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2012年4月19日 (木)

春の来ない木

この木だけ、若芽も出ない。

Springhasnotcome

いつだったか、庭師さんにばっさりと枝を落とされてから、いつ葉っぱが出てくるのか分からなくなった。

だけど葉っぱが出なくても、間違いなく生きている。
でなければ、こんなにしゃんと背筋は伸ばしていない。

いや、立ち往生しているのかも知れない。
・・・弁慶、死してなお義経を守る。

どっちにしたって、しゃんと背筋を伸ばしているから、暗がりにいても、今日もここにいる、と、こちらもあたりまえに信じていて、あたりまえに通り過ぎて、見上げることもしない。

実のところは、しゃんと背筋を伸ばしているからほかより特段りっぱだ、というわけでもなんでもない。ただ、枝を伐られてからの方が、ここにあることがあたりまえになったんじゃないかと思う。

あら、葉っぱがないのね、とは、気がつこうとして初めて気がついた。
けれど、こやつは別に気付かれようが気付かれまいが、そんなことで思い悩んで気疲れすることもないのだろう。

あしたはあしたの風が吹く。
その風が強過ぎて、あした根っこからえぐられて倒れるかも知れない。
あしたのことは分からない。

それでも、あしたまた、幸いにして命があれば、あしたなりにここで精一杯、もしくはだらだらと、もしくはなんてことなく、ここにこうしているのだろう。

木というやつは、なんだか、すさまじい。

今日は、まず娘の高級腕時計が直ったので高い金を払って引き取って、それから娘のレッスンの運転手をして、レッスンが終わってから親子三人でリンガーハットで晩飯で、晩飯のあとコンビニでぎょうさん買い物をして10時半帰宅だった。
さっきまで、もっともっと「今日の言葉」が自分の中にとぐろをまいていたけれど、帰って来たら忘れてしまった。
あしたも幸いにして命があって、あしたもおなじとぐろをまく言葉を自分の中に見つけるようだったら、あした記そう。
あした幸いにして命がないのなら、幸いにして、おいらの吐く言葉は、これで最後になる。
どっちの幸いがより大きいか?
どっちでもないだろう。
命が今ここにあるようにして、きのうもあった。
あしたもあるだろう。
昨日消えたものがあったように今日消えたものもあっただろう。
そのなかから、まだ生きているようにとまた選ばれて、明日を明日のなすがままに生きるのであれば、それでもなお、今日で絶えてしまわなかった幸いを苦しんだりもがいたりして楽しむチャンスを、どこかのだれかが恵んで下さったのだ。

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