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2012年10月 2日 (火)

心経連想

こないだ仕事関係先のアパートで爆発事故を起こした人の意識が、あれからまだ戻らないんだそうだ。
建物や、他の部屋に住んでいた人たちの「後始末」が出来なくなるから、それは困ったことなのだけれど、忙しく現場を行き来している担当さんの大変さをヨソに、自分は、
「意識がない、って、どんな感じなんだろうか」
に好奇の思いばかり抱いている。

倒れているのを見つけたとき、家内の顔が本当の意味で無表情だったのは、一生忘れないだろう。
表情がない、というのを、あのとき初めて見た。それは、人形のよう、ですらないのだった。つまりは、言葉で表せない。
意識がない人は、一様にあんなふうになるのだろうか?
たぶん、そうじゃない。
祖母は、意識がなくなったときにも表情があった。祖父は家内と同じだったかもしれない。今だからそう思うが、見たそのときは分からなかった。

もし表情が無くなった状態で意識を失っているのなら、それは・・・語弊はあるけれど・・・幸せなことではないのかな。

日々を「思い」とかいう虚構の中で暮らしていると、あっけらかん、とした顔にはなれないのではないかしらん?

意識は、空(くう)なのと同時に色(しき)だ、逆も真だ、なる、お経の説は、正しい気がする。だから苦なのだ、とは、まったく正しい。
絵や、歌や、物語は、美しい。
それは結晶になったフィクションだからだ。
受け止められれば、果てしなく美しい。
フィクションは、結晶になった意識だからだ。とらわれたら最後、がんじがらめになる。

だから、その中にいるのは、果てしなく苦しい。

じゃあ、そこから遠ざかるのが賢明なのか?

結晶になったものが絵や歌や物語なのだから、たどれば、その素は、みんな、日々を生きるそのことの中にあるのだ。
結晶ではないから、正体も清濁も見極めがたい。苦しさがおぼろになるから、つらくなる。

本当の無表情になれて初めて、僕らは、全部のしがらみから解き放たれる。
それを幸せと言わずして、なんと言うのか?

それでもまだ、そんな「幸せ」のほうに身を置き続けるほうがマシだ、と、また明日突っ走る準備に余念がない自分とは、いったい何であるのだろう?

意識を失った無表情は、さて、本当に幸せなのか?

だとしたら、幸せ、って、どんなことなのだろう?

ここまで考えた屁理屈が仮に本当だ、というのなら、僕は、本当の幸せよりは、いま苦しいときに浮かび上がった瞬間に見る、嘘かも幻かも知れない仮の幸せのほうが、じつは、まだはるかに好きだ。

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