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2010年12月28日 (火)

つくづく不思議で厄介なもの

カカアの急逝後、生命保険を、出費を抑えるので必死で見直した。そのとき
「残しておいたほうがいいですよ」
と言われた廉価なガン保険が商品として打ち切られるので、今後をどうするか、の打ち合わせだった。担当さんは替わったばかりの人。中身の話は、あらかじめ分かっていたことなので、少しで終わって、若い担当さんなので
「日曜にご足労頂いて・・・ご家庭は?」
と聞いたら、奥さんお子さんと不本意に別居中だそうで、
「私がもう少し分かってやっていたらこうならなかったと思うんですけれど。子供にも会いたいんですが、仕方ないですね」
と仰って、でも、決して暗い顔をなさらないので、偉いなあと思って、
「お若いから、いろんな可能性があるから」
なんて、慰めにもならない話をして別れた。
電話で二度聞いたお声に陰があるので何かなぁ、と思っていたら、こういうことだった。

人とはつくづく不思議なもので、よくよく耳をすませば、なんとなく感じる通りの何かを持っている。

好きな人、そうでない人、の別なく、「誇り」として持っているものは何か、なるあたりはビンビンに感じる。
それが対話をしなければならない相手さんであり、こちらも同様に「誇り」に思っていることに対して<感じてもらえない>となると、波長が合わない のが気になり出す。・・・気になる自分は未熟だなぁ、さほど誇れるものも持っていないのに小生意気だなあ、とも思うが、まあ自分の器がその程度なんだから 仕方がなかろうか、との諦めもある。感情とはまた厄介なものである。接する相手さん誰もが、同じようなものをもっているんじゃないだろうか、と考えると、 大事に思っている気持ちさえ通じればさらりと流して下さるかたは意外なほどに多いことにおもいあたって、
「ああ、やっぱりおいらは視野も世間も狭いかもなぁ」
と感じ直す。

昼飯は息子と2人。会話の中身はいつもだいたい息子が好きな野良猫か自転車、でなければ、文字にしてしまうと厄介だけれど「主観と客観ってなんだろうね」のようなあたりが最近のテーマになる。
それを子供の言葉でやりとりするので、覚えているときには
「今日はいい会話をしたなあ」
と思って文字に出来るのだけれど、今日は慌ただしくて、しかも体がどうも節々痛い(コメ担いだせいとかじゃなくて、ちょっと無理な動きをしたのが原因らしい)ので、動くことに精一杯で、忘れてしまった。

たまたま今読んでいる世阿弥の著作に、今日息子と話題にしたことが、ちょっと難しい言い回しで出て来ていたので、世阿弥さんに、僕なんかより立派な言葉で喋ってもらうことにする。

能を見ること、知る者は心にて見、知らざる者は目にて見るなり。(「至花道」)・・・べつに、能に限ったことではなかろう。

舞に、目前心後と云ふことあり。・・・見所【けんしょ、観客席】より見るところの風姿【役者の演技】は、わが離見【客体化された自分のすがた】なり。しかれば、眼(まなこ)の見るところは、離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心【観客に同化した自分】の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。(「花鏡」)

(いまの言葉に直すと・・・舞に「目前心後」ということがあ る。「目を前につけ、心を後ろに置け」という意味である。・・・観客席から見る役者の演技は、離見すなわち、よそめに見た自分の姿である。であるから、自 分の意識する自己の姿は、自分に執着して見た自分というものであって、けっして離れて見た自分ではない。離見という態度で見るときには、観客の意識に同化 して自分(の芸)を見るので、このとき初めて自己の姿を完全に見極めることが出来る。自分の姿を見極めることができれば、どこでも完全に見るのである。け れども、自分の目で自分の姿を見るのでは、目前と左右だけは見られるが、後姿は分からない。自分の後姿が感じ取れなければ、自分の姿に世間の垢がこびりつ いていることをわきまえられない。・・・小西甚一訳を改変)

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2010年12月26日 (日)

つくづく不思議で厄介なもの

こないだから講習会に行っている娘だが、夕べは夜更かしだったし、今日はレッスンがない、と言っていたので、10時半に目が覚めたとき娘が布団を上げていなくなっているのに気付いて仰天してしまった。
「どこへでかけたの?」
と、慌ててメールして、そのまま、11時に保険屋さんと約束なので駅前に出掛けた。保険屋さんと話している最中に返信あり、
「今日も普通に講習だけどなにか?」
「・・・いえ、べちゅになにも。」

