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2014年8月 4日 (月)

菜の葉にとまる蝶の話(8)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶3】

模様の世界の蝶は平安中期以降はアゲハが多く、描かれる背景の季節は春夏秋まんべんなく、である様子を見てみました。

文芸上はどうだったのでしょうか?
(6)でみたネット上の質問に
「江戸時代以前には和歌に読まれた蝶も、蝶を描いた絵画もなかったという話を聞きました。」
とあったのでしたが、そんなことは全然ありません。

たしかに、万葉集では詞書にしか蝶が現れません。

815〜天平二年正月十三日
帥【大伴旅人】の老(おきな)の宅(いへ)にあつまりて宴会を申(ひら)く。時に、初春の令月にして(中略)庭には新蝶舞ひ・・・

3967〜・・・春は楽しむべし。暮春の風景は最も怜(あはれ)ぶべし。紅桃は灼灼にして、戯蝶花を廻りて舞ひ・・・(大伴家持)

春の花に蝶がやってくるありさまを描いてます。

漢詩ですと、『懐風藻』(751年成立)にいくつか、蝶の詠まれたものがあります。

 

21.犬上王 遊覧山水(五言詩) 4行目
  桂庭舞蝶新(桂庭 舞蝶新たなり)

 

22.紀古麻呂 望雪(七言詩) 9行目/12行
  柳絮未飛蝶先舞(柳絮いまだ飛ばず蝶まづ舞ひ)

和歌以外を先に見ますと、次のような感じです。
『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」に生々しく出てくる毛虫と蝶は、ずっと昔であっても日本人が現実に抱く感触は今とさほど変わらなかったことを知らせてくれます。

 蝶は捕ふれば、手にきりつきて(鱗粉がついて)、いとむつかしきものぞかし

等々。
が、ふつうの文章であっても、残っていてよく読まれるものの中ではこれは例外に属します。(*1)

『枕草子』の若干の記述と、『源氏物語』の胡蝶の巻が、後続の和歌にも繋がる世界を築いています。

『枕草子』43段には「虫は すずむし ひぐらし てふ(蝶)・・・」とならべたてられているうえに、239段に「みな人の花や蝶やといそぐ日もわが心をば君ぞ知りける」とすでに慣用句化していた蝶が登場します。万葉集の詞書たちもそうでしたが、蝶の具体的な姿を描くことは関心の対象になっていないようです。

『源氏物語』「胡蝶」の巻は歌二首をともなっています。
  花園の胡蝶をさへや下草に秋まつ虫はうとく見るらむ
  こてふ(胡蝶)にもさそはれなまし心ありて八重山吹を隔てざりせば

こちらも、蝶は花に添うものとの定型的な図式を掲げているに過ぎません。

勅撰集には最初はまったくないのかなあ、と思っていましたが、探したら『古今和歌集』に蝶の登場する歌が「物名」のなかにありました。  

  散りぬれば後はあくたになる花を思ひしらずもまどふ蝶かな(435 僧正遍正)

『枕草子』や『源氏物語』の図式と異なるところがありません。

勅撰集ではほかに見つけていないのですけれど、個人の歌集(家集)となると新古今集の有名歌人である西行・九条良経・後鳥羽上皇・藤原定家はみんな蝶の歌を詠んでいます。

  西  行 「ませ(籬)に咲く花に睦(むつ)れて飛ぶ蝶の羨ましきもはかなかりけり」
    (『山家集』【1167?】下 1026 雑〜和歌文学大系 191頁)

  九条良経 「わが宿の春の花園見るたびに飛びかふ蝶の人なれにける」
    (『秋篠月清集』十題百首)

  後鳥羽院 「うすくこき園の胡蝶たはぶれて霞める空に飛びまがふ哉」
    (正治二年八月御百首【1200】春二十首の七首目〜和歌文学大系『後鳥羽院集』4頁)

  藤原定家 「人ならば恨みもせましそのの花かるればかるる蝶のこころよ」
    (建久二年「十題百首」774。笠間叢書『名古屋大学本 拾遺愚草』52頁)

季節に縛られている感はうすい気がしないでもないのですけれど、ほぼ春の印象かな、というところです。
『夫木抄』(巻二十七)に源仲正の

  面白や花に睦るる唐蝶のなればや我も思ふあたりに

という歌があって、これとさっきのの西行の歌とは、鴨長明による『発心集』の説話で、佐国という人が花マニアだったために死後蝶になったとするものがあるのに依っている、とされていますが、『発心集』の成立の方が時期が後だと思いますので、説話が先にあったのでしょうか。

