2008年4月23日 (水)

シューベルトとサリエリ(ラ・フォル・ジュルネ・ジャパンを前に)

この春のラ・フォル・ジュルネ・ジャパンは、シューベルトとそれを巡る人々(恩師、同時代者、音楽的後継者)の特集ですね。

豪華演奏家陣が集まるので、例年魅力を感じながらも、残念ながら同時期に自分の所属する楽隊の合宿なので、聴きに行くことが出来ません。
とくに、歌曲では日本人大ベテランで、モーツァルトのミサ曲の録音などでドイツでも高く評価されている白井光子さんが「冬の旅」を歌うプログラムもあり、
「ああ、行きたかったなあ・・・(すでに心の中では過去形)」
と思っております。

シューベルトのドイツ舞曲とヨハン・シュトラウス二世のワルツを組み合わせて演奏する試みなども、一度は聴いてみたいものでした。ウェーベルンもシューベルトのドイツ舞曲を管弦楽に編曲し、かつ自分で指揮した録音を残しています。この「無調音楽の旗手」にして編曲をさせる意欲を湧かせたほどに、シューベルトのドイツ舞曲はウィーンのその後のダンス音楽(といってしまって言いのでしょうか)、ひいてはウィーン人気質そのものに、強い影響力を持ち続けたのでした。実際、そのオリジナルの室内楽版を演奏するのも、大変に気分のよいものです。

ウィーン以外の作曲家としてロッシーニも登場するのが、また面白いところです。ロッシーニはシューベルトが脂の乗り切った頃、ウィーンを来訪し、たしかにシューベルトに大きな影響を残しています。

その他、モーツァルト、ベートーヴェン、またシューベルトのものに限らず先輩作曲家たちの作品をピアのように編曲し、当時の音楽愛好者に多大な貢献をしたリスト(彼そのものの作品ではなく、当然、シューベルト作品を編曲したものの方が取り上げられるのですが)、また室内楽ではそれぞれ響き作りの先輩、後輩とも言えるウェーバーやメンデルスゾーンの作品も登場するのが、大変興味深く感じられます。


ひとつ、残念なのが、全日程の中で、シューベルトの最大の恩師と言っていいサリエリ(サリエーリ)の作品が2つしか取り上げられないことで、これは出版事情や普及度、サリエリ自身の作品に歌劇以外のものが極端に少ないことを考慮すると、やむを得ないのかな、とは思います。

前にも記したことがあったかも知れませんが、ウィーン宮廷で活躍中は栄光に輝いていたにも関わらず、妻にも先立たれて寂しい晩年を送り、モーツァルト暗殺というありえない嫌疑をかけられたままでヒッソリと息を引き取り、さらに死後はプーシキンの戯曲で「モーツァルト毒殺者」としてのレッテルを完全に貼られてしまい、20世紀後半にはそのイメージを映画『アマデウス』(映画中では毒殺はしませんでしたが)で世界的に広められてしまった・・・サリエリとは、そんな、気の毒な人物です。

ですが、生前の彼は貧しい育ちから宮廷に拾い上げてもらった恩義をずっと忘れずにいたと思われ、貧乏な弟子からはレッスン代を取らずに、それでも懇切丁寧な指導をし、若い後輩達から非常な尊敬を受けていましたし、かつ、サリエリが「毒殺」したと言われることになった当のモーツァルトとの関係では母コンスタンツェの、おそらくはその将来を保証してもらえるため、等の多大な期待を背負って、其の子息がサリエリの弟子となっていたのでした。モーツァルトジュニアは、作曲家としては成功しませんでしたが、ピアニストとしては大成し、彼の弾く父の「ピアノ協奏曲ニ短調」は相当な評判を勝ち得ていたようです(海老澤敏『超越の響き』に記載があったと思います)。

有名な弟子は、ベートーヴェンを初め、当時のウィーンを荷うことになる優秀な音楽家達が名前を連ねています。サリエリは、そんな弟子達の催す慈善演奏会で、コンサートの性質上、さほどの収入は期待できなかったであろうにも関わらず、しばしば出演を依頼され、引き受けていたようです。ベートーヴェンの第7・第8交響曲初演時の演奏に副指揮者として加わっていた、というエピソードが、最も有名でしょうね。
あるいは、多くの慈善演奏会で、ハイドンやベートーヴェンののオラトリオの指揮をしたりもしていました。

そんななかで、シューベルトは、「謝礼を免除されて」サリエリの弟子の一員に加わっていたのでした。

このことも、前に記したことと重複するかも知れませんが、ラ・フォル・ジュルネ・ジャパンのプログラムに取り入れられなかったのが惜しく思われますので、正式に(というほどのものではありませんが)ご紹介しておきたい作品があります。

まだサリエリにモーツァルト暗殺嫌疑の噂が立つ以前、1816年に、サリエリのウィ−ン生活50年を祝う会が、大々的に催されました。
シューベルトは、この会にあたって、サリエリに捧げる祝典カンタータを作っています。
この歌の詞は、サリエリの人徳を称えてやまないものなのですが、決して「おべっか」だとは感じられません。歌詞の内容にふさわしいだけの人的・社会的貢献を、サリエリが積んできたことは、上に記した彼の活動の大雑把な輪郭だけでも、よくご理解いただけるのではないかと思います。

以下、このとき作られたシューベルトのカンタータの詞を、水谷彰良著『サリエーリ』に引用されている、實吉晴夫氏の訳でご紹介します。

<サリエリ氏の50年祝賀に寄せて>(D407)
やさしい人よ、よい人よ!
賢い人よ、偉大な人よ!
私に涙のあるかぎり、
そして芸術に浴みするかぎり、
あなたに二つとも捧げよう、
あなたは二つをこの私に恵んでくれたその人だから。
善意と知恵があなたから、
噴水のように奔る、
あなたは優しい神の似姿!
地に降りたった天使のような、
あなたの御恩は忘れません。
私たちすべての偉大な父よ、どうかいつまでもお元気で!

カンタータそのものも、お聴きになってみて下さい。


AN 1816 SHUBERTUAD (The Hyperion Schubert Edition) CDJ33032



サリエーリ―モーツァルトに消された宮廷楽長 Book サリエーリ―モーツァルトに消された宮廷楽長

著者:水谷 彰良

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2008年1月28日 (月)

モーツァルト:誰のために?(1776年のピアノ協奏曲群)

    生きていたければ出口を見つけなければならず、
    その出口は逃亡によってはひらけない。

       ----カフカ「ある学会報告」から----



ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

音楽を作る。・・・作品を作る。
「誰のために?」という問いは、職業人として創作する場合には、意味がないのかもしれません。
モーツァルト以前の代表的な例(各人物が、必ずしもあげた例だけに限って創作したわけではありませんが)。
バッハを始め、多くの場合は、仕える君主、個別の注文主、あるいは教会のために。または、自分の弟子の訓練のために。
テレマンは、雑誌を発行するようになりましたから、その読者のために。
ヘンデルは、自らオペラをプロデュースしましたから、そのプロジェクトのために。
いずれにしても、注文主のためか劇場のため、と特定された作品であることが原則でした。
愛する人のために、愛の証しとして、という創作は、職業である限り報酬が前提ですから皆無に等しいでしょうし、まして、自分自身のために、などということは、習作以外には、ありえなかったのではないかと思います。

今日採り上げる、モーツァルトの1776年の3つのピアノ協奏曲のうち、2作品は、やはり、お金持ちの貴族の為にかかれたものであることがハッキリしています。
1作だけが、分かりません。
・・・で、この1作、わずかに分かるその後の演奏歴から見ると、もしかしたら「モーツァルト自身の為に」・・・ただし、もちろん、無報酬などと言うことは前提にはなく、「彼自身を不特定多数の人に売り込むために」書かれた可能性も、ゼロではないんじゃなかろうか、と、勝手に勘ぐってみたくなる、ある意味では他の2曲よりも突出した創造物になっています。

なお、「愛する人のために」という作品も、モーツァルトはマンハイムに旅行して以後つくることになるのですが、それはまだ先の話です。

「愛する人のために」、あるいは勝手な勘ぐりからとはいえ、もしかしたら「自分自身のために」創作する精神が芽生えたのだとしたら、これは音楽の歴史の上で特筆すべき出来事です。
繰返しになりますが、「職業として」創作している以上は、無報酬という前提はありえません。だから、<このような精神の芽生え=見返りを求めない奉仕の精神の芽生え>、と受け止めることは出来ません。いや、見返りを求めることの方が、人間として自然でもあります。
ただ、「報酬をもたらしてくれる相手のために」ではなく、

・「自分の心を満たしてくれる人のために」

・「自分だけの技量で自分を試してみるために」

創作する、というのは、著作権も、ステージマネジメントも曖昧にしか認識されていなかった(意識が皆無だった、という見解は誤解に基づくものだと思いますが、詳しくは述べません)当時としては、報酬を得られるという保証を度外視した、大冒険になるわけで、翌年マンハイムから「愛する人のために」作品を書いた、とほのめかしたモーツァルトの手紙に、父であるレオポルトや姉ナンネルが仰天した(のですよね?)のも、もっともなことです。
こんな冒険をした作曲家は、過去には存在しませんでした。常識ハズレもいいところだった。
「愛の詩人」であった中世の吟遊詩人でさえ、その詩から得られる報酬を必ず期待していたことでしょう。
モーツァルトの始めたことは、有史以来初めての、仰天すべき精神の発露だった、と言ってしまったら、大袈裟でしょうか?

・・・ただし、76年のこの時点では、モーツァルトが「不特定の人から報酬を得るんだ!」と意気込んだかどうかは、明確なわけではありません。あくまで、私の憶測です。
検証、などという大それたことまでは手が回らなかったので、不確かなことを申し上げているわけでして、それはあらかじめお詫び申し上げます。



で、「憶測」の作品を取り上げる前に、次の2例を聴いてみて下さい。

1)

2)

最初の作品、決して悪い作品じゃない。歌の豊富な、素敵な曲だと思います。作曲時期も、モーツァルトの第8番より数年前に過ぎません。
誰のものだか、お分かりになりますか?

