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2017年6月24日 (土)

子供たちの進学

 七転八倒してきた十年間のことに限って、案外、思い出せない。

 無我夢中だったことはたしかだ。そのときどきで、いろんなこだわり、負い目、苦しみ、悲しみがあった。そんな気持ちだったことは、忘れない。
 でも、中身が、くっきりよみがえらない。
 父子家庭になった中で、子供たちが、意外に健闘してくれていたからなのかもしれない。
 それはそれで、子供たちが自分の口から言うことも、ほとんどない。

 家内が死の直前まで娘と音楽大学や音楽高校を見学して歩いていたので、娘はおのずと音楽志望になった。でも、進学に必要な専門の勉強をやったことがない。周りの人に尋ねまくって、教えてもらえる先生探しをした。
 先生が決まると、あとは特段、娘の勉強について心配する必要は生まれなかった。
 公立高校の音楽科に無事合格したときは、発表の掲示の前で、飛びあがって喜んだ。本当に、大声で叫びながら飛び上がったのらしい。その後しばらくのあいだ、娘は僕に近寄らなかった。

 息子には、姉の目途がたつまで、何もしてやれなかった。それで、やっと小六の秋に、なにか夢中になれることが出来れば、と、藁にもすがる思いで、柔道教室に入れてみた。これがしかし、小学生までが対象の教室なんだという。残念ながら、半年かよわせたところで、教室卒業とあいなった。中学に進んで入った部活動は、柔道ではなかった。
 その部活も、いじめにあって、一年しかもたなかった。
 酷なもので、学校から、
 「新学年でも部活を続けるかどうか」
 を書くように、と通知が来た。
 なんとか続けてみたら、と、説得しながら記入用の書面を息子の前に広げたのだったが、息子は手がぷるぷる痙攣して、とうてい「続ける」だなんて書けそうにない。
 諦めて、サインをさせずに、書類を学校に返した。
 安いデジカメを渡して、これを持って好きなところを写してくればいい、ということにした。
 自転車で十分くらいのところに、野良猫のたくさんいる公園がある。
 息子が選んだ写真撮影場所は、そこだった。
 晴れても降っても、息子は自転車をこいで公園へ出かけて、野良猫たちの写真を撮ってきた。
 同じころ、絵を描くことにも興味がわいたので、二人で画材屋さんに出かけて、アクリル絵具なるものを買いこんだら、それでこつこつと絵も描いた。
 じゃあ、この子には写真や絵の学校がいいのかな、と思って、そういう高校を、中三になった息子と一緒に見学に行ったのだが、帰りに食事をしているとき、ぼそっと言われた。
 「ここは、僕の入るところではない気がする」
 担任の先生の骨折りで、ちょっと変わり種の子でも入れる、という私立をひとつ受けた。
 別に、やはり先生から
 「ここが向いてるんじゃない」
 と勧められた実業系の公立高校の説明会に出かけた。
 公立高校で、説明を聞きながら、息子は目をキラキラさせた。こんなキラキラは初めて見た、というくらいのキラキラだった。
 私立も公立も幸いに合格した。
 私立は大学受験も見据えていたので、じゃあ、私立かな、と準備しようとしたら、
 「いや、公立に合格していたら公立に行かなければならないんです」
 とのことで、結果、公立高校に進学させることになった。
 こんなはざまに、熱血漢の楽しい先生に出会って、息子はギターも習い始めることが出来た。
 息子の方を本当に向いてくれるか、向いてくれたのか、ということだけが気がかりの種だったが、そこはちょっとズレていた。
 高校卒業までお世話になった。

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2017年6月15日 (木)

人格

子供たちが生まれたとき、女房には
「わが子っていったって、お前とは別人格なんだからな」
と言った。
よくも偉そうに言ったものだ。
そのまま自分に跳ね返ってくるとは思わなかった。

家内が急に死んで、数日呆然となった。
それから突然、あ、娘と息子には母親がいなくなったんだ、と気が付いた。
子供らにとって、これからは、親は自分ひとりなのだった。

どうしたらいいのか。

娘は中二で息子は小五。まもなく進学。
人格だなんて、まだまだ海のものとも山のものともつかない。
その親を、果てしなく人格未完成な自分が、この先ひとりでつとめる。
出来るのか問い直さねば、などとは、考えようがなかった。
そもそも、人格ってなんなんだか、実はさっぱり分からない。

まあ、そんな難しいことは、いい。
何から始めたらいいのか。

そうだ、朝夕の飯作りだ、と思い付いた。

洗濯もあるけれど、洗濯機に洗濯をしてもらうことと、洗濯物を干すことは、できた。ウツを患ったのもあって、そのおり妻に教わっていた。

料理調理は、家内の過保護下にあったので、ほとんどしたことがない。
いちど焼きそばをやったら、べしょべしょのぐしょぐしょになって、それでも「おいしい」と妻や子供たちが食ってくれた。
炊飯器に米と水をどんな割合で入れたらまともにご飯が炊けるのか。
味噌汁はどうやって作るのか。
それがさっぱり分からなかった。

炊飯器は電気だから、米をカップで何合とか量って、それとおんなじ数字のところまで水を入れればいい、あとはスイッチを入れるだけなのは、なんとか分かった。
コメは研ぐものだ、というのだけは、かろうじて知っていた。

味噌汁が、困った。
やったことがない。作りかたも想像がつかない。
味噌汁の作りかたが載った本と、味噌汁を作るのだから味噌を買いに行った。
帰って、テーブルにふたつ並べて、にらめっこした。
にらめっこしていても、味噌汁はできない。
仕方ないので、ご近所さんに電話で教えてもらった。
「だしをいれなくちゃ、ダメですよ。」
そうなんですか。
だし、って、婆さんは鰹節でとってたっけな。でも、どうやるんだ。
「粉末のだし、普通に売ってますよ。」
あら、そうなんだ。
またスーパに行ったら、たしかに粉末だしなるものが置いてあった。その粉末だしと、具にするワカメを買ってきた。
ワカメを水で戻したら、十倍ぐらいにふくらんで、腰が抜けた。
おそるおそる鍋に湯を沸かし、お玉で味噌をおっかなびっくりしながら溶き、粉末だしをちょっとふったら、ワカメの味噌汁らしいものが出来た。
心で泣いた。
多すぎたワカメは、多すぎるサラダに見立てて、子供らに食わせた。

毎朝毎晩、こんな具合。

それでも一年くらいは、子供らは黙って食った気がする。
いや、気のせいで、そんなに長くはなかったかもしれない。

おかずは、ワカメサラダばっかりだったわけではない。
煮物もやった。

しばらくたったある朝だったか、晩だったか、子供らに言われた。
「お父さんの作るおかず、ワンパターンなんだよね」
「そうそう、いつもめんつゆの味だしね」
だって、亡妻愛用だっためんつゆを入れるのが、子供らになじむんじゃないかと思ってたから。
「おいしくないよ」
いや、煮物だけ作ってたわけではない。
カレーもやった。カレーにはめんつゆは入れなかった。カレーだけは文句を言われなかったが、めんつゆを入れなかったからだったのかも知れない。
他に何か作ったのかどうか、まったく覚えていない。
「だめだよ、これからは、私が作る」
と、娘。
「僕も、そのうち」
と、息子。

父ちゃんは目の前が真っ暗になった。

翌日からは娘が、作った。
しかし数日で作らなくなってしまった。

それからは、ご飯と言えばスーパーやコンビニで買ってきたものか、ひたすら外食、とあいなった。
今も、そんなものである。

こんな話のどこが、人格の話なんだろう。

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2017年6月 7日 (水)

妻の死顔

妻の死顔だけは、忘れられない。
それまでの、決して長くはなかった家族の日々や、埋葬までのこと、以後のこと、どれもこれも、断片的にしか記憶がよみがえらないのだけれど。

死顔が永遠に動かなくなった表情だったからか、というと、少し違う。
死んだその時からでも、顔の表情は変わったのだった。

夜中に倒れているのを見つけたときには、
「私に何が起こったんだ」
と驚いたような、呆気にとられたような、顔をしていた。そのとき、もう息はなかった。

救急隊の人たちが来て、妻の胸元をあけて心臓マッサージをしているあいだ、驚きの表情は消えた。
無表情とはこういうことか、と、初めて知った。
前にも後にも、あんなに何もない顔というのは見たことがない。能面のなかの、無表情とされるものでも、あのときの妻に比べれば、とても豊かな顔をしている。だから、無表情というものを、いまだにうまく言い表せない。ただいえるのは、血の気の引いた顔は、青ざめたのを通り越して、とても透きとおっていた、ということくらいか。
この顔になんとか表情が戻って、また息をし始めてくれたなら、と思った。

病院に搬送され、処置用の床に寝かされた妻の体が、次に僕と子供たちの目の前に現れたとき、顔には表情が戻っていた。目元が笑んでいた。
さっきは透きとおってしまっていた頬にも唇にも、ほんのり赤みが戻っていた。
それでも、お医者の口から出たのは、ご臨終です、との言葉だった。

ひとつながりで思い出せるのは、ここまで。

霊柩車が自宅前に着いたとたん、朝がすっかり真っ暗になってしまうほど激しい雨がひとしきり降って、やんだあとは、ずっと毎日すがすがしい晴れ空が続いた。
義父や実父や妻の叔父がこれからをあれこれ段どっているのもよくわからないまま、妻のなきがらを横抱きにして寝そべって、灰のようになって数日過ごした。

ときどき自分にも意識らしいものが戻って、ふと妻の顔を見ると、もう目元だけでなく、口元まで笑んでいるのだった。

いったいどういうことだったのだろう。
十年たっても、時々考える。

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