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2010年12月26日 (日)

つくづく不思議で厄介なもの

こないだから講習会に行っている娘だが、夕べは夜更かしだったし、今日はレッスンがない、と言っていたので、10時半に目が覚めたとき娘が布団を上げていなくなっているのに気付いて仰天してしまった。
「どこへでかけたの?」
と、慌ててメールして、そのまま、11時に保険屋さんと約束なので駅前に出掛けた。保険屋さんと話している最中に返信あり、
「今日も普通に講習だけどなにか?」
「・・・いえ、べちゅになにも。」

生命保険は、カカアの急逝後、出費を抑えるので必死で見直した。そのとき
「残しておいたほうがいいですよ」
と言われた廉価なガン保険が商品として打ち切られるので、今後をどうするか、の打ち合わせだった。担当さんは替わったばかりの人。中身の話は、あらかじめ分かっていたことなので、少しで終わって、若い担当さんなので
「日曜にご足労頂いて・・・ご家庭は?」
と聞いたら、奥さんお子さんと不本意に別居中だそうで、
「私がもう少し分かってやっていたらこうならなかったと思うんですけれど。子供にも会いたいんですが、仕方ないですね」
と仰って、でも、決して暗い顔をなさらないので、偉いなあと思って、
「お若いから、いろんな可能性があるから」
なんて、慰めにもならない話をして別れた。
電話で二度聞いたお声に陰があるので何かなぁ、と思っていたら、こういうことだった。

人とはつくづく不思議なもので、よくよく耳をすませば、なんとなく感じる通りの何かを持っている。

好きな人、そうでない人、の別なく、「誇り」として持っているものは何か、なるあたりはビンビンに感じる。
それが対話をしなければならない相手さんであり、こちらも同様に「誇り」に思っていることに対して<感じてもらえない>となると、波長が合わないのが気になり出す。・・・気になる自分は未熟だなぁ、さほど誇れるものも持っていないのに小生意気だなあ、とも思うが、まあ自分の器がその程度なんだから仕方がなかろうか、との諦めもある。感情とはまた厄介なものである。接する相手さん誰もが、同じようなものをもっているんじゃないだろうか、と考えると、大事に思っている気持ちさえ通じればさらりと流して下さるかたは意外なほどに多いことにおもいあたって、
「ああ、やっぱりおいらは視野も世間も狭いかもなぁ」
と感じ直す。

昼飯は息子と2人。会話の中身はいつもだいたい息子が好きな野良猫か自転車、でなければ、文字にしてしまうと厄介だけれど「主観と客観ってなんだろうね」のようなあたりが最近のテーマになる。
それを子供の言葉でやりとりするので、覚えているときには
「今日はいい会話をしたなあ」
と思って文字に出来るのだけれど、今日は慌ただしくて、しかも体がどうも節々痛い(コメ担いだせいとかじゃなくて、ちょっと無理な動きをしたのが原因らしい)ので、動くことに精一杯で、忘れてしまった。

たまたま今読んでいる世阿弥の著作に、今日息子と話題にしたことが、ちょっと難しい言い回しで出て来ていたので、世阿弥さんに、僕なんかより立派な言葉で喋ってもらうことにする。

能を見ること、知る者は心にて見、知らざる者は目にて見るなり。(「至花道」)

舞に、目前心後と云ふことあり。・・・見所【けんしょ、観客席】より見るところの風姿【役者の演技】は、わが離見【客体化された自分のすがた】なり。しかれば、眼(まなこ)の見るところは、離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心【観客に同化した自分】の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。(「花鏡」)

(いまの言葉に直すと・・・舞に「目前心後」ということがある。「目を前につけ、心を後ろに置け」という意味である。・・・観客席から見る役者の演技は、離見すなわち、よそめに見た自分の姿である。であるから、自分の意識する自己の姿は、自分に執着して見た自分というものであって、けっして離れて見た自分ではない。離見という態度で見るときには、観客の意識に同化して自分(の芸)を見るので、このとき初めて自己の姿を完全に見極めることが出来る。自分の姿を見極めることができれば、どこでも完全に見るのである。けれども、自分の目で自分の姿を見るのでは、目前と左右だけは見られるが、後姿は分からない。自分の後姿が感じ取れなければ、自分の姿に世間の垢がこびりついていることをわきまえられない。・・・小西甚一訳を改変)

昼食の後、まだクリスマスプレゼントをあげていなかったので、息子をショッピングモールに連れて行った。
画材かデジカメか、で迷っていたのだが、いまでは店でなかなか売っていない1GBのSDカードしか使えないデジカメでずっと野良猫ちゃんや亡きカズトを撮影してきていたので、デジカメに落ち着く。今息子が使っているものは、子供たちがそれぞれ中学・高校に進学するときに入学姿を撮ってやるために買ったものだったが、それを買った当時の値段と、性能でも丈夫さでもずっと上の今日購入したカメラの値段が、1.5倍程度の差しかない。もっとも、店頭展示品を安く買ったからではあるけれど、それでもやっぱり驚いた。

帰宅したら娘が帰って来ていた。
講習会で、聴音と視唱(音を聞き取るのと、譜をはじめて見て歌う)のクラス分けで上級のほうのクラスに入った、と喜んでいた。
「そっちにうかって喜んでる夢をみたんだけど、見た夢を話しちゃうと反対になるから黙ってたんだ」
なることであった。

よろしうおました。

でも、体重が0.4キロ増えたのにはぎゃーぎゃーと絶望の声を上げている。

講習は明後日まで。
僕の勤務は明日まで。

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