2008年5月27日 (火)

音楽と話す:楽譜って、どんな姿?(3)

ラ・プティット・バンド at つくば(6月1日)、是非お出掛けになってみて下さい!(リンクしてあります。)



「・・・」

このあいだ見せられた、線だらけの楽譜を前に、私がずっと首をひねりっぱなしでいると、

「なにを、いつまで困っていらっしゃるの?」
と、<楽譜>さん。
「だって、ちっとも浮かんでこないからですよ」
「何が?」
「・・・歌が。」

「だって、全部書いてあるじゃないですか?」
「でも、線ばっかりだから、どう歌っていいのか分かりませんよ」
「何故? 線の上がり下がりの通りに歌ってみればよろしいんじゃないの?」」
「そう仰いますけど、だいいち、どんな高さの音から歌いだして、どれだけの長さを伸ばして、次にどんな音の高さに移ればいいのか、さっぱり見当がつきませんよ」
「テキトーでよろしいじゃないですか」
「・・・は?」

「好きな高さの音から歌い始めて、線が長く見えたら、この線の長さは時間ではこれくらいかなあ、ってくらいお好みで伸ばして、線が下に下がったら、これくらい下がるのかなあ、上がったら、これくらい上がったのかなあ・・・で、全然構わないんじゃありません?」」
「それで、ちゃんとした歌になるんでしょうか? デタラメもいいとこになるんじゃないです?」
「しかたがないわねえ!」

<楽譜>さんは、大きく溜息をつきました。

「ホント、仕方ないのかもね。もともと、私が字とか線とかで書かれるようになったのは、あなたがた人間が、<音楽>さんをかたちにしなければ気がすまなかったからですものねえ」
「かたちになっていなくっちゃ、分からないじゃないですか」
「だから、いつまでたっても、<音楽>そのものにたどり着ける人間なんて、殆ど現れないんだわ!」
「そりゃ、私に限ればそうかもしれませんけど、優秀な音楽家は、昔っからいっぱいいるじゃないですか」
「どれくらい昔から?」

<楽譜>さんは、イタズラっぽい、いや、皮肉っぽい薄笑いを浮かべて私を見つめました。

「それは・・・そうですねえ・・・ベートーヴェン、ハイドン、モーツァルト・・・いや、まだ新しい方か。バッハのオヤジさん。もっと遡って、モンテヴェルディ。・・・いやいや、13世紀まで遡ればペロティヌスとか、その先輩のレオニヌスとか。」
「まあ、ヨーロッパのかたばっかり!しかもせいぜい700年前まで。」
「いや、私が知らないだけですよ。名前が忘れられた中に、アジアにでもアフリカにでもオセアニアでも、たくさん、すばらしい音楽家がいたはずです。」
「忘れられたかたたちのほうが、大事かもね」
「・・・そうなんですか?」
「だって、そういう皆さんは、書かれた楽譜なんていらなかったんですもの」

そう言われてしまっては、私にはもうどうしようもありません。

「それなら、これでいかが?」
<楽譜>さんは、なにやらまた、数枚の紙を出しました。
「あなたがお望みなのは、こんな類いのものでしょう?」

古ネウマと併記されたグレゴリオ聖歌の4線譜
Avemaria

定量音符の譜例
Teiryoukyrie

「こういう楽譜はね、あなたみたいに、<どんな高さから>・<どれくらいの時間伸ばして>・<次はどの高さへ移るのか>を、数学のグラフみたいにして描いたものよ」

「ほう。最初のは、線で結ばれている難しいところは分かりませんけど・・・」

「そういうのはまたテキトーにお勉強なさってくださいまし。二つだけお話しておきますとね、線の左端にCのマークがついているところが、<C>の高さの音になるの。日本人風に申し上げますと、<ド>の音ですわね」
「じゃあ、そこを目印に、音の高さに見当をつければいいんですね」
「手っ取り早く申し上げれば、そういうことになりますわね。・・・もう一つ、線の上に書かれた黒の四角が<音符>というもので、これの場所が音の高さを表しているの」

「これで完璧・・・じゃないな、長さが分かりません」
「長さはね、例えば<あいうえお>の<あ>ひとつを少しゆっくり目に声に出すときの長さが基本だと思っておけばよろしいかも知れませんわ。ただし、黒四角(音符、ですわね)の右に点が付いているのは、それより長く伸ばすの」
「どれくらい長くするんですか?」
「そんなの、決まってなんかいませんわ」
「じゃあ、困っちゃうじゃないですか」
「もう、あなたみたいな人がいるから、2つ目の紙みたいな書き方が出来たのよ。まず、それはいいということにして、右に点の付いた音符の長さは、雰囲気で、テキトーに伸ばせばいいのですわよ」
「また、テキトーですか!」
「気分、気分。・・・<音楽>の基本は、<気分、気分>」
「そんな、いい加減な・・・」
「いい加減かどうかは、実際にお歌いになって、試してご覧になるといいわ」

・・・これは、このときすぐ試したら短めにしか伸ばせなかったのですが、後でゆったり風呂に入りながら試したら、<楽譜>さんのまえでやったときより長くなりました。。。やっぱり、気分、気分なのかなあ。

「でも、どうしても<気分、気分>が嫌な人たちがいて、長さをきっちり決めたくなっちゃったの。それで、2番目みたいな、菱形やら長方形やらが混じったものが出来たんですわ」
「そりゃ、きっちり長さが決まっていないと、一人ならともかく、何人もで音楽を楽しみたいときには困るでしょう」
「多分、これを考えた人たちも、あなたと同じような発想でいらしたのよ。私にしてみたら、ばかばかしいったりゃありゃしなかったんですけれどもね。仕方がないから、妥協して差し上げた、という次第。」
「ああ、でも、今見ただけじゃあ良くわかんないけど、決まり事さえ覚えれば、ずっとすっきり分かりそう!」
「(そんなにあまかあないのよ!)・・・まあ、そうお思いになるんでしたら、せいぜい、一生懸命お勉強なさって!」


グレゴリオ聖歌のほうの4線譜の読み方については、前に別記事で綴りました

定量音符記譜法については、事典に記載された図版を、参考までに掲載しておきます。

Teiryou

どうでしょう、これで上の図の例が読み解けますか?(この表だけでは足りないのですが、あとは推定で可能です。ちなみに、上の図では「C」記号(ハ音記号)は装飾的になっています。五つある線の、したから2番目の線に付いています。余計なことを付け加えますと、この装飾がこんにちのハ音記号の原型で、いまも手書き譜を作る場合にはこれと似たように書く場合があります。印刷譜でも、フランス製の楽譜でしたら、上図に似ています。)


駄目押しで<楽譜>さんに言われました。
「申し上げておきますけれど、Cがかかれた場所が<ド>、だって、さっき申し上げましたけれどね、この<ド>の高さは、別にテキトーに決めてよろしいんですのよ。」
「???」
どういうこと?

ま、次回への宿題にしましょう!

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2008年5月16日 (金)

バルトークが試したかったこと〜「ミクロコスモス」第1巻からだけでもみてみましょう

打ち明け話から。

昨日の記事は、自分でも何が言いたいのかよくわからずに終わりました。
・・・頭の中は、5月2日に綴った「古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)」に、思いがけず<ズバリ本質>的なコメントを頂戴してしまったところから、右往左往を始めていました。その5月2日の記事の末尾に綴った通り、「古代のカルタゴ=今の日本?(時事ネタにあらず)」を綴ったこと自体は、バルトークの音楽論集を再読し、(その時は述べませんでしたが)彼の記述の上に、自分がこれまで観察して来た音楽の歴史が重なり合い、<どうしても綴りたくて仕方がない>ところまで、何かに追い込まれたような気持ちになったからなのでした。
そもそも、なぜまた、バルトークに啓発されることになったか、から述べましょう。

娘が今度高校から音楽を専攻することになり、そう決まったことで、じつは
「これは、自分もいつかは初歩的な曲くらい娘の伴奏ができるような程度にはピアノを覚えたいな」
と、つまらぬことを考えてしまったのが、今思えば運の尽きでした。

そこで独習用に選んでしまった教材のひとつが、あろうことか、「ミクロコスモス」であったことが、極端に思われてしまうかもしれませんが、
「そもそも音楽にはどんな意義があるのだろうか」
という問いに結びつき、それがストレートに音楽への問い、というところに収斂するのがどうも不可能だ、ということに気づき、
「であれば、音楽が奏でられているこの世界、というのは、どんな成り立ちをしているのか」
と、そちらの方向へ顔を向けざるを得なくなった。
すると、話の筋は、どうしても「ご時世」というものを無視しては通り過ぎられないのです。
ですので、
「時事問題にはあらず」
と逃げを打ちながら、記事をしたためました。

ところが・・・後になればなるほど納得がいくのですが・・・はからずも
「コメントなんか入りゃあしないだろう」
と思っていたこの記事に、最も信頼するかたたちから、揃いも揃って、
「Ken、逃げるな!」
みたいに直裁なコメントを頂いてしまった。

いちおう、意図的ではなかったとはいえ、読み返すと「無難な」お礼を綴って、そこはそれで収まりました。

が、そのお礼にも記した通り、音楽史の観察を続けつつ、お礼の後にさらにその地理的範囲を広げて行きはじめましたら、また「5月2日の壁」の前に立ち戻されている自分に気づかされました。
それを整理しきれずに、昨日の記事に至った次第です。(ここで採り上げた中世から近世の過渡期については、昨日の記述でもかなり限定された局面についてしか言い及んでいません。ですので、もう悪あがきはやめて、音楽史のひとつひとつのトピックとして観察するという原点に立ち戻りましょう。)

歴史の脈絡を追いかけると、「音楽」は、どうしても、少なくともその音楽が作られた当時の「時事」と無縁には、「音楽なりの世界」を形作ってはいない。
私が、仕方なく「現在」を引き合いにしながらも、できるかぎり興味のゼンマイを「過去の確認」にまで巻き戻してしまっても、今日読み返すと、趣旨がまとまっていません。

やはり、私の過ごしている時間はどこまでいっても「今」なのであって、「過去」の「事実」を(今目にしうるものだけで)評価は出来ても、「過去」の時間の中でそれをしていない。「過去の時間」に自分の身を置き直す、ということ自体が、幻想に過ぎないのです。

