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2014年7月31日 (木)

菜の葉にとまる蝶の話(6)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【日本人と蝶1】

筋立てみたいなことはなく、とにかく興味に向かって突き進んでいます。
なので、読み返すと自分でもとっても読みにくい!
ほんとうに先が見えて整理が出来るようになったら一からまとめなおすんだ、と、いちおうそんなことを楽しみにしましょう。

今度は菜の葉をいったん離れて、日本人はそもそも蝶をどのように捉えてきたのか、を探ってみたいと思います。


最初に、身近なお友達に教えていただいた蝶の色イメージを載せておきましょう。

【蝶といえば何色?】〜これは楽隊の身内にヒヤリング。
 白10人 黄6人、具体的に蝶の名前をあげたひと2人。
 ・・・見るのはアゲハで「真っ黒なやつ」が多いんだよね、というひと2人。

【よく見る蝶は?】〜SNSで答えて下さったもの
 ・一番多いのはキアゲハ。ごく普通に近所で咲く花の蜜を求めてます。
 ・クロアゲハ、随所、春の終わりから真夏にかけて。近所に畑はありません。
  子どものころには見かけたモンシロチョウはもう何年もまったく姿を見せません。
  熱帯化を感じます。
 ・アゲハ蝶、ミカンの木で育って。家の軒先から羽化します。
 ・クロアゲハ系が多いですが、
  すこし前まではツマグロヒョウモンもよく見かけました
  ( 庭で羽化したこともあります )。
 ・モンシロチョウ。保育園周辺。いまくらいの季節の前後辺り。
 べつにじかにお聞きした例ですが、小さい畑が近くにあるお宅だと、
 モンシロチョウをいちばん見るんだそうです。作物は不明でした。
 ・子供の頃は、ジャノメチョウをよく見ました。
  家の裏にイチジクの木があったのを思い出します。今は見なくなりました。
 ・白または黄色で、アゲハ蝶よりも小さいです。
 ・うちの庭に白い小さい蝶が、飛んでいます。かわいいです。
 ・ウチの周りのブドウ畑はモンシロチョウが多いし・・・
   ・・・あ、これはドイツ在住の方。(^^;;
 ・夜の蝶は見たことある←論外!!!

季節については春か夏、というところでおおむね一致していて差がありませんでした。

「何色?」の質問で答えて下さったのと似て、実際に見るのはアゲハかモンシロチョウが多いようです。


それに対し、実際の蝶の生態はどうか、というところを、日本の蝶の生態を日本チョウ類保全協会編『フィールドガイド 日本のチョウ』(2012年 誠文堂新光社)によって手短にまとめてみます。(*1)

世界中だと1万8千以上の種に達する蝶ですが、日本で見られるのは240種以上だということで、本書では外来種を除くと255種掲載されていました。
日本人が触れてきた、と言っても、そのうちまず北海道と東北、四国九州以南、沖縄あたりでしか見られない種は、歴史的にどうだったかを古典文学から探ることは出来ません。
さらにまた高山など人が入りにくい場所にしかいない蝶は検討の対象が意図しなければならないかと思います。
そんな制約を勘案し、関東以西の本州で見られる蝶に対象を絞りますと、該当するのは71種ほどになります。
内訳はアゲハチョウ科10種、シロチョウ科7種、シジミチョウ科17種、タテハチョウ科28種、セセリチョウ科9種、といったところです。

それぞれの特徴を整理しますと、

・アゲハチョウ科(該当10種)〜5月から8月によく見られる。森林や公園、農地に多く現れる。おもな食餌(幼虫の食べ物のこと)はミカン科の葉。

・シロチョウ科(該当7種)〜8月にもっともよく見られる。河川や農地に多く現れる。食餌は3種がマメ科、4種がアブラナ科。

・シジミチョウ科(該当17種)〜5月から9月によく見られるが、4月にも4種ほどよく見られる。森林、公園、人家周辺等比較的どこでもよく現れる。食餌はおもにブナ科。

・タテハチョウ科(該当28種)〜5月から9月によく見られるが、3月にも4種ほどはよく見られる。森林、河川に多く見られ、林でもっとも多く見られる。食餌はおもにスミレ科/イネ科。

・セセリチョウ科(該当9種)〜5月から8月によく見られる。林に多い。主な食餌はイネ科。

蝶の成虫は圧倒的に夏の虫であることが分かります。なおかつ、ここでだけ菜種に触れておきますと、菜種(アブラナ科)を餌にするのはシロチョウの仲間だけであることも判明します。

また、生態上人家周辺でみかけやすいはずのシジミチョウ科が(「うちの庭に白い小さい蝶が」という一例が該当するかも知れないのを除き)実際に見かけるとの答えに現れていないのが印象的です。

じつは蝶のことをこんなふうに考え始めてから気づいたのですが、たしかにチラチラ飛んでいるのを見かけるのはシジミチョウ科のものが多いのです。けれども小さいのであっというまに見失うし、印象にも残りません。・・・このあたりはちゃんと統計をとるべきなのですが、どういう軸でとったらいいかを決めかねてしまいました。
私自身、目撃して印象に残るのはどうしてもアゲハで、やはり大きいからなのではないかなあと思います。モンシロチョウも、あるいはモンキチョウも、シジミチョウに比べれば大きいのです。
私がほんとうはいちばん目にしたらしい小型の蝶は、色合いからするとヤマトシジミではないかと思うのですが、じっととまってくれませんし、すぐ見失うのでした。(*2)

