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2016年9月16日 (金)

ジローのこと

暗くなって仕事から帰ると、僕の乗っかるエレベーターに、いっしょに乗っかる猫がいました。
エレベーター待ちをしている僕を見つけると、近づいてくるのです。
片目のない猫でした。それが、僕の下に座り込んで、見える方の目で、鳴声もたてずに、じっと僕を見上げるのです。
「なんだ、今日もか。しかたないなあ。」
ってんで、いっしょにエレベーターに乗せます。
僕たち一家は、集合住宅の、エレベーターで昇った方がいい程度の高さのところに住んでいます。
そんなウチの前まで二人、ではなく、ひとりと一匹で歩きます。
着いてドアホンを鳴らすと、ただいま、ではなくて
「おーい」
と小学四年生の息子を呼びます。
出てきた息子を見るなり、猫は、鳴こうとして口を開きます。でも、声が出ませんでした。
息子が駆け寄って、猫の頭をなでます。猫は猫で、嬉しそうに息子にすりすりしています。
それを見届けたら、僕は中へ入ってドアを閉めるのでした。可哀想だけれど中には入れてやれませんでした。

息子は変わった子で通っていて、学校で人間の友達が出来ませんでした。
それでも、困った様子はまったくありませんでした。
学童保育に通っているころも、普通に歩けば、教室から学童保育室までは、3分もかからないはずでしたが、息子はいつも30分以上かかって到着するのでした。
そのあいだ、なにをしているのかというと、通路にあるパーゴラを見上げて、届きっこない高さの葉っぱに手を伸ばして取ろうと飛び上がったり、着地に失敗した自分の足取りがさも可笑しいというふうに、その場で一人でけらけら笑いながら踊り出したりしていたのでした。
担任の先生がいつもそれを面白く眺めていたらしくて、親として面談に伺ったときに
「やつは可愛いんですよ」
と先生に目を細められて、どう受け止めていいのか、困ってしまったものでした。

人間の友達が出来ないので、近所の野良猫と仲良しになったのでしょうか。

ウチの前で猫をなで始めた息子は、そのまましばらく中に入ってきません。
「ジロー、今日も長居だね」
と、中で姉娘と家内が笑っています。
僕が晩ご飯を食べ終わっても、まだ戻りません。
表を覗いて
「さ、そろそろだな」
と声を掛けると、ようやく
「ジロー、またね」
と、息子がお別れのあいさつをします。
すると、ジローはくるっと向こうを向いて、すたすた帰っていくのでした。
ジロー、というのが、息子のつけた猫の名前でした。どう見てもメス猫だったのですが、ジローとつけてしまったのだから、しかたありません。

ジローは僕たち家族の顔はみんな覚えていたようでした。
働いていた家内も何度か、帰ってきたとき、エレベーターの前でジローの待ち伏せにあいました。
「あれまあ」
ってんで、家内もジローをいっしょにエレベーターに乗せたのでした。

そうやってジローがウチへ息子を訪ねてきたのが、どれだけの間のことだったか、残念ながら覚えていません。
とても長かったようにも思うし、ほんのわずかなあいだだったような気もします。

冬が来て、ウチでは家内が急死しました。
仕事先で倒れて救急車で運ばれて、いったん帰宅したものの、翌朝早くに息絶えていたのでした。
心臓の脇の血管が破裂してしまったので、あっという間でした。

親族や手伝いの人がたくさんウチに集まってくれていたので、もう起きることなく眠っている家内の、生前寝ていた布団をクリーニングに出すことにして、僕と子どもたちは布団をかついで出掛けたのです。
帰ってみたら、
「いないあいだに猫が来て入ろうとするから、追い払ったのよ」
と言われました。
最初、何のことだか分かりませんでした。が、
「あっ、ジローだ!」
と思い当たって、慌ててまた子供らと三人、表へ飛び出てジローを探しました。
でも、見当たりませんでした。

その日以降それっきり、僕はジローを見つけることが出来ませんでした。
ジローを見た僕の記憶が、この出来事でふっつり切れてしまっているのです。

もしかしたら、少なくとも息子はジローに会えていたのかも知れません。
でも、息子の記憶も、僕と同じところで途絶えています。

ジローはどこに行ってしまったのかなあ、と、いまでもときどき思います。

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