バルトークを再読すればするほど、それを思い知らされます。



前に綴ったことがあった気もしますし、そうでなくても、ご存知の通り、バルトークはコダーイと共に東欧圏、さらにアラブ世界までの民謡を精力的に収集した人物です。
そうしたフィールドワークを経て、バルトークは、実に重要な発言を、いくつかしています。
(すべて、岩城肇 編訳「バルトーク音楽論集」【お茶の水書房】から引用)

・・・私たちの芸術音楽にも、民俗音楽に根を下ろす権利があるのではないでしょうか? 芸術における主題の発明ということを、かくも重要なことと考える考え方というものは、実は十九世紀に流行しだしたもので、それはすべてにおいて個別性を追求しなければならないという、現実にはありえない考え方に過ぎません。(46頁)

ところで、民俗音楽が他のいかなるものによっても補いえないほどの重要性と役割を発揮するのは、主として、他の音楽の伝統がほとんどないような国においてか、あるいは、そのようなことがあったとしても、全然問題にならないような国においてです。東欧および南欧の大部分がまさにこうした国に該当し、ハンガリーも当然その中に含まれます。(47頁)

(綴り手註:そうしたことから民謡を収集してみた結果が極めて豊富な成果をもたらしたことから)
私が問題にしている東欧各国が、領土的には取るに足りないほど狭いものである(全人口を総計しても4、5千万)ことを考えるとき、民俗音楽のこの多様性は全く驚嘆に値するものです。・・・十分な資料がそろえられた時、ようやく解答が与えられました。その後、これら各民族の民俗音楽を比較することによって、東欧では多くの曲が絶えず交換され続けているということ、つまり、異種交配および再交配が絶えず繰り返されているということが明らかになりました。
 ところで、ここでたいへん重要なことを強調しておかなければなりません。それは、この種の異種交配が、多くの人が考えるほど単純なことではないということです。
(296〜297頁)
 
それぞれに性質の異なった音楽相互の接触は、ただ単に曲の異種交配をもたらしただけではなく、それにもましていっそう重要なことですが、新しい音楽様式の誕生を促進しました。もちろん、同時に、それまでの古い様式も生き続け、こうして、それらが音楽の豊かな富をもたらしたのです。(298頁)

音楽教育がどうあるべきか、という問題についても、創作と同様の重きをおいて考え続けたバルトークは、こうして彼の中に積み上がった民俗音楽と伝統音楽の「歴史」を、実用を通して生徒に知らしめるために「ミクロコスモス」全6巻を完成させたのではないでしょうか?



・・・と、ここでいきなり、私の頭を悩ませる発端となったこの優れた教本を持ってくるのはせっかちに過ぎますので、「ミクロコスモス」の構成について簡単にまとめますと、

・全6巻が1年から2年で習得出来ることを目標にまとめられており(でも私は10年かかるかも知れない!)
・第1〜3巻で、対位法までを含めたピアノ奏法の基礎技法と音楽の基礎語法をマスター出来、
・第4巻で、基礎技法・語法が「芸術作品」として昇華し得るための応用が身に付き
・第5、6巻で作品の仕上げ方を体得出来る(とくに第6巻は最後の6曲を「ブルガリアのリズムによる舞曲」の、いわば組曲として仕上げ、通常のピアノ教本と違い、<音楽の教本>であったことを明示して締めくくっている)

極めて大雑把にいうと、こんな構成になってます。
「ミクロコスモス」ならではの個性が誰にでもはっきり分かるようになるのは第2巻以降で、それは各課題曲に付けられたタイトルによるところがもっぱらなのですが・・・

実は、タイトルに目くらましをされなければ、第2巻以降の課題の基礎は、すでに第1巻の、しかも第1曲から、周到に準備されていることが分かります。

先日、あるかたが、思い出話に、
「音大でピアノ専攻の子が、つくことになった先生に『ミクロコスモス』第1巻から取り組むよう指示され、それに屈辱を感じて先生と大喧嘩になってしまった」
と教えて下さいました。
たしかに、第1巻第1曲からしばらくは、私でも初見で弾ける程度の「簡単な」ものです。なんの説明もなしに「それから始めろ」といわれたら、それなりにキャリアを積んできたと自負している学生さんは腹を立ててしまっても、致し方ないと思います。

ですが、このところ立て続けに出た「ミクロコスモス」の解釈あるいは指導法の書籍は、第1巻第1曲について、必ず「大切なスタートだ」と重んじて述べています。
譜例は掲げませんが、第1巻は、21番までが「調号なし」(つまり、世の中にもし長旋法と短旋法しかなかったとしたら、ハ長調とイ短調だけ)の、しかも右手と左手が同じ音(高さは1、2オクターブ違いますけれど)あるいは並行した音を、左右同じ動きで弾くだけの曲です。
ところが、ここまでにバルトークが音楽史の「エッセンス」を盛り沢山にしている事実が、たとえば山崎孝「バルトーク ミクロコスモス 演奏と解釈」(春秋社2007)で明らかにされています。バルトークの無二の友人コダーイの弟子であったフランク・オスカーも、わざわざこの第1曲について、レガート奏法や休符の役割、フレーズの認識についての重要な教材であり、なおかつすでに、バルトークの重んじた黄金分割の構成において作り上げられていることに、筆を費やしています。以後、第21番までのあいだに、歴史的に鍵盤楽器の技法として重要であり続けて来た「鏡影進行(対位法の基礎)」やフレーズごとの対照的な語法、フレージングについての認識の強化が企てられている点を、山崎氏の著書ではひとつひとつ丁寧に説明してくれています。22番以降については・・・従来の教本とは違い、かつバッハとも違い、極めて初歩的なところから・・・対位法への取り組みが始まります。

第2巻以降では「ハンガリー風」だの「ユーゴスラヴィア風」だの、さらには「バッハを讃えて」とか「シューマンを讃えて」なるタイトルが現れ、(ついでながら、日本の古謡・童謡も3曲現れます!)学ぶ生徒はいっそう興味をひかれるようになっているのですが、第1巻においてすでに、長短2種ではなく、(エオリアを含み、ロクリアは含まない)教会旋法、すなわちある意味で過去から連綿と東欧世界の人、いや、それにかぎらずどころではない、世界各国の人がその要素で歌って来た多様な旋法が取り入れられ、たとえば「これはリディア旋法だよ」と言った具合に、タイトルと音階で練習曲の前に明示してあることにも注目しなければなりません。

これがまた曲者(くせもの)で、33番などはエオリアとフリギアの2つの旋法を用いているのを明示しているので、まだ「そうなのか」と納得しやすいのですけれど、22番が「ドリア旋法だよーん!」と示されたとたん、さっそく
「え、なんで?」
とツボにはまります。
ドリア旋法は、階名称では「レミファソラシドレ」にあたり、22番の左手は調号なしで素直にそう読めるんですが、右手はそれではしっくりきません。・・・じつは、左手よりも終止音を五度上げたドリア旋法になっているのです。これは、試しに22番の右手を五度下に移調して弾いてみると、はっきり分かります。
これと同じことを、いろいろな旋法でやっているのが、26番、29番、30番です。(こういう類いのことは、本には書いてありませんから、自分で試して発見するしかありません。肯定的にいえば、自分で発見出来る楽しみが残されているところもまた、「ミクロコスモス」の魅力なのです。)

また、リズム面でも、第1曲のヴァリエーションから、練習する生徒は(真面目すぎると)戸惑わされることになりますが・・・これは実際に楽譜をお手にとられる方のお楽しみ、です。

25番の調号の位置も、ビックリネタです。#は1個の場合、「F」の位置に付くのがロマン派までの常識ですが、バルトークは「Cis」の位置に付けています!・・・これで旋法を「長・短」いずれでもないものに変貌させてしまっています。
第1巻の最後の2曲も興味深い作りです。
35番の「コラール」は4拍子で書かれていながら、じつは3拍子を内蔵しています。山崎氏によれば、それは演奏者は認識しておかなければならないが、聴衆の耳にはそう聴かせてはならないものだそうです。
36番の自由なカノンは、上声始まりで下声が追随、という部分と、その逆とを、最終的には巧みに入れ替えますが、それまでに2回、フェイントプレーをしていたりします。

・・・いずれにせよ、これは音譜が読めないと無理だという制限がありますが、「ミクロコスモス」は、最初から「聴いて」ではなく「弾いて」楽しむように作られていますから、是非、この際、お手にとってみて頂ければと思います。



「ミクロコスモス」のことばかり長くなりましたが、これはバルトークが試みたかったことのうちのなかの一例に過ぎないとはいえ、彼が「音楽」を熟考した上で
「なにをしてみたいか、何をして行くべきか」
を明確に示してくれる貴重な作品であることは間違いありません。

で、それを目にした私がそこから受けとめた、「バルトークが試したかったこと」というのは、

<音楽とは、決して単純に「世界の共通語」なんかじゃない。所変われば個性が違う。それが当然なのだ。言語と同じなのだ・・・だが、音楽によって知覚される対象は、幸いにして「音」のみであって、語彙が理解出来なくても意思を伝えるには充分、である可能性は非常に高い。それを列挙し、違いを感じてもらうことはもちろん、それでもなおかつ人間として心に残る共通の深いメッセージがあることを明示出来るのであれば、そのようなことを実現させてみたい>

というものなのではなかったのかな・・・と、これはまた勝手な妄想ですが、斯様に感じた次第です。
(バルトーク自身は考えても見なかったでしょうが、私はふと、現代のコンサートのあり方に新機軸をもたらすヒントが、こうした彼の発想の中から派生して来るように感じているところです・・・余談。)

バルトークが試したかった、と私の推測した音楽のあり方は、私たちの「今」とは絶対に切り離し得ない性質を持ったものだ、ということにも気づかされました。・・・戯言を続けてしまったのは、このことで受けた大きなショックによるものでして、あらためて深くお詫び申し上げます。

まだまだ整理しきれませんけれど・・・一応、本日はここまで。

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・・・「ミクロコスモス」の最も良い校訂譜は春秋社版のものかと思いますが、他に音楽之友社版もあります。ただ、ピアノにお詳しくないと、どちらもある意味、とっつきにくいところがあります。
最も価格が安く上がるのがドレミ楽譜出版のものですが、編訳者の清川美也子さんがひとつひとつの課題に注釈をつけている親切な楽譜でもあり、「入門用」としては最も優れていると思います。(独学の素人には巻末注や校訂報告より、楽譜の脇に簡潔に適切なアドヴァイスがあった方が助かりますから、私はこれを選びました。Ⅰ〜3巻と4〜6巻という、良い区切りでの分冊になっている点でもあり難いと思っております。)

