底の剥がれた靴を巡っての超詭弁無底哲学的独白
いざというときには、誰も助けてくれない・・・というのを、悪い意味で考えていたうちは、つまらなかったかも知れない。
いざというとき、とは「とっさ」でもある。救急車だって人が倒れたその瞬間に来てくるなんてことがあり得ないのを思い出せば、いざという時に助けれくれる誰か、がいないのは別にあたりまえだと分かる。
でも、たったそれだけのことが分かるまで、おいらは何年かかったか!
いいやまだまだ気付いた程度で、
「だめだ、いかん、どうにもならん」
と、人に、自分に、腹を立てる愚は繰り返してきている。根がとにかく短気なのだろう。
どうせだから、腹が立つものは立つ、と割り切ったほうがいいのだろうと思う。
そう思ってみると、つくづく「論語」なんてのは嘘つき書物だ、と・・・けなしてみようかと探したら、現物がどこかにいってしまった。
分かりやすい嘘はここだ。
・四十にして惑はず ~四十にして「も~どうでもいいと」決めつけ
・五十にして天命を知る ~五十にして「あ~やっぱりあかんかった」と悟る
ここまでは自分も終わった。
・六十にして耳順ひ ~六十になったら「おらこうなんだから譲れん」てことか
・七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。
~これなんかまさに「老いたら頑固で人に耳を貸さない」そのものだよなぁ。
になるんではないだろうか。
ほんとうは、嘘つきなのは「論語」に並んだ字面ではなくって、それをめぐるひとりひとりの勝手な解釈なんだけれど、深入りしない。
ともあれ、気付く必要がなかった人生の期間が、47年。気付かないと生きていけないことを思い知って5年。
肝心なことは
・いざ、の瞬間から自分がどれだけゆっくり時間をかけたりアンテナを張ったりして助けを求められるか
・いざ、の瞬間に頭に血がのぼったことをどう笑ってごまかすか
なのかも知れず、いつまでも「いざ」の瞬間に自分が思ったことにしがみつかず(そんなことは外からは誰にも、いちばん信頼している相手にだって分 からないのだから)、まわりにどう柔らかくこちらを可能な限り理解してもらい、当然の代償として、理解してくれる相手のことをこちらも可能な限り理解する ことなのかも知れず。
・・・いやぁ、一生かかっても無理だなぁ。
ということで、靴の底が剥がれかけになって難儀した今日、帰宅の道々、どうやってこれ以上そこが剥がれないようにしたまま新品を調達できる場所までもたせられるか、のために、おいらは靴さんの
「底の接着のされ方具合はこんなですから、無茶なガニマタで歩くのはよして下さい」
なる声に
「はいはい、へいへい、了解です~」
と満面の笑みで応えつつ歩み、本当は救ってくれるはずのところの店じまいが心配なのだが決して駆け足も急ぎ足もせず、自分にとっては赤十字マークのついて見える店が開いているのを発見するや、ようやくほっとするも、履いて着た靴さんに気取られないよう
「高かったら新品は諦めてあなたの底を貼り直してなんとかしますからね~」
とささやき、値札を見て
「なんだ~やっぱり高いわ」
と焦ってみせて靴さんが安心したところを見計らっておもむろに脱いで新品を試し履きし、
「いちおう、予備で買うんですからね!」
と断りを入れて
「でもあなたの履き心地には叶わないので・・・あなたが直るまでの間に合わせですから」
と、惚れ惚れされるようにウィンクして見せて、帰宅するなり
「んじゃ、古い靴さん、さようなら!」
をしたのであった。
靴さんの心の真実なんか、結局うっちゃってしまって。
・・・こんな醜い心でいいのだろうか?
と、息子のレンタルしたDVDを返すために、新靴の履き慣らしがてら歩きながら、またアホなことばかりで頭の中がクルグルしていた。
ついでに
「プライドのない人間は所詮つまらない」
なる別のことを深刻に考えたりもした。
それはただプライドがあればいいという単純な話ではない、プライドを持ちつつ折れどころを知っているような人こそすごいのだ、というすごい話なのだが、今日はすこしでも早寝をしたいので、これでやめておこうね。
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