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2009年2月28日 (土)

最悪の「権力」は自分の内に存在する

明日明後日、娘と息子と3人で、スキーに行って来ます。
(ですので、新ブログの方にもこの2日間は新しい記事は綴りません。)
TMFのかたには毎度申し訳ありませんが、練習はお休みさせて頂きます。

スキーの宿は、家内の生前、4人で泊ったところにしました。
小さかったけれど、あったかい感じがしたのを覚えていて、確認したら空いていたので、救われた気がしました。

明日明後日という予定にしたのは、ちょうど高校受験期で、娘の学校も受験生に乗っ取られますので、昨日から月曜日まで休みだからです。

で、いま、まだ、明日出掛けるための準備をみんなで「呑気に」やっているところです。

前に行った時にゴーグルやグローヴは買ったはずだ、でもカアチャンが死んだあと、どこにしまったっけな、ということで、手分けして探したら、息子が見つけて来ました。中に、家内の使っていたグローヴとゴーグル(これはスキー場で買ったのでみんなお揃いです)と帽子も入っていました。
で、これを、私のリュックの底に入れて、いっしょに連れて行くことにしました。

スキーのこととは話が変わりますが、休み中の娘が、映画を見たいと言い出したので、今日は「映画好き」の息子の方と、ではなく(息子は普通に学校に行きましたし)、娘と二人で映画を見に行きました。

「チェンジリング」という、クリント・イーストウッドが監督した映画です。

ご存知のかたも多いようですが、私は娘が行きたいと言うまで知りませんでした。
1928年にロサンジェルスで起こった史実を元にした作品だそうですね。
で、その内容が、行方不明になった子供の捜索願いを出したシングルマザーの元に、「見つかった」と警察がつれて来た子供が全くの別人だった、にもかかわらず、その旨を警察にいくら言っても取り合ってもらえず、しまいにはこの母親は警察の勝手な措置で精神病院に入れられてしまう・・・という、ちょっと恐ろしい内容です。この映画の主人公も、私も、片親ですので。
ですから、初め、私はためらって
「別の映画にしないか?」
と娘に持ちかけたのですが、すぐに考えを変えて、やっぱりこの映画を見る決心をして出掛けてきました。

史実の通りでは「物語」になりませんので、もちろん創作という手段でエピソードが繋がれているのですが、こんなに自然な繋がりで、しかも事件の重大さにも関わらず場面の転換を淡々としていくだけというシンプルな脚本が、脚本の特徴をそのまま活かした非常に素晴らしい映画を生み出したのには、初めてお目にかかりましたし、だからこそ感動もひとしおでした。
映画の方もブログを設けているので、今日はこの映画のことを綴っておこうか、とも思ったのですが、映画のことを綴るのは、不慣れでもあるためでしょうけれど、非常に難しいですね。で、他日を期すことにしました。

作品のこの先の展開をご紹介出来ないのは残念ですが、是非(出来れば映画館のスクリーンで)ご覧になり、かつ予算がお許しになるのでしたらパンフレットをお買い求め下さい。
とある映画監督以外の感想以外には読むべきことがあります。

それらに共通するのは
「この映画は、不健全な公権力と戦って勝利を収めたひとりの女性の、精神の強さを描いた作品だ」
というスタンスであり、これは映画を素直に見ればもちろん正しいのですが、ほんとうはこの映画はそんな言葉では尽くせない深さを持っている、ということは、(一監督を除けば)エッセイを寄せた誰もが知っているのです。

そこには、いくつかの重要なメッセージがありました。
・「こっちのほうが正しい」と主張するだけでは勝てない「悪」がある。
・それは、必ずしも、「悪」が大きな存在であるということを意味しない。
・ただし、「権力」への執着が「悪」を生み出すという点では、「権力」の大小に関わらない問題である
そこから導き出される「モラル」は、この映画の範囲外のことではあるのですが、
・最悪の「権力」は、油断すればいつでも、まず自分の内に芽吹き、自分自身を支配する
ということでもあります。

(私も含め)自分以外の人にたいしてだけ、「権力による悪」を批判しがちな日常をおくりがちですけれど、この映画の中で、主人公の母親が(それは彼女自身にとっては一番幸せな結果を持って来てくれたものではありませんでしたが)「権力」に執着する市当局や警察に対して、ただ無心に「私は、私の本当の子供がどこにいるか知りたいだけなの」と繰り返すことで周りの人々の力を彼女の元に吸い寄せ、「周りの人たちのための」勝利を獲得した姿には、たとえどんな小さなものでも、「地位」だとか「名誉」だとか「権威」を獲得しようと欲を出したとたんフイになるであろう、素直であるときの人間本来の力というものが、いかに大きくて代え難いものであるかを教えられた気がします。


