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2014年6月26日 (木)

菜の葉にとまる蝶の話(2)

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(1)の文意の通らない箇所を少し修正しました。


(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


【菜の花、菜畑1】

さて、菜の花と蝶が舞う風景が繰り広げられるためには、まず、たくさんの菜の花が咲いている場所が人目に触れやすいところになければならないでしょう。
となると、必要なのは

 ♪ 菜の花畑に入日薄れ

の、菜の花畑でしょう。

菜の花畑はいつごろから日本に広がったのでしょうか?

文芸作品を眺めてみると、蝶のほうとは、日本人は付き合いがわりと古いのです。
ネットに「江戸時代以前には蝶が和歌や絵に出てこなかったのはなぜですか?」という質問が出ているのですけれど・・・絵のほうはいま調べていませんが、この質問への回答に載っている事例で充分でしょう  (*1)・・・たしかに蝶の出てくる和歌は、室町時代までのものにはなかなか見つけられません。
けれども決して、全然ないわけではありません。
詩歌ということで探してみますと、漢詩でしたら既に奈良時代の『懐風藻』(751【天平勝宝3】年)で2つは取り上げられています。
和歌ではどうでしょう。
『万葉集』では歌にこそ詠み込まれていませんが2か所の詞書に出て来ています。
平安時代に入って、まず古今和歌集巻十(物名)に僧正遍正の

 散りぬれば後はあくたになる花を思ひしらずもまどふ蝶かな(435)

がある他、『源氏物語』のその名も「胡蝶」の巻では和歌に蝶が詠まれていますし、蝶そのものを詠んだとは言えないながらも『枕草子』の中や『堀川院百首』中の大江匡房の歌に、慣用句と絡めた歌や「荘子、夢ニ胡蝶トナル」の故事と絡めた歌が現れます。
その後、西行や九条良経、後鳥羽院といった有名歌人の作にも蝶がうたわれています。
室町時代の連歌にも蝶はたしかに登場します。
見つけるのが難しいというところに、考えなければならない宿題があるのですけれども、ひとまず蝶についてはこんな概観で済ませておきます。

いっぽう、菜の花だとか、菜の花畑という言葉は、江戸時代より前の文芸作品にはまったく現れません。
江戸時代の俳諧でも、岩波の新日本古典文学大系で読める『初期俳諧集』の句の中にはひとつも菜の花を見つけることが出来ませんでした。『元禄俳諧集』に収められた『新撰 都曲(みやこぶり)』(1690【元禄3】年)に至ってようやく菜の花が現れます。しかし菜畑の光景ではありません。

 尼寺よ ただ菜の花の散るこみち(下巻273番、かな書き換え)

手近に読めるものでいちばん早い年代の、菜の花や菜畑の句は、芭蕉が詠んだものでした。やはりすでに17世紀後半のものです。

 山吹の露 菜の花のかこち顔なるや (1681【天和元】年)
 菜畑に花見顔なる雀かな (1685【貞享2】年)

最初の方の句は、菜畑の光景を切り出したものとは思えません。
次の句ではハッキリと菜畑の語が使われていますので、なんの疑問もありません。

以下、菜の花はアブラナの花、菜畑はアブラナの畑だと前提し疑わないことにします。

そもそも、アブラナがたくさん栽培されるようになったのは、その種を絞って出る油を灯りのために用いる必要がたくさん生じてきたからだったのでしょう。
年代をはっきりさせるのは難しいとはいえ、柳田國男『火の昔』を読んで感じるに、それはどうやら室町時代から江戸時代にかけてのことのようです。
「室町時代には油座といって、油を売る人たちだけの団体があって、油屋は仲間どうしの規則を設け、品質をきめ、値段を統制し、租税を前納して専売の特許を受けていたといいます・・・」(角川文庫版 p.50)
「他の商品にくらべると油は相応に高いもので、それだけにまた一度にたくさんは買っておきませんでした。」(角川文庫版 同)
「・・・なつかしい子供の油買いも、やはり大昔からのものではなくて(中略)、しばしば油を買いに出たのは、種油(=アブラナの油)以後のことであります。」(角川文庫版 p.52)

大蔵永常『清油録』(1836【天保6】年 *2)の総論に次のような記述があります。
「神功皇后の御時 摂津国のほとり遠里小野(おりおの)村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の燈明そのほか神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」
「摂津国遠里小野村 若野氏 菜種子油をしぼり出せしより 皆これにならひて油菜を作る事を覚え 油も精液多く油汁の潔き事是に勝るものなければ他の油は次第に少くなり かつ 菜種子の油のみ多くなれり」
「大阪は諸国へ通路便宜なるに随ひ 元和【1615〜1623】の頃より遠里小野其外油うりのともがら多くこの地に引うつりしと見え その後搾具の製作まで追々細密に工夫を用ひたれば 明暦【1655〜1658】の頃より古風の製具絶しと見えたり」

