« しあわせはどこにあるのか | トップページ | 家や近所の建物のこと【こどものころ(1)】 »

2013年5月31日 (金)

とうちゃんは、だんだん追いつかなくなって来ている。

とうちゃんは、だんだん追いつかなくなって来ている。

娘が大3になって、遅い日もあるのにはさすがに慣れた。

息子、である。
高3になってから、どう動くのか、まだ分からない。

今日も夕方、晩ご飯をどうするか、で、いつものつもりで娘と息子にメールを送った。
返事が来ないのは毎度のことで、これも慣れた。

娘の方からは、今夜行きたい店がどこか返事が来た。

息子のほうは、どうせまた学校が終わってウチで眠りこけているんだろう。

そう思って帰宅してみたら、真っ暗である。
ケータイに電話してもつながらない。

・・・迷った末、みっともないのだが、学校に電話してみた。
先生たちがすぐ調べてくれた。
息子は、卒業課題の関係で、まだ学校で作業かなにかをしていた。

晩ご飯へは、息子の帰宅を待って出発する。

自分の高校・大学の頃を思い出せば、娘や息子よりも遅く帰ったりしていた。
でも、僕はまだ恵まれていた。両親だけでない、祖父母もいた。少々遅くなって、そのうちの誰かが気に病んでも、あとひとりから三人まで、
「なぁに、心配ないよ」
とのたまう大人がウチにいた。

親としても、僕は自分の両親よりも祖父母よりも、ずっと「苦労」していると思う。・・・たしかに、苦しい、つらい、と思うことは少なくない。が、「苦労」という二文字は、こうやって考えてみるまで、思えば浮かんだことがなかった。
だからどうだ、というわけでもないが。
子供たちは子供たちで、僕が同じ年頃には想像もつかなかった貧相な生活をしている。が、やつらには比較するものがないから、これまた、だからどうだ、という訳でもない。

明日は息子と、埼玉東部の大学のオープンキャンパスに行く。
明後日は息子の学校の卒業生の親たちの会に挨拶に行かなければならない。

夏はPTAのお役目で山口へ。萩や秋吉台には観光に行けないから、せめて中原中也記念館でも見て来たいのだけれど。

もう、初夏の夕暮れの今日この頃である。
中也には初夏の夕暮れの詩なんかあったかしら?

10886393_1945384065_236large


春の日の夕暮

トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです

吁! 案山子はないか――あるまい
馬嘶くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か

ポトホトと野の中に伽藍は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが

瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自らの 静脈管の中へです

|

« しあわせはどこにあるのか | トップページ | 家や近所の建物のこと【こどものころ(1)】 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/51856774

この記事へのトラックバック一覧です: とうちゃんは、だんだん追いつかなくなって来ている。:

« しあわせはどこにあるのか | トップページ | 家や近所の建物のこと【こどものころ(1)】 »