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2012年7月29日 (日)

10時過ぎまで眠った。
そのあともガキどもは大イビキなので、朝飯代わりに頂き物のラスクを食べた。
こういう、ぽつりと空く時間が、日常に戻るか戻らないかの刹那で、最近はそれがちょっと心細かったりする。が、今日はそんな時間をどうやってやり過ごしたのか、忘れてしまった。

昼、国道の方で火事らしい煙がもうもうとしていて、それをネタに子供らを起こした。
娘がguに行こう、とうるさいので、午後は国道沿いのguに行く計画ではあった。
その近くのマクドナルドで昼食。

guには何で行くのかというと、娘が僕と息子に新しい夏服を見立ててやる、とのたまうからなのだった。そこで3着ずつ「見立ててもらい」、払いは当然僕の財布からした。

息子の見立てを待つ間、ちょっと腰かけたら、目の前に大きな鏡があった。
そこに映った自分が、なんだか老けたなぁ、と、あんまり驚きもせずにぼんやり思った。
前からオッサンなのだが、ますます、気の抜けた爺さんそのものになっている。ずいぶんとくたびれた顔だなぁ、と思った。今日は自発的にはなんにもしていないから、いっそうそうなのだろう。

昨日、人がリンクしていたYouTube映像を眺めていたら、その脇に、N響で長くチェロの首席を勤めた徳永兼一郎氏の、ガンで逝去なさる45日前に撮影された最後の小コンサートのビデオというのがあって、そちらにも手が伸びた。

死というのは、親祖父母やしたしい親族を目の前にするより、まだ生活途上で伴侶がモノになる姿を見る方が、鮮烈にその意味を思い知らされるものかも知れない。それは、伴侶が自分にいちばん身近な「他人」だからなのだったかも知れない。

祖父母も看取ったけれど、まるで場面が違っていた。
祖父母の場合は、「もう死んでも普通だから」みたいな諦観が漂っていた。細かくは祖父と祖母では正反対なほどに違うこともあったけれど、とにかく、「生きる」はもう全うしたからあとはいいんだ、という死ではあった。

そこが、家内は違った。
僕にとっては、なんだかんだで生きているうちはいちばんの理解者だった相手が、突然、話しかけても触れても何の反応もない、まさにモノになるので ある。そうして、伴侶をめぐって広がっていた外の人たちとの世界は、まだ生きている自分の周りから、汐が一気に引くように、冷たく去っていったのである。

・・・こうやって綴ると、なんだか大げさになるなぁ。とんでもなく辛い事だったけれど、しかし事そのものはそんなに大げさな事でもなんでもなかった。ただそれだけのことだった。

理由がだんだんに身を蝕むものだったか、急な病いだったか、は問わず、死を前にすると、人の顔はにわかに老いで満たされる。映像の徳永さんが、 やっぱりそうなのには、ちょっと興味を覚えた。末期がんだから確実に死を宣告されているのに、この人はこの録画の時点で、まだ自分の死を怖れていて、自分 が死ぬとはちっとも思っていない。それは、あのときは気づかなかったけれど、急にぶっ倒れた家内も同じだった。あとで写真を見て、数ヶ月前からの顔がもう 生気なく写っていたのに、何人かで仰天したのだった。

自分自身は、6月あたりから、人にも「急に髪が白くなったなぁ」とかいわれて、「老けた」をにわかに意識しはじめた。使う字は一緒なのだけれど、 「老けた」と思うことは、諦めのような見せかけを持ちながら、本当は自分が「老いる」ことへの最後の反抗なのかも知れない。この反抗がどれだけ長く続く か、で、この先の自分のいのちが決まるのかも知れない。ほんとうのところは、神様仏様でも分からないかも知れない。

鏡の中の自分を見て、
「ああ、なんだかこの先まだぶざまに生きるんだろうなぁ」
と感じた。
そう感じたからには、まだ生きるんだろうとは思う。
何気なく思う。

なんでこんな話になってしまったか。
鏡をのぞいちゃったのがいけないのね。

guを出て、子供たちをお茶に誘って、それから子供たちの大好きな川景色を横目に見つつ帰宅した。

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夜は娘が留守になるし、息子は明後日まで学校の講習があるから放っておけないし、そんなだから、楽隊の練習なのだが行けない。あらかじめ、7月中は行けない、と話してある。

