« 2017年6月 | トップページ

2017年7月 6日 (木)

いざとなったら鎌倉

 息子と違い順調に高校を選び、順調に合格し、順調にかよっていた娘だけれど、三年生に成りたてで躓いた。
 新学期が始まって間もないある朝、
「今日は学校に行かなくてもいいかな」
と聞いてきた。
「いっぺん休むと休み癖がつくから」
と言ってやったら、すんなりと出掛けて行った。
 こちらも通勤電車に乗りながら、娘の顔つきの険しかったのが気になって、本当に行かせてよかったのか、人に揉まれ揉まれしながら考えた。
 職場に着いてすぐ、担任の先生に
「明日は娘を休ませてやった下さい」
と電話した。それから上司に言って、自分も翌日休みをもらった。
 次の日早く、娘と東海道線に乗って、鎌倉へ向かった。
 電車の中では、父ちゃんが独身時代どんな失恋をしたか、思い出してはいくつもいくつも笑い話に仕立てて喋った。娘が面白がったかどうだったか、自分がどれだけ自分のドジをバラしたのか、今となっては、ひとつも思い出せない。

 鎌倉に着いたら、冷たい雨が降っていた。
 これではあんまり歩けない。
 せっかくだから、小町通を抜けて、鶴岡八幡宮には詣でた。
 それから、鎌倉宮まで歩いた。
 歩いているうちに雨が強くなって、江の電に乗りに戻った頃には本降りになった。
 長谷観音や大仏さんを見せるのは諦めて、江ノ島まで行き、風も激しいのに橋を渡って島のてっぺんまで登った。展望台からの景色は雲にさえぎられて、まったくいい所がなかった。
 ずぶぬれで冷えきっているのに、紫芋のソフトクリームなんぞを食いたがったので、食わせた。
 ようやく満足して、気持ちも和らいだようだった。
 だいぶ長い残り時間を、水族館で過ごした。海の続きみたいな大水槽の水面が波を立てていて、通路を下って行くとこれがなかなかに深く、泳ぐ魚たちがきらきらしていた。
 イルカのショーも見て、さて帰ろうか、と、ちょっと立ち寄った売店で、娘の目を釘付けにしたのが、丸々したペンギンのぬいぐるみだった。訊くと、他の場所でも見たことがあるのだけれど高くて手が出ないんだとのこと。それが三千円もしない安値で売っていた。じゃあ買ってやろう、どうせ今日はあんまりお金も使ってないから、ということになった。
 帰りの電車が乗り換え駅に着くまで、娘は熟睡だった。
 学校に行きたくなくなったのは、行っても近くに泣く場所がないからなんだ、と、さっき聞かされたのを、繰り返し繰り返し振り返って、娘の寝つぶれ姿を眺めて帰った。

 このときのぬいぐるみに、娘は「ぺんちゃん」だったかなんだったか、名前をつけて、いまでも仲良しを強いている。

 こんなことを思い出したので、さっき、能の「鉢木」のDVDを引っ張り出した。シテが近藤乾三、ワキが松本謙三の、ふたりケンゾウさんによる国宝級の演能で、「いざ鎌倉」の話ではある。
それぞれのケンゾウさんが颯爽と出てくるところなど、えらくかっこいいのだが、娘との思い出には、やっぱりなんの関係もないのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2017年6月 | トップページ