生命保険は、カカアの急逝後、出費を抑えるので必死で見直した。そのとき
「残しておいたほうがいいですよ」
と言われた廉価なガン保険が商品として打ち切られるので、今後をどうするか、の打ち合わせだった。担当さんは替わったばかりの人。中身の話は、あらかじめ分かっていたことなので、少しで終わって、若い担当さんなので
「日曜にご足労頂いて・・・ご家庭は?」
と聞いたら、奥さんお子さんと不本意に別居中だそうで、
「私がもう少し分かってやっていたらこうならなかったと思うんですけれど。子供にも会いたいんですが、仕方ないですね」
と仰って、でも、決して暗い顔をなさらないので、偉いなあと思って、
「お若いから、いろんな可能性があるから」
なんて、慰めにもならない話をして別れた。
電話で二度聞いたお声に陰があるので何かなぁ、と思っていたら、こういうことだった。

人とはつくづく不思議なもので、よくよく耳をすませば、なんとなく感じる通りの何かを持っている。

好きな人、そうでない人、の別なく、「誇り」として持っているものは何か、なるあたりはビンビンに感じる。
それが対話をしなければならない相手さんであり、こちらも同様に「誇り」に思っていることに対して<感じてもらえない>となると、波長が合わないのが気になり出す。・・・気になる自分は未熟だなぁ、さほど誇れるものも持っていないのに小生意気だなあ、とも思うが、まあ自分の器がその程度なんだから仕方がなかろうか、との諦めもある。感情とはまた厄介なものである。接する相手さん誰もが、同じようなものをもっているんじゃないだろうか、と考えると、大事に思っている気持ちさえ通じればさらりと流して下さるかたは意外なほどに多いことにおもいあたって、
「ああ、やっぱりおいらは視野も世間も狭いかもなぁ」
と感じ直す。

昼飯は息子と2人。会話の中身はいつもだいたい息子が好きな野良猫か自転車、でなければ、文字にしてしまうと厄介だけれど「主観と客観ってなんだろうね」のようなあたりが最近のテーマになる。
それを子供の言葉でやりとりするので、覚えているときには
「今日はいい会話をしたなあ」
と思って文字に出来るのだけれど、今日は慌ただしくて、しかも体がどうも節々痛い(コメ担いだせいとかじゃなくて、ちょっと無理な動きをしたのが原因らしい)ので、動くことに精一杯で、忘れてしまった。

たまたま今読んでいる世阿弥の著作に、今日息子と話題にしたことが、ちょっと難しい言い回しで出て来ていたので、世阿弥さんに、僕なんかより立派な言葉で喋ってもらうことにする。

能を見ること、知る者は心にて見、知らざる者は目にて見るなり。(「至花道」)

舞に、目前心後と云ふことあり。・・・見所【けんしょ、観客席】より見るところの風姿【役者の演技】は、わが離見【客体化された自分のすがた】なり。しかれば、眼(まなこ)の見るところは、離見の見にはあらず。離見の見にて見るところは、すなはち見所同心【観客に同化した自分】の見なり。その時は、わが姿を見得するなり。わが姿を見得すれば、左右前後を見るなり。しかれども、目前左右までをば見れども、後姿をばいまだ知らぬか。後姿を覚えねば、姿の俗(しょく)なる所をわきまへず。(「花鏡」)

(いまの言葉に直すと・・・舞に「目前心後」ということがある。「目を前につけ、心を後ろに置け」という意味である。・・・観客席から見る役者の演技は、離見すなわち、よそめに見た自分の姿である。であるから、自分の意識する自己の姿は、自分に執着して見た自分というものであって、けっして離れて見た自分ではない。離見という態度で見るときには、観客の意識に同化して自分(の芸)を見るので、このとき初めて自己の姿を完全に見極めることが出来る。自分の姿を見極めることができれば、どこでも完全に見るのである。けれども、自分の目で自分の姿を見るのでは、目前と左右だけは見られるが、後姿は分からない。自分の後姿が感じ取れなければ、自分の姿に世間の垢がこびりついていることをわきまえられない。・・・小西甚一訳を改変)

昼食の後、まだクリスマスプレゼントをあげていなかったので、息子をショッピングモールに連れて行った。
画材かデジカメか、で迷っていたのだが、いまでは店でなかなか売っていない1GBのSDカードしか使えないデジカメでずっと野良猫ちゃんや亡きカズトを撮影してきていたので、デジカメに落ち着く。今息子が使っているものは、子供たちがそれぞれ中学・高校に進学するときに入学姿を撮ってやるために買ったものだったが、それを買った当時の値段と、性能でも丈夫さでもずっと上の今日購入したカメラの値段が、1.5倍程度の差しかない。もっとも、店頭展示品を安く買ったからではあるけれど、それでもやっぱり驚いた。

