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2011年1月 7日 (金)

感・不感、信・不信。

20代の頃、当時の職場の朝礼で、
「弁慶がいろんな長刀を集めたみたいに、心にたくさんの種類の物差しを持てるように、人から盗み取りたい」
などと、大それたことを喋った記憶がある。
リハビリのため、と5年前に最初に始めたこちらのブログのほうにも、その後カカアが死んでから、思い出したように、似たようなことを綴ったこともあったと思う。
・・・恥ずかしいから、読み返さない。

現実はどうか。

子供の頃から漠然と感じていたことではあるけれど、見えるもの聞こえるものは所詮自分の目耳から伝わってくるもの以外にはないし、さらに振り返れば、自分の目で自分の顔は見えず、自分の耳で自分の声を聞くことは出来ない。自分の顔が目に見えるのは鏡を通した裏返しの「虚像(光学的にそうなのであって、別に比喩ではない)」でしかなく、自分の声が耳に聞こえるのは骨を通したものと壁に跳ね返った響きの混じりあった曲がりくねったもので、鼓膜に真っ直ぐ届くものではない。

これは、誰でもそうである。

「感じる」ことは、だから、常に自己中心的であると言っていい。
「感じる」ことには、切り離された複数の異なる目盛りを持つことは出来ない。自分の外に自分の感覚を置くことは出来ない。そんなものは、決して「感じられる」ことはない。

で、さらに、
「感じる」
ものを(確実な世界として)信じるかどうか、は、
「アタイはジブンをシンジる!」
なんて安直であっていいのか、となると、難しい。
信じかたが頑固に自己中心的であると、もっと広く「感じる」ことが可能な世界への道を、自ら閉ざすことになるのではないか?

しばしば、愛想良く、いろんな世界、いろんな人の感性に向かって
「アタイはアナタをシンジてますから!」
みたいな笑顔を向けてみるけれど、そんな「アナタ」のほうからの応えが、「ジブン」が期待するような態度で返って来ない時、不愉快な気持ちに成る。
実は、これは「ジブン」が「ジブン」の思っている以上に頑固に、
「アタイはジブンをシンジる!」
なる意識を持ち続けている現れなのではなかろうか?

ある人の表面の性格から、その人が、そんなコダワリを持っていると断定することは出来ない。
「アタイはジブンをシンジる!」
的発言を日常的にしている人であっても、絡んでみると思いのほか、こちらの勝手な言い分に聴く耳を持ったりしている。
・・・このあたりは、狭い自分がその人を心から「鏡」とするに足るかどうか判別する上で大きな鍵になるように思っている。鏡に出来るのなら、虚像(これは比喩)ではあっても、その人からこちら自身の「何か」を新たに見いださせて貰う恩恵に預かれる。

逆に、会話する分には感じなかった不信を、突然持ったり持たれたりするのは、「ジブン」と「ジブン」がつまらないぶつかり合いをした状態を、その時のお互い、またはどちらか一方が、なんらかのかたちで創り出してしまっているからに他ならないだろう。

もともと入りは甘いくせに、おいらは猜疑心が強いほうではある。カカアがクッションになっているうちはそれで目をつぶれたりつぶってもらえたりしたことも多かったのだと思う。なので、男所帯で子供たちをダシに人と接することになってみてから、よけいにそんな思いが強くなって来ている。

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