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2011年4月16日 (土)

簡単なことからでも、勉強を。

実家に、一回目の大揺れのときもボランティアさんが来てくれて、ズレて壁に食い込んだアップライトピアノをひきずり出してくれた。
こないだからの福島震源の揺れで、またズレて、またきてくれたが、東京からのサラリーマンさんがひとり、青森からの学生さんがひとり、地元の女性の高校生がひとりだった。
終わったところに、僕の卒業した高校の野球部員がぞろぞろ「ボランティア活動はありませんか?」と訪ねてきたので、近所の独り暮らし家庭に連れて 行ったら、あいにく所用で今日はダメだという。翌日にしてもらうことにしてかえしてから、オフクロは、翌日が土曜日だと気がついた。高校は休みである。
「これじゃ明日は来ないかもしれない」
ってんで、明けてから、その独り暮らし家庭にボランティアセンターの電話番号を教えに行ったら、そこへ昨日の野球部員がきたのだそうな。
で、オフクロは、僕に礼を言わせるから、と、部員一人一人に名前を書かせたらしい。そのリストは、ただし、当面は送られてこない。

海辺の、ヘドロを取り除きながら、の作業までの激しいしんどさはないかも知れないが、老人世帯ばかりのところでは、本当にありがたい。

あれだけの規模の本震だったから、余震はまた今回のように別の独立大地震のようなかたちで起こる。
もうひと揺れきて、こないだはもった家々も、どれだけ倒れずにすむだろうか?
実家については、室内ドアの枠は歪んで鍵がかからなくなったらしく、いままでの地震ではびくともしなかったブロックの土留めが、膨らむように歪んでいる。

リストをもらうまでもなく、母校にはお礼の手紙くらいは、すぐにでも出したい。

いま自分がひとりもので子供を持っていなかったら、すぐにでもサトに行ってみたいし、そこから海の方へも福島へも向かいたい。
現地に行く以外は、もう何を綴ってもむなしいし、価値観があわなければソッポを向かれるだけだし、自分も人に対してとる態度だ。

つくづく、むなしくなった。
沈黙は金、かも知れないし、巧みにそれを貫いている人に尊敬も本気で感じるが、僕は愚かである。ずいぶんとわめいた。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/energy/

これから、をちゃんと考えるつもりがあるなら、被災がわずかだったしなかったりして、少しでもゆとりのある人には、前後左右を子供の目と好奇心に返って、自らの価値観というメガネをいったん脇に置いて、可能なだけ勉強をして、しっかり裏付けを持って欲しいと願うばかりである。

災害だから特別に考えてしまいがちだが、自分自身の経験では、トラブルを解決するのに、人のアドバイスなんかひとつも直接役にたったことなんかなかった。
自力本願のときは、学ぶことが、唯一の解決への近道だった。誰にとってもそうなのではないか、と思う。

たくさん学んで初めて、当面のわずかひとつへの突破口が見える。学ぶ量は、だから、コストで考えたらとても採算は悪い。

見えない「自分というコストのロス」に、負けていることから、気がついていかなければならない。

自分の価値観・判断を常に検証しなければ。まず自分という矛盾に向き直るには、嫌でも、自分と正反対とはなにか、に高いコストを払って勉強する精神の姿勢が必要なのではないか?

勉強は一歩下がるためにするのであって、頭でっかちになるためにするのじゃない。コストのロスを覚悟しつつ自分を洗い替え、わずかなひとつの突破口を見出だせるかどうかに賭けるためにするのである。

人のweb上の発言、webだけの情報を眺めて右往左往したり声高になって来た自分にも反省はある。震災から一ヶ月、まだ何も環境改善出来ていない人にとっても、そろそろ生活を軌道に乗せなければならないと焦っている人のためにも・・・わたしたちはボランティアと同時に、いったんアタマをサラにして、災害への対処法について基本的なことを、自分に理解出来るところから、きちんと勉強していかなければならない。

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2011年4月15日 (金)

「疲れた」と言える幸せ

・・・カカアにもらっていた、いちばんの幸せは、「疲れた」と言えば無理にでも休ませてくれたことかなぁ、と、最近思う。
もっとも、カカアのほうが先に寝ることも少なくなかった。それが多少不満だったが、子供たちにとって親が自分独りになってみると、そうでもしなかったら体がもたなかったのが、よく分かる。
いまも幸いにして、「疲れた」と言えば聞いてくれる友はいる。言わせてもらうと、じつにスッキリする。
でも、ウチに帰れば、子供たちは、まだまだ容赦ない。日によっては、こちらが「疲れた」なんて口にしたらアウトってこともある。のんきそうでも、やつらは自分自身に夢中で生きている真っ最中だから、こちらが一方的に緩むのを許さない。

「疲れた」と言えるときは、まだ自分にゆとりがあるのかも知れない。緊張が続くあいだは、自分が疲れていることにすら気付かないだろう。

みんなの緊張が、ほんとうにほどける日の、いちにちも早いことのみ、ただ祈る。

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