そうは言っても、モーツァルトの作品に比べると、何かが違います。
・・・先日「落語」の事例で取り上げた、「間」の違いと同種の違いです。

作曲者の年齢差・・・5年5ヶ月。
2つとも、出だしの動機は、そっくりです。ですが、1番目の方は、音の長さがモーツァルトの倍ですね。主題の動きは、モーツァルトの作品の方が活発です。1番目の作品は「歌謡的」だと言えますが、モーツァルトの方は、「器楽的」、とでも言うべきでしょうか?
オーケストラだけによる序奏の長さも、上の2作は殆ど同じです。・・・ということは、ピアノの独奏が出てくるまでの「マクラ」の部分は主題の動機のもつ「間(ま)」の多少で雰囲気が違っている、ということになるでしょう。
独奏が入りだしてからが、より特徴的に違ってきます。
1番目の作品は、オーケストラと受け答えするときには、オーケストラの奏でた通りを「こだま」として返す頻度が高いのに対し、モーツァルトの作品は、「こだま」ではなく、別の形でのお返し、になっています。かつ、オーケストラとソロが交代するまでの、時間間隔が1番目の作品より短くて、回数も多い。
これが、世代の違いというものなのかなあ、と思わされます。

1番目の作品は、サリエリのものです。
決して凡庸ではない。美しいですし、当時の感覚としては、貴人を前にしたときにはむしろ、モーツァルトの作品よりも
「落ち着いた、いい音楽だな!」
と受け止めてもらえた可能性が高いでしょう。
・・・後年、モーツァルトがジングシュピール(ドイツ語オペラ)「後宮よりの誘拐(脱出)」を皇帝の前で上演した際、皇帝から
「音が多すぎる」
と評価されたエピソード(単なる噂だとの説もありますが)を、ここで思い起こしておくと良いでしょう。

同時に、サリエリが、映画「アマデウス」以来定着してしまった凡庸な音楽家だった、という印象も、拭い去っておくべきであることは、ここで強調しておきたいと思います。



寄り道をしました。

上例で、サリエリと対比してしまいましたが、モーツァルトのピアノ協奏曲が、当時のものとしては斬新な構造であるとの印象は、持って頂けたかと思います。

けれども、聴いて頂いた「第8番」は、実は、私が「憶測」の対象にした「第6番」に比べると、まだまだ「凡庸」な仕上がりなのです。
出来上がったのは第8番の方が後なのに、オーケストレーションは第8番の方が第6番より保守的です。
第6番ではヴィオラの独立性が高まっているのに対し、第8番ではヴィオラは、ほぼチェロやバスと同じ動きしかしていません。
1776年にモーツァルトが創作したピアノ協奏曲は3曲(1月に第6番変ロ長調、2月に第7番「3台のピアノのための協奏曲」、4月に第8番ハ長調)で、すべて3楽章構成、オーケストラで用いている管楽器は2本のオーボエ、2本のホルンです・・・
が、第6番だけは、他の2曲に比べ、次の大きな違いがあります。

・中間楽章でオーボエをフルートに入れ替えている
・フィナーレがメヌエットのテンポではなく、2拍子である

第7番は、おそらくセレナーデで触れることになるだろうロドロン伯爵一家のために作られた作品で、1番をロドロン伯爵夫人、2番をその長女アロイジア、3番を(ピアノがあまり得意ではなかったといわれている)次女ヨゼファが演奏した、とのことです。
第8番は、リュツオウ伯爵夫人が演奏しました。彼女は父、レオポルトの弟子でした。
この2曲は、終楽章(第3楽章)がメヌエットのテンポのロンドです。
ちなみに、サリエリの前掲協奏曲の終楽章も、メヌエットのテンポのロンドです。
こちらが、どうやら標準形だったと思われます。

第6番だけが、この点、ルール違反をしています。
中間楽章にフルートを置く、というのは、2年前のヴァイオリン協奏曲第3番で試みていることですから、
「それを再び試みた(に過ぎない)」
と評価されていますが、ヴァイオリン協奏曲と聞き比べていただければ分かりますとおり、(楽器の性質の違いもあるのでしょうが)、ピアノ協奏曲のほうが、はるかに「器楽的な」響きを持っています。
・・・この、ルール違反の作品だけは、誰のために作曲されたのか、分からない。
(もし「分かっている、だからお前の憶測は間違い」、というときには、どうぞ、ご教示下さい。頭ん中を整理しなおさなくちゃなりませんから、是非おねがいします。)

NMAの緒言によりますと、モーツァルトは第6番から第8番までの3作品をワンセットとして考えていた、とのことです。

翌年からのミュンヘン、アウグスブルク、マンハイム(、パリ)旅行に際しては、たしかに、だいたいこの3作のピアノ協奏曲から選曲されて演奏されています。ですが、モーツァルト自身の認識としては、7番は必ずしもセットとして認識されているわけではなく、翌年1月に作曲した第9番「ジェナミ(ジュノーム)」がそれと入れ替わっています。

演奏履歴は、実際には以下のとおりとのことです。

・77年10月4日、ミュンヘンで6番のみ単独で自演
・10月6日付ミュンヘンからの父宛書簡では、6、8、9番をセットとして考えている様子がうかがわれます(書簡全集【原典】第2巻345番、40ページ)

・同22日、アウグスブルクで6番自演、7番をデムス(オルガニスト)、アンドレアス・シュタイン(ピアノ製作者)と共演。モーツァルトは2番を担当〜シュタインの登場は興味深いものですが、ここでは深入りしません。

・78年2月13日、マンハイムで、6番をローザ・カンナビヒがモーツァルトに敬意を表して演奏

・同3月23日、同地で7番が、1番をローザ・カンナビヒ、2番をアロイジア・ウェーバー(モーツァルトが熱を上げることになった女性で、ソプラノ歌手であったことは有名ですね)、3番をテレーゼ・ピュエロンが担当して演奏される

・同年6月11日のレオポルト書簡に、8番を自演した事実が記されている由(原文【長くて読み切れなくて】未確認)。パリでの演奏を指すか? モーツァルトのパリからの父宛の9月11日付書簡(原文を確認しました)からも、モーツァルト自身は6番、8番、9番(「ジェナミ(ジェノーム)」をセットとして考えている様子がうかがわれます。(書簡全集【原典】第2巻487番、476ページ)

・1779年(時期未確認)、第7番の2台編曲版が演奏されたらしい(3番がない分、低音部が薄くなっていたはずです。スコア参照。)

・1782年(時期未確認)、ウィーンにて6番、8番を自演

8番の位置づけが、若干弱い気がしますが、どうでしょうか?
長くなりました。

以下に、各曲の構成を記して終わりとします。

第6番変ロ長調 K.238
・第1楽章 Allegro apert 4/4 202小節、ソナタ形式
・第2楽章 Andante un poco adagio 3/4 変ホ長調 85小節、三部形式
・第3楽章 RONDEAU, Allegro 2/2 291小節

第7番ヘ長調(三台のピアノのための----ロドロン----) K.242
・第1楽章 Allegro apert 4/4 265小節、ソナタ形式
・第2楽章 Adagio 4/4 変ロ長調 65小節、三部形式
・第3楽章 RONDEAU, Tempo di Minuetto、232小節

第8番ハ長調「リュツオウ」 K.246
・第1楽章 Allegro apert 4/4 203小節、ソナタ形式
・第2楽章Andante 3/4 変ホ長調 133小節、三部形式
・第3楽章 RONDEAU, Tempo di Menuetto、303小節

*Minuetto 、Menuettoの表示の違いは、NMA(第15分冊)のスコア通り。

サリエリのコンチェルト〜SALIERI The 2 Piano Concertos(P.PSADA) ASV CD DCA 955
モーツァルトの協奏曲はBRILIANTの出している全集)(Derek Han)によりました。

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2007年12月17日 (月)

アンサンブル・ゼフィロのCD

モーツァルトのミサ曲は「クレド・ミサ」を残しておりますが、あと少しお時間下さい。



Bunchouさんから興味深いCDをご紹介頂き、それそのものも、ですが、もう一つをもさっそく聴いてみて、たいへん興味深く感じましたので、簡単にご報告します。

ご紹介頂いたものそのものはモーツァルトの作品で、こちらの記事にBunchouさんがお寄せ下さったコメントをご覧下さい。いわゆる「古楽」がお好きでしたら、文句無しに楽しめます。
・・・ただ、私は、弦楽器の「古楽」奏法には・・・主にタルティーニが残している練習曲の書き方などから類推して・・・モーツァルト時代もバロックと同じでいいのかどうか、バロックの奏法も、たとえば早い時期にはアルス・アンティクァ・ケルンが採用していた弾き方でいいのか、ということには少々疑問を持っています。
とはいえ、そんなことにとらわれる必要なく(というより、あんまり深く考えないで聴くべきでして、そうして頂ければ)存分に楽しめるのは、保証します。

886971261127同じ団体「アンサンブル・ゼフィロ」が、ベートーヴェン作品もアルバム化していて、こちらは管楽器(曲によっては打楽器を含む)アンサンブルでもあり、なかなか聴けない曲ばかりですので、こちらにもつい手が出ました。

収録曲:(日本語統一表記でなくてごめんなさい)
・Parthita for 2 Oboes, 2 Clarinets, 2 Horns, 2 Bassoons in Es Op.103(1792-93)
・「ドン・ジョヴァンニ」の主題による変奏曲 for 2 Oboes & Col Anglais WoO28 in C (1796-97)
・軍楽のための行進曲 WoO20 (1806?) 古い作品表では「1810?」となっている
・オーボエ、3本のホルンとファゴットのための五重奏曲 変ホ長調(1796)
・三重奏曲 for 2 Oboes & Col Anglais Op.87(1794)
・エコセーズとトリオ in D WoO22(1810)
・ポロネーズ 二長調 WoO21 (1810)
・ロンド(ロンディーノ)変ホ長調 WoO25 (1792)

WoOと付いたものは作品番号無しのもの、すなわち、未出版であったか、非公式(廉価な曲集など向け)出版だったものです。ひとつだけ、最近用いられるようになったHess番号のものも含まれます。

作曲された目的に付いては、もしご興味があればCDをお求めになり、解説をご覧下さい(英語とドイツ語)。

興味深いのは、集められた作品の作曲時期です。
3グループに分けられますね。
・1792-94
・1796-97
・1810

最初の1792-94年グループは、ベートーヴェンがボンからウィ−ンに出た時期に当たります。この時期を前にして、ベートーヴェンはボン大学の学生達に混じり、啓蒙思想に熱を上げたことが分かっています。この時期の作品は、自由なウィットに満ちていますが、品格が備わるには至っていません。

96-97年グループの時期は・・・そんなに隔たってはいませんが、ベートーヴェンが貴族の保護を獲得した時期、かつ、ナポレオンが台頭し始めた時期に当たります。この時期を代表するのは「ドン・ジョヴァンニ」の主題による変奏曲、でしょうが、貴族趣味への迎合を聞き取ってしまうのは私の耳の錯覚でしょうか?