帰宅したら娘が帰って来ていた。
講習会で、聴音と視唱(音を聞き取るのと、譜をはじめて見て歌う)のクラス分けで上級のほうのクラスに入った、と喜んでいた。
「そっちにうかって喜んでる夢をみたんだけど、見た夢を話しちゃうと反対になるから黙ってたんだ」
なることであった。

よろしうおました。

でも、体重が0.4キロ増えたのにはぎゃーぎゃーと絶望の声を上げている。

講習は明後日まで。
僕の勤務は明日まで。

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六回忌

カカアが別世界に生まれ変わっていって、今日が満5歳の誕生日となりました。

でも、日本の仏さんは満年齢では数えないんですね。
この世側からみたら、六回忌です。
この時刻の頃は、まだこの世にとどまろうとガンバっていました。2時に僕がうたた寝し始めたときは、鎌倉大仏をかたどった小さな仏さんを一生懸命拝んでいました。

何を思ったのか、教員の仕事も忙しいのに、小学五年生になった息子のPTAの役員を春に引き受けて、ますます忙しくなって、家事が面倒くさくなって、キッチンに立つと
「あ〜、五十になりたくない!」
とわめくことが多くて、49歳と9ヶ月で、ほんとうに50にならないで、急に倒れてあちらに召されました。
満年齢ではなくて、数えで歳を決められるので、位牌には「享年五十歳」と書かれています。位牌にそう書かれているのを見たとき
「あれまぁ、いやがってるだろうか?」
と、ちょっと苦笑いしてしまいました。

遺体をCTにかけたら、急に破れた心臓以外は、きれいで健康そのものでした。
なんで心臓だけが、と思いました。
でも、僕が前の年にウツになったりして、カカアは自分が負けちゃあいけない、と、一生懸命踏ん張っていたんでしょう、一生懸命過ぎて、早くへし折れてしまったんだろう、と思うと、僕はあのころの僕が日々悔いられます。

いまの僕は、志望校の講習から帰って来てくたびれてうたた寝する娘を叱りつけて起こして、風呂に入れようとしています。・・・もう何回怒鳴ったかなぁ。

自分自身は、昨日コメを買いに行ったとき、恥ずかしいことに体をヘンに捻ってしまったらしく・・・あるいは寝ぼけてどっかにぶつけたのかも・・・腰の上あたりが痛くて動きが自由にとれません。
明けたら墓参りに行きたかったけれど、ちょっと延長です。

息子は、自分でやったパンク修理がうまくいかなかったらしく、また部屋で折り畳み自転車のタイヤのチューブを水につけたりしています。

五年も経ったのか、いや、五年しか経っていないのか、と、なんだか妙な気持ちです。

目標にして来た、娘と息子の同時受験がうまくいくところまで、あとひとふんばりではあります。

父親としてやれるだけのことを、してあげただろうか?
子供たちのほうが、むしろいろいろ、僕にしてくれて来たような気がします。

カカアが死んだ朝は、急にかき曇って、トコロテンのような雨が降り出しました。そのあとはきれいに晴れて、そのまま、葬儀の12月30日を間にはさみ、お正月まで、ずっと快晴だったと記憶しています。

先日チェロ弾きの友人の奥様が亡くなった、その葬儀のときは、朝はもっと激しい風まじりの雨で、それが昼にはきれいに晴れました。
そういうときは、ああ、亡くなった人が、この世への思いをひとしきり泣いて、きれいさっぱり忘れて、あちらへ行くのだろうな、と感じます。
別世界に行くときは、こちらでの世界でのことを忘れる薬を飲むのだ、とは、竹取物語にあった話でしたっけ?

五年のあいだに、楽隊で大好きだったHさん、職場で尊敬していたKさんも、それぞれ急死なさったりしました。
反面、通ってくれていたクリーニング屋のオジさんは、ウチの前で倒れたところを近所の人たちが見つけてくれて、ウチの前で介抱して救急車に乗せてやって、一命を取り留めました。
実家の親父も、実家のほうで、似たようなことになって一命を取り留めました。

たくさんのみなさんの周辺でも、いろんな死と生が、ばたばたと繰り広げられましたね。

いのちとは、ほんとうに忙しいものだなあ、と、五年の月日を振り返って、あらためて思います。

僕の大切な、僕を助けて来て下さった皆様が、ぜひご健康を保たれて、元気で幸せに新たな年をお過ごし下さいますように。

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2010年12月23日 (木)

「いつもすべて覚えた事を全部忘れること」

薬切れでも落ち着いていられるようになってきたので、つい飲まずに過ごそうと思ってしまうのだけれど、通勤の電車で眠れず、昼寝の喫茶店でも眠れず、15 時ごろには明らかに体が緊張する兆しがあって(唇が少ししびれる感じになるのが自覚症状)、あきらめて安定剤を服用した。前ならば1時間もしないうちに居 眠りだったので、それが怖かったのだけれど、幸いにして17時頃にほんの少しうとうとした程度で済んだ。

そんな体調のなか、昼は12時半には喫茶店でテーブルに臥せって眠る努力をしたので、そこまでで読むのをやめたのが惜しかったが、至言に出会った。

結局芸術というものは、教えられて覚えるものではありません。ピア ノの譜と、謡のゴマみたいな節付の間に、何程の違いがありましょう。お玉じゃくしはいかに科学的に見えようとも、結局心覚えの他、何のタシにもならないこ とを、音楽家は誰でも知っている筈です。ましてそれ以上のこまかい説明や書き込みにおいてをやです。
(白洲正子『美の遍歴』102頁、平凡社ライブラリー 2010.12)

帰って来てツイッタを覗いたら、ヴァイオリンの、いわゆるモダンボウ(弓)が壊れてしまった、バロックボウは持っているけれど使えないだろうなあ、なる【本職さんの】ツィートがあって
「なんだ、せっかく持ってるんなら試してみればいいのに、使ってみたことないんだな」
と、もうそれだけで分かるから、当方は素人だが、ちょこっと
「使えますよ」
と入れた。
そしたら、別の人が
「きっとバロック弓の弾き方があるとか思う以前、モダンのようには弾けないっていうのが先にやってくると思います」
と返して来たので、あとで読み返すと僭越な言葉遣いかなぁ、と感じるのだけれど、
「所詮は道具を扱う感覚の問題なので、バロックとかモダンとかいう言葉で規定すると、かえって使えません。その道具がどんなアーティキュレーションやアゴーギクで使うと効果を発揮するか、をまずサラで感じるだけから始まるべきでしょうね。」
と重ねてお返しした。
・・・ま〜素人はあんまし口出ししないほうがいいな。

「モダン」と「バロック」という言葉の組み合わせを残したままいえば、弓がモダンでもヴァイオリンがバロックなら、本体の設計が「バロック」なのだから「バロック」の音になる。ただ、弓が「バロック」の声帯ではないので、語り口が「モダン」になる。
楽器が「モダン」で弓が「バロック」なら、響きがモダンになり、語り口が「バロック」になる。
あくまでも物理的な話で、このとき「モダン」とか「バロック」とかいう語彙は、物理の式を表わすための記号に過ぎないのだけれど、僕らは安易に、 そこを様式としての「バロック」なり「モダン」なりと混同してしまいがちである。記号に多重の意味を求めてしまうと、そういう錯誤が起こる。
まずは、まっさら、でなければならないわけで、これについても同じ本に、能の例でのいい言葉を見つけた。(新潮のとんぼの本のほうで、美しい写 真に即してもっと平易に分からせてくれていた筈だが、あまりにあれこればたばた読み散らかしていて、こないだ買ったばかりなのにいま行方不明である!)

お能を見る時も舞う場合にも、いつもすべて覚えた事を全部忘れること、それが一番大切です。謡の本などもっての外のこと。お能は読むものではなく、「見るもの」だからです。
(同じ本の、104頁)

ある団体で、ある曲を、みんながやりたいからといって始めたのに、全然モノにならないのだ、という話を小耳に挟んだ。
「かくいう自分も音にこだわりすぎてしまって」
と、良心的な話し手の方が仰るので、
「そうではないでしょう、音符にしがみついているのでしょう」
とお返ししてみた。
モノに出来ない人たちは、そのひとよりさらに、まず曲そのものが体に入っていないし、そこまでの必要性を感じ取っていないのだろう。・・・それで「やりたいからやってみたい」と言うのには、怖さを感じなかったのだろうか?

