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2011年11月 7日 (月)

とりとめもないこと

今日は案の定午後には仕事が切れかかって焦った。 
明日以降しばらくあやしい。 

夕方はともだちに溜まった小言のようなものを聞いてもらったが、ともだちは自分だって小言なんかいっぱいあるという顔をしていた。もっともである。 

帰宅したら息子が栗ごはんをよそってくれたので、 
「おかわりは?」 
と聞いたらすげなく 
「もうない」 

はからずも親となって、それぞれの親がそれぞれの子についてどんなことでも気になって仕方がない気持ちを思い知るようになった。 
片方で、親にあれやこれや気に病まれるのがはなはだ鬱陶しい、というあたりは、僕は子であること自体が失格であると言っていいほど極端にそうである。 

帰宅して、自分の子たちが、僕を鬱陶しがりながらも、またうまいことだまくらかして・・・今日も娘は自分の師匠が出しているCDをネットで探し当ててちゃっかり買わせるし、息子はいつもすっとぼけたメールでおみやげをせしめるし・・・そんな臑の齧り方の上手さには羨ましさを覚えずにいられない。 

親というのは因果なものだ。 
それに応えなければ、と思っている子は、偉いなぁ。 

と、ふと考え込んだりした。 

ある人のツイートに 
「苦労や挫折を体験したとき、『それでも好き』『それでも続けたい』を見つけさせてあげられるかどうか──そこが教育の真骨頂なのではないか」 
とあったのに対し、またとあるひとが 
「やめたいヤツは、とっととやめたらいいだけ。どうせ親の希望で始めた程度の事」 
と応酬していた。 
後者は冷たいように思う人がおおいだろうけれど、僕は後者の突き放しが正解だと思っている。 
『それでも好き』 
『それでも続けたい』 
は、教育の真骨頂で見出せるものでもなんでもない。真骨頂というのなら 
「おまえが好きだろうがそうでなかろうが関係ないがこれはこうなんだ」 
と強烈に見せつける師としての存在感のほうだろう。 

好きとか続けるとか、は、どこまでいっても「自分」の問題だ。 
それについては僕自身の情けない経験から確かだと言えると思っているし、なによりも、ある女流ヴァイオリン弾きさんの素晴らしい例を鑑だと思っている。彼女は海外に行って最初の先生にみそくそに言われて挫折感も味わって、そこから奮起したのだと間接的に聞いている。本人に聞いても、まぁ、どこ吹く風なのだが。 
で、上の突き放しのツイートを返したひともまた、流れは違っても同様の精神的経験をしてきていて、それでもなお自分の意志で何かを続けてきた人である・・・と僕は勝手に思っている。 

上の応酬を見たのは夕方だが、昼に娘のきのうの歌の録音を何度も繰り返し聴きながら、娘のことばかりでなく息子のこれからもいろいろ思いめぐらしていたことが、言葉を見た時またくっきり蘇ってきて、まだ頭の中や胸の中がぐるぐるしてまとまらない。 

そのままではないと思うが、こないだ息子とやりとりした記憶。 

「僕がお父さんくらいになる頃には、電気自動車があたりまえになってるかなぁ」 
「そいつぁ、おまえがそうするんだよ」

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