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2011年1月 1日 (土)

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

去年一昨年のいまごろ何を宣ってたかな、と振り返ったら、まあちんまりしたもんだったなあ。前に綴ったものを読み返すと、なんかヘン。

というわけで、前だけ向いたほうが良いかもしれない。

小さな小さな世界の中でしたけれど、自分が自分が、としゃしゃりでるところから、子供たちの受験が口実とはいえ、ようやく一歩退く時間を持って、かえって物事の面白さが見えて来たのかなぁ、と思っています。まして、何事に秀でているわけでもありませんので、「いいもの」の見分け聞き分けがせめてもの分であると知ると、硬い引用になりますが、世阿弥のこんな言葉がいいなあ、と思われてきます。そんなふうに、子供たちをはじめ夢を追いかける人たちを、そしてもちろん、円熟の境地にあるかたをも、種類を問わず、精一杯応援できるようになっていければ、もっともっと面白かろう、と感じる年の明けです。

少年にてし出だす所の二曲の間に、舞にてもあれ、音曲にてもあれ、生得、舞へば面白く、謡へば感のあらんは、はや「苗」なるべし。苗をば何と育つるものやらん。ただ田水をたたえて、おのれと育つるばかりなり、と見えたり。さて、早苗ふしだちて、植田になりて、次第々々に本付く時分に、草を取り、水を入れて、雨を待ちて、やうやく稲葉になる頃は、肥立つ時なり。また、「稔る」とは、はや色づきて、日ごろ待ちつる雨水をも、今は厭ひて、日を待ち、陽気に曝して、これをもて扱ふは、稔らせむとなり。(世阿弥の「遊楽習道風見」という文)

いまのことばに直したもの
少年期に演ずる歌曲・舞曲のどちらでも、舞でもいいし歌でもいいのだけれど、生まれつきの素質で、舞えばおもしろく歌えば感心されるというのが、すでに「苗(なえ)」というのだろう。その苗をどんなふうに育てるか。ただ田を水でたっぷりにしておけば、苗自身で育つのだ、とおもわれる。さて、初々しかった苗も節が見えるように成熟して来たら、あらためて田に植えて、根が付いてくるころに雑草を取りのけ、あらためて水を入れて、降雨を待つ。ようやく稲葉になるころが(その苗だったものが)成熟に至り始める時なのだ。また、「稔る」とは、すでに、こがねに色づいて、それまでは欲しがった雨水をも今では必要としなくなるところからはじまるものなので、世話するほうとしては、日光を待ってそれにさらして、この稔って行く稲葉の面倒をみるのは、たくさん実が入るようにとするためなのである。(小西甚一訳をもとに改変)

まあ、ほんとに、この言葉がわかるくらいに、自分自身がもののよく見えるヤツになれれば、ということ自体が高望みかもしれませんが。

本年もよろしくお願い申し上げます。

ぼんやりいちにち過ごすつもりだったのに、娘が「外に行きたい」とうるさい。

あ〜あ。

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