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2013年8月24日 (土)

山口(日記から)

20日に仙台から戻り、体重計に乗って愕然とした。2ヶ月かけて減らした体重が元の木阿弥になっていた。
娘も
「おなかがすかないから晩ごはんはいらない」
と言う。しかし息子は腹ペコである。飲み物を買い出しに行き、ピザをとった。

昨21日朝、まだ寝ぼけているガキどもに一応声をかけて出発、上野で息子の高校PTAのお母さん二人と待ち合わせ、東京駅で校長先生と落ち合って、新幹線で山口に向かう。ぼんやり移動するだけだと5時間の移動も一瞬である。ただ、神戸を過ぎると、露出した岩肌の三角山続きになるのが面白い。新幹線で広島より西に向かうのは初めてで、ふと仰いだ空が見たこともないほど透き通っているのには、ため息が出た。
宿は宇部寄りの外れたところで、向かう電車は1時間に一本しかない。それで、どうせだから日の高いうちにどこかへ寄ろうということになり、タクシーを頼んで瑠璃光寺に案内してもらった。鎌倉時代から栄えて戦国時代に滅んだ大内氏の建てた五重塔がある。運転手さんが親切で、塔の手前の「うぐいす張りの石畳」というのに寄ってくれた。幕末の藩主、毛利敬親の墓所だが、手前の石畳で手を叩くと音が気持ちよく反響する。石畳を少しでもはずれると響かない。ぐるぐるうろついて秘密を探ったが分からなかった。
「わざわざこんなふうに作ったんでしょうか?」
と運転手さんに質問したら、
「いや、参拝した人が偶然に気付いたらしいです」
とのことだった。
それから向かった五重塔には、圧倒された。山の緑に囲まれて、遠目にはふうわりと柔らかく、近寄るとゴツゴツ固く見える、不思議な塔だった。

Yamaguchirurikouji

ここを北上すると津和野に行ける。秋芳洞や萩はもっと近い。しかし行くゆとりはなかった。名物のSLも、先頃の豪雨で鉄橋がいくつも落ちたとのことで、運行していなかった。
タクシーの運転手さんが教えてくれて面白かったのは、県道のガードレールのことだった。普通のガードレールは白い。が、山口の県道だけは、ガードレールが黄色いのである。言われて眺めれば皆みごとに黄色い。県花がナツミカンで、その花の色にしたのだそうだ。さらに面白かったのは、このあと宿に向かうために乗った二両編成の電車も、ナツミカン色だったことだ。

今日22日は高校PTAの全国行事で、宿が外れなので早朝出発だった。缶詰めでどこにも行けないかな、と諦めていたが、夕方少し早めに解放していただいて、念願の中原中也記念館に行くことが出来た。

Yamaguchichuuya

中也の詩は、中学生の頃大好きで、真似をしてみたことがあった。でもそのうち、詩なんぞ書くのは心が病んでいる輩のすることだ、と、ふつふつと思うようになって、やがてやめた。詩を書く中也のイメージも、病んだものへと歪んでしまったままになっていた。その歪みが、中也の写真の澄んだ目にそぐわなくて、中也を思い浮かべる度にひっかかり続けてきた。あの目は長く僕の憧れのままだった。
初めて直に見る中也の筆跡は、健康だった。字の美しさは、健康すぎるほどだった。この人に、やっと素直に対峙出来た気がした。
受付で中也の詩をフランス語訳した本を手にとったら、読めもしないのに離せなくなった。中也が生きていたら手放しで喜んだろうな、と思って、いや、あの人のことだから、顔では喜びなんか出さないのかな、と考え直したりして、そんなこんなするうちに受付のお嬢さんと
「これ、よそで買えますかね」
「いえ、ここだけだと思います」
などと会話して、とうとう財布の紐を緩ませてしまった。

Yamaguchichuuyabooks

中也記念館を出て、最寄りの湯田温泉駅まで三人連れで歩いた。途中に招き猫のような像がいくつもある。気付いてみると、猫もどきの持ち物が店によって違う。酒屋では酒、文具店ではクレヨン、自転車屋では車輪、という具合。自転車屋さんのおばちゃんが
「猫じゃないんですよ」
と教えてくれた。ここの温泉を見つけた白狐さんたちなのだそうだ。

Yamaguchishirogitsune


湯田温泉駅の脇には、足湯があった。おばちゃんと若い妊婦さんが足をひたしていた。それを見て靴を脱いで足を入れたら、
「熱い!」
45℃あるのだった。
妊婦さんは中国人のお嬢さんだった。根掘り葉掘り聞かなかったが、頑張っているらしい。出産予定は来月で、
「今とっても不安です」
と言い、お母さんたちに
「大丈夫だから!」
と励まされていて、それまで少し緊張していた顔がほころんだ。
列車が来るまで30分、みんなでゆったり足湯した。足の疲れが、こんなにすうっととれるものか、と、ちょっと驚いた。

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仙台後半(日記から)

