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2018年9月11日 (火)

ことばのこと

外国語を身につけるのが苦手なくせに、ことばへの興味だけは尽きたことがない。
ことばへ、というよりは、それを書きとめる文字の種類の豊富さ、漢字でもひらがなでもカタカナでもない文字が、読める人には読めてしまう不思議さに魅かれたほうが、先だった。
フランスの人シャンポリオンが古代エジプトの象形文字を解読した話を知ったのは、小学生の時だ。それで興奮がさめなくなって、図書館の本を借りまくっては、それに載っている象形文字・・・エジプトのものには限らない、マヤのもあったし、今は名前を忘れてしまったようなものもあった・・・をノートに書き写した頃もあった。でも、文法など何一つ知らなかったから、文字たちがいったいなにを語っているのか、理解することなく終わってしまった。
しかしまた、いろんな文字で書かれたいろんなことばが、これまた文字の種類以上にたくさんあるらしいことにも、圧倒されていた。中東の古代の楔形文字というやつは、みんな同じように見えるのに、ひとつではない、いろんな人たちが話していた、いろんな時代のことばを粘土に綴っているのだ、と本で読んだ時には、子供心に「ああ、こりゃもうだめだ!」と思った。たくさんのことばなんか、覚えきれるものだろうか。

いったい、ことばは、なんでこんなにたくさんの種類に分かれているのだろう。

旧約聖書の有名な話は、こうだ。

「すべての地は、同じことばと同じ言語を用いていた(「ことば」と「言語」に分けてある理由は、知らない)。(中略)『さあ、われわれの町と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って消え去ることのないように、われわれのための名をあげよう。』(中略)『それなら、われわれは下って、彼らのことばを乱してやろう。彼らが互いに相手のことばを理解できなくなるように。』主はそこからすべての地に人を散らされたので、彼らは町づくりをとりやめた。そのためにこの町はバベルと名づけられた。主がそこで、全地のことばを乱し、そこから人を全地に散らされたからである。」(『創世記』第11章1-9 昭和59年の講談社版による)

ここの文言に関わらず、ことばと言語は同じものとしても、とりあえず、いいことにしておく。

言語学の入門書を覗くと、言語はそもそも大元になるひとつのものがあったのか、あちこちで偶然にばらばらに生まれたのか、分からないのだそうである。そもそもこんなことは考えても考えてもデタラメばっかりになるので、言語学の学会は1866年には言語の起源みたいなことを採り上げた論文の発表をさせないようになった、とも書いてあった気がする。それでも一生懸命研究する人たちがいて、今では、おそらくは、ひとつだけが大元になったということはなかったのではないか、と考えるほうが、正しそうなのらしい。だとしたら、人間のことばをバラバラにしたのは、別に神様ではなかったことになる。

『比較言語学入門』(高津春繁)という、言語オンチの僕にはとてつもなく難しいのだが、とてもいい本がある。原印欧語なるものを適切に想像するには、印欧語族の様々なことばの文法を、どのように比較していったらいいのか、を述べているもので、日本語で書かれた最近の言語学入門の本でも、まだ参考文献に必ず上げているくらいの名著らしい。ラテン語と、できれば古代ギリシア語とサンスクリットの初等文法くらいを予備知識で持っていないと、難しさがグンと増す。なので、本当は僕などはお手上げだ。
それでも、難しい行間の中に、言語に無知な僕にでも、「なるほど、そうなのか」と唸らせてもらえる箇所はある。
様々なことばに埋め込まれた痕跡から、たとえば雪をあらわす語彙は印欧各国語で同語原(語源ではなくて、もとのかたちが一緒だということ)なので、おおもとの印欧語を話していた人々は、雪が降るか、それに近い場所に住んでいただろう、と、この本にしては俗っぽい話がいくつか続いたあとで、大変な碩学であったらしい高津先生(いまの怖い先生が「怖かった」と仰っているのだから、そうとう怖いかただったのだろうか)は、こんなふうに書かれている。

「語は、その音韻的形態、文法的機能、意味のみならず、言語的ならびに物的環境において語が位置する全体、すなわち語の環境に対する合致が研究せられた時に初めてその姿を掴むことができる。」
(以下、大事なお話がされているのだけれど、省く。)
「・・・我々は共通言語の全語彙をまず知らなければならない。」
(途方もないことだ!)
「語彙はしかしながら、言語のもっとも不安定な、変化のもっとも急激な部分である。ギリシア語のホメーロスの叙事詩中にある6840の単語は、アテーナイの古典時代にはすでにその半数が古語となって使用せられず、わずかにまたその残りの三分の一が今日まで生命を保っているにすぎない。紀元前五世紀のギリシア人は特別に学習しないかぎりはホメーロス等の叙事詩を完全に理解することができなかった。新約聖書中の4900語の中、半分は現代ギリシア語においてはもはや生きていない。」(p.190-191)

印欧語の類いではなく、日本語にも、その姿を掴みたいと思う時、しかしながら一方でその掴みがたさを思う時、高津先生のおことばは、すっぽり当てはまるだろう。
僕らは、たかだか千年前の日本語で書かれた「源氏物語」を、特別な学習をしなければ読めるようにならない。たかだか330年前の「おくのほそ道」の単語も今とは意味が違っていて面食らう。そしてまた、たとえば金田一秀穂さんがテレビで仰っていたように、ことばの意味は、たとえ前とおなじ響きでも、昨日と今日ではというほど極端ではなくても、日に日に意味は変わっていく。

それは神様が変えていくのではないだろう。
人が、暮らしていく中で、暮らしにぴったりくるように、ぴったりな言い方を求めて変えていくのだろう。
そんなふうにして、ことばはきっと、種類と数を増やして来たのに違いない。

なんでも神様のせいにしたら、いかんのだ。

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