1810年・・・前年の09年に、ウィーンはナポレオン率いるフランス軍に占領されています。ベートーヴェンの作風には、行進曲のみならず、明らかに、軍楽的要素を濃くもっています。

こうした、ベートーヴェンを巡る時代背景、ベートーヴェン自身がそこから受けたであろう精神的影響を、比べながら聞き取ることの出来るアルバムは、知る限り、過去に存在しませんでした。

モーツァルトのほうも、ですが、このベートーヴェンのアルバムも、是非おすすめしたいと感じた次第です。
ベートーヴェンについては最近「第九」の本がまた流行で大量に出始めていますが、資料として読む場合には、ロングセラーであるフリーダ・ナイト「ベートーヴェンと変革の時代」よりも信頼できるものはないと見ています。他の著作は資料の選択が「まず主題を満たす目的ありき」でなされている点、むしろベートーヴェンを(極端にいえばナチ時代にドイツでなされていたのと同じような)色眼鏡で見てしまう危険性をはらんでいる気がします。
・・・読んでお気にいられてしまうのでしたら、これ以上は何も申し上げられませんが。。。

ベートーヴェンと変革の時代 (教養選書 32)

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2007年10月 4日 (木)

ハイドン観察:交響曲(4)エステルハージ時代以前の交響曲-2

ハイドン観察:交響曲(0)
ハイドン観察:交響曲(1):交響曲以前(成長過程)
ハイドン観察:交響曲(2)エステルハージ時代以前の交響曲-2
ハイドン観察:交響曲(3)第1番



ガイリンガーの記した、ロビンズ=ランドン推定の順番により、3回ほどで6曲ずつの初期交響曲を眺めていきたいと思いますが、第1番については既に記しましたので、続く6曲から取り掛かりましょう。

ロビンズ=ランドンが検討した結果ならべた順番は次のとおりでした。
・第37番(C)〜I.Presto II.Menuet III.Andante IV.Presto
・第18番(G)〜I.Andante maestoso II.Allegro molto III.Tempo di Menuet
・?第19番(D)〜I.Allegro molto II.Andante III.Presto
・第2番(C)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
・?第108番(交響曲B)(B)?〜I.Allegro molto II.Menuetto Allegretto III.Andante IV.Finale-Presto
・?第16番(B)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
(実際には、「ここに位置付けていいのかどうか」を留保しているものもあります。)

これを、前回プロトタイプと見なした「第1番」と、使用されている技法面、音楽構造面(主観が紛れ込むのが難点ですが)から、本当にこの順番なのかどうか、素人目で見直してみよう、という狙いです。

学者さんが順番を「決める」に当たっては、用紙研究、関連原典(自筆譜がなければ残存する筆写譜やパート譜)の記載内容と所在(現所在というよりはその保管場所の移動の確認)などを含めて総合的に判断をなさっているはずで、基本的に私が綴るような素人観察よりは妥当性が高いとは思うのですが、音楽の内容で確認を取る、ということについては案外なされていないのではなかろうか、という疑問が、常に頭をよぎります。今回の6曲を検討するに当たっても、技法面などで多少の「入れ違い」があるのではないか、と感じる面がありました。

で、私が感じ取った上記6曲の順番は、次のとおりです。
・第2番(C)
・第18番(G)
・第19番(D)
・(第1番(D)は実はここら辺に入る?)
・第16番(B)
・第37番(C)
・第108番(交響曲B)(B)

理由として、各作品の「様式(技法と構造、あるいは楽想や完成・充実度)」を観察したコメントを、なるべく簡単に記します。なお、各楽章の速度記号については冒頭のロビンズ=ランドンのリストを参照して下さい。

その前に、第1番でハイドンが用いていた手法を簡単に省みておきましょう(詳細はリンク先の記事をご参照下さい)。
※マンハイム・ロケット=急速なクレッシェンド
※複構造的主題
※「翳りの手法」〜記事中では用いませんでしたが、部分的な短調への転化をこう呼びましょう。
※「積み重ねの技法」同一動機を、基本的には2度上、さらに2度上へと積み重ねていく
※単一主題による(ジーグないし派生した舞曲をもととした)終楽章

以上を中心に着目すると、各作品の用いている「技法・構造ないし楽想」は次の通りです。
この順番に、ハイドンの技量が上がっていっているように、私の耳には聞こえます。

・第2番(C)
I.前古典風の重めの主題により、動きが少ない。わずかに「翳りの技法」
II.通奏低音無しでは「二重奏」になってしまう。トリオソナタの楽章の応用と見るべき。「翳りの手法」を使用
III.ジーグ風。中間部を短調にし、わずかながら「ロンド」を意識している。

・第18番(G)
I.ゆったり始まるのは<実験>か? 前古典風(バロックに近い)。「積み重ねの手法」を活用。
II.むしろ「冒頭楽章」ではないか、という感じ。行く分定型的で、「翳りの技法」がない。
III.ゆったりしたメヌエットでバランスを図ったか? 中間部は短調

・第19番(D)
I.切れのいいはずの上行三和音で開始する割に地味。展開部の「翳りの技法」は「かたちだけ」。展開部後半に「マンハイム・ロケット」あり。ホルンを意図的に活用
II.短調楽章(モーツァルトの1番の中間楽章よりは動的で、「青年のひそやかな不安感」。シンコペーションが印象的。後半部の上昇型で本領発揮、2番や18番より成熟度が高い。
III.幾分、イタリア風を意識したか、底抜けに明るい。ロンド形式に近づいているが、基本的には単一主題で、「翳りの技法」を活用。

・第16番
I.冒頭、pで高音・低音が違うモチーフを奏するが、fに転じたとき入れ替える。ここに手法的な熟練を印象づけられる。疑似フーガの使用。呈示部終結部にマンハイム・ロケット使用。展開部に短いが印象的な「翳りの技法」の使用。
II.con sordinoによる、本来の意味での「セレナータ(恋の歌)」。チェンバロ無しにはセレナータになり得ない(と思う)。
III.擬似的なロンド(後年、ロンドソナタ形式と呼ばれるものの原型)だが、単一主題。

・第37番
I.大人びて安定した第1主題。第2主題に「翳りの技法」。展開部は極度に短いが、くどさを避けるには効果的だったか。
II.のびのびしたメヌエットだが、個性的ではない。トリオは短調(18番と同じ)
III.短調楽章(19番に同じ)。「積み重ねの技法」。ひそみ足的な主題は、やはり「成人」のもの。
IV.2つの主題を用いた、ロンドソナタ形式。fとpの入れ替わりを効果的に活用。

・第108番(交響曲B)〜これまで見て来た中では、はじめて「高音域ホルン」を用いた作品。
I.初期のハイドンらしからぬ、伸び伸びとした主題だが、前古典的な動きをする。第2主題は存在しないか、明確な区分がない。展開部に「翳りの技法」。終結部は「紋切り型」。
II.高音域ホルンの効果で明るいメヌエットとなっている。管楽器のがこれまでの中で初めて高い独立性を示す。トリオは短調ではなく、転調で雰囲気を変え、独立ファゴットを活躍させる。
III.叙情性が強いシチリアーノ(シシリエンヌ)〜但し、明記せず。
IV.初の2拍子系フィナーレ。簡潔なソナタ形式で、短いが爽やか。


以上、作品に用いる技法が(通常の創作心理であれば、「自作はもう一歩進めてみようか」という発想が自然でしょう?)どのように展開してきたかを改めて見直してみると、まだ37番の位置づけに困ってはいますが(18番と19番の間かもしれない)、私としてはどうしてもロビンズ=ランドンとは別の、上記のような創作順を想定したい衝動に駆られます。楽章が4つに増加する過程も、この方が納得がいく気がします。仮に37番の位置が違っても、18番の実験精神の延長と考える余地がありますし。

また、エステルハージ家時代に突入する前で、まだ三分の一を見ただけですから、通奏低音云々する必要には当面迫られはしないのですが、上記第16番の「セレナータ」的楽章、第2番緩徐楽章(実質的に二重奏であることは「交響曲」というネーミングからは想定不可能でしょうから、少なくともトリオソナタ形態の延長として捉えるのが本筋だとしか考えられません)の存在は、少なくとも、モルツィン家奉公時代までのハイドンは、「交響曲」作曲時には、「通奏低音としてのチェンバロ」の存在をまったく念頭におかなかった、ということがありえないことは、断言してよいと思います。

残り12曲がどうであるか、を見た上でないと「確信犯」はおかしきれませんが、とりあえずはここまでを次回以降の踏み台にしたいと存じます。

なお、2、3曲ないしは6曲セットは「出版を前提としない限り考える必要がなかった」との話もあるようですが・・・これについてはまた別途考察しましょう。
ただし、少なくとも、今回見直した順番では、最初の3曲にはC-G-Dと、属調を上昇する計画性を見て取ることも可能かもしれません。ただし、この期間の交響曲はあと12曲残っていますから、いずれにしても「セット問題」を論ずるのは早すぎますね。

(音をつけるつもりでしたが、ゆとりがありませんでした。後日、もしつけられたらご報告します。お約束違反ですみません。)

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2007年9月29日 (土)

ハイドン観察:交響曲(3)第1番

さて、エステルハージ家奉公前とされる19曲の「初期交響曲」をじっくり(?)見ていこうと思いますが、今回は第1番のみにとどめ、次回から6曲ずつまとめて観察しようかと思っております。
理由としては、
・ハイドン自身が「私は自分が初めての交響曲を作ったときのことを鮮やかに憶えている」と語っており、ガイリンガー(=ロビンズランドン)も、それ以降の研究者もハイドンの言う「最初の交響曲」が<第1番>であることに特段異論を立てていませんから、まずはこの作品をハイドンの交響曲のプロトタイプとしてみておこうかと考えたこと
・より重要な課題として、通奏低音問題があること
の2点を挙げておきます。

後者について少し述べておきます。

遺憾ながら私は直接にその言葉を読みも聴きもしておらず、実演や録音も耳に出来ずにいるのですが、ホグウッドが「ロンドン交響曲(第92番以降)」以外の初期・中期交響曲は通奏低音無しで演奏しているそうで、その理由としては
・エステルハージ家で通奏低音奏者(=チェンバリスト、でしょう)を採用した形跡は無い
・ハイドンはオーケストラをヴァイオリンでリードしていた
・通奏低音無しで充分に美しい
との論点を掲げているのだそうですね。(誤りでしたらご指摘下さい。)

果たして、ホグウッド(またはザスロウ説かとも聞いていますが、これも誤解でしたら教えて下さいね)見解は本当に正しいのか・・・正しい部分が大きいとしても、それを初期・中期の全交響曲(とりわけエステルハージ家以前とされる作品)全体に敷衍することまでが正しいといえるのか
・・・これを、ハイドン自身の音符から確認し得ないだろうか、との素朴な疑問が、私にはあります。

さらには、通奏低音が、(発生にまで遡るのは私にはとても手におえませんから)どんな過程を経て消滅していったのか、について、ホグウッドの見たハイドン像では解せない部分もあります。
ホグウッドは、ロンドン交響曲以降についてはピアノフォルテで通奏低音を弾いてリードしています。これは特にザロモンセットが演奏された当時の記録に基づくもので、間違いではありません。ですが、これも「ロンドン交響曲」全体に敷衍してよいのかどうかとなると、曖昧です。初期・中期交響曲の「通奏低音無し」演奏と同様の「非厳密性」を、そこに感じずにはいられません。

日本のハイドン研究の第1人者、大崎滋生氏が、ご著書「文化としてのシンフォニー 1」の中で指摘されているとおり、(本文どおりではありませんが)エマヌエル・バッハの「全ての演奏に通奏低音が入れられるべきである」との発言は、そうではない場面があったことを反映しているのは間違いなかろう、とは思います。
でしたらいったい、それは具体的にどういう場面で、いつからそうであったのか、という探求も、この際してみたいと思っております。そしてそれは、大崎氏が同書で
「シンフォニー上演の場合には、一般にヴァイオリン奏者の楽師長が演奏をリードするのであるが、演奏の統括者がチェンバロの前にすわるケースがないわけではない。また楽師長がヴァイオリンでない宮廷楽団の場合や、演奏統括者が何らかの理由によりヴァイオリンでの統括を選択しない場合などもあり、それは、地域的な演奏の伝統や、演奏場所の条件などに左右され、変化したのである」(123-124頁)
と仰っていることの、ハイドンという「現象」を通じての、しかも素人の手によるささやかな検証には過ぎませんが、そこはすくない手持ちで室内楽曲などにも手を伸ばしながらでも、きちんと確認したい。
(ちなみに、大崎氏は
「ハイドンのエステルハージ宮廷におけるシンフォニー演奏にチェンバロが加わっていなかったのは確実である」と、そのご研究成果から断言していらっしゃいます。前掲書124頁)

