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2010年12月23日 (木)

「いつもすべて覚えた事を全部忘れること」

薬切れでも落ち着いていられるようになってきたので、つい飲まずに過ごそうと思ってしまうのだけれど、通勤の電車で眠れず、昼寝の喫茶店でも眠れず、15 時ごろには明らかに体が緊張する兆しがあって(唇が少ししびれる感じになるのが自覚症状)、あきらめて安定剤を服用した。前ならば1時間もしないうちに居 眠りだったので、それが怖かったのだけれど、幸いにして17時頃にほんの少しうとうとした程度で済んだ。

そんな体調のなか、昼は12時半には喫茶店でテーブルに臥せって眠る努力をしたので、そこまでで読むのをやめたのが惜しかったが、至言に出会った。

結局芸術というものは、教えられて覚えるものではありません。ピア ノの譜と、謡のゴマみたいな節付の間に、何程の違いがありましょう。お玉じゃくしはいかに科学的に見えようとも、結局心覚えの他、何のタシにもならないこ とを、音楽家は誰でも知っている筈です。ましてそれ以上のこまかい説明や書き込みにおいてをやです。
(白洲正子『美の遍歴』102頁、平凡社ライブラリー 2010.12)

帰って来てツイッタを覗いたら、ヴァイオリンの、いわゆるモダンボウ(弓)が壊れてしまった、バロックボウは持っているけれど使えないだろうなあ、なる【本職さんの】ツィートがあって
「なんだ、せっかく持ってるんなら試してみればいいのに、使ってみたことないんだな」
と、もうそれだけで分かるから、当方は素人だが、ちょこっと
「使えますよ」
と入れた。
そしたら、別の人が
「きっとバロック弓の弾き方があるとか思う以前、モダンのようには弾けないっていうのが先にやってくると思います」
と返して来たので、あとで読み返すと僭越な言葉遣いかなぁ、と感じるのだけれど、
「所詮は道具を扱う感覚の問題なので、バロックとかモダンとかいう言葉で規定すると、かえって使えません。その道具がどんなアーティキュレーションやアゴーギクで使うと効果を発揮するか、をまずサラで感じるだけから始まるべきでしょうね。」
と重ねてお返しした。
・・・ま〜素人はあんまし口出ししないほうがいいな。

「モダン」と「バロック」という言葉の組み合わせを残したままいえば、弓がモダンでもヴァイオリンがバロックなら、本体の設計が「バロック」なのだから「バロック」の音になる。ただ、弓が「バロック」の声帯ではないので、語り口が「モダン」になる。
楽器が「モダン」で弓が「バロック」なら、響きがモダンになり、語り口が「バロック」になる。
あくまでも物理的な話で、このとき「モダン」とか「バロック」とかいう語彙は、物理の式を表わすための記号に過ぎないのだけれど、僕らは安易に、 そこを様式としての「バロック」なり「モダン」なりと混同してしまいがちである。記号に多重の意味を求めてしまうと、そういう錯誤が起こる。
まずは、まっさら、でなければならないわけで、これについても同じ本に、能の例でのいい言葉を見つけた。(新潮のとんぼの本のほうで、美しい写 真に即してもっと平易に分からせてくれていた筈だが、あまりにあれこればたばた読み散らかしていて、こないだ買ったばかりなのにいま行方不明である!)

お能を見る時も舞う場合にも、いつもすべて覚えた事を全部忘れること、それが一番大切です。謡の本などもっての外のこと。お能は読むものではなく、「見るもの」だからです。
(同じ本の、104頁)

ある団体で、ある曲を、みんながやりたいからといって始めたのに、全然モノにならないのだ、という話を小耳に挟んだ。
「かくいう自分も音にこだわりすぎてしまって」
と、良心的な話し手の方が仰るので、
「そうではないでしょう、音符にしがみついているのでしょう」
とお返ししてみた。
モノに出来ない人たちは、そのひとよりさらに、まず曲そのものが体に入っていないし、そこまでの必要性を感じ取っていないのだろう。・・・それで「やりたいからやってみたい」と言うのには、怖さを感じなかったのだろうか?

僕の恩師は嫌うのだが、僕は、入門者(初心は常に持つべきものだとの世阿弥壮年期以降の主張に従うなら、初心者という用語は不適切である)は、こ の録音の多い時代には、まず徹底的に、善いと思うものも悪いと思うものも、まず善し悪しを決めつけないで、徹底的に「聞き覚え」すればいい、と思ってい る。そのかわり、その「聞き覚え」は、細部の、演じ手のクセまで覚えきらなければならないところが、観念の出来上がってしまっている大人には難しい(い ま、能を「知ろう」と思ってしまって、なにかそこにとりこになってしまっていることが妨げになっているのだろう、それで自分も楽しく苦しんでいる)。
子供の時代から芸事をやっているほうがのぞましい、ということの肝要は、「見聞き」に対する素朴さをそのまま保たせ得るところにあるのであっ て、実は技術ではない。そこを勘違いして、読譜だの技術だのと、おのれが理解しているわけでもない<大人>がうるさくやってしまうから、早期教育はかえっ て、肝心の素朴な目耳を損なってしまうことが多い気がする。
(超人技の類いは例外・・・とはいえそれは本来はソリストで生計を立てたい人のための特殊なことでしかない。)

素朴な目耳が、豊富な「音や言葉や動作のニュアンス」を体に染み込ませたうえででなければ、楽譜だの台本だのというものが、何の役に立つだろう?

思いをどう表現すべきか、が肉体に染み付いていてようやく、聞いたこともない曲や見たこともない舞台の譜面でも情景の台本でも、初めてそれを読ん だだけでイメージを喚起し得るのであって、素朴さを失って<大人>になってしまった我々が、染み付いていもしない表現「手段」に闇雲にかじりついたところ で、何も聞こえず、何も見えはしないだろう、と思う。

白洲正子さんのふたつめの言葉
「謡の本などもっての外」
は、別段、暗記暗譜を「しなさい」という意味ではないことに留意しなければならない。暗記暗譜もまた、音符や言葉への「拘泥」を生むからである。
かといって、とくに劇的要素を持つものは空で歌い語れなければならないのだから難しい。
そこの急所を、「謡の本などもっての外」は、とても鋭く突いていて、本当のところは、とても痛い響きがする。
彼女は、すぐ前ではっきりこういっていることを、もういちど思い出しておかなければならない。

「いつもすべて覚えた事を全部忘れること」

・・・今夜は梅若六郎師の「卒塔婆小町」の古い映像(1967年のものだが劣化が激しい)に心魅かれた。シテの次第から始まる特殊演出なのだけれど、登場する老婆の顔が巧まずに笠に隠れている、その加減が、えもいわれず良い。

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