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2019年2月23日 (土)

演奏会から帰った後に

どこかの会員になって見るとか聴くとかいうのは窮屈なので、その気が起きたとき、もしくは、ご縁が出来た時に、劇なり演奏会なりに出掛けるようにしている。
で、その気が起きたのではなかったが、
「私行けなくなったから、おまえさん行く?」
と某が尋ねるので、そんなら行くか、とチケットを買い取って、木曜日にN響がやるストラヴィンスキー『春の祭典』を聴きに行った。
興奮した。
指揮のパーヴォ・ヤルヴィ氏は、最初の棒をおろさなかったように見えた。僕は何につけ迂闊なので、気づかなかったのかもしれない。そこへ、ファゴットの春霞のような音が滑りこんで来た。高いド(C)の音を長々ゆったりと伸ばすのである。おお、これがそのうち艶っぽく動き出すんだよな、と楽しみに待っていた。ところが、音はいつまでたっても動き出さない。え、なんで、と煙に巻かれるうち、いつの間にだったんだか、コルアングレだのクラリネットが、拍通りではない自由な風のように踊り始め、徐々に盛り上がって弦楽器が強奏となると、全員の反復するダウンボウが、風にあらがう灌木の森を疾駆する獣の群を、人が上空を飛ぶヘリコプターから食い入るように見つめる図を、聴衆との間に繰り広げることになった。
オーケストラの演奏自体が視覚的効果を上げるのを目にする体験は、これまでしたことがない。それですっかりやられてしまった。
ツウでいつもかよっていらっしゃるかたのご感想を後で拝読すると、冷静に聴いていれば、それなりにダメだし出来る箇所はあったらしい。しかしツウでない僕の耳は、それが分かるようには働かなかった。
ふだん演奏会に出掛けるのがあまり好きではないのは、まだ残響が残るうちに「ぶらぼぉーう」と叫んで拍手を始めるおっさんが必ずいるからなのだが(どうせなら「ぶっっらーゔぉ、っ!」と、歌舞伎の大向こうのように格好よくやってほしい)、この日のパーヴォ・ヤルヴィのタクトは沈黙までを丁寧に、その訪れが来ると、残りの音を懐にゆるゆると抱き収めるように大切に振り、フライングぶらぼーぉう族に付け入る隙を与えなかった。いや、別にそんなことを気にして沈黙の終わりまで固唾をのむ必要さえ、まったくなかった。
僕にとっては、生涯で最高のオーケストラ演奏を、目の当たりにできた。

Harusai

洋楽のクラシックは、こんな具合で時々聴きに行くのだが、能狂言は、あるきっかけで行く気が無くなってしまった。もったいないことながら、直接間接に能のお知り合いもいて下さるし、それぞれに素敵なかたので、打ち明けるかどうか、ずっと迷って来たのだけれど、二つの理由からこうなってしまった。
ひとつは、気合いをこめてご紹介下さったかたがいらして出掛けた観能で、大鼓の後見をやっていた爺さんが長い時間居眠りをしているのを目撃してしまったこと。有名な本職さんたちでなさっていた舞台なのだったが。かつ、珍しい曲でシテが長時間すわりっぱなしなのだが、最後に作り物から出るため立ち上がった時に、第一人者と尊敬されているその能役者さんが、けつまずいた。がっかりした。
もうひとつは、母も連れて出掛けたときの狂言で、母がしんみり見入っていた場面で、隣に座った既知の通おばさんが、高声で笑った。この人は別の講習会へ、能面の翳りを研究しているとかいう学者さんを連れて来るなり、その学者さんばかりを先生と喋らせ、他の受講者が何かを尋ねたそうにしている、その機会をすっかり奪ってしまったこともあった。いやになってしまった。とどめをさされた。

遠く原初をたずぬれば、芸能は祭祀であったらしい。
その祭祀は、想像するに、いま残っている、隅々まで儀礼化されたものたちとは違って、アイヌの熊祭のようにシンプルな(と言いながら申し訳ないことに熊祭を知らない)、しかしひとつひとつのセクションがひそやかな、大抵の場合は神と呼ばれることになるものごとへの、素直な・・・感謝でも希求でもなく・・・畏敬のこもったものだったのではないだろうか。根拠のない想像に過ぎないが。

いまはなんでも気軽に接することが出来るようになって、気軽な分、かえって先達はこまごまと未熟者へ講義しまくり、偽の厳粛さを後進に望み、「知っている」自分は人の知らない「勘所」で大きく頷いたり、人の気づかぬ失策に大きな舌打ちを響かせたりする。こっちがそんなに盛り上がってなくても、先達に黄色い声ではしゃがれてしまったら、あたしもはしゃがなくちゃあ、なんだか肩身が狭くなってくる。

祭祀は、いつからこうなってしまったのか。

そして最近は、自分も夢中になって「先達への道」を上りたい、と事細かに調べては誤りばかり繰り返していたことを、心底恥ずかしく思うのである。先達だなんて、そんなものにはなれない。なりたくもない。

木曜日、感激に素直にひたれた自分が、今は素朴に嬉しい。
まだ嬉しさにひたっている。

本当は、文化とは何だったのか、みたいな大風呂敷で考え始めたのだったのだけれど、まずはこれくらいにする。

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