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2014年7月12日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(5)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【「蝶々」の元詞はいつできたのか】

触れてこなかったことにちょっと触れますと、上田信道さん「岡崎発の『蝶々』〜学校唱歌の源流をめぐって〜」では唱歌『蝶々』の詞(これの前半、「蝶々、菜の葉にとまれ」やそれに似ている歌詞を「菜の葉の小歌」と呼ぶことにします)についてとても詳しくフォローしていて、(4)でみた『童謡古謡』やその他の例にも触れた上で、栗田維良『弄鳩秘抄(ろうきゅうひしょう)』(調べてみると江戸時代の水戸地方のわらべうたを集めたものだそうです、19世紀初頭刊)に
菜の葉がいやなら手にとまれといふは、後につくりて、岡崎女郎衆に合せたるなり
とあることに着目したのでした。「岡崎女郎衆」は江戸後期にずいぶん流行った歌のようで、山東京伝の黄表紙のネタにもなっています。唱歌『蝶々』の歌詞は、それをつけた野村秋足がこの「岡崎女郎衆」を知っていたから付けたのではないか、なる観点で講演をなさっていたのでした。
「菜の葉の小歌」はヨーロッパ起源のメロディにつけられた時点で、もとの「岡崎女郎衆」のメロディを失ったのだ、とのことで、これは示唆に富んでいていいお話です。

前回見た『嬉遊笑覧』にもあったとおり、19世紀初頭には江戸で「蝶々とまれ」なる玩具も売られていたようで(前回参照、「二十三番狂歌合」は江戸の物売りを描いたもののようです *1)、文政期の浮世絵(英泉の画)でも左の女の子の着物の模様になっているので(http://edococo.exblog.jp/m2009-03-01/)、けっこう流行っていたのでしょう。「蝶々」の元の歌詞は、「蝶々とまれ」のおもちゃで遊ぶ子供たちが「岡崎女郎衆」のメロディで歌っていた、と想像するのは楽しいことです。

Eisen


上田さんのお話の中で、けれども

「菜の花」を「菜の葉」にする。それから「菜の葉」が嫌なら「桜に止まれ」という発想。これらは、わらべ唄の世界に見られる発想だ、ということが分かります。
さらに、江戸時代の行智という人が著した書物に、わらべ唄集『童謡古謡』があります。そもそもこの「蝶々」というわらべ唄、さほど古いものではないのです。なぜかというと、菜の花を栽培するのは、ナタネ油を採るためです。ナタネ油は天ぷら用ではなく、灯り用ですね。灯りをとるために油が必要なんです。そのため、換金作物として全国的に菜の花が栽培されますが、一般化するのは江戸時代のなかごろ以降のことです。 菜の花の咲き乱れる情景を歌ったわらべ唄は、これ以前にはありようがない。だから、 これは江戸時代のなかごろ以降に生まれた、と考えて良いわけです。

とある部分が私の別の関心を生んでいたのでした。

1)菜の花(畑)が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?
2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?
3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

ちゃんと疑問の文としてまとまったのはつい昨日今日のことなのですが、漠然と続いていた思いが、くどくど調べ始めるきっかけになったのではありました。


1)菜の花が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?