ということで、いまの人が目にして最も印象に残るのはアゲハ科の大型蝶、次いで白か黄の蝶なのだ、と、当面は記憶しておきましょう。

もうひとつ気に留めておかなければならないのは、先述の、蝶の成虫は圧倒的に夏の虫である、という点です。
この先の話で触れることもあるかと思いますが、現在の俳句では蝶は基本的に春の季語で、それは連歌以来の伝統です。しかしながら現実の蝶(の成虫)は夏の出現率が高いのです。ここにも何か探らなければならないことが潜んでいるかも知れません。はっきり分かるかどうかはこころもとありませんけれど、このことを忘れずにおこうと思います。

と、こんなあたりを念頭におきながら、次から古典などの世界で捉えられている蝶の像と現代の蝶の像との共通点や乖離する点を、また少しずつ見てまいります。


*1:他の図鑑類もいくつも目を通しましたが、この本がいろいろな点でいちばんよくまとまっていました。ただし幼虫(毛虫や芋虫)についての情報は掲載されていません。

*2:チョウの大きさについてまとめたサイト http://nakaikemi.com/zenshicho0.htm

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2014年7月12日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(5)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【「蝶々」の元詞はいつできたのか】

触れてこなかったことにちょっと触れますと、上田信道さん「岡崎発の『蝶々』〜学校唱歌の源流をめぐって〜」では唱歌『蝶々』の詞(これの前半、「蝶々、菜の葉にとまれ」やそれに似ている歌詞を「菜の葉の小歌」と呼ぶことにします)についてとても詳しくフォローしていて、(4)でみた『童謡古謡』やその他の例にも触れた上で、栗田維良『弄鳩秘抄(ろうきゅうひしょう)』(調べてみると江戸時代の水戸地方のわらべうたを集めたものだそうです、19世紀初頭刊)に
菜の葉がいやなら手にとまれといふは、後につくりて、岡崎女郎衆に合せたるなり
とあることに着目したのでした。「岡崎女郎衆」は江戸後期にずいぶん流行った歌のようで、山東京伝の黄表紙のネタにもなっています。唱歌『蝶々』の歌詞は、それをつけた野村秋足がこの「岡崎女郎衆」を知っていたから付けたのではないか、なる観点で講演をなさっていたのでした。
「菜の葉の小歌」はヨーロッパ起源のメロディにつけられた時点で、もとの「岡崎女郎衆」のメロディを失ったのだ、とのことで、これは示唆に富んでいていいお話です。

前回見た『嬉遊笑覧』にもあったとおり、19世紀初頭には江戸で「蝶々とまれ」なる玩具も売られていたようで(前回参照、「二十三番狂歌合」は江戸の物売りを描いたもののようです *1)、文政期の浮世絵(英泉の画)でも左の女の子の着物の模様になっているので(http://edococo.exblog.jp/m2009-03-01/)、けっこう流行っていたのでしょう。「蝶々」の元の歌詞は、「蝶々とまれ」のおもちゃで遊ぶ子供たちが「岡崎女郎衆」のメロディで歌っていた、と想像するのは楽しいことです。

Eisen


上田さんのお話の中で、けれども

「菜の花」を「菜の葉」にする。それから「菜の葉」が嫌なら「桜に止まれ」という発想。これらは、わらべ唄の世界に見られる発想だ、ということが分かります。
さらに、江戸時代の行智という人が著した書物に、わらべ唄集『童謡古謡』があります。そもそもこの「蝶々」というわらべ唄、さほど古いものではないのです。なぜかというと、菜の花を栽培するのは、ナタネ油を採るためです。ナタネ油は天ぷら用ではなく、灯り用ですね。灯りをとるために油が必要なんです。そのため、換金作物として全国的に菜の花が栽培されますが、一般化するのは江戸時代のなかごろ以降のことです。 菜の花の咲き乱れる情景を歌ったわらべ唄は、これ以前にはありようがない。だから、 これは江戸時代のなかごろ以降に生まれた、と考えて良いわけです。

とある部分が私の別の関心を生んでいたのでした。

1)菜の花(畑)が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?
2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?
3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

ちゃんと疑問の文としてまとまったのはつい昨日今日のことなのですが、漠然と続いていた思いが、くどくど調べ始めるきっかけになったのではありました。


1)菜の花が一般化するのはほんとうに江戸中期以降か?

上方落語に「野崎詣り」というのがありまして、三代目桂春團治の演じるところで聴きますと(*2)、最初の方、野崎の観音様への男女の道中を描く場面のお囃子(ハメモノ)・・・こういうのが歌われるところが華やかでいいですねぇ・・・で、道の脇の菜の花畑の見事さが三味線と拍子木に乗ってあでやかに歌われます。いまの大東市なんだそうですが、近世末には菜畑でいっぱいの景色だったのですね。昭和初期には東海林太郎が歌ってヒットした「野崎小唄」にも同じ景色が描かれています。一断面ではありましょうけれど、近世の菜畑がいかに見事だったかが窺われます。
この景色は、どれくらい遡れるものなのでしょうか?
江戸中期とは具体的にいつの時点を指すのか明確ではありませんが、江戸時代は西暦1600年〜1870年ですから、真ん中は1730〜40年頃です。
(3)で菜の花の栽培史を追いかけ、俳句(誹諧の発句および付け句)と照らし合わせてみると、法令政令の発布状況や句の内容から見て、元禄年間(1688~1704)には菜の花の畑は少なくとも関西では普通の景観になっていたものと想像されます。以後、俳句の世界では、菜の花は年次を問わずほぼ千句に3、4句の割合で安定して詠まれているので、1700年頃以降は菜畑の景観に大きな変化はなかったのではないかと思います。とはいえ、上田さんの推測から時期が遠く離れるものではありません。
そしてまた、元禄期を遡ると菜の花や菜畑の句は、まったくといっていいほど見当りません
寛文七【1667】年刊の北村季吟『増山井(ぞうやまのい)』(*3)では「菜種(まくは秋也)」と「菜畠」が季節に関係づけられることなく「植物」の誹語として登場します。
寛永十五【1638】年には成立したとされる松江重頼『毛吹草』(*4)には、何遍ひっくり返してみても菜の花も菜畑も現れません。
幕府が郷村御触というので「田畑共に油の用として菜種作り申すまじき事」と発令したのが寛永二十【1643】年のことですから、菜畑の景色が広がり始めるのは、『増山井』と『毛吹草』の境目で郷村御触の出る1640年前後からと思われます。
だとすると、上田さんの推測より100年くらい遡ります。


では・・・

2)「菜の葉の小歌」は江戸中期を遡らない時期に出来たものなのか?