そろそろ息子に晩飯を食わせなければならない。

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2012年7月28日 (土)

クリーニング屋のおじさん

無能である、と綴って、本当にそうか、と自問して、今日はもうひとつ頭から離れないことがあるので、続いてしまうが綴ってしまう。

今はワイシャツは洗濯して着ているが、もとはスーツやワイシャツはクリーニングに受け取りに来てくれるおじさんがいた。
息子が幼稚園の頃の夏休み、息子がクラブのプール(子供用の小さいもの)に週1回行っていたが、カカアが仕事で送って行けない日があった。
いつも通勤に使う車を置いていったので、僕が休みをとって車で送って行くはずだった。
息子と駐車場に行ったら、車はパンクしていた。
仕方がないので、かろうじて時間にゆとりがある、と、歩けば30分以上かかる幼稚園まで、炎天下を歩く決心をした。
少し歩いただけで大汗をかいていたら、クリーニング屋のおじさんが配達途中で通りかかって、席を一生懸命あけてくれた。僕と息子はそれで無事に幼稚園までたどり着いた。

カカアの死後は墓の手配のことで相談して助けてもらった。
墓問題の解決まで1年かかったが、ウツも治っていないところに不本意なトラブルが重なって、落ち込んでいる僕を、おじさんはいつも柔らかい笑顔でふんわり励ましてくれた。

墓のことが落ち着いて真っ先に考えたのは、いずれ僕は子供たちから自立しなければならない、ということだった。父子家庭はそうしないと子供の将来に足枷をはめる、という例を、生前の家内が職場で見た話の記憶から、痛いほど感じていた。
自分は、自分と生きてくれる人、自分も心底宝物に思える人と、また二人で生きたいと思った。
おじさんにそれを話したら、
「ぜひそうなさるべきです。奥さんも、奥さんにこだわったまんまで生きて行かれるのは望まないと思います。」
と言われた。

それを頼みに、とにかくなんとか羽ばたきたい、と、ずっと思っているのだが、子供らのあれこれにひっかかって、いまだに羽ばたけない。

やっぱり無能か。

おじさんは、さっきの言葉を下さった少しあと、僕のうちの前まで来たところで、カカアと同じ病気で倒れた。
幸いにして心臓から離れたところが裂けたので、その場で僕が呼んだ救急車で運ばれて一命をとりとめた。
この病気がきっかけで、クリーニング屋さんのお仕事は続けられなくなった。

お見舞いに行ったが、おじさんの退院後は会えずじまいである。

今でも元気でいてくれるよう祈っている。

おじさん自身、うちのカカアの死ぬ数年前に、奥さんを亡くしていたのだった。お子さんはもう自立していたのだけれど。

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カカアの育児エポック

父親としては子供らには関わってきた度合いは高いほうだと思うが、突っ走ることにかけては、カカアの足元にもおよばなかった。

息子は小3のある夕方、突然血尿が出た。
連絡が来たので慌てて帰ったら、娘しかいなかった。
普通のお医者は閉まっている時間帯だった。
時計の針が12時をとっくに間まっても連絡がなくて、不安に思っていたら、2時半ごろカカアだけ帰ってきて、夜間診療所ですぐ手筈をとってくれたから駅前の大学病院に息子を入院させてきた、と、けろっとしていた。
幸い息子は大事にいたらず、5日ほどで退院した。

娘は小学校卒業間際に跳び箱で張り切りすぎて複雑に落下、右足を複雑骨折した。
卒業式も中学の入学式も、病院から出掛けたんではなかったか?
退院しても車椅子で、カカアは、驚かせられたのだが、毎朝出勤前に、娘の教室のある4階まで、娘を車椅子ごと担いで階段を上った。1ヶ月ほどそうやった。