上方落語に「野崎詣り」というのがありまして、三代目桂春團治の演じるところで聴きますと(*2)、最初の方、野崎の観音様への男女の道中を描く場面のお囃子(ハメモノ)・・・こういうのが歌われるところが華やかでいいですねぇ・・・で、道の脇の菜の花畑の見事さが三味線と拍子木に乗ってあでやかに歌われます。いまの大東市なんだそうですが、近世末には菜畑でいっぱいの景色だったのですね。昭和初期には東海林太郎が歌ってヒットした「野崎小唄」にも同じ景色が描かれています。一断面ではありましょうけれど、近世の菜畑がいかに見事だったかが窺われます。
この景色は、どれくらい遡れるものなのでしょうか?
江戸中期とは具体的にいつの時点を指すのか明確ではありませんが、江戸時代は西暦1600年〜1870年ですから、真ん中は1730〜40年頃です。
(3)で菜の花の栽培史を追いかけ、俳句(誹諧の発句および付け句)と照らし合わせてみると、法令政令の発布状況や句の内容から見て、元禄年間(1688~1704)には菜の花の畑は少なくとも関西では普通の景観になっていたものと想像されます。以後、俳句の世界では、菜の花は年次を問わずほぼ千句に3、4句の割合で安定して詠まれているので、1700年頃以降は菜畑の景観に大きな変化はなかったのではないかと思います。とはいえ、上田さんの推測から時期が遠く離れるものではありません。
そしてまた、元禄期を遡ると菜の花や菜畑の句は、まったくといっていいほど見当りません
寛文七【1667】年刊の北村季吟『増山井(ぞうやまのい)』(*3)では「菜種(まくは秋也)」と「菜畠」が季節に関係づけられることなく「植物」の誹語として登場します。
寛永十五【1638】年には成立したとされる松江重頼『毛吹草』(*4)には、何遍ひっくり返してみても菜の花も菜畑も現れません。
幕府が郷村御触というので「田畑共に油の用として菜種作り申すまじき事」と発令したのが寛永二十【1643】年のことですから、菜畑の景色が広がり始めるのは、『増山井』と『毛吹草』の境目で郷村御触の出る1640年前後からと思われます。
だとすると、上田さんの推測より100年くらい遡ります。


では・・・

2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?

19世紀初頭に流布していたのは「岡崎女郎衆」だとか「童謡古謡」だとか、あるいは(1)でみた清元「玉屋」の例、上掲英泉の浮世絵などから、ほぼ間違いないと考えてよかろうと思います。良寛さんの遺墨にも「菜の葉の小歌」を書いたものがあるそうです。
ちょっとドキッとしたのは、地歌「菜の葉」関係の検索をしているとき、
「坂田籐十郎の襲名披露公演で・・・『曽根崎心中』・・・第二場「天満屋」の幕が上がったところで、『菜の葉』がほんのひとふし唄われます。/可愛いということは 誰が初めけん ほかの座敷もうわの空・・・」http://blog.goo.ne.jp/mayumi5312/e/9fc3deeba70a32f11957453c87dcede7
なる記述が目に飛び込んで来たことでした。この地歌の歌詞には
「菜の葉にとまれ蝶の朝」
という文句が含まれているからです。
近松門左衛門の『曽根崎心中』が初演されたのは元禄十六【1704】年(この年3月に改元となって宝永元年)、地歌「菜の葉」は1759年の『糸のしらべ』というのに載ったのが初出で、作った歌木検校は1720年頃の生まれだそうですから、もし『曽根崎心中』のオリジナルに地歌「菜の葉」のことばが含まれているなら、地歌は近松をパクったことになってしまいます。
で・・・記憶力が悪いので「え〜、そんな箇所が『曽根崎心中』にあったっけ?」とテキストを読み直しますと、これはさすがに近松のオリジナルにはありません。念のため、たいへんありがたいことに映像化されている坂田藤十郎襲名披露講演の『曽根崎心中』(*5)を見て確認しますと、地歌はバックグラウンドミュージックとして利用されているだけのようでした。文楽で復活した際の上演では「菜の葉」は演奏されていません。

しかし問題は、近松のテキストの方です。
『曽根崎心中』冒頭の「大坂三十三番観音廻り」のなかに、

  ・・・あちやこち風ひたひたひた。
     羽と羽とをあはせの袖の。
     染めた模様を花かとて肩にとまればおのづから。
     紋に揚羽のてう泉寺。(*6)

という箇所があります。これだけだと近松門左衛門が「菜の葉の小歌」を知っていたと断言はできないのですけれど、享保6年【1721】、近松晩年の『津国女夫池(つのくにめおといけ)』にはまたこんな箇所があります。

     ・・・思ひ出でたりその昔、唐の帝の三千宮蝶の宿りのささめ言。
        それをうつしていざ爰に花の香慕ふ蝶々の、宿りし袖こそ我が妻よ。
        おふおふお手に、手に手に、手折り折り取る花の枝。
        宿りの蝶の立つや霞にひらひらひら。
        ふるは羽色か桜か雪か、こがれ羽思ひ羽ふうはふうは、
        露もこぼれてゑいころころころ。
        蝶々とまれこの枝にとまれふりはへ。かざし揚羽の蝶。・・・(*7)