19世紀初頭に流布していたのは「岡崎女郎衆」だとか「童謡古謡」だとか、あるいは(1)でみた清元「玉屋」の例、上掲英泉の浮世絵などから、ほぼ間違いないと考えてよかろうと思います。良寛さんの遺墨にも「菜の葉の小歌」を書いたものがあるそうです。
ちょっとドキッとしたのは、地歌「菜の葉」関係の検索をしているとき、
「坂田籐十郎の襲名披露公演で・・・『曽根崎心中』・・・第二場「天満屋」の幕が上がったところで、『菜の葉』がほんのひとふし唄われます。/可愛いということは 誰が初めけん ほかの座敷もうわの空・・・」http://blog.goo.ne.jp/mayumi5312/e/9fc3deeba70a32f11957453c87dcede7
なる記述が目に飛び込んで来たことでした。この地歌の歌詞には
「菜の葉にとまれ蝶の朝」
という文句が含まれているからです。
近松門左衛門の『曽根崎心中』が初演されたのは元禄十六【1704】年(この年3月に改元となって宝永元年)、地歌「菜の葉」は1759年の『糸のしらべ』というのに載ったのが初出で、作った歌木検校は1720年頃の生まれだそうですから、もし『曽根崎心中』のオリジナルに地歌「菜の葉」のことばが含まれているなら、地歌は近松をパクったことになってしまいます。
で・・・記憶力が悪いので「え〜、そんな箇所が『曽根崎心中』にあったっけ?」とテキストを読み直しますと、これはさすがに近松のオリジナルにはありません。念のため、たいへんありがたいことに映像化されている坂田藤十郎襲名披露講演の『曽根崎心中』(*5)を見て確認しますと、地歌はバックグラウンドミュージックとして利用されているだけのようでした。文楽で復活した際の上演では「菜の葉」は演奏されていません。

しかし問題は、近松のテキストの方です。
『曽根崎心中』冒頭の「大坂三十三番観音廻り」のなかに、

  ・・・あちやこち風ひたひたひた。
     羽と羽とをあはせの袖の。
     染めた模様を花かとて肩にとまればおのづから。
     紋に揚羽のてう泉寺。(*6)

という箇所があります。これだけだと近松門左衛門が「菜の葉の小歌」を知っていたと断言はできないのですけれど、享保6年【1721】、近松晩年の『津国女夫池(つのくにめおといけ)』にはまたこんな箇所があります。

     ・・・思ひ出でたりその昔、唐の帝の三千宮蝶の宿りのささめ言。
        それをうつしていざ爰に花の香慕ふ蝶々の、宿りし袖こそ我が妻よ。
        おふおふお手に、手に手に、手折り折り取る花の枝。
        宿りの蝶の立つや霞にひらひらひら。
        ふるは羽色か桜か雪か、こがれ羽思ひ羽ふうはふうは、
        露もこぼれてゑいころころころ。
        蝶々とまれこの枝にとまれふりはへ。かざし揚羽の蝶。・・・(*7)

この最終行は「菜の葉の小歌」を知っていないと書けないのではないかと思います。

そしてまた近松を遡ること50年、芭蕉が共鳴した先輩俳人である西山宗因のこの句が、「菜の葉の小歌」を引いている、と柳亭子によって言われていることについては、前回載せた通りです。

  世の中やてふてふとまれかくもあれ

「菜の葉の小歌」成立は、柳亭子の言を信用するなら、菜畑流布発祥の1640年前後にまで遡るのではないかと推測できることになります。
なおかつ、「京師八坂の茶屋の事をかけるものに蝶々とまれ云々、の小歌見えたり。宗因これをとりたる句也」とあることから、その発祥は八坂すなわち祇園あたりに求め得るかも知れない気がしてきます。
さらには、宗因も大坂で晩年を過ごした人、近松は大坂の人形浄瑠璃で大活躍した人、そして下って地歌「菜の葉」を作った歌木検校も「大坂の八橋流の箏曲家 佳川検校の門下」とのことで、ここから「菜の葉の小歌」の流布には大坂が重要な場所だったのではないかとも思われてきます。
宗因と八坂の関係から、「菜の葉の小歌」の成立は花街と切り離せない可能性もあります。「近松作にとりいれられていると見えることについても、劇場のロケーションを考えますと、「菜の葉の小歌」が花街と密着していたことの裏付けになるように感じます。このあたりかしかし、日本人の蝶の受容史や花街色街が分からないと、より確かなことが言えませんね。


3)菜の葉、はわらべうたの発想で花ではなく葉にされたのか?

