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2009年9月26日 (土)

涙を流せるから生きている

今日、職場を訪ねて来てくれた前の上司とお茶飲み話をしました。
会社が異動の時期ですので、その悲喜劇の話から始まって、それぞれの家庭の事情やら、周囲の人におこったことやら何やらで、20分のつもりが1時間ほど話し込んでしまいました。
まあ、細々したあれこれは措きます。

元上司曰く、
「とにかく、どこもかしこも、いろいろあらあなぁ」

本当に、なにも抱えていない人はおらず、なにも抱えていない家族はいない。
決してくらいムードで話しているのではないのですが、中身をつらつらかえりみるに、
「オレも辛い、おまえも辛い、あいつも辛い、きっと誰もが辛いんだろう」
話はそんなほうに向かうのです。

人間、どこに幸せがあるんだろうか、と思うくらい、いまここで話し合っている二人以外も誰も彼も、なにかしら試練を抱えながら日々を過ごしているのだ、と、なぜだか今日は二人して、話の終わりのほうでは世の中みんなが切ないんだなあ、と、しみじみ、そんな思いにひたっていました。

で、またまた元上司曰く、
「でもさあ、辛いってことが、生きている証なんだよな。涙がながせる、ってことがな」
酒癖の悪かったおっさんのくせに、妙に立派なことを言うもんだ、と、今日ばかりは感心しました。

洗礼を受けたわけでもないから聖書を引き合いに出すのはもってのほかなのかもしれませんが、これまたどういうことか、元上司の言葉から私が連想したのは「エデンの園」でした。

蛇からリンゴを受け取って齧った瞬間、
「パラダイスを追い出された」
人間たち。

・・・このはなし、本当に『失楽園』を語ったはなしなのだろうか?
・・・もしかしたら、違うんじゃないか?

リンゴを味わうまで、人間には、もしかしたら感情の起伏というものもなかったのではないか?
エデンの園が「喜び」の世界だなどというのは、嘘八百なのではないのか?
何故なら、辛さを知らずにラクは分からず、悲しみを知らずに喜びが分かるはずがないからです。
心に涌くある感情というものは、比較でき対照出来る感情というものがあってはじめて、自分の心にどういう作用をもたらすか分かるのだ、と思うほうが自然です。
とすると、「エデンの園」から出て行くことで初めて、人間は「辛さ・悲しみ」を知り、涙が流れるということを知り、だからこそ、「エデンの園」という<ふるさと>が自分にあって、そこにいることが安楽でも喜びでもあることを「相対的に」知ったのではないか?

「知る」ことが原罪だ、ということを、もし私が中世のキリスト教圏の住人として否定していたのであれば、たちまち「異端」として追放されたことでしょう。ルネサンス期だったらもっとえらいことで、「異端」即「火刑」だったでしょう。

でも、旧約聖書では「エデンの園」から出たのが「追放された」と表現されてはいるものの、そうではなくて、この話の本質は、自らの心を知ることによって<ふるさと>に安住していては得られない「心の豊かさ」を求めて、アダムとイヴが、実は自分たちのこころのきめたことにしたがって「ここを出よう」とした、というところにあるのではなかろうか、と、私にはどうしてもかように思えて仕方なかった次第です。
それを「神から追放された」と表現するのは、出発に当たってはまだ「自分の意思」とは何か、を悟るところまでは人間が達していなかったことを物語っているに過ぎない・・・

これは、罰当たりな発想でしょうか?

今週はとりたてて綴った記事がありません。

毎度の駄弁失礼致しました。

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2009年9月18日 (金)

アルバム:息子の絵1

最近、息子が自己流で絵を描き始めました。
水彩絵の具、アクリル絵の具を使っています。
描いた順番に並べておきたいと思いました。
「作品」としてではなくて、息子の心の履歴書として、です。
なにせ、自己流ですから、技術も何もありません。
ただ、描くということは、やっぱり心を正直に表わすものだなあ、と感じております。

8月下旬から昨日現在までに描いたものです。

また随時、掲載して参ります。

・ひとりたび
Ai

・宇宙旅行
Spacechicken

・けなげ
Kenage

・決意
Eye

・地球とUFOとロケットと
Chikyu

・未来予想図
Fortune

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