今週綴った記事
・モーツァルト:イ短調ピアノソナタ冒頭の響き(平均率でも中全律でも)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-fef5.html
 ※ 次記事に含めたかったことをも述べています。


・2月8日練習記録(TMF)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/tmf-a645.html


・オーケストラの規模(メモ)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e2c0.html
 ※ 19世紀を中心にオーケストラ規模の変遷を数字にしました。


・2月21日練習記録(TMF)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/tmf-bad2.html

以上でした。

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2009年2月20日 (金)

「正しい」という言葉への、ふとした思い

文章力がないため長文になりますので、咲きにこの1週間綴った記事のリストを掲載しておきます。

・「正しい」という言葉への、ふとした思い
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-1757.html
 ※ 今日の本文と同じです。
   ただし、リンク等、こちらでは貼っていないもの、
   文字の色を変えたところなどがあります

・曲解音楽史55)多様化するイタリアバロック
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/55-e145.html

・プロオケの財政(大阪センチュリー助成金問題を振り返って)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-ec7f.html

・モーツァルト:レ・プティ・リアンK.Anh.10(299b)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/kanh1299b-ce06.html

・2月14日練習記録(弦分奏):TMF
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/tmf-66fd.html



ふりかえってみれば、「うつ」になった自分が、「何かを見つけなおそう」と思ってブログを始めてから、早3年半が経ちました。
思いがけないことに・・・それは本当に、未だに残酷な夢のようで、私に追い討ちをかけ、いちばん信じられずにいつづけていることなのですが、
「お医者さんの話だと、ようやく、薬がやめられそうだよ」
「そう、よかったね!」
と、いちばん喜んでくれた家内が、ブログを始めてたった7ヶ月後、こんな会話をした本の数日後に、急死してしまいました。

それが、私をいっそう、ブログなんぞを綴ることにのめりこませたいちばんの要因です。
で、様々ありまして、最初綴っていた私的なことは、ブログのサーバの業者さんの仕様変更に伴ってこちらを新設しなければならないという事情が発生してから、こちらでは殆ど綴らなくなっていました。
またちらちらと綴り始めたのは、「好きな曲」として分けたカテゴリの中でであることが殆どで、併せて旧ブログには、週1回、オーケストラ仲間の皆さんへお出ししているメール(みんなさぞ迷惑していることでしょうね!)を少しだけ手直しして載せるようになりました。

家事もあるのですが、それでも殆ど休まず続けてこれたのは、まだまだ学業半ばの子供たちがだんだんに家事分担も手際よくこなせるようになってきてくれたこともありますけれど(感謝)、何よりも、心のどこかに
「そうだ、綴りつづけることを、やめてはいけないんだよ!」
という、誰からでもない言葉が聞こえてくる気がするからです。
「なぜなら、お前には、学ばなければならないことがまだまだあるから」
・・・そして、学ぶということは、一生続くものだから、という声です。



初めは粗々でしたし、いまでもパッと飛びついた本や音楽や映像には動物的に
「あ、これはいい! これはいかん!」
と思うとまず何も顧みないで所感を述べてしまったりする軽率さは・・・生来の性格なのでしょう・・・やっぱり抜けずにおります。

が、それでも、とくに家内を亡くしてからは、「意味を<読む>」大切さを、つくづくと感じながら、一度飛びついたものを見直してみる精神も、ちょっとは自分の中に芽生えてきたような気がしています。

これはひとえに、まだ家内の生前からブログ上でお付き合いを始めさせていただいたガメラさん(改めイワンさん)、JIROさん、仙丈さんを初めとする皆さんが都度ヒントを下さったおかげですし、直接ご本名を挙げて恐縮ですが、文学にからきし疎い私が、杉山欣也さんのご著書『三島由紀夫の誕生』を拝読して徹底して思い知らされた、「分析的にものを見るプロセスの大変さ、それでもそれを可能な限り<客観的にまとめ上げる>努力の継続の重要さ」が、たかが一介のサラリーマンの趣味であっても、可能な限りはただの娯楽に済ませず、予算と機会に限りはあっても可能な限りの調査は肯定的なもの・否定的なもの両面からなされなければならず、「では、本質のありかはどこか?」を見極めなおさなければならない、との思いを私に強く持たせてくださったおかげです。(ついでに言えば、杉山さんの客観的態度は、「三島由紀夫」と併行して「小林多喜二」も観察できてしまう・・・とくにご年配のかたにはこんな併存は信じられないでしょうが、いずれの作家・作品に対しても、「温かい目」を失わずに客観性も保つ、という目が備わっています。「温かい目」というのも、あまりに軽率に熱に走る著作が、今の日本には分野を問わず新発刊され続けている事実を前にしたとき、非常に重要な、取り戻すべき本質のひとつであると思います。)