もうひとつ気になるのは、近松においては「菜の葉の小歌」が揚羽蝶と結びついているように見える点です。
これは、「菜の葉の小歌」が流布に当たっては生活実感をすでに伴っていなかったことを表すものと考えます。
といいますのも、菜の葉にとまる蝶はアゲハではなくモンシロチョウの系統だからです。アゲハが止まるのはミカン系の木です。
(1)で触れた通り、モンシロチョウは菜の花ではなく菜の葉に止まるのだ、それは幼虫が菜の葉を餌にするからであり、モンシロチョウは産卵のために菜の葉にとまるのである、ということは、いくつかの本で説明されています。
蝶の生態と、蝶に対する日本人のイメージについては、まだ触れてきているところではありません。が、とりあえずはこのことが明らかですから、「菜の葉の小歌」が蝶々を「菜の花」にとめたのではなく「菜の葉」にとめたのは、わらべうたの発想ではなく、モンシロチョウの生態によるものであることも明らかです。

そうしたことがありますので、「菜の葉の小歌」をたどるには、チョウのイメージの変遷なり花街の変遷なりについても見ていかなければなりません。

※ 「菜の葉の小歌」は祇園発祥、大坂でヒットか?
※ 歌い始めた人は菜の葉と蝶の関係を身近に知っていたのではないか?

みたいなところが引き続きの謎なのですけれど、分かるあてはないものの、引き続きゆるゆる探って参りたいと存じます。


*1:東京国立博物館で展示された記録は見つけましたが、博物館が設けている画像検索のデータの中には「二十三番狂歌合」がありませんでした。

*2:ビクター落語 上方篇 三代目桂春團治3 VZCG-260 YouTubeでもべつのときの口演が聴けますけれど、CDでのもののほうが不思議に臨場感豊かです。

*3:古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収 昭和46年 集英社

*4:『毛吹草』岩波文庫 1943年刊 新村出校閲 竹内若校訂

*5:松竹『坂田藤十郎襲名記念歌舞伎狂言集』DC-0001 平成18年

*6:角川ソフィア文庫の本文だとp.130)

*7:(第四のうち 千畳敷其世かたり) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876723
全体の翻刻は近松全集第十二巻(1990年)掲載。新日本古典文学大系にも収録されています。近松全集には注がついていませんが、新日本古典文学大系を覗いたら、この箇所は(仮称)「菜の葉の小歌」による旨の注が付いていました。

*8:http://wikimatome.com/wiki/%E6%AD%8C%E6%9C%A8%E6%A4%9C%E6%A0%A1

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2014年7月 9日 (水)

菜の葉にとまる蝶の話(4)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑3】

『類船集』というものを見つけましたら、「胡蝶」のところに、しっかり「菜の葉」と書いてあるのでした。

Ruisensyu

胡蝶(見出し語) かすみの籬 霞む外面 
         菊 花園 春雨の跡 やまふき
         藤 ぼたん 閑なる朝日 源氏の巻
         猫 夢 軒ばの梅 松虫 菜の葉
         瓶子 (以下、略 *1)

これは、いったいどういう書物なのでしょう?
初期の俳諧集や『芭蕉七部集』などでも、句は一人一人が独立して五七五を詠んでいるのではなくて、前の句への連想をしながら次の七七が原則別の人によって詠まれています。そしたまた連想によって次の五七五がまた別の人によって詠まれる、という具合に続いて行きます。続け方について細かくはいろんなルールがあるんだそうですが、そのことは省きます(*2)。こういうやりかたを「付合(つけあい)」というのだそうです(*3)。
『類船集』は延宝五【1677】年刊行の、高瀬梅盛(たかのせ ばいせい 1619~1702?)という人が編んだ、この付合の手引です。いろは順に並んだ見出し語の下に、その見出し語と付け合わせるのにふさわしい語を並べ、そのあとに説明を加えているものです(*4)。
いまの私たちの常識ですと俳句には季語が付き物なのですが、『類船集』には季節による語の分類がありません。
これを『はなひ草』(森川昭蔵 寛永十三年 *2所収)という誹諧式目集(誹諧のルールブック)と比べてみますと、『はなひ草』では前半がやはり特別に分類はされないで見出し語がいろは順にならんでいます。けれどもそのあとに『はなひ草』は句を連ねて詠むときのルールを手短にまとめ、次いで「四季乃詞」として月々(1月~12月)をあらわすのにふさわしい語を並べ立てています。『類船集』は『はなひ草』の前半部分を独立させ詳しくしたようなものだ、と理解すればいいのでしょうが(*5)、ちょっと性質は違います。
『はなひ草』は最初は
「い」 岩船 水辺にあらず。天津神駕し給ふ舟也。舟の字には五句嫌。
というぐあいに始まっていろは順に詞が並んでおり、その使い方が述べられ、その後ルールの補足があって、次いで四季之詞となります。付合については記されていません。このあたりは書物の目指すところの違いですね。

さてしかし、蝶は春を表すのではなかったのでしょうか? 『類船集』では松虫と付け合うことにもなっているのが気になります。
菜の葉も春のものではないのでしょうか。
こちらはしかし、たったひとつ見つけた『芭蕉七部集』中の曠野巻之五 の句は

  水棚の菜の葉に見たる氷かな

で、冬のものでした(前回参照)。

『はなひ草』には蝶も菜の葉や菜の花も見当たりません。
『誹諧初学抄』(*2)というのにも手を伸ばしてみて見ると、中春のところに「上羽(アゲハ)の蝶」とあります。
季節のことばを主眼にして編まれた『増山井(ぞうやまのい)』(北村季吟 寛文七【1667】年 *2)でも春のことばとして蝶があげられています(蝶~胡蝶。黄蝶、俳。蝶々、同。あけはのてふ、同。)。ただしまた別に、秋の胡蝶(てふに霧を結ひても【秋也、を略】)。ああ、これで『類船集』の胡蝶のところに松虫が付け合わされていても不思議ではない理由がなんとなくわかりました。

この『増山井』では末尾に「増山井非季詞」として特定の季節を表さない神祇、釈教、天象、名所、生類、植物のことばがならべられています。
その植物のところに、「菜種(まくは秋也)」「菜畠」があります。

菜種、は春の季語ではなかったのか?
そう、そうではなかったんですね!