花に睦れる蝶のイメージの他には、『堀川院百首』にある大江匡房の歌(1538番)の 

  百年は花に宿りて過ぐしてきこの世は蝶の夢にぞ有ける

があって、荘子の有名な「胡蝶の夢」を踏まえていることが明白です。

室町期に入り、連歌の中に、蝶は春のイメージを引き継いで現れます。(*2)

享徳二年宗砌等何路百韻【1453】
      (別れつる庭は籬【まがき】も形見にて)
 (二裏4) 飛びかふ蝶も春やしたはん (行助)
      (舞の名の鳥の入方霞む日に)

天正十年愛宕百韻【1582】本能寺におもむく光秀が催したもの
      (たわわになびくいと萩の色)
 (二表13) 秋風もしらぬ夕やぬる胡蝶 (昌叱)
      (みぎりも深く霧をこめたる)・・・春に転換できず、まずい付きかたとのこと。

蝶は基本的に春の風物だ、という認識は、このように奈良時代という極めて早い時期に文芸には根付いていて、しかも他に何の具体性も伴わないまま江戸時代まで引きつがれたもようです。
そこには、古来の日本人が見続けてきた蝶はどんな大きさで何色だったかとの情報はまったくないのでした。
そこはしかし、江戸初期になって、『誹諧初学抄』(寛永十八【1641】年跋 *3)の中春に「上羽(あげは)ノ蝶」と出て来ることを参照すると、かろうじてアゲハだったのかなあ、と思われはするのでした。とはいえ後鳥羽院の歌などから推測するにアゲハに限定されるわけでもないようです。
実はすでに『懐風藻』にこんな詩もあるのでした。

 14.春日 詔に応ず(紀 麻呂)7行目
   階梅闘素蝶(かいばい そちょうをたたかわし)

素蝶は白い蝶をあらわします。

モンシロチョウには「キャベツ(葉牡丹)とともに入ってきた外来種ではないか」との疑いももたれていたりしていて(*4)、江戸時代より前の日本人が見ていた蝶は白くなかったんじゃないか、と思ってみたりもしていたのですが、この詩で白い蝶は奈良時代にも見られたことが分かってしまったのでした。

ともあれ、実際には夏に多く現れる蝶を自然の中で見る、という姿勢では、日本人は蝶に接してきてはいなかったのでしょうね。籬(ませ、まがき)だとか「わが宿の」とか「園の」とかあるので、人家や人にとって身近な場所で目撃した蝶が、歌を詠む契機になるくらいではあった感じです。

江戸時代の俳句は蝶すなわち春の世界観を継承するところから始まるのですが、しかし五七五という和歌よりさらに切り詰められた詩世界ゆえにむしろ蝶のすがたをより具体的に描くようになっています。
それについては、またあらためて見てみることにしましょう。


*1:『堤中納言物語』中の「逢坂越えぬ権中納言」が天喜三(1055)年の作だとは昭和13(1938)年に判明。角川文庫解説(245頁)。所収の他の物語、「よしなしごと」以外は1271年以前、おそらくは平安時代後期から末期の成立と推測されている由。全篇がこんにちのかたちにまとめられたのは元中二(1385)年と思われている。ただし近世以前に遡る伝本はない。

*2:新潮日本古典集成『連歌集』昭和54年

*3:古典俳文学大系2『貞門俳諧集』昭和46年 「誹諧初学抄」の該当箇所は365頁

*4:中村一恵「スズメもモンシロチョウも外国からやって来た」PHP研究所

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2014年8月 1日 (金)

菜の葉にとまる蝶の話(7)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶2】

いまの私たちは蝶にどんな印象を持っているか、実際の日本の蝶の生態はどうなのか、見ておいたわけですが、では歴史的に日本文化の中で蝶はどのように捉えられてきたか、を、そこに重ね合わせて行きたいと思います。

文様や文学が、見ていくのには良い素材かと思います。

文様の方から覗いてみましょう。

(2)でちょっと触れましたが、ネットの掲示板に
「江戸時代以前には蝶が和歌や絵に出てこなかったのはなぜですか?」
なる質問がありました。
「江戸時代以前には和歌に読まれた蝶も、蝶を描いた絵画もなかったという話を聞きました。鳴く虫は王朝の昔から文学に出てきますが、同じ虫でも蝶が取り上げられなかったとは不思議です。その理由を教えてください。」
という内容なのでした。(*1)