18日、朝食後すぐタクシーを呼んで出発、娘と息子と3人で平泉へ向かう。行ってしまえばささやかなものでしかないのだけれど、金色堂を見せておきたかった。連れ歩ける機会もあとどれだけあるか分からない。連れて行けるうちである。
新幹線で40分ほどで岩手県の一関に着く。そこから在来線で2駅。その在来線の発車番線を間違い、慌ててとって返したら発車のベルがなり、もう間に合わないとあきらめたら、車掌さんが身を乗り出して
「どちらまで?」
と声をかけてきた。
「これを逃したら1時間待ちですから」
とドアを閉めるのを遅らせてくれた。
それで順調に平泉駅まで到着。
案内所で巡回バスの一日乗車券を買おうとしたら、バスで売ってますから、と、にべもない。短気なのでムッとしてバスに向かう。
中尊寺で降り、水分補給用飲料を3人分仕入れ、月見坂という急坂を上る。普段が冷房の中での内勤に肥満で運動不足なためバテてしまう。子供らはすいすい上った。
平らになると弁慶堂というのがあり、義経と弁慶の木像がある。子供たちに覗かせた。それから中尊寺の本堂にお参りして奥に向かう。
金色堂は昭和の大修理で金箔をきれいにはりなおしたあと、コンクリート造の覆堂におさまった。5メートル四方だそうだから、そう大きくはない。暗い覆堂の中で空調に守られガラス越しに見ることしか出来ないので、やはり子供たちへのインパクトはいまひとつだった。が、見たことが記憶の片隅に残ってくれればいいので、それはそれで良しとする。
境内の建物を一通り眺め、お宝の展示を眺め、実家で握ってくれた握り飯をほおばり、中尊寺脇の店で冷やし甘酒なるものを飲んでから下山。そこで父ちゃんは半ば脱水症状になり、頭が痛くなりだした。
父ちゃんの頭痛にもかかわらず、そのあと義経最後の地と言い伝えられる高館にのぼり、またバスに乗って毛越寺に向かう。こちらの浄土庭園は子供らをやや圧倒したようだ。
西日を受けながら駅まで歩いた。
ホームに入ったら、ガリア風の美人さんが向かい側にいた。学校の美術室にある石膏のヴィーナスのような顔立ちだった。大型リュックに靴をぶらさげている。サンダル履きである。勇ましいものだと思った。

Hiraizumi

今日19日は予備日である。
朝にテレビで甲子園の準々決勝第一試合を見たあとは夕方までだらだら寝て、日が暮れかかってから買い出しに向かった。
じいさんは外を自由に歩けないし、ばあさんは重い荷物を運べなくなっているので、近場の生協でトイレットペーパー半年分くらいを買い占めてくるのである。
ついでに少し遠出をして、僕と娘はお世話になっているかたへのおみやげを発送依頼し、それからばあさんを交えて4人でサーティワンのアイスを食った。

明日は昼過ぎにはまた暑い関東にもどり、子供らはてんでに自分の都合で暮らし、僕は明後日からPTAの用事で山口行きである。

普通のペースでの生活にもどらないと、体重も血圧も管理下におけないので、ちょっと困るのだけれど、どうしようもない。

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仙台前半(日記から)

5日朝に自宅を出、昼に大宮から新幹線に乗って仙台へ。はやぶさだと1時間10分で着いてしまう。就職したてのころの東北新幹線は大宮止まり、大宮~仙台間は2時間20分くらいではなかったかな? 在来特急でも4時間、夜行の急行で6時間だったが、ずいぶん速く感じた。今は、旅気分のかけらもない。それでも最初のトンネルにさしかかると、ああここをくぐると白河だな、東北だ、と、少しほっとするのである。

仙台に着くと牛タン飯屋を探すのが、ここ数年の習慣になった。子供らに味を覚えさせておきたいからだ。あたりはずれがあって、今回はハズレのほうだった。焼きすぎでかたかった。
牛タンを食ってから商店街をぶらぶらし、夕方実家に入った。晩飯のあと疲れてすぐ眠った。以降、行動していないときは気力もわかず、たった1冊持ってきた文庫本も読み進まず、なんだかいたずらに体重だけ急増している気がする。

16日はお寺に塔婆を頂きに行き、それから郊外の墓園までお参りに行った。べったり暮らしていたころに比べて、新しい道があまりにたくさん出来ていて、運転していてどこを走っているのか分からないので困った。夜に姪二人が来て泊まって、夜中は暗がりでガキどもの笑い声がずっとやまなかった。姉のほうはラーメン屋のバイトでお店でも重宝がられて張り切っているようだ。妹のほうは中学生になって剣道部に入った。僕がその年頃に使った竹刀を持って行っているらしい。

今日17日は姪たちの親どもも朝やってきて、うちの3人と総勢7人で松島へ。子供たちを乗せたくて遊覧船の切符を買い、いざ乗船したら、2階に行きたければさらに600円払えというので仰天。ここいらの船は昔からあまりに割高な気がするのだが。

Matsushima

湾を一周するなかに、牡蠣棚がぽつりぽつりあって、50%回復したとアナウンスしていたので安堵した。両隣の町は津波でひどいことになったのに、この辺は島がたくさんあるのが幸いして、波高が2メートルにしかならなかったのだそうで、伊達政宗が海岸沿いに建てたお堂も無事だった。
姪たちの住んでいるところは仙台市内だが、津波の直後に津波が被ったと地図に出て、3日間連絡もとれなかったので、もしかしたらとあきらめたのだった。その話をしたら、姉のほうのお友達はひとり、のまれたのだそうである。母親と買い物に行っていて、忘れ物をした、とひとりでうちに帰ったところで地震にあい、そのまま津波にもあってしまったらしい。

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