2007年6月29日 (金)

デュ・ピュイ〜スウェーデンへ移住した大陸作曲家

東京ムジークフロー第44回定期演奏会の、演奏の音はこちらで聴けます。併せて(私個人の偏った視点ではありますが)反省もお読み頂けますよう、お願い申し上げます。


チャイコフスキーコンクールヴァイオリン製作部門で優勝・第2位・第4位を獲得した菊田さん、高橋さん、天野さんについて紹介させて頂いた記事はこちら

7318590007051モーツァルトのファゴット協奏曲について比較資料をあたっている際、それまで知らなかった一人の作曲家と出会いました。
名を、Edouard Louis Camille Du Puy(1770-1822)といいます。

生没年から分かるとおり、ベートーヴェンと同じとしに生まれ、ほぼ同じ時期に生涯を送った人です。
ですが、その活動範囲が違う。

サイトを探しましたが詳しい伝記が見当たりません(Yahoo!翻訳のリンクはこちら。生涯前半のスェーデンでの活動について触れられていないのが分かります).
で、いま、入手したCD
"The Romantic Bassoon" BIS BIS-CD-705
の記載により簡単に彼の経歴を述べます。

名前から察せられるとおり、フランス生まれ(南部の小村らしいとのこと)のようですが、名前もEdouard Louis Camille Du Puyが本名なのかどうか分からないとのことで、幼少期についてははっきり分かりません。
面白いのは、その経歴です。
4歳で誰かの手によりジェノヴァに連れて行かれ、そこで音楽の才能を開花させると13歳でパリに移住し、あらためてヴァイオリンとピアノを学んでいます。1786年にプロシア王室管理下のオーケストラでそのリーダーとなり、ベルリンのファッシュという人から作曲を学んだとの事です。
1793年に、今度はなんと、スウェーデンのストックホルムに移り、そこで宮廷管弦楽団のヴァイオリン奏者となりました。さらに、1799年には、同じストックホルムでソロのオペラ歌手にまでなっています。
ところが、彼はナポレオンの強烈な崇拝者でした。当時のスウェーデン王、グスタフ4世アドルフはデュ・ピュイとは正反対の、強烈な反革命論者でした。そのため、99年のうちに、ストックホルムを離れ、デンマークへ移住することを強いられます。そのデンマークも安住の地にはならず、1809年にはコペンハーゲンをも離れなければならなくなりました。
幸いだったのは、翌1810年にはナポレオンの勢力が北欧にも強く及ぶようになり、グスタフ4世アドルフが退位に追い込まれたことでした。デュ・ピュイは再びスェーデンに迎え入れられ、2年後、宮廷管弦楽団の指揮者となります。さらに1814年にはウェーデン王立音楽アカデミーの教授に就任します。

スウェーデンに移住して活躍した作曲家としては、近年、前王グスタフ3世の元で交響曲を多作したドイツ人、あるクラウスが脚光を浴びてきました。デュ・ピュイは、その後のスェーデンの世相を負って生涯を過ごした人物だったわけです。

ファゴット協奏曲イ短調(死後の1828年に初演。 )しか耳にしていませんが、ヨーロッパ全体の「ロマン派」を考えるとき、ベートーヴェンとは違う、こうしたニュアンスの音楽も存在したのだ、ということについて、これからの私たちはもっと認識を深めていかなければならないでしょう。

デュ・ピュイやクラウスの例をみてみますと、18世紀末から19世紀初頭にかけての、少なくとも日本人のアタマでイメージされているヨーロッパ史は、もう少し範囲をひろげて認識しなおされる必要があるかもしれません。
音楽家で言えば、ハイドンはイギリスで大金持ちになったとか、モーツァルトはその死でロンドンに行き損ねたとか、ベートーヴェンはウィーン人に引き止められて第九の初演をロンドンで行なうのを諦めたために却って大損をしたとか、もっぱらドイツ圏の有名作曲家についての動態しか把握されていないのが、変わらぬ現況です。

ナポレオンの影響にしても、せいぜい西ヨーロッパ諸国とロシア、イギリスとの関係だけが強調されていて、実際には同時期に、とくにロシアに対して大きな影響を及ぼしたグスタフ3世などについては度外視されています。
そうした政治的な駆け引きを細かく観察することと同時に、世情とのかかわりで文化人がどのような移動をしていたのか、調べてみるのも、なかなか面白いかもしれません。
・・・いいネタ、ないですかね?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月15日 (木)

グラズノフ略伝(管弦楽作品を中心に-0)最初に

場つなぎですみません。
ショスタコーヴィチ第5の終楽章、何とか読解が出来たのですが、まだ作業が終了しません。
モーツァルトも、先に進むための下書きをしていません。
そこで、ショスタコーヴィチ前史として、参考に、以前グラズノフの交響曲を演奏した際作成した伝記を掲載します。

文章の下手さ、多少多々の主観はご容赦下さると共に、ご自身なりにお読み替え下さい。参照・参考にした書籍やCD・DVDを、最後の節でご紹介しておきます。

凡例::
文中の( )内は、参照した資料です。:書籍・CD(のパンフレット)の別なく、次のような通し番号としています。〜1桁は事典類、10番台以降は書籍、50番台以降はCD・DVD(70番台以降はグラズノフに関係の深い、他作曲家の参考作品。)100番台以降はウェブサイト。なお、曲目についての註で:(未聴)とあるものはCD入手可能なことを確認出来ていながら、私がまだ購入したり耳にしたりしていない作品、:(未見)は私がCD他の資料を見つけかねているものです。CDは輸入盤がほとんどで、値段もナクソス盤以外は廉価なものはほとんどありません。(タワーレコード新宿店での1枚あたり平均価格は2,510円でした。)ご購入に際しては「ふところ具合」と充分ご相談下さいね。なお、文中、耳にした全ての曲に触れることが出来なかったこと、かつ、どの曲も決して熟聴の上文を綴たわけではないことを、あらかじめお詫びします。

「確かプーシキンの作品だったと思うが、このような言葉がある。『いまここにいない人が忘れられるのは、自然の運命である』。これは恐ろしいことではあるが、しかし、真実である。これに抵抗しなければならない。いったい、どうすればよいのか。」(17.p72)
「『忘れられた昔の作曲家』と書き立てられている。だが、もしかしたら、しかるべくして忘れられた昔の作曲家なのではないだろうか。思い出すことなどまったく必要なかったのではないだろうか。」(17.P133)
いずれもショスタコーヴィチ(あるいはヴォルコフの「創作」したショスタコーヴィチ、資料一覧の註を参照)の発言ですが、グラズノフその人についてなされたものではありません。現代では「凡百の」と決めつけられている多くの作曲家が、忘却の彼方に姿をくらましてしまっています。その数は百では収まらないでしょう。それでもさらに、これから「凡百」という殿堂に加わる多くの作曲家は増え続けるはずです。作曲家に限らず、全ての職種の人間の前にプーシキンの言葉そのものの運命が待ち受けているし、「凡百」の一員に加わるのが当然と思っている私達(お読みになっているあなたがそうではないのでしたら、ごめんなさい)は、だからといってそれほど深刻な「運命」だとまで感じることはありません。従って、「これに抵抗しなければならない」とまで考えることは、まず無いでしょう。私達は、忘れられるべくして忘れられていく。
グラズノフは、そのような「凡百」に加えてよい人物だったのでしょうか。彼は、忘れられつつあり、忘れ去られていくのでしょうか。
「はたして、今日、われわれはグラズノフをその音楽のせいで愛しているのだろうか。はたして、われわれにとって彼の交響曲は、リムスキイ=コルサコフが語っていたような「新鮮で強固なもの」として残っているだろうか。(中略)グラズノフの交響曲を聞いていると、わたしは退屈になってしまう。そろそろ再現部に入るのかなと思っていると、いや、そうではなく、相変わらず展開部がつづいているというわけである。グラズノフの場合、交響曲の終楽章がとりわけうまくいっていない。活力と緊張に欠けているのだ。グラズノフのほとんどすべての作品に共通する性質である。」(17.P333)
こうした辛辣な批判が、グラズノフについて最も多くの情報を含む書籍としては日本で唯一手軽に買える文庫本の中に存在しているため、大多数の日本人には、グラズノフはやはり「忘却される凡百」の一人なのだ、という印象が強いのではないでしょうか。
TMFでは今2005年、彼の交響曲を定期演奏会でとりあげました。5年ぶり、2回目のことです。
当団楽事委員長の益田さんという「発掘の名人」がいなければ実現できなかったでしょう。
ここまで引用してきた『ショスタコーヴィチの証言』の言葉にも関わらず、その交響曲・・・2000年には第1番でした、今回は第4番を演奏します・・・は、上の批判とは裏腹に、魅力的な音楽だ、と、いま私達は(少なくとも私個人は)感じています。
「グラズノフは、『凡百』の一人であるはずがない。」
明確にそう結論付けをしたいところです。
ところが、この交響曲を書いたころグラズノフはどういう境涯にあったのだろうか、と事典類を紐解いてみても、彼の人間性を示してくれる文には全くと言ってよいほど目にすることが出来ません。解説行数はバッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどの「大家」に比べると2段階くらい落ちます。それでも全体のランク付けが6段階あるとすると「中の上」扱いです。まだマシな方だとはいえ、このクラスの解説文では、私達が就職活動の時書いた「履歴書」程度の内容を載せ得るのが関の山で、
・「性格:おっとり型」
・「趣味:泥酔」
・「尊敬する人物:フランツ・リスト」
・「好きな言葉:隣人を愛せ」
・「血液型:O」
程度までの情報を紋切り型に並べておしまいです(ちなみに血液型は載っていませんでした。AOのA型かO型か、どっちかのような気がするのだけれど・・・)。
でも、せっかくこの人の音楽を「魅力的だな」と思って演奏するのです。私としては、履歴書を覗くだけで満足せず、どうしても「面接したい」ところです。採用後の面接、というのもおかしな話ですが、私は人事部採用担当ではありませんので、「演奏心得」の訓示を垂れる・・・あ、立場が逆だ!・・・訓示を垂れてもらうためにも、是非本人と会っておきたいと切望せずにはいられませんでした。かといって、あの世に電話して面談期日を決めるわけにもいきません。そこで、なるべく多くの本人作品、同時代人の記録や資料を熱心に閲覧するふりをしながら、彼の方ですすんで私の「枕元」に立って話しかけてくれるようになるのを待ってみることにしました。・・・なんて。(井上ひさしなら、こうやって小説を始めるんですけどね。)

うとうとと彼の作品のCDを聴きながら布団に入っていた某月某日、雨のしとしとと降る深夜、頭の後ろの空気がなんだか湿っぽくて、それもただの湿っぽさではなく、妙に重たい上に、どこか酒臭いので、「なんだろう」と思ってちょっと起き上がってみると・・・などという悪のりはこれくらいにしましょう。その某月某日に、とにかくこんな次第で「面接」は実現しました、と、お考え下さい。これを綴った当時は夏至に向かって日が長くなっていくころでしたから時間は充分になく、聞かせてもらえた情報量も期待を遙かに下回る少ないもので、ちょっと残念ではありました。が、少なくとも「履歴書」以上の人間像に触れることは出来たのではないかと思っております。接しえた人間像がどの程度具体的か、はなはだ心もとありませんが、「履歴」と「面接」の結果を突き合わせつつ、次節以降6つに分けてレポートしていきます。

123456附(資料一覧)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝1)出生・成長・デビュー

123456附(資料一覧)

「グラズノフ社」といえば、晩期帝政ロシアでは結構有名で大きな出版社兼書店だったはずです。19世紀の誰かの人物伝を読んだとき、「グラズノフ」という出版業者名に何度か出会った記憶があり、ロシアに縁が深かった人物、特に音楽家ならベートーヴェンかな、と当たりをつけて資料を探しなおしましたが、残念ながら今回は見出すことが出来ませんでした。音楽関係ではなかったかも知れません。(どこかで見つけた方、ご存知の方がいらしたら、教えて下さい。)とにかく、ペテルブルクにあったこの羽振りのいい出版社が作曲家グラズノフの生家だということは、彼の順調な経歴や生き方、作風を大きく決定付けていると思われます。

アレクサンドル・グラズノフ、愛称サーシャは、1865年7月29日(新暦では8月10日)、「グラズノフ出版社」の長子として生まれました。父親について詳しいことは調べられませんでしたが、母親イェレーナ・パヴローヴナはペテルブルク音楽院の卒業生で、ピアノを巧みに弾きました。また、グラズノフ家の富裕さのおかげでしょう、家庭に日夜さまざまな素人音楽家を集めては、あきれるほど多くのアンサンブルを繰り返していました。「『サーシャは「文化の掃き溜め」の中で成長したようなものだ』、とストラヴィンスキーなら皮肉っぽく言ったろう」と評する解説者もいるほどです。(51,52)

そんな幼少期、いつのころからか、サーシャは夜中に一人こっそり起き上がって、その日聴いた音楽を思い出しては楽譜に書き留める習慣を身に付けました。「どんな細かいところまでも、思い出して書き留めた」と、彼は後年回想しています。

サーシャの才能に気づいた母親は、自ら息子にピアノを教えていました。母親が己れのレベルを超えてしまった彼に正規のピアノ教師をつけたのは、サーシャ9歳のときのことです。教師の名はイェレンコフスキー。伝記の明らかでない人物ですが、以後ペテルスブルクを何らかの事情で去るまでの5年間、イェレンコフスキーは優秀な弟子に対し適切な方法で指導に臨みました。指導法は、どうも、ピアニストとしての育成を目指したものではなかったようです。音階や三重トリラーといった技術的課題を与えるのではなく、モーツァルトやベートーヴェンの古典作品を次から次に教え込む、というやり方でした。(51)
イェレンコフスキーの指導を受けた最後の年から、サーシャはピアノ曲の作曲を始めています。サーシャの兄弟姉妹は何人いたか分かりません。何人いたか分からないその弟・妹たちは、サーシャが音楽教育を受けているあいだは、誰もその傍に行くのを禁じられたということです。すなわち、サーシャは、温室状態の中で英才教育を受けたのです。

1879年、イエレンコフスキーがペテルブルクを離れると、母イェレーナは息子をバラキレフのもとへ連れて行きました。「力強い仲間」、すなわち「ロシア五人組」の主宰者である彼は、帝立ペテルブルク音楽院の権威に対抗して62年に「無料音楽院」を設立するなど、アカデミズムに対し尋常ならざる対抗意識を持っていた人物です。帝立音楽院出身の母が、なぜわざわざ、それに対立していたバラキレフに息子を引き合わせたのか興味深いところですが、本当の事情はわかりません。彼女の日常のアンサンブル仲間の影響でもあったのでしょうか。サーシャに会ったバラキレフは、少年の並々ならぬ才能に目を見張りました。すぐに、この少年を自分たち「五人組」の後継作曲家として育成することに意を決したようです。

バラキレフはこのとき42歳。才能を認めた相手には即座に「交響曲を作りなさい」と勧めてしまうほど意気軒昂な人でしたが、一方で自分にも仲間にも、一度書いたものでも何度も改良していかなければならない、という厳しい創作態度を望むあまり、本人自身が最初の交響曲を完成したのは遥か後の1897年となりましたし、仲間も、交響曲やオペラのを仕上げるのには大変苦慮しました。「五人組」の中でそれまでに交響曲を2曲以上仕上げ得たのは、最若年のリムスキー=コルサコフ(79年には35歳)と最年長のボロディン(同46歳)だけです。ムソルグスキーとキュイは、とうとう一作の交響曲も残すことは出来ませんでした。バラキレフ自身も、ほんの数えるほどの交響詩以外は、ピアノ曲、歌曲を中心とした作品を発表するに留まっていました。(75)
サーシャの創作能力に注目したバラキレフは、まだ幼い相手に対する自身の指導方針は厳しすぎるとでも思ったのでしょうか、あるいは既に管弦楽法の素晴らしさでは定評を得ていたリムスキー=コルサコフのほうが天才少年の指導者として向いていると判断したからでしょうか、「五人組」最若年の、仲間内でリムニャーニンと呼んでいたリムスキー=コルサコフの手に、サーシャを委ねることを決めました。

先立つ1871年、リムニャーニンは、ペテルブルク音楽院に新風を巻き込もうと図った新院長アザンチェフスキーから、教授として招聘されました。作曲家として既に定評を得ていたとはいえ、それまで我流でしか創作していなかった、かつ当時はまだ現役の海軍大尉として勤務していたリムニャーニンは、迷いました。音楽院の教授になることは、アカデミズムと一線を画してきた「五人組」の仲間と精神を裏切るのではなかろうか、という苦悩も大きかったのではないかと思われます。迷った末バラキレフに相談したところ、「アカデミーの牙城に乗り込んで、真のロシア国民音楽を想像するんだ!」とかえって励まされ、結局彼は招聘に応じることとなりました。以後、正規の音楽理論を身につけていた訳ではなかったリムニャーニンは、苦労して独学を重ね、75年にはチャイコフスキーに書簡で対位法勉強の成果を見てもらうなどしつつ、学生に知識不足を見て取られたことが一度もない名教授ぶりを示しました。(13,75)

努力家のリムニャーニンは、サーシャの師としては非常に適切な人材だったといえます。サーシャ少年は彼から、和声法、対位法、管弦楽法の指導を受けました。指導を始めたリムニャーニンは、天才としか思えない少年の吸収力に、ただ驚くばかりでした。「温室育ち」の幼く柔らかい脳は、しばしば高い吸収力を示すものですし、実例も豊富にあります(音楽ではメンデルスゾーン、思想家ではパスカルなど)。けれども、リムニャーニンがこういうケースに遭遇したのは全く初めてでしたし、それだけに驚嘆の思いも強かったのでしょう。彼はこう叫んでいます。
「サーシャは一日毎になどというものではない、刻一刻、成長するんだ!」