5つ寄せられている回答の中にあるように、文様としての蝶は既に正倉院御物の中に見られたりし、平安時代、鎌倉時代、と切れ目なく受け継がれています。上の質問の絵画のことばは別段独立して描かれた絵というほどの意味はないように思いますから、この事実をもって充分に「江戸時代以前に蝶を描いた絵画は」あった、と言えるでしょう。

古書で探すと、蝶の文様だけを集めた手軽な美術書には、カラー図版が多く種類別分類で見やすい小学館版『日本の文様5 蝶』(1986年 *2)と、図版解説のしっかりした光琳社出版『日本の文様7 蝶』(昭和46【1971】年 *3)がありました。前者は282(内カラー152)、後者は253(内カラー13)の図版を収めていて、重複が少なく(*4)、蝶模様の意外な豊富さを知らせてくれるものとなっています。小学館のほうに掲載されたエッセイで原田一敬さん(執筆時は東京国立博物館金工室にご勤務、ネット上には情報がありませんでした)がこう仰っています。

「・・・蝶ほど装飾文様として好まれ、また多く表された昆虫は他にみあたらない。とくに和風化が進んだ平安中期以降は、料紙・調度から仏具に至るまで幅広く用いられている。」(p.161)

小学館版で蝶文様は染織(カラー52点、単色49点)・漆工(カラー46点、単色36点)・金工(カラー39点、単30点)・陶磁(カラー15点、単色15点)に分類して掲載されており、どの分類にもほぼ満遍のない点数が収められていて、蝶文様の普及ぶりを裏付けてくれています。ただ、こちらは時代別が分かりにくいので、光琳社出版のほうに収められた単色図版の数で時代別を見てみますと(同じ品物の表裏や部分図掲載分を重複計上しない、明記していないものは除く)、
・奈良時代 11
・平安時代 24
・鎌倉時代 10
・室町時代 15
・桃山時代 10
・江戸時代 67
と、時代の新しい桃山期江戸期を例外として、ほぼそれぞれの時代区分の長さに比例する点数が掲載されています。掲載された図版をそのまま偏りなくサンプリングされたものと見なしてよいならば、これは蝶模様が時を問わず一律に愛好されてきたものと見なせるのですけれど、どうでしょうか。とくに奈良時代のサンプルは正倉院御物に限られていて、特殊事情を想定しておかなければならないかも知れません。

蝶文様の変化の史的傾向については、光琳社出版のほうの巻末にいくつかあるエッセイ風解説のうち、河原正彦さん(昭和10【1935】年生まれで、平成24年まで滋賀県立陶芸の森 http://www.museum-cafe.com/museum?muse_id=1333 の館長さん、であるかたでしょうか?)による「蝶の文様 和様意匠の成立と展開」(巻末p.11〜22)が詳しくも分かりやすい説明になっていますので、それからいくつか引用させていただきます。(はさんだ図はネットで探したものです。リンク先を併記します。引用元の書籍とは直接の関係はありません。)

「日本における蝶に関する詩や歌、造形芸術にみられる蝶文様は、やはり中国大陸における蝶愛好の風潮にならって行われはじめたように思われる。(中略)古代の日本人の心情をみごとに謡いあげた『万葉集』にも蝶を謡った歌は見あたらない。ところがほぼ同時期の漢詩集『懐風藻』には、決して多くはないが蝶をよみ込んだ詩をいくつか見ることができる。」

「・・・正倉院御物に施された蝶文の著るしい特徴は・・・器物を飾る意匠上の主役にはなっていないということである。・・・様式的には全く唐鏡背文の蝶の系統をひいている。蝶は翅を平らにのばしたもの、翅をたてたものに分けられるが、頭や胴の描写が著るしく、翅は翅脈をそえる程度の簡略さである。・・・このような蝶の意匠は当時の人々がまだ極めて漠然と春の野を飾るものとしてしか蝶を考えておらず、中国唐代に様式化された蝶のスタイルをそのまま受け入れ、蝶自体の美しく変化に富んだ姿態について深く注意をはらっていなかったためと考えられる。」

