« こよみのこと | トップページ | お金の話のようでお金の話ではないかも知れない »

2018年9月30日 (日)

文字と語り

子供のころ読んだ、古代文字を紹介する本に、
「マヤ文字は暦しか解読できていない」
と書かれていた気がする。正しい記憶かどうか分からない。
それから半世紀、今ではマヤ文字も、かなり解読されてしまったとのことだ。ネットを探しても説明が数例出てくる(*1)。それで誰でもマヤ文字の仕組みを知る事が出来る。たかだか半世紀で、すごい時代になったものだ。
マヤ文字の、中でも暦について説明してくれるサイト(*2)の冒頭に、
「マヤ人は時の記録に没頭したといわれるように,碑文には必ずといっていいほど日付の表記がある。」
と述べられている。マヤ文明関係の本は残念ながら読んでいないので、実例に接してはいないのだけれど、暦だの法律だの、人々に同質に知られなければならないことは、とりわけ紙が普及していない世界では、石にでも文字で彫って碑文にしておくのが、周知のためにいちばん良い方法だっただろう。

場所は変わってメソポタミアでは、ハンムラビ王の法典というのが、石に彫られてバビロンの都のどこかに建っていた。その石は20世紀の初めにフランスから調査に行った人たちが掘り当てたので、いまルーブル美術館にある。

さらに近所の中東の地中海沿岸域では、日本で『旧約聖書』と呼んでいる書物をユダヤの人たちがまとめた。最初の五つの総称は「モーセ五書」だが、また「律法」とも呼ばれている。大事な法律や道徳律が、どうしてそれが定められたかの由来話と共に、びっしり詰め込まれているからだ。
その中の「出エジプト記」(講談社版聖書の呼び名では「脱出の書」)によれば、俘囚同然になっていたユダヤ人をエジプトから連れ出したモーセが、シナイ山に登って神と語り合い、神自ら法を記した二枚の石板を授かった(「出エジプト記」31章18節、32章15節)。山を下って民々の背徳を目の当たりにしたモーセは、授かった石板を怒りに燃えて投げつけて割ってしまう。そのありさまは、チャールストン・ヘストン扮するモーセの姿で古典的映画「十戒」になっているので、見た人が多いだろう。
神はモーセにあらためて石板を作らせて、あらためてイスラエルの法をそこに記し与えた(同34章)。作りなおされた石板は「契約の箱」に納められて、中東の古代ユダヤ人の国で大切にされ続けていたのだけれど、国が衰えていく過程で、いつのまにか行方が分からなくなってしまった。「契約の箱」については、映画「インディ・ジョーンズ 失われたアーク」で、再発見したドイツ兵たちが悪用しようとしてこの箱を開け、そこから飛び出した精霊たちの凄まじい力がドイツ兵たちを殲滅してしまう、身の毛もよだつシーンが描かれていた。「契約の箱」は、このあとまたどこか分からない場所に密かに隠されてしまったことになっている。

神が十戒を石板に記した・・・とは、やはり彫られたのだろうが・・・その文字がどんな文字かは、こんなわけで知り得ない。いちばん可能性が高いのは、楔形文字かと思う。なにせ、楔形文字は、メソポタミアを中心とした西アジア域で、多様な言葉を記すのに使われた、古代の国際文字なのである。しかも、古代ペルシアではアルファベットのように使われたり、アッシリア帝国では仮名のような音節文字として使われたり、と、言語によって読みかたもいろいろなのだそうだ。こんな文字がよくも解読できたものだ。言語学者さんって、やっぱりとんでもないと思う。

十戒は神自ら記したとされているが、そうでなくても、楔形文字を書くことの出来た人たちは多分、社会的地位が低くなかった。石ではなく焼いた粘土板に記されて発見されている「シュメール王名表」には、最後に書き手の名前が記されているのだそうだ(*3)。これは重い扱われかただったはずだ。
同じころエジプトで象形文字ヒエログリフを書いていたのも、書記の専門職さんたちで、やはり富裕層だった。
楔形文字もヒエログリフも相当に複雑な文字だし、記す内容はほとんど公的で権威的・・・暦や王名表や法律・・・だし、書き手の身分が高いのも当然だったのだろう。
しかし、専門家でなければ書けない文字の難しさは、書かれることの柔軟さを妨げたのでもあったかと思う。柔らかな物語や思想が書き記された例は、まったくないわけではないが、稀といえば稀な印象を受ける。(漢字文化は例外に属する珍しいものだと思うけれど、いまは、そっちには立ち入らないし、別に見ていくべきことでもあると考えている。)