これによると菜種油の普及は17世紀前半には達成されていたかのようです。
実際、幕府から全国向けに出された寛永20年(1643年)の郷村御触というのに
「田畑共ニ油の用として菜種作申間敷事」
なる条文があって(*3)、裏を返せばこの頃までに菜種すなわちアブラナの栽培があるていどは盛んになっていたことを表しています。すなわち、冒頭の疑問、菜の花畑が日本に広がったのはいつか、ということの答えは「17世紀半ばごろ」になります。

ところが、この年代は、下限(1640年頃)をとっても、芭蕉の句に菜畑が現れる40年も前です。

菜の花が季語として用いられた俳諧の句は西山宗因(1605〜1682、談林派のボスにまつりあげられたけれど、あまりその気にならなかった人)の

 菜の花や一本咲きし松のもと

というのが最初だと言われているそうで(*4)、芭蕉がこの宗因とじかに接したのが分かるいちばん早い時期は1675【延宝3】年です(*5)。それから芭蕉が自らの句に取り入れるまで6年の時が必要だった、というのであれば、芭蕉自身が体感した時間としてはそんなに長いものではなかったかも知れません。菜畑の景観は、それがひろがってからさらに40年ほどかかって、ようやく日本人の心にも定着したのだと言えるのでしょう。

ただし、宗因の句にしても、芭蕉の句にしても、また『都曲』にある句も、菜の花と蝶の結び付きはありません。
「菜の花」と「蝶」が春の季語で、両方出すと季節が重なってしまうからなのでしょうか。・・・実はそういうことでもないのです。

このあたり、菜の花や菜畑が出てくる句をいろいろ眺めてみたいと思うのですが、またこの次。

「菜の葉」の話も少しだけ急展開します。


*1:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/3424697.html

平安末期までの美術史的な回答は下記のようになされています。

『蝶は正倉院御物の「金銀絵箱」「紺地花弁蝶紋錦」や法隆寺所蔵の屏風裏模様にも描かれており、決して古の人々が避けていたというようなことはありません。平安時代以降にも蝶の文様はますます広がり、衣服・調度・甲冑などに用いられました。これらは「年中行事絵巻」「平治物語」「紫式部日記」「北野天満宮縁起」などの絵巻物によって確認出来ますし、「源平盛衰記」などの記述にも見られます。
蝶紋は治承年間に平維盛が車紋として用いていたとされる記述が今のところ最古のものであるようですが、「大要抄」に「蝶丸は六波羅党」とあるように次第に平家の専用紋のような扱いを受けるようになっていったようです。』

このほか、江戸時代の着物の蝶模様の変遷を調べた論文をネット上で読むことが出来ます。

*2:http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847582 (近代デジタルライブラリー)

*3:本城 正徳『近世幕府農政史の研究-「田畑勝​手作の禁」の再検証を起点に- 』(大阪大学出版会  2012/10/18)が研究の出発点の史料として上げているものです。

*4:「菜の花が江戸や京都の近辺で生産されるようになったのは十七世紀からで、季語の「菜の花」もそのころに成立した。冒頭にある宗因の句【引用元掲載:菜の花や一本咲きし松のもと 西山宗因 1605〜1682】が、菜の花を季語とする最初の句と言われる。蕪村の活躍した十八世紀半ばには菜の花畑がごく一般的な風景になった。菜の花の俳句は数を増やし、広々とした風景が詠まれていく。」(今泉恂之介 双牛舎類題句集:菜の花、花菜、菜種の花、花菜雨、花菜風、油菜、菜の花畑、諸葛菜、紫花菜 http://sogyusha.org/ruidai/01_spring/nanohana.html

*5:今榮藏『芭蕉年譜大成』新装版 角川書店 平成17年(原著 平成6年) 24頁

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2014年6月21日 (土)

菜の葉にとまる蝶の話(1)

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(*数字 とあるのは、文中に資料名を入れると面倒なので末尾に載せた印です。)


新婚のお盆に実家に帰って、縁側にすわっていましたら、私の鼻に紋白蝶がとまって、しばらくじっとしていたことがありました。
それを見て、家族が異口同音に
「ああ、死んだおばあちゃんがきたんだね、あんたをかわいがっていたからね」
と言うのでした。

蝶はとまるところを間違えただけだったのかもしれません。
蝶がとまるべきなのは菜の「花」です。「鼻」ではありません!
歌でも
「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」
というではありませんか。

・・・あれ?
菜の「花」ではなくて、菜の「葉」ですか?