きちんと理解できていないので恐縮ですが、杉山さんの「方法」は、およそ<三島由紀夫>と称するようになった一作家が、現在の既成の価値観で「右かどうか」などという結果から見た勝手な主観で判断されることを白紙に戻すことからスタートしている点で、衝撃的でした。

それまでめぐりあったいろいろな書物、とくに音楽の「演奏法」とか「解釈」を建前とする書物などは、きちんとした定義を全く明示しないままに、筆者の中には出来上がっているだろう「定義」が独走しているケースばかりでして、それを振り返ってみると、本当の意味の「良書」は、少なくとも私にとっては、ブログ中で夢中になって誉めてしまったものはあるにはありますが、読み返すと「あれ? これ、分かんねえや」というものが多いのです。(訳書でしか読んでおりませんが、これは、クヴァンツやレオポルト・モーツァルトの時代のヨーロッパの著作では初歩から入って彼らの考える本質までを順序立てて述べているという点で、遥かに優れています。)
それでも生涯で今でも「これはいい」と思っている本は2つあります。ただし、そのひとつである諸井三郎さんが書いた音楽理論の入門書はもう手に入りません。
もうひとつは、近衛秀麿著『オーケストラを聞く人へ』で、これはこんにちでも入手可能です。本当に初めてオーケストラというものを聴く読者に向けて、これ以上懇切丁寧に、分かりやすく、しかも極力筆者像を前面に出さないで述べた書籍は、以後全く発行されていません。音楽なんて誰が作ったものでも、心を捉えてしまえばそれは神様からの贈り物だ、とでもいった趣旨の、とあるささやかなエピソードに始まり、楽器の紹介、管弦楽法(オーケストレーション)の基礎にまで言及し、(ここ以降はもはや歴史的記録になってしまいましたが)欧米の名ホールの音響がどうしていいかの説明があり、名指揮者の紹介があり・・・近衛さん自身の音楽に対する「価値観」などは、表面上、みじんも現れない書籍です。・・・たとえ近衛さんがNHK交響楽団の自立の上では障害となった面もあった、という伝記的事実があるにしても、この「記述の客観性」は、完全にそんな「俗な」近衛さんの人格を超越しています。
「なぜ、このような記述方法に倣う書籍が、音楽には現れないのだろう」
日本の近衛氏やヨーロッパ18世紀の音楽家たちの著作と対比しつつ、つくづく顧みるに、それだけ音楽というものは人の主観・感情に直接訴えかけるから主観性が強くなりがちなのかもしれません。

客観的であろうとすると、とかく「作品はこうあるべきだ」・「演奏はこうあるべきだ」・「聴かれ方はこうあるべきだ」という<主義>が、ご著者にとっての<主観的音楽>から脱しないままになされがちだからなのではないかと思います。・・・たとえ、記述の前提が楽譜への回帰を訴える「原典主義」、その校訂の是非を問う「作曲の原点主義」であっても、残念ながらそれだけでは、音楽全体を「客観的に」捉えたことにはならない。なぜなら、そこには「批判される素材ありき」での話の進行があるからです。・・・「白紙」に戻っていない。
資料を提示しているから「白紙」の証拠、というふうには、ならないのですが、そこのところが著述をなさるにあたってご著者が理解なさっていないのではないでしょうか? 振り返って見ると。最近読んだ日本人の著述は、話の順番が「論が先、証拠は中出し、論の再強調」であるものばかりでした。

これがいかに「こんにちの一般的な日本の出版物」に見られる偏った傾向であるかは、人類の「理性的な著述」の出発点であるプラトンの対話編(短いものでいいのです)や・・・このような「読み」をするのはご信仰のある方には切ない面もあるかも知れませんが・・・旧約聖書の『創世記』、あるいはまるきり文学作品であり、より新しく、一見筋が通っているのかどうか分からないカフカの諸編などを読み込んでみても、それらに共通する著述態度から日本の最近の書物が大きくずれていることをよくよくお読み取り頂ければ、その異常事態ぶりには気づいていただけるものと思います。



およそ最近の私の方針からはずれたことを述べてしまいました。それでも、本当は話題を書物に限らないところまで拡げたかったのですが、本日も長くなりましたので、他を省略して、今回の文を綴るにあたって考えたことを、いきなり、まとめてしまいます。