地中海をまたにかけたフェニキア人が、いつのころか、書くのが難しくない文字を編み出した。それがこんにちのローマ字、各国のアルファベットにつながった。書き易さの恩恵に最初にあずかったのは、アルファベットを自分たち向けにアレンジした、古代ギリシアの人々だった。
おそらくもともと、古代ギリシア人は、書くよりも覚えることを、様々な伝承のうえで重視していた。ホメーロスの叙事詩も、暗唱されることで伝承されたと信じられている。かつ、小都市国家が当然のように屏立していながら、『イーリアス』に描かれるように複数の小都市国家で連合して戦争に当たることも少なくなかっただろう背景から想像するに、民々を治める法律が大々的に制定される必要はなかったかも知れない。古代ギリシアの暦は都市国家ごとに違っていたのも分かっている。違う法・違う暦を互いに読み替えあいながら連合軍を組んだりしているのだから、一律にしたものを誰かが書くなんて余計なお世話だったろうし、書かれていても読むのが相当に面倒になったことだろう。
「オレんち今日は8月15日だから」
「あ、うちは9月24日だよ」
「あれまあ、違うねえ」
「いや、十五夜だからおんなじよ」
「そうか、おまえんとこの9月24日がおれんとこの8月15日ってわけね」
「それ、書いとこうか」
「行軍中だからそんなヒマねえだろ」
「お月さん見りゃ分かるんだから、ま、いいか」
みたいなノリだったのかどうか。

そのかわり、バラバラな都市国家の緩い集合体だった古代ギリシアは、ペルシアの大軍を一丸となって撃退したりして盛期を迎えると、旧態然としていたメソポタミアやエジプトの大帝国には無かった、自由な思考の百花繚乱の場となった。
古代ギリシア人の自由さが産み出したものたちは、寿命も長い。
中心地はアテーナイ(アテネ)で、悲劇も喜劇も豊富にコンクールが行われた。生き残りのひとつ『オイディプス王』なんか、いまだに現代演劇仕立てで舞台に懸けられる。
法廷には検事も弁護士もいなかったから、極端に言えば、法律もへったくれも無い。告訴したほうも訴えられたほうも自力で相手を貶め、自分を弁護する。自己弁護の高尚な例は『ソクラテスの弁明』で、後に弟子プラトンの手で、たぶん結晶化されている美しさで記された。この『弁明』も、なんと日本語訳が、いま読めるだけでも四、五種類はある。関西弁で訳されたものまである。
この『弁明』の中でソクラテスがわざわざ自分を不利にするようなことを喋っているのとは違って、普通は当然、法廷では被告は自分に有利になるように喋ったはずだ。そんな有利な喋りの方法を教える職業が、ソフィストというかたちで成立する。このソフィストとなった人たちは、ほとんどがアテーナイではなくて、周辺のどこか別の都市国家の出身だったらしい。

ソフィストのうちで、小アジアのエライア(現トルコの、ボスポラス海峡の南の、いまのマルマラ海に面したあたり)で生まれたアルキダマスという人が、『書かれた言論を書く人々について、あるいは、ソフィストについて』(Peri tōn tūs graphontōn ē Peri tōn sophistōn)というものを書き残していて、こんなことを言っている(*4)。

「善く美しいことはすべて稀で難しく、苦労をつうじて生じる慣わしであるが、粗末で劣ったものは、容易に所持することができる。そうして、私たちには、書くことは語ることよりも手に入れやすく、それ(書くこと)の所持も、より小さな価値しかないと考えるのは、ありそうなこと(エイコトース)である。」(「ソフィストについて」[2](5)、納富信留訳)

なんだよアルキダマスさん、これ書いたもんじゃん、という文句には、彼はいちおうあとから
「私が書くことを用いるのは(略)少しの労力を払えば彼ら(書くことに自信がある人たち)の言論を覆い隠したり破壊することが出来るのだ、と演示するためである」(同[9](30))と言い訳している。
語るほうが、書くより価値が高い、と、この期に及んで言い張っているわけだ。
それでも、古代ギリシア盛期のアテーナイでは、アルキダマスのような価値観は、わりと普通だったらしい。相手とその場その場で臨機応変に受け答え出来ることこそ語りの本領であって、書くことに縛られるのは二の次だ、というわけだ。弟子プラトンによってソフィスト連中とは一線を画すとされたソクラテスも、自身は書いたものを一切残さなかった。

これらは言論なのだから、暦や法律とは違うけれど、いずれにしても、古代ギリシア人はメソポタミアの人たちや古代エジプトの人たちのようには、書くことに高い価値を感じていなかった。『「ソフィスト」とは誰か?』という本のアルキダマスを詳述する箇所で、著者の納富さんは、このあたりの事情を、こんなふうに紹介している。
「(古代ギリシアでは)書く営みは、つねに従属的な意義しか持たず、おもに奴隷や下僕の仕事とされた。・・・ギリシア人が発明した二四文字のアルファベットによる全ギリシア語の音声表記は、文明の進歩において画期的であった。読み書きの習得がきわめて容易で、専門技術を必要としないため、民主政下で多くの人々がその能力をもって政治に参加できたからである。他方で、習得の容易さは、社会における『文字』の権威をあまり高めなかった。人前で語る『言論』が基本であるその文化において、『文字』はあまり便利でない不完全な写し、つまり、本来の言葉である『語り言葉』の影に過ぎないという見方が生じた。」(*4納富著 p.321)

いいかげん長ったらしくなったから、あとは端折る。
日本ならカナ、朝鮮ならハングル、と、書くのを容易にする試みは西洋に限らずなされた。エジプトも結局ヒエログリフを崩し字にしてヒエラティックというものにし、さらにはデモティックなる、さらさら書ける字を産み出した。
文字を書くことが容易になって、それがひろがったおかげで、みんな古代ギリシア人と似たように自由に言葉を駆使するようになった。
果ては、この半世紀くらいで、自分以外の誰かに書くことを委ねなくても、また手書きの仕方を知らずとも、キーボードからパソコンに打ち込むことで「書ける」時代になった。
すると、言葉は口から発するでもなく、自分自身の手から、指先から、ますますどんどん溢れ出ることも可能になった。
溢れ出た自分を、そのままインターネットで他の人に伝達でき、手段によっては不特定の相手からさえ、「はんたいのさんせいなのだ」が素早く返ってくるまでになった。
(「外で語ることが面倒くさい」人には、録音と言う技術だけでなく、「声を文字に置き換える」仕組みもずいぶん強化されているが、いまは文字のほうだけに注目している。)

言葉と文字の関係が手軽になり、「語る」と「書く」の壁も取り払われつつある。
こうなると、世間に溢れる「書き」言葉には、
「これは誰でも共用するものだ」
というものと
「知っている人が知ってればいい・感じる人が感じればいい」
というものが、簡単に一緒くたになる。
世間の尊敬を一身に集める誰かが書いたものにこそ権威がある、みたいな古代的な価値観は、すっかり覆った。

思考が容易に同一化し、価値が安易に等質化しだした、とでも、まとまるだろうか。

そうか、僕らは安易さの上にいるのか、これってなんだか危ういな、と思わないでもない。が、本当に危ういのかどうか、は、あっさり確言すべきではないだろう。
とりあえずは、ここまでの流れを把握したことで良しとして、思考の同一化とか価値の等質化みたいなことについては、さらに何かの材料を通じて野次馬してみたい。

なので、いまここでは、結論じみたことは言わないでおくことにする。

*1:たとえば
http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_namerica_16.html

*2:http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_column_6.html

*3:http://mikeo410.minim.ne.jp/cms/~otherdocumentsdigestcuneiform3

*4:納富信留『ソフィスト」とは誰か?』ちくま学芸文庫 原著は2006年に人文書院刊

|

« こよみのこと | トップページ | お金の話のようでお金の話ではないかも知れない »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/74303368

この記事へのトラックバック一覧です: 文字と語り:

« こよみのこと | トップページ | お金の話のようでお金の話ではないかも知れない »