年に渡って行なってきた「西洋音楽史通史」の講義をベースとしているだけに、「芸術音楽」作品そのものを俯瞰する上では、小著でありながらよくぞここまで、と驚嘆するほどにムラなく万遍なく網羅されていますし、たとえば私のようなマニアが陥りやすい「細目へのこだわり」はばっさりと切り捨て、「音楽作品の・音楽としての」時代のイメージを、ピンボケにする愚は全く冒していません。

・・・と、まずいい点をご紹介しましたし、これは本気で感動していることでもあります。



が、大枠で3つの引っかかりが、私には残りましたので、その3つだけについて、付記します。

1点目は、「岡田さんの音楽史」という精神的な一貫性は保たれているにも関わらず、それでも書く章ごとには断層がある・・・非連続な印象をぬぐえない、という点です。これは、「音楽史」というトピックにこだわるあまり、その音楽の社会的・政治的・経済的背景をも併せて一貫した史観をもとに検討する、というところまで気が回らなかったからではなかろうか、と推測しています。音楽の話に付随して時折出てくる社会史の話題は、音楽とは違って断片としてしか顔を現さないため、読んでいて突拍子もない印象を受けます。

2点目は、それに関連して、ですが、各々の時代の「音楽家」の位置付けについて、その背景にあるものに対する見誤りがある可能性があり、この点では、時代を限って著述できた『<バラの騎士>の夢』に比べると、考察の非徹底さが避けられていません。
一例として、作曲家の「個人の地位確立」の萌芽をマショーに見る記述がありますが、その理由を彼が大学出の学識者だった点にも求めている、となると、これは(岡田さんの視野からは避けられている)遍歴学生の存在と矛盾します。マショーは(6月9日付記:たしかにこの人に限って言えば、個人の詩と曲の集成を作ったという意味においては岡田さんの仰る通りなのかな、と、ちょっと私の方が見直しを迫られていますけれども)音楽家としての「個人」は確立したかもしれませんが、地位については確立したとは言える環境下にはありませんでした。それは、続くフランドル楽派から18世紀までの音楽家達についても言えることでして、やはり、ここは「社会との関わり合い」の視座を失わずに考察していてくれたらよかったのにな、と、惜しまれます。(なお、<ルネサンス>で括られる時代の音楽がなぜ本家のイタリアではなくフランドルから始まったか、ということについても、岡田さんの埒外になさっている社会史の連続性を取り入れなければ理由付けできません。そのせいでしょう、岡田さんも、過去の良心的な方々同様、ではありますが、フランドル楽派の位置付けについての明言はしていないように見受けます。バロック期、古典派時代、ロマン派時代それぞれに、そうした小さな課題・・・しかも概ねはどこかで誰かがそれを解決している・・・が未解決のまま放置されている点は、「楽しい」はずの本書を、やや「学校の教科書」に近いものにしてしまっているので、非常に惜しいと思います。)

3点目、これは岡田さんの著作の全般的な傾向でもあるかと感じていることですけれど(と言いながら全てを目にしていないので、この部分は、お読みくださるかたには断言だとは受け止めて欲しくないのですけれど)、岡田さんの歴史観が「終末論的」であることで、これは20世紀についての記述から非常に強く擦り込まれてしまい、若年層がこの本を手に取るときには「終末論」へのアンチテーゼを見出し難くなりますので、心配です。
本書を読み通した印象は、私にとっては、実は平安末期(鎌倉初期)の名僧、慈円の著した日本通史である『愚管抄』と非常に似ていました。
それでも、もうひとかた、私の好きな研究者である別の「O」氏が、私の待望していた「交響曲」関連書籍の第2巻(19世紀を扱ったもの)をやっと出したので喜び勇んで手にとったら、内容が思いのほかまとまりを欠いていてOさんらしくないな、とがっかりした(Oさんは19世紀作品の物量に圧倒されたまま、総括的な見解をまとめそこなったようにしか思えませんでした)のに比べれば、著述の最初から一貫した姿勢で臨んだ岡田さんは、19世紀ばかりか20世紀までを、実に綺麗にまとめていらっしゃるし、自分の終末論的史観が「歴史」を見る目の全てではない、ということもはっきり言っているのですから、このことに関しては問題視しすぎてはいけないのだろう、とは受け止めております。
ただ、せいぜいブーレーズあたりまでで、あるいはジャズが非大衆化してしまったところまでで観察を停止するのではなく、せっかく2年前に書いたばかりの本なのですから、(西洋「芸術」音楽、という範疇でいえば)ペルトタン・ドゥンあたりまで対象を引っ張っても良かったし、そうであったら同じ終末論でも少しは光も見えたかな、と思っています。



ともあれ、手軽に読め、「西洋芸術音楽」とはどういうものか、を俯瞰するには、現時点では本書は最良のものだと信じていますし、多くの読者もそう確信できたからこそ、この本は最近の新書版としては比較的長い寿命を保っているのでしょう。・・・芸術、に下線を打ったのは、じつは、わたしはこの言葉があまり好きではないからでして、他意はありません。

個人が、個人として、俯瞰的に歴史観を持つことは、諸刃の刃ではありますが(ヘーゲルをご存知でしたらヘーゲルが、また、マルクスが、必然的にそういう危険性を内包してしまったことはご承知の通りです)、人間が「受け継ぎ、改変し、引き継いでいく」(とくに「改変する」という点が最大の特徴ではないでしょうか)生き物である以上、必須のことでして、本書は人間にとっての「必須モデル」とはどういうものかを、心と体を張って示してくれた好著であることは、断言してもよろしいかと思います。

個人が、「個人史」にではなく、どんな断面を採用するのであれ、俯瞰的に「歴史観」を持てるということには、非常な憧れを感じます。岡田さんは、それを見事に体現なさったわけで、本書は、そんな<理想としての通史>の恰好の例となっていますから、一度は手にとってみて下さる価値が充分にあります。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)Book西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)


著者:岡田 暁生

販売元:中央公論新社
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2008年6月 3日 (火)

頭なんてよくならなくてもいいクラシック

夕方、娘からの頼まれものがあって、書店の音楽コーナーに寄りました。
あんまり野次馬する時間はなかったのですが、ついでですから「どんな本が並んでいるか」を眺めて来ました。
・・・稀に、魅力のある本が、さりげなくおいてあることもあるから、チャンスは逃せません。
・・・ですが、魅力的な本は、値段が張る場合が多いですから、すぐ買うわけには行きません。
・・・買い逃しているうちに売り切れ、ということも、ままあります。

稀に、と言いました通り、本当に「ああ、いいなあ」という本には、実は、ジャンルを問わず、そう簡単に巡り会えるものではないですね。パッと開いて、瞬間、心を引かれる本。

最近、ある昼休みに「再会」した阿部謹也さんの<ハーメルンの笛吹き男>は、私が受験のために初上京して、ふと立ち寄った書店で初めて手にした本でした。学生ごときには当時は高価な本だったうえに、帰郷して開いてから落丁に気づき、世間知らずの私は「取り替えてもらう」なんてことも思いつかず、途方に暮れたものでした。かつ、当時の私の浅い人生経験では、中身がちっとも読み解けませんでした。それでも、吸い込まれるような気持ちで夢中で読みふけったのを、忘れたことがありません。
この本が「ちくま文庫」に収録されていることはずっと知っていたのですが、実家に行けば最初に買ったときのものがあるから、というので、ずっと買わずにおりました。
ですが、この本、中に「遍歴芸人」を徹底して扱った章があり、いまちょうど、そのあたりのことを知りたいと思っておりましたので、勤務中の昼休みに職場のビルの地下の書店で見つけた時に、即座に購入しました。・・・文庫くらいなら家計に及ぼす影響も少ないので、思い切りがついた、というわけです。
この本には、なぜ最初から惹き付けられるものがあるのか。
内容については、「音楽史」の一貫で若干は触れる機会が近々あるのでいまは述べません。
ただ、文庫に石牟礼道子さんがつけた解説が優れもので、そのなかで石牟礼さんが指摘している通り、この本の中扉の裏、すなわち本編直前に引用された魯迅の言葉が、(石牟礼さんは丁寧に「示唆ぶかい」と言っていますが)この本をすべて読み通させる気を起こさせる催眠効果を発揮しているからだ、と思います。

     歌、詩、詞、曲は、私はもともと民間のもの
     だと思います。文人がそれを取って自分のも
     のとし、作るたびにいよいよ理解し難くした
     のです。それを結局は化石にしてしまうと、
     さらに彼らは同じように他のものを取り、ま
     たもや次第にそれを殺してしまうのです。

     (魯迅、高田淳著『魯迅詩話』の訳文による)

行分けは阿部さんのオリジナルに従いました。この素晴らしい中世史学者(西欧社会史が専攻)は、同じく日本の中世史の視点を大きく変えた網野善彦さん共々、近年鬼籍に入ってしまいました。

今日目についた中には、残念ながら、そういう魅力を発散させてくれる本はありませんでしたが、それはごく普通のことで、まあ、いいや、という感じでした。

が、非常に感じの悪いタイトルの本とは、つい目が合ってしまいました。
中身はともかく、タイトルから感じの悪い本と言うのは、始末に負えません。

あんまりこういうことはしたくないのですが、あえてタイトルを明示します。
悪口を言う場合は、いちおう、テキは誰かはほのめかし程度にしておくのが鉄則だと思っていますから、掟破りです。
でも、この本だけは、買って欲しくないなあ、と思いましたし・・・弱小ブログでそう言ったところで、この記事を読む人は限られているでしょうし、読んだとしても買っちゃう人は買っちゃうでしょうから、営業妨害にはならないでしょう。

樋口裕一「頭がよくなるクラシック入門」幻冬舎

タイトルを見たとたん、
「は・・・?」
と絶句しました。
後で調べたら、なんにつけこの手の(「頭が良くなるなんとかかんとか」みたいな)本ばっかりかいている人のようですね。それで印税で食ってるんだったら許せねえな、と思っちゃいました。
AMAZONのレヴューがまたいろいろで愉快ですから、リンク先で読んでみて下さい。
ただ、間違っても、この本は、絶対買って欲しくない。立読みして「アホか!」と怒るなり笑うなりするぶんには構いませんが、それすらおぞましい・・・ちょっと冷やかしてみたいタイトルの数章を軽く読んで・・・帰り道、後悔しました。立読みも、しない方がいいかも知れない。中身は、別にクラシック音楽の「仕組み」も「効用」も載っていませんから、いわゆる「モーツァルト療法」の本より、いっそうタチが悪いという次第。
ですから、書評するまでもない内容です。それはAMAZONのレヴューに委ねることにします。

ロックしか聴かん人間は頭が良くならんのか?
歌謡曲しか知らん人間は頭が良くならんのか?

決してそんなことはありません。

クラシックしか聴いていない人間は頭がいいのか?

これも、ありません。
私はクラシックしか聴かない、にほぼ近い人間ですが、おかげでそういう「お友達」も皆無ではありません。で、全てとは言いませんが、音楽愛好者の中で、クラシックだけしか聴かない人間ほど、むしろ「頭が固い」輩が多い(念のため、ですが、全て、ではなくて、多い、というだけです)。
歌謡番組・・・感情だけで拒否反応。
カラオケ・・・絶対付き合えない。
対人関係・・・腰高で人に譲らない。
世の中では、こういう性格だったら欠陥人間でしょう? そうした欠陥人間が、目だちます。その上、欠陥人間でありながら、いわゆる一流国立大学の医学部を出ていたりするんだから、タチが悪い。
人情の分からない医学部卒業生が、果たして、人間をきちんと診察出来る医師になれるのでしょうか?

樋口さんには、阿部さんの引いた魯迅の言葉を、よくよく玩味して欲しいですね。
気鋭の人文学者で、リヒャルト・シュトラウスに関して『<バラの騎士>の夢』という名著を綴った岡田暁生さんが、中公新書のロングセラーになった『西洋音楽史』で、たとえば職人芸としてのバッハの凄さが本当に理解出来るのは作曲者だけだろう、といったことを述べていますが、もっともなことで、岡田さんがそこで言いたいのは、だからといって理解出来ない作曲者以外の人がバッハを愛好する妨げにはならない、という点にあろうかと思います。(なお、岡田著『西洋音楽史』については、いい点が多いながら、ちょっと気になる細部がありますので、別途ご紹介するつもりでおります。また、私の好きな学者さんの一人ではありますけれど、同じ人の近著である『恋愛哲学者モーツァルト』は・・・私がアホであるからでしょうが・・・あんまり惹かれておらず、手にしていないことは、打ち明けておきます。)

音楽が好きなら、頭なんか良かろうが悪かろうが、好きだというところでお互い仲良くなれちゃうわけですし。
あんまり勝手なことを書いた本は、出さんで欲しいなあ。

やはり石牟礼さんが注目している、阿部著『ハーメルンの笛吹き男』からの一節を引いて、本日の記事の締めとさせて頂きます。

研究者は常に研究者仲間をつくる。それは学会として社会的に承認され、そこで互いに「才能」と「努力」を競い合う。だがこの難問を打ち破るには才能はまことに危険な道具である。ただひたすら伝説の世界に沈潜し、知を頼らず、愚者として伝説の変貌の必然性を体験するしかないだろう。(文庫本文299頁)

要するに。
アタマなんか、へんによかったりなんかしないほうが、いいのだ!

ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)Bookハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界 (ちくま文庫)


著者:阿部 謹也

販売元:筑摩書房
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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)Book西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)


著者:岡田 暁生

販売元:中央公論新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

「バラの騎士」の夢―リヒャルト・シュトラウスとオペラの変容Book「バラの騎士」の夢―リヒャルト・シュトラウスとオペラの変容


著者:岡田 暁生

販売元:春秋社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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2008年5月19日 (月)

悪印象な「タスキ」は<お粗末本>の印?

昨日、本を買う時に、ちょっと引っかかったことがあったので。

良さそうな本だから、といって、あっさりネット上で買ってしまうと、中身がはずれた時にがっかりしますので、古書で評価の定まっているもの・洋書(これは、出掛けられる範囲の書店では必要なものは殆ど手に入れられませんから)以外は、なるべく手にとってみないと気が済みません。

ですが、私が本屋を覗けるのは、

・昼休み、体力に余力がある時
・帰宅後に子供の用事がない時
・休日に子供が一緒に出掛けている時

に限られます。最後の一つ以外は、20分程度しか時間が取れませんから、それこそ、狙いを定めて、なるべく大きな、その本がおいていそうな店に行きます。

あれば一発で決まり・・・10分も斜め読みすれば、とりあえず
「今の自分の必要としていることが書かれているか、または書かれている可能性があるか」
の判断はつきます。
無い時には・・・せっかく出来た時間ですから、勿体ないので、
「代わりになる価値のある本は無いか」
と、血眼になります。

タスキがついている本ですと、大体、そこに謳われた文句に惹かれて手を出してしまいます。
キンキンさん(杉山欣也先生)が、ご自身が本を出された時には、本のタイトルやカバーのデザインはもちろん、それに合う「タスキ」の色調や謳い文句に相当気をお使いだった、と承ったようにも記憶しています(「『三島由紀夫』の誕生」)・・・これは、私は店頭で衝動的に購入したのではないので、タスキのインパクトを云々する資格はないのですが、少なくともまずその白いカバーにあしらわれた百合と、赤い四角をポイントに入れた漆黒のタスキのバランスの良さが鮮烈で、
「ああ、たしかに、タスキの印象は大事だな」
と思わされました。

大抵の場合、そうは言いながら、私はいったん買ってしまうと、タスキは折り畳んで注釈の箇所に栞として挟んで使ってしまうので、タスキの印象は買ったその瞬間までにしか効力を持たないことが多いのです(今見直したら、数冊の例外を除いて、キンキンさんの本だけですね、珍しくそのまんまにしてあるのは)。

キンキンさんの本のような専門領域のものは、それでもまだ、お値段がお値段ですので、清水の舞台から飛び降りる決心がついたらすかさず、内容の濃さへの期待が消えないうちに購入を決意することになります。
で、専門書のタスキの魅力は(キンキンさんのは本当に珍しく凝った、美術的価値の高いものでして、型破りなのですが、それでも次の基本をはずしていません)、小説の単行本によくあるような、権威者あるいは有名人の安直な献辞が書き並べられているということは稀である、というところにあります。

音楽の本で最近手にした、タスキ付きの「専門書」2冊は、一方は地味なものでした。
「古代劇や叙情詩の表現には欠かせないギリシア音楽を体系的に理論づけた作品。西洋音楽論の古典的名著。」(アリストクセノス/プトレマイオス『古代音楽論集』山本建郎訳 京都大学学術出版会)・・・たったこれだけ。でも、私は長いこと目にしたかったものがすぐそこにあるのを、この地味な売り言葉だけで強く感じてしまい、予算外なのに手を出してしまいました。3,600円も!
罰当たりだなあ。

もう1冊の方も、決して安価ではないのに同じような理由で衝動買いしてしまったのですが、こちらの文句は強烈な一発にころりと来てしまい・・・このときは少し時間のゆとりがありましたので、2、3章分中身を読んで価値を感じ、まだ17章は残っているので、買うしかないと意を決したのですけれど、
「もっと自由な、バッハへ。」(バドゥーラ=スコダ「バッハ 演奏法と解釈」、とっても言いにくいけれど、7,500円。。。)

以上は、よい子はマネをしてはいけません。
ただ、こうやって手を出してしまっても後悔しないで済むのは、専門書の場合、タスキにのせる言葉がその本の中身を著者の立場から適切に示していて、余計な外野が口出ししていないからです。

薄手の単行本でも、価値ある中身だったら、2千円までは衝動買いOK、だとしましょう。
ところが、値段が下がるせいでしょうか、タスキの性質は、専門書とは一変します。
このランクの本には、なぜだか、著名人の「推薦の辞」が羅列されている場合が多い気がします。
統計を取ってみるほどサンプルはありませんし、それ以前に、私はそういうタスキを見ただけで嫌悪感からその本を手にとることさえしなくなってしまいますので・・・いっそ、世の中の本が全部、「推薦の辞」だらけのタスキをかけられていればいいのにな、とさえ思ってしまいます。もしこの思いがかなうなら、私の財布の紐がきゅっと締まるので、浪費癖を直すことができるからです。

で、昨日、そういう幻滅を感じさせるタスキに巡り会ってしまいました。
有名な音楽評論家の本でした。
私の大事なお友達にはこの評論家さんを尊敬している人もいらっしゃるので、あんまり言っちゃいけないのかな、と気が引けているのですが、私はこの評論家さんがモーツァルトの交響曲第39番第1楽章主部のホルンの「ドミソ」とヨハン・シュトラウスの「青きドナウ」のホルンの「ドミソ」をわざわざ並べて
「モーツァルトのほうが耳が良かった」
なることを綴っているのを読んだ子供時代から、実は印象がことごとく良くありません。
その評論家さんのエッセイ集でした。
まあ、好きじゃない人の本だから、買ってしまう心配はもともと無かったのですが、そのタスキに、某オーストリア国の某ウィーン国立歌劇場で大変名誉なご活躍をなさっている指揮者某O氏が
「Y先生は、私にとって最も厳しい先生でした」
なる献辞を載せていることで、(ある地域の音楽活動の隆盛にも力を尽くすなど、その「暖かい」人間性に惹かれていらっしゃるだろう、非常に沢山のファンのかたには大変申し訳ないことながら)・・・吐き気を覚えてしまったのでした。

実際、食欲が失せて、そのあととるつもりでいた昼食を抜いてしまいました。。。

”Takemitsu”の隣にいたことがあるっていうだけで、何の実績も自分では作らず、人様への批判だけで食って来た人が「厳しい先生」だなんて、ちゃんちゃらおかしい、と思う私は、その人が好きではないためその人の功績を公平に評価していないわけで、これはまったく客観的な・合理的な・理知的な話になっていないのは重々承知です。