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2008年4月11日 (金)

音楽と話す:楽譜って、どんな姿?(2)

前回、楽譜さんが見せてくれた「姿」は、文字と記号ばっかりで、そこから引き出される<音楽>はいったいどういうものなのか、見ただけでは皆目見当のつかないものでした。

で、辟易した私が、おそるおそる楽譜さんに質問するところから始めます。

「あのー・・・」
「なにか?」
「やっぱり、字とか記号ばっかりだと、よく分かりません」
「なにが?」
「ここにかかれた曲って、どんなメロディなのか」
「約束事を覚えれば簡単でしょ?」
「いや、その約束事を覚えるのが、タイヘンでしょう!」
「どのへんがタイヘンなんですの?」
「音の高さに、いっぱい名前がついてるじゃないですか」
「長さにも名前がついている場合がありますわね」
「それを全部覚えなくっちゃ、結局読めないんでしょ」
「あら、別に、自分で読もうなんて思わなくてもよろしくなくって? 読めるかたに読んでもらって、歌ってもらって、それを覚えればよろしいんじゃないの?」
「・・・いや、まず、そういう知り合いがいないし・・・」
「まあ、お友達作りがヘタですのね」
「(余計なお世話だ)・・・いや、仮にいたとしてもですね、歌ってもらったのを覚えるなんて、そんな記憶力の自信もないですし」
「でしたら、こんなのはいかが?」

楽譜さんが出して見せてくれたもの。

・神楽譜(増本喜久子「雅楽----伝統音楽への新しいアプローチ」所載。音楽之友社1968)
Hukagurauta


・初期ネウマ譜(水嶋良雄「グレゴリオ聖歌」所載。音楽之友社1966)
Huneuma


「な、なんですか、これ?」
「線で、メロディを表したのよ。これなら、なんとなくカンで、テキトーに歌えちゃうんじゃないです?」
「・・・」

かえって、分かんねー!!


・・・なるほど、歌詞に対応する「相対的な」音の高さ、或いは抑揚を表している点で、これらは文字譜よりも「音楽のイメージ」を目に捉えやすくしている・・・ような気がします。 ですが、現実に歌ってみようとすると、文字譜に比べ、具体的にどんな音の高さから歌い始めたらいいのか、どんな節回しを使ったらいいのかが分からないので、実用性という面では、「一歩後退した」ものであるのかもしれません。 ただし、「後退」とは「独習」を前提とした場合に、のことであって、これらの線的な「楽譜」は、実際には独習向けではありません。

最初に例示した雅楽の神楽歌の譜は現在でも用いられているものですが、習得するに際しては、この譜を前にして、師匠から口伝で唱法を含めてフシ(メロディ)を教わります。なお、線の切れ目や上下に、補助のために音の高さやブレスの位置が記されています。

初期ネウマは、ここに例示したものは現在はもう実用に供されていないはずですが、使われていた当時は、やはり修道士たちが唱和する際の「補助」として用いられたのでしょうね。一人で歌う場で使われたのではないのでしょうから、具体的に「こういう音の高さだよ」という目印は付さずにすんだのではないかと推測しております。ただし、それではさすがに、歌ってもらう領域を拡大しようと試みる際には不便だったと見え、例示したものとそう隔たらない時期になると、真ん中や上下に線を引き、その線の位置がヨーロッパ音名でいう「C」である場合には「C」、「F」である場合には「F」という文字を左端に付けて、音程の明確化をはかるようになります。
ネウマ譜を何とか手軽に読みたい、と思う場合には、たとえば白水社「図解音楽事典」の186頁にネウマの記号の対比表が載っていますし、E.カルディーヌ「現代聖歌学に基づくグレゴリオ聖歌の歌唱法」(水嶋・高橋訳、音楽之友社2002)に、音高記譜法採用後のネウマ譜と対比した説明(12〜20頁)や譜例(48頁)があって参考になりますが、上記例のネウマを用いての例示ではありません。元々何通りもあったネウマのすべてを尽くしての説明書は素人の手に出来るところには見当たらないようです。

なにはともあれ、前回の文字譜といい、今回の線的な譜といい、楽譜は本来、どう記すべきか、についての考え方が一種類しかない、と考えてしまうのは誤りであることを、存分に思い知られてくれます。



という次第で、本論、今日はおしまい。


杉山氏の「『三島由紀夫』の誕生」、是非宜しくお願い申し上げます。(AMAZONにリンクを貼ってあります!)〜あくまで私の勝手な宣伝で、杉山氏から私が見返りを頂戴できるわけではありません!・・・それだけ、この本に「惚れ込んだ」というだけでございます、ハイ。



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2008年3月20日 (木)

音楽と話す:楽譜って、どんな姿?(1)

楽譜さんとの会話は、

「わたし(=楽譜)は、もともとは姿かたちが見えないものなのよ」
「へえー、そうなんですか、知らなかった!」
「でも、見えないから、誰よりも何よりも美しいのよ! お分かり?」
「ヘヘーッ!(平伏)」

という、とにかくもう、あちらさんの一方的な押しつけにただ「納得させられる・納得した振りをする」しかない状態で始まってしまいました。

「でもですねえ・・・」
そう、反論するところから、進めて行ってみましょう。

「でもですねえ」
「なんですの」
「仮でもいい、なんとか、あなたのお姿を、この目で実際拝見するわけにはいかないんですかねえ」
「難しい注文をなさるのね」
「は? そんなに大変ですか? だって、あなたの分身さんが、楽器やさんにいっぱい並んでるじゃないですか?」
「じゃあ、そこで私の姿はご覧になっているのだから、これ以上、もう御用はないでしょ。さようなら」
「あ、待って下さい、違うんです!・・・その分身が、ほんとうにあなたのすべてなのか、というと、そうじゃありませんでしょ? そこのところを、何とかお教え頂きたいのでして・・・」
「でしたら、お店で売ってる<私の分身>なるものを沢山お集めになって並べてご覧になれば、わざわざわたしから聞き出さなくたって、ご自分で分かるんじゃないですか?」
「そんなもんですかねえ・・・」
「さよなら」
「あ、だから、ちょっと待って下さい! じゃあ、こういうかたちで見せて頂くのは如何? そう、お店じゃお目にかかれない、でも<目で見られる分身>というのも、あなたはお持ちなんじゃないですか?」
「・・・まあ、なくはないかな」
「とりあえず、それでいいですから。」
「・・・なんだか失礼なもののいい方なさるかたね。まあ、いいわ。でも、それをご覧になっても、多分、私の美しさはお分かりになりませんわ」
「そんなはずありませんよ」
「本心でそう思ってらっしゃる?」
「心から!」
「仕方ないわねえ。じゃあ、とりあえず、こんなところから。これはちょっと、お店とやらではお目にかかれないものばっかりでしょうから」

そう言って楽譜さんが、空中に向かって三枚ほど、ぱあっとまいたものがありました。
4つ目だけは投げつけてきました、石の板! あぶないことするなあ!

こういうもの、です。

1番目
Hugagakukan

2番目
Huutaieguchi

3番目
Husou

最後
Hugreek

「・・・???・・・」
「どう?」
「これ、楽譜さんの分身なんですか?」
「そうよ。なにかご不満でも?」
「字、バッカリですね」
「だって、私を目に見えるようにするために、人間という連中が最初にやったのは、このかたちからですもの」
「・・・でも、ちっとも分からない」
「分かりたかったら、それぞれに専門に携わっている人間さんがいらしゃるから、そう言うかたに教わりに行きなさい。私からは紹介してあげられないから、自分で探してね」
「むう・・・」



「書かれた楽譜」の起こりは、音楽の起源同様、分かっていませんよね。
ですが、音楽の起こりよりは少々推測しやすいのは、「歌う」に当たって、歌の姿を「何とか書きとめておきたい」もしくは「書きとめておいて欲しい」という欲求・要求が起きる、何らかの事態があったからだ、ということは言えるでしょう。

今日あげたサンプルは「文字譜」で、普通に言葉を表現するための文字(漢字、仮名、アルファベット)を、読み方に特別な約束事を設けて「音楽を表現する」ことにしたものであり、「音楽を書きとめる」という面ではいちばん最初に思いつきやすそうな方法がとられています。(<楽譜さん>の言葉にも関わらず、こうした「文字譜」が、本当にいちばん最初の楽譜なのかどうかは分かりません。研究者の方もご存じないことだと思います。エジプトの壁画に、合奏の場面が描かれたものがあって、そこに指揮者のような人が立っていることが多いそうなのですが、この指揮者風の人の手の位置がある音を表している・・・なので、合奏の壁画自体が楽譜なのだ、という説もあったりします。)

選んだ図版は、古代ギリシアのものを除き、「古い例」ではありません。で、各々に、
・単に日常の文字を使うだけでなく、音の長さや高さを表す補助手段を併記している
という特徴があります。これは、古いものをたどって行くと、今回載せたものほど細かい記号の記入がなかったりします。

私は専門家ではなく、正しいことは分かってはいませんので、それぞれについては、ご興味に応じて、<楽譜さん>の仰る通り、専門のかたにお聴きになったり、手引書をお読みになるのがよろしいかと思います。

概略だけ申し上げておきます。

最初のものは日本の雅楽で最も有名な「越天楽(平調のもの・・・越天楽には幾つかの違った旋法を用いたものがあり、それぞれ現代の私たちには全く別の音楽に聞こえますが、これは黒田節のもとになった最も知られている旋律のものです)」。その管楽器のパートを横並びで記したものが「はじめての雅楽」(笹本武志著 東京堂出版)に掲載されていたので、それを引かせて頂きました。
いちばん右に、曲のタイトルや調(旋法)、拍子(テンポ)について記されています。調や拍子については、高価ですが「雅楽 伝統音楽への新しいアプローチ」(増本喜久子著 音楽之友社)が、素人でも出来るだけ詳しく知りたいという時には、今なお最も分かりやすい本です。
・・・で、それぞれの楽器。
篳篥(ひちりき)と龍笛はカタカナと漢数字が使われているのですが、大雑把に言えば、この組み合わせで音程と抑揚が分かる。「でも、長さは分からないんじゃないか?」と思われるか知れません。これは、仮名の表記と右側の点(五線譜などの小節線に当たります)で分かるようになっています。
右端の笙の譜だけ、漢字のようで漢字でないですね。笙は和音を鳴らす楽器ですから、決まった和音を出すための指の押えかたについて記号が決めてあって、それが譜に書かれているのです。その記号が、この、漢字のようで漢字でないものの正体です。