リムニャーニンは1年半たつとサーシャに宣言しました。「もう教えることは無い。君と僕とはもう師弟じゃない、友達同志だよ。」

リムニャーニンの好意的な宣言にも関わらず、サーシャは81年までは習作を続け、アドヴァイスをもらう、という姿勢を保ちました。1878年から81年にかけて習作期のサーシャが創作したと分かっている作品数は26、うち大半がピアノ曲(ソナタは3曲)ですが、歌曲数曲、弦楽四重奏のための「5つの小品」などもあります。(101)

81年3月、「五人組」の中でひときわ異彩を放っていたムソルグスキーが死去しました。42歳の誕生日を迎えて数日たったばかり。アルコール中毒が募り、廃人同様になっての惨めな死でした。欠員が生じた「五人組」構成員が持った危機感からでしょうか、サーシャは周りの激励を受け、前年の夏から構想を練っていた最初の交響曲に本腰を入れました。構想は80年夏、リトアニアにある避暑地、スラヴの人々の間では名高いドルゼニキというところで練り始められました。音楽の精神はバラキレフの汎スラヴ主義に強く影響を受け、最終的には主にポーランド民謡を素材にした、親しみやすく平易なものに仕上がりました。(58)
(何と言うポーランド民謡なんでしょう? これは分かりませんでした。)
先取りしておくならば、汎スラヴ、であるからには、スラヴ系民族の素材で、かつロシアそのものではない材料こそが説得力を持つのだ、という、周囲の大人のおせっかいもあっただろうことは、先々のロシア革命当時のサーシャの立居振舞を検討する時、重要なポイントになるでしょう。

サーシャの交響曲第1番ホ長調は、1882年3月17日(新暦29日)、ペテルブルクに於いてバラキレフが主催した音楽会で、リムスキー=コルサコフの指揮により初演され、万雷の拍手をもって聴衆に迎えられました。
鳴り止まない拍手に応えて壇上に上がり、緊張した面持ちで、ぎこちなくお辞儀ををした創作の主を見て、聴衆は仰天しました。これほど整然と出来上がった交響曲の創造者が、なんと、学生服姿だったのです。まだ高校生に成りたての、頬に幼い赤みを残した十六歳の少年なのです。
上演の前には、聴衆には、そのことは全く知らされていなかったのでした。
拍手はなおいっそう大きくなりました。
「ペテルブルク市民は、この光景を永久に忘れないはずだ」
誰かがそう呟きました。
事実、後年やはり天才ショスタコーヴィチが十代のうちに第1交響曲で華々しいデビューを飾ったとき、多くのペテルブルク市民が、四十数年前にサーシャ少年がステージ上でぎこちなく挨拶した姿を、懐かしく思い出したのでした。(17)

少年サーシャは、作曲家アレクサンドル・コンスタンチノフヴィチ・グラズノフとして、このように希望に満ちたスタートを切ったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝2)ベライエフとリスト

123456附(資料一覧)

初演は大成功だったとはいえ、グラズノフの交響曲第1番は未熟さが残っています。
どちらかというと南方スラヴ系の暖かいメロディに満ちていて、その点では充分に魅力的ではあるものの、たとえば第1楽章は、その最初の舞曲的主題が堅苦しいソナタ形式の中で執拗に繰り返されること、オーケストレーションが地味であることなどにより、グラズノフがイメージ作家としてはまだまだ貧弱であるという印象が、どうしてもぬぐえません(同型のリズムを持つドヴォルジャークの「スラブ舞曲」と聞き比べてみて下さい)。
師のリムスキー=コルサコフも、この頃までの作品では、後年の「シェエラザード」ほど華やかな音色で作品を飾ってはいませんから、やむをえないことだったかとも思います(75)。
しかし、初演がリムスキー=コルサコフ以外の、グラズノフについて全く予備知識のない人の指揮によってなされていたら、いや、後年「指揮ベタ」と陰口されたグラズノフ自身が指揮したりしていたなら、作品の単調さが強調されて、到底成功は望めなかったのではないでしょうか。
当時のロシア一般人には、大作曲家として既に名を成していたチャイコフスキーは西欧かぶれで宮廷寄りの保守派に見えていた節がありますし、「五人組」は解体寸前だったもののロシア・ナショナリズムの音楽的な体現として共感する民衆も多かったと推測されます。こうした聴衆の心理、少年作曲家によるナショナリズム色の濃い作品の衝撃的な登場、といった要因が、グラズノフのデビューを華々しいものにしたのでしょう。

・・・実際にはチャイコフスキーと「五人組」の関係は一般の理解よりはずっと良好で、チャイコフスキーが幻想序曲「ロメオとジュリエット」を作曲したとき、バラキレフが大いに肩入れしたこともあったくらいです。
「このような標題音楽を生み出せるあなたは、すばらしい!」
それまでいわゆる絶対音楽的作品ばかり書いていたチャイコフスキーに対し、「五人組」は「標題音楽こそ望ましい」という方針を貫く傾向が強く、双方の距離もこの方針の違いによって隔てられていたのですから、「ロミオとジュリエット」は格好の接近材料になった、という次第です。
以後、チャイコフスキーは「テンペスト」や「フランチェスカ・ダ・リミニ」などの標題的傑作を生み出しましたが、後者は「五人組」の気に入らず、距離はそれ以上なかなか縮まりませんでした。(13)
それでも、リムスキー=コルサコフが対位法の学習につきチャイコフスキーの助言を請うたことがあるのは、前述した通りです。チャイコフスキーと「五人組」には相反する流儀があったことは間違いありませんが、いずれも心底ではロシアの大地、ロシアの精神を共有していたことを、ここで一応記憶に留めておくべきでしょう。まもなく、グラズノフはチャイコフスキーからも大きな影響を受けることになるからです。

グラズノフの交響曲第1番が同じ指揮者の手によって2回目に演奏されたとき、客席に一人の商人の姿がありました。終演後、楽屋を訪れたこの業者は、リムスキー=コルサコフに自己紹介しました。「ミトロヤン・ベライエフ(ベリャーエフ)と申します。ロシアの音楽作品を西欧に広めるため、あなたやグラズノフ君の楽譜をどんどん出版していきたいと考えておるんです。いかがなもんでしょうか」ベライエフとリムスキー=コルサコフ、グラズノフの深い関係が、このとき始まったのでした。

市場を下調べする意図があったのでしょう、ベライエフは1884年春、ヨーロッパに旅立ちました。旅行に際し、ベライエフはグラズノフをいっしょに連れて行きました。グラズノフを同行させたベライエフの最大の目的は、この天才少年をワイマールのフランツ・リストに会わせ、少年の交響曲に太鼓判を押してもらうことでした。

ロシアから西欧への大旅行はまだ困難の多い時代だったでしょうが、当時ロシアは1857年クリミア戦争に敗北してから、経済や産業の振興に国を挙げて腐心しており、鉄道網も70年代にはかなり整備されたようですから、少年には幾分でも楽しい旅だったのではなかろうか、と想像してみたいところです。

リストは若手音楽家にやさしく暖かい助言を与えてくれ、支援の手まで差し伸べてくれる貴重な人格でした。そのため彼を慕って訪ねてくる信奉者が絶えず、「ワイマール詣で」という言葉が出来たほどなのは、周知の通りです。
リストに好感を持たない人々からは、彼の若手へのお節介は「名誉欲」からくるものだ、と非難されましたし、彼の作風も
「表面的なヴィルトゥオジテばかりを要求する、浅薄な内容のものばかりだ」
と酷評されました。
若い頃、貧しいピアニスト時代を送り、貴族階級に差別的扱いを受けることを甘んじて受けざるを得なかったリストには、確かに自らが「高貴」でありたい、という強い欲求があったことは否めません。
だからといって彼は娘婿ワーグナーのような政治的野心を持ち合わせた人ではありませんでした。よく言われる「ワーグナー一派の首領的存在」という評価も、厳密に言えば当たっていません。
弟子ビューローと結婚していた娘のコジマがワーグナーの元に走ったとき、リストは怒って以後5年間ワーグナーと絶縁しましたし、それ以前にも何度か二人の関係は悪化したりしています。そのくせ、音楽家ワーグナーの大きな才能を、彼は人間関係の善悪を超えて高く評価し続け、絶縁状態の間も密かにワーグナーの楽劇上演を聴きに出かけたりしていました。
一方、リストは彼に好感を持つことのなかったブラームスへも、讃美を惜しむことはありませんでした。
おのれの魂の「高貴さ」を貫くために、個性豊かな音楽を自己の価値観から否定してはならない、素晴らしいものは素晴らしいと公平に評価すべきである、という信念を、リストは生涯貫いたのであり、若手に対する懐の広さ・深さも、彼にとっては信念の表明の一環に過ぎなかったと言えます。
この年73歳、衰弱の目立ち始めたリストは、周囲への寛容な態度とは裏腹に、これまでの自らの作品が「正当に」評価されることはとうに諦め、孤独な心境に浸っていました。熱心なカトリック信仰から誠意を込めて5年前に作曲した「十字架の道行き」(独唱および合唱)は出版を拒否され、以来、心に深い傷さえ負っていました。(「十字架の道行き」は、当時としてはワーグナーよりも前衛的な無調部分をもち、今日では斬新な作品として再評価を受けつつあります。また、ワーグナーとコジマ夫妻には冷たい評価を受けたものの、3部構成からなる大作オラトリオ「キリスト」は、私は名作だと思います。)
かつてのショパンのような、相互に理解しあい、彼と我との違いを冷静に受け止めあい、演奏会で心から応援しあうことの出来るようなライヴァルも友も、リストは既に、ほとんど失っていたのです。
そんな失意を表面に現わすことなく、リストははるばるやって来たグラズノフの訪問を優しく受け入れ、ベライエフの期待通りに少年の交響曲を高く評価したばかりか、5月にワイマールで行われた「全ドイツ音楽協会演奏会」で紹介の労さえとってくれ、グラズノフの名を一挙に広めるのに大きな役割を果たしたのです。(12,58)
大先輩たち「五人組」が以前から尊敬していたリストに認められたことで、以後グラズノフの作品・作風にはしばしば明確に、このワイマールの大音楽家の影響が色濃く見られるようになっていきます。

ただし、バラキレフやボロディン、リムスキー=コルサコフもそうであったように、受け継がれたのは器楽作品の「標題的な」・あるいは「技術的な」側面に限られています。リストが私的に最も尊重した宗教曲の精神は、リストの最も熱烈な讃美者であったはずの「ロシア五人組」にも秘されたまま、リストの死と共にこの世からは浄化されてしまったのです。

しかも、「五人組」が標榜した「標題音楽」は、リストが理想とした「標題音楽」とは発想にズレがありました。リストのいう「標題音楽」は、「標題によって聴衆に音楽を易しく聴ける指針を与えはするが、最終的には音楽そのものとして、標題とは独立した存在意義を保てなければならない」という高い理想を標榜したものでした。(11)
が、一般人は「標題音楽=ストーリー性を持ったキャラクタリスティックな、すなわち具象的な音楽」という受け止め方をしており(そうした理解は、かつてリストをも感動させたベルリオーズの幻想交響曲が主にもたらしたものです)、「五人組」の「標題音楽」に対する姿勢も一般人同様、リストの精神とはだいぶ開きがありました。そのことに、彼らは生涯は気づくことがありませんでした。付言すれば、チャイコフスキーはリストとは必ずしもしっくり行かなかったものの、「標題音楽」に対する考え方はリストと共通しています。リストとの大きな違いは、チャイコフスキーの理想はあくまで「絶対音楽」に初めから重きをおいていた、という点です(13)。
彼の音楽に対するこの姿勢は、その死後、急速に「五人組」の末裔たちにも浸透していきます。皮肉にも、「五人組」最大の後継者であったグラズノフが、チャイコフスキー的音楽観を代表する次世代へと、最も大きく変貌していくのです(第3交響曲以降)。これにはグラズノフがまだ若々しい脳を持っている間に、リストとチャイコフスキーのいずれにも直接会い、二人の大作曲家から吸収したものが誰よりも多くあった幸運が決め手となったのでしょう。(チャイコフスキーとの出会いは次節で述べます。)

リストの激励も大きな成果でしたけれども、ベライエフとの旅行でフランスからスペインまで足を伸ばし、見聞を広めたことも、年少の作曲家には大きな財産となったことでしょう。作品としては3年後、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20の第2曲、「スペインのセレナード」に、見聞の経験が結実しています。(64)
また、1902年の4曲からなる管弦楽組曲「中世より」作品79の終曲「十字軍騎士」にも、37歳になってなお、少年時の彼の心に深く刻まれたスペインの印象がはっきり顔を出しています。(52)
ベライエフの方も、自分の行なおうとしている商売が各地で成功するだろうという感触を得たのか、帰国するとさっそく、リムスキー=コルサコフ他の著名なロシアの作曲家の作品を出版し始めました。出版された楽譜の中には、グラズノフの「交響曲第1番」も含まれていたのは当然のことです。(101)

外国から戻るとかえって愛国心を煽られたのか、翌85年グラズノフは交響詩『ステンカ・ラージン』作品13を作り上げています。日本でも有名なロシア民謡「ヴォルガの舟歌」をベースに、17世紀に起こったコサック反乱の首謀者、ラージンの悲劇的な勇姿を描いた作品です。反帝政的な内容にも関わらず、ラージンを描写することは、何故かロシアでは許容されていました。とはいえ、グラズノフがこうしたテーマを取り上げている点に、バラキレフ流の「汎スラヴ主義」がこの若者の骨の髄にまでしみ込んでいることが伺われます。そういう伝説があるのか、史実があったのかどうか知りませんが、交響詩では、ラージンはペルシャの美しい姫を人質としており、ロシア皇帝軍に囲まれて敗色が濃くなったとき、この姫をヴォルガの流れに突き落とした、というストーリーが描かれています。ストーリー性が創作を楽にしたのか、初期では最も伸び伸びした佳作の一つに仕上がっています。(51)

続く86年にはリスト風の色が強い交響曲第2番作品16を仕上げましたが、献呈するはずだった相手、つい一昨年出会って強い印象を受けたばかりの、かのリスト本人がはからずも7月31日に逝去したため、「リストの思い出に」捧げられることとなりました。作品は冗長な印象を免れませんが(作って見ないと分からないことですけれど、そう批評しつつ私などとてもここまで作曲する力はありません。ですから、こういう評価をすることには後ろめたさを感じます)、第1番に比べるとテーマの変形も自在になり、オーケストレーションは遥かに色彩感を増しています。作曲者としては、自分の成長を恩人リストに見せ、恩人が華やかに微笑んでくれるのを祈りつつ、創作に力を入れていたに違いありません。グラズノフの失望は、いかばかりだったでしょうか。(59)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

グラズノフ略伝3)チャイコフスキー・「イーゴリ公」・交響的絵画

123456附(資料一覧)

「五人組」に育てられていたペテルブルクの若手音楽家たちがチャイコフスキーと初めて会ったのは、グラズノフがベライエフとの旅行から帰った1884年秋のこと(13)とも、旅行前の1月14日のこと(52)ともあり、どちらが正確かは確認できません。が、バラキレフの家で「決められた時間に集合し(13)」て来訪を待ったのは、間違いないようです。
「興奮してチャイコフスキーの到着を待ち始めたが、彼がわたしたちとは違う陣営の人であるため、どういう立場をとったらいいかと相談しあい、非常に控え目にしているのがよかろうということになった。」(グラズノフの回想、13に記載)
緊張は、チャイコフスキーが着き、2年前に彼がバラキレフの勧めで書き始めた標題交響曲「マンフレッド」がいかに自分を夢中にさせているか、でありながらどれだけ作曲に苦労しているかを話題にし(おそらくはそれに対しキュイや評論家スターソフ・・・85年の「マンフレッド」完成の折りに最も熱烈に作品を支持した人たち・・・が激励する一幕があったりして)瞬く間にほどけました。
作風から想像される「張りつめた人格」とは違い、チャイコフスキーが冗談好きで気さくなお喋り屋さんだったことも、一同の空気を解きほぐすのに大きな効果がありました。
話が興に乗ってくると、チャイコフスキーはペテルブルクの若手作曲家たちに、それぞれの作品をピアノで弾いてくれるよう所望しました。演奏されたのはグラズノフの作品でした。交響曲第1番のスケルツォと、「叙情的な詩」作品12(管弦楽初演は4年後の88年)で、チャイコフスキーはそれらを2回ずつ弾くよう望み、かなり熱中して聴いた、とその場にいたスターソフが10月29日付の肉親宛書簡で回想しています。(52)
グラズノフも、1855年生まれの兄弟子リャドフ(1914年死)も、このときすっかりチャイコフスキーに魅せられてしまいました。
「リャドフの表現によれば、偉大な作曲家と知りあったことは、わたしたち一同にとって何かめでたい出来事のようだった。」(13)

リムスキー=コルサコフだけが、モスクワの大作曲家に魅せられていく自分の弟子たちを目の当たりにし、心中穏やかならぬものがありました。(13。「回想録」にその思いを連綿と綴っているそうですが、今回目に出来ませんでした。)
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。そして、諺にもあるように、禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」(17)
『ショスタコーヴィチの証言』二(中公文庫145頁以下)にあるこうした記述は表面的に過ぎ、リムスキー=コルサコフの嫉妬心だけを異様に強調したものであって、彼の心の本質に触れているとは言い難いところがあります。
自身が尊敬し続けてきた大先輩が、自分の育てた若い有望な弟子、グラズノフとリャドフの心を一瞬に連れ去ってしまった、という思いは、嫉妬ばかりか虚脱感をも胸に抱かせるには確かに充分です。
他にも、当時「チャイコフスキーは活動の拠点をモスクワからペテルブルクに移す」という噂があり、もしコルサコフが名誉心の人だけであったなら、これは歓迎すべからざる話だったであろうとも推察されます。結局、チャイコフスキーのモスクワ離れは実行されませんでした。
したがって、先に引用した
「チャイコフスキイがすぐそばで作曲していたために、リムスキイ=コルサコフは畏縮して、全く作曲できなかった。」
という言葉は全く偽りであることが分かります。次の
「禍を転じて福となす、だったのである。チャイコフスキイが死ぬと、リムスキイ=コルサコフの危機もすぐに終わった。」
も、リムニャーニンの努力家ぶりを全く無視した、侮蔑的な表現です。実際この出会い以後リムニャーニンの新創作が減少していることは事実です。

彼は、何をしていたか。自分を離れていくかに見える有能な弟子の食い止め策に走ったのか。

そうではありません。・・・若いときのオーケストラ作品を、ことごとく手直ししていたのです。

30歳前に完成してしまった3曲の交響曲は地味な響きしかしないものでしたが(75の第2番が旧版のままの演奏ですので、手直し前後の音色を知るのに役立ちます)、それを含め、チャイコフスキーが賞賛してくれていた音画「サトコ」作品5なども、より良い、華やいだ響きにするにはどうしたらいいかを必死に検討し、自分自身を「改善」することに何よりも重きを置いていたのです。これは、「改作」を迫られるとすぐ悲観的で投げやりになったチャイコフスキーではとても考えられない、海軍勤務と「五人組」的訓練とで養われたリムニャーニンの強い精神力の現れではないか、と、私は感じます。(75)成果は、別にチャイコフスキーの死後初めて現れた訳ではありません。名作「スペイン奇想曲」は87年、「シェエラザード」は88年の作品です。オペラでも、全曲を耳にする機会は得ていませんが、1890年に完成した「ムラダ」は一部の器楽曲を聴いただけで素晴らしさを堪能させてくれるものです。

リムニャーニンの自己発展に大きな役割を果たした事件は、チャイコフスキーと「五人組」後継若手の会見だけではありませんでした。87年2月、「五人組」最年長で、本業の医化学でも世界的な業績を果たしていた仲間、ボロディンが急逝したのです。生前、ボロディンは、長年かかってオペラ「イーゴリ公」の構想と作曲にとりかかっていましたが、思うように行かずたびたび投げ出そうとしていました。有名な「韃靼人の踊り(最近はより正しく「ポロヴェツ人の踊り」と称され出しています)も、リムニャーニンに叱られ、手伝ってもらいながらいやいや仕上げ、79年に単独で初演されたものでした。
そもそも、もとになった「イーゴリ公軍記」は伝来に不思議な経緯を持つ古典です。第一に、18世紀末まで写本が修道院にひっそりと眠っており、誰もその存在を知りませんでした。第二に、学者が出版した直後、ナポレオンのモスクワ遠征の最中に、見つかった原写本は焼失してしまいました。同じころ筆写された複製本はエカテリーナ女帝に献呈されていましたが、それも長い間行方不明になっており、1864年になって偶然再発見されたのです。こうしたいきさつもあって、ボロディンがこれを題材に選んだ1866年、「イーゴリ公」はまさに話題の文学でした。(21)
しかしながら、「イーゴリ公」という素材そのものは、ドラマとしての起伏作りが難しく、取り組みにくいものでした。ボロディンがなかなか先へ進めなかったのも仕方のないことです。
「私には生きているうちにオペラなんか完成出来やしないよ。リムニャーニン、サーシャ、私が死んだらあとは君たち二人に頼むしかないな」
生前、ボロディンは諦めたように言っていました。(52)
それでもこんな突然に亡くなるとは、あたりの誰も想像しておらず、医化学界も音楽界も悲嘆に暮れることになりました。死んだボロディンの家には、半分出来上がったものからごみ箱に捨てられたメモまで、と「イーゴリ公」に関するらしい譜面が文字通り散乱していました。散乱していること自体、ボロディンの「イーゴリ公」を進められない苛立ちと、なお諦めきれない執念を物語っていました。
「なんとかするしかないな、サーシャ」
交響曲第1番を完成したとき、未だ幼い自分を「太陽の子!」と誉め称えてくれたボロディンが自分にも「イーゴリ公」の完成を託していたことを回想し、サーシャ・グラズノフはリムニャーニンと共同でその完成に尽力することに、いまさら異は唱える訳にはいきませんでした。サーシャもまた、リムニャーニン同様、ボロディンを好きだったのです。それが証拠に、サーシャは「イーゴリ公」の他、ボロディンの交響曲第3番の遺稿の整理と編曲も手がけましたし、ピアノ曲「小組曲」も89年にオーケストレーションしています。(81)
リムニャーニンが「イーゴリ公」の補作で自分の方向性を再発見するという大きな収穫を得たのに対し、のちにグラズノフが批評家アサフィエフに尋ねられたときの答えぶりをみると、「イーゴリ公」の仕事はサーシャにとっては必ずしも快いものではなかったようです。
補作に際しての分担は、リムニャーニンが1・2・4幕、サーシャが第3幕と、全く出来上がっていない序曲、というものでした。「サーシャ、君は記憶力抜群だから、ボロディンが弾いていた序曲をよく覚えているだろう」「ええ、それはそうですけれど・・・」ボロディンが弾いて聴かせてくれた序曲の案は、弾くたびに内容がバラバラで、音楽の落ち着き先も決まらず中途半端に演奏を終えてしまったものばかりでした。しかも、まともな楽譜がひとつも残っていません。詳しくはCDやスコアの解説に載っていますので、ご興味のある方はそちらをご参照下さい。とにかく、序曲を構成する作業はサーシャを相当苦しめたようです。メモを漁り、ゴミ箱も漁り、薄れかけている記憶も必死で蘇らせ、それでもどうしても駄目な大部分は、結局自分で作曲せざるを得なかったのです。しかも、「自分で作曲した」部分はほんの少数だ、ということを、「イーゴリ公」の初演に際しては強調していなければなりませんでした。でないと仕上がった歌劇の価値を落とすことになるから、という配慮があったのかと思われます。それでも、苦労してまとめた「序曲」は、歌劇の他の部分とは違い、随分低い評価しか得られませんでした。(80,82)
かなりのちに、「序曲は、だって? そうだ、私が作曲した、ということだ・・・仕方がなかったんだよ!」アサフィエフの執拗な質問に、グラズノフはウンザリした声でそう答えたそうです。一方で、こんな話もあります。批評家の大先輩スターソフがアサフィエフにピアノで「イーゴリ公」を弾いて聴かせてくれるよう頼むときは、ひとこと付け加えるのを忘れなかったというのです。「序曲と第3幕は、省いてくれ」これらはグラズノフが補作を担当した部分です(全音版スコアの森田稔氏による解説。)。

たしかに、「イーゴリ公」を通して聴くとき、序曲の各部分は間違いなく劇中の要素を使っているのですが、以降に始まる音楽と、どこか調和しない響きを持つことは否めません。これはひとえに、グラズノフがチャイコフスキー的な書法に傾倒し始め、チャイコフスキー的な響きを求めることに熱を上げていたことによるもののようです。「五人組」の粗野さとチャイコフスキーの優雅さは、改善された彼らの人間関係とは別に、本来調和しないものでした。ところが、「イーゴリ公」序曲は、どこかチャイコフスキー的な響きがします。スターソフは、そのことを敏感に感じ取っていたのでしょう。だからといって第3幕まで「省いてくれ」というのは、酷に過ぎることでした。こちらではグラズノフもチャイコフスキー的要素が入りこまないよう、かなり気を使っていたことが伺われるのですから。(80。この映像は音楽の省略が多いのが残念ですが。)
「イーゴリ公」の仕事で受けた心の傷が深かったからでしょう、グラズノフは生涯1つもオペラを作曲しませんでした。グラズノフの色彩変化の発端は、84年の出会いの時、チャイコフスキーが彼の「叙情的な詩」を気に入ってくれたことにあったのではないかと思います。この作品は、「五人組」の流れを引く人間の作品にしては文字通り「叙情的」に過ぎ、繊細な美しさを持っていました。グラズノフは、普段の仲間とは違い、自分の「繊細さ」にチャイコフスキーが目をつけてくれたことが、かなり嬉しかったのではないでしょうか。「イーゴリ公」の補作にとりかかっていた87年から89年の間、一方でグラズノフが熱中していたのは、「幻想曲」と肩書きを付けたり、あまり標題的でない性格を持ったりした管弦楽作品の創造でした。(52,67)前者には、管弦楽による幻想曲「森」作品19、管弦楽による幻想曲「海」作品28後者には、「チェロと管弦楽のための二つの小品」作品20、「東洋的な狂詩曲」作品29があります。

この中で、「森」は交響曲第1番完成直後から5年をかけて構想され、仕上げられた作品です。
「夜の暗い森の中で木々はこの世のものとも思えない姿に変貌している。聴いたこともないような不思議な響きが聞こえてくる。私は音の方へと近づいていく。音も私に近づいてくる。それはニンフたちの憂いに満ちた歌だったのだ。そこへ恐ろしい巨人がずっしりとした足取りでやってきて、歩く先にあるもの全てを破壊し尽くす。その後を、目に見えない誰かが急いで修復する。夜は瞬く間に開け始め、ニンフの歌はこだまとなって消えていき、やがて鳥たちが喜ばしくさえずり始める。」(52)
こうした叙情詩的な光景は、ムソルグスキー以外の「五人組」にはかつて思い浮かぶこともままならなかったものでした。発想が早い時期のものだけに、それでも音楽にはまだ強い「チャイコフスキー色」はありません。そのうえ、むしろ「チャイコフスキー色」に染まって以降のグラズノフ作品よりも豊かなものさえ持っています。

「海」は、同名のドビュッシーの作品と組み合わせたCDも輸入盤に見かけましたが、これはこれでチャイコフスキーに染まりきれない半端さを感じさせる作品です。まして、ドビュッシーとはとても比較できません。この「海」は、88年、ドイツの歌劇団が初めてロシアでワーグナーを演奏したことに大きな感化を受けた曲で、リムスキー=コルサコフが
「あまりにワーグナー臭すぎないかい?」
と感想を述べたとか。
そのせいか、「ワーグナーの思い出」に献呈されています。
波や凪の描写そのものは面白く、聴衆にもだいぶ受けたようです。しかしやはり、リムスキ=コルサコフが「シェエラザード」で自己革新を果たしたのに比べると、グラズノフとしては独自色をどう打ち出すのか迷ったまま仕上げしまったのではないか、という印象が否めません。チャイコフスキーとワーグナーという絵の具パレット二つを混同して用いてしまい、結果的にグレーに濁った海しか描けなかった、という感じです。
グラズノフの街ペテルブルクは、海に近いとはいうものの、東京でいえば西新宿から眺める程度にしか海そのものを体感できず、その点、実際に海上をよく知っていたリムスキー=コルサコフの足下にも及ばなかったのは、やむを得ないことでしょう。(フランスのロマン主義絵画では海はしばしば暗い色調で、しかも海岸に寄せる波を重点的に描いています。グラズノフの「海」の音も、それらの絵画と似た色彩を感じさせます。「シェエラザード」やドビュッシーの「海」にあるような「光」・「きらめき」がないのです。)

非標題的な2作品は、前向きな発展を感じさせる佳品です。協奏曲でもないのに管弦楽にチェロ独奏を伴わせるのは、グラズノフが終生愛した方法のひとつです(作品20)。また、「東洋的な狂詩曲」は、リムスキー=コルサコフの「シェエラザード」の境地に比べれば小振りですが、グラズノフとしての「イーゴリ公」取り組みの成果が結晶した佳品です。したがって、音色のきらびやかさとリズムの多様性には「イーゴリ公」に類似した点が多くあります(リムスキー=コルサコフ似、という見解がCDの宣伝コメントにありましたが、そうではないと思います)。一見従来の「五人組」の衣装を纏いながらも、全体は、オペラには仕立てられないとはいえ、バレエなら通用する、という具合のストーリー性を持っていて、チャイコフスキーへの傾倒をそれとなく示している点は見逃せません。

これら一連の作品のあとに発表した交響曲第3番二長調作品33は、とうとうチャイコフスキーに献呈し、グラズノフは彼への敬意をあらわにしたのでした。内容が、交響曲よりはむしろバレエ曲の影響を受けている点に、このあと急速にバレエに関心を深めていく彼の方向性が予見されます。第1楽章のアタマに「ローエングリン」的な、また中間部後半に「トリスタン」風の表現がちらりと顔を見せるのも、時期的にみて興味を惹かれます。ただ、第2交響曲で始まった長大化傾向は3番でも強まっており、最初の2楽章はまだ耐えられるものの、第3楽章以降は「もうよして!」と言いたくなります。本人もそうした欠点は意識していたのでしょう、第4交響曲以降は集中度の高い仕上げに努力するようになります。

第3交響曲のチャイコフスキーへの献呈よって、リムスキー=コルサコフとの関係にどんな影響があったか、詳細は明らかではありません。いずれにせよ、リムニャーンとサーシャの良好な関係は、表面的にはリムニャーニンが死ぬまで保たれましたから、細かいことはこれ以上詮索しなくてもいいでしょう。リムスキー=コルサコフは、新境地を開いた『シェエラザード』を「交響的絵画」と呼び、それまでの「交響詩」とは違う、という意気込みを明らかにしました。グラズノフは、それまで自分の「幻想曲」をよりふさわしく呼ぶにはどうしたらいいのか、自力で見つけることが出来ずにいました。リムスキー=コルサコフの「交響的絵画」という呼称は、迷っていたグラズノフにもよっぽどしっくりきたと見え、作品30の『クレムリン』、作品34の『春』(未見)では、リムスキー=コルサコフに倣って、これらをやはり「交響的絵画」と肩書きづけしています。

1890年作曲の『クレムリン』はひとつ10分ほどの3曲からなり、それぞれ「国民祭」・「寺院にて」・「歓呼と貴族たちの入城」というタイトルを持ち、これまでの彼には見られなかったほど豊かなオーケストレーションを施し、「東洋的な狂詩曲」をまた一段超えた境地を伺わせてくれます。とくに2曲目の「寺院(修道院)にて」での、鳴り響く鐘の音の描写は、ムソルグスキー的な和声の厚さを、ラヴェルまでもう一歩、とまで思えるほど巧みな楽器配置で表現しており、『四季』で絶頂を迎えるグラズノフの管弦楽法の熟達度を先取りして聴かせてくれます。反面、帝政を謳歌するタイトルに象徴されるように、彼の「保守的」な発想が伺われるところに、1917年のロシア革命後グラズノフを待ち受けていた忍耐の日々が予言されてもいるようです。『クレムリン』は、しかし、チャイコフスキー的な哀愁」をひとつも感じさせない楽天的な音楽で、周囲からは案外のんきな性格に見えたたらしいグラズノフの人柄をも彷彿とさせてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝4)「ライモンダ」・「四季」

123456附(資料一覧)

グラズノフが楽壇に登場した1880年代から90年代にかけては、帝政ロシアは経済的に大きな転換期を迎えていました。クリミア戦争の敗北後、農奴解放を始めとした一連の経済政策改革、特にヴィッテ蔵相の登場による工業化の振興は、鉄鋼業・綿製品などの軽工業に大幅な好影響を与え、石油はベルギーやフランスの外国資本の協力を得て、一時的にはロシアは世界最大の産油国になるなど、全般に景気はかなり上向きに推移しました。一方、農業も化学肥料の積極利用や賃労働者による生産方式を取り入れるなどし、ドイツを相手に穀物が輸出できるようになるほど生産力を上げました。このことも含め社会階層の構造は「生産は賃労働者によって担われる」という具合に、急激な変換を遂げることとなりました。西欧に1世紀遅れで、政府主導型ではありましたが、ようやく産業革命が進展しはじめたのです。これによってもたらされた「身分・階層の差に伴う所得の歪み」が、まさか近い将来、血なまぐさい社会革命まで引き起こすとは、当時どれだけの人が予想していたでしょう。

それは措いて、リムスキー=コルサコフやグラズノフの人気、華やかな音への色彩変化が、経済の興隆と比例して高まっていくことには注目しておくべきでしょう。「華やかな音」はチャイコフスキー(というよりはむしろ、ペテルブルク・モスクワ両音楽院の創設と経営に功績のあった、ルビンシュタイン兄弟)に代表されるアカデミズム、ひいては上流階級の独占物でした。それが、産業の興隆による中産階級の富民が増加したことにより、本来「民族性・汎スラブ主義」の荒々しさを標榜してきた「五人組」の流れを汲む音楽家たちにも「華麗な響き」指向を拡大していく結果となったものと思われます。中産階級が劇場の客となる割合は、この頃全欧で急激に増加した模様で、同じ頃のイタリアの戯画に、「スカラ座を訪れるお上りさん」の場面があったりします。ロシアでも、同様の光景が多く見られるようになってきていたのではないでしょうか。

ここに、「アカデミズム」と「五人組派」の境界は自然消滅し、融合しあうことになりました。融合をもたらしたのが本当に彼自身なのかどうかは別として、たまたまそういう時期に創作の最盛期を迎えたグラズノフは、今日にいたるまで「ロシアの伝統と西欧の音楽を初めて統合し、新世界を切り開いた」と評価されることになりました。・・・でありながら、今日彼の作品がロシア国外で大きく取り上げられることが稀なのは何故なのでしょう。この疑問を解くには、もう少し先のロシア社会情勢、ロシア音楽界の変化を見ていかなければなりませんが、今は最も脂の乗りきった活動を繰り広げる彼の姿を見ていくことにしましょう。

グラズノフ少年を伴った旅で、先に市場の前途の明るさを見てとった楽譜出版商ベライエフは、1885年、ライプツィヒに「ロシア音楽出版所」を開設し、リムスキー=コルサコフの協力で多くのロシア人の作品を流通させることに成功しました。さらにベライエフは翌86年、「ロシア交響楽演奏会」を発足させ、リムスキー=コルサコフを主席指揮者(〜90年)に据えて、ロシア音楽の普及に努めました。翌年10月22日、グラズノフもその指揮者としてデビューし、88年にはフランスへ演奏旅行を行ないました。確証はありませんが、オペラを諦めた彼は、チャイコフスキーのバレエ作品に魅せられ、自分の本格的劇場デビューは「バレー音楽」で、という潜在意識を強く持っていた気がします。先にあげた「東洋的な狂詩曲」などは、明らかに舞曲的感覚が前面に打ち出されています。フランス公演で、彼は、「バレエならイケる!」との思いを一層強くする、何らかの機会を得て帰ったのではなかろうか・・・伝統的にバレーの本場であるパリを思い描き、グラズノフ訪問時はロシアに比べるとフランス自前のバレエ音楽の傑作があまり出ていなかった情勢を考えると、「自分にもこの世界でなら名を成すチャンスがある」と彼が自信を持ち始めたきっかけになる「出会い」があったはずなのではないか・・・そんな推測をしたい欲求に駆られます。これについて何の痕跡も見いだすことが出来ないのは残念です。

これ以降、グラズノフの作曲技法は格段に向上し、傑作を集中的に生み出すことになりますが、同時に作品の献呈相手選びには、外交政治的な態度が見え見えになってきます。90年発表の第3番から3年後の作品である交響曲第4番編ホ長調作品48はアントン・ルビンシュタインに、さらに2年後の交響曲第5番変ロ長調作品55はタネーエフに送られています。いずれも93年のチャイコフスキーの死後に残されたアカデミー派の大物でした。ルビンシュテインは生前のチャイコフスキーを見いだした人物ですから言わずもがなですが、タネーエフは作曲の師チャイコフスキーに対し
「あなたはバレエ音楽を交響曲に変えてしまった(註:誉めているのではなく、逆です)」
と憤慨した硬派中の硬派で、しかもバラキレフに輪をかけて自分にも厳しい人間でした。
そのタネーエフが、自己の厳しい審査眼を経て唯一出版した交響曲(第4番に当たりますが、タネーエフ自身は「これが私の第1交響曲だ」と言っていたそうです)の初演を1898年グラズノフの指揮に委ねたところをみると、彼はグラズノフの献呈作品である第5交響曲には素直に心服したのでしょう。(ちなみに、ずっと後の1979年、指揮者ムラヴィンスキーが、最期の来日公演で敬意を込めてグラズノフの第5交響曲を演奏しています。(53))
それぞれの交響曲が、献呈相手の気に合うよう慎重に作りこまれていることに注目しておく必要があるでしょう。第4番は緩徐楽章を終楽章の序奏にまで縮小し、3楽章形式の緊密な構成にしています。また、第2・第3がともすれば接続曲風に聞えていたのに対し、テーマの極端な変形を避けて、全体の統一感が失われないよう留意されています。第5番は雄大な第1楽章で始まりますが、中間のスケルツォと緩徐楽章はコンパクトにして冗長さを回避し、終楽章はタネーエフ好みの荒々しい音響を交えて気風のいい結末を迎えるよう設計されています。(雄渾な印象から、第5交響曲はグラズノフの「エロイカ」と呼ばれています。
ついでながら、タネーエフはスクリャービン、ラフマニノフ、プロコフィエフの恩師となった人です。)こうした配慮は、この外交政略を成功に導いただけでなく、グラズノフの作曲技術をさらに高める上でも大いに役立ち、2年後からのバレエ作品での大成功につながっていきます。

「五人組」を支援してきた批評家スターソフには、70歳の誕生日と活動50周年を記念して、94年に「管弦楽のための荘厳な行列」作品50を献呈しています。より古いつきあいのスターソフに、交響曲に比べ遙かに小規模な作品しか捧げていないのは、「イーゴリ公」のグラズノフ補作部分に対しスターソフが低い評価しか下していなかったことに対する恨みがこもっているのでしょうか。交響曲がそれぞれ30分ないし40分を演奏に要するのに対し、作品50の演奏時間はたったの7分ですから。

以上のような大作・小作品の献呈対策の他に目立つのは、上演のあてがある訳でもないのに、グラズノフが盛んに「バレエ音楽」や「舞曲」の類いを作っていることです。ワルツは、92年と93年にピアノ作品として3曲、93年と94年に「演奏会用」と称して、2曲作っています。管弦楽の「演奏会用ワルツ」第1番作品47、第2番作品51は、グラズノフ作品の中では、今日でも割合ひろく採り上げられるプログラムになっています。これらのワルツの献呈相手は、母親を始めとし、どちらかというと身近な人々でした。バレエ曲は、まず93年にピアノ曲「バレエ用のエア」を、94年に管弦楽「バレーの風景」作品52(未聴)を作りました。後者には、献呈相手がいません。年代からいって、バレエ音楽作者として、93年に死去したチャイコフスキーの後釜を狙う宣伝効果を狙った創作だったのではないか、と勘ぐりたいタイミングです。事実、大作曲家を失ったペテルブルク劇場、なかんずくフランス出身の名振付師プティパ(1822〜1910、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」や「くるみ割り人形」にも深く関与した)は、新しいバレエ音楽の担い手を欲していました。そうした情勢を念頭に置いた「宣伝?」が功を奏し、プティパはグラズノフに白羽の矢を立てたのです。

グラズノフは彼なりの「3大バレエ」をペテルブルク劇場に提供することになりました。

まず、1897年には「ライモンダ」。13世紀ハンガリーの十字軍遠征を巡る物語が台本として用いられましたが、ストーリーは最初の2幕でしか意味を持ちません。第1幕は十字軍遠征に出かける婚約者の出発を悲しむ姫ライモンダの予言的な夢を中心に、第2幕はサラセン人の横恋慕に悩むライモンダのもとへ帰ってきた婚約者がサラセン人を倒すまでについて描写し、第3幕ではめでたく結ばれた二人の前で、華麗で多様な舞踏が展開します。現在でもクラシック・バレエのメインプログラムで採り上げられ、踊られている点、グラズノフの名前を今に残すことに最大の貢献をなした作品のひとつとなりました。(66・組曲62)

翌年の第2作は「お嬢さん女中」という作品で、ワトー風の情緒を狙ったもののようですが、こちらは今に至るまで生き残ることは出来なかったようです(未見)。

第3作は1899年の「四季」(54)。今日ではバレエとしてよりも管弦楽作品として演奏される機会の方が圧倒的に多いそうですが、確かに、冬〜春〜夏〜豊作の秋、と推移する明るくて表情豊かな音楽は、振り付けられた舞台で見るよりは聴衆として創造の情景にふけるほうが、より楽しめる作りになっているのかも知れません。現在、グラズノフ作品のCDで一番多く発行されているのは、この「四季」です。しかし、バレエ音楽だということにこだわるならば、「四季」は20世紀になって盛んになったプロットレス・バレエ(文学的な筋書きを持たないもの・・・ストラヴィンスキーの「春の祭典」やラヴェルの「ボレロ」が、従来、先駆けと言われています)の、音楽史・バレエ史上、記念すべき最初の作品だということは、今ではすっかり忘れられていることにもなります。(振り付けられた映像や実演の情報は、現時点で私は見つけていません。もしあったらお知らせ下さいね。興味津々です。)ともあれ、3分の2の確率だったものの、これによりグラズノフは劇場音楽でも「大家」としての名声を勝ち取ることができ、やっと心から満足を得たはずです。

どの本に有ったのか、不注意で見失ってしまいましたが、「交響曲は10年に1回演奏されるかどうかも分からない。オペラならすぐ金になる!」と、ある人が述べたことが記されていました。オペラやバレエはまだ娯楽の最高の華でしたし、オペラないしは宗教劇・バレエ曲を1曲も書かずに成功をとげた音楽家は、ヨーロッパ広しといえども、ほんの僅かに過ぎなかったはずです。調べた限りでは、19世紀の有名作曲家で該当するのはショパンとブラームスだけです。

グラズノフは、肥満した風貌と「交響曲の大家」という印象から「ロシアのブラームス」と呼ばれるようになっています。いつごろからそう呼ばれるようになったのかは分かりません。
しかし、少なくとも、バレエで成功を成し遂げた時点でグラズノフはブラームスと全く異なる路線を歩いていることが明らかになった、と言っていいでしょう。
かつ、当時のロシアでは、まだブラームスはあまり有名ではなかったそうですから、早い時期から「ロシアのブラームス」などというあだ名を頂戴していたとしたら、本人に対しては多少侮辱的な感じもしていたかも知れません(もっとも、ブラームスの音楽を彼が全く知らずにいたのだったら、ではありますが)。
「ロシアのブラームス」というのが後から与えられたレッテルだとしても、それによってグラズノフが現在被っている「名声上の」被害は甚大なものがあります。彼の音楽は今日ブラームスの作品の遙か下位に位置していると見なされていますし、実際、楽想の豊かさや構成の力強さではブラームスには及びもつかないかも知れません。
しかしながら、それは単に技量の問題ではなく、風土から来る性格の違いにも由来するのであって、よくよく耳を傾けると、とくに充実期のグラズノフ作品は、チャイコフスキー流の「接続曲的・旋律変奏手法的」技法を忠実に受け継いだ書法をとっていることが分かります。ブラームスとグラズノフでは、作曲に対する姿勢も大きく異なっています。
管弦楽作品の数だけ比較しても、グラズノフが80余りも残したのに対し、ブラームスは協奏曲に「ドイツ・レクイエム」と「アルト・ラプソディ」を含めても15曲残したに過ぎません。管弦楽が前者には気軽な楽器であったのに対し、後者には特別なものだったのでしょう。
グラズノフのピアノ作品は聴いていないので確言はしかねますが、ブラームスにおいてはピアノこそ色彩の原点であり、それにより強調を加える必要が有る場合のみ、彼は管弦楽を用いたのだと思います。
グラズノフは、ピアニストとしては自立できるほどの色彩感覚は持っていなかったのではないでしょうか。それゆえ、彼のパレットには最初から、濃い顔料にも似た管弦楽の色彩を揃えておく必要があったものと思われます。
本質の異なるこんな二人を同じ土俵に立たせること自体が、グラズノフの個性への間違った理解の元になっているだけでなく、グラズノフの守ったロシアの伝統こそが・・・グラズノフ自身は戸惑い、極端な場合は嫌悪することになるのですが・・・ラフマニノフの最初の交響曲や、ロシア・アバンギャルドの音楽での先駆けをなした一人であるプロコフィエフの諸作品の作曲技法に、グラズノフ本人の予想を超えて拡大され受け継がれていく、その源流となったことを見失わせる結果にもなっている気がしてなりません。・・・ちょっと、私的見解を綴り過ぎました。。。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝5)ラフマニノフ・ペテルブルク音楽院・革命

123456附(資料一覧)

ラフマニノフとグラズノフの最初の出会いは、悲喜劇的でした。グラズノフにとっては喜劇、しかし、ラフマニノフにとっては数年間立ち直れない程の強烈な悲劇でした。

ラフマニノフの師タネーエフが、優秀なピアニストで期待の新進作曲家である弟子の記念すべき第1交響曲の初演を、ベライエフの主催する「ロシア交響楽演奏会」に強烈に売り込んだのが、事の起こりでした。
音楽界事情は、[五人組」沈静化の後にはモスクワの方が先を進んでいたふしが有りますけれど、なんといっても帝政ロシアの首都はペテルブルクです。師タネーエフは、有望な弟子が首都でも大きく認められることにこだわったのでしょうか、郵送したスコアに対するベライエフの反応が好意的ではなかったにも関わらず、執拗に売り込みを繰り返し、ようやく1897年3月15日の「ロシア交響楽演奏会」の演目として採り上げる了解を取り付けたのでした。その指揮には、グラズノフがあたることになりました。
悪いことに、この演奏会のもう一つの演目は、グラズノフ自身が最近完成した交響曲第6番(62)でした。第4・第5の2作で自信を深めた会心の作品で、深い悲劇的な音響に始まり、歓喜の終楽章のうちに終わるという、理想主義者にはピッタリお気に入り間違いなし、という、当時の聴衆にとっては隙のない印象を与えるだろう秀作でした。
別に新進の若手をライヴァル視するつもりはなかったようですが、ラフマニノフが本番前々日に練習を聴くと、グラズノフ自身の作品に比べ、彼の交響曲の演奏は支離滅裂で、話にならないほどの失望感を与えられました。怒りを抑えながらそれを伝えると、グラズノフは
「私はみんな上手く運ぶと思いますよ」
と穏やかに答えたそうです。(14)
本番は、ラフマニノフの不安が的中し、やはり全く「上手く運」びませんでした。演奏会では先にグラズノフの第6が奏でられ、やんやの拍手を浴びたのですから、ことはいっそう悲惨でした。グラズノフにとって、自分の作品に比べると、ラフマニノフの交響曲のスコアは、はじめから複雑に過ぎたのです。作曲者自身にも理解できないほどの不協和音がつづけざまに、ホールの壁も崩れんばかりに発射されては炸裂し、なんとかコントロールを取り戻そうと汗だくになったグラズノフの指揮棒は、騒音弾の連発を抑制するにはかえって逆効果、という有り様で、髪を振り乱して最後の棒を彼が降ろした時に、ようやくホールは焼け跡のように空虚な沈黙を取り戻したのです。
席にいたスターソフは
「これはさっぱりわからん!」
と首をかしげ、冷淡な批判屋のキュイは薄笑いを浮かべていたということです。
翌日、新聞に掲載された批評記事も非常に悪意のこもったものだったようです。(14)

少しあと、グラズノフは、自分の理解不足について反省はせず、演奏会のオーケストラの無神経がラフマニノフ作品の初演を失敗に終わらせたのだ、作品自体は決して失敗作ではない、と強調しておおやけに弁護しましたが、そんなことでは癒せないほど、ラフマニノフの受けた傷は大きく深いものでした。
以後4年の長きにわたり、1901年に有名なピアノ協奏曲第2番を作曲、1903年に自らの手で演奏するまで、ラフマニノフは自己の作曲能力にも世間の無理解にも失望し、ほんの私的な歌曲・合唱曲・ピアノ作品を4つまとめた程度の活動をしただけでした。ラフマニノフは死ぬまで第1交響曲の自筆スコアを公表しませんでしたし、現在でも見つかっていません。死の翌年1944年に、音楽学者のオソフスキーという人がレニングラード音楽院にあるベライエフ関係のライブラリから初演時のパート譜を見つけ出し、それをもとに復元したスコアによって、この曲はやっと再び日の目を見たのでした。(77)
それを聴くと、第2ピアノ協奏曲や第2交響曲等の諸作品に比べ、第1交響曲は何と前衛的な作品だったのだろう、と強く感じます。

グラズノフの方は、ラフマニノフの第1初演の翌年、その師タネーエフの第4交響曲も初演の指揮を引き受け、こちらは見事に成功させています。(83)
ラフマニノフの第1は、師の交響曲と、出だしだけはよく似ています。いや、師の方が、弟子に似た出だしを書いた、というほうが、時系列的には正しいのです。出だしの後からは、けれども大きく異なります。タネーエフの作品はグラズノフの曲が現代の私達にしばしば平板に聞こえるのに対し、充分立体性を訴える力を備えています。さすが、スクリャービンやプロコフィエフを育て上げ得た実力者だ、と思わされます。それでも、「安定した構造の中に」立体を閉じこめている点で、内容としてはグラズノフの理解力の先を越すようなイジワルはしていません。ラフマニノフの発想は、師に比べると、グラズノフを遙かに当惑させたのではないでしょうか。全楽章、どのひとつをとっても、リズムや感情がひとところに留まることは(言い過ぎかも知れませんが)一瞬たりとも存在せず、どこをどう統率すればオーケストラが作曲者の狙い通り響くのか・・・建築屋風に言うなら「この設計図じゃ、分かりゃあしねエ・・・まあ、柱からでも立ててみるベえか!」という具合に取り組んでみるしか手が無かった、というのが実情だったのではないでしょうか。

それにしても、第1交響曲がこの時万が一成功していたら、ラフマニノフはスクリャービンやプロコフィエフに近い「前衛作曲家」になっていたかもしれません。本人は「あのとき、私の新しい芽は摘み取られた」と終生語っていた模様ですが、この失敗が彼の甘美な作風への転向をもたらしたのだ、と考えると、初演で曲を理解できなかったグラズノフに、私達は感謝したほうがよさそうです。・・・まあ、むずかしいところですね。

ラフマニノフを失意のどん底に突き落とした2年後の1899年、グラズノフはバレエ音楽「四季」で大成功をおさめ、パリ万博でも自作の第2交響曲や交響詩「ステンカ・ラージン」を指揮するなどして絶頂期を迎え、年末にはついにペテルブルク音楽院の教授に就任しました。この2年間に手をかけた大作は「ライモンダ」と「四季」、それにあえて加えるなら弦楽四重奏曲第5番くらいです。
革命前は多作家だった、という印象が強調されがちな彼ですが、ここで参考までに交響曲に限って作曲年次の間隔を見ておきますと、第1(1881)、第2(1885)、第3(1890)、第4(1893)、第5(1895)、第6(1896)、第7(1902)、第8(1906)となっていて、平均約3年半の間隔になっており、これだけで断言するのは気が早いとしても、決して一般の印象ほど早書きタイプの人ではなかったことが伺われます。
管弦楽作品数が80程度もある、という、手がけたジャンルの特異性が、彼を「皮相な早書き屋」と現代人に思わせてしまう大きな要因になっているのかも知れません。
音楽院教授就任後のグラズノフは徐々に作品数が減っていくようにも言われており、これも動乱の1905年(ロシア革命の前触れとなった戦艦ポチョムキンの事件や血の日曜日事件が起きた年)以降、意欲の減退が目立つようになった、と、先の森田氏なども、事典類でも強調されていますが、小曲類には数の面での減少傾向は確かに伺われるものの、交響曲に変わるジャンルとして協奏曲を中心とした大作について見ておくなら、1904年:ヴァイオリン協奏曲(58)(1906年:第8交響曲)(63)1911年:ピアノ協奏曲第1番(56、第2番も)1913年:劇音楽「ユダヤの王」(55)1917年:ピアノ協奏曲第2番・・・この年、ロシア革命(10月革命が決定打)1921年:弦楽四重奏曲第6番(未見)1930年:弦楽四重奏曲第7番(未見)、チェロと管弦楽のためのコンチェルト・バラータ(64)1932年:サクソフォーン四重奏曲(57)1933年:アルトサクソフォーンと弦楽合奏のための協奏曲(65)という具合で、革命後は後に述べるような音楽院院長としての努力、再び故郷に帰ることのなかった海外旅行への出発、などの苦しい環境も影響して間隔がひろがっては行くものの、この作品履歴を見る限り、私としては「第8交響曲以後、彼の創作力は減退した」という、事典(1)や森田氏の発言(24、ただし「交響曲」IIの巻)には賛成しかねます。
とくに、革命直後亡命を決意したラフマニノフが「故郷を捨てたのだから」と9年間作曲をしようともしなかったのとは異なり、28年に亡命の意図も明確にしないまま死の年の3年前まで諦めず続けた創作への愛着の深さ、結果として生まれた作品の安定した出来具合には、ラフマニノフに対するものとは違った意味での感銘を受けざるを得ません。ちょっと先走った話を綴ってしまいました。以上の考証にも関わらず、小作品が主ですが、音楽院教授就任後のグラズノフの創作ペースは急にではありませんけれど、やはり多忙になってきたのでしょう、徐々に減少していったのは事実です。そうしたなかでも、最初の大きな革命騒ぎが起こった1905年以前に、2つの大曲を仕上げています。
1902年の第7交響曲(59)は「田園」と呼ばれていますが、これはもっぱら第1楽章がベートーヴェンの第6にかなり似ていることに由来しているものと思われます。1904年に出来た「ヴァイオリン協奏曲」は、小振りながら、彼の作品の中では最も音楽の緊張度の高い名作です。
1904年、日露戦争で国内事情も不安定になったこともあってか、ロシア初の音楽家組合「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」が出来上がりました。1901年の不作をきっかけに、まずは重税にあえぐ農民たちが運動を起こし、それに端を発して不況が広まる中、労働者も生活条件も悪化、テロ事件も頻発するようになっており、時の首相プレーヴェは、なにかにつけ民衆を弾圧する政策を採り続けていました。「モスクワ・オーケストラ団員互助協会」も、そうした世情を反映して生まれた団体と見てよいでしょう。同年7月、プレーヴェは暗殺されましたが、そんなことで世の中が良い方向へ向かうほど事態は安易ではありませんでした。景気は全くもちなおしませんでした。翌05年1月9日(新暦22日)日曜日、ツァーリ(ロシア皇帝)に窮状打開を訴えるため冬宮の前にしずしずと集まったペテルブルクの労働者とその家族約10万人に向かい、宮殿警護の軍隊が突然発砲するという、いわゆる「血の日曜日事件」が起こりました。社会的不満がいくらたまっていても、このときまでロシア民衆は、ギリシャ正教の伝統により、皇帝を「メシアの化身、親愛なる父」と崇めることをやめていませんでした。(ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」や「ホヴァンシチナ」などをご覧になってみて下さい。)その「父」の冷酷な処置(実際には皇帝の許可も得ず軍隊が勝手に発砲したのでしたが)に、民衆の皇室に対する信頼も地に落ち、12年後の革命でロマノフ朝が悲惨な終焉を迎える上で、この事件は大きな意味を持つことになります。(20)音楽界も、「血の日曜日事件」に対し、2月3日に抗議声明を発表、タネーエフ、ラフマニノフ、シャリアピンなどが声明に署名し、リムスキー=コルサコフもこれに賛同しました。結果として、タネーエフはモスクワ音楽院を解雇され、ペテルブルク音楽院の院長だったリムスキー=コルサコフも、タネーエフの解雇よりずっと早い時期に、追放の憂き目に遭いました。(18)

モスクワではそれきりタネーエフを弁護する動きは何も現れず仕舞でした。ルビンシュテインの後釜に座っていた院長のサフォーノフは評判の悪い人物でしたが、彼がタネーエフ弁護の動きを封じたのです。タネーエフは秋に音楽院を去り、以後むしろ悠々自適の生活を送ることになりました。タネーエフへの不当な処置に対し唯一抗議行動らしい行動をしたのはラフマニノフだけでした。彼の人気は当時ウナギ登りでしたが、モスクワに縁の深い組合からの出演要請にわざと厳つい渋面を作って断りの態度をあらわにしたりしました。1907年、ラフマニノフはコンテストでスクリャービンの「法悦の詩」を抑え優勝を勝ち取った傑作、交響曲第2番を、さっそく師タネーエフに献呈しています。(14)対照的に、ペテルブルクではリムスキー=コルサコフ解雇にあたって弟子のグラズノフやリャドフが強烈に抗議し共に辞職、音楽院は半年間閉鎖される、というほどに騒ぎが拡大しました。(18)

血の日曜日事件に端を発した革命騒ぎは、ポーツマス条約の締結によって日露戦争に決着を付けペテルブルクに戻ってきたヴィッテが皇帝ニコライ2世に提言した「選挙に基づく立法議会の開設」・「人民の基本的公民権の認知」を骨子とした『十月詔書』の発布により、一応の収拾を見ることになりました。ニコライ2世は当初、軍事独裁と立憲制の二者択一迫られた時、軍事独裁を選択しようとし、親族ニコライ大公が「それならこの場で自殺する」とピストルをとり出して脅かしをかけたことで、しぶしぶ立憲制を選んだとのことです。この皇帝の心理が、1906年にストルイピンを首相に起用し、再び恐怖政治に走らせ、自らの首を絞めていく結果に繋がっていくのです。(26)それはそれとして、ペテルブルク音楽院も、グラズノフが院長就任を受けることで閉鎖という事態から脱却し、再び活動をはじめることになりました。1905年という年は、グラズノフに私的にも事件がありました。グラズノフ性病説を上げたあと、「彼は一度も結婚せず、生涯を母親とともに送った。」(17,P334)とあるのが『ショスタコーヴィチの証言』の怪しいところで、同書のなかでのショスタコーヴィチはグラズノフの家にしょっちゅう出入りしていた、というのですからなおさらこの本はおかしい、というのが、この年の事件で判明します。ショスタコーヴィチは1906年生まれ、グラズノフの弟子になったのは1919年であることを、念頭に置いて下さい。

1905年にグラズノフに起こった事件とは、彼に娘が出来たことです。いつからかは分かりませんが、グラズノフはオルガ・ニコラエーヴナ・ガヴリロフという23歳年下の女性と同棲していました。そのオルガが出産したのです。娘はエレーナと名付けられました。グラズノフとオルガはその後もしばらく結婚を隠していましたが、1922年、プスコフ教会で正式に式を挙げ、28年から始まる海外逃避行は妻、娘と3人連れでした。

1906年の第8交響曲のあと、08年にはベートーヴェンの「運命の動機」をパクった「運命の歌」(といっても人声による歌は入っていない)作品84を作曲(68)、同年には、06年に亡くなったサフォーノフとこの年逝去したばかりのリムスキー=コルサコフを偲んで作った2つのプレリュード作品85(68)を発表しました。その上で1910年に第9番目の交響曲に取りかかりましたが、第1楽章をスケッチしただけで作曲をやめ、二度と再開することはありませんでした。(60)
「第九は人生最後の交響曲になる」
という、ブルックナーやマーラーの間で流行ったジンクスを担いでやめた、ということになっています。
恩人の相次ぐ死、5歳になったばかりの娘の行く末の為にも生きたい、という欲求がそうさせた、ということもあるかもしれません。そうでなくても、彼自身、周囲の音楽が変わり始め、もはや自分の様式ではついていけないのではないか、という諦めにも似た心情が、これ以上の交響曲作曲を空しく思わせたとも思えます。
このスケッチはグラズノフはロシアを出る1928年、リムスキー=コルサコフの女婿シテインベルクに預けられ、死後の1948年、ユーディンという人物によってオーケストレーションされました。
第8までの完成された交響曲は、悲しい旋律でも絶対に悲劇は保たれない、どこか幸せな感情をを残して終わる、という特徴をもっています。一番悲劇的に始まる第6も、第1楽章でさえ「悲劇」を保ちきれない・・・それが心優しいグラズノフの作曲姿勢であり、反面、交響曲のドラマとしての魅力のなさにも繋がってしまっていました。
それが、たった1楽章残された第9交響曲は、徹頭徹尾悲劇的です。世間の悲惨な姿が、彼の内面に大きな変化をもたらし、子供の誕生と成長が、精神に転機をもたらしたのでは、と私には思えてなりません。

ロシア革命の1917年までに作られた2つのピアノ協奏曲も、以前の楽天的な雰囲気から遠ざかっています。形式面でも、過去の作品で採ってきた古典様式を離れました。(56)
これらふたつ・・・曲想の非楽天化と形式の自由化、がこの時期以降の彼の作品に見られる特徴的な傾向となっていきます。ピアノ協奏曲第1番ヘ短調の第2楽章はテーマと9つの変奏から成り立っており、第6演奏までが緩徐楽章の、第7変奏以降がフィナーレの役割を果たしています。ピアノ協奏曲第2番は、3楽章編成ながら、リストの第2ピアノ協奏曲に倣って、連続的な、テンポやムードが絶えず流動する作品となっています(12)。

第1次世界大戦勃発の前年にあたる1913年、グラズノフは初めて劇音楽を作曲しました。詩人ロマノフがイエス・キリストのユダヤ入城、ピラトの兵卒に茨の冠をかぶらされて「ユダヤの王」とあざけられたエピソード(「マタイ福音書第27章、マルコ福音書第15章、ルカ福音書第23章、ヨハネ福音書第18・19章)に取材して創作した4幕の劇に、導入曲と付随音楽10曲(うち合唱を伴うもの5曲)を付けたのです。(55)
この「ユダヤの王」作品95は、ギリシャ正教の合唱の雰囲気をそのまま活かした厳粛な雰囲気を徹底して持っている点、同じ作曲者が11年前に作った組曲「中世より」作品79(第2曲に「怒りの日」が現れる以外、中世らしい曲想、色彩は全くない)と比較すると、創作の精神に大きな変化がもたらされていることをひしひしと感じさせてくれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝6)前衛と伝統・流浪・死

123456附(資料一覧)

1916年、ロシア帝室を牛耳っていた怪僧ラスプーチンが暗殺され、17年の2月革命でニコライ2世が退位、弟のミハイル大公が譲位を拒否したため、ここに帝政ロシアは崩壊しました。以後、革命運動は盛り上がる一方でしたが、食糧事情をはじめとしてロシア経済は停滞し、金銭的にひっ迫する市民も増加するばかりでした。

この頃のペテルブルク音楽院院長グラズノフの逸話は、彼の暖かい人間性を語っています。指揮者ムラヴィンスキー(1923年音楽院入学)は、最後の来日公演でグラズノフの第5交響曲を演奏するにあたり、日本人スタッフに
「グラズノフは、とても優しい人でした。大きな体をして、いつもにこにこしていた人です。そして、家庭が貧しくて、充分な教育が受けられない子どもなどがいると、そういう子どもの世話などを本当によく見ていました。そのグラズノフに、私は、どれだけ勇気づけられたか分かりません」
と語ったそうです。(53、西岡昌紀氏記事。同志の著書「ムラヴィンスキー 楽屋の素顔」リヴェルタ出版刊 にも記載)
1915年、12歳のナタン・ミルシュテインがグラズノフのヴァイオリン協奏曲を作曲者本人の指揮で弾いた時、リハーサルで曲の出だしをいくらか自己流に弾いたので、グラズノフがナタンに語りかけました。「私の書いたとおりに弾くのはいやかい?」リハーサルが終わると、今度はナタンにこういいました。「とにかく、君の好きなように弾きなさい。」(15)

この、心優しいグラズノフから最大の恩を受けたのは、ショスタコーヴィチです。
1919年、ピアニスト兼指揮者のシロティという人物に「音楽的才能がない」と診断されたショスタコーヴィチは、それを可哀想に思った両親がグラズノフに何とか引き合わせたことで道が開けたのです。ショスタコーヴィチに面接し、自作を弾かせたグラズノフは、シロティとは全く逆に13歳の彼の才能を「モーツァルトにも引けを取らない」と絶賛し、音楽院に入学させてくれました。ショスタコーヴィチ家は物資にも事欠いていましたが、グラズノフの経済的援助で、本人は音楽の勉強に専心することさえ出来ました。ショスタコーヴィチの作曲の師は、リムスキー=コルサコフの女婿、シテインベルクでした。この人は、コルサコフに才能を見込まれ、望まれて娘の婿になった人です。作風はしかし、義父に比べると穏健かも知れません。(85,86)
彼の指導のもと、ショスタコーヴィチは1925年、交響曲第1番を作曲しました。最初の2楽章には満足してくれたものの、シテインベルクは第3楽章、終楽章が気に入らず、特に終楽章については「テンポの面で演奏不能」とまで言い、それまでも良好とはいいかねた師弟関係に、表面的には現れなかったものの、これがもとでいっそう大きなひびが入ってしまったようです。師の懸念にも関わらず、翌26年、ショスタコーヴィチは交響曲第1番の初演にこぎつけ、大成功をおさめます。20歳の彼の成功を、グラズノフは16歳の時の自分の成功した姿に重ね合わせて見ていたといわれています。(16,79)

ただ、ショスタコーヴィチの作風は、この時早くも、グラズノフやシテインベルクの保守的なロマン派風の表現から外れ始めていました。「ショスタコーヴィチの証言」では、そのことがグラズノフには不満だった、といったようなことが書かれていますが、これは確かめる資料が他に見当たりません。
プロコフィエフ、となると、こちらはもう、その音楽をグラズノフが非常に毛嫌いしていたことがいろいろな記事に出ています。これも「ショスタコーヴィチの証言」に、グラズノフがプロコフィエフの「スキタイ組曲」演奏中、席を立って会場から出ていってしまった、という話が少々戯画的に誇張されて語られています。
いずれにせよ、前後のグラズノフ自身の作風から見て、革命以後急速に流行し出した「前衛的音楽」を彼が認めていなかったことは確かではないかと考えられます。のちに「ロシア・アバンギャルド」と名付けられ、大きな文化的トピックとして学者たちに扱われるようになる一連の芸術活動の、音楽面で筆頭に挙げられる名前は「プロコフィエフ」であり、彼にひそかに心酔していたショスタコーヴィチも、アバンギャルドの代表的詩人マヤコフスキーや演出家メイエルホリドと交流を深め、単一楽章形式の交響曲第2番・第3番では革命に熱狂する民衆を讃美する過激な表現を行なうに至ったのです。
狂っていくかに見える祖国の文化活動に愛想をつかし、政治的にも経済的にも有利な立場を追われつつあった芸術家たちは、20年ごろから西欧やアメリカに亡命し始めます。それが伝統派に限らないところが、面白いところです。音楽家では、ラフマニノフは早くも17年末にロシアを離れました。ラフマニノフを尊敬していたメートネルは21年にベルリンへ向け出国、パリを経て、最後はアメリカに移住しました。肝心のアバンギャルドの旗手と見られていたプロコフィエフも、18年には亡命しています。ストラヴィンスキーは、もともとフランスに本拠を置くロシアバレエ団と共に活動しており、故国に戻らなかっただけです。

幸いにして(?)、17年革命の前に亡くなった作曲家の代表は、まず、グラズノフの兄弟子リャドフ(1855〜1914)。大作こそなく、管弦楽作品は全て集めてもCD1枚に入ってしまう(交響詩3曲、8曲の民謡集1、小品8曲。演奏時間最長10分程度)ほどですが、民話に素材を求めた愛らしさはグラズノフにはないウィットに満ちています。日本では聴く機会が少ないのが残念です。(84)
また、生きていればアヴァンギャルドの教祖的存在になったであろうスクリャービン(1875〜1915)。鍵盤を押すと虹の七色がスクリーンに投射される<色光ピアノ>なるものまで作成し、この光に舞踊・香りも添えて二千人もの参加者によって演奏される『神秘』を企画しましたが、完成を果たせず唇のガンでなくなりました。

ソヴィエト連邦でしたたかに生き残ったのは、リャドフの弟子、ミャスコフスキー。生前は連邦の作品の出版国営化を任され、交響曲全27曲を作曲して(87)盛んに演奏されたそうですが、今はほとんど忘れられた存在になっています(1881〜1950)。門下にハチャトリアンやカバレフスキーがいます。

グラズノフは、というと、1928年まで、祖国に留まりました。自分の生徒たちを守るのに、必死だったのでしょうか。第2次世界大戦のドイツの行為で影が薄くなってしまっていますが、ヨーロッパ各国はもともとユダヤ人を通常の自国民とは差別する習慣が根強くあり、革命の前と後とを問わず、この点ロシアも共通でした。ミルシュテインの回想に、彼がユダヤ人であったゆえに、警察に問題視された際の事件が語られています。ミルシュテインは音楽院の生徒であったため、本来ユダヤ人に課せられる制限から自由であるはずなのに、警察が執拗に目をつけていたらしいことが読み取れますが、困り切ったミルシュテインを救ってくれたのがグラズノフでした。時の内務副大臣に電話一本で掛けあい、今後ミルシュテイン一家が安心できるよう取り計らってくれたのです。(15)
これは特別な例かも知れませんが、グラズノフは自分の地位を活かし、影に日なたに、彼の周囲の人たちを守ろうと必死に働いていたのではないかと思います。そんなグラズノフも、とうとう疲れたのでしょう、ロシアを永遠に離れる日を迎えます。
1920年代は、ロシアと西欧の行き来はまだ比較的自由でした。27年ごろからスターリンが大きく台頭してくると、しかし、その自由が急速に失われていき、34年に彼が完全に政権を掌握すると、交流はほとんど困難になりました。国内でも27年までに富裕な農民は次々と財産を没収され、工業労働者は無理な生産計画にのっとって過剰な労働を強いられるようになっていました。それまで「理想」に燃えた新機軸による活動をしてきた、革命の最も熱烈な支持者であるはずのアヴァンギャルド芸術家たちへの締めつけも、急速に強まりました。大ざっぱな言い方ですみませんが、政府は政府の規定する「模範的な芸術理念」にそった創作・表現活動を行なうことを芸術家たちに強制し出し、そこから外れるものは批判し、場合によっては粛清する、という強硬な態度に出始めたのです。詩人マヤコフスキーは30年にピストル自殺(偽装であって実は殺された、との説もあります)、メイエルホリドの劇場も36年に強制閉鎖され、40年にはメイエルホリド自身逮捕されてゆくえが分からなくなります(のちに、銃殺に書せられていたことが判明)。
ショスタコーヴィチの様々な受難については、彼の伝記をご覧下さい。

犠牲が出だすのは30年代に入ってからですから、グラズノフの出国は危うい、絶妙なタイミングでした。28年当時は、音楽界を含め、芸術界はまだ決して先行きに不安感を抱いていた訳ではありません。しかし、何かが、グラズノフに「もう限界だ」とささやきかけたのでしょう。ウィーンで行われるシューベルト没後百年記念コンクールに審査員として招かれたグラズノフは、6月15日、妻と娘を連れ、ロシアを出国しました。亡命する気まではなかった、とも言われていますが、そうだとすると以後の活動ぶりについて説明がつきません。(24)そのままプラハ、ワイマール、バルセロナ、マドリード、と2年間にわたって各地で自作中心に管弦楽を指揮して回り、1930年、パリに仮の住まいを定めました。(24,101)
パリを拠点に1932年まで、グラズノフはイギリスやアメリカで指揮活動を行いましたが、最後の4年間は健康を害し、病床に伏していたとのことです。(病名は調べきれませんでした)。
死を前にしたグラズノフについて、あと2つだけ、謎(というほどではないかもしれませんが)があります。
ひとつは、「指揮ベタ」疑惑。もう一つは、「アル中」疑惑です。
最初の「指揮ベタ」疑惑から。
まだロシア国内で活動している時のことです。ラフマニノフの交響曲第1番初演を巡っての事件は5節目に記したとおりですが、シャリアピンとの間にも次のようなエピソードがあります。グラズノフの指揮でシャリアピンが「ボリス・ゴドゥノフ」を歌っている時のこと、歌手のテンションアップに一行構わずテンポを上げようとしない指揮者に、シャリアピンはとうとう我慢できず、低い声でこう唸ったそうです。「サーシャ、もっと速くしろ!」ミルシュテインと大の仲良しだったホロヴィッツも、グラズノフの指揮でラフマニノフの協奏曲第3番を弾いていた時、緩慢さに耐えられず、どんどん勝手にテンポアップした、ということです。(15)
こんな具合で、人柄そのままに、人のペースに関係なく、およそのんびりした振り方ばかりしていたグラズノフが、西欧移住後、どの程度の評判を勝ち得ていたものか・・・残念なことに、評論の類いを見つけることが出来ませんでした。

パリ移住後も変わらなかったのんびりぶりは、同じミルシュテインの回想の中に、ラフマニノフが31年に行なったリサイタルの際の思い出として出てきます。このリサイタルで、ラフマニノフはバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」のプレリュードを自ら編曲し(78)、演奏したのですが、ミルシュテインにその批評をしてくれるよう頼んでいました。演奏直後、ミルシュテインは度胸を決め、ある個所についてバッハらしくない響きがした、とラフマニノフに告げに行き、演奏後の興奮さめやらぬラフマニノフに雷を落とされ、しょんぼりともどりました。その後はラフマニノフと顔を合せるのも恐ろしく、それでもラフマニノフ夫人の依頼でリサイタルのあとのパーティーにこわごわ出席しました。パーティーの席上、ミルシュテインが心配していたとおり、ラフマニノフは同席していたグラズノフに、ミルシュテインがこう批評してくれたけれどどう思うかね、という問いを発しました。「見たところ、グラズノフは演奏会の間そんなに厳密には聴いていないようだった。というよりグラズノフはこれまでもそのような聴き方はしていなかった。」(15)

こんなグラズノフが、1930年に「チェロ独奏と管弦楽のためのコンチェルト・バラータ」作品108をカザルスに献呈しています(64)。ソロを受け持ったであろうカザルスが、演奏会でグラズノフの指揮をどう感じたか、発言をやはり私は見いだせませんでした・・・

難しいのは、「アル中疑惑」です。
ラフマニノフの交響曲第1番初演が大失敗に終わった時、彼は妻に「グラズノフは酔っぱらっていたのよ」と慰められた、という話が、私の買ったCDの英語解説に出ていましたが、この時ラフマニノフはまだ結婚していないので、話は事実ではありません。しかし、グラズノフの酒好きぶりは、割合早い頃から評判になっていたのかも知れません。
例によって「ショスタコーヴィチの証言」には、グラズノフが音楽院で生徒に授業をしている間も隠れて酒を飲んでいた、というゴシップが載っています。しかも、その酒はショスタコーヴィチの父から貰っていた、というのです。(ショスタコーヴィチの父は22年に亡くなっています。仮にグラズノフにお酒を届け得たとしても、3年間だけだったことになります。)
「グラズノフは単に酒を飲むのが好きだったのではなく、絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられていたのだ。/このような不幸な体質をもっている人もいるものである。」(17)
グラズノフと同じデブである私は、デブが「絶え間ない咽喉の渇きに苦しめられ」ることをとてもよく理解できます。大人ですから我慢できますが、息子はそれこそいつも水分の採り過ぎで・・・こんな文句に出会うと「余計なお世話ヤ!」と、つい怒鳴りたくなります。・・・失礼しました。実際に授業中にグラズノフが飲んでいたのは、コロン水だ、という話もあります。(18)
いちおう、こっちの方が正しいのではないか、と私は思っています。アルコールばかり取っていては、いっそう咽喉が渇きますから。
ただ、グラズノフの酒好き、簡単に酔っぱらうさまは真実で、ミルシュテインのアンコールの伴奏をベロンベロンに酔っぱらって引き受けた様子や(15,p73)、たったワイン2,3杯ですっかり陽気になり、それでも言葉を選びながら、チャイコフスキーの「悲愴」初演の時の印象を語ったということ(15、p89)が、暖かく回想されています。
一般に、この頃の音楽家は酒を飲むのが非常な楽しみだったようで、ラフマニノフにも寝酒の習慣がありました(14)。
カザルスはサラサーテに会った時、彼からすすめられたブランデーを断ると、彼に
「なんだって? 君は芸術家志望だったね、それでも酒をやらない? うん、そりゃあ、どだい無理な話だよ」
と言われたそうです(19)。
グラズノフの酒好きは、以上から見ると、別に彼だけとりたてて騒がれなければならないような汚点ではないと感じられます。
気になるのは、H.G.ウェルズが書いている「自叙伝の試み」に、ウェルズがグラズノフとあった時、「彼はかなり酔っていたふうだった、アルコール中毒に見えた」と書いてあるとかないとかいう話が「2ちゃんねる」の掲示板に載っていたことです。で、必死でウェルズのその本を探しましたが、見つけるだけの時間がありませんでした(手がかりがありそうだったら教えて下さい。翻訳は出ていない模様です)。ウェルズと面会したグラズノフが、ウェルズにロシア情勢についてあれこれ情報をねだった、という、その時の話らしく、それが祖国を離れた寂しさに由来するものだったとしたら、アルコール中毒になっていても無理もない話として許されるだろう、とは思います。ただ、グラズノフの死因が突き止められなかっただけに、この話が彼の死と何らかの接点を持っているのではないか、と思うと、どうしても本当のところが知りたく思われます。

彼の最後から2,3番目の作品は、いずれもサックスの為のものです。作品番号はいずれも109、と、重複しており、何らかの錯誤があるようです。ひとつは、サクソフォン四重奏曲。パリで活動していたミュールという演奏者のサックスアンサンブルがアレンジものばかりをレパートリーにしているのを残念がり、このアンサンブルにオリジナル作品を提供する意図から作曲されました。第2楽章の変奏曲が、緩徐楽章から推移してそのままスケルツォになる、という、ピアノ協奏曲以降の自由な形式感覚で作られています。(57)
もう一つは、弦楽オーケストラを伴奏にしたアルトサクソフォン協奏曲(65)。20分ほどの単一楽章形式の曲ですが、グラズノフらしい明るい楽想の中にも、独奏楽器の音色がもたらす寂寞感が漂い、作曲者の命がだんだんに透き通って来た様子が見えるようです。一番最後の作品はオルガン用の幻想曲(未見)で、1935年作、と作品表には出ています(101,103)。作品番号は110です。

1933年に病床に伏してからのグラズノフについての具体的な記述が一切見いだせなかったのが、私の最大の心残りです。

1936年3月21日、グラズノフはパリで亡くなりました。71歳まであと5ヶ月でした。遺骨は1972年になってようやく、故郷ペテルブルク(当時はレニングラード)に帰ることが出来ました。娘のエレーナは、その後ピアニストになりました。(101)

ラフマニノフの伝記には、ラフマニノフの死の場面に、
「忘れられたものだけが死んだのだ」
という言葉を配しています。しかし、ラフマニノフは、名曲「ピアノ協奏曲第2番」ひとつしか知らない人の記憶にもその名は生き残っています。

グラズノフについては、どうでしょうか。。。いまのところ彼は、忘れられたに等しい存在であることは否定できないでしょう。

しかし、どうぞ、いちど彼の「ヴァイオリン協奏曲」をお聴きになってみて下さい。

彼もまた、<心の宝石>を私たち後代に生きるもののために残してくれた、大切な人だったことが、きっとお感じ頂けるものと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グラズノフ略伝(管弦楽作品を中心に)付:<資料一覧>

123456附(資料一覧)

伝記を追うには不十分・不完全な「2次的資料」ばかりで、とくに書籍が少なく申し訳ありません。
現在では入手できないものもあるかも知れません。

辞事典:
1.「標準音楽辞典」音楽之友社 昭和46年版〜グラズノフの記事は少ない
2.「音楽大辞典」平凡社〜1よりなおグラズノフの記事は短かった!
3.「図解音楽事典」白水社(U.ミヒェルス編 日本語版監修:角倉一郎)1989年。伝記的なことには、どんな作曲家についてもあまり触れていない。(グローヴの日本語版は無くなるのですが、置き場所が無く、買い損ねました。返す返す残念!)

書 籍:
11.作曲家◎人と作品シリーズ「リスト」 福田弥   音楽之友社 2005
12.「リスト ヴィルトゥオーゾの冒険」 ケレヴィッチ  春秋社 2001
13.「チャイコフスキー その作品と生涯」 クーニン  新読書社 2002(原書1958)
14.「伝記 ラフマニノフ」ニコライ・バジャーノフ  音楽之友社 2003
15.「ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録」ヴォルコフ 春秋社 2000
16.「ショスタコーヴィチ ある生涯」 ファーイ アルファベータ 2002
17.「ショスタコーヴィチの証言」 ヴォルコフ     中公文庫 1986
※この本がヴォルコフによる捏造である、という議論http://www.geocities.com/rickredrick/Testimony.html参照(英文)。
18.「革命と音楽 ロシア・ソヴィエト音楽文化史」伊藤恵子 音友 2002
19.「パブロ・カザルス 喜びと悲しみ」 カーン編   朝日選書 1991
20.「ロシア近現代史」藤本和貴夫/松原広志編著  ネルヴァ書房 1999
21.「ロシア文学案内」藤沼・小野・安岡著 岩波文庫 2000
22.「ロシア・アバンギャルド」亀山郁男著  岩波新書 1996
23.「評伝 エヴゲニー・ムラヴィンスキー」フォーミン   音友 1998
24.「名曲解説全集」9(協奏曲II)音楽之友社 1982全集全体で、グラズノフの作品は7,8曲しかとりあげられていない
25.「バレエへの招待」鈴木晶 筑摩書房 2002
※「バレエ」って、理解するのが私には難しいんです。特に、男性バレリーナのレオタード姿が・・・で、読みました。
26.「ロシア皇帝歴代誌」ウォーンズ 創元社 2001C 

CD等:グラズノフの作品
(ドイツ語ウェブサイトには192作品が掲載されています。うち劇音楽・管弦楽・協奏的作品が約80あります。その、およそ2分の1を店頭で発見できました。予想より多い数だった、といっていいかも知れません。パンフレットは、でもあまり伝記的資料を提供してくれませんでした。なお、ナクソス盤はグラズノフ管弦楽曲全集と称して17枚のCDを発行しており、52曲を収録しています。廉価に揃えるにはいちばんいい手段でしょうが、ネット販売でないと揃えられないでしょうネ。)
51.交響的絵画「クレムリン」作品30、交響詩「ステンカ・ラージン」作品13、バラード作品78、祝典行進曲作品50ニュルンベルク交響楽団(フロイデンタール/ナイトリンガー指揮)輸入盤 COLOSSEUM CLASSICS COL9028.2 2003
52.管弦楽のための組曲「中世より」作品79、「叙情的な詩」作品12、管弦楽のための幻想曲「森」作品19、ボロディン「イーゴリ公」序曲(グラズノフ補作[或いは創作?])ニュルンベルク交響楽団(デアーキ/フロイデンタール指揮)輸入盤 COLOSSEUM CLASSICS COL9032.2 2004
53.交響曲第5番作品55、チャイコフスキー「眠れる森の美女」からムラヴィンスキー/レニングラード・フィル 日本公演(1979年実況)国内盤 キングインターナショナル ALT064 2003
54.バレエ音楽「四季」作品67、演奏会用ワルツ1・2(作品47・51)スヴェトラーノフ/フィルハーモニア管 1977年録音国内盤 EMI CLASSICS TOCE-3427
55.(劇音楽)「ユダヤの王」作品95ロジェストヴェンスキー/ロシア国立合唱団/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9467 1996
56.ピアノ協奏曲第1番作品92、ピアノ協奏曲第2番作品100併集:ゲディッケ 協奏的断章作品11クーンブス(Pf)/ブラビンス(指揮)/BBC Scottish Orchestra輸入盤 Hyperion CDA66877 1996
57.サクソフォーン四重奏曲作品109(その他ロシア作曲家の作品併集)輸入盤 Challenge Classics CC 72039 1994
58.交響曲第1番作品5、ヴァイオリン協奏曲作品82クラスコ(Vn)/ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9751                  1999
59.交響曲第2番作品16、第7番作品77Anissimov/Moscow Symphony Orch. NAXOS 8.553769 1996
60.交響曲第3番作品33、第9番Anissimov/Moscow Symphony Orch. NAXOS 8.554253 1997
61.交響曲第4番作品48・第5番作品55ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団輸入盤 CHANDOS CHAN 9739 1999
62.交響曲第6番作品58、「ライモンダ」組曲作品57aブット/ロンドン交響楽団・ロイヤルフィル輸入盤 ASV CD DCA 904 1987/90
63.交響曲第8番作品83、祝典序曲作品73,結婚行進曲作品21ネーメ・ヤルヴィ/バイエルン放送交響楽団輸入盤 ORFEO C 093 201 A 1984
64.Concerto Ballata for Cello & Orch.Op.108、Chant du menstrel Op.71Two Pieces for Cello & Orch.Op20、A La Memoire Op.87 & Op.8 1996Golovschin/Moscow Symphony Orch./A.Rudin(Cello) NAXOS 8.553932
65.Concerto for Alto Saxophpne and Strings Op.109 etc.(Debussy他)Brabbins/Philharmonia Orch./T.Kerkezos(Sax) NAXOS 8.557063 2002
66.(DVD)ボリショイ・バレエ「ライモンダ」作品57国内盤 Pioneer PIBC-1048 収録1989
67.幻想曲「海」作品28、オリエンタル狂詩曲作品29 他ゴロフスチン/モスクワ交響楽団 NAXOS 8.553512 1996
68.性格的組曲作品84、運命の歌作品84、2つの前奏曲作品85ゴロフスチン/モスクワ交響楽団 NAXOS 8.553857 1996

CD等:他作曲家等の参考作品(伝記的に関係の深いものを中心に)
71."Kalinka" Russian Folk Songs Schwarzmeer Kosakenchor 輸入盤2枚組Brilliant 92341(ロシア民謡集。2枚で990円なので試し買いしました。正体不明。)
72.Liszt "Eine Fausut Symphonie" Sinopoli/Staatskappelle Dresden輸入盤 Deutsh Gramophon(UNIVERSAL) 476 219-5 1996
73.Liszt PianoConcerto No.2 etc. Ferencsik他輸入盤5枚組 Capriccio 49 950 発売2005
74.Balakirev Symphonies 1 & 2, "Russia", "Tamara"Svetlanov/The Philharmonia Hyperion CDD22030(2枚組) 1991
75.リムスキー=コルサコフ 交響曲第1・2・3番、「サトコ」、「貴族たちの行進」・序曲「プスコフの娘」・序曲「皇帝の花嫁」・「サルタン皇帝の物語」から3つの奇跡国内盤2枚組 スヴェトラーノフ/ロシア国立交響楽団 RCA 1993
76.Prokofiev "Scythian Syite Op.20" etc.輸入盤2枚組 VENESHA(?)MOCKBA CDVE03224 発売2005
77.Rachmaninov Symphony no.1 Op.13 etc.(交響曲全集)プレヴィン/ロンドン交響楽団 収録1973〜76輸入盤3枚組 EMI CLASSICS CMS 7 64530 2
78.「ラフマニノフ・プレイズ・ラフマニノフ」(1925〜1942)国内盤RCA BVCC-5116※他に4曲のピアノ協奏曲の自作自演CDも、まだ出ています。国内盤 RCA 1・4番はBVCC-5114、2・3番はBVCC-5115
79.ショスタコーヴィチ交響曲全集 コンドラシン/モスクワフィル AULOS(交響曲第1番は1972年録音
80.(DVD)ボロディン「イーゴリ公(映画版)」 1969(演技者と歌手は別)ニホンモニター(株)ドリームライフ事業部
81.ボロディン:交響曲第2番(クライバー親子の演奏対比)  1947/1972輸入盤 hanssler CLASSIC CD93.116
82.ボロディン:交響曲・管弦楽作品集 グラモフォンPOCG-1642/3(2枚組)ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 1989
83.タネーエフ:交響曲第2番・第4番 CHANDOS CHAN 9998ポリャンスキー(指揮)/ロシア国立交響楽団 2001
84. Russian Fairy Tales(リャドフの全管弦楽曲、他ロシア管弦楽の有名曲Shpyller/Krasnoyrsk Symphony Orchestra(LIADOV's Works) DDD 2001
85.シテインベルク:交響曲第1番 他2作 グラモフォンUCCG-1032ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 1997
86.シテインベルク:交響曲第2番、管弦楽のための変奏曲ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団 グラモフォンUCCG-1062 1998
87.ミャスコフスキー:交響曲第6番(1923年) グラモフォンUCCG-11116ネーメ・ヤルヴィ/エーテボリ交響楽団  1998※ 最近、全集が4万2千円くらいで出ているのを見かけました・・・
88.(DVD)チャイコフスキー:3大バレエ  ジェネオンGNBC-4027ボリショイ・バレエ 収録1989

ついでに、ロシア19世紀末〜20世紀初頭音楽のCD情報のおまけを。
ラフマニノフと親交の深かったメートネルのピアノ作品(DENON)も国内盤で出ました。メジェーエワという可愛いピアニストが1998年に日本(岩井市)で録音したものです(メートネルについては書籍14・15参照)。
「5人組」最弱(!)の作曲家兼最悪(!)の批評家キュイの曲もナクソスに録音があるのを見かけました。買わないうちに見失いました。
プロコフィエフやスクリャービンの交響曲全集や、後者のピアノソナタ全曲盤は、輸入盤の方が安いものがあります。スクリャービンを「知りたい」のだったら「ピアノソナタを全部聴けばいい」そうです。11曲ありますが、ベートーヴェンとは違い、CD2枚に全部収まる長さです。・・・でも、いつも寝てしまって、私はちゃんと聴いていません。(CDは寝る前しか聴けません!)
チャイコフスキーの第1番以外のピアノ協奏曲の録音を探すのは面倒でした!EMI 7243 5 85540 4 という番号でバルシャイ指揮のものがありました。
音楽面でアバンギャルドの象徴となったモソロフ「鉄工場」はスヴェトラーノフの指揮で出ているのを見かけましたが、聴き損ねました。
輸入盤でロシア・アバンギャルドの作品集成がTELDECから3枚組で出ていて、かつてショスタコーヴィチに強く興味を惹かれた時期に買いましたが、ちょっと聴いただけでお蔵に入れてあります。ロシアものではないですけれど。
リストについては、オラトリオ「キリスト」が韓国盤で出ています。スヴェトラーノフ指揮で、DVDと間違うようなケース入りです。

ウェブ:
101.http://www.glasunow.org/
(グラズノフの一人娘、エレーナの関係者たちにより作られており、信頼度高し)
102.http://www.eonet.ne.jp/~hide160/music_50.html
(日本のグラズノフ好きの人が作ったサイトですが、グラズノフの伝記については深くお調べではないようです。)
103.http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/index.html
(梅沢敬一さんが作成した、様々な作曲家の作品表。グラズノフもあります。)

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2006年5月 7日 (日)

クリスチャン・バッハ略伝

モーツァルト好きには有名な話ですが、レオポルド、ヴォルフガング親子が共通して「最高の作曲家」と評価したまれな存在が、この「ロンドンのバッハ」でした。

ヴォルフガングが、苦悩の時代をすごしたパリ近郊から父に送った手紙・・・
「お父さんも良く知っているように、僕は彼(=クリスチャン・バッハ)が心から大好きですし、また最高に尊敬もしています。」

父レオポルドが、息子の冗長な作品に注文を出した手紙・・・
「美しく、短く作曲できなければ良い作品にはならない。ロンドンのバッハのようでなくては。」

また、クリスチャン・バッハの訃報を聞いて息子が父に綴った言葉・・・
「イギリスのバッハがなくなったのをご存知ですか? 音楽の世界にとって最大の損失です。」

(記憶で綴ったので、正確な文ではありません。あとで英訳を確認しましたら、とくにレオポルドの文は不正確です。主旨は合っていますのでご了承下さい。)

------------------------------------

モーツァルト父子は、はたして、クリスチャン・バッハを過大評価していたのでしょうか? 父子がこれほどまでに言葉をきわめて賛美した人物が、現在ではほとんどかえりみられません。

クリスチャン・バッハは、生前、間違いなく高く評価された作曲家でした。彼の時代、バッハと言えば1にクリスチャン(ロンドンのバッハ)、2には兄エマヌエル(ベルリンのバッハ、またはハンブルクのバッハ)を指しており、決して大バッハ(ヨハン・セバスチャン)ではなかった、という話も、いろいろな本にしばしば言及されているところです。しかも、エマヌエルは知名度の点では異母弟クリスチャンには大きく水をあけられていました。
大バッハが息子たちの名声を圧倒するようになるのは、メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の復活上演以降のことだった、という事実は、どなたもご存知のとおりです。
エマヌエルのほうは、最近は父に続いてCDも楽譜も多く手に入るようになり、知名度はクリスチャンと逆転してしまいました。
エマヌエルの伝記は、日本人著者によっても1冊の本として書かれました。しかし、クリスチャンについては、18世紀ドイツオペラの作曲家列伝的な書物に、ほんの十数ページ掲載されているだけであり、それも真贋入り混じったエピソードの連なりに過ぎず(筆者はエピソードの出所が事実か噂かを全く明記していません。下記1989年の詳しい伝記を参照しているはずなのですが、きわめて残念です)、生涯の情報について、少なくとも日本語文献上では兄ほど明確になっていません。
クリスチャンに関する最新の伝記は1989年にドイツで書かれ、5年後に英訳されています。探した限り、海外でも、第二次大戦後ではこれ1つしかクリスチャンの伝記は見当たりませんでした。
その序文が象徴的です。
「歴史家たちは彼を無視してきた。・・・私(著者)はその理由を見つけることから始めてみよう。」

------------------------------------

1989年の伝記作者が記した「クリスチャンが無視された理由」の第1は、前述の『マタイ受難曲』復活上演を機に起こった大バッハルネサンスです。以降、大バッハの再評価が進むにつれ、反対にクリスチャンやエマヌエルがそれまで得ていた評価も、事実は彼ら自身の活動から勝ち得ていた名声だったことが忘れられ、
「父親の名声のおかげ」
ということにされていってしまったのでした。
それでも、作風がバロックに近く、かつドイツを離れたことがないエマヌエルは、
「父ヨハン・セバスチャンの正当な後継」
とみなされた分、権威を失墜させられるまでの不幸にはみまわれませんでした。
クリスチャンは、作風が父と大きく乖離しており、かつ作品が平明で単純に感じられがちなのが災いしました。
父が復権するにつれ、クリスチャンの方は
「父の存在がなかったら、彼は忘れられていただろう」
というのに近いほど、評論家たちから小物扱いされるようになってしまったのでした。

伝記の著者は前書きではほのめかし程度しかしていませんが、大バッハ関係の著作などから伺えるあと2つの理由は、
・クリスチャンは修業時代を過ごしたあと一度も故郷に帰らなかったこと(彼と経歴の似た先輩、父と同年生まれのヘンデルは、時々帰省していました。)
・クリスチャンはイタリアに行ってからカトリックに改宗したこと
です。
とくに、カトリックへの改宗は、それまでプロテスタントの中で活躍していたバッハ一族のイメージを壊すものとして、主にドイツでクリスチャンが無視されていく大きな要因になったかも知れません。

けれども、クリスチャンは、無視され忘れ去られるにはもったいない、ステキな性格の持ち主だったことが、モーツァルト以外の人々の記録からも伺い知れます。
特に面白いのは次のような逸話です。

クリスチャンは、父の死後、ベルリンで次兄エマヌエルの世話になり、音楽修行を続けたのですが、修行中に作曲したクラヴィア協奏曲の、とある2つの草稿に、非常に対照的な書き込みが残されているそうです。
ある1曲は、兄の手で、
「エマヌエルの監修(により仕上げられた)」
と無愛想な文言が記されているのですが、別の1曲は、草稿の末尾に、クリスチャンの手でこう記されているとのことです。
「このコンチェルトは僕が作った。・・・なかなかキレイじゃないかい?」

-----------------------------------------------------------

ヨハン・クリスチャン・バッハは、1735年、父ヨハン・セバスチャンが51歳の時に生まれました。
私はキリスト教徒ではないので由来がわかりませんが(ご存知の方、お教え下さい)、子供が誕生すると、親は付合いのある有力者をその子の名付け親に仰ぎます。クリスチャンの名付け親に選ばれた一人は、父の上司でもあるライプツィヒ聖トーマス学校の校長、J.A.エルネスティでした。エルネスティは前年に校長となったばかりでした。
前任校長のゲスナーはヨハン・セバスチャンの強い味方でしたから、ゲスナーが後任に選んだエルネスティとも良好な関係を保っていけるだろう、という観測のもとに、父はこの新上司を末息子の名付け親に頼んだのでしょう。
しかし、ことはそううまく運びませんでした。
エルネスティは音楽教育に関して、セバスチャン・バッハの死までその最大の敵となったのでした。
背景には、時代の急激な変化がありました。
「啓蒙主義」の流行です。
「啓蒙」とは、「誰もが、自然で、平明に」を旗印とした思想を軸にした社会運動を指すものです。代表的な思想家のひとりがジャン・ジャック・ルソーで、彼の著作の一タイトルが、まさにこの社会運動を象徴しています・・・『人間不平等起源論』。すなわち、不平等を嫌う考え方が世の中を覆い始めたのです。
エルネスティは古典文学に造詣が深く、後年ゲーテがその講義を受けたほどの英才でした。ギリシャやローマの古典を通じ、古代自由思想を理想としていた彼は、啓蒙主義の推進者として、権威を嫌い実利を重んじる校風作りを目指したようです。結果として、対照的に権威を楯と頼んで音楽活動を続けてきたセバスチャンのやり方にことごとくメスを入れ、エルネスティはセバスチャンを苦境に陥れたのでした。
父バッハは、外からも追いつめられていました。啓蒙主義社会は音楽そのものにも平明さを求めてメロディ至上主義を唱え出し、平明さに反する音楽家の代表格として、露骨な比喩で、実質上名指しでセバスチャンを槍玉に上げたのです。
クリスチャンは、こうした父の苦境を目の当たりにしながら成長していきました。一方、父のほうも、時代の新思潮と自分の育んできた人生観に大きな落差が生じた現実に目をつぶろうと『音楽の捧げ物』や『フーガの技法』という最も複雑な技巧に満ちた作品に自らすすんで埋没して行ったように見えます。そんな精神的姿勢のせいもあったのでしょうか、最後は心ばかりではなく、肉体の目も視力を失います。
諸説ありますが、後年の作風からみて、クリスチャンは兄フリーデマンやエマヌエルの域までの音楽教育は、父からは受けられずに終わったように思われます。クラヴィア演奏家としては完全な、しかし、創作家としては入り口まで、というのが、父に授かった教えの全てだったのではないでしょうか。大成したクリスチャンが、たった一度だけ、父の思い出を口にしたことがあるそうです。それは、こんな話でした。
「あるとき、僕が無意識に鍵盤を叩いていて、四六の和音の通奏低音付けを間違っちゃったんだ。そしたら、それまで脇でグッスリ寝ていた父さんが、突然ガバッと起きて、正しい弾き方を僕に教えてくれたんだ・・・」

父の死後、十五歳のクリスチャンは、フリードリッヒ大王傘下の楽団に所属していた次兄エマヌエルに引き取られ、ベルリンでこの次兄からなお4年ほど音楽の手ほどきをうけ、かつ、兄の庇護のもとでベルリンの音楽家達と親しく交わるチャンスを得ました。ただし、当地でクリスチャンが友人を得たのは彼自身の性格によるところが大でした。クリスチャンは母譲りの陽気で優しい人柄だったと言われています。
反面、兄エマヌエルは、ユーモリストではあったものの、そのユーモアがしばしば毒を含んでいたり、妻が富裕な商人の娘だったこともあってか、金に汚く利に聡かったりして、必ずしも周りに好かれる性格ではなかったようです。
それでも、クリスチャンは音楽家としての着実な基本は、この兄のおかげで習得できたのでした。兄は間違いなく最高の鍵盤楽器奏者でしたし、父の技法を受け継ぎながらも、時代の雰囲気に適った直裁な作風で優れた音楽を生み出し続けていました。また、推測の域は出ませんが、クリスチャンがロンドンで活躍できる素地作りにも、兄エマヌエルが一肌脱いでいた可能性もあります。クリスチャンがロンドンに渡った同時期に、兄エマヌエルの弟子を公言してくれていたゾフィー・シャルロッテがイギリス王妃となっているからです。

ですが、クリスチャンのイタリア行きには、兄エマヌエルは貢献していません。
彼のイタリアへの出発については、こんな説話が流布したそうです。
「兄の同僚であったアグリコラが結婚し、イタリアの新婦の実家へ行くことになったが、面接の上で、連れていく従僕を決めた。その従僕はヒゲ面の老人だった。イタリアの目的地に着くや否や、ところが、従僕は初めて巧みな変装を解いた。鬘を脱ぎ捨て、付け髭を取った従僕は活き活きとした若者、クリスチャン・バッハその人だった。」
日本語で現在唯一読める短い伝記にもこの説話が「実話」として採り上げられていますが、アグリコーラの結婚は1751年、クリスチャンのイタリア行きは、3年後の1754年であることが分かっていますから、残念ですがこの話はウソです。

クリスチャンのイタリア行きを熱心に奨めてくれたのは、フリートリヒ大王と懇意だったボヘミアの支配者、ロプコヴィッツ伯爵家の嗣子にあたる人物(ベートーヴェンを後援したロプコヴィッツの父)でした。この人は、クリスチャンがベルリンに移ったばかりの1751年から、すでにクリスチャンを見込んで、そのイタリア行きを熱心に奨めていた節があります(この年にハンブルクへ旅したエマヌエルが、旅先で話題にしていることから、事情が伺われます)。
それでも、兄は、弟を養育しなければならないという義務感からでしょうか、なお3年はクリスチャンを手元から離しませんでした。
ですが、やがて7年戦争勃発し、フリートリヒ大王が宮廷楽団の規模縮小をほのめかすと、兄は念のために、新しい就職先を探す必要に迫られました。父親譲りと思われるエマヌエルの頑固な音楽観は、大王には煙たがられていたからです。
そうなると、クリスチャンもこれ以上、兄の家計に迷惑をかけるわけには行きません。
詳細な事情は判明していませんが、おそらく経済的な事情から、クリスチャンは数年にわたるロプコヴィッツ伯の好意に応え、ロプコヴィッツ家と親しかったミラノのリッタ伯爵をパトロンに仰ぐことになったのでした。

イタリアでは、当時最も高名なマルティーニ神父が、クリスチャンの音楽の師となります。
いつごろの作品かはわかりませんが、クリスチャンの手になる「<BACH>によるフーガ」というオルガン曲があります。ここで繰り広げられる対位法は、タイトルから予想されるイメージとは異なり、父や兄フリーデマン、エマヌエルのものとは全く違います。むしろ、ハイドンやモーツァルトのフーガに近いものがあります。・・・
ハイドン、モーツァルトの対位法はマルティーニが教えていた対位法と同じルーツのものです。したがって、クリスチャンのフーガが意味するのは、クリスチャンの対位法の師は父でも兄でもない、マルティーニであった、という事実です。
マルティーニのもとで、クリスチャンは数多くの教会音楽を熱心に作っては師の指導を仰いでいます。そのため、教会音楽の色合いも、父や兄達のものとは全く異なっています。
この点は、以後のクリスチャンを考えるときに、重要な鍵のひとつとなります。

マルティーニの元で修行に励むクリスチャンを、パトロンのリッタ伯爵は宗教音楽とは別の方向・・・すなわち、オペラへと向けさせようとし出したことが、イタリアに住んで3、4年経ったクリスチャンの書簡から伺われます。
クリスチャンはマルティーニの住むボローニャに滞在することが困難になり、リッタ伯爵のお膝元であるミラノに拘束されることが増えていきました。
リッタ伯爵のもくろみは1761年、クリスチャン初のオペラ作品として成就しますが、その結果は、リッタ伯爵にとって思い掛けないものとなります。

-----------------------------------------------------------

ミラノでのパトロン、リッタ伯爵の刺激により、クリスチャンは、バッハ一族で唯一のオペラ作曲家となりました。
しかも、第1作からして、リッタ伯の思惑を遥かに超えた成功を収めたのですから、大変なことです。興行師がクリスチャンの才能に目を向けるのは当然でした。
クリスチャンのもとへ、リッタ伯爵を通さないオペラ創作の打診が来るようになり、彼は尚2作をモノにします。2作目は第1作に続いて大きな反響を呼びましたし、第3作はそこまでとはいかずとも、まずまずの成功といえました。

リッタ伯爵は、なにも、クリスチャンをオペラ専門の作曲家にまでしようと考えていたわけではありません。クリスチャンの視野を広げたかっただけなのでしょう。その証拠に、リッタ伯はクリスチャンをミラノのある教会のオルガニストに就任させることにも注力しました(これに伴い、クリスチャンはカトリックに改宗します)。
しかし、父や兄たちと違い、オルガンはどうも、クリスチャンの嗜好と能力には合わない楽器のようでした(後年、彼の弾くオルガンについてロンドンのある婦人が「あまりうまくない」という感想を漏らしています)。そのため、クリスチャンは、オルガニストとしての勤めは充分に果たそうとせず、歌劇場でバレリーナといちゃついているありさまでした。リッタ伯爵は、そんなクリスチャンに愛想をつかし、二人の関係は断絶してしまいます。・・・それでもなお、ロンドンに永住を決意するまで、クリスチャンはミラノの教会オルガニストの地位は失いませんでしたが。

「ミラノにいづらくなったから」
そんな理由でクリスチャンはイギリスへ渡ったのだ、という話もありますが、どうやら彼にはそこまでの罪悪感も、逃避したい気持ちも、あったわけではなさそうです。
たまたまイギリスの興行師が有利な条件を持ち出したので、初めは
「モノは試し!」
くらいの考えで、彼はイギリスのオペラ界に顔を突っ込んだのでしょう。

経緯は省きますが、ロンドンに渡った1762年に、イギリス王室に輿入れした女王で兄エマヌエルの弟子であったシャルロッテ付の楽長となり、翌年には2つのオペラを成功させ、「ロンドンのバッハ」としての輝かしい一歩を踏み出します。
日本の芸能界にもあるそうですが、当時の音楽家の世界にも激しい足の引っ張り合いがあったことは、モーツァルト親子がサリエーリを目の敵にした事例などでご存知の通りです(映画『アマデウス』ではサリエーリの方がモーツァルトを嫉妬したことになっていますし、モーツァルトびいきはいまだにそう信じていますが、史実を確認すると、サリエーリはモーツァルトを嫉妬していた形跡がありません。むしろ、鷹揚に構えていたように見えます。・・・脱線してすみません)。。
ロンドンの王立歌劇場も、足の引っ張り合いが激しく演じられた場所でした。
行ったばかりで大成功をおさめたクリスチャンは、早くも翌年には歌劇場の勢力争いに巻き込まれ、支配人の座が彼の対抗派に握られると同時に大切な歌手を解雇されたり、オペラ創作のチャンスを横取りされたりします。
それでも彼は、王室の保護も得たことだし、当面はイギリスに腰を落ち着ける決心をかため、64年頃にやっと、ミラノのオルガニストの座を降りたと思われます。
そこで新たに彼が打った手が、有名な「バッハ=アーベルコンサート」です。
アーベルは父セバスチャンの元にもいたことのあるガンバ奏者で、クリスチャンとは旧知の仲だったのかも知れません。彼も1761年にはロンドンに来ていました。
二人が知り合ったのは63年だと考えられますが、そこで経済的な目論見が一致したのでしょうか、年下のクリスチャンが経営する恰好で、「バッハ=アーベルコンサート」は1764年から開始され、後述する事件でクリスチャンが高額の債務を負うことになった1780年まで、高い人気を保ったまま継続されることとなります。

コンサートが開始された64年、モーツァルト親子がロンドンを訪ねてきます。王に拝謁した8歳のヴォルフガングを、クリスチャンは王夫妻の目の前で膝に抱き、二人は二時間ほどぶっ続けで一緒にクラヴィーアを演奏しました。お互いに謎掛けし合うように手を交代しながら弾いたそうですが、ヴォルフガングの姉、ナンネルの記憶によると、
「まるで一人で弾いているように見事につながっていた」
ということです。
幼いヴォルフガングは、この経験でその人柄に魅せられ、かつはその作品の透明さに深い印象を受け、生涯「ロンドンのバッハ」を尊敬し続けることとなります。

ロンドンに渡った時27歳だったクリスチャンに残された命は、あと19年強です。
「ハッピーエンド」を嗜好した当時の観衆に応え続け、対外的にはさしたる浮沈もなく過ごした彼にとって、これは短か過ぎる期間だったでしょうか?
オペラ界で高い評価を得た人物にしては、彼は先輩のヘンデル(36年間で41作)、心酔者モーツァルト(ジングシュピールを含め24年間で17作)に比べ、オペラの数は20年間で13作程度、と、数でも割合でも思いがけないほどの少なさです。これは、オペラに限らず器楽でも「ハッピー」な印象の強い作風でありながら、彼が内面では起伏の激しい生活を送っていたことを反映しているのかも知れません。
ロンドン・オペラ界のドタバタに振り回され続けたのも勿論ですが、彼はまたハンサムでモテモテだったために、恋多き男だったようでもあります。
アーベルと演奏会を開始した7年後、一家でロンドンへやって来たマンハイムのソプラノ歌手に、クリスチャンはメロメロになってしまいました。その父の誘いを受けて、
「ヘイ、ヘイ!」
という感じの実に軽いノリで、クリスチャンは一家の帰郷にくっつき、マンハイムへと向かいます。
その地で旧作のオペラを上演し高い名声を得たクリスチャンは、彼女と結婚してマンハイムに居残る腹積もりでした。張り切って、彼の作品の中でも際立って美しい
「4声と合唱のためセレナーデ『エンディミオーネ』」
も作っています。
残念ながら17も年下、しかも引く手あまたの美人だった彼女に見事にふられ、クリスチャンは深い傷心にいたたまれず、さっさとロンドンへ帰還します。幸せはその地で待っていてくれました。ミラノ時代から顔見知りだったと思われる女性、チェチーリアが、1773年、クリスチャンを生涯の伴侶として抱き留めてくれたのです。

個人の幸せをようやく掴んだクリスチャンの、短い絶頂期は1776年から78年。この最初の年に、クリスチャンは師マルティーニに「大音楽家コレクションのため」と乞われて有名な肖像画を師宛に送ります。終りの年があまりに早いのは、対岸のフランスはパリでのオペラ界の勢力争いに、人の好いクリスチャンがまんまと乗せられたためです。
パリでは当時、「グルック・ピッチンニ論争」として知られるオペラ界内での激しい対立がありました。それも後年の我々ですから
「そんなことがあったんだよ」
と歴史を知ることが出来ますけれど、激しいとは言っても結局は狭い世界の中での対立です、外にいるクリスチャンはそんなことを知る由もありません。
「論争」に敗れたピッチンニ・・・この人もかなりのお人好しだったそうです・・・の後釜として目をつけられたのがクリスチャンでした。パリで、クリスチャンは新作オペラを作りましたが、反響は「概ね好評」程度でした。しかも、対抗側のご本尊、グルックは、クリスチャンの訪仏からほんのわずかな後に、さっさと自分のホームグランドであるウィーンへ帰ってしまいました。これでは話になりません。クリスチャンもパリに長居は無用でした。
この時、モーツァルトもパリにいました。父の言いつけで就職活動に来ていたものの、どうしてもパリの風土に馴染めなかったモーツァルトに、同行していた母の死が追い討ちをかけます。
傷心のモーツァルトを支えたのが、たまたま出会ったクリスチャンでした。クリスチャンはモーツァルトに、
「一緒にイギリスへ行こう」
と誘いをかけたと思われます。残っているモーツァルトの父宛の手紙から、そのように推定されます。
しかし、モーツァルトのイギリス行きは、父の強引とも言えるザルツブルクへの帰還要請により実現しませんでした。

ロンドンへ戻ったクリスチャンは、このころすでにアルコール中毒だったと考えられています。アルコール中毒の原因になったのは、酒好きのアーベル、その友人でクリスチャンの有名な肖像画の作者であるゲインズバラの二人からの影響によるものだ、と、伝記作者ゲルトナーは述べています。3人の中で最も早く亡くなったのはクリスチャンですが、他の二人の死因もアルコール中毒だったことが分かっているからです。

進行するアルコール中毒で体力が衰えていたのか、ロンドンに帰ってからのクリスチャンの作品数はあまり多くないようですし、注文があったにも関わらず、オペラは1つも書けていません。
そんなクリスチャンを襲った大事件が、彼の死期を早めました。

クリスチャンは永年信頼していたメイドに、オペラ舞台作りなどの委託先への支払を任せきりにしていました。これが災いしました。主人にお金をまかされ、しかも主人のチェックが甘いと、使い込みがエスカレートするのは世の常です。このメイドも同じ罪を犯し、しかも、バレそうになった絶妙のタイミングで遁走したのです。・・・金融では当時世界一だったロンドンも、債権債務の保護の仕組はまだ確立されておらず(直接関係しないかも知れませんが、例えば、有名な保険ブローカー、ロイズの機構が法的にも整ったのが1772年で、法人化はほぼ99年後の1871年・・・クリスチャンの生前には保険の保護という観念も、まだ一般に浸透しきっていま
せんでした)、クリスチャンはそれまでのお金持ち身分から、突然、多額の債務を負う立場へと追い込まれてしまいました。1780年のことです。
ショックから急激に気力の衰えたクリスチャンは、回復へ向かうことなく、81年の11月には遺言を残し、翌1782年1月1日、妻と数少ない友人に見守られ、ひっそりと息を引き取ったのでした。享年46歳6ヶ月、私の今の歳より2ヶ月短いいのちでした。

生前は絶大な名声を誇ったクリスチャンでしたが、死後は急速に忘れられていきます。
かつて、兄エマヌエルがクリスチャンを評して
「あいつの音楽は耳には快い。が、精神には何ももたらさない」
といったことを述べています。発言当時から、これは、かつて面倒は見たものの、血のつながらない弟の大成功への嫉妬は免れえなかった頑固なエマヌエルのやっかみだ、と捉えられてきました。
ですが、兄のこの評価は、クリスチャンの急所を的確に突いています。
啓蒙主義全盛期の、ハッピーエンドを好んだ観衆、耳当たりの良さだけを望んだ聴衆を絶対に裏切らなかったからこそ、クリスチャンは名声を保てました。しかし、亡くなった1782年はフランス革命の7年前です。時代と嗜好は、大きい転換点を迎えます。
フランス革命を境に、思潮はロマン主義へと転じ、安定しない世相の中で、人々はむしろグロテスクなもの、迷走する筋書きに魅力を抱き始めます。クリスチャンのような純真さは、もはや、そんな社会に要求されるものでも、望ましい存在でもありませんでした。父のお株が上がり、やがて長兄と次兄の名誉は回復するものの、クリスチャンが今でもあまり顧みられないのは、私達の時代がなお、複雑さを指向し続けているからではないか、と考えれば分かりやすいでしょう。

それでも、クリスチャンの音楽の純真な響きが、私達の大多数が現在好んでいるモーツァルトその人の心を捉えて放さなかった響きであった、という事実は厳然と残っています。モーツァルト生誕250年だからこそ、この事実の意味が見直され、問い直される必要も価値も、大いにあるはずです。

-----------------------------------------------------------
文献)
・Heinz Gaertner(aeはAウムラオト)
 "JOHN CHRISTIAN BACH-MOZART'S FRIEND AND MENTOR"(原書ドイツ語。英訳本)
ですが、日本語では以下のものを参照しました。
・ヴォルフ「ヨハン・セバスティアン・バッハ 学識ある音楽家」
・久保田慶一「エマヌエル・バッハ 音楽の近代を拓いた<独創精神>」
・丸本隆(編)「オペラの18世紀」

録音)
クリスチャン・バッハ作品のみのものは別途ご紹介します。
「バッハ一族」や「ヨハン・セバスチャンと息子たち」の作品を集めたCDは、国内盤ではあまりありませんが、輸入盤ですと1枚ものでも結構あります。バッハ一族の世代による作風の違いは、それぞれの人が生きた時代を反映していて興味深いものがあります。ぜひ、ひとつでもお聴きになってみて下さい。
ヨハン・セバスチャンと息子たちの作風を1枚で比較出来る例として
・"Organ Works of the BACH Family" hanssler Classic CD94.038(ドイツ製1991)
・"Bach and sons 5 piano concertos" PIANO21 p21 013 ND211(フランス製2003)
といったものがあります。

イタリア時代までの作品(抄)
(ライプツィヒ時代)
1748   父バッハ『管弦楽組曲第2番』ポロネーズのクラヴィア用編曲

(ベルリン時代)
1752   カンタータ "L'Olimpe"
1754以前 クラヴィア協奏曲へ短調、同ニ長調(他数曲?)

(イタリア時代前半)
1757   "Dies Irae"、"Kyrie"
     上記を含むミサ曲(レクイエム)?
     Six Sonatas for Keyboard accompanied by flute ore violin(Op.16)
1758   "Magnificat"
     Six string torios
     Seven sonatas for violin and keyboard
     カンタータ"Lezioni"
     "Miserere in 10 movement"
     "Beatus vir"
     "Domine ad adjuvandom"
     "Laudamus Te"
     "Te Deum"
1759   "Tantum ergo"

(ヨハン・クリスチャン・バッハのオペラ作品)
・「アルタセルセ」
  "Artaserse" 1761 Turin
・「ウティカのカトー」
  "Catone in Ytica" 1761 Naples
・「インドのアレクサンダー大王」
  "Alessandolo nell'Indie" 1762 Naples
・「オリオン」
  "Orione" 1763 London
・「ザナイーダ」
  "Zanaida" 1763 London
・「シリアのハドリアヌス帝」
  "Adriano in Siria" 1765 London
・「カラッタコ」
  "Carattaco" 1767 London
・「テミストクレス」
  "Temistocle" 1772 Mannheim
・「ルチオ・シルラ」
  "Lucio Silla" 1774 Mannheim
  (今回やる Symphonie op18-2はこの作品の序曲【イタリア風序曲】)
・「愛の勝利」
  "Amor Vincitore" 1774 Schwetzingen
・「シピオーネ(スキピオ)の慈悲」
  "La clemenza di Scipione" 1778 London
  生前唯一出版されたオペラ作品(Op.14)
・「ゴールのアマディス」
  "Amadis des Gaules" 1778 Paris
・「オンファーレ」
  "Omphale" 未完(London)

(生前及び没後に作品番号を付されて出版されたもの)
作品1  6つのハープシコード協奏曲(1763)
作品2  鍵盤楽器、ヴァイオリン又はフルートとチェロのための6つのトリオ(1763)
作品3  6つのシンフォニー(1765)
作品4  6つのカンツォネッタ(1765)
作品5  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1768)
作品6  6つのカンツォネッタ第2集(1770)
作品7  ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲(1770−75)
作品8  6つのフルート四重奏曲(1770−75)
作品9  3つのシンフォニー(1770−75)
作品10 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1770−75)
作品11 6つのフルート四重奏曲(1772−77)
作品12 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つの協奏曲第3集(1772−77)
作品13 同上
作品14 シピオーネの慈悲(->オペラ参照。CD有)
作品15 ハープシコード又はピアノフォルテのための4つのソナタと2つのデュエット
作品16 6つのヴァイオリン(フルート)ソナタ(1779)
作品17 ハープシコード又はピアノフォルテのための6つのソナタ(1779)
作品18 6つの大序曲(実質上、シンフォニア。)
(以下、死後出版)
作品19 4つの四重奏曲(原曲は5重奏)
作品20 3つのフルートソナタ
作品21 3つの序曲
作品22 2つの五重奏曲

| | コメント (0) | トラックバック (0)