でも、同じような生業をなさっていても(音楽評論家の類いは古くはハンスリックを含め大嫌いなのですが、それでもハンスリックの美学なんかは非常にいいとはアタマは下がっているのです・・・あ、あまり脱線してはいけない!)、いちおうご自身も棒なんか振り回してみて、人様の批判を甘んじて受けているUさんの方が、じっさい書き物の中身も(真っ当かどうかは別として・・・ひとつだけ、ビックリするくらい真っ当なのがありましたが、極めて短文だったのが幸いしたのだと思います)人間としての暖かみもあるし・・・こちらさんの方は、人様の本のタスキには讃辞を贈っても、ご自分の本には人から献辞を貰って載せることはしていなかった、というだけで、まだ私には受け入れられます。

・・・あ、「受け入れられる」方の話をするんじゃなかった。

今日の狙いは、本の世界が私の財布の紐を固くしてくれるところにあるのでした。

ですから、世の中の本はすべて
「有名人の献辞を明示したタスキなしには出版出来ない」
という検閲を受けるような仕組みになってくれないもんでしょうか?

そうじゃなくても、ウチはヤモメ家庭ですから、父ちゃんに無駄遣いさせることは世の中がうまく抑制してくれないと、困ってしまって「ワン!」なのであります。

値段がまたワンランク下がって「新書」となると、これはこれで、また魅力的なタスキがわんさかですから。新書のタスキの殺し文句には参らされることがありますねー。

あーあ。綴っちゃった。

知ーらね、っと。

古代音楽論集 (西洋古典叢書 G 57)Book古代音楽論集 (西洋古典叢書 G 57)


著者:アリストクセノス,プトレマイオス

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♪バッハ 演奏法と解釈全音楽譜出版社♪バッハ 演奏法と解釈全音楽譜出版社


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2008年5月 7日 (水)

ご紹介:「これで納得!よくわかる音楽用語の話」

完読してからご紹介するつもりでしたが、本日、体調不良のため、途中まで読んだところでのご紹介になってしまいます。ごめんなさい。(・・・読み終えていようが途中だろうが、あんまり変わらないか!)

これで納得!よくわかる音楽用語のはなし―イタリアの日常会話から学ぶBookこれで納得!よくわかる音楽用語のはなし―イタリアの日常会話から学ぶ


著者:関 孝弘,ラーゴ・マリアンジェラ

販売元:全音楽譜出版社
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娘の師匠に
「これ、面白いですよ!」
と勧められて手にしたのですが、確かに!でありました。

要は音楽用語の説明書の一種なんですけれど、変わり種中の変わり種です。
・・・というのも、「辞典」類ではつかめない語彙のニュアンスが、ひとつひとつ、感覚に直接訴える「エッセイ」として綴られている。
イタリアに長く在住したご主人と、イタリア人であるその奥様の共著ですから、記述がほんとうに活き活きしています。

読み終えた範囲でも、どれを選ぼうか、迷うくらいに面白い。

ですが、最初に登場する"Allegro(アッレーグロ)"の例が、何と言ってもご紹介には最適かと思いますので、一部抜粋します。

タクシーで先を急ぎたい二人連れのお客の会話と、それに対する運転手さんの反応です。

「ねえ、”速く”って、なんて言ったっけ?」
・・・というわけで、この二人、やっとの思いでアッレーグロにたどり着いたようです。
「運転手さん、アッレーグロ、アッレーグロ!!」
ところがこの運転手・・・二人がこんなに急いでいるのに、どこ吹く風。一向に速く走ろうとする気配すら見せません。
「そうか、もっと速くって言わなければダメなのね。ピュー・アッレーグロ!(もっと速く!)ピュー・アッレーグロ!」
すると運転手は歌いはじめたり笑ったり・・・。あなたは、ますますボルテージを上げ「モルト・アッレーグロ(すっごく速くぅ)!!!!」と絶叫します。ここまで言われると、さすがのイタリア人運転手も、あなたが置かれた状況に気づかないわけがありません。でも、勘違いしないでください。彼が気づくのは、あなたがとっても急いでいることではなく、あなたが自分に恋心を抱いているんじゃないか、ということです。・・・
実はアッレーグロには”速い”という意味はないのです。

じゃあ、なんなんだ?

続きは是非、本書をお手に取って楽しんでみて下さい。

本当は娘に買い与えるつもりで手にしたのですが、こんな調子で突拍子もなく話が展開するのについ引き込まれ、実は私が未だに抱え込んでいます!

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