また、モーツァルトの場合とは違い、ハイドンを扱っていくに当たっては、最初から「交響曲」という用語を用いますが、これは、
「ハイドンの念頭には、最初から<序曲>としての「シンフォニア」は念頭にはなかったのではないか」という私の主観的な仮説によります。
観察を進めていくに従って反証が出てくれば、それはそれで面白かろう、と、楽しみに進めていきたいと存じます。


で、第1番を見ていきましょう(1756頃作曲)。今回は通奏低音云々はしません。

ニ長調をベースとし、真ん中の第2楽章を下属調(ト長調)とした3楽章構成です。

全集でも買わないと聴くチャンスが無いと思いますので、今後も最初の部分は出来るだけ音をリンクしたいと思っておりますが、第1番のみについては全曲をお聴きになってみて下さい。
なぜなら、「第1番」は、すべて、とは言いませんが、多くの作曲家にとって大きな記念碑であるからです。
モーツァルト然り、ベートーヴェン然り、シューマン、ブラームス、マーラー、ショスタコーヴィチ・・・みな然りです。

107曲もの交響曲が残っているハイドンにとってもそれが例外ではないことを、是非知って頂きたいのです。
しかも、ハイドンは既に第1番で「大人の作曲家」として現れます。書いた時の年齢が、もう26歳か27歳だったので、当然と言えば当然です。


さわやかに舞い上がる主題が斬新ではありませんか?
これは「マンハイム・ロケット」と呼ばれた技法だそうで、当時最も評価の高かったマンハイムのオーケストラでシュターミッツ(父)が使用し、大好評を受けたことに由来すると言われています。
が、これが本当に「マンハイム・ロケット」なのかどうかについては、シュターミッツの作品を確認していませんので、断言を避けます。(シュターミッツの交響曲は、昔、何曲も弾いたのですが、一つも覚えていないのです、ごめんなさい。)
明確なソナタ形式を最初の交響曲からを示している点で、エマヌエルやクリスチャン・バッハより進んだ・・・「交響曲」の概念が何かの影響で確立した後であった・・・ことを示している一方で、「第2主題」は第1主題の延長で出来ている点では、まだモーツァルトの「第1番」第1楽章ほどには「ソナタ形式」は成熟していなかったことを示しています。
ただし、第1主題自体が大変緻密に出来ていて、「1〜9小節」・「10〜13小節」・「14〜22小節」・「23〜28小節」の4部分で構成されています。主題のこうした「複構造」はモーツァルトにはあまりなく(2部構成が多い)、むしろロマン派以降の作曲家に引き継がれていきます。
かつ、そのあとに現れる短い第二主題はニ短調で現れ、「大人の心の陰・憂い」を<チラッと見>させてくれますが、この手法は続く第2楽章でも用いられている上に、ハイドン初期交響曲中でどんどん発達していく技術でもあり、「短調のモーツァルト」と単純に対峙する、明快なハイドン、という図式は全く成り立たないことが明らかです。・・・ハイドンの「短調」については、いわゆる「シュトルム ウント ドランク」期を待たず、初期交響曲観察中に言及すべき機会がめぐってくると思います。
呈示部は第二主題までの39小節間で、ここで演奏例は反復演奏しています。
そのあとの繰り返しの始まりが、「展開部」です。これが19小節(呈示部の50%)もある、というのは、この時期としては長大だ、といっていいと思います。展開部の締めくくりも「短調による翳り」によってなされ、その後59小節目から再現部です。再現部は第1主題が18小節(呈示部では28小節でした)、第2主題が7小節(同じく11小節でした)と短縮されている点に留意して下さい。最後の3小節は、実に気っぷのいいコーダです。


2つの主題から構成される28小節までの前半部、同じ2つの主題を用いた78小節までの後半部からなり、後半部が長いのは前半部の主題の展開を含むからなのですが、これが実に細やかです。第1楽章で細かく綴りすぎましたので、詳述はしませんが、「翳り」の技法の多用の他に、素朴ながらカノン風に見せかけた2度上ずつの積み重ねの技法(これは遥か後年にモーツァルトが有名な第40番【大ト短調】で活用することになります)を随所に用いているところにご傾聴頂ければ、この楽章が、ただ聴いただけでは分からない「複雑さ」に満ちたものであることをご理解頂けるでしょう。


拍子だけ見るとイタリア系の「シンフォニア」をハイドンも意識していたかも知れない、と思われるのですが、ちょっとトリッキーではあるものの、ハイドンがここで作っているのは「ジーグ(6拍子が普通)」を崩したものであることが、根底にあるリズム(四分音符1+八分音符1)から判明します。ハイドンのいたずら心のなせる技だったのでしょうか。。。「ジーグ崩れである最大の証拠は、この楽章が単一主題からなっているところにあると思います。(イタリア風なら、ロンド形式系で作曲していたはずです。)
この楽章は、お時間があったら、是非、J.S.バッハの「管弦楽組曲第3番」終曲と聞き比べてみて下さい。

以上、音楽はドラティの全集盤によりました。
私のヘタな説明で、お楽しみを妨げているようでしたら、心からお詫び申し上げます。

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2007年9月19日 (水)

ハイドン観察:交響曲(2)エステルハージ時代以前の交響曲-1

ハイドン観察:交響曲(0):前説
ハイドン観察:交響曲(1):交響曲以前(成長過程)


エステルハージ家に仕える以前に創作したとされている交響曲は、ロビンズ=ランドンの研究を踏まえたガイリンガーの記述によると,以下の19曲です。
今回は、ガイリンガーの記述をそのまま受け入れ、ランドン(およびそれをおおむね妥当と認めたガイリンガー)の推測した創作順で各交響曲を並べ、その楽章構成を列挙しておきます。
この表を踏まえ、次回からは6曲くらいずつまとめて、具体的に作品の内容を観察したいと思います。

・・・それにしても、通用している番号と創作の順番が如何に合っていないか、には愕然とするしかありませんでしょう?
バッハのカンタータの番号と同じようなもんですから。
なお、冒頭の「創作順数字」に()がついている場合は、「だいたいこのへんだろう」と考えられていることを表しています。交響曲番号の後ろは調を表します。
(以下、誤りにお気づきの場合はご教示下さいますようお願い申し上げます。)

01 .第1番(D)〜I.Presto II.Andante III.Finale-Presto
02 .第37番(C)〜I.Presto II.Menuet III.Andante IV.Presto
03 .第18番(G)〜I.Andante maestoso II.Allegro molto III.Tempo di Menuet
(04).第19番(D)〜I.Allegro molto II.Andante III.Presto
05 .第2番(C)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
(06).第108番(交響曲B)(B)〜I.Allegro molto II.Menuetto Allegretto III.Andante IV.Finale-Presto
(07).第16番(B)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
(08).第17番(F)〜I.Allegro II.Andante ma non troppo III.Finale-Allegro molto
09 .第15番(A)〜I.Adagio-Presto-Adagio II.Menuet III.Andante IV.Finale-Presto
10 .第4番(D)〜I.Presto II.Andante III.Finale-Tempo di Menuet
11 .第10番(D)〜I.Allegro II.Andante III.Finale-Presto
12 .第32番(C)〜I.Allegro molto II.Menuet III.Adagio ma non troppo IV.Finale-Presto
13 .第5番(A)〜I.Adagio ma non troppo II.Allegro III.Minuet IV.Finale-Presto
14 .第11番(Es)〜I.Adagio cantabile II.Allegro III.Minuet IV.Finale-Presto
15 .第33番(C)〜I.Vivace II.Andante III.Menuet IV.Finale-Allegro
16 . 第27番(G)〜I.Allegro molto II.Andante:siciliano III.Finale-Presto
(17).第107番(交響曲A)(B)〜I.Allegro II.Andante III.Allegro molto
18 .第3番(G)〜I.Allegro II.Andante moderato III.Meuet IV.Finale-Allegro
(19).第20番(C)〜I.Allegro molto II.Andante cantabile III.Menuet IV.Presto

「様式から判断して、この順番はおおむね妥当だろう」とのことなんだそうですが・・・うーん、速度標語からだけでは、私みたいなもんには、ちーっとも分かりません。。。

いちおう、簡単な集計だけとっておきましょうか。。。

1)調:ハ長調=5、ニ長調=4、変ホ長調=1、ヘ長調=1、ト長調=3、イ長調=2、変ロ長調=3
調号1つの調が9、2つの調が7、3つの調が3です。

2)各楽章の速度標語(molto 、cantabile等の修飾語、付加語は考慮しない)
第1楽章〜Presto=3、Vivace=1、Allegro=11、Andante=1、Adagio=2、速度変化=1
第2楽章〜Allegro=3(18・5・11)、Andante=11、Menuet=5
第3楽章〜Menuet(Minuet/Tempo di Menuet)=7、Andante=3、Adagio=1、Allegro=2、Presto=6
第4楽章〜Presto=7、Allegro=2、なし=10

終楽章の速度標語〜Presto=13、Allegro=4、Menuet=2

※冒頭が緩徐楽章なのは第18(3番目)、第15(9番目)、第5(13番目)、第11(14番目)です。
※第2楽章がAllegroである3曲の第1楽章はAdagioもしくはAndanteです。他に第1楽章がAdagio-Presto-Adagioである第15番は、第2楽章にメヌエットを置いています。
※"Menuetto"の表記は6番目の第108番(交響曲B)にのみ現れます。
※"Minuet"の表記は第5番、第11番に現れます。いずれも4楽章構成。
※メヌエットもしくはそれに準じる楽章を持たないのは第1・第19・第16・第17・第10・第27。
※強いて言えば、第1(1番目)、第18、第19、第2(3〜5番目)、第16、第17(7〜8番目)、第4、第10(11番目)は「中間楽章にはメヌエットがない」点で、「2、6、9、11番目の4つの断層」を挟んだだけの「連続性」は感じさせてくれます。
※4楽章構成のものは2番目の第37、6番目の第108、9番目の第15、12〜15番目4曲、18番目の第3、19番目の第20。時期がばらけていることになります。ただし、第3番・第19番は「最後の作品」であり、他は前項の「メヌエットを中間楽章に持たない作品」の断層に当たるものです。
※16〜18番目は終楽章を除き、近似した速度標語を持つ点で連続性が感じられます。

