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2017年6月 7日 (水)

妻の死顔

妻の死顔だけは、忘れられない。
それまでの、決して長くはなかった家族の日々や、埋葬までのこと、以後のこと、どれもこれも、断片的にしか記憶がよみがえらないのだけれど。

死顔が永遠に動かなくなった表情だったからか、というと、少し違う。
死んだその時からでも、顔の表情は変わったのだった。

夜中に倒れているのを見つけたときには、
「私に何が起こったんだ」
と驚いたような、呆気にとられたような、顔をしていた。そのとき、もう息はなかった。

救急隊の人たちが来て、妻の胸元をあけて心臓マッサージをしているあいだ、驚きの表情は消えた。
無表情とはこういうことか、と、初めて知った。
前にも後にも、あんなに何もない顔というのは見たことがない。能面のなかの、無表情とされるものでも、あのときの妻に比べれば、とても豊かな顔をしている。だから、無表情というものを、いまだにうまく言い表せない。ただいえるのは、血の気の引いた顔は、青ざめたのを通り越して、とても透きとおっていた、ということくらいか。
この顔になんとか表情が戻って、また息をし始めてくれたなら、と思った。

病院に搬送され、処置用の床に寝かされた妻の体が、次に僕と子供たちの目の前に現れたとき、顔には表情が戻っていた。目元が笑んでいた。
さっきは透きとおってしまっていた頬にも唇にも、ほんのり赤みが戻っていた。
それでも、お医者の口から出たのは、ご臨終です、との言葉だった。

ひとつながりで思い出せるのは、ここまで。

霊柩車が自宅前に着いたとたん、朝がすっかり真っ暗になってしまうほど激しい雨がひとしきり降って、やんだあとは、ずっと毎日すがすがしい晴れ空が続いた。
義父や実父や妻の叔父がこれからをあれこれ段どっているのもよくわからないまま、妻のなきがらを横抱きにして寝そべって、灰のようになって数日過ごした。

ときどき自分にも意識らしいものが戻って、ふと妻の顔を見ると、もう目元だけでなく、口元まで笑んでいるのだった。

いったいどういうことだったのだろう。
十年たっても、時々考える。

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