二番目のものは、能楽の「謡(うたい)」のもの(謡本【うたいぼん】)です。能の場合は振り付け用の本も別にあって、見かけは非常に似ていますし、残っている世阿弥の直筆の本には両方が入り交じっている様子が見て取れたりします。この混在型の方が本来は「プロ」用で、「能本」と呼ぶそうです。
「謡本」は、能の台詞が書かれた右に「ゴマ」と呼ばれる点が付されていますが、数種類あることがお分かり頂けると思います。この「ゴマ」によって、フシとリズムが付けられているわけです。謡本の登場は室町後期だそうです。なお、ゴマの他に、抑揚や曲想を示す注記がある点にもご注目下さい。(図版の引用、説明の参考資料とも、三浦裕子「能・狂言の音楽入門」音楽之友社

三番目のものは、中国宋代の楽譜で、右側に五線譜への翻訳がありますが、私には対応関係が理解出来ていません。ただ、二行単位であることは読み取れます。右側の行が、<燕楽半字譜>という、唐代には既に用いられていた音高と長さを表す記号で記されたものです。・・・分からない理由ですが、この譜例では翻訳譜とは長さが必ずしも合理的に知り得ず、詩の韻律の決まり事を併せて知っておかないと読譜出来ないところにあるのではないかと思っております。
(たとえば「介」の記号は音高は西欧で言うAですが、翻訳譜ではこの点では一貫しているものの、付点二分音符にしてあるものと付点のない二分音符にしてあるものがあります。ちょっと細かく言えば、付点が付くのは音楽がそこで区切れる場合のようですが、付点が付かない時にAを表す記号がもうひとつある【人、に似たもの】ので、もうひとつ、西欧で言う「小節」の後半にあるA、もしくは音楽を区切るAを指すのは「介」で、小節の前半のAを表すのは「人」らしい、ということは伺われます。)
柘植・植村「アジア音楽史」音楽之友社

最後のは、皆川達夫著「合唱音楽の歴史」(全音楽譜出版社)に掲載されてた古代ギリシャの文字譜ですが、何の曲を表しているのか説明がありません。・・・で、二行目にあるギリシャ語を現代の五線譜の翻訳譜と対比してみて、ここに掲載された曲のものである、ということがわかりました。・・・でも、あとは元図の二行目以下が翻訳譜の6小節目までの歌詞、ということ以外、読み取れておりません。・・・音程は、どこに刻まれてるんだ?(文字上部の小さな記号だとは思うのですが、手元資料で翻訳譜と対照が上手く出来ません。リズムと複合する要素もあると思いますし、ギリシアの詩の律の知識も必要なようです。)
Hugreekipt

(翻訳譜は白水社「図解音楽事典」による。)

いかがですか?



楽譜さんも曰く、
「どう?」
私、
(うーん・・・そんなに美しかねえなあ・・・)
「何か仰いまして?」
「いえ、別に。」

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2008年3月10日 (月)

音楽と話す:相手を変えましょう!(楽譜)

さて、今までこのカテゴリでは、「音楽さん」に話のお相手をして頂きました。

でも、この「音楽さん」、ガラが思ったよりよろしくない上に(!)、仰ることが非常に難しい!
で、しばらくの間、お話相手を変えてみようかと思い立ちました。

で、話題は、「聴き方」ではなく、「歌い方・奏で方」の方に転じてみたいとも思いました。

「音楽」には、私の思い込んでいる限りでは、演奏するのには二種類の道具がいる。
・・・「楽譜」と「楽器(声も含む)」です。

そこで、この二種類の、どちらと先に接触してみようか、と考えました。

「歌うにしても、楽器を使うにしても、まず<楽譜>ありきだよなあ・・・」
安易な発想で、
「じゃあ、まず<楽譜>さんのところへ行ってみよう!」
ということにしました。

・・・これがまた、とんでもなく面倒くさい相手になるとは、予想もしていませんでした。。。



どうやったら楽譜さんと会えるのか、実は、全く見込みもないまま出かけてきたのです。
で、大声をあげても恥ずかしくない、ひろーい空き地を何とか探し出し、呼んでみました。
「楽譜さん、楽譜さーん!」
「どなたぁ?」

誰かの応えてくれる声がしました。
でも、私の耳が悪いのでしょう、どこから声がしたのか、見当がつきません。広場の横、上、下・・・360度ぐるっと見渡しましたが、どんなものの、どんな影も形も見えません。

「あのー、名乗るほどのもんではないんですが・・・」
「なんか用なの?」
「いや、お美しいとご評判のあなたに、是非サインを頂きたくて」
「あら、わたし、サインなんか差し上げるようなガラじゃあないわ・・・あなた、何か変なことたくらんでるんじゃないの?」
「いや、確かに変人ですが・・・変なことってどんなことです? 何もたくらんじゃいませんよ」
「ホントに?」
「ホントに! ただ、わたし、音楽が心から好きでして」
「まあ、いいことですわね」
「で、音楽をいちばん美しく表現していらっしゃるのは楽譜さんだ、と伺ったものですから」
「あら、おじょうずですこと!」
「いや、伺って、心から、そのとおりだと思ったんです。ですから、そのお美しさを、ただ一目でも拝見できれば・・・それだけでいいんです」

「わたし、そんなにキレイ?」
声は、します。
「・・・あの、そう仰られても・・・どこにいらっしゃるんですか? 見えないんですけれど」
「あらまあ、失礼ね!」
「失礼でしたか、ごめんなさい。 でも、どこに?」
「いるじゃない!」
「え?」
「あなたの目の前に」

・・・呆気にとられるしか、ありません。本当に何も見えないんですから。



楽譜さんとの本格的なお話は、また先になります。
でも、見えない理由だけは述べて、今回の話を区切っておきます。

有名な歌手の方でも、「楽譜が読めない、書けない」って人がいますよね。
カラオケの上手い人でも、楽譜なんか読めない人、いっぱいいますよね。
ここで「読めない」と言われている<楽譜>は、書かれているものを前提にしています。
ですが、<楽譜>を<読めない>人が、どうしてステキな歌を歌うことができるのでしょう?

それは、書かれてはいなくても、ステキな歌を歌う人の心の中には、その人なりの、音符や記号や文字ではない<楽譜>が、実はあるからなのではないか、と、私は思います。

小鳥は当然<楽譜を書く>などということは出来ません。
ですけど、種類が決まっていると、その種類に応じて、きちんと決まったメロディの「歌」を歌うことが出来ます。

人間にとっても、音楽は、本来「書かれたもの」ではありませんでした。
いまでも、書かれた楽譜などというものの存在しない伝統音楽は、世界各地に広がっています。
それは人間が文字を手にする遥かに前から、父母や祖父母や長老、あるいはみんなから「あいつは上手い」と認められた名手によって、あるいは口伝えで、あるいは手取り足取り体全体を使って後進に教えられながら、ずっと歌い継がれ、奏で継がれてきたものです。

では、小鳥の歌、書かれたもの無しで伝わりつづけている音楽・・・これらは<楽譜>に無縁なのでしょうか?

<譜>というものが記号を意味する文字である以上、あるいは英語でもそれがNoteとよばれるものである以上、書かれたものでなければ<楽譜>ではない、というのが、学問的には正しいのかもしれません。

そこをあえて、私は「違うんじゃないですか?」と言ってみたいのです。

そう、本来、<楽譜>は耳に伝わってくる音そのものを「真似る」方法を指すものなのであって、かたちを問わないのではないでしょうか、と・・・かなり無茶な話ではありますが・・・とりあえず今回は仮定しておいて見たい。

そうすると、
「カラオケは好きなのに楽譜は読めないんだよな」
なんて悩みが、ある意味ではどれだけ的外れか、についても<楽譜>さんと話を進めやすくなると考えているからです。

身振り手振りを習うのも、口真似も、<楽譜>のうち。



ということで、今回のお話のまとめは、極めて簡単。

「わたし(=楽譜)は、もともとは姿かたちが見えないものなのよ」
「へえー、そうなんですか、知らなかった!」
「でも、見えないから、誰よりも何よりも美しいのよ! お分かり?」
「ヘヘーッ!(平伏)」

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2008年3月 4日 (火)

音楽と話す(番外):そうは言っても何から聴けば?(CD。注意:最後はクラシック限定!)

音楽さん(なんだか、思っていたより品の悪いやつでしたね)と、取り留めもないお話をしてきました。
とりあえずは、「聴く」ということについて、対話をしてみました。

まず「聴く」
「想う」心
「さりげなく」聴く

の3回(それ以前にも3回ほどお話しましたが、一旦忘れましょう)、このテーマでお話してみたところが、

「音楽の<種類>だのなんだの、という選別をしないで、<強く心に残ったもの>を、大切に・・・最後の響きが消えるまで、静かに耳を傾ければよい」

というのが、音楽さんの意にかなった「聴かれ方」なのかなあ、という結論に達したのでした。



そうは言っても・・・と、今日は「音楽さん」にはご登場頂かず、私だけが勝手にしゃべりまくります。

「今まで心に強く残ったもの、というのではなく、新鮮な出会いをしたいんだよ」
と仰る向きも多いかと存じます。あるいは
「まだよくわかんないけど、とにかく聴いてみたいんだ」
ってこともあるかもしれません。

かつ、ちまたにはまず、CD店舗には、どこから手をつけたらいいのか分からないくらい無数のCDが並んでいますし、
「これじゃあ分からないや、適当なガイドはないか」
と本屋を漁ってみると、これまた「CD紹介本」が、また無数に「この本に書いてあることこそ本物!」みたいな謳い文句で並んでいます。
中にはCDを紹介せずに曲だけ紹介しているようなものもありますし、そうした類いのものを初めて手にしたときは
「こっちのほうがよっぽどましかな」
とも感じたのですが、よくよく考えると不親切ですし、書き手に「音楽に対するその人の本当の思い」を隠しているのではないか、という・・・悪く言えば<逃げ>の姿勢も感じるようになり、あまりお勧めしたい気にならなくなりました。



「入門CD」と称するものもあまた出ていまして、そういう類いのものから入るのも、以後の興味を広げていく、という点では、良い方法の一つなのではないかな、というのが、実感です。
私自身、少年時代にクラシックを聴く幅を広げていったきっかけは、当時では750円という破格値で、小遣いをちょっと貯めれば自分で買えた、グラモフォンの宣伝用のサンプル盤でした。この頃はまた、CBSソニーなども、そうしたサンプル盤を出していました。

また、数年前になって「民族音楽」に興味を持ち出したときも、何から手を出したらいいのか分からなかったので、Victorの「ワールド・ミュージック・ベスト」というCDを手にしました。

ジャズは・・・難しいですね。わりと古めの系統なら、ジャズ好きの人に勧めてもらって、極端に言えば「ガーシュウィン」だの「デューク・エリントン」だの「ビリー・ホリデイ」だのと、最初から決め打ちして聴くのはラクですけれど、案外、そこから先に進むのが難しい。マイルス・デイビス(名前くらいならご存知でしょうけれど)って言われた途端、これだってもうジャズ・クラシックに入ってしまうのでしょうけれど、もうそこでストップ、というのが、私の経験です。
かつ、「ジャズ」と一口に呼ばれているものは、本来は一口では言い切れないほど、意外にもたくさんの種類の音楽を含んでいて(厳しい人は、ラグタイムを「ジャズ」とは言わないでしょうし、ビッグバンドとトリオなどのセッションもまた全然違う代物です。ボーカルが入ったものは「ジャズ」を冠していても、とくにモダンジャズの愛好家からは、「ジャズ」そのものだとは思われていないのではないでしょうか?)、これについては、すみませんが、私はお手上げです。これは、最後に申し上げる「伝統」ということと関係がある、と思っております。

ポップ系(といわれるもの)だけは、やっぱり十代の頃の思い出の強いものにしか手が出ませんで・・・これは身近でいろいろな好みの人が豊富にいますから、「新鮮な」を狙うのでしたら、好きそうな人に教えてもらったり借りたりするのが早道ではないかな、と思います。ただ、最近の動向としては、ドラマの主題歌やCMソングで流行するものはお店のわかりやすいところに並びますので、手が出しやすい。手を出してしまう、ということは、もうその時点で、歌をも歌手をも気に入っている場合が多いので、そこから先は同じ歌手のアルバムを徹底して聴いたり、その「アーチスト」が影響を受けた、と称する歌手やバンドへと手を広げていったりすることは、そんなに難しくなさそうです。(娘の様子を見ていての感触ですけれど。ただし、娘は飽きっぽいので、こないだまでエグザイル、エグザイルと騒いでいたのに、もう次を物色しているようです。かと思うと「ビートルズが聴きたい」とか言い出すので、もう、オジサン、ついていけません!)・・・この系統についてだけは、ですから、何を入り口にしたらいいのか、ということをあまり考える必要はない気がします。



演奏家についての知識もなく、曲についても何にも知らず、というときに、他のジャンルのことは分かりませんが、クラシックなら、
1)お勧めしたくない方法
2)お勧めしてもいいかな、と思う方法
の二つがあります。


1)お勧めしたくない方法

「クラシックCD案内」の類いの本を読んで選ぶことは、やめたほうがいいでしょう。(ご著者や出版社の営業妨害をしたいわけではないんですけど。)

瞥見した限りでは、この手の本は、必ずといっていいほど著者の価値観を押し売りしているようなものです。中には、一つの曲についていくつも候補が並べてあって、一見公平な評価をしているのではないか、という印象を与えられもするのですが、世の中、本当に「公平」な目などというものは存在しません(と、ここに綴っている私自身が、こんなこと綴ってること自体、既に公平ではないでしょう? ややこしいけど。)

どうしても「何か(もしくは誰か)のガイドがないと手を出す勇気がない」というのでしたら、クラシック好きなお友達がいれば、その人に
「いちばんお勧めを<1枚だけ>貸して!」
と頼むのが、最も無難でしょう。
・・・で、借りて気に入らなくても、
「ありがとう、あれ、とてもよかった。でも、他も聴いてみたいな。だけど、いっぺんにたくさん、はまだ無理だから、また<1枚だけ>」
って、ちびりちびり借りるのが、お金もかからず、友情も固まり、たいへん結構なのではないかと。。。

・・・ポイントは、1回に1枚以上は借りない、というところですから、ご留意下さい。

お友達がいない場合は、本に手を出さざるを得ないということになりますねぇ・・・
仕方ないか。

「書物占い」って、ご存知ですか?
その方式でCDを選ぶ。
「私に合う曲、合う曲・・・」と、心に念じて、「えい、気持ちが決まった!」っていうところで本を開く。
そこに載っているCDを買って聴く。
・・・気に入りませんでしたか? でも、占いの神様のご選択、もとい、ご託宣ですからね。気に入るまで、我慢して繰返し聴くしかないですね。

初めてクラシックをお聴きになるのでしたら、くれぐれも、本の「深読み」はなさらないことを、重ねてお勧めいたします。


2)お勧めしてもいいかな、と思う方法

<1枚もの>の「クラシック名曲集」から聴いてみるのが、いちばん手軽です。

最近は、3枚組1,000円などという、超お徳用盤もありますけれど、はじめてクラシックを聴く人が3枚まとめて聴いたとして、はたして何曲印象に残るでしょう?
「せっかく、もっと枚数が多いのがあるのに!」
と思っても、1枚1,000円、から始めるのが良いと思います。

事前に「どんな演奏家がいいか?」とか「どこの会社のがいいか?」とかいう情報は、極力仕入れないで、まっさらで聴いてみる。

そのなかに、
「あ、この曲は!」
と、ピンと来るものが、ひとつだけでもあればいいのです。
それだけでも、投資額1,000円だったら、損した気分にはならないで済むと思います(保証の限りではありませんが)。

で、ピンと来た作品の何が気に入ったかによって、その曲は誰が作ったか、どんな名前の人・団体が演奏しているか、あたりに注目して、その作曲者もしくは演奏者のCDを個別に探すことからスタートすると、ちょっとワクワクするんじゃないでしょうか?

作曲者の伝記とか、演奏者の評判とかは、後から知ればいい。
・・・そういう意味では、この入り方では作曲者はどうしても有名な人に限られるでしょうからいいとして、演奏者については、本当なら「いままで、この人、知らなかったなあ」、または「ちょっとは聞いた事がある名前だなあ」くらいとの方が、望ましいような気がします。有名な人だと、今までその人の演奏の録音なんか聴いた事がなくっても、なんとなく世間での評判を頭の片隅で覚えているものでして、それが演奏を聴く場合の先入観になります。
まあ、でも、結果的に「いい音楽だなあ」と思えるものがあって、それがたまたま知っている有名演奏家のものだったとしたら、それはそれで構わないことでして、こだわるほどのことではないかも知れません。
・・・これで、ポップ系と、やっと同じ土俵に立ちましたかね。



「クラシック」で、気をつけなければいけないのは、呼び名から伺われるとおり、本来こう呼ばれている音楽は「伝統音楽の一種」だということです。

日本では、特に最近は、映画音楽としてとか、ドラマ・CMに用いられるのが元で急に有名になる「クラシック」が多いのですけれど、そうしたことから「クラシック」に入っていくと、ともすれば「クラシックってムード音楽なんじゃないの?」という勘違いを起こしがちです。
また・・・うちは家族で大好きでしたので「のだめカンタービレ」を一生懸命見ましたけれど・・・そして、このドラマには個人的には亡妻の思い出も強く重なるのですけれど・・・、いかに舞台を「音楽大学」にしたものであっても、ドラマで演じられる際に用いられる「クラシック」は、やはりドラマの「ムード作り」のために選曲されているのでして、「クラシックそのもの」の聴かせ方ではありません。「金八先生」や「ごくせん」の教師像が、現実の教師像ではないのと(例えは悪いですが)、同じことです。
で、ドラマの中のキャラクター(音楽も、です)は、ドラマの中のキャラクターとして楽しみ、場合によっては自分の生き方の理想にすることは、別段構わないとは思います。

とはいいながら、くどいですが、ドラマ等の中のキャラクターとしての「クラシック」は、「クラシック」そのものではありません。
で、もっとくどくなりますが、「クラシック」と普通呼ばれている音楽は、実のところはその直訳の「古典」では決してありませんで、大体18世紀後半から今世紀の「クラシック系を自認する」作曲家の作品に限っての呼び名と考えれば、ほぼ間違いないでしょう。(とくに、18世紀から20世紀前半にかけては、ヨーロッパというローカルな世界での伝統音楽の一種だと見なしてもいいかも知れません。・・・あ、これは、ややこしかったら忘れて下さい。)
長話ついでに、「クラシック」と銘打ったお店の棚では、さらに「古代からルネサンス」とか、「バロック」とか、「古典派・ロマン派」とか「現代」なんていう区分けがなされていますけれど、これはお店の都合上の話で、<「バロック」以前もクラシック>だというふうには思わないで頂いた方が、後々よろしいのではないかとも思います。(これにはあんまり神経質になる必要はないでしょうけれど。ただし、本来、「中世〜バロック〜クラシック」は日本の伝統音楽の流れになぞらえれば、「雅楽歌謡〜能楽〜歌舞伎」くらいの様式的な差がありますので、一緒くたにするのは誤解の元ではあります。)

で、「クラシック系」を自認しているはずの作曲家が「クラシックって、古くからの同じ曲を違う人がまた演奏する、っていう、ヘンテコな世界でしょう?」などと見当違いなことを発言なさっていて苦笑してしまったことがあります。

「クラシック」は、伝統音楽の一種ですから、いろんな人に繰り返し演奏されることが前提で、「同じ曲」の録音が別の演奏家によっていくつもなされているのはそのためだ、というわけです・・・これ以上へ理屈をこねると長くなりますから、いまはこれくらいで抑えておきます。
「はあ、そんなもんですかいな・・・」
と、とりあえずはご了解頂きたいと存じます。
敢て付け足すなら、ジャズやポップ、欧米以外の伝統音楽は演奏者と切り離しては考えられないものが圧倒的に多いのですが、クラシックは作曲者と切り離せないのが通常、という特徴があります。



ああん、なんで私が綴ると、こんなにわけ分かんない、小難しい文になるんだろう!

「能力ないからだろ!」
・・・はい、仰る通りで。

以下、いくつか、<1枚もの>のクラシックCDを挙げておきます。
ただし、実のところ、私自身は聴いていませんので、ご自身の選択眼でお選び頂くしかありません。その点はお許し下さい。

ウィリアム・テル序曲~管弦楽名曲集-1Musicウィリアム・テル序曲~管弦楽名曲集-1


アーティスト:オムニバス(クラシック)

販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント

発売日:2003/07/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

フィンランディア~管弦楽名曲集-2Musicフィンランディア~管弦楽名曲集-2


アーティスト:オムニバス(クラシック)

販売元:コロムビアミュージックエンタテインメント

発売日:2003/07/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

モルダウ~管弦楽名曲集Musicモルダウ~管弦楽名曲集


アーティスト:オムニバス(クラシック)

販売元:ユニバーサル ミュージック クラシック

発売日:2003/06/25
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Musicおもちゃの交響曲〜母と子のクラシック名曲集


アーティスト:プロ・アルテ管弦楽団

販売元:BMGビクター

発売日:1995/03/24
Amazon.co.jpで詳細を確認する

・・・うーむ、オーケストラ曲に絞ってみたら、昔と違って「ロシア」だとか「フランス」だとかに分かれていて、思ったほど見つかりません・・・
(ピアノほか、独奏・独唱曲や室内楽は、できれば演奏の技術的な「質」にある程度興味を持ってから入った方が良いかと思いますので敢て挙げませんでした。)



こうしたオムニバス盤で気に入ったものがあったら、お勧めはsergejOさんの運営するこちらのサイトです。

http://look4wieck.com/

偏らない情報を豊富に収集しているのには、脱帽でございます。

すみません、ダラダラした長文になってしまいました。

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2008年2月28日 (木)

音楽と話す:「さりげなく」聴く

私のことですから、後に続く文は、例によって小難しくなってしまうと思います。
ですので、今日あったことを前置きとして、まずお話することをお許し下さい。

昨日最悪だった風邪が、今日の朝も思わしくありませんでしたので、迷いましたが、2日連続で仕事を休みました。
昼間で寝ましたら、昨日までに較べて、格段に元気が出ました。
昼食は、近所の松屋に、いつもどおり豚丼330円を食べに行きました。
食べ終わって、風邪薬と抗ウツ剤を取り出しましたら、カウンタでバタバタしているはずの店員さんが、ひょい、とコップ一杯の水を出してくれました。
あまりにさりげなかったし、こんな経験は初めてでしたので、初めはビックリしました。3人いたカウンタの中のどの店員さんが出して下さったのか分かりませんでしたが、薬を飲みつつ、なんだかほんわりと幸せな気持ちになりました。ありがたく、コップ1杯の水を頂戴しました。
お礼を言えなかったのが心残りですが・・・幸せの余韻に、しばらく浸ることが出来ました。
明日は、無事出勤できそうです。



本題。
「こないだの宿題ですがね」
私は、おずおずと音楽さんに近づきました。
二週間と三日ぶりのことです。
「・・・分かったかね?」
「いえ、あんまり。・・・でも、ちょっとだけ」
「ほう・・・その、ちょっとだけ、を仰ってみて下され」

音楽さんがこのあいだ置いて行ったのは、オーケストラの演奏が華々しく終わった瞬間、拍手が起こる、というものでした。
 はこうでした。(色の変わったところを右クリックで別ウィンドウで聴けます。)
 は、こうです。(色の変わったところを右クリックで別ウィンドウで聴けます。)

「最初の方の拍手は、演奏が終わると同時に、音楽の残響が会場に残る暇もなく鳴り出しました。あとのほうのは、拍手までに、ちょっとだけ間があります。」
「うん、耳の付けどころはいいようじゃな。それで?」
「はい・・・最初の方は、いかにも<終わるの待ってました!、曲はもう充分知ってましたから>ってかんじで。熱がこもっているのは悪くないと思うんですけど。」
「あんたは、<待ってました!>については、どう思いなさる?」
「嬉しくないですね。もしその場にいたら、音の広がりがすっかり消えるまで聴いていたかった。」

音楽さん、笑顔になってくれました。
「いいお答えで!」
私は胸を撫で下ろしました。
「2番目の方も、あっしを演奏してくれたのは、実は同じ人たちなんじゃ。出来も同じくらい良かった。でも、聴いてくれた人たちは・・・このときも、あっしにしてみりゃ、まだまだちょっと早すぎるんじゃがな、いちおう、最後の響きが消えるまで、拍手は待ってくれた。その方が、あっしとしては嬉しいんでさあ」
そうだろう、そうだろう、と、私は、自分が分かってるんだか分かってないんだか分かりませんでしたが、音楽さんの言葉に大きく頷きました。
気を良くしたのでしょうか、音楽さん、こう話を締めくくりました。
「要するにじゃ、聴いて本当にあっしを好きになって下さるなら、あっしが賑やかに終わろうと静かに終わろうと、最後の響きが消えるまで、静かに耳を傾けてもらえた方が幸せなんじゃ。<ああ、このお客さんは、あっしを<お客さん自身の心>だと感じて、あっしと<思い>を一緒にしてくれているのじゃ、と信じることができるからのう」



もっとも、私たちのような、あんまり上手じゃないアマチュア(一緒に演奏して下さっている皆様、ゴメンナサイ、含私自身ですから!・・・「おまえだけじゃないか!」と仰られれば、「はい、そうです」と申し上げます、ハイ)の場合、終わった瞬間に「熱狂的な拍手」を頂戴することはまずありませんし、かといって、音楽さんが(多分)理想としている「最後の響きを感じ取って、残響が消えて初めて」拍手を下さるのと言うのでもない・・・「ああ、ヘタクソな演奏がやっと終わったか!」と、もしかしたらお義理で拍手を下さっているんじゃないか、というケースが、ままあります。・・・これは演奏の質の問題で、「聴き方」を考えている今の段階では問題になりません。ですから、この件については「演奏について考える」段にまで話が進んでから、きちんと考え直すことにしましょう。


コンサートで音楽が奏でられる、というのは、日常から見れば特殊な時間と空間での出来事です。
ですが、「音楽」そのものが望んでいるのは、日常と変わりのない会話、「奏者と聴き手の間の対話」なのではなかろうか、と思います。
ただ、確かに、日常に較べれば、「会話」の内容は「音楽が伝えたいメッセージ」によって制限を受けます。難しい言葉になりますが、音楽との会話は「思弁的」なもの、すなわち、生活とは切り離された、純粋に頭の中で、胸の内で、感性によってのみ交わされるもの・・・少し理想化して言えば、
「ああ言えばこう返ってくるだろう、その時はどうしてやろう」
などといった計算事の働かない、不純物の入る余地のない「結晶」の中で「奏者と聴き手」が一体化することによってなされる。

繰り返しになりますが、ひとことにまとめれば、
「音楽は<奏者と聴き手>の会話の結晶である」
・・・そう表現することがふさわしいのではないかと思います。
ですから、<奏者と聴き手>の間に純粋な会話が成立しない以上、本当に「音楽」を私のものとして持つことも、あなたのものとして与えることも、私たちのものとして共有することも出来ない。

大袈裟なようかも知れませんが、それは「さりげなく」音を出し、「さりげなく」音を聴く、という「さりげなさ」同士が出会わない限りは達成されない。
逆側から見れば、「さりげなさを装うために」どうしたらいいか、という訓練に熱中する者同士では絶対に到達し得ない「会話」でもあろうかとも考えます。
(これは、「演奏者としての技術」の側からみれば、意外に難しいのですが、「聴き手」にとってはむしろ「教養としての音楽」だなんて聴き方を訓練することは、音楽と会話する上では妨げにしかならない点を承知して頂いていることを前提に述べてます。)



最近は分かりませんが、音楽の「残響・余韻」を聴くマナーが過去、日本でいちばん悪かったのは、クラシックファンではないかと思っております。
1970年代から80年代はクラシック界にもカリスマ的存在が結構いました。当時は自分で稼いでもいませんでしたから、大御所のコンサートのチケットはとても手に入らず、テレビで中継や録画を見て我慢したものも多かったのですが、大抵の場合、オーケストラのコンサートは特に、最後に来るプログラムが華やかな音楽ならともかく、静かな音楽でも、音楽が完全に響き終わっておらず、指揮者も棒をおろしきっていないのに、
「ほら、終わった!」
みたいに拍手をはじめちゃう輩がいるのには、ディスプレイ(当時ですからブラウン管、ですね)のこっち側で無性に腹が立ったもんでした。ベーム来日時の映像(ブラームスの第1など)にはそんな有様がくっきり残されていますから、演奏はいいので時々見るのですけれど、曲の最後ではいつも当時の「ガッカリ」を思い出させられてしまい、いやんなっちゃいます。
4543638001422面白いのが、ヨッフムが最後にコンセルトゲボウと来日した際の映像で(昨年やっとDVD化されましたね)、ブルックナーの第7の演奏が終わったとたんに拍手が鳴るのですけれど・・・そして、それは録画で見ると、曲が終わってから少し間があっての拍手に見えてしまうのですけれど・・・、拍手が始まったとたん、ヨッフム氏、楽員に向かってペロッと舌を出してみせるのです。
実は、拍手の鳴り始めたとき、残響はまだ消えきっていないのです。ブルックナーの交響曲は、それこそ「和音のどでかい塊・・・オーケストラのカメハメ波!」ですので、残響もかなり長いのです。ヨッフム氏の「舌出し」の意味は、深いと言わなければなりません。

ポップ系のコンサートは、その点、歌手とお客の距離が近いので、歌が終わらないうちに熱狂してもいいとき、というのと、バラードだから終わるまで静かに耳を傾け、心を傾けよう、という姿勢が初めから奏者と聴き手の間に合意が成り立っていて、中身が私好みかどうかを度外視すれば、コンサートのあり方としては、ずっと好感が持てます。

ジャズバーになると、もっとリラックスした中での、それでいて割合難しい演奏(セッション)があたりまえでなされていますので、慣れない人にはいちばん敷居が高いかも知れませんね。でも、慣れてしまうと、結構理想的な「音楽と日常の、つかの間の共存」を味わうことが出来ますから・・・私は決して慣れていると言うほど出向いたことは無いのですが・・・、「いいもんだなあ」と思います。



長話になりました。

今日の音楽さんとの会話。
音楽さん:「あっしは、あっしが鳴り響く最後の最後まで、お聴きんなって下さるおかたが<さりげなく>耳を傾け、心を寄せて下さるのが、いちばん嬉しいんでさあ。拍手ですかい? 二の次、二の次!」



音楽を「聴く」キホン、は、今日までのこんな会話で、とりあえず充分でしょうかね?

ちなみに、「聴く」ことについての会話は
まず「聴く」
「想う」心
そして今回の
・「さりげなく」聴く難しさ
でした。

毎度お粗末。

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2008年2月12日 (火)

音楽と話す:「想う」心

    誰がおまえを捨てたりしようか、おお、酒よ?
    あるいは私は占い師に従ったのか?
    それとも 心の不安にかられながら、
    血を流す思いで葡萄酒を流したか?

    ----ポール・ヴァレリー、安藤元雄 訳----



くだらんことを、いつでも何も気にせず胸を開いて話せる相手も、今は失いましたので。
前にも綴ったとおり、話すことなんて、ホントは日常の些細なことでいいんですけれど。些事は、いくらブログでくだを巻きまくっても、詮無いことです。
で、ま、そうは言っても、これも些事なのですが、音楽さんとの昨日の会話が不十分でしたので、すこし補足の説明をお願いすることにしました。・・・でも、私の話し方がいけないのでしょうか? テキはなかなかに気難しいのです。ですので、先に謝っておきますが、今日の会話も「訳が分からん」かもしれません。


心を急にわしづかみにしたものを、まず大切に聴く、ってお言葉でしたけど」
「まあ、そんなもんじゃったかな」
「大切に、って、具体的にはどうすればいいんですか?」
「いや、大切に、って、そのまんまじゃが・・・」

「それが難しいんですよ。ウチのカカアを例えに出しますとね、普段、私は<大切に>されたことなんか、おれっぽっちもありませんよ。洗濯物干すのを手伝おうと思ったって,『ああ、あんたの畳みかたじゃダメだから、手えださないで、って怒られる。食器洗いしようとすると、『あたしがやるからいいよ、ありがとね』って言うから、そんじゃあ任そうか、ってのんびり構えてると、『なにボーっとしてんのよ、食器ぐらい洗っといてよ、ボケナス!』『だって、お前さっき、自分がやるからいい、って言ったじゃないか』『そのあと、こっちが様子が変わって手一杯になってんの、見てたら分かるじゃないか! 気いきかすんだよ、こういうときゃ!』なんて具合でしてね」

「あんたが<大切にされる>かどうかの話じゃねえでしょうが」
「・・・しまった! つい、われを忘れました」

「<好き>になる、ってことの入り口でおっかねえところは、それが熱狂的であればあるほど、じつはどんどん、<好き>な相手を大切にする想いから遠ざかることんなんじゃ」
「・・・はあ。」
「熱くなるほど、大切なのは、相手じゃなくて、自分のほうになっていく」
「・・・むむう。」
「あっしなんか、それでこれまで何百回、何万回、何億回、<所詮、こんなもんさ>って感じさせられたことか」

「だって、熱狂の音楽、っていうのだって、いっぱいあるじゃないですか」
「あっしが描いている世界が、熱かったり、狂っていたり、燃えて灰になってたり・・・確かにいろいろありはする。でも、だからって、あっしが世界を描いて見せた後で、それにただ<かっこいい!>とか<一緒に燃えた!>なんて拍手してくるお客は、あっしは疑ってかかるんでさあ」
「それって、さびしくありません? あなたが、そんな猜疑心の塊だなんて・・・」
「ああ、さびしゅうござんすなあ。でも、いたしかたござんせん」

「好きになって欲しくないんですか?」
「そんなわけないじゃろ。じゃが、どうせだったら、ほんとの意味で好きになってくれるお客にめぐり逢いたいんじゃ」
「っていいますと?」
どんな世界をあっしが描いたんだとしても、それは、世界の鏡でしかない、ってことを分かってくれるような」
「またすぐ、わけ分からないこと言い出すんだから!」
あっしという鏡で、あんたが、あんたを映してみてくれるんじゃったら、あっしもあんたを好きになってやりますよ」
「あ、音楽さん、どこ行っちゃうんですか?」
「あんたの頭が少し醒めて、あっしの言ってる事のカケラだけでも分かって、感じておくれなさるまで、ちとそのへんをふらついて来ますわイな」



・・・さて、私は、どうアタマを冷やしたらいいんでしょうか?
・・・簡単さア!
・・・自分が、過去どれだけ「好き」の押し売りをして、うんざりされたり、無視されたりしたかを、「自分の」ではなくて、相手の「想い」から見つめなおせるようにすれば・・・

・・・簡単、じゃないなあ。

さりげなく見つめ、さりげなく笑顔をかわせていれば、本当はそれだけで幸せ、というのが、もしかしたら、本当に大切な、相手を「想う」心、なのかしら。

(でも・・・それは神様が僕からは永遠に奪ってしまったもの・・・)<---詩人の遠い目!



ここで、ひょい、と音楽さんが戻ってきました。
「忘れとったわい! これ、聴いといておくんなさい!」

音が、ふたつ。

「どっちが少しはあっしの気に入っているか、また来るまで当てといておくんなせえ! まあ、あんまり違いが分かんねえかも知んねえけど」

当てといて、って・・・え? これ、どう言う謎掛けなんでしょう?

困った相手だなあ・・・

そうか、もう君はいないのかBookそうか、もう君はいないのか


著者:城山三郎

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2008年2月11日 (月)

音楽と話す:まず「聴く」

「音楽さん、あなたが、好き!」
「!」
「あなたのことが、もっと知りたい!」
「・・・」

私がコミックのヒロインで瞳をキラキラさせて呼びかけるのならまだしも、ヒゲ面のおっさんでは、ひいちゃいますわね。
せめて、さわやかな好青年なら、ドラマ<1ポンドの福音>のシスターみたいに振り向いてくれるかも知れませんが、いまや私は、いかがわしい中年です。

なので、邪念を断って、音楽さんにお尋ねしましょう。

「あなたを、もっと好きになるには、どうしたらいいのでしょう」
「そうさなあ、とりあえず、二つの門があるんじゃが」
「二つ、ですか?」
「<自分で歌ってみること>と、<とにかく聴くこと>の、どっちかですじゃ」
「ははあん・・・」
「どっちが入りやすそうじゃイ?」
「そりゃ、歌うほうでしょう? 風呂場で歌ってると、響いて気持ちがいい、って、みんな言ってますから」
「じゃが、いつも風呂場で歌えるとは限らん、違うかの?」
「・・・そりゃ、そうだ」
「自分で歌ってみる、というのは、そこが難しい」
「難しいんですか・・・」
「風呂場じゃないとこで歌ったら、気にくわなかった。じゃあ、別の場所で、って、そうそう簡単には選べん」
「事務所で歌ったら怒られちゃうしな。それより前に、風呂場じゃないとこで歌ったら・・・私、自分の歌が下手に聞こえてしょうがない。カラオケなら高得点なんですけどねえ」
「・・・うーん、謙虚でよろしい、と申してよいのやらよくないのやら」
「まあ、自分が下手に聞こえる耳を持っている分、謙虚ということで」
「じゃったら、その耳を信用する、ということで」

「はい・・・となると」
「そう、まず、聴いてみるほうから入るのが宜しい、ということじゃな」
「どんなものから聴けば宜しいので?」
「何でもいいんじゃ」
「何でも、ですか? 上手いとか下手とか、これはよせ、とか、ないんですか?」
「ない。」
「ありゃまあ。」
「ただ、条件がふたつだけありましてな」
「というのは?」

「何でもいい、とは言っても、最初からあれもこれも、と思わないのが第1

「最初からいっぱい聴いたほうがいいんじゃないですか?」
「今の世の中では、そういうことも可能ですからのう。でもですじゃ、本当の<好き>を目指すなら、ヤミクモはよしたほうがいい。あの女の子もいいが、こっちの熟女もいい、では、あんた、恋愛だって成り立たんじゃろうが」
「成り立つ人もいますけど」
「・・・あんた、ご自分を分かってらっしゃるかの?」
「・・・あ。」
「一つの曲、ということでなくてもいい。一人の歌手や演奏家、ということでなくてもいい。じゃが、<ああ、これが私の心を捉えるんだ、というものに限って、とことん聴いて、それを愛してみることじゃ」
「でも、そんなんじゃ、逆効果で、あとで<もっといい音楽>に出会っても気がつけない、なんてことになりかねなかったりするんじゃないですか?」
「お、お前さんでもなかなか鋭いことがいえるんじゃな」
「馬鹿にしないで下さい!」
「いや、馬鹿じゃと思っとったんで、すまんのう。それじゃあお尋ねしますがの、<もっといい>には、どうやって気がつくんじゃろう?」
「・・・」
「気がつけるためには、まず、自分の中に、ちゃんとしたモノサシが持ててなくちゃならん。そのためにどうするか、が、もう一つの条件というわけじゃ」
「ほう・・・」
最初に<じっくり>聴く、味わう音楽は、<好き>になれるためのものを、しっかり選ばなくちゃならん、ということ」
「・・・さっきは、<何でもいい>って仰ったじゃないですか?」
「それは、種類の話じゃ。たとえばあんたはたしか、ほとんどクラシックとかいうやつしか知らんらしいが、それがジャズでもロックでも演歌でも、民謡じゃろうがポップじゃろうが、そんな表ヅラにこだわる必要はない、ってこと。もっと狭く言えばじゃ、ジャズはセロニアス・モンクに限る、オーケストラはウィーフィルじゃなきゃダメだ、演歌は美空ひばり以外受け付けられん・・・そんなたぐいの思い込みが、今もし、もうあんたの心の中にあるのなら、全部いったん忘れなされ」
「・・・いや、とりあえず、<何もないマッサラから音楽を好きになりたい>のですから、そんなこだわりはないです。」
「音楽とは、まだ出会いもしていない、という前提で、よろしいんじゃな?」
「はい」
「よろしい。」

音楽さんは、もったいぶって、咳払いをしました。

「簡単じゃ!」
「はあ?」
「まっさらなあんたが、さりげなく耳に入ってきて・・・それまで別のことを考えたり思ったりしていたのに、<あれ?>と、急に心がひっぱられる音楽。」
「はあ・・・」
「それが、まずあんたの選ぶべき、最初の音楽じゃ」
「・・・簡単じゃ、ないですよ!」
「うーむ、そうかのう・・・?」



音楽さんが仰りたいのは、たぶん、「最初の出会いを大切に!」ということなのかもしれません。
ですが、最初の出会いなんか、このご時勢、まず「恋人が欲しい」人にだって難しい。ちまたには、そんな欲求不満があふれているんじゃないでしょうか? 音楽さんの仰ることは、無茶なんじゃないかなあ・・・

・・・いえいえ。

いわゆる、童心に返る、ということに、音楽さんの言い分を「読み換え」ればいいのかもしれません。

音楽になぜ心を惹かれはじめたか、ということは、沢山のかたが、テレビやラジオでも語っていれば本にも書いていらっしゃる。もし音楽好きのお友達がいれば、その人が薀蓄を語りだすのに多少うんざりしながらでも、いいタイミングで、「じゃあ、そもそも何でそんなに音楽が好きになったんですか?」って質問すれば、おそらくは、とっても素朴な答えが返ってくるんじゃないかと思います。そして、その内容は、「自分が歌った、弾いたが出発点だった」というのは、案外、稀なケースなはずです。

「夕暮れに、学校の帰りの放送で、こんな粋な歌を流してくれた先公がいてさあ・・・」
だとか、
「歯医者さんの有線で流れてて、この音楽が鳴っているのにふうわりさせられていたら、気に入っちゃったのよ」
あるいは
「いまどき、飲み屋に流しなんかで来やがってさ、歌ってんの聴いたら、涙が出ちゃったんだよ」
かつ、今の日本では出会いにくいことですが、それでも「ジュピター」の例であったように
「崩れた街をみんなで片付けたり立て直しているとき、いつもこの音楽が、みんなを包んでいてくれたんだよ」
・・・などなど。



以下、お粗末なサンプルで(音楽は、お粗末じゃないですよ!)、かつ著作権を少しは慮って(微妙だけど)、新しいものは選んでいませんが、つづり手としての私が、「音楽さん」の仰った趣旨に近い「出会い」をした歌や器楽を、例として掲載しておきます。どんな出会いだったか「一言ポイント」をワンセンテンス程度くっつけておきますね。・・・参考にはならないのですけれど。

(飲んだくれている頃に、飲み屋さんで)

(7月12日付記:ブログ不具合で「オネスティ」は音声を一旦削除しました)
(コマーシャルで使われてて気に入った。ずいぶん前ね!)

(息子とDVDで見て、なぜだかほろりとして)

(中一の時、きれいな女の子に憧れてる頃に学校で聴かされた)

こんなもんでございます。
ビゼーのメヌエット(「アルルの女」第2組曲って言うのに入っています)だけは、家族旅行のビデオをDVDにする時に、ちょっとだけシンセサイザーの勉強をして、私がアレンジしたものですので、出来の悪さが音楽を損ねていたらごめんなさい。・・・どうしても「思い」が籠っているものなので、載っけちゃいました。

・・・このブログで、クラシックじゃないのをの載っけるのは、珍事でしたかね。


音楽さんのお話の主旨。

音楽を本当に「聴いて好きになる」には

1)あらかじめ選り好みしない。(曲のジャンル、種類、演奏者など)
2)最初に「心を強く捉えた音楽」を、まずは、じっくり大切にする

・・・とはいえ、大変恐縮ですが、綴り手の視野が狭くてクラシックしかよく分かっていない(本当は、クラシックもよく分かってないんですけど)ので、次回からはどうしてもクラシック中心で対話をすることになると思います。ですから、クラシック以外がお好きな方で、もしこの対話にご一緒に耳を傾けて頂けるのでしたら、「クラシック以外だったらどうかな?」という点は類推して頂くことになります。
あらかじめお詫び申し上げます。

毎度、すみません。

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2008年1月31日 (木)

音楽と話す:「響き」か「言葉」か

    人間には港がなく、時間は寄る岸辺なく、
     時間は流れ、わたくしたちは過ぎて行きます。
       ----ラマルチーヌ「みずうみ」から。入沢康夫訳



音楽と話す:(これまで話してみたこと)
いりぐちのおはなし
なぜ、あなたは私の心を動かすのですか?
どうやったら、あなたに近寄れますか?
そもそもどうやって、あなたと出会えたのでしょうね?


・・・音楽さんとお話してきて、別に計画無しにお話しているので、話が堂堂巡りしているのはともかく、分かりやすい言葉だったかなあ、と、何気なく反省して記録を読み直してみました。
思いのほか、
「むずかしいや、こりゃ!」
でありました。
音楽さんが、こないだ黙りこくってしまったのも、無理のないことだったかもしれません。
でも、もう1回くらいは、難しい話をしなければなりません。・・・まずは、音楽さんへのお詫びから。


「音楽さん、ごめんなさい」
「へ、何が?」
「話を、難しくしちゃったかも知れません」
「いや、なんの」
そうは言ってくれたものの、音楽さんは、いま、あんまり明るい顔をしていません。
少し、様子を見ていました。

ようやくのことで、音楽さん、ぼそり、と口を開きました。
「あんた、あっしがどんな生まれか、ご承知で?」
「は?」
「あっしが、どこでどうやって生まれたのか、ご存知ですかいな?」
「・・・いえ、全然。」
音楽さんは、深い溜息をつきました。
「実は、あっしにも、分からないんでさぁ。。。」
いけない、暗い過去の打ち明け話でも始まるんでしょうか?

「気づいたときには、あっしは、響いてたんで。」
「どんなふうに」
「最初気づいたときは、火山が噴火したときの、ものすごい大きさで」
「それは、とんでもない!」
「でも、次に気づいたときは、鳥の声みたいな、可愛らしい声で」
「ステキじゃないですか?」
「いや、なんで、最初と次の記憶がこんなに違うのか、皆目見当がつかねえんで。。。」
「はあ・・・」
「とにかく、あっしは、ただの<響き>だった」
「ただの、ですか?」
「そうですじゃ。それを、あっしに<音楽>だなんて名前を付けたのは、あんたたち、人間さんなんで」
「ほほう。」
「名前を付けたとき、一緒に、あっしに<言葉>ってものをくっつけた」
「言葉、ですか?」
「<歌>とかいうやつなんでさぁ」
「<歌>ですか?」
「で、あっしの<響き>よりは、<歌>ってやつの言葉で、あっしを分かってやろうじゃねえか、って具合に、話がまとまったみたいじゃな」
「整理がついて、良かったじゃないですか」
「ところが、そうでもねえんで」
「整理がつききらなかった、ってことですか?」
「まあ、そういうこっちゃな。<歌>で満足しねえ学者さんつうのがいて、あっしの<響き>が、どう組み合わせたら人間様の耳に気持ちいいか、なんてことを、いっしょうけんめい調べだした」
「言葉とは、関係なしに、ですか?」
「左様。たとえば、1本の糸を用意して、その半分の長さの別の糸を用意すると、同じ音になる。同じように、3分の2の長さの糸を用意して、元の糸と一緒に鳴らすと、それだけで<音楽>がきれいに聞こえるんだよな、とか言い出しやがった」
「<言葉>がなくても、音楽さんは音楽さんでいられる、ってことになったわけですか」
「そうらしいんでさぁ。」
「まあ、これ以上、ますます話が難しくなっても何ですから、このくらいお聞き出来れば、一応充分ですよ」
「ありがとサン。・・・でも、あっしって、ホントはいったい、何者なんじゃろな・・・」

これまで私を半分せせら笑っていたふうな音楽さんでしたが、結局は、私の方が音楽さんを悩ませてしまったみたいです。



音楽にとって何が大切か・・・人間が考えてきたことには、長くて、複雑な歴史があります。
歴史を辿ることは別にやっていますので、以降、音楽さんとの対話そのものは、

・「音楽」はどういう要素から成り立っているか

・そうした要素が「音楽」に仕立て上げられるには、どんなルールが必要か

という方向で進められればいいのかな、と、いまはふと、思っています。それでいいのか?

ひとつだけ、ある方からご指摘いただいていることですが、キリスト教の「聖歌」で何が重視されてきたか、についてのみ、他宗教との比較も少し挟み込みながら、補足をしておきましょう。

こんにちも歌い継がれている古い(カトリックの)聖歌は、ヨーロッパの場合は、4世紀のアンブロジウスという人がまとめたものが源になっているかと思います。
彼の名前を冠した聖歌は、緩やかながら「リズム」が明確で旋律が豊かですので、アンブロジウス自身は、おそらくは「信者にとって歌いやすい」ことを最優先にまとめあげたのではないかと思われます。
ですが、アンブロジウスその人の功績を評価し、聖歌の重要性を訴え、後世に大きな影響を及ぼした教父アウグスティヌスは、旋律やリズムに酔うことが聖歌の主目的ではない、ということを、口を酸っぱくして述べています。むしろ、その歌の「言葉」によって、歌い手がその信仰を浄化させることが大事なのだ、という見解を持っています。

イスラム場合には(文献は狭い範囲のものしか読んでおりませんが)、コーラン【クルアーン】の朗詠を私たち非信者が聴くと
「荘厳な歌だなあ」
と捉えてしまうのですが、イスラム教徒の人にとっては、コーランの朗詠を音楽と考えることは許されない行為です。そこにたとえ美しい旋律があっても、心惹かれるリズムがあっても、それはコーランの心がもたらしてくれるものであって、音楽とは区別して捉えなければならない、ということのようです。

イスラムは厳格な宗教ですから、上記について異なる意見や見解は存在しないでしょう。
仏教については・・・経文を唱えるときには独特の節回しがありますけれど・・・明確な見解はありません。
キリスト教の中でもカトリックの場合は、宗教音楽についてはテキストが固定化されていきましたから、特にルネサンス期以降は「旋律・響きの豊かさ」の方を重視する傾向になっていったのではないか、と、私は受け止めております。たとえばドイツのプロテスタントのコラールは、すくなくとも草々当時は「言葉重視」です。ですが、こちらも、ある行事で歌われる旋律は固定化されていきましたから、結局はその旋律が「信仰」の象徴になり、言葉不要のオルガン作品に用いられるだけで信仰の象徴ととらえられるようになっていきます。

いずれにせよ、少なくとも、「信仰」に関わる音楽(もしくは韻律)は、信心を促進するためには<言葉>が優先される、というのが基本となるのでしょう。


今日の会話のまとめ

音楽:「あっしは、実は、あっしがどうやって生まれたのか、知らんのですじゃ」
私 :「どういうことで?」
音楽:「あっしを<音楽>と呼ぶようになったのは、人間達なんですがね」
私 :「そうですか」
音楽:「それは、あっしがただ単純な<何か>だったから、じゃあねえんです」
私 :「と仰いますと?」
音楽:「あっしが<音と音の響き合いだ>、っていう人もいれば、<滑らかに流れる言葉で心に訴えかけるもんだ>っていう人もいて・・・いったい、どっちがほんとなんですかのう。。。どっちもホントなんですかのう」
私 :「・・・分かりません」
音楽:「・・・そうでっか。。。」

お粗末さまでございました。

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