こういう人だから、死んじまうのも急だったのかしらん、と、どきどき考える。
自分はつくづく、無能である。

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忘れられず・思い出せず

親である、と、自覚してそうだったことは、無いような気がする。そこに我が子がいたから、相対的に親だった。カカアが急に死んじまったので、必然的に、自分ひとりが、この子らの親であることに責任を持たなければならなかった。
自分を支えるだけでもやっとこさだったし、子供らが受験なるものを乗りきれば、山は過ぎて、その後は自分で見つけた支えを心の杖にすれば、自分は成り立つものだと信じていた。

そうは問屋が卸さない。

とりあえず経済的なことを別にすれば、今日も娘は友達の発表会を聴きに行くのであって、僕らと離れて食事までしてくる日の割合は増えてきている。去年までのように、下着売場にまで一緒をさせられて面食らうことは希になった。・・・ただし、化粧品はまだ時々同行がある。

息子は結局大学に行きたいと言い出して、今度はこれで面食らっている。実業高校の中では進学割合が飛び抜けて高い学校に行ってはいるけれど、勉強 はからきしダメである。中学で部活を続けなかった穴埋めはギターの先生が助けて下さって、なんとか心を病まずに高校生になったけれど、音高・音大、と進み たい方向が決まればレールを敷きやすかった娘と同じようにはいかない。とりあえず来週オープンキャンパスに行って刺激を受ける予定だが、果たして、そこに 入学するための努力が普通高校並みではないことまで理解してくれるかどうか。
ああ、また、娘のときのように、こっちも根比べをさせられるのか、と思うと、最近多少衰えを感じる体力でもつのかどうか、心配になってしまう。

高校については、娘の音高進学前のほうが大変な手間だった。
なにせ、行きたい、とだけはカカアとグルで決心を固めていたものの、必要な勉強をしていなかった。通っていた音楽教室の先生に教材を持ち込んで、 教えてくれるように頼んだが、当時の先生には素養がなかった。これはダメだ、と思って、ツテを頼って、今でも教わりに行っている先生を見つけた。娘はどう いうツテでその先生が見つかったのかはずっと知らず、去年チャンスがあって初めてお礼をした。

その、音高の説明会の前に、僕はどんな原因だったか忘れたが、歩けないくらいに足を痛めてしまった。
困ってしまって、
「かわいそうだが、おまえひとりで説明会に行けないかい?」
と言ったら、さすがに、うぇーん、と泣かれた。
仕方がないから、足より3回りくらいおおきなサンダルをなんとか見つけて買って、当日、足を引き摺り引き摺り、説明会に同行した。
(振り返って調べたら、これは入学が決まって、その準備のための説明会のときだった。2008年3月18日だった。)

子供らと学校周りした中では、あれがいちばん忘れられない。
そのくせ、あのときそれじゃ、どんだけ足が痛かったのか、どうやってサンダルを見つけたのか、は、なんぼ頑張っても、ちっとも思い出せないのである。

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おもいだすこと

いじめのニュースの真偽云々はする気はまったくないけれど(野次馬が学校に文句の電話をかけまくる、とかは、毎度ながら笑止である)、ある程度機械的な事務仕事だけだったので、今日は職場のPCにニュースをいくつか表示させては読んでいた。

息子が中学の部活でいじめられたときのことが、あれこれ思い浮かんでは、被さってくる。

息子は、旅行先で家内と夜遅くまで卓球をしていたのが母との最後で最大の思い出だったから、卓球部に入った。
中学に上がる半年前に、娘の音高進学準備の段取りがようやく終わって、つかの間だが息子にも柔道を習わせた。そこで出来た友達と中学でも部活が一緒なら安心だ、と考えていたのだけれど、息子が自分で決めたのだから、と、卓球部入部に反対できなかった。

そこでいじめにあった。

見かねて学校に相談に行ったら、部活の顧問の先生の背中に
「がんばって」
と小声で呼び掛けた女教師がいた。
1年前まで家内の同僚だった教師である。

腹がたったが、僕はあの日、文句は一言も言わなかった。

息子は2年生にあがるとき部活をやめた。

いまでも、くやしい。

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