この最終行は「菜の葉の小歌」を知っていないと書けないのではないかと思います。

そしてまた近松を遡ること50年、芭蕉が共鳴した先輩俳人である西山宗因のこの句が、「菜の葉の小歌」を引いている、と柳亭子によって言われていることについては、前回載せた通りです。

  世の中やてふてふとまれかくもあれ

「菜の葉の小歌」成立は、柳亭子の言を信用するなら、菜畑流布発祥の1640年前後にまで遡るのではないかと推測できることになります。
なおかつ、「京師八坂の茶屋の事をかけるものに蝶々とまれ云々、の小歌見えたり。宗因これをとりたる句也」とあることから、その発祥は八坂すなわち祇園あたりに求め得るかも知れない気がしてきます。
さらには、宗因も大坂で晩年を過ごした人、近松は大坂の人形浄瑠璃で大活躍した人、そして下って地歌「菜の葉」を作った歌木検校も「大坂の八橋流の箏曲家 佳川検校の門下」とのことで、ここから「菜の葉の小歌」の流布には大坂が重要な場所だったのではないかとも思われてきます。
宗因と八坂の関係から、「菜の葉の小歌」の成立は花街と切り離せない可能性もあります。「近松作にとりいれられていると見えることについても、劇場のロケーションを考えますと、「菜の葉の小歌」が花街と密着していたことの裏付けになるように感じます。このあたりかしかし、日本人の蝶の受容史や花街色街が分からないと、より確かなことが言えませんね。


3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

もうひとつ気になるのは、近松においては「菜の葉の小歌」が揚羽蝶と結びついているように見える点です。
これは、「菜の葉の小歌」が流布に当たっては生活実感をすでに伴っていなかったことを表すものと考えます。
といいますのも、菜の葉にとまる蝶はアゲハではなくモンシロチョウの系統だからです。アゲハが止まるのはミカン系の木です。
(1)で触れた通り、モンシロチョウは菜の花ではなく菜の葉に止まるのだ、それは幼虫が菜の葉を餌にするからであり、モンシロチョウは産卵のために菜の葉にとまるのである、ということは、いくつかの本で説明されています。
蝶の生態と、蝶に対する日本人のイメージについては、まだ触れてきているところではありません。が、とりあえずはこのことが明らかですから、「菜の葉の小歌」が蝶々を「菜の花」にとめたのではなく「菜の葉」にとめたのは、わらべうたの発想ではなく、モンシロチョウの生態によるものであることも明らかです。

そうしたことがありますので、「菜の葉の小歌」をたどるには、チョウのイメージの変遷なり花街の変遷なりについても見ていかなければなりません。

※ 「菜の葉の小歌」は祇園発祥、大坂でヒットか?
※ 歌い始めた人は菜の葉と蝶の関係を身近に知っていたのではないか?

みたいなところが引き続きの謎なのですけれど、分かるあてはないものの、引き続きゆるゆる探って参りたいと存じます。


*1:東京国立博物館で展示された記録は見つけましたが、博物館が設けている画像検索のデータの中には「二十三番狂歌合」がありませんでした。

*2:ビクター落語 上方篇 三代目桂春團治3 VZCG-260 YouTubeでもべつのときの口演が聴けますけれど、CDでのもののほうが不思議に臨場感豊かです。

*3:古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収 昭和46年 集英社

*4:『毛吹草』岩波文庫 1943年刊 新村出校閲 竹内若校訂

*5:松竹『坂田藤十郎襲名記念歌舞伎狂言集』DC-0001 平成18年

*6:角川ソフィア文庫の本文だとp.130)

*7:(第四のうち 千畳敷其世かたり) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876723
全体の翻刻は近松全集第十二巻(1990年)掲載。新日本古典文学大系にも収録されています。近松全集には注がついていませんが、新日本古典文学大系を覗いたら、この箇所は(仮称)「菜の葉の小歌」による旨の注が付いていました。

*8:http://wikimatome.com/wiki/%E6%AD%8C%E6%9C%A8%E6%A4%9C%E6%A0%A1

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