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2012年3月 1日 (木)

「関心」について

反省の屁理屈シリーズである。

人が「関心」をもつとき、「関心」の中身はまず自分を<中心>にして決まる。
・・・と、人のすべてに拡げてしまっていいのかどうか。
・・・少なくとも、僕はそうだ、ということに、ひた、と苦しむことが多い。
・・・だから、また、僕自身を<中心>にして考える。

子供たちと話すとき・他の人たちと話すとき・SNSなどに書き込むとき、言葉のではなく、気持ちの行き違いを感じることは少なからずある。では、「何と」行き違うのか、といえば、それはもう「自分の気持ちと」でしかない。
それが起こるのは、自分が話すことに対して、だけとは限らない。人と人の対話を見聞きしても「自分の気持ちと」行き違う何かを感じてしまうのである。

だから、自分は感情過多症とでも言うべき輩だと思っている。

挨拶して、挨拶が返ってこなければ、腹を立てていた。
話がズレれば、腹を立てていた。

あとは、少し記号化してみるなら、こんな感じだろう。

Aさんの言うことにBさんが過剰にBさんの言い分で応じること(それは別に喧嘩腰のものとは限らない。Aさんを思いやって、の対応の中にも、AさんではなくBさんの「気持ち」のほうに強く寄っている場合なら、同じことである。)

Bさんが「思いやりをこめて」Aさんに応じているのに、Aさんが無視したりするのにも、あるいは【直接間接に】罵倒で応じたりする【そのときAさんの罵倒の対象はBさんではないこともある・・・それを言うと話は難しくなるだろう】のにも、腹が立ったりした。

このAさん、Bさん、どちらに「自分自身」を当てはめてみたら、それぞれどうなるか?

・・・全部、自分自身も同じことをしているのである。最初の2つは、これらにばっちり含まれている。
・・・だから、いちばん腹を立てなければならない対象は「自分自身」なのである。

じゃあ、腹を立てないためにはどうするか。
言葉なる道具の使い手である自分が、感情の起伏が前提の生き物である限り、残念ながら、というべきか、幸か不幸か、というべきか、はたまた当然というべきか、腹を立てないための万能の回答など、ありえないだろう。
(ちなみに、禅の「悟り」は「腹を立てる」ことを含めて、感情が揺れ動くのを否定しているわけではない。それを「最大限減らしたい」とき、ではど のようにするか、の答えを見つけるのが「悟り」だと、僕は受け止めている。答えの程度に高低があり、だから「悟り」にも大小がある。・・・こんな付け足し は、余分かも知れない。)

まぁまたこんな阿呆なことばかり考えていた。

「関心」の対象についてまで考えてみるつもりだったが、今考えたいことにとっては、もうこれだけで充分なので、やめておく。

ウチのエレベータで毎朝会うのに、「おはようございます」と声をかけても向こうからは何にも返って来ないおっさんがいる。前はそれでいつも、自分のはらわたが勝手に煮えくり返っていた。
最近はもうこっちも挨拶しないことにしてみたら、不思議と腹が立たなくなった。
今朝は、おっさん、収集所に持っていくゴミを片手に乗り込んできた。
1階について、おりるときに、開くボタンを押して、おっさんが先に出るのを待とうとしたら
「あ、いいですよ、大丈夫です~」
と声がかかってきて
「ありゃ、そうですか、あはは~」
と馬鹿笑いしてしまった。
たったこれだけで、妙に気がラクになった。

挨拶が苦手だったりする人もいるのだ。
挨拶が信条に合わない人だっているのだ。

向こうがこっちに合わせる道理もないし、こっちが向こうに合わせる筋合いもないわけだ。
こっちが挨拶したけりゃ挨拶は続けて、向こうがしたくなければそれはそれで構わないわけだ。
(いろいろ尾ひれをつけやすいことだけれど、原則がはっきりすれば事足りるので、つけない。)

案外、日常は、こんなことに気づかないまんまで、勝手に腹を立てたり立てなかったりして過ぎている気がした。

でもって、このあとまた、あたいは別のことですぐぷりぷり怒っていたりしたんだからしょうもない。

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