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2013年6月26日 (水)

乗り物【こどものころ(9)】

【乗り物】

庶民の足は路線バスでした。薄青緑の市営バスは顔の長い犬のようなボンネットの車両で、女の車掌さんが切符にハサミを入れていました。それがいつのまにか四角いバスに変わり、間もなく車掌さんもいなくなりました。いつごろだったのかをはっきりは覚えていません。
ほかに赤白の宮城バス、ピンクの山形交通バスがありましたが、山形交通バスはウチのあたりでは走っておらず、宮城バスは本数がとても少ないのでした。
どうしても赤白のバスに乗りたくて、一度せがんで乗せてもらったのでしたが、停留所を2つ3つ行った先でおしっこが我慢出来なくなって降ろしてもらったきり、あとは乗るチャンスがもうありませんでした。

タクシーは初乗り50円じゃなかったかな? 小学生低学年の頃、いちどだけひとりで乗せられたとき、50円玉を握っていたように思うのです。
旧市街は道の真中を市電が走っていて、親戚のいる八幡神社(大崎八幡宮)のほうや、正反対の方向の長町に行く時にも便利でした。なにせ真中を走っているので、自家用車が増えると渋滞の元だと目のカタキにされて、廃止になりました。昭和51年、1976年のことだったようです。

父が自家用車を買ったのは、僕が小3か小4の時でした。
電線をはる仕事をしていたので、長靴ばきで作業着を着て、黄色いバイクでも黄色いトラックでも運転していて、よく乗って帰って来ては僕をのっけてくれたりしていましたが、車庫がないので、また夜勤のために現場まで乗って行ってしまうのでした。そういう場所ですから、買ったのは小振りなクルマでした。スズキフロンテの初代です。これでも、近所では五本の指に入るくらい早くに自家用車を持ったのでした。サダノリちゃんにうらやましがられたっけな。
この小さい4人乗りの車で、僕が小4の年に、父は母と僕と6つ下の妹とを乗せて、暮れ正月をまたぐ7日間で、国道六号線をトコトコと、福島県の平(いわき市)〜東京(赤坂プリンス泊)〜鎌倉に立ち寄って静岡県三島市の大叔母の家へ、と連れて行ってくれたのでした。僕の東京初体験でした。
東京の年末年始はえらく閑散としていて、道路はまだ盛んに地下鉄工事をやっていて風景もさほどきれいではなくて、ただ貿易センタービルが出来たばかりで、印象に残ったことと言えば、ホテルの人が
「あれが霞ヶ関ビルを超えていま日本でいちばん高いビルなんですよ」
と教えてくれたことくらいでした。
その他にも、この車ではずいぶんと蔵王の麓の遠刈田温泉へ泊まりがけで出掛けました。

鉄道はどうだったか。
ウチからは東北本線の東仙台駅までは、そんなに遠くありませんでした。それで、赤ん坊の頃から、祖父が僕を乳母車だとか手をつないでとかして、線路の方まで連れて行ってくれて、汽車をよく見ました。あの真っ黒で大きな車輪が大好きでした。汽車に乗ることは、でもそんなにたくさんはありませんでしたから、煙の方の記憶はさほどありません。列車に乗るのは遠出をする感触を伴っていました。高校生くらいになると友達同士で仙山線で山形の方まで数度出掛けたのでしたが、そのころにはもうとっくに汽車ではなくディーゼル車になっていました。客車と客車のつなぎ目は、こういうローカル線では完全には塞がっていなくて、列車が動いていても、車両のつなぎ目のところに二人くらいで腰かけて足をぶらぶらさせていました。それで誰に叱られることもありませんでした。

飛行機には、縁がありませんでした。
飛行機に乗るような用事がありませんでした。
ものごころついたばかりのころ、仙台空港の訓練飛行場に連れて行ってもらい、実際に飛行機を操縦している人が、まだ訳の分かっていない僕をだっこして、小さい操縦席にひょい、と入れてくれようとしました。とたんに僕はなんだか怖くなって、ずいぶんと大声で泣いてわめいて暴れたのでした。以後、仕事の必要が出るまで、飛行機に乗ろうと思ったことは全くありませんでした。
船も、松島の遊覧船に乗ったことがあったくらいでした。一度だけ、母が「なかよし学園」という職場で保母として世話していた(当時で言う知恵遅れの)子たちのリクレーションで、釣り船に乗ったことがあります。ハコフグがいっぱい釣れるのに夢中だったので、その時の海の様子も、船に乗った感触も、いまひとつはっきりしません。
知恵遅れ、と言われた人たちのことは、また別の機会におしゃべりします。

子供に身近な乗り物は、なんと言っても自転車です。
ところがこれが僕はさっぱり乗れませんでした。
補助輪をつけていた間は猛スピードで突っ走っていたのですが、
「そろそろもういいな」
とおふくろに外されてからは、乗ろうとしても転ぶばっかりで面白くも何ともないので、ちっとも練習せず、自転車は物置行きになりました。
「うえの公園」と「したの公園」をまたぐ橋の向こうに、マスザワ君という友達がいました。
長方形の顔に角刈りの、子供フランケンみたいで、いつも鼻水を垂らしていたマスザワ君は、自転車が大好きで、小学校から帰ると自転車に乗って
「ぶーん、ぶるるん」
と声に出して唸りながら自転車をバイクのようにすっ飛ばしていました。
それを見ているうちに、なにくそ、とでも感じたんでしょうかしら、僕は物置に眠っていた自転車を引っぱり出して、「したの公園」で急に練習を始めたのでした。始めたらなんてことはあない、その日のうちに乗れるようになってしまいました。
それで、得意になって、でも、ぶーんぶるるんなんて口で言うのはかっこわるいから、かわりに
「ヒューン!」
かなんか叫びながら乗っていたら、前に車が止まっていました。
ブレーキはまだマスターしていませんでした。
そのまま車に激突。
持ち主のおじさんがかんかんになって怒って
「おまえのうちはどこだ!」
とついて来るので、仕方なくウチまで一緒に行きましたら、
「なんだ、あなたの息子か・・・じゃあ怒れないなぁ」
と、おふくろの顔を見て、おじさんはすごすご帰って行ったのでした。
おじさんは、おふくろの中学時代の同級生でした。
おじさんにはこれで勘弁してもらえましたが、僕はこのあと正座させられ、1時間説教されたのでした。