僕の恩師は嫌うのだが、僕は、入門者(初心は常に持つべきものだとの世阿弥壮年期以降の主張に従うなら、初心者という用語は不適切である)は、こ の録音の多い時代には、まず徹底的に、善いと思うものも悪いと思うものも、まず善し悪しを決めつけないで、徹底的に「聞き覚え」すればいい、と思ってい る。そのかわり、その「聞き覚え」は、細部の、演じ手のクセまで覚えきらなければならないところが、観念の出来上がってしまっている大人には難しい(い ま、能を「知ろう」と思ってしまって、なにかそこにとりこになってしまっていることが妨げになっているのだろう、それで自分も楽しく苦しんでいる)。
子供の時代から芸事をやっているほうがのぞましい、ということの肝要は、「見聞き」に対する素朴さをそのまま保たせ得るところにあるのであっ て、実は技術ではない。そこを勘違いして、読譜だの技術だのと、おのれが理解しているわけでもない<大人>がうるさくやってしまうから、早期教育はかえっ て、肝心の素朴な目耳を損なってしまうことが多い気がする。
(超人技の類いは例外・・・とはいえそれは本来はソリストで生計を立てたい人のための特殊なことでしかない。)

素朴な目耳が、豊富な「音や言葉や動作のニュアンス」を体に染み込ませたうえででなければ、楽譜だの台本だのというものが、何の役に立つだろう?

思いをどう表現すべきか、が肉体に染み付いていてようやく、聞いたこともない曲や見たこともない舞台の譜面でも情景の台本でも、初めてそれを読ん だだけでイメージを喚起し得るのであって、素朴さを失って<大人>になってしまった我々が、染み付いていもしない表現「手段」に闇雲にかじりついたところ で、何も聞こえず、何も見えはしないだろう、と思う。

白洲正子さんのふたつめの言葉
「謡の本などもっての外」
は、別段、暗記暗譜を「しなさい」という意味ではないことに留意しなければならない。暗記暗譜もまた、音符や言葉への「拘泥」を生むからである。
かといって、とくに劇的要素を持つものは空で歌い語れなければならないのだから難しい。
そこの急所を、「謡の本などもっての外」は、とても鋭く突いていて、本当のところは、とても痛い響きがする。
彼女は、すぐ前ではっきりこういっていることを、もういちど思い出しておかなければならない。

「いつもすべて覚えた事を全部忘れること」

・・・今夜は梅若六郎師の「卒塔婆小町」の古い映像(1967年のものだが劣化が激しい)に心魅かれた。シテの次第から始まる特殊演出なのだけれど、登場する老婆の顔が巧まずに笠に隠れている、その加減が、えもいわれず良い。

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2010年12月 1日 (水)

Here are my friends, but no human ones(息子の作文の英訳)

すてきなブログを綴り続けていらっしゃるCurraghさんが、先日掲載した息子の作文を英訳して下さいました。

深く御礼申し上げますとともに、掲載させて頂きます。

Here are my friends, but no human ones

I have fewer friends in terms of 'human beings'.  I don't know why, but I often find myself embarrassed when I ask or talk with somebody. Not that I am never a complete inadequate communicator.  But compared with others, I am not good at handling such face-to-face communication.

Right now I love cycling to a large park nearby, where a dozen of stray cats and a rooster find their shelters. They make me so comfortable that they let me open my heart.  There, I am acutely aware that they also have different expressions or characters, just like we humans. Some are trying to kick in their hind legs at me while pressing the fore legs tight against my hands when I stroke their bellies; others standing bolt upright and thrusting their heads eagerly against my palms when I try patting their heads. They are very different sorts of cats indeed.

Here the rooster, an old one, is so nimble as if he were a younger one, because each time he finds his human friends, he is always rushing at them.  I don't know where he came from;  perhaps he might flee from somewhere else. He is extremely friendly, and he is eagerly expressing his glee to humans when he meets them, and he does so even when they come without bringing any food.  An amiable rooster. 

I have had the time of my life with them, but of course there are some of bitter moments; encounter with them, and then comes sad parting. Every year some of them have been gone, either taken away or died naturally.'I don't blame the takers for whisking them away,  because some are stray cats, but others are not homeless. In this park, they have their own friends. Taking them away means breaking their friendship, including mine;  the rest of us lose our playmates. I miss them, too.  So I don't want to see them taken, without any special reason for it.

Last year, at a corner of building materials site in the park, there lived a white kitten and an adult calico cat. On one summer day, suddenly the senior one disappeared. The senior cat was the only playmate for the white kitty. The kitten looks so poor, so I felt very frustrated that I couldn't stop the playmate cat from being taken. Please do not take them away merely because they look cute. If you try to do something with any good intention, there are some cases where the results might be worse than you thought.

And for me, in the process of playing with them, somehow I find myself getting better at interacting with humans. Perhaps the cats and the old rooster have taught me something; anyway I feel very grateful to 'my friends' for being well together. Let's keep our friendship alive as ever, guys!   


なお、curraghさんのブログはこちらです。ご愛読頂けましたら幸いに存じます。

http://curragh.sblo.jp/

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