・・・というわけで、ランドン〜ガイリンガーの仮決めした順番から分かることは
*2、6、9、11番目に、何らかの理由で断層はあるが、おおむね連続性は感じられる
*この断層の部分では、最後の断層(11番目)を除き、4楽章構成が暫定的に試されたのかも知れない
*12〜15番目で一旦4楽章構成を定着させかけ、間に緩徐楽章で開始する2作品を置いてみたが、16〜18番目で再び3楽章構成に戻すかどうか迷っているようだ
*メヌエットを定着させるかどうかについては、11番目、16〜17番目で一反躊躇するものの、9番目以降ではほぼ「定着」指向となっている、かも知れない
の4点でしょうか。

したがって、断層の理由をある程度明らかにし、連続性を確実にするためには、内部的な要因はどうなのか、を観察すべきだ、となるわけですね。
あるいは、当時の習慣としては3曲ないし6曲を、調性の関連性をも考慮して作曲するのが普通であったはずですから、そこも加味して検討する必要が、本当はあるのではないかと思います(これが、実はやってみようとすると難題です。1曲あぶれるだけでなく、順番にも疑問が湧いてきます)。

・・・分かるのかなあ。不安。

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2007年9月14日 (金)

ハイドン観察:交響曲(1):交響曲以前(成長過程)

別に気を持たせるつもりではありません。
能力がないので、すぐには「交響曲」にたどり着けない。
「交響曲」にいきなり突っ込んでしまう前に、
「知らねばならぬ!」
ことがあるんじゃないか、と、思ってしまったのでした。
で、ちょっと古め(1982年刊)ですが、ガイリンガーの著したハイドンの伝記を読み始めました(家内の生前に注文、死の直後に届いたものです)。・・・が、英語です。
日本語も満足に読めない。まして英語は。それ以上にドイツ語は。またそれ以上にイタリア語なんて!
でも、これ以前に日本語で出た伝記は、どうも読んでいてつまらないんです。その点、ガイリンガーは学者さんとしてもすごかったけれど、伝記筆者としても面白いエピソード選びが実にうまい(同じ話が、大宮真琴著「ハイドン」を読み直すと出ているんですが、表現の豊かさが、どこか違う)。
「面白いじゃん」
と、そこまでは感じるのですが、なにせ、読むスピードは、辞書無し意味不明個所すっ飛ばし走行でも、私に可能なのはせいぜい人力車並。。。

というわけで、浅草で乗った人力車なら「花やしき」一周だけの最短コースをとる、という具合に、ハイドンの幼少時代から、ステファン大聖堂の聖歌隊を追い出されたところまでは通らずにすっ飛ばして、1749年、ハイドンが18歳でウィーンの路頭に迷うところから、その青春時代を少しばかり眺めておこうと思います。
この時期が、交響曲創作を始めとする、以後のハイドンのインスピレーションを形成する上で、決定的なものを豊富にもたらしているからです。

私の子供時代、図鑑などでお目にかかって、いちばん愉快だった作曲家はハイドンでした。
中でも面白かったのが、声変わりしてもお情けで残してもらっていた聖歌隊で、いたずらをして前の列の子の髪を切ってしまい、それが先生の怒りに触れて、とうとう聖歌隊を追い出されてしまった、という話でした。

この話の真偽は別として、聖歌隊から除籍されたハイドンにとっては、しかし、世界は「面白い」なんていうものではありませんでした。

すぐに対比されるモーツァルトとは違い、ハイドンは20歳になるまで、シュテファン大聖堂聖歌隊、という閉鎖空間にいた「籠の鳥」だった、という事実は、まず念頭に置かなければなりません。
聖歌隊がどの程度の音楽教育をしてくれたのか、というと、これはよく分かりません。
ですが、「籠の鳥」ハイドン・・・そういえば、とある肖像画に見る彼の顔は、心なしか、水木しげるの描いた鳥の妖怪に似ていなくも無いなあ・・・は、籠から解き放たれたとき、すぐ「金になる」ほどの仕事を得るだけの専門能力は、まだ持っていなかったフシがあります
まずは食い扶持探しから、だったのですが、先取りしておきますと、その日その日を食い繋ぎながら、ハイドンはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのクラヴィアソナタを練習し、マッデソンの当時有名な教科書を読み漁り、フックスの「グラドゥス・アド・パルナッスム」で必死に対位法の自習をしていた、とのことです。

さて、では、どうやって飯を食っていたか。

当時のウィーンでは、「セレナータ」あるいは「カッサシオン」というものを奏でる楽隊が流行していました。
これはモーツァルトの「セレナーデ」問題にも繋がるので、ガイリンガーの引用している当時のこうした流行と楽隊の様子を、そのまま訳しておきます。

さわやかな夏の宵には、セレナーデの響く道にたたずんで時を忘れられるはずだ。セレナーデは、イタリア式にギターと歌だけ、というのとは違っている。ここ(=ヴィーン)ではセレナーデは愛の告白などではない。愛の告白なんて、ヴィーンにはもっといい機会がある。ヴィーンのこのナイトミュージックは管楽器の三重奏もしくは四重奏で、もう少し規模を大きくして演奏されたりもする。とある可愛いお嬢さんの命名祝日(注:クリスチャンにとっては誕生日代わりですね)の前夜には、こんな類いのエンターティメントが山ほど企画されるものだ。いくら遅れてセレナーデが始まっても、あっという間にご婦人方がそこに群がり、わずかばかりの時間のあいだに、音楽家たちは拍手の嵐につつまれる。(「ウィーン劇場年鑑」1794年の記述)

ちょっと脇道になりますが、上の文から分かることは、「セレナータ」はウィーンの人々にとっては恋を打ち明ける歌ではなく、むしろ「愛する人へのプレゼントとして」、管楽器バンドを雇って(おそらくは館の窓下で)演奏させる音楽になっていたことです。音楽の題材は、主に民謡や当時の流行歌だったと想像されています。これが、ハイドンの音楽の源泉になっていくわけです。・・・ちなみに、ハイドンの場合は三重奏だった、と、スタンダール(実はカルパーニ)はその「ハイドン伝」で述べています。

モーツァルトの「洗練」とは終始対照的だった、ハイドンの「素朴感」のあるメロディ作りは、青春時代がどれだけ深く彼の精神を支配したかを物語っているのでして、彼らの音楽の差異を単純に「持って生まれたセンスの差」としてしまうことが多い世の中には、まず、考えを改めてもらう必要があると思います。

今日残っているモーツァルトの「セレナーデ」は、それを弦楽主体にし、規模も大きくし、時に打楽器までを含めた大掛かりなものばかり。かつザルツブルク時代に限られた作品です。やはり、ザルツブルクにはウィーンとは違った風俗が成り立っていた、と考えた方が自然なようです。ハイドンの奏でていたような、管楽器による「セレナータ」は、モーツァルトにおいては楽隊登場・退場部分は「カッサシオン」、本体部分は「ディヴェルティメント」と呼ばれていたことになります(多少極論ではありますが)。

もひとつ、ついで話をすれば、ハイドンがモーツァルトととかく比較されるのは、スタンダールが「ハイドン伝」と「モーツァルト伝」を一緒に書いた(というより、盗作した)ためではなかろうか、と思っておりますが、どんなもんでしょうか。(「モーツァルト伝」の方は、盗作じゃなかったんだけかな?)

本筋に戻りましょう。

こうした仕事をしている間、ハイドンは、彼のひどい境遇に同情してくれた歌手のアパートの一室に同居させてもらっていました。が、この歌手さんは新婚で、赤ん坊が一人いて、奥さんは
「もう一人赤ちゃんが欲しいの」
と言い出す始末。居場所が無くなることになったハイドンは、別の安アパートを見つけます。
この安アパートの住人の中には、豪邸に放火するのが趣味の泥棒さんもいたそうです。

なにはともあれ、金銭的には厳しい生活を余儀なくされる毎日が続いていました。
「あの頃は本当に、世間の王様方みんなを妬んじゃったくらい幸せだったよ」
・・・ハイドンのユーモアセンスは、この貧乏時代に養われたものだったようです。

そんなハイドンにも僥倖が訪れます。
ひとつめは、こうでした。
セレナータを耳にしたある興行師が、その出来に感心し表に飛び出してきて、
「この曲、誰が作ったんだ?」
「オレです」
「それじゃあ、わっちの台本に曲をつけてくんねえか!」
という次第で、劇音楽作曲の仕事にありつけたこと。
「せむしの悪魔」
という、1752年作と推定されているその作品は、残念ながらこんにちでは散逸してしまったのですが、出来上がりにはハイドンはかなりの自信があったようです。後年、彼は伝記作者に、この作品を作った時の思い出を聞かせました。
「想像してごらんよ」
・・・回想の中で、ハイドンはクラヴィアを弾き始めます。
「山は盛り上がり、谷は沈み込み、そしてまた別の山、別の谷。」
しばらくその音楽をクラヴィアで弾くと、突然曲調が激しくなって、稲光。
「嵐だ!」
こんな具合だったのさ。

決定的だったのは2つ目です。
当時のウィーンの町は、狭かったのでしょうか?
おそらくは少し収入が良くなってハイドン移り住んだのと同じアパートの3階に、たまたま、既に高い名声を誇っていたオペラ台本作家メタスタジオも住んでいたのでした。当時は「不朽の劇作家の一人」とまで絶賛されていたこの大作家が、なんと、ハイドンの部屋から聞こえてくるクラヴィアの演奏に、すっかり魅せられてしまったのです。
弾き手であったこの無名の青年を、メタスタジオは、自分のお気に入りの女弟子のクラヴィア教師に採用します。
この弟子が、またさらに、声楽の名教師ポルポラ(映画『カストラート』で知る人ぞ知る、知らない人は知らない、優れたカストラート歌手ファリネッリを育てた人)のお気に入りで、ハイドンはこうした縁で、有力音楽家たちに顔を知られていきます。ついには縁が縁を呼び、お金持ちのモルツィン伯爵が、自前のオーケストラのお抱え作曲家としてハイドンを採用するに至ったのでした。ここに至るまで9年の歳月が流れていました。

おそらくこうした過程を経て、ハイドンは最初の交響曲群を創作することになったのですが、惜しいことに、苦労時代のハイドンの作品と思われるものはクラヴィアソナタを除いて残存していないに等しく、彼が交響曲以前に示していた作曲能力を知る手がかりは、あまりありません。ですので、交響曲においては、彼はモーツァルトとは異なり、最初から「大人の作曲家」として私たちの前に姿をあらわします。ですが、そこに至った過程が判明しないわけです。

このころに得た友人たちと演奏するために弦楽四重奏曲を数曲(第0番、1-4番、6-8番、10番、12番)作っていることは分かっているものの、はじめて作曲年代が判明する作品は、モルツィン伯家に採用される2年前、1756年に作った"Salve Regina"とハ長調のオルガン協奏曲です。・・・この2曲は、当時ハイドンが恋していた相手が修道院に入るのを「祝って」作られたものらしいとのことです。で、ハイドンが伝説的とも言えるほど悲劇的な結婚をした相手は、その姉でした。。。

創作事情が不明確な中でも、ハイドンの音楽的成長過程を示すと思われるサンプルをいくつかお聴き頂きましょう。




順番にお聴き頂ければありがたいのですが・・・いかがですか? 
勉学し切磋琢磨して急激に変化していく彼の世界が聞こえてきませんか? 聞こえて来なければ、選曲者である私の落ち度でございます。ご容赦下さい。