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2013年6月23日 (日)

お祭など【こどものころ(8)】

【お祭など】

町内のお祭は、夏に2回あったのではなかったかな。忘れてしまいました。
盆踊りはたしか、「うえの公園」と「したの公園」で別々にやるのです。それはひとつに数えるとして、です。
盆踊りの他に、「うえの公園」では、集会所前に一段高い木の舞台を組んで、近所のおばちゃんが演歌をバックに日本舞踊を踊ったりする、大人の発表会みたいなお祭が、夏に入ったばかりの頃にもうひとつあった気がします。おばちゃんたちが入れ替わり立ち替わり踊っている舞台の下を、悪ガキたちが、屋台で買った串刺しのお菓子片手にちょろちょろ走り回っていました。
とにかくお祭というと、狭いところですからそんなにたくさんの数ではなかったのでしょうが、屋台が出て、そこで何か買えるのが嬉しかった。何か買える、というそのことが嬉しいので、何を買ったかなんて、ちっとも覚えてやしません。例のヒヨコもこうしたお祭の時に買ったものだ、とだけしか記憶にありません。
ただ、お祭のときの、周りがだんだん薄暗くなって行くほどに舞台や櫓が鮮やかな白熱灯色でくっきり浮かび上がって来る、あの空気だけが、いつも目の奥によみがえって来ます。

「うえの公園」では、お祭の他にときどき映画の上映会がありました。集会所前に大きなスクリーンが設けられて、そこに映写をするのです。大抵は、「交通事故は怖いんだよ」式の映画で、なまなましいシーンもあったり、で、うわぁ、って感じでしたが、最後にひとつは小さなマンガの映画でした。アニメーションになっておらずに紙芝居風仕立てのものだったりしたのかもしれませんが、ウチのあたりには紙芝居屋さんは来なかったので、とても楽しい見ものでした。
でもやっぱり、子供にとっての映画の花形は怪獣映画で、これはこういう上映会ではやりませんので、バスで町まで行って見るのです。そろばん教室の先生が、年に1回、8つくらい先の停留所のところにあった小さめの映画館に連れて行ってくれました。そこで見たゴジラが海老の怪獣を背負い投げしたのや、ガメラがなんでだか鉄棒で大車輪をやったのが、そこだけくっきり思い出されます。東日乃出といったその映画館の名前は、今はマンションの名前に残っているはずです。

映画はともかく、お祭の最大のものはやっぱり、旧市街の商店街が総出でやる仙台七夕で、これにはおめかししてバスに乗って出掛けるのです。
以前は吹き流しがほとんど和紙で、その裾が子供の頭のてっぺんにまでかかるほど長かったように思うのですが、子供の誇大な記憶なのかなぁ。
ただ、七夕飾りには動きがないから、というので、いつのまにか七夕の正式な開催の前日の8月5日に「動く七夕」なるものが始まって、自衛隊のパレードだの、青森のねぶた、弘前のねぷただのが練り歩くようになりました。そっちは人が大勢出るので、どうせ人の頭しか見られませんから、ほとんど見に行ったことがありません。
七夕を飾るお店でも、ところどころで仕掛けものをやっていて、これは「動く七夕」導入以前からありました。店の入り縁の真上にこぢんまりした舞台をしつらえて棒操り人形を面白おかしく動かすものがほとんどでしたが、頭の上から大きな顔型の張り子を突然落として若い女性を驚かす、みたいなものもありました。
「動く七夕」の日には、夜になると、東北大や仙台博物館、スポーツセンターの手前の広瀬側の川岸で、2、3時間ほど花火を連発であげるのです。これも「動く七夕」と同じ頃に始められたことではなかったかと思います。高校生くらいになってからは仲間と連れ立って見に行き、花火が終わったあとにぞろぞろピザ屋さんに行って夜中まで騒いだりするなんていうこともしましたし、それなりに甘酸っぱい思い出もありますけれど、省きます。ともあれ、この日はガキ共だけで夜中まで遊んでいても補導なんかされませんでしたね。今はだめなんでしょうね。
この花火は、自分にも子供が出来てから、おふくろと家内といっしょに子供を連れて一度だけ見に行きました。幼稚園児だった娘が、近くで見る花火の音の大きさにびっくりして泣いたので、一度きりになってしまいました。まあ、ずっとあとの話です。

いちばん忘れられないのは、これは僕が数度しか見たことのない、松島の水上花火で、祖母につれられて、電車に乗って見に行ったのでした。海の上で半円形の花火が彩り豊かに光ったのが、いくつかいまでも目に焼き付いています。出掛けるのが大変だったのでしょう、二度か三度行ったきりです。いまでもやっている、と、どこかで知らされたことがありましたが、震災の後また復活してくれていればいいなと思います。