「<正しいのはこれだ>という言葉が自分の心を支配したら、そのことはいったん白紙に戻さなければならない・・・その上で、自分をもう一度、自分に出来るだけのいろいろな角度から眺め直さなければならない。それがひとりでは出来ないことだったら、聞きにくいことを言う人の言葉にも耳を傾け、その言葉に嫌悪を感じるのなら、その嫌悪の正体はなんなのかをも見極めなければならない。好意ある言葉の中にも、有頂天にならずに、その好意がなぜ寄せられたかを、やはりもう一度自分に戻して見直してみなければならない。・・・<まだ見落としていること、誤解していること>が、必ず残っている・・・私が人間であるならば、必ず。」



でもって、ここで本来の自分に戻って、音楽の話で締めましょう。

本来は「歌詞」のない器楽に、ベートーヴェンは最後の弦楽四重奏曲の最後の楽章で、言葉を与えました。
"Muss es sein?"(しかあらねばならぬのか?)
"Es muss sein!" (しかあらねばならぬのだ!)


スメタナ弦楽四重奏団(1968) 日本コロンビア 25CO-2547

この厳しい言葉が愉快な音調で「語られている」ことから、ベートーヴェンが思考を「愉しんだ」ことが伺われます。
では、これは彼の人生の総決算の言葉として、日本流に言えば「悟りの境地」に達したからこそ発し得た音楽の言葉なのでしょうか?
・・・そうであるとも言えるでしょう?
・・・でも、ほんとうに、そんな一面的なものに過ぎないのでしょうか?

この四重奏曲は、甥カルルの自殺未遂事件が一段落したあとのベートーヴェンが作ったものです(カールの自殺未遂は1826年7月30日。ベートーヴェンの本四重奏曲への着手は7月中、完成は10月13日)。
傷からの回復過程で、カルルはベートーヴェンに「軍人になりたい」と・・・ホンネだったかどうかは伺う由はありませんが、とにかく、音楽家以外のものになりたいと・・・打ち明けており、議論の末だとベートーヴェンは記していますが、結局のところカルルの意志を認め、そのために骨を折ったり、今までの反省を踏まえてカールの心を傷つけないよう配慮しているさまが、この頃残した書簡の言葉の端々から伺えます。
その間、私は目に出来ないのですが手帳の方にはあるのかもしれず、本作についてなにも語っていないかどうかは断言できないのですが、書簡上では10月13日付けのもので触れられているのが本作かどうか明確ではありませんが、そうだとしても、それまでの創作過程についてはなにも綴り残されていません。
ただ、先立つ9月22日頃の書簡の末尾(追伸の前)には、果たして戯れからだったのでしょうか、死を象徴する十字マークを記したりしています。

いろいろなことが考えられます。

"Muss es sein?"(しかあらねばならぬのか?)
"Es muss sein!" (しかあらねばならぬのだ!)

は、ひとつには、「我が子」カルルが父ベートーヴェンの意志にも関わらず「自分なりの道」を見出そうとしていることを認めなければならないのだ、という心情かも知れませんし、作曲中に綴った書簡の中で死を象徴したマークを記したりしているからには、「この現実は私の<願い>の死滅を意味するけれど、それは従容と受け入れなければならないのだ」という決心のようでもありますし、とにかく複合した心理から発せられた言葉ではないのか、というような、推測。
でも、とにかくベートーヴェン自身が、この言葉に時分のどんな心情を込めたのかについては、なにも述べていませんから、真実はベートーヴェンと共に墓に葬り去られたのです。
ロマン・ロランあたりなら、これを人道的に解釈した文章を残しているかも知れませんが、私は読んでいないか、あったのが目に入ったことがあったとしても、全く記憶していません。

ですが、記憶していたところで、何の意味があるでしょう?

私たちはただ、ベートーヴェンがこの言葉を付して書き残した動機を、なぜ今聴けるようなかたちの音楽に仕上げたかを、私たち個々の経験に照らし合わせながら、しかし、個人のうちに留まらない、人間の生き方としての何かに、静かに耳を傾けなければならないのです。

肖像画でイメージされる彼の顔も、忘れておくことが必要です。

この作品でのベートーヴェンは、心底、済んだ「笑み」を、そしてときにもうすこし明確な「笑い」を響かせています。・・・それらの「笑み」・「笑い」が、私たちの「笑み」・「笑い」と一体になったとき、それがたとえベートーヴェン自身の生前の「ほんとうの」意図と一致はしていないとしても、<心の真理>としては、幾何学模様として必ず「合同」なのです。つまりは、一体になったときには、「合同」図形を描いた筆記用具がベートーヴェンでは実際に彼が使った筆記用具、なのではありