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2018年9月24日 (月)

こよみのこと

金曜日の朝、通勤路を歩いていて、やらなければならない仕事を思い出すのに、
「今日は平成30年9月21日」
と日付を思い浮かべて、はて、
「西暦では2018年9月21日だけど・・・イスラム暦だったらちがうよねえ」
なんて脇道に、頭が逸れ出した。
余計なことを思い始めたものだ。思ったところで、自分は和暦と西暦以外に、暦のことは何も知らない。
ただ
「暦は万国共通でも、万人にも公平じゃないんだろうな」
みたいに、ふと思っただけだった。
(ほんとうは、9月21日よりもっと前に思ったのだけど。)

もともと、西暦の元になったのは、はるか昔のローマでユリウス・カエサルという、たぶんものすごく頭の良かった、地位も権力も金もあったおっさんが、ソーシゲネースという天文学者さんの「そーしなせー」と言うことを素直に聴いて、
「カレンダーが狂ってて季節が大ズレなので、一気に帳尻合わせるぞ!」
と、どかっと世間に実施させた太陽暦なんだ、とは、聞いたことがある。
カエサルがその導入を決めた年は、そのせいで一年が445日もあったのだとか(*1)。しかしそもそも、カレンダーがなんで大きく狂ったのかと言えば、政治家が暦の調整を荷なっていた古代ローマで、調整役に選ばれたカエサルさんが、調整役に選ばれた年から二十年近くも、ローマから離れたガリア地方で戦争に明け暮れ、その後も政争に明け暮れたからではあったのだけれど。そしてこの暦を施行してすぐに暗殺されてしまって、いちおう死ぬ前に
「閏年は四年に一回ね」
と言っておいたのに、みんなが誤解して、閏年は「三年に一回」としちゃったせいで、また暦が狂い出したのだそうだ。それで三十七年後に、後継者となったオクタウィアヌスさん(古代ローマの初代皇帝になった人)が
「だからさー、閏年は四年に一回なんだってば!」
と調整しなおしたのだとか(*2)。

でも、いまの西暦は、古代ローマの、カエサルがこの太陽暦を執行させた年からカウントしているものではない。キリスト教の修道士エクシギウスさんが、「イエス・キリストが生まれた年を暦の起点にすれば、みんなに便利になるから」と、イエスの生まれた年がいつかを割り出して、キリスト生誕の年を紀元1年にしようと言ったんだそうな(日常生活用のカレンダーに紀元0年はない)。しかし計算が違っているのが分かって、イエス・キリストは紀元前4年、つまり、生まれたとわれた年の四年前に生まれた、という、やこしいことになっている(*1)。
西暦をめぐっては、いろいろ面倒な話がたくさんあるのだけれど、基本はこんなところでいいのかな。
とにかく、もともと西暦というのは、日数の数えかたについては古代ローマの、年数の数えかたについては、キリスト教徒さんたちの暦なんである。

これがイスラム(ムスリム)さんになると、別にイスラームならではの年の数えかたがある。これは、教えを導いた預言者ムハンマド(マホメット)がメッカからメディナへ旅立った日から年月を数え始めている。暦の基本も太陰太陽暦である。なので、年も日付も、西暦とはズレている。イスラム教に馴染んでいない僕らには、今日はイスラム暦の何年何月何日か、は、思い浮かべられない。さらにまた、お国の違いなどで混み入った事情もあるのだとかないんだとか。

そしてまたインドに行けば、こちらもいろいろ違うのだそうだ。民族も宗教も多種多様なので、いまでも地方ごとで暦が異なるらしい。これはもう想像がつかない。

古代ギリシアなんかも、ポリス(都市)ごとに暦が違ったんだそうで、ギリシアのひとつの出来事を調べるのでも、学者さんは大変だ。

他にも暦は多種多様だそうなのだが、ちょっと考えればそれは当たり前な気もするし、でもやっぱり理不尽な気もする。

今日という日が明ければ・・・地球の自転で各地の「明ける」に時間差のあることは、無視する・・・、今日という日は、みんなに公平に廻ってくるのではないのか。国や都市や、その国なり都市が受け入れている文化や習慣で、「今日」がいつであるかが違っているのは、人が意思を通じ合わせる時に、とても具合が悪いのではないか。
なんでもない金曜の朝に、こんな大げさなことを、なんで考えてしまったのか。

いやしかし、考え直すと、「公平」というものへの見方が間違っている、と、思わないでもない。

年の数えかた、これを紀元というのだそうだが、紀元はもとをただせば、ある人々が、ある記念となる出来事を基準に、長い年数を数えることとした方法だ。
それが、キリスト教徒さんにはキリストの生まれた年だったり、イスラムさんにはマホメットが大事な引っ越しを決断し実行した年だったり、さらに多種多様な暦を使っているヒンドゥの人たちや、遡って古代ギリシアの人たちには、身内にとって分かりやすい記念イベントだったのが、各地各時代で暦がバラバラな原因だというに過ぎない。どれかがどれかより重い、というものではない。
で、記念イベントの重さが暦の実用性のうえでは意味をなさない、と明白になるのは、それぞれのイベントに特段の重さを見出すことのない国や地域が、特定の紀元を導入するときだ。
日本が実務のために採用している紀元は、ほぼ西暦紀元一本だと言っていいが、日本という国や、その大多数の人は、キリストの生誕にも古代ローマの暦改訂にも、何のこだわりもない。ただ西暦が外交や商取引先で期日を知るのに、いちばん普及している西暦が便利だから、導入しているにすぎない。

国際的に便利だから、世界のこよみは、みんながいちばん知っている西暦で統一すればいい、というのは、しかし、公平の真逆だろう。
公平とは均一のことではない。
あちらこちらの地域が、長い時間をかけて重ねて社会を築いて来た中で、
「私たちにはこれが大切なのだ」
と域内で共有して来たことには、
「実用上は無意味だ」
で片付けてはならない、各々大切にされるべき重さがあるはずだ。
暦もまた然りで、特定の決まり事が「便利だから」というだけで、なんの合意もなく押し付けられたら、押し付けられるほうは不愉快だろう。

古代中国の強大な影響力から文化作りの影響を受けた東アジアや東南アジアには、元号というものがあった。今は日本にしか残っていないけれど、たくさんの国で定められ、使われていた。詳しいことは知らないが、各国、古代中国の王朝様の臣下になります、と頭を下げて、古代中国と同じ元号を使わせてもらうのが建前だったようだ。
ところが、博物館に昔のアジアの、中国の王朝ではない、忘れられた国々の展示があるとき、展示品の製作年代の元号表記に付けられている解説を読むと、
「この元号はこの国独自のものだった」
と書いてあることがとても多くて、びっくりさせられる。
細々したことまでは覚えられない。覚えるには複雑すぎる。
元号は長期的な紀元ではなくて、皇帝さんが変わったり、縁起をかつぐようなエポックがあるたびに、ころころと変わって、単に覚えるのが難しいというだけでなく、実務的にも暦の連続性を損ねる。
連続性が損なわれれば、たとえば初始なる元号が過去にあったとして、
「あれ? 初始1年って、今から何年前だっけ?」
ということが簡単に分からなくなり、
「初始って何年まであるんだっけ?」
ということもまた、簡単に分からなくなる。
実はこの初始という元号、実際に中国の前漢王朝で最後に採用されたもの(西暦だと紀元8年)で、調べると、その期間は11月から12月までの、たった2ヶ月弱だった、と出てくる。
中国の元号の一覧表を眺めると、さすがに2ヶ月は極端だが、それでもみんな大なり小なりこんなものだったと分かる。
かつ、元号だと、これから先の年を考える時に、その時が来たらもうありえないかもしれない「初始10年」なるものを想定して考えなければならない。そんなことを考えた人が当時いたのかどうか分からないが、初始10年にあたるのは、中国の元号で言うと、天鳳4年となる。その前にまた別の元号があった(*3)。こんな変化は、初始1年には、だれも想像できなかったのは間違いない。
こんなに不便な仕組みが、しかしなんで他の国でも用いられ、しかも本家本元の中国とはまったく違った元号を作ってしまうようなかたちで実行され続けたのか。
想像するに、大国中国の文化を取り入れることで
「おいらたちだって文化的なんだぞ」
とアピールすると同時に、中国とは違うものにすることで
「おいらたち、だけど自分らなりの文化を持ってるんだぜ」
と主張するものだったのだろう。
暦での年の数えかたは、そんなアイデンティティを目立たせるうえで、格好の手段だったのだろう。みんなどうやら、声の大きい国と同じに揃えてしまうことを良しとはしなかったのだ。他と違うからお互い分かりにくくなる、だなんて、知ったことではなかったのだ。

こんな具合に暦の多様性は紀元や元号の違いによってもたらされるものであって、各々のアイデンティティには各々の重さがあるのだけれど、もしその多様性を吸収する手段があって、こちらの今日の呼び方があちらの今日の呼び方ではどうなるのか、を簡単に知ることが出来るのなら、多様だから今日というもの公平な訪れを損ねる、みたいなものではない。
少なくとも、西暦の今日をイスラム暦ではどう呼ぶか、は、現在はネットで調べられる(*4)。便利になったものだ。

日本はまた、とくに明治以降は元号と西暦をいつも簡単に換算できる用意がされていて、この国で実務上汎用になって来ている西暦と、慣習上なんとなく日本らしさが出る和暦とが併用されることに、特段の困難を覚えてこなかった。
ところが、今回は元号が来年には明らかに変わるのに、どう変わるかを前もって決めることも知ることも出来ないために、とくに商取引や事務の要請から、この先は西暦で、と、利便性を優先することが、ほぼなしくずしに本決定になったように見える。

それでも、唯一元号が残っている日本には、元号を決めるための法律もあり、このご時世だからこのまま西暦一本で、ということは、法改正がない限りは起こらない。
歴史好きとしては、法の仕組みがどうだとか、アイデンティティがどうだとか、そんなことをグタグタ言うまでもなく、東洋や日本の史書に次々現われる元号には、それなりに愛着がある。いまの日本の元号にも、これから決まるだろう年号にも、やっぱり愛を感じる。
反面、元号は非連続で未来の確定年を予想できないし、過去を数えにくくするのも上に見たとおりだから、実務上の不便さがあることには、やっぱりそうだよなあ、と頷けてしまう。だからといって、明治政府が導入したことのあった神武紀元がまた復活してもいい、とは、こちらはまったく思わない。紀元としては面白かったかも知れないが、歴史が示す結果を見ると、あまりに特定の政治色を帯びる使い方をされすぎてしまった。

もういちど過去の話に戻ると、有名なところでは、フランス革命のとき、キリスト教臭をシャットアウトした革命暦が国民に強制された。この暦では、日曜が休みではなかった(たとえばいまの日本の営業職が日曜休みではないのとは意味合いが違うので、混同しないでちょうだいね)。日曜に休んだ公務員はクビになった。それでも、革命暦は人々が日曜日に教会に行く習慣を変えることは出来なかった。
ソヴィエト連邦は、成立したばかりの頃、一週間を五日間にして、どの曜日に誰が休むのか、休みも交代交代にしようとしたのだそうだ。休みを分散して生産性を損ねないように、との、この試みも、しかし人々の不満で失敗し、スターリンの時代に水泡に帰した(*1)。

日本の暦のあり方については、自分のような歴史好き素人としては、イソップ物語のコウモリの立場でいたいところだ。
しかし、単に決めごとの強制では、革命時のフランスや、今は亡きソヴィエトのように、暦のあり方は変えられない、とだけは信じている。
フランスやソヴィエトでは、元の木阿弥になってめでたしめでたし、ではあったのだけれど、みんなは強制されて初めて不満たらたらで、木阿弥さんの到来までは、ぜったいに精神的な不便やムダをを蒙ったはずなのである。急な事情でもない限り、不便やムダは避けるに越したことはないのだけれど、二例ともまあ、急だったのだから仕方ない。

暦は個人で決めてどうにかなるものではないので、どうにかするときには、社会での議論になるしかない。
そういうとき、世の中には「これが決まりだから」と、かたくなになる人が必ずいるものだ。そうは言ってもダメじゃん、と、そっちにかたくなになる人も、やっぱり必ずいるだろう。
でも、来年には元号が変わる、みたいな面白い局面が訪れる時は、右や左のかたくなさんも、日和見でいいやさんも、みんなもういちど、まず頭の中を振り返って、相手さんのお話もよく聞いて、自分で考え、他の人と考え、お互いが「よりよいもの」を産み出す絶好のチャンスではないのだろうか。
ただしチャンスとは言っても、ガチガチに決めるのがいいのかなあ、という気がしないでもない。日本の場合は、急な話というわけでもないのだし。今回結論が出なくたって、なんの支障もないのだし。

とにかくまずはなんでも本来、ひとりひとり、自分で考えることが大切だ。
そして出来ることなら、違う考え同士で考えをぶつけ合わせたらいい。
そのときには、でも、お互いの違いを柔らかに受け止められる、心のクッションも、とても大切なのだ、と思う。

などとずらずらならべて、どう締めていいか分からなくなって、おいらってどこまで行ってもヤワなんだよなあ。ヤワ、って、死語ですか?

*1:中山恒夫『古典ラテン語文典』Ⅳ.暦(p.407~p.410)
*2:L.H.Strevens『暦と時間の歴史』(正宗聡訳 丸善出版 サイエンスパレット009 p.46)
*3:ウィキベディア記事 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)#%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3
*4:たとえば https://keisan.casio.jp/exec/system/1328756351

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