『類船集』も『はなひ草』も『誹諧初学抄』も『増山井』も、芭蕉の登場に先立つ貞門誹諧と呼ばれる人たちの手になる書物ですが、季節を示す詞のほとんどは和歌の伝統的な季題によっています。これらは芭蕉門下たちの時代になると「竪(たての)題」と呼ばれ、そうでないものは「横(よこの)題」と呼ばれることになったそうです(*6 25頁)。
芭蕉以後の蕉風誹諧になると、芭蕉がとりいれた新たな横題が積極的に使われるようになります。研究をまとめた書籍は古書でも高価で手が出ませんのでしっかり確認は出来ませんでしたが、菜の葉ではなく「菜の花」は、この新たな横題のひとつだったのでした(*6 200頁 付録)。
こんなところにも、菜の花やその畑は近世の新たな風物であったことがうかがえると思います。
そしてまた当然のことではありますが、花は春であっても、その葉や茎や、植えてある畑は存在が春に限定されるわけではありません。こちらは俳句~俳諧の世界でも現実的に反映されているのですね。やはり曠野の巻之五にある

  はる近く榾つみかゆる菜畑

もまた冬の句です。

俳句を通じてですが、これで菜の花や菜畑の景色が日本にみられるようになったのは江戸時代以降と考えて間違いなさそうだといえるようになりました。それが『増山井』や『類船集』の出た1670年前後までさかのぼれたわけです。

では、俳句の世界で菜種(アブラナ)、菜の花、菜の葉が蝶と結びついたのはその実景によるものだったのでしょうか?

元禄五年【1692】年の『椎の葉』にあった

  舞蝶に飛ついて折るナタネかな

の句は、意味からして間違いなく実景に基づくものです。

しかし、これ以外は一茶が詠んだ1813年まで、見た限りの俳句の世界には菜種と蝶の結びつきはあらわれません。
狭い範囲を眺めただけですから仕方ないのではありますが、江戸期の菜の花の実景をたどるには絶好の素材だった俳句を、蝶と菜種の関係を日本人がとらえた時期の推測に用い続けることは、どうやら無理そうです。

すると、この関係を早く書き留めた『類船集』(1677年)は、なにをもって胡蝶~菜の葉を結びつけたのか、を考えなければなりません。

俳諧は、人々がいまこのときを鋭敏にとらえるおかしみを許容したからこそ、松永貞徳以後、人々の間に爆発的に普及することとなったのでした。
そうした俳諧の題材の中には、・・・「古い小歌」といっているのがちょっと気になりますけれど(*7)・・小歌も積極的に採り入れられたらしいことが分かっています。
最初に見た
「蝶々とまれや菜の葉にとまれ」
が清元だの地歌だのによって普及していたことからすると、この結びつきは当時の歌謡に由来するものではないのかなあ、と思われてきます。『類船集』が実体験に基づいて結びつけた、とは考えにくいような気がします。

そこで、あらためて「蝶々とまれや菜の葉にとまれ」・・・これを小さな歌謡と推測して、仮に「菜の葉の小歌」と呼びます・・・のほうに戻って見直してみますと、この菜の葉の小歌が意外とあちこちでマイナーロングセラーになっていたもののようです。
見つけたなかでいちばん古いのが(1)で載せた『山家鳥虫歌』であるのは目下変わりありませんが、これは大和すなわち今の奈良県のものとされていたのでした。しかしこれは、たまたま採集されたのが大和だったというのに過ぎないのかも知れません。
時代がやや下りますけれど、19世紀初頭には、江戸でも大阪でも、「菜の葉の小歌」は根付いていたらしく見えるのです。また、良寛さんの遺墨の中にも、これを書き留めたものがあるそうです(*8)。

19世紀の『童謡古謡』(文政三【1820】年)というのが当時の江戸に残っていたわらべうたなどを集めたものなのですが、ここに

 蝶々とまれや菜の葉にとまれ 菜の葉がいやなら手にとまれ

と載っています。

新古典文学大系でこの江戸の童謡に付けられた注に、興味を引かれました(*9)。

「蝶に向かって言う唱言。傍書にもあるように本来は恋の流行小歌であろう。近松の浄瑠璃・津国女夫池(中略)などに同形あり。」
そうですか、近松門左衛門にありますか。そうだとすると、『山家鳥虫歌』より確実に古いですね。

江戸絡みでもう少しあさってみると、豊富な考証をまとめた『嬉遊笑覧』(文政十三【1830】年)巻之六 下(*10)に
「今もある蝶々とまれといふもの(中略)蝶々も明和よりありしか。」
と、これはなんと子供のおもちゃをさすことばとして「蝶々とまれ」がでてくるので、またびっくり仰天!
そしてこのあとに続くのは

『宗因が句』に、「世の中は蝶々とまれかくもあれ」といへるは(中略)柳亭子云、「京師八坂の茶屋の事をかけるものに蝶々とまれ云々、の小歌見えたり。宗因これをとりたる句也」といへり(「菜の葉に止まれ」といふはむかしの小歌なり。下総佐原辺にて、「蝶々とまらんかのめ飛すがらんかのめ」とうたひて踊る、これもおなじたぐひとみゆ)。

という説明。あら、菜の花を最初に季語に使った西山宗因さんが、また登場します!