これも何かの間違いなのか、と、歌詞をもういちどながめますと、そこではたしかに菜の「葉」となっています。

これはもともと外国のメロディであったものに歌詞をつけた野村秋足という人が国学者で、愛知県岡崎市勤務のときに上司の命令で集めたわらべ唄からことばをもってきたのだそうです。(*1)

この蝶がモンシロチョウだとするならば、たしかにとまるのは菜の「葉」であって「花」ではないのです。それは「菜の葉」がモンシロチョウの幼虫にとって大事な食糧であるからで、だから成虫の飛ぶモンシロチョウは産卵のため菜の「葉」にとまるのです。(*2)

ふうん、そうなんだ、と感心してしまいました。
それに目をやっていて詞にした人たちもすごいなあ、と思ったのでした。

そもそも、なんでこんなことが気になりだしたのか、というと、私の鼻に蝶がとまったのを思い出したからではありません。
夏も近づき怪談話を漁ろうかしら、と、欲を出して、四谷怪談で有名な鶴屋南北の全集をめくりはじめましたら、『四天王楓江戸粧』(*3)という歌舞伎脚本の中から突然、

 てうてうとまれや菜の葉にとまれ(てうてう=蝶々)

という詞が飛び出してきたのを目にして、ビックリ仰天したのが始まりです。
もしかしたら、蝶々に「菜の葉にとまれ」と呼びかけるのは、江戸時代のうちにかなりあたりまえになっていたのかも知れない、と考えました。

それで「菜の葉にとまれ」の唱歌「蝶々」の詞の由来が気になって調べましたら、先の野村秋足のことを調べた先生が、わらべ唄からきたのだ、と仰っているのを見つけたというわけです。

もっと目で確かめてみなければなりません。

文字になっている資料で「菜の葉にとまれ」にはどういうものがあって、年代はどれくらいさかのぼれるのでしょう?
とりいそぎネットを検索しまくったり立ち読みをしまくったりして、わらべ唄には見つかりませんでしたが、次のようなのが出てきました。

・清元「玉屋」1832年(天保三年)~二世瀬川如皐作詞 初世清元斎兵衛作曲
  蝶々とまれや
  菜の葉にとまれ
  菜の葉いやなら
  葭の先へとまれ
  それとまつた葭がいやなら
  木にとまれ

 http://www51.atwiki.jp/junhogaku/pages/154.html

・地歌「菜の葉」~歌木検校 ( 1720? - 1790? )
   言葉さげたら思うこと
   菜の葉にとまれ 蝶の朝

 http://kousenn.com/okeiko/okeiko-2.html#nanoha

・『山家鳥虫歌』(1772)大和 (岩波文庫 39頁)
  蝶よ胡蝶よ菜の葉にとまれ
  とまりゃ名がたつ浮名たつ

さらっと探したわりにはぽんぽんと出てきました。

・・・が。

18世紀半ばより前のものとなると、目を皿にして探しても、これっぽっちも出て来ません。

はた、と行き詰まってしまいました。

これはどういうことなのか。

蝶が菜の花畑で目につく光景が、18世紀半ばより前の日本にはなかったのでしょうか?
そうではなかったのなら、18世紀半ばになるまで、菜畑を飛ぶ蝶の光景がなぜ日本の人の目には入らなかったのでしょうか?

たったこれだけ見ての感覚では、「菜の葉にとまれ」の詞は、清元だの地歌だのにとりこまれているところから、わりと流布していたような気がするのでした。
花ではなく葉にとまる、と観察できていたからには、詞にした人たちは当然、菜畑で蝶が飛ぶ光景をあたりまえに目にしていたことでしょう。
でもそれが畑をはなれずにいる暮らしの人たちだけだったとしたら、清元だの地歌だのになんか、なりっこないのです。これらは「都会」の芸能だからです。
そのへんに、この詞が馴染まれるようになった年代や社会の、なんらかの特徴や背景があるのではないでしょうか?

こんな具合に興味が湧いてきましたので、いろいろ調べてみることにしました。

たいそう時間がかかるでしょうから、まず自分の趣旨を忘れないためにこの1回目を綴っておきまして、これからゆるゆると先へ進んでまいります。



*1:上田信道『岡崎発の「蝶々」∼学校唱歌の源流をめぐって∼』 http://www.okazakicci.or.jp/konwakai/19okazakigaku/19-1.pdf

*2:稲垣 栄洋、三上 修『蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか』(角川ソフィア文庫)ほか

*3:『鶴屋南北全集』第一巻 成立:文化元年【1804】 「てうてうとまれや菜の葉にとまれ」のある箇所は南北ではなく烏亭焉馬の作。「足柄山の場」背景の長唄

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