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2012年10月24日 (水)

確かな鑑賞者であるために

尊敬するSさんの、雑誌に掲載なさった論文を拝読した。

大学で教えていらっしゃるSさんは、近・現代日本文学の素晴らしい読み手で、教わる学生さんは仕合せだと思う。
今回の論文も目の覚めるような切り口で、あっと驚かされる。もういちど原作に当たり直しながら、再読・三読しなければならない。

すぐれた読み手になるのは大変だけれど、よい読み手であろうと「努力」するのだったら、コツがあると思う。
ただし、僕はあまりに「努める」ことばかりに猪突猛進するから、害悪をはらんだ読みをしてしまいやすい。
何かに感動した、と誰かの表明した文章が、ネットの上にあるとする。
その下に延々と
「それは、素晴らしい!」
ばかりの感想が並んでいると、もうウンザリする。
だからといって、穿った感想があれば、それはそれで「違うだろう」と目くじらを立てる。
まだ、「イイネ」かなんかつけとくのが無難である。
でも、それもなんだか違う気がしてくる。
僕の方がつけてもらうのは嬉しいのだから、ためらう謂れがあるのかどうか、よく分からない。
こんなふうにしているうち、なんだかうんざりしてくるのである。

どこに間違いがあってそうなるか、は、はっきりしている。
文を読もうと臨むときに、自分を白紙に戻していないのである。

ネットの文は、やや特殊ではある。ブログでは少ないが、SNSならば感想がくっついていることが多い。感想がくっついていれば、感想がくっついた状態で、全部が一体として目に入り、内側で音声に置き換えられた言葉を通して耳に入るからである。だからいっそう、読んでいて感情はぐるぐるしやすいのかも知れない。
これはこれで、文章本体と感想を切り離すべきか、くっつけるべきか、の問題があるのだけれど、どっちがいいのか、は、文章そのものの内側に規定されているのであって、そこを読み取る目が要求される。しかしこれは、あくまで応用問題である。

本体だけの文章については、高田瑞穂という人の「新釈 現代文」(もともと高校生向け参考書だった)に、こう述べられている。一ヶ所だけ変更してある。

「『散文の読者は、足場の悪いところを散歩するように一歩ごとに自分の均衡を確かめねばならぬ。』これはフランスの哲学者アランのことばですが、この確認=追跡は一歩一歩、出来れば筆者の足跡の一つ一つを踏みつつ、なされなければなりません。追跡に飛躍は禁物です。多分この道を来るだろうと予想して先まわりして待ったりすることは非常に危険です。筆者はしばしば中途で進路をかえるものです。」(ちくま学芸文庫版 88頁)

たとえば僕なんぞといった小市民の文章は綴り手がどうだなどと考える価値もないのだが、Sさんの今回の論文の冒頭部には、有名だった、しかも文章とは何かを知りつくしていた某作家が、たいへんヒットした自作に関して、おのれの変えている進路に読者が気付きもしなそうなことにへそを曲げるわがままをしていることを、巧みにあぶり出している(Sさんはそれをわがままだと仰ってるわけではなく、受け手の僕がそのように読み取ったに過ぎないのには留意しなければならない)。

「Mは『「(某超有名作)」の通俗的成功と、通俗的な受け容れられかたは、私にまた冷や水を浴びせる結果』になったと回想している。ではどのような『受け容れられ方』をMは望んだのだろうか。
 (略)その構想とは『・・・どの一頁にもデカダンスの影もとどめぬ小説であり、考へられるかぎりの「作者不在』の小説』であるという。(略)実際の読者の受容が素朴で、アンチテーゼの意味を捨象していることにMは失望を感じたわけである。」

こうなると、文章とは果たして、根源的・本来的にコミュニケーションツールなのだろうかどうなのだろうか、と、はた、と振り返ってみなければならない。

単純に見るだけなら、Mのこうした考えとは正反対な視点をとる優れた文学者もまた存在するのであって、谷川俊太郎などには

「文学に人間の言語活動の中で、或る特殊な治外法権を与えてしまうことに私は反対だ。」(「言語から文章へ」1976年 『岩波講座 文学3』所収)

なる表明がある。ただし、いまは仮にMの発想が「治外法権」である、との前提にたってのことだから、厳密にはよく確かめなければならない。あとに続く谷川さんの言葉には、実はこのあたりはかなり混沌としているのだ、と、また悩まされざるを得なくなる。

「創造とはより深められた現実の発見であると言えるのではないだろうか。」

ともあれ、他の人が書いたものでも、あるいは「きのうの自分」が綴ったものでも、それを目にする「今日の自分」を白紙に戻さなければ、僕らは谷川さんが言っているようなかたちでの文章の読み取りは出来ない。

「言語から文章が生まれるためには、個人の媒介が必要だ。どんな無性格な文章も、客観的な文章も、その根を個人の魂におろしていると私は考える。法律の文章や、科学論文の文章などのように、或る集団が書いたかのような文章もあるけれど、それらの文章も言語から分離してくる過程で、たとえ複数ではあっても個人の手をへているだろうし、またそれらが文章として成り立つのは、それらを読み取る個人が存在しているからである。」

・・・すなわち、こちらの色で眺めてこちら自身に没入するのではなく、敵を読み取ろう、と、ひたひたと読む目を持たなければ、良い読み手とまでは行かなくとも、最小限の確かな読み手にはなれないのだろうと思う。

上の谷川さんの「言語」を「音」だの「かたち」だのと置き換えてもよいだろう。
そうすれば、音楽なり美術なりも、やはり確かな読み手となるためにはどうしたらいいか、が、少しは理解できる気がする。
もっとひろげてもいい。
人生の確かな鑑賞者であるためには、最初に何があるか、それは個人のどのような手をへられて、いまこのかたちなのか、を、振り返り振り返り歩まなければならないのではなかろうか?

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