 世の中やてふてふとまれかくもあれ

と、「菜の葉」はなくて、「蝶々とまれ」のところに「菜の葉の小歌」が部分的に使われているというのです。
宗因は大坂で晩年を過ごした人。近松門左衛門も大坂で活躍した人です。
うむ、「菜の葉の小歌」は何か大坂に縁があるのでしょうか?
ただし、宗因がこれをとったと言われている八坂は、八坂だけに京の祇園です。

おもちゃの「蝶々とまれ」のほうは、ネットで写真を見つけることが出来ました(*11)。

二十三番狂歌合(江戸時代・19世紀のものの由)

Chouchoutomare

載せて下さっていた人は

手元の筒を下に向けると、紙でつくった蝶々が、飛び出し、上に向けると筒先にちょこんと止まるような仕組みのおもちゃだったらしい。
 絵の右側に書かれた売り声は、「てふてふとまれよ、なのはにとまれ」(写真では上の方が切れてしまった)のようだが、もしかして、みんなが知っている「蝶々」の歌詞は、江戸時代の売り声にインスパイアされていた???

と仰っています。私と似たようなことを感じてらしたのね。(切れてしまった、とする写真のことばは、大丈夫しっかり読めます。)

さらに、出久根達郎『春本を愉しむ』に次のような文がある由。
え? 春本ですか(*12)。

幕末安政に公刊された人情本「真情春雨衣」のなかで、「深編笠の男女の胡蝶売りが」「篠竹に紙の蝶を糸で結んだ幼児玩具」を、「胡蝶とまれや菜の葉へとまれ、菜の葉いやなら葭(よし)の先へとまれ」と歌いながら売っていたそうです。

おっと・・・これはまた(1)で見た清元「玉屋」前半とほぼ同じではありませんか!

蝶々とまれ、は、やはり子供の素朴な歌ではなくて大人の恋歌、それもなにか色街絡みなのでしょうか?

うーむ、ドキドキですが、そのへんのこと、大坂のことは、またこの次に。


*1:『誹諧類船集』京都大学国語学国文学研究室内 近世文学研究会(昭和30年 非売品)を参照。ガリ版刷りを製本したものだったのでしょうか、分担した人によって字の読みやすさがまちまちです。同じ梅盛が先行してまとめた『便船集』はネット上で昔の金沢大の方がまとめたものが読めますが、途中までなので残念です。こちらだと四季之詞だとか神祇、釈教だの恋だのが別にまとめられているようなのですが。

*2:斎藤徳元『誹諧初学抄』や松永貞徳『天水抄』など(古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収 昭和46年 集英社)

*3:世界大百科事典 第2版の解説 http://kotobank.jp/word/%E4%BB%98%E5%90%88
つけあい【付合】 連歌・俳諧用語。〈寄合(よりあい)〉と同義に用いることもあるが,普通には17音節(5・7・5)の長句と14音節(7・7)の短句を,ことば,意味,情趣などを契機として付け合わせたもの,また交互に付け連ねることをいう。付合の集積によって成立した連句文芸では,発句(ほつく)以外の句をすべて付句(つけく)と呼ぶが,2句一章の最小単位では,付けられる句を前句,付ける句を付句と称する。前句が長句,付句が短句の付合は短歌に似るが,前句が独立しつつも蓋然性に富む意味内容をもち,その判断を付句の作者の読みにゆだねるという点で,短歌とはまったく異なる。

*4:http://kotobank.jp/word/%E9%A1%9E%E8%88%B9%E9%9B%86
   http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/014.html

*5:四季のことば、すなわちこんにちの季語と、季語以外のことばとが誹諧にあるのは和歌の伝統を意識してのことなのですけれど、いまは誹諧がテーマではないし、私が詳しいわけでもないので、そのあたりの事情については省きます。作品の配列を通じた具体例は『芭蕉七部集』でもうかがえます。
なお、有名な『毛吹草』は『はなひ草』より構成が拡大していて、四季之詞なり付合なりのことばが大変充実しています。巻第一「指合」・巻第二「誹諧四季之詞・非季詞・連歌四季之詞・誹諧恋之詞・連歌恋之詞・世話 付古語」・巻第三「付合」・巻第四「名物(当時の各地の名産品です)」で、あとは発句集となっています。岩波文庫 1943年

*6:宮坂静生『季語の誕生』 岩波新書1214 2009年
ちなみに小学館『日本古典文学全集 近世和歌集』に載った江戸期の和歌1106首の中には一首も菜の花や菜種、菜畑を歌ったものはありません。かわりにとりあげられているのはスズナです。江戸時代後期に滝沢馬琴が編んだ歳時記では、菜の花はスズナのことだとありますが、こちらは和歌の教養が邪魔したものでしょうか?

*7:寛文十二【1672】年刊行の『時勢粧(いまやうすがた)』、古典俳文学大系2『貞門俳諧集 二』所収、p.86 また続く句の分類参照→*2

*8:https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0CB4QFjAA&url=https%3A%2F%2Fir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F123456789%2F4715%2F1%2FGA44053.pdf&ei=OEi9U6jEEIi68gW3n4HACg&usg=AFQjCNHm7-XuPxAoImEz8eiuvTPSqDw2cw&sig2=dvPjo79c4QsLmgidxouRuA

*9:新日本古典文学大系62 岩波書店 1997年、356頁

*10:喜多村節信『嬉遊笑覧』(三) 岩波文庫  2004年 358頁。(五)巻末の索引では誤って368頁にある、としています。

*11:http://nora-pp.at.webry.info/201212/article_1.html

*12:http://2.suk2.tok2.com/user/68bi51/?y=2009&m=12&d=16&all=0

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2014年7月 5日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(3)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑2】

菜種油の生産については初期の歴史が分かりにくいのですけれど、見つけたかぎりを整理すると

・・・「菜種は古くは戦国時代の頃に既に栽培されていたが、それはその茎や葉が食用として用いられるためであって、まだ油の原料としては利用されるに至らなかった。」(八尾市史(近代)本文篇 *1)
1612年【慶長17】遠里小野の油茶屋で菜種油の値段が1升75文だとの記載が日記類にある由(『搾油濫觴』から *2)
1643年【寛永20】(幕府)郷村御触「田畑共ニ油の用として菜種作申間敷事」(前回参照
1698年【元禄11】(幕府)油種・油買〆禁止(*3 以下、断りがないかぎり同じ)
1713年【正徳 3】(幕府)菜種買〆禁止
1723年【享保 8】(幕府)油価格引下を命令
1726年【享保11】(幕府)問屋以外の種物取引請禁止
1729年【享保14】幕府が菜種油価格を下げる目的から菜種の増産奨励に初めて乗り出した由(八尾市史による)
1743年【寛保 3】(幕府)在地絞油屋の油直積・他国種物買入禁止
1759年【宝暦 9】(幕府)油の江戸直積、種物の道買・道売・隠蔽の禁止
1770年【明和 7】(幕府)油方仕法改正・・・在地油稼株の認可と原料購入圏指定
1791年【寛政 3】(幕府)兵庫に菜種引請問屋設置 等
1797年【寛政 9】(幕府)(再)種物の道買・道売・隠蔽の禁止 等

『芭蕉七部集』、新古典文学大系の『初期俳諧集』・『元禄俳諧集』・『天明俳諧集』(蕪村周辺のものがほとんど)に限っての散策ではありますが、目立つほどの菜種栽培を物語る菜の花が俳句(の発句や付句)に現れるのは、下記の通りです。
・元禄期以前には菜の花や菜畑の語がまったく見当たりませんでした。
・句集によって編纂の特徴もありますし、手拾いですので落ちもあるかと思われますが、割合に関しては若干の拾い漏れがあっても大勢に影響はありません。

『芭蕉七部集』
(菜の花等出現率0.28% 3570句中10句)
(菜の花等の出現率は、曠野集までに限ると0.48%、7句)

曠野 元禄二【1689】
曠野集 巻之二
 麦の葉に菜のはなかゝる嵐哉 不悔
 菜の花や杉菜の土手のあい/\に 長虹
 なの花の座敷にうつる日影哉 傘下
 菜の花の畦うち残すながめ哉 清洞
曠野集 巻之五   
 水棚の菜の葉に見たる氷かな 勝吉〜菜の葉(冬)
 はる近く榾つみかゆる菜畑哉 亀洞〜(冬)
曠野集員外
 菜畑ふむなとよばりかけたり 兮

猿蓑 元禄四【1691】
猿蓑集 巻之三
 菜畠や二葉の中の虫の声尚月

続猿蓑 元禄十一【1698】
続猿蓑集 巻之下            
 伏見かと菜種の上の桃の花 雪芝〜菜種
 居りよさに河原鶸来る小菜畠 支考
*岩波文庫でも読みましたが上記はデジタルデータを写し取りました。
http://www.j-texts.com/kinsei/h7buah.html

『新撰 都曲(みやこぶり)』元禄三年【1690】
 273 尼寺よ只菜の花の散径(こみち) 言水

『卯辰集』元禄四【1691】金沢の句集(菜の花出現率0.61% 全652句中4句)
 105 里の昼菜の花深し鶏の声     牧童
 106 なの花や幾野かがやく朝日影   拾葉
 107 菜の花に虻しづか也朧月     其糟
 108 梨一木菜の花二間四方かな    春幾

『椎の葉』元禄五年【1692】二月の旅     
 舞蝶に飛ついて折芝種(ナタネ)哉

『其雪影』明和九【1772】(菜の花出現率0.2% 全434句中1句)・・・ナタネ
 022 麦あをあをと菜種まばゆき    几董

『あけ烏』安永二【1773】(菜の花出現率0.34% 全296句中1句)
 187 菜の花の一反ばかり盛かな    東走

『続明烏』安永五【1776】(菜の花出現率0.4% 全756句中3句)         
 183 菜の花に雨の近づくにほひ哉   士巧
 184 菜の花やよし野下り来る向ふ山  太祇
 185 菜の花や月は東に日は西に    蕪村

『仮日記』安永六【1775】(菜の花出現率1.2% 春の句174句中)
 006 菜の華や朱雀までなる老の旅    其梢
 102 菜の花や牛よけた手につかまるる  茶合

見た本で元禄と天明のあいだが抜けていたために、この間のことは分かりませんが、元禄期から天明期に引き継がれる状況と大差はなかったものと推測します。
で、菜の花や菜畑のことばは、元禄期にいったん登場してからは人が千句詠む中に3、4句は詠まれるのが普通になったことがうかがわれます。
ためしに芭蕉の句全部の中での菜の花・菜畑出現率をみますと0.2%くらい(全981句に菜の花等2 *4)、蕪村の死後編まれた『蕪村句集』では0.5%くらい(全868句中4句)、同じく『蕪村遺稿』で0.7%くらい(全580句中4句)です(*5)。上記『仮日記』も春の句のみでの割合ですから、四季で単純に4倍の句数としますと0.3%程度に薄まります。
一茶の『七番日記』には8074ほどの句がありますが、菜の花や菜畑の句は27首ほどですから、これも0.3%程度の出現率です(*6)。

最初の年表を見ますと、菜種油の普及は元禄期頃から広まったと読み取れます。元禄期以降の俳句へのその登場割合が安定しているところから、菜種油の普及に伴う菜畑の広がりは、元禄期には定着した景色になっていたと見て差し支えがなさそうです。

菜種は米の裏作として栽培することが出来、たびたび価格や販路統制が出ていることから推しはかれるように搾油の需要も多く、関西を中心に栽培が定着したのだそうです。
関西中心、ということについて特別な裏付けは見つけられませんでしたが、関連して面白いのは『芭蕉七部集』で、全体では10句ほどある菜の花・菜畑の句のうち7つまでが、名古屋でまとめられた曠野(員外まで。)に入っており、のこり3つ(猿蓑、続猿蓑)の詠まれた地もしくは読み手も近江・伊賀上野・美濃出身という具合になっていて、当時の菜種栽培は少なくとも関西の方が盛んだったことをうかがわせてくれます。
興味深いのは金沢の句集である『卯辰集』(元禄4)での菜の花出現率の高さで、京への物流至便だったこのあたりでは早くに菜種栽培がなされていたかのように見えます。実際に石川県野々市市の子供向けサイトには江戸時代から野々市周辺での菜種栽培が盛んだったことが述べられています。残念ながらこれは詳しい年代までは窺えませんでした(*7)。『卯辰集』の句では「菜の花二間四方かな(108番)」ですので、元禄期はそれほど大規模とは言えなかったのかな。

蕪村のころの関西での広々した菜畑風景は『続明烏』掲載の有名な句にもっとも良く描かれていますが、それが播磨方面の海沿いであったことは

  菜の花やもよらず暮れぬ (『蕪村句集』211番)
  なの花や昼ひとしきりの音 (『蕪村遺稿』32番)

のほうではっきりします。これらの菜畑は六甲の摩耶山のふもとだそうですけれど、裏作で菜種を作っていた花熊村(現 神戸市)の農家の変遷史が新保博著『封建的小農民の分解過程』(*3)にまとめられていて、菜種農家が経済的には必ずしも菜種からの恩恵を受けていなかった姿が詳しく研究されています。こうした生活についても、蕪村の

  菜の花や油乏しき小家がち(『蕪村遺稿』18)

に見事に絵画化されています。

これが関西での18世紀後半の風景ですが、関東と信州を行き来した一茶の『七番日記』にさかんに菜の花・菜畑と現れるようになりますので、19世紀には関東でも普通になっていたのでしょうか。蕪村の名句といい勝負である

  なの花のとつぱずれなり富士の山

は、文化九年(1812年)2月のおしまいの方に書き入れられています。このころの一茶の滞在先は西日暮里の本行寺もしくはその近辺のようですから、これは武蔵野の風景です。

このように元禄期以降、菜の花はごくあたりまえに俳句に出て来るようになったかと見えます。菜畑は耕すのが冬なので冬の句に出てきますが、菜の花は春です。
その菜の花に蝶が戯れる様子も・・・蝶は春の季語だといういまの常識からすると季がダブるにもかかわらず・・・一茶の『七番日記』文化十年正月に描かれています。

  よ梅よがてんてん舞をまふ
  麦ににてんてん舞の小てふ

それより前の年代にはかろうじて1句を見つけただけですが、1692【元禄五】年ですから、菜の花と蝶の結び付きは菜種栽培の広がると同時にはもう人の目に普通にとまっていたことが分かります。これは、上にもあげた『椎の葉』中の句です。

  舞に飛ついて折芝種(ナタネ)哉

これが載せられた『椎の葉』は才麿という人が記した2月の紀行文で、「芝種(ナタネ)」とありますけれど、季節的にもこれは菜の花だと読めます。

さて、菜の花と蝶はこうして俳句でも結び付きが書かれていること、それが17世紀末までは遡れること、が分かりました。

しかし、菜の「葉」となると、俳句には曠野集のひとつ以外には、一向に現れません。

ふうむ、「葉」は「花」じゃないだけにハナがないからか・・・とつまらんシャレを頭に浮かべてぼんやりしつつ、もういちど

  舞蝶に飛ついて折るナタネかな

の句が載ったページの下の注釈に目をやったら、・・・え? なんだって? と、瞬間、のけぞってしまいました。

注釈によれば、この句の読解は「芝種(ナタネ)」は菜の「花」ではないのでした。

「舞い飛ぶ蝶を掴もうと飛びついて足もとのナタネの茎を折ってしまった。・・・

そりゃそうだ。蝶に「飛びつい」たのはこの句を詠んだ「私」以外にありえないので、蝶と菜の花の結び付きに気をとられて意味をちゃんととっていなかったのでした。

さらにこの注に、
「蝶−菜の葉(類船集)」
と書かれています。それで「類船集」なるものを探したら、幸いにしてデジタル化されていました(*8)。

・・・で、見てみると、、、

Ruisensyu

・・・「胡蝶」の下4行目。

・・・なんだこれは!?!? 「菜の葉」だ!(草書で書かれています)

・・・蝶と結びついてるじゃありませんか!

・・・続く、と思う。


*1:八尾市史は公的にPDF化されていて、こちらから読めるんですね。 http://web-lib.city.yao.osaka.jp/yao/yao-archive/

*2:『搾油濫觴』事態は目にしませんでした。こちらのサイトにまとめて下さっているのを拝見しました。 http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den009.htm

*3:新保博『封建的小農民の分解過程』306頁の年表による。新生社 1967年

*4:今榮藏『芭蕉年譜大成』でナンバリングされている数によった。角川書店 平成17年新装版

*5:尾形仂校注『蕪村句集』岩波文庫 1989年

*6:丸山一彦校注『一茶 七番日記』岩波文庫 上・下 2003年

*7:http://www.city.nonoichi.lg.jp/rekishitabi/rekishi_2_11.html

*8:国文学研究資料館 電子資料館 http://www.nijl.ac.jp/pages/database/
   『類船集』胡蝶〜http://t.co/SGrKM7D15x 

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