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2013年6月22日 (土)

集会所【こどものころ(7)】

【集会所】

「うえの公園」の端っこにある集会場は木造平屋の、二十畳くらいの板の間敷きで、玄関が少し立派で、天井の高い建物でした。安普請だったのかも知れませんが、しっかりした印象があります。建築事務所ではなく大工さんが木造の建物を一手に作っていた時代です。大工さんは設計図では無しに、板に点を打って、なにやら渋い顔で考えていて、それをガキ共が固唾をのんで見守っていると、そのうち
「ふん」
と鼻息で周りを蹴散らすようにしてから、点と点を曲尺(カネジャク)で結んで、どうだい、というふうにガキ共をにらみつけるのでした。それで、大工さんはガキ共のあこがれの的でした。

昭和四十年代までだったかな、家が上棟すると「たてまえ」と称して、施主と大工さんたちが紅白の餅や小銭を屋根の上から撒く習慣がありました。その日は大人も子供も「たてまえ」の家に大勢集まって、餅を拾うのです。それが楽しみで、今度はどこに家がたつのか、情報交換のひそひそ話が絶えませんでした。餅は紙などには包まず、そのまま撒くのでした。拾った餅を持ち帰って、焼いたり焼かなかったりして醤油をつけて食うのが美味かった。いつからか、餅が紙に包まれ、包装はそのうちビニール袋に変わって、まもなく「たてまえ」はやらなくなったように思います。餅を撒く習慣は一部の地域でそこの民俗行事扱いで今でも残っていますが、もとは日本全国どこでもやっていたのではないかな。調べてみないと分かりません。

で、集会所に話が戻ります。
ここは基本は大人の場所でした。町内会なんかをやっていました。子供が入れるのはどんなときだったか、記憶がはっきりしませんが、今で言う講演会みたいなことをやるときだったのでしょうか。このあたりの地名は「燕沢」と言って、燕がたくさん来るからだ、とみんなは言っていましたが、集会所で・・・誰が話したのか、顔も声も思い出せないのですけれど・・・聞かされたのは
「もとは<血跳ね沢>だったのです。このあたりまで落ちのびて来たモウコの兵隊が、向こうの善応寺の前で首を刎ねられたからです」
などという恐ろしい伝説なのでありました。少し難しい本も読めるようになってから調べたら、仙台の地名の考証の中にこの話も載っていましたが、
「善応寺境内の蒙古の碑に由来する話で、碑は普通の人には読めない字で書いてあったから出来た伝説だったのだろう。碑を調査したところが、今日の一字一字を書いた石を埋めた石を下に埋めた一種の経典供養塔であって、蒙古の残党がここまで来たということはない」
みたいな説明でした。改めて見直したわけではないので、正確ではないですけれど。

集会所ではそろばん教室をやっていて、教室の生徒になれば子供は毎週木曜日に集会所に入ることが出来ました。
僕は小学校2年生になっても
「いちたすいちは、えっと」
と指を折らないと分からなかったので、見かねたおふくろが
「級なんかとれなくてもいいです、数が人並みに数えられるようになれば」
と頼み込んで、かよわせ始めたのです。
入ると、近所の悪ガキばっかりですので、年下の僕はこそこそ呼びつけられて
「おい、アイス買って来い」
と小銭をわんさか渡されるのでした。
「へい、がってん」
とかなんとか返事をして、僕はおばちゃん先生の目を盗んで外に出るのでした。
でも、たぶん、先生は分かってたんでしょうね。時々困った顔をなさっていた記憶が、ちょっとだけあります。お説教されても穏やかなものでした。
先生が寛容だったからでしょう、悪ガキはみんな勝手に表に出て、公園でボール遊びだのかくれんぼをするのでした。
柔らかいボールを使った三角ベースの野球もどきの遊びは「ろくもんす」と言って、打ったら三角ベースを六周しないと点が入らないのでした。
「エス合戦」というのは、地面に大きなS字を描いて、Sの中にいる連中を、外の鬼がSの切れている隙間から侵入して捕まえる鬼ごっこで、鬼は何故かS字の外を片足けんけんで回らなければならず、もう片方の足を地面についてしまったら最初からやりなおしで、スタート地点に戻るのでした。
「缶蹴り」というのは、鬼が縦長の空き缶を蹴られないように守りながら、隠れている連中を探すもので、かくれんぼと鬼ごっこが混じった遊びでした。隠れた連中をせっかく見つけても、探すために離れているうち缶が蹴られてしまえば、またいちからやりなおし、で、鬼は走るのが遅いと惨めな思いをしました。
日の短い季節は、遊んでいる僕らの頭上を、コウモリがばたばた飛び回って虫をとっていたのでした。

そろばん教室以外で子供が集会所に入れるのは、子供会の上級生になったときで、五年生六年生は、夏のお祭のときに路地に飾るあんどんに絵の具で好きな絵が描けるのでしたが、その絵は集会所で描かせてもらえるのでした。上級生たちが集まって黙々と絵を描くのを眺めていると、どこか厳粛で、大人へのあこがれのようなものを感じさせられました。
やっと五年生になって、どういうつもりだったんだか、僕は鎧武者の絵を描きました。それが公園の入口近くの電柱にかかった時には、灯が入って武者絵が映えて見えるのがむしょうに嬉しくて、お祭の中に行かずに、あんどんばっかり眺めていました。
小六になるとこの町から少し離れた新興住宅街に引っ越さなければならなかったために、僕があんどんの絵を描けたのは、このとき限りでした。

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2013年6月13日 (木)

生き物たち【こどものころ(6)】

秘密基地を作ったあたりの麓は、たしか東北大学の農業試験場でした。あとで思うとたいした面積ではなかったのでしょうが、小さな子供の目にはいちめんの原っぱでした。牛や羊がいた記憶がかすかにあります。でもいつのまにかいなくなって、草ぼうぼうになりました。
探検するどぶ川の上流が、原っぱと山の境目を流れていて、このあたりではまだ水がきれいでしたから、岸辺でつんだ土筆を味噌汁に入れてもらったりすることが出来ました。泥鰌もいました。でも、牛や羊が姿を消すのと同じくらいのころに、もう土筆も無くなり、泥鰌もいなくなりました。鮒は、まだ少し先の頃まで住んでいました。食べたことはありません。

山が実はたくさんの雉のすみかだった、とは、だいぶあとになって知ったのでした。なぜずっと気づかなかったのか。雉の羽根の色は、枯れ薮にうまく紛れるので、よっぽど気を付けて見ないと分からないからだったのでしょう。それに、雉が鳴くのを聞いたこともありませんでした。

山には他に兎なんかもいたそうです。山の西の方に三高を作ったとき、その校庭は自衛隊が爆破演習をしながら山を削ったものだったのだそうですが(本当かどうかは確かめていません)、それで、北側が垂直に切り立った崖になっていました。あるとき、崖下で弓道部が練習しているところへ、兎が落ちて来て死んだのだそうです。部員たちはそれで兎鍋をして食っちゃったんだということです。
兎は、僕らが遊んだ頃にはもうこの山から逃げてしまったのかも知れません。それというのも、山のてっぺんは、新しい住宅地(地元の呼び方では団地)を造成するために、ブルドーザが木を根こそぎ掘り返していたからです。兎でなくても、人間以外の住むところは無くなって行く一方でした。

飼い犬は、まだあんまり家に繋がれてはいませんでした。繋がれていたのは高級なスピッツくらいで、スピッツのいる家の前を通ると、やたらとヒステリックにきゃんきゃん吠えるのです。吠えられると頭に来るので、いつも
「うるせぇんだよこんにゃろ」
と蹴っ飛ばす真似をして通り過ぎました。本当に蹴っ飛ばすと飼い主が怖いので、真似だけでした。
歳をとったコロは、いつも町内を一匹で勝手にぶらぶら歩いていました。中くらいの大きさの焦げ茶色の雑種で、おとなしいので、コロを見つけると、どんな乱暴な子でも優しく撫でてやるのでした。かなり歳をとってからは、お腹に大きな腫れ物が出来てしまいましたが、苦にするふうでもなく、少なくとも僕がこの町から引っ越すまでは、コロは変わらずおとなしく道をぶらぶら歩いていました。

猫も、野良はいなかった気がします。
会う連中は誰でも首輪はしていました。
小学校に上がるか上がらないかの頃、その中の、お腹の白い一匹と、にらめっこをしました。
しゃがんでしばらくにらみ合っていたら、敵は卑怯にも突然前足を振り上げて僕の顔を思い切り引っ掻きやがりました。
それで僕は大きくなるまで猫が嫌いでした。
猫が嫌いになった理由は他にもありました。
お祭で買って来たヒヨコや、その後インコを育てましたが、何羽もが猫にやられました。中でも、お喋りを教えると何でも覚えてくれた緑頭で黄色いおなかのセキセイインコ、ピーコがやられた時には、とっても悔しい思いをしたのでした。
僕がまた猫をかわいいと思うようになるのは、勤めたばかりのころ職場の先輩が拾って来た子猫の面倒を見る羽目に陥ってからです。

ヒヨコは集会所のある「うえの公園」でお祭があるたびに売りに来るので、あるとき10羽ほど買って、毎朝ハコベを積んで食べさせて、体をあっためる白熱電球も入れてやって大事に育てました。でも猫にやられたのが3羽、衰弱して死んでしまったのが2羽いて、半年たって無事大きくなったのは5羽でした。大きくなってトサカがはえて来るとかわいくなくなって行くし、すっかり大人の鶏になってみると、みんなオスでした。
「卵産めネんじゃ、臭いばっかりだし、どうしょもねぇべ」
ということで、肉屋に500円で売られました。
それをぼろぼろ泣きながら見送りましたが、その日の晩ご飯に出たのはたしか鶏モモで、しかもにこにこ美味しく食べたんじゃなかったかな。売った代金は、そのころ欲しくてたまらなかった人体図鑑の代金となって消えました。

どこからかのこのこやってきた石亀も飼いましたが、亀は冬眠するものだと思って、冬が来たとき、入れていた水槽にたっぷり砂を入れてやって、春になって掘り起こしてみたら、亀はミイラになってしまっていました。

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2013年6月12日 (水)

遊び【こどものころ(5)】

【遊び】

子供の、集まっての遊びは、まず「パッタ」でした。
丸い面子を、なぜだかみんな「パッタ」と呼んでいました。牛乳瓶の蓋くらいの小さなものから、顔が隠れるくらいの大きなものまであって、ごく普通には津軽のねぶた絵と似た武者絵が描いてありましたけれど、自慢になるのは当時の人気者(キャラ、なんて言い方はありませんでした)が描かれたものでした。赤胴鈴之助や月光仮面がよくありましたけれど、僕らはそれはテレビで直接見ることはありませんでした。怪傑ハリマオあたりから、ようやく分かるのです。国産アニメーションのマンガはまだ限られていて、「狼少年ケン」、「風のフジ丸」、「パピイ」、「少年ジェッター」、「流星仮面」、「宇宙少年ソラン」、少しあとになって、「ビッグX」、「ジャングル大帝」のレオ、アニメーションではありませんが「マグマ大使」、「仮面の忍者赤影」という具合。おそまつくんやオバケのQ太郎や怪物くんでは、あまり注目されなかったのではなかったかな。実写ものはあまりパッタになっていなかった気がします。
面子とまったく同じルールですから、自分のパッタを他のパッタに打ち付けて、ひっくり返したら勝ちです。いちどに何枚ひっくり返しても、ひっくり返しただけ、自分のものになります。人気者の描いてある大判のものを手に入れたくて、小さいのでばしばしやるところが、ご愛嬌でした。強いのは大判の方ですから。

でも、パッタなんかより面白いのは、探検です。
「うえの公園」と「したの公園」の脇を流れるどぶ川を、長靴ばきでザブザブと、何人もの列になって歩いて行く。歩いているだけで、頭の上から大蛇でも落ちて来るんじゃないか、という気分。けれども、大蛇がいそうな枝なんて、頭上にはまったく垂れていないのでした。
水が相当汚かったので、この川渡りは親にバレるとこっぴどく叱られる、というスリルもありました。

「ウルトラQ」だのの実写ものの影響があって、もっと人気があったのは、北の、そう高くはない(2、30メートルだったでしょうか)裏山の急斜面をはいのぼって、そのあたりの薮の枝と枝を編んで秘密基地を作ることでした。思い思いに基地を作って戦争をするのです。戦争と言っても、枝を投げ合ったりするだけの情けないものでしたが、いちばん気合いが入って、負けたヤツは本気で大泣きしました。
この裏山はきのこがよくとれるのですが、きのこは子供には分かりません。キクチさんのおじさんがきのこ狩りの名人で、よくとっては近所にお裾分けしてくれました。僕らが小学校に上がるころには山が造成かなにかで切り崩され始めましたので、きのこはとれなくなりました。基地も作りにくくなりました。そのかわり、削られて出来た崖の上に「怪しいヤツがいたのを見たんだ」とかいって、また崖の下まで群れて行っては、怪しいヤツなんか見えもしないのに
「あ、いたいた!」
「どれどれ?」
「おお、ホントだ、至急本部に連絡しろ!」
なんてやっていたのでした。本部がどこにあったのだか知りませんが。

女の子の遊びはどんなだったか、は、覚えていません。女の子はパッタだの川渡りだの基地ごっこには混じりませんでしたし。エッちゃんだけはときどきいたような気がするけれど。

遊びの元になったのはテレビ番組でしたが、番組をどれでも見られる子は、そんなにいなかったかも知れません。どこのウチでも、子供の時間は何時まで、と家ごとに決まりがあって、それが夜8時ならほとんどの番組を見られるのですが、7時ならもうだめです。さらには、子供の時間がもらえるのも曜日によって、で、平日は7時のニュースから完全に大人の時間だったし、相撲の期間中は大人の時間は5時過ぎに前倒しでした。ときには理由もなくテレビを消されることもあって、いつもは許されていた日曜夜7時半のポパイを見ている時に、父親に突然テレビを消されたことがありました。親父はあの日、虫の居所でも悪かったのでしょうか。

あ、S酒屋の前の下り坂を、三輪車で足を離してだだっと猛スピードで下るのも、ちょっと流行りました。車が少ないから出来たのです。
これ、僕はある日とうとうバランスを崩して転倒して、顔中すりむきました。
「大丈夫?」
と声をかけられながら、
「大丈夫」
とこたえて、泣きもせずにウチに帰って、母親用の三面鏡で自分の顔を見て、初めて大声で泣いたのでした。

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2013年6月11日 (火)

こどもたち 【こどものころ(4)】

【こどもたち】

となりのばっぱも、でしたが、裏のユザさんのおばちゃんも、キセルで煙草を吸う人でした。
おばちゃんの名前がマサヲだったのか、息子さんがマサオさんだったのか、もう記憶がごちゃごちゃで分からなくなりかけているのですけれど、おばちゃんがマサヲだったはずです。イチヂクの砂糖漬けを作るのが上手で、出来ると祖母がもらいに行きました。

裏と言っても、隣のかたまりの北側だったのですが、そこには三軒並んで同じ年頃のおにいちゃんおねえちゃんがいました。その北隣もそうでした。

ユザさんの息子さんがいちばん年長だったのか、そんなに馴染みがありませんでした。でも、なんだかずいぶんハンサムな人だったのだけ忘れずにいます。

ユザさんの東隣のキクチさんちがサダノリちゃん、レイコちゃん、ヒロちゃんの三人兄弟で、末のおにいちゃんだったヒロちゃんに、いちばんよく遊んでもらいました。出たてのカセットレコーダを買った時には、それでよくクラシック音楽を聴かせてもらいました。覚えているのは「新世界」だけなのですけれど。
サダノリちゃんは頭が良くて将棋が得意でした。おばちゃんはいつも
「一高に入れるんだ」
と張り切っていましたが、サダノリちゃんはほんとうに一高に入ったのでした。
レイコちゃんは演歌系が好きでした。キクチさんちにはふくろうの剥製があったのですが、レイコちゃんはそれで僕をおどかすのが好きなのではなかったかな。違ったかな。記憶の中の、数少ないお姉さんのひとりです。
僕は恐がりだったので、キクチさんちではそれでよくからかわれました。
あるときはテレビで四谷怪談を見せられて、僕はすっと隠れて、柱の陰から半分顔を出してそれを見たのでした。

ユザさんの西隣はキクモトさんで、おにいちやんのマサル君は、ギターを弾きながら加山雄三とかビートルズを歌うのが好きでした。グループサウンズが流行るといちはやくタイガースとやテンプターズの曲を歌って教えてくれました。
弟のターちゃんが、やっぱりよく遊んでくれました。外遊びはターちゃんが近所の子供たちを束ねて連れて行ってくれました。
ターちゃんは中学を卒業して
「オレは金の卵だ」
というので集団就職で東京に行きましたが、何年かあとに帰って来て、地元でお嫁さんをもらいました。

キクモトさんちの裏のフルサワさんは、おじさんが服の縫製をしていたのではなかったのかな、と思います。ここのお兄さんのほうの名前が、なぜだか思い出せません。お兄ちゃんは出来て間もない三高に入りました。三高のある山まで自転車で通っていました。学生帽に学ランがえらく大人びて見えて、とてもあこがれたものでした。弟のヒトシ君のほうも頭が良くて、ニュートン式の反射望遠鏡を持っていて、屋根に登って星を観測したりしていました。ベネット彗星が出現した時には写真に撮って、それを僕にくれたりしました。その写真はずっと大事にしていたので、実家に帰ればアルバムのどれかに貼ってあるのではないかと思います。歌が好きなお兄さんが多かった中で、星が好き、というのは異色で、お兄ちゃんの学ラン姿共々、なんだか憧れの存在でした。

同年輩では、何だかんだで身近だったのはS酒屋の「パパママ」のタカシ君になります。
仲がいい訳ではないくせに、よくいっしょに遊びました。
S酒屋には、父に言いつかって、缶ピー(缶入りのタバコのピース)を買いに行きました。そこでタカシ君に会って、お店のものをこっそりもらったことがありました。タカシ君はそれがバレてあとでこっぴどく叱られたらしくて、その時ばかりはタカシ君に悪いことをしたなあ、と思ったりしました。

バス通りをはさんで向こうのヨコタさんちには、笑うと止まらなくなるエッチなエッちゃんがいて、タカシ君と仲良しでした。

三人とも、同じ幼稚園に入りました。
長くて二年間、でしたので、5歳の誕生日を迎える年に年少さんに入るのです。

幼稚園に入ってからは同じ年の友達が増えました。遊びに行く範囲も、それから広がったのでした。
僕らの住宅は窪地にありましたけれど、そこから東は田んぼが広がるところで、そこから幼稚園に通っていたのがカッちゃんでした。走るのが速くて、競争するといつもいちばんでした。からっと明るくて、おうちもたぶん豊かだったのでしょう、どこか気前が良くて、ふだんはいじめっ子のくせに、だれかがいじめられて泣いていると、その子を泣かせたヤツをつきとめて仇をとってやるのでした。それで、みんなはカッちゃんを親分と仰いでいました。
が、口がいちばん達者なのはタカシ君で、口喧嘩ではカッちゃんもタカシ君には負けました。
カッちゃんにやられそうなときに頼りになるのは、タカシ君なのでありました。

僕らの住宅の南側の高台には出っ歯のトシちゃんやヤクザなヒロノリ君や照れ屋のトシユキ君がいましたし、その麓の自転車屋からはホシ君、自転車屋の斜め向かいの魚屋さんからはエンドウさんが、幼稚園に通って来ていました。

子供たちがどんな遊びをしたか、は、また別のときに綴ってみようと思います。

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2013年6月10日 (月)

ひとの価値観【こどものころ(3)】

【ひとの価値観】

空襲にあった人たちが引っ越して来た、にしては、ウチのあたりは戦後の色をあまり引きずっていないように見えました。だから、本当にみんながみんな空襲で焼け出されて住むようになったのかどうか、は、分かりません。
はっきりそうと分かっていたのは、隣の老夫婦の所帯くらいでした。
おじいさんのほうは、あんまり印象に残っていません。
ばっぱ、と呼んでいたおばあちゃんのほうは、冬に僕が家の前の雪を竹箒で掃いてやると(仙台は大層な除雪をしなければならないほどの積雪はありませんでした)
「ありがとなぃ(ありがとうね)」
と言ってくれたので、背中を少し曲げて歩く小柄な、色のやや黒い人だったことを覚えています。
そのばっぱは、「女郎」だったのだ、と教わりました。
飲屋街になっている国分町がそうだったのかどうかまでは知らないのですが、とにかく街中で色を売っていたのだそうでした。おじいさんとどうやって一緒になったのか、なども、まだ関心もありませんでしたし、その後も誰にも尋ねませんでしたから、もう知りようがありません。
その家には、もともと娘さんと息子さんがいたとのことでしたが、僕は一度も会ったことがありません。なんでも
「戦争のあと、食べるもんがないときに、子供二人を畑に泥棒にやって芋を盗ませたんだ。盗むのに失敗して帰って来ると折檻して。失敗したときは畑のほうでも見つかってぶたれてきてたんだから、あっちでもぶたれ、こっちでもぶたれだったんだよね。それで二人ともいつの間にか家を出て行って、もう帰って来なかった」
のだそうです。
本当にそうだったのかどうかは、知りようがありません。
ばっぱの顔を思い出すたび、そんなことはなかった、と誰かにあらためて言ってほしい気がしますが、時代がそうだったのなら仕方がないことだったのかも知れない、とも思います。

我が家は、と言えば、祖父までは漆塗りの職人で、空襲で焼ける前の家では親兄弟揃って器を塗る仕事をしていたのでした。それも祖父の代でおしまいで、親戚でもだれも継いだ人がいません。
そのくせ、曾祖父が先祖代々の戒名を書き留めていた暦の隅っこに「豊臣秀長 孫」とか書いてあって、僕などは
「おまえは十三代目だから」
などと言われ続けたものでした。まあ、十三代目などというものも、職人を継がなかったのだから有名無実です。遡れば西暦で1700年ごろに亡くなったのが初代さんだとは、大学生になってから少しだけ調べましたけれど。
なんで秀長の子孫と名乗ったのかも面白いのですが、これは曾祖父が近江八幡方面に近いところに本山のある宗教の信者だったことに関係があったのかもしれません。
これはもし歳をとって機会が出来たらお寺に頼んで調べたいのですが、僕の姓は仙台藩主となった伊達政宗が大坂の陣のときに連れ帰ったらしい職人さんの姓に多いのです。仙台では刀鍛冶さんが同じ姓で、ここのご子孫はお寺が一緒です。ただしウチと違ってお金持ちで、いまでは宝石店を営んでいます。親戚関係でもありません。・・・ウチの話は、脱線ですが。

ほかのお家の来歴はまるで分からずじまいで、いまになって、ああ、教わっておけば良かったなあ、と思います。

ただ、商売人を蔑むふうはあったように思います。お店をやっていない所帯にも、なんでそうなのだかはっきりしない誇りのようなものがあって、
「商売人は金に意地汚い。商売人なんかにはなるな」
と自分ちの子供たちには言い聞かせていました。

西の下り坂のところにSという酒屋さんがありました。そこの兄弟の、弟の方が僕とおない歳でした。
他の家では親を
「とうちゃん、かあちゃん」
と呼ぶのが普通でしたが、酒屋の、とくに弟の方は
「パパ、ママ」
なのです。
それがなんだかきざったらしくて、心底嫌いで、だからほんとうには仲良くもなりませんでした。
それでも、そこの家には、近所ではめずらしいアップライトピアノがあって、先生が教えにまで来ていたのでした。町内の幼稚園にもピアノなんてない頃でした。
なんだかんだで、商売やってるお宅は強かったのでした。

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2013年6月 9日 (日)

銭湯と夜空【こどものころ(2)】

【銭湯と夜空】

内風呂のある家、って、いつごろからあたりまえになったのでしょう。
育った長屋には内風呂はありませんでした。お風呂を家の中に持てたのは、お店をやっているところだけだったかも知れません。
他のうちの人たちは、公民館の西隣にある銭湯に行くのでした。週に2回か3回行くのでした。

銭湯は朝も営業していた気がしますが、昼はお休みで、入口を大きく開けて掃除をしていました。
家族で行くのは日が暮れてからです。
お湯は、木屑を集めて来て、それを炊いてわかすのです。
煙突から煙が出て来ると、夕方の営業が始まった合図でした。狭い町内ですので、どこからでも見えていたのかも知れませんが、僕は離れたところから見た記憶がありません。
入って右手が男湯、左が女湯でした。真中の番台には、たいてい、おばあちゃん・・・といっても、六十歳になったかならなかったかだったでしょう・・・が座っていて、そのおばあちゃんから切符を買って入るのです。
脱衣場は、そんなに広いわけではありませんでした。籐で編んだ籠があって、そこに服を脱いで入れました。
浴槽には、大人が10人くらい入れました。
お湯は澄んでいるとは限らず、泥水をわかしたような日もありましたが、みんな別に平気でした。
小さいうちは女湯に連れて行かれました。
頭を洗われるときが、ちょっとこわかった。仰向けに抱かれて、天井を見ながら洗髪されるのです。
どこの子もそうだったな。
浴場の入口を入ってすぐのところに、体を洗って汚れたお湯が流れ込む排水溝がありました。
子供は、おしっこがしたくなると、その溝をまたいで立ちションでした。女の子もでした。
今の性能には及びもつかなかったでしょうけれど、脱衣場にはガラス戸の保冷ケースがあって、そこに普通の牛乳、フルーツ牛乳、コーヒー牛乳、トレボンのりんごジュースやヨーグルトが入っていました。お風呂上がりにそれを買ってもらえるかどうか、いつもわくわくしましたが、いつも買ってもらえる、というわけではありませんでした。とくに、ヨーグルトなんて、何ヶ月かに1回で、食べられると分かると、ほんとうに跳び上がって喜びました。
保冷ケースの脇には大きな鏡があって、その隣に必ず、映画のポスターが貼ってありました。
東宝と大映と日活と東映が、入れ替わり立ち替わり。
日活だとヤクザ映画なのですが、東映は春夏秋冬はマンガ映画(アニメとは言いませんでしたね)のポスターで、
「行きたい」
と言って
「ああいいよ!」
と必ず応えてもらえたのは、親もポスターを眺めて諦めがついたからなのでしたでしょうか。
で、東映のあとには、たてつづけに東宝の怪獣映画のが貼られる。
こっちは、せがんでも行ける確率はやや低かったのでした。若大将シリーズとセットのときだけは大丈夫だったのではなかったかな。

夏はまだ空が暮れ切らないうちに出掛けるのでしたが、帰る頃には満天の星です。
とはいっても、3等星くらいまでしか見えませんでした。天の川も見えません。
それで、
「あれがおりひめ星で、あれが彦星だよ」
と教えられても、ちっとも分かりませんでした。
ちなみに、七夕祭りの有名な仙台では、七夕開催の8月初めの頃、おりひめ星がちょうどお空のてっぺんの場所にまでのぼります。
南から北に向かって下がる斜面沿いにあった住宅地なので、南の空はすっかりは見えません。それで、蠍座がどこにあるかも、しばらく知りませんでした。

冬が過ぎて、そろそろ春、というころには、北斗七星がお空のてっぺんに来ます。
これは、ひしゃく星だよ、と教えてもらえば子供でもわりと分かりやすくて、柄のところが
「大きな熊が天に投げあげられるときにシッポを振り回されたんで、しっぽがあんなに長く伸びたんだよ」
なんて話も、星はちっとも熊のかたちになんか見えなかったのに、なぜだかとてもはっきり覚えています。

それにしても、あの頃の夜道の月明かりの、なんと明るかったこと!

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2013年6月 8日 (土)

家や近所の建物のこと【こどものころ(1)】

暮らす景色がこんなに変わると思っていなかったので、育った頃のことも忘れてしまいそうだから、ぽつりぽつりと綴っておこうか、と、ふとそんな気持ちになりました。

【家や近所の建物のこと】

育った家は、仙台の、東の外れにありました。(燕沢住宅122号、という、いまでは無くなった住所でした。別の住所は、燕沢字苗代沢3でした。)

平屋の長屋というヤツでした。四世帯の隣同士がくっついていました。それぞれの世帯が、もともとは南六畳北三畳の二部屋の西側に、板敷きの小さな台所がついていました。せいぜい肩幅くらいの流し台の横に、こじんまりしたガスコンロがあったくらい。そのまた脇に、手絞り機のついた洗濯機がおいてありましたが、これは父か母が給料をはたいて買ったものだったのでしょう。

仙台は昭和二十年七月十日の空襲で旧市街が全て焼け落ちましたが、この長屋は、それで焼け出された人たちが住人の大半だったかと思います。
うちは北材木町(いまの市民会館の道路向かいのあたり)というところにあったのですが、やはり空襲で焼けました。

狭い長屋でしたが、各戸の南面に庭があり、それを思い思いに板塀で囲むお宅、生け垣で囲むお宅がありました。でも、うちは幼児の自分を含め五人家族で、元の作りでは狭いということもあったのでしょう、南の六畳の前に、さらに四畳半を増築していたので、庭らしい庭はありませんでした。それでも、靴脱ぎの脇には、木の小さな縁側がありました。
庭がなくても前の道路が庭なようなもので、幅は2メートルあったかないかで車も来ませんから、そこに好きな花や、僕が小学生になると宿題で持ち帰った朝顔やヘチマを植えました。物干も、今思えば、道路にはみ出すかはみ出さないかのところにありました。道の向かい側には一斗缶がおいてあって、ゴミはそこで燃やすのです。ゴミ収集などというものはありませんでした。生ゴミは、引きとる業者さんが週に1、2回、さほど大きくないトラックでやって来るので、トラックのところまで出しに行くのでした。

うちと北向かいのお宅とを隔てる道は、幅がせいぜい五十センチくらいでした。そこを、シジミ売りだのなんだのという人たちが、台所仕事をしている主婦・・・我が家では祖母でしたが・・・相手に商売に来るのでした。竿竹屋さんま竹竿を担いで通ったんだから、担ぐのが上手かったのでしょうね。

南側はせり上がりの斜面で、その向こうには小児科のお医者さん、米屋さん、八百屋さんと肉屋さんと卵屋さんが小さな一棟に入った建物があり、その並びのところが、バスの通る道でした。幅は六メートルくらいだったかな。それでもずいぶん広く感じました。この道は砂利敷で、アスファルト舗装(そのころはコンクリート舗装と言っていましたが、工事の様子を思い出すと、アスファルトだったはずです)になったのは僕が小学校に上がった前後のころだったかも知れません。

米屋さんと肉屋さんにはお姉ちゃんがいて、赤ん坊だった僕をままごとの人形代わりに遊んでいました。

長屋はうちのかたまりが中央で、西にもう四世帯、東にもう四世帯ありました。その先に下り坂の広めの道があって、道を挟んでうちの方寄りには酒屋が、向かいには床屋さんがありました。
北にもうちのかたまりと同じように十二世帯があって、そこにまた四メートル道があり、同じ住宅セットがさらに2つありました。その北に、どぶ川を挟んで公園がありました。
下り坂の道の向こう側も似た感じで、そちらは川よりも手前の、少し高い場所に、ささやかな公民館の建った公園がありました。この公園を、子供だった僕らは「うえの公園」と呼んでいました。川のこちら側だったからです。あちら側の公園は「したの公園」と呼んだのでした。

「したの公園」の西の脇には人だけが通れる幅の上り坂があって、上り口に木の橋がかかっていました。橋は、ただ板を並べて渡してあるだけで、手すりも何もありません。
どの家もネズミがよく出ましたので、ネズミ取りを持っていて、ネズミがかかると、この橋に行って、紐で縛ったネズミ取りをゆるゆると川におろして、退治したネズミを流すのでした。

そんなあたりが、僕の育ったあたりの様子です。

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