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2012年10月20日 (土)

井上ひさし こまつ座 「宮澤賢治に聞く」

9784167111243

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784167111243
文春文庫 650円(税込)

論理的に考えられることは、とても大事だと思っています。
神話や伝説にしても、人間が考えに考えたすえに、自分たちの生活に論理を見つけたひとつの結晶ではないか、とも思っています。

そして論理を論理にするのもしないのも、私たちの使う「ことば」です。

「ことば」は論理的に使われないとダメなのか、というと、そうではない対極に、文学が挙げられます。

ほんとうは、文学には文学の論理があるのであって、それを読み解けなければ、文学を理解したことにはならないのであるとも、思います。

では、読み解けなければ文学は読まれる価値はないのか、となると・・・そこが、なにやら違うように思います。

もともと、なにかを明らかに知りたい、という欲求は、なにかを「ことば」にしきれないところから生まれてくるものです。最後はそれが結晶となったり濾過されたりして論理になるのかもしれませんが、それはともすると論理の味気なさにつながります。

文学は、結晶になったり濾過されたりしていく「ことば」を、工程の途中でいったん止めることで生み出されます。すぐれた文学は、そこから、論理化されるのとはまったく別の方向に生産ラインを引いて、論理の同位体を結晶化させて行くのです。

「論理にならない論理」とでも言うべきものを、見事に結晶化させて見せたひとりが、宮澤賢治だったのかなぁ、とわたしは感じます。
ただ、そのことばは、好きになる人には心地よく流れるかもしれませんけれど、書かれた傷みをハナから過敏に受け止めてしまうと、まるきり論理で固めた結晶構造と非で似たるものの格子に、がんじがらめにされてしまって、あまりにちくちくして困ってしまうのです。
普通の論理ではなく、賢治の論理を、いくぶんかでもあらかじめこの手につかんでおいて読み進めるのでなければ、途中で迷子になってしまうでしょう。

ひさしく見かけなかったのですが、どうやら6月に、井上ひさしさんの「宮沢賢治に聞く」が文春文庫で増刷されたようです。
私はこれが、賢治文学の最もすぐれた入口になってくれると信じているのです。

井上さんは、自分の劇の上演を手掛けてくれていた こまつ座 さんと協力して、他にも樋口一葉や太宰治の文学への入口を作ってくれています。残念ながら、いま新品では見かけません。

入口、だなんて言うと立て過ぎで、これらはみんな、結局は井上戯曲の宣伝です。
巻末は必ず、それぞれの作家に題材をとった井上さんの戯曲のダイジェストで終わっているのです。そうしてそこで、読者がはらはらと涙を落とすように、巧みなだましのテクニックで組み立てられています。「宮沢賢治に聞く」で言うと、こんな具合です。

Ⅰ 賢治の宇宙
Ⅱ 宮沢賢治はこう生きた
Ⅲ イーハトーボさまざま
 講演 賢治の世界
Ⅳ イーハトーボの劇列車

はじめの3つはなんだかよく分かりませんが、分からないうちに、最後にたどりついてみると、井上さんの「イーハトーボの劇列車」を半強制的に読まされ、その最後のト書き、

「赤い帽子の車掌は・・・ふと客席に目が行き、はっとなって立ち止まる。万感の思いをこめて、『思い残し切符』を観客席めがけて、力一杯、撒く。」

なんてところでけむにまかれて、「思い残し切符」ってなんなのか全然分からないくせに、もうだらだら涙を流させられたりするのです。

しかしながら、この組み立てが、文学という結晶の格子にそって、実に見事な足場を築いている。ですから私たちは、いまさら井上さんの戯曲なんか読 まなくとも(いや、この人は小説より戯曲がすぐれていると私は思いますから、ほんとうはぜひそちらも読んでほしいのです)、足場からもう一歩、作家さんの 手で明らかになった結晶に、自然と一歩踏み出してみたくなる、という寸法です。

井上さんは、実生活では失敗しましたが、相手が文学なら、自分の「恋」を成就させるにはどうしたらいいか、を、よく知り尽くしたひとでした。
思い入れが強い。でも、ただの思い入れではない。感情に流れないよう、じっくり戦略を練るのです。その戦略で、恋した文学者の文体を、ついにはそっくりそのまま自分のものにしてみせて、文学をぎゃふんと言わせるのです。

井上さんらしきひとが賢治と面会を果たす顛末を書いた冒頭のインタビュー記事は、まことに賢治の文体になっていて、活字になったそれを見た賢治は
「おめ、おらをばがにすんでねぇ!」
と怒りながらも、まんざらではないはずだと思われます。


宮沢賢治に聞く      聞き手・井上ひさし

 こういう次第で、編集部に七人のひとがいて、それぞれの流儀で仕事をしていました。だれも言葉を発しませんでしたから、そこらはしんとしています。編集長がびっくりしたようにいいました。
「おかしいぞ。いつの間にか八人のひとがいる」
 そこで数えてみると、たしかにひとが八人いるのです。ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく、それでもやっぱり、どう数えても七人ではなく、八人おりました。みんないまにも泣き出しそうな顔をしています。
「ふえたひとりがあの有名なざしき童子だと思う」
 とわたしは、自分がざしき童子でなければいいがなあ、と思いながら言いました。みんなもわたしとおんなじことを考えていたようで、口ぐちに、
「自分だけは、なんだってざしき童子ではない」
 と言い張って、一所懸命目を見張って座っておりました。
わたしは次の手を考えついてこう言いました。
・・・・・・
「自分はざしき童子ではないという自信のあるひとは、これからわたしが一、二、三と号令をかけるから、号令のおわらないうちに事務所から出てゆくこと。では一、二、の三」
「ざしき童子だ」
だれかが叫んで逃げだしました。みんなもわあっと逃げだしました。わたしは泣きました。

はたして、賢治はどのようにして、井上ひさしさんの前にあらわれたのか・・・、どうぞ、あとは現物をとって、楽しみにお読み頂ければと存じます。

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