さて、ハイドンがその音楽の面倒をみることになったモルツィン伯爵の夫人は大変魅力的な女性だったそうで(美人だった、ということか?)、ある日、ハイドンの伴奏で歌っているとき、熱中したあまりでしょうか、クラヴィアを弾くハイドンの脇ににじり寄り、ネッカチーフでふうわり、と彼に触れてしまったそうです。
これが、ハイドンの、それまではわりとドライだったらしい異性への感覚を、強く刺激してしまい、ハイドンは大きく悩みます。
折り良く、というべきだったのか、モルツィン家はまもなく財政難に陥り、ハイドンは奉公先をエステルハージ家に変えることとなるのですが、それは「交響曲」本題に入ってからゆっくりお話できそうですので、今回はこれまでと致します。

長々失礼致しました。・・・毎度、ですね。

※なお、クラヴィアソナタについては、サンプルはピアノの演奏ですが、ハイドン自身は終生、これらはクラヴサンないしクラヴィコードで演奏されていることを想定した、と、ガイリンガーは(記録類を根拠に)述べています。("Haydn a creative life in music" p208 UNIVERSITY OF CALIFORNIA PRESS ISBN 0-520-04317-0)
また、クラヴィアソナタの番号は(詳しい事情は存じませんので教えて頂けるとあり難いのですが)、引用した演奏では「第10番」・「第4番」となっているのですけれど、大宮「ハイドン」所載の作品表では前者が「第3番」となっています。「第10番」以降は大宮著書の作品表上でのクラヴィアソナタは通し番号ではないせいなのですが。。。だとすると第12番となるべき位置に掲載されているのです。なぜに?

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2007年9月 8日 (土)

ハイドン観察:交響曲(0):前説

モーツァルト作品を、おそらくその生涯に沿っているだろう、と思われる順番で「読む」試みを続けているうち、「では、古典派と呼ばれた音楽とは、いったい実際上はどんな位置付けにあったのだろう?」という疑問に至ったことを、前に記しました。もちろんそれに関連付けて、でもありますが、とりあえずハイドン(ヨーゼフ)は、是非このあたりで、よくよく知っていくべき存在なのではないか、かつ材料も手にしやすいのではないか(但し、日本語で読める伝記は近々出版予定はあるものの、現状では古書以外にはありません)、と考えました。
事情でしばらく資料を新規に入手できませんので、手元に溜め込んであった限りのもので試みていこうと思っております。特に、楽譜はクラヴィアソナタ、弦楽四重奏等の室内楽、交響曲以外には、まとまりとしても、価格的にも入手しにくいし、室内楽は総譜(スコア)だと高くつきます。
幸い、交響曲全集は、版としてはもう古くなってしまったのでしょうが、ロビンズ=ランドン校訂版は最終巻を除き、かなり以前に所持しておりました。かつ、交響曲は(最初期の作例は無いものの)ハイドンが生涯取り組んだジャンルの一つでもあります。
そこで、まずは交響曲をヒントにハイドン観察をしてみよう、という主旨です。・・・モーツァルトほど細かくはやらず、あるまとまりごとの観察にしていくかもしれませんが、とにかくやってみます。

今回は、まだ具体的な作品には触れません。観察を始める前の「能書き」です。
あいかわらず長ったらしくてすみません。。。



<文化>という名前で括られる様々な事象(作品や上演は)、現在進行形または現在完了形で捉えられる範囲のものについては、今を生きている誰にでも、なんとなく
「どうしてこんなものが出来たり演じられたりするのか」
が分かりやすいようです。
分かった、ということが「正しい理解」かどうかはともかくとして、それは私たちが<今>という時代の真っ只中で生きているからに他なりません。

一方、百年前後からもっと前の過去のものを見聞きする場合には、
「どうしてその作品はこう仕上げられたのだろう、 いまこのかたちで上演されるのだろう?」
などとまで考えることは、滅多にありません。ただその「不朽」の価値を頭から信じて、作品・上演の「素晴らしさ」に手放しで感嘆する。・・・これはこれで、過去の<文化>に対する接し方として、決して間違ったものではない、と私自身は思います。
むしろ、「過去の文化は当時を考究した上で享受しなければならない」と考えてしまうことの方が、大きな誤りを孕んでしまう危険性は高いのではないか、とさえ考えています(「古楽」復興を謳ったかたわらで、充分な検討を加えないまま「復興」を自慢した一部の人のやり方が行き渡ってしまい、むしろ長い伝統を後代の作為と勘違いしてしまう過ちがいくつか犯されたことが、今では分かっています)。

歴史的復元などと称して「当時を考究する」ということによっては、本来「当時の人間生活の全てを網羅して調べ尽くす」のでなければ、「当時の真実の像」を掴むことなど出来っこありませんよね。・・・まあ、現在についても同じことは言えますか。極秘事項、とかもありますしね。でも、過去となればなおさら、「実感」として把握することは出来なくなりますよね。

大風呂敷はやめておいて、話題を「交響曲」に限りましょう。
いや、「交響曲」と日本語で呼ばれているもの、に限りましょう。

欧文献はほとんど知らないからですが、日本語で、日本人が書いたものとして「交響曲の起源と普及」に特化した書籍のうち、現在手にしやすいのは次の二つです。

・「交響曲の生涯」石多正男 東京書籍 2006年4月
・「文化としてのシンフォニー1」大崎滋生 平凡社 2005年2月

前者は、極端に言えば、ロマン派までの「交響曲」でこのジャンルは死んだ、としているあたりに抵抗がありますし、他にもひっかかりのある本で、「ホントかなあ」という記述も少なくありません。とはいえ、後者に比べると具体例が掲示されているので、便利な面もあります。
後者は客観的立場に徹して「交響曲」を観察しよう、という優れた試みで、全3巻となる予定ですが、いまのところ初期ロマン派までを扱った第1巻しか刊行されていません。

で、どちらかというと、前者のほうが「交響曲」の起源については突っ込もうと試みる姿勢が前面に出ています。後者は、やや社会的背景に触れつつ、焦点はあくまで音楽作品や音楽活動に当てておき、問題点は問題点として留保する姿勢を貫いています。

では、それらを読んだら「交響曲とは何ぞや」が素人なりに納得できるのか、というと、そうは問屋が卸さないのが世の常どおりであります。

大崎氏が留保している中で重要なものに(記憶で綴っているので誤りでしたらお詫び申し上げます)、
「オペラに(序曲としての)シンフォニアがあり、大バッハには鍵盤楽器作品としてのシンフォニアがある。それらがいつ、どこで一体化したのかは究明されていない。また、オペラとは独立して創作されたシンフォニア(サンマルティーニ弟などが中心人物)も、意外に早く存在している。それらがどういう経緯で、宮廷のコンサートに導入されるに至ったのかも、はっきり分かるわけではない」
という問題提起があります。(「宮廷に」という演奏場所の特定の背景には、当時は楽譜の購入者はそれなりに資産がある階級、すなわち王族・貴族・富裕者でなければならなかった、という事情、「音楽の享受=楽譜の所有」という価値観への「拘泥」があります。この点について反証があるわけではありませんが、本当に、そんな閉鎖空間でしか「シンフォニア」は耳に出来なかったのでしょうか? これも探っていくうちに様子が見えてくればありがたいな、と考えているところです。)

石田氏の方の「交響曲起源論」は鍵盤楽器作品としてのシンフォニアは等閑視しているかに思えますし、シンフォニアはオペラの序曲起源なのだ、という視点から脱しきっていない気がします(これも、間違った読みでしたらごめんなさい)。

では、まず、オペラとは関係なく「序曲」として呼び習わされてきた作品に注目してみましょうか。
あんまり知りませんから、一例だけあげます。
大バッハの「管弦楽組曲」が、まさにそういう存在です。
で、演奏された機会は、ギムナジウムの祝典だったりするのでした。
・・・宮廷が舞台、ではありませんでした。その音が響いたのはカフェの前の広場だったりしたのですから、富者でなければ耳に出来ないものでもなかったと思われます。
いや、仮に奏楽会場がギムナジウム内だったとして、その中にどういった類の人がはいれたのか、についての研究は、視野の狭い私の目には入ったことがありません。

ヨハン・クリスチャン・バッハの「シンフォニア」に至っては、イギリスという土地柄もあったのかも知れませんが、ヘイマーケットというオープンスペースで上演されており、そこそこお金があった人は、王族貴族でなくても耳に出来ました。お金が無くても、そのあたりをほっつきまわれた人は、聴くことが可能だったでしょう。

そんなあたりから、まず「シンフォニア」=「(オペラにくっついたとは限らない)序曲起源論」は認めておこうかと思います。で、それらは少なくともハイドンが本格的な創作活動に入った時期(ほぼモーツァルト誕生の年に近い)には、管弦楽曲であったことも、容認しておきましょう。かつ、本当に「特権階級やお金持ち」しか聴けなかったかどうか、については、観察していく過程の中で探っていくこととしましょう。

次に、「シンフォニア」の中に管弦楽曲ではない作例がある事実をどう捉えたら良いのでしょう?
これは、大バッハ以外の作例をまず調べてみなくては、大崎氏の提起する問題に対する答えは見つけようがありません。
編成問題ではありませんが、ひとつだけ、大バッハの例からのみ推測できることはあります。
管弦楽曲として流行するようになったシンフォニアは、ロッシーニのオペラ序曲を「シンフォニア」と呼ぶ例など時期を百年近く下ってからの慣習にも残っているとおり、単一楽章のものは存在しつづけました。ですが、ハイドンに先立つクリスチャン・バッハなどの例、何よりもハイドンが「懸命に勉強をした」テキストの著者であったエマヌエル・バッハの作例は、大多数が複数楽章です。
単一楽章の「シンフォニア」がまず大元にあって・・・大バッハがそれをイメージの中では「ホントは管弦楽曲にしたいのヨ」と思っていたかどうかは知りようがありませんが・・・、やがて「組曲」との融合などがあり(あ、これは恣意的な推測です。ただし、理由はちょっと考えています。ハイドンの具体的な作品に触れ始めるとき、述べてみたいと思っております)複数楽章であることが常識化した時点で、ハイドン、モーツァルトらへ「シンフォニアは複数楽章である」という観念が引き継がれていき、それがまた彼らによって「独立作品」としての鑑賞に耐えられる完成度を高めていくことにより、「交響曲」と翻訳しても差し支えない作品が続々と生み出されるようになった・・・
私はそのように考えたいと思っております。

とはいえ、素人かつ非専従者の悲しさで、証拠固めのためには少ない資料と多大な時間の狭間で
「ああでもないか、こうでもねえや!」
ともがいてみるしかありませんで。

そのあたりはご容赦いただきながら、このカテゴリでは、時に「交響曲」以外の曲種、あるいはハイドン以外の作曲家にも触れながら、観察をしていきたいと存じます。

この次から、ハイドンの交響曲として初期に分類されているもの(但し、製作順通り、とはいかないでしょうが)を手始めにとりかかってみましょう。
ハイドンの青春時代は「面白い」んですけれど、作品とどう結びつけていいか、を見て行くのは相当な難題です。実際問題、青春時代にハイドンが独学したはずのエマヌエル・バッハのテキスト(第1巻)は本来最小限目を通しておくべきかと思われるのですが・・・私自身が今、そこからスタートを切れる環境にはありません。後日の見直しを覚悟で進めることと致します。

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2007年8月31日 (金)

ハイドンの交響曲:ある日の質疑

今日、こちらのブログでハイドンの「ロシア四重奏曲」をお採り上げでしたので、ふと、ほんの1年前にハイドンの交響曲について、ある方にお教えを乞うたことを、まるで遠い日だったかのように懐かしく思い出しました。
その時のやり取りの要所を掲載します。
話題の中心である、ハイドンの交響曲の編成については、大変立派なサイトもあり(恐縮ですが検索サイトでお探し下さい)、本来私などの出る幕ではないのですが、弦楽主体の団体がハイドンをお採り上げになりたい場合には参考にして頂きやすいかもしれません。


質問

質問にあたっては
A.大宮真琴『ハイドン』1981年新版(音楽之友社)
  曲の説明の一部などに疑いを感じる箇所もあるのですが、他に伝記を所持ないし読んでいません。
B.スコア『ハイドン交響曲全集』フィルハーモニア版 全12巻のうち第10巻まで
 日本語翻訳版 昭和57年(1982)音楽之友社
のみを参照してまとめました。研究は当時より進んでいると思いますので、その点での誤謬があれば、それについても(ご面倒でない限りで)お教え頂けると有り難く存じます。

お教え頂きたいのは、次の点です。質問に際しては、線で区切った<参考>以下の確認を行ないました。・・・なお、勉強したい思いからの、素朴な質問だとお捉え下さい。

・確認した交響曲全92作(1790年以前のもの)は、ハイドンの創作時期に関わらず、
「オーボエ2、ホルン2(&バスと共に吹くバスーン)」編成が40作品(バスーンが独立したものを加えると42作品)と、対象全体の45%を占めています。これは、交響曲、という曲種に対する当時なにか特別な考え方があったためなのでしょうか?・・・とくにハイドンの場合、モーツァルトと違って歌劇の序曲としてのシンフォニア、というのは、こんにち交響曲と呼ばれている作品には殆ど含まれていないようです。現在、研究されて何か分かってきていることがあるのでしょうか?

・エステルハージ家のオーケストラには最初からフルーティストが雇用されていたにもかかわらず、「朝」・「昼」・「夕」の他2曲を例外として、オーケストラを拡大した1766年以降の作品にならないと交響曲中にフルートが定着して用いられていないのには、何か事情があるのでしょうか?
 同じく、資料Aによりますと1776年から78年にはクラリネット奏者も雇用されていたそうですが、エステルハージ家時代までの交響曲にクラリネットを採用しなかったのには特別な理由があるのでしょうか?
 
・少ない例外を除いて、バスーンが独立したパートとして扱われるのは1766年頃のオーケストラ拡充後になってからと見受けます。これは同じ時期の他の作曲家にも見られる傾向なのでしょうか?あるいはハイドン固有、またはハイドンの発案があとで流行した、と考えた方が良さそうでしょうか?
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<参考>
確認をとった方法、内容は下記の通りです。
まず、資料Aにて以下を確認しました。
ハイドンの属した、または管理下にあったオーケストラの規模
(シュテファン寺院を除く)

ア)モルツィン伯爵の楽長時代(1759-60)48頁
 推定〜ヴァイオリン6、ヴィオラ1、バス1(バスーン1かチェロ1、もしくは両方)
    オーボエ2、ホルン2、バスーン2
    
イ)エステルハージ家(1761-65)
 1762年の記録(59頁、声楽家を除く)
 ヴァイオリン5、チェロ1、コントラバス1、フルート1、オーボエ2、
 ファゴット2(うち1名はヴィオローネ兼務)、ヴァルトホルン2
 
ウ)エステルハージ家(1766-90?)
 1766年の記録(83頁、声楽家を除く)
 ヴァイオリン6、チェロ1、ヴィオローネ(コントラバス)1、フルート1、
 オーボエ2、ファゴット2、ヴァルトホルン4
 *トランペットとティンパニは必要に応じ増員
 *クラリネットは1776-78年のみ置かれた
 
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次に、上のア〜ウの時期におおよそ当てはまる創作時期ごとの交響曲の編成を資料Bにて確認しました。推定を含め1790年以降の交響曲については、確認はしましたが、除外します。番号はホーボーケンのものです。年代推定は資料B各巻記載の年代を目安にし、よく理解できなかった場合はAによりました。但し創作順は度外視しました。
管楽器の規別。バスーンはバスからの独立性が薄い場合は除外(一緒に演奏されていたと推定されても【スコア頭書の編成表に含まれていても】、モーツァルトの場合同様、パートとしては除外して考えるのが妥当かと考えました。これが正統な考え方なのかどうかは知りません。緩徐楽章を除き、バスーンは1本は必ず演奏に参加していたのではないかと思っているのですが・・・確認出来ません。ハイドン全集のスコアだと Basso e Fagottoとあるものの、モーツァルトで同規模のシンフォニーは必ずしもそうではないのですよね。同じランドン博士が校訂に関与しているのかと思いましたが、これも違うのでしょうか?・・・そのことは、とりあえず措きます。)

確認対象:全92曲(但し、「ロクサーヌ」第1稿・第2稿を別々にカウント)
ア)全20曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計14曲
   交響曲A、交響曲B、1、2、3、4、5、10、15、16、17、18、19、27  
  (2)ホルン2・・・計1曲
   11
  (3)オーボエ2、ホルン4、ティンパニ・・・計1曲
   32
  (4)オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計2曲
   20、33
  (5)オーボエ2、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ・・・計1曲
   ※エステルハージ家最初期の可能性もあるか?
   37
  (6)オーボエ2、ホルン2&独奏バスーン、チェロ2(?)・・・計1曲
   108(楽譜未見)
   
イ)・・・ただし、第6〜8番(朝・昼・夕)は協奏交響曲と考え除外する。
  全14曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計11曲
   12、14、21、22(哲学者〜オーボエ2をフルート2に置き換えた異版有)、->「お答え」参照
   23、24、25、18、29、30(アレルヤ)、40
  (2)オーボエ2(中間楽章フルート2)、ホルン2・・・計1曲
   9
  (3)フルート1、オーボエ2、ホルン4・・・計2曲
   13(ティンパニを含む、1763年)、31(ホルン信号、推定1765年)
   
ウ)全58曲
  (1)オーボエ2、ホルン2・・・計15曲
   26(ラメンタツィオーネ)、34、35、36、43(マーキュリー)、44(哀悼)、
   46、47、49(ラ・パッショーネ)、51、58、59(火事)、64(異変の時)、
   65、57(スコアに無いティンパニのパート譜、有)
  (2)オーボエ2、バスーン1、ホルン2・・・計2曲
   45(告別)、52
  (3)オーボエ2、バスーン2、ホルン2・・・計4曲
   55(校長先生)、66、67、68
  (4)オーボエ2、ホルン4・・・計1曲
   39(ト短調)
  (5)オーボエ2、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ・・・計1曲
   37
  (6)オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計5曲
   48(マリア・テレジア)、50、60(迂闊者)、63(ロクサーヌ)、69(ラウドン)
  (7)オーボエ2、バスーン1、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計1曲
   56
  (8)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン2・・・計3曲
   63(ロクサーヌ)第2稿、71、72
  (9)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2・・・計14曲
   62、74、76、77、78、79、80、81、83(めんどり)、84、85(王妃)、87、
   89、91
  (10)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン2、ティンパニ・・・計1曲
   53(インペリアーレ、終楽章バスーン2の異版、フルート・ティンパニ無しの異版有)
  (11)フルート1、オーボエ2、バスーン1、ホルン(またはトランペット)2、ティンパニ
   ・・・計1曲
   82(熊)
  (12)フルート1、オーボエ2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ・・・計1曲
   41
  (13)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、ティンパニ・・・計1曲
   61
  (14)フルート1、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ
   ・・・計7曲
   70、73(狩)、75、86、88(V字)、90、92(オックスフォード)
  (15)フルート2、オーボエ2、バスーン2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ
   ・・・計1曲
   54
  ※第63番については、スコアに無いティンパニのみ1種、
   トランペット2+ティンパニ2種のパート譜(?)が存在。


お答え(ご多忙中、急いでお返事下さったもので、今でも大変感謝をしております。)

今、資料当たっている時間がないので、すべて記憶を頼りに:以下、個別に:

*フルートは、宮廷での音楽教師の役割も兼ねていたためではないかと思います。宮廷の私室にまで入り込んでレッスンや室内楽をするために、フルート奏者は特別な待遇を受けていたということですが、どの資料で読んだか記憶なし。またアイゼンシュタットでそうであったかも推測です。演奏会に出演しない音楽家を雇っておくのも変なので、たぶんそういう事情ではないでしょうか。教会音楽とオペラだけ演奏したのも変ですし。

*ファゴットの低音強化としての使用はほかの作曲家にも見られます。常に一緒に行動させているのはバロック時代から同じだったと思います。チェロにエンドピンがなかったこと、ガット弦の張りが弱かったためか、音量が小さかったのではないかと思われ、モーツアルト「イドメネオ」初演の編成(だったと思う)などで、ほかの弦楽器に対してチェロの数をとても多く編成しているなどの事情から推察できます。これを一括的にファゴット付きとして編纂している理由については校訂報告書の序文にあったように思いますが記憶ちがいかも。ベーレンライター新モーツアルト全集の序文にはその問題を論じてあります。

*オーボエとホルン2づつを持つ弦楽合奏が最小限の管弦楽であったことは事実と思いますし、アカデミーのためが多かったハイドンの室内型の交響曲にはその編成で充分であったのではないでしょうか。祝祭型はそれでもかなりの数に感じています。フルートの追加、ホルン複調、ホルン4などの編成、独立ファゴットパートなどは劇場期からの特徴なのですね。はっきり調査していませんでしたので感謝いたします。(<-勿体ないお言葉!)

*6〜8を協奏交響曲として除外する必要があるのだとしたら、13,31,72なども同様かと思います。なお、72は現在の研究ではあなたの言う「イ」の時期に分類されており、そのことはミニスコア日本語版ランドンの序文にもあります。

*劇場充実の時期であったため、(ホルン4も)オペラ用にクラリネットを雇用していたのではないかと思います。資料に当たれないのでオペラの楽器編成がわからないのですが・・・

*ハイドンの音楽が今日演奏されない事情が楽器編成にあるとするには、この比率にどの程度の説得力を持たせるかは微妙な問題ではないかと思います。それ以外の事情のほうが大きいのではないかというのが私見です。

*22番はイングリッシュホルンではないでしょうか。(付記:その通りです)

*エステルハージ5人目のヴァイオリン奏者はヴィオラ奏者

*祝祭楽器(ティンパニ、トランペット)は軍楽隊などから臨時応援(「オーケストラの社会史」ほか)

*触れておられた「月の世界」の序曲や「狩(失われたまこと」)」ロクスラーヌ(劇音楽)などはパスティッチョであったと記憶しています(違うかも・・・)。60粗忽者(同じく劇音楽)もですね。モーツアルトのオペラ序曲が交響曲であった例というのを無学にして知りませんが・・・「牧人の王」??
(記事綴り手付記:「月の世界」等は別の場でやりとりしたなかで採り上げたハイドンの作品。モーツァルトの、歌劇の序曲を「交響曲」に・・・より正しくは「シンフォニア」に・・・仕上げたのは、「アルバのアスカーニョ」の序曲。なお、ご回答者は「無学」などでは断じてありません。)

(以下、ここに掲載しなかった、事前にしていた別の質問へのお答え)
*ハイドン作品の高度さ、複雑さが今日の聴衆への受容を妨げているというのは完全に作品の内容からはっきりと感じられることです。むしろ、ベートーヴェン以降が異常なまでに大衆的に、(弦楽4重奏曲などと比較して)単純に交響曲を創作していると言えるかも知れません。

*筆写、無断の出版などがあったのは事実ですが、弦楽4重奏曲なども宮廷外の出版のみのために書いているところがあり、これらも大変高度な内容であるため、こうした(高価であった)18世紀の出版譜(パート譜)の購入者はすべからく宮廷楽団を保有する貴族、ないしは大きな修道院などであったと思われます。素人が楽しみに買う(演奏を前提としない)ならばスコアの出版が先行すべきだからです。ハイドン交響曲の聴衆のほとんどが教養階級であったという推測は出版の多さによって変動するものではないのです。(大崎滋生:「文化としてのシンフォニー」「オーケストラの社会史」「音楽史の形成とメディア」同じく未出版論文「ハイドン同時代の出版」>三鷹プレレクチャー資料)

※文中の大崎先生の本は、どれも良書です。ご一読なさってみて下さい。
スコアを読むことの「娯楽性」については、とくに、「文化としてのシンフォニー」に記載されています。

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2007年8月29日 (水)

「古典派」とはなんだったのか

<チャップリンの言葉から>
・人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇
・死と同じように避けられないものがある。それは、生きることだ
(「チャップリン格言集」http://kuroneko22.cool.ne.jp/Chaplin.htm から引用)


少々、タイトルにそぐわない文になっていることを、あらかじめお詫び申し上げます。

クラシック音楽を「ちらっと見」する程度の能力しか持ち合わせませんので、なにか目的を持って生きるためにも、昨年の生誕250年を期に、モーツァルトを1曲1曲聞いていこう、楽譜を読んで行こう・・・そうすることで、一人の音楽家・作曲家が18世紀後半をどんなふうに感じながら生きたのか、少しでも自分も感じ取ってみたい、などと考えてきました。
1年以上経ってまだ、彼の35年の生涯のうちの、18歳の作品までをフーフー言いながら追いかけることができたところです。そのうち、肝心の自分の最大の相棒である「フーフー」の片割れ、自分の命のいちばんの支えである女房が昨年暮れに急死してしまい、
「モーツァルト・フォローも休止かな」
などと、つまらぬ駄洒落しか思いつかなくなるていたらくになってしまいました。

それでも、自分が生きる力が欲しかった。
私は「鬱」ではありますが、肉体的には健常者です。これから自分の将来を決め、夢をかなえていく、大切な子供も二人います。
生きていなければならない、と思いました。

こんな環境下で綴り続けることを良く思われない方もいらっしゃるかもしれませんが、女房を失っても、子供が健全に育つことを妨げず、自分は自分の課題を持ち続けることが、女房への最大のはなむけだ、とも信じてきました。

おかげさまで、通勤電車の中で資料を読み、休憩時にノートにメモを取りして原稿を作り、ブログをつづり続け、ときにすてきなコメントを頂きつつ、モーツァルトの「生き方」を、楽譜を通して学ぶことも継続できております。
たくさんの方々のおかげでもあり、また、こんなおとうちゃんを信じてくれる子供たちのおかげでもあります。

心から御礼申し上げます。

こんな経緯で「モーツァルト」を辿ってきて、ようやく有名作が続出する17,8歳頃の作品にまで追いついてみたら、今更ながら実感させられることがありました。
「彼も、彼の天才だけで生きてきたのではない」
・・・当たり前といえば当たり前の、そんな事実が、目の前に迫ってきたのです。

では、他に何があって、彼はその生涯を自分なりに支えてこれたのか。
このことに、取り組まなければならない、と、最近、痛いほど思うようになりました。

モーツァルトの創作活動の成否には「人様のおかげ」も、当然ありました。
一方、「人様への反動」というのも、18歳以降を視野に入れる時、今後の自立に向けては大きな要因となっていきます。

人は生まれてくるには母親の胎内から出てくることを必要としますが、死ぬときは一人です。

今日、世の中には悲しいニュースがあって、
「七十代の寝たきりの妻を介護していた、やはり七十代の夫が数日前に心筋梗塞で亡くなり、妻も介護を受けられなくなったためにまもなく亡くなっていたのが発見された」
というものでした。
悲しいけれど、「幸せなご夫婦でもあったなあ」と感じました。
死ぬ日が長く隔たる夫婦に比べて、その幸せ度、不幸度にどれほどの違いがあるかをとやかく言うつもりはありませんが、結果的には奥様も「自立した死」を、最愛のご主人のすぐそばで、あまり時間を隔てずに亡くなることが出来た。・・・それを「幸せ」と言ってしまうのは不遜ではありますけれど。
死の苦しみは、味わう長短に関わらず、筆舌に尽くし難い。そして、それは孤独に味わわざるを得ないのが通常です。その苦しみと孤独の時間が可能な限り短く、しかも最愛の人の側で、その人とほどを経ず過ぎてくれるのは・・・それが自死であっては絶対にいけませんが・・・もしかしたら人生最大の幸福かも知れない、と、ふとそんなことを感じつつ、ニュースのお二人のご冥福をお祈りしました。

「死」をいかに意識し得るか、というのは、ある意味で、人間の自立のバロメータではないか、ということにも、同時に思い至りました。なぜなら、「死」に対し自分なりの像を持ってしまうのは、自分が育ってきて、命の花を咲かせて行く過程の中で、やがて迎えるであろう実りを如何に自立させようか、と考えだしたかの道標にもなり、多くの場合、それは「育ててくれた」環境への、最大の反動(あるいは、反抗)だからです。
彼の伝記には必ずと言っていいほど引用される、31歳のモーツァルトが、命の火の消えかかった父に送った手紙の次の一節は、フリーメーソンの思想の影響だ、とする人や書物も存在しますが、背景は別にどうでも良いことです。

「死は・・・正しく考えますれば・・・僕たちの生の真の最終目的ですから、僕は、この人間の真実で最良の友と、数年来非常に親しくなっています。」(海老沢敏 訳)

この言葉がもし、父よりも先立つ子のものであったとしたら、親の身としては非常に不孝きわまりない言葉だ、と受け止めることでしょう。私が、丈夫なうちに私の子からこんなことを言われたら、やはり怒りだしてしまうかもしれません。あるいは、先立たれてしまったら・・・

だからこそいっそう、「死」を見つめる瞬間が自己に訪れることは、「子」の立場としては、より完全な「自己」の確立を意味するものなのではないか。。。

従って、モーツァルトがこのような「死」に対する観念を持つに至った過程・環境については、たとえば「フリーメーソンへの所属」とか「臨死の父への慰め」などの直接的な現象よりも、時代的な背景、価値観にどのような多様性があり、その中から彼がどのような精神を持って選択したかを突き止めて把握することが、非常に重要になってくるのではないか、と、さように考え始めたところなのです。
裏返せば、
「死を見つめ得るに至るには、生を如何に尊重し、あるいは軽んじたか」
を・・・私が取れるのは、たまたま「クラシック音楽」を媒体とする手段、しかも、小指の上のホンのひと雫の水滴しかないものですから・・・自分の狭い視野で可能な限り広く見つめる努力をして行くことでしかない、であればもう、大人へと脱皮して行くモーツァルトが受容したであろう外部世界を出来るだけ広く、しかし、深く見つめるしかない。

当時は思想史的には「啓蒙主義の時代」ですが、音楽史的には「古典派の時代」だと呼びならわされてきています。
ですから、音楽史上の「古典派」とは何であったのか、それはどういう精神のもとで生命を得、保ち、失い、受け継いで行ったのか。
そのことを、どうにかして、もう少し突っ込んで見て行きたい。そこに、なにかしら、いまの私たちに向けての啓示が隠されているかもしれませんから。

ここに、「古典派」の、モーツァルトを含め代表的な三人の作曲家の、人間としての「誕生」・「成長」・「自立」・「結婚」・「死」を簡単に比較して、今後の指針とし、今回の、なんだかわけの分からない文の締めくくりと致します。モーツァルト以外は残念ながら楽譜は今後しばらく入手出来ないだろうと思いますが、どう言う訳だか、家内を失った昨年、そんなことが起ころうとは夢にも思わないまま、年の半ばから憑かれたように音声資料を収集しました。文献は、海外に疎いせいもあり、収集する意欲はあったものの、少ない成果しか上がりませんでした。いずれにせよ、神様が
「お前には考えなければならない時がすぐやってくる、急げ」
と、こんな真似をさせたのだと思いますから、モーツァルトに限っていた視野を、モーツァルトほどにまとめてとはいきませんが、あと2人の作曲家にも徐々に広げて行きたいと思っております。

1)モーツァルト
・誕生〜音楽家の家
・成長〜神童として殆ど海外への旅と人びとの賞賛の中で。20歳で、生国外で母の死に遭う
・自立〜大司教コロレドの臣下に足蹴にされて放り出され、定職なきに等しく
・結婚〜父の大反対を押し切って
・死〜貧困のうちに、栄光をほんの少しだけ目の前にして、29歳の妻を残して

2)サリエリ(サリエーリ)
・誕生〜商人の子として。13歳で母を、14歳で父を失い孤児となる
・成長〜引き取られた家で音楽家ガスマンに見込まれ、養われる
・自立〜ガスマンの死に伴い、宮廷歌劇場の作曲家・指揮者となる
・結婚〜所得が小さく舅に反対されるも、皇帝の(目立たぬ)支援で幸福な恋愛結婚
    しかし、妻には57歳の時に先立たれる
・死〜「モーツァルト暗殺者」との根拠のない誹謗を受けつつ、
    生前の栄誉を無視されて貧困のうちに
    
3)ハイドン
・誕生〜車大工の家で(ただし、近年、貧困家庭説は否定されている)
・成長〜ほぼウィーンのシュテファン寺院の児童合唱団員として
・自立〜合唱団を追い出されたあと、街角で演奏しつつ。やがて貴族に認められ、専属に
・結婚〜舅の意向で恋人の姉の方と結婚させられたが、生涯のほとんどの間別居
・死〜フランス軍のオーストリア侵攻の間、フランス兵からも敬意を表され、栄誉のうちに

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