Shosouinban

http://avantdoublier.blogspot.jp/2006/11/blog-post_10.html

「平安時代も中期、いわゆる藤原時代になると蝶に対する観察は、とみに精細なものとなり、文様意匠の上にも見事な発展のあとを示している。」

Kasennutaawase

http://www.suntory.co.jp/sma/jp/merumagakaiin/vol51/interview.html

「・・・記録や遺品などから見ても、平安中期以降では「蝶文」がずいぶん流行したらしい。それは蝶の美しい色や可憐な姿がその頃の貴族たちに好まれたために他ならない。蛾に近いスタイルの蝶がこの時代の人々には好まれなくなり、ほとんどすべては嘴翅の大きく見事な揚羽蝶がえらばれている。」

「鎌倉時代も後半期になると(略)蝶の形姿にも次第に定った様式化が進み、平安時代のもののように自由さは見られなくなる。」

「こうして平安中期から鎌倉初期にかけて大いに流行した「蝶文」の意匠はひとつの揚羽蝶のスタイルを決定し、後世に引きつがれてゆくことになる。」

蝶の文様としてもっとも行き渡ったのはなんといっても紋章でして、平安時代に流行りだし鎌倉時代の家紋普及により定着してきたとのことです。
小学館版では120、光琳社出版版でも125ほどの紋章を巻末で紹介しています。
その意匠を小学館版では「揚羽蝶(光琳社出版版に「止まり蝶」ともいう、とある)、「飛び蝶」、「蝶丸または輪蝶」の三つに大別されるとし、光琳社出版版のほうではさらに「(種々の植物や器物を蝶形にアレンジした)見立て蝶」を加えています。

Choukamon

http://www.harimaya.com/o_kamon1/zukan/tyou_z.html

書籍には豊富に掲載されていることが確認できた蝶の文様ですが、ネットで歴史的なものを探しても、なかなかこれというのが出てきません。みごとなものがたくさんあるはずなのですが、ちょっと残念です。
ただ、先の二つの画集本から総じて言えるのは河原さんのお話の通りのことで、平安中期以降の日本では揚羽蝶の文様が愛好されるようになっていき、定着していくさまが、図例から手にとるように分かります。

小学館版の原田一敬さんの文章から再度引用をしますと、河原さんのとは少し時期がずれるところもあるのですが

「藤原時代での蝶は、あくまでも草花・鳥などとともに存在するため、蝶自身は小型のものがふさわしく、したがってシジミチョウのような単純な形が多く用いられた。しかし、蝶が主文様になるにしたがい、その文様表現が大きくなり、細部までが表現されるようになると、小型の蝶では文様としては不足となり、アゲハチョウのような大型蝶が表されるようになったと思われる。」(p.165)

と、日本独自の文化意識が醸成されて以降は揚羽蝶の文様が主となることを認めています。

これは実生活で人々が揚羽蝶をよく見たから、ということよりも、目撃する蝶のなかでやはり大型のアゲハがもっとも強く印象に残ることを是とするようになり、実際に目にする機会の多寡にかかわらず、蝶文様と言えばアゲハ、とのプロトタイプを作り上げた結果に他ならないのではなかろうかと思います。

季節感については、冬の景色には織り込まれていないこと以外にはとりたてて春・夏・秋のどれかに限定されるようには見えません。植物が一緒に描かれていて、その植物が何であるかも明確に分かるものを、光琳社出版版のほうで拾ってみますと、秋草(単独の種類ではない)19、牡丹13、菊6、梅7、ススキ8、紅葉、ナデシコ2、桜4、椿、瓜(!)、ケシ、アジサイ、柳(!)2、カキツバタ、ヒメシバ2、オモダカ、ユリ2、萩、というぐあいに分散していて、見た例ではどちらかというと春より秋が少し優勢です。

文様に現れる江戸時代までの日本人の蝶へのイメージは、ざっとこんなところです。


*1:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3424697.html
*2:http://www.amazon.co.jp/dp/4095860057/
*3:http://www.amazon.co.jp/dp/B000J91MRC/
*4:いくつかある重複掲載品目のうち、光琳社出版のほうの単色116「尾花揚羽蝶散唐織」(岡山美術館)と小学館版のほうのカラー5「紅地蝶芒模様唐織」(林原美術館)は、岡山美術館が林原美術館の前身(1986年改称)なので同じものだと思いますが、名称が違っています。その他、小学館版で色が確認で来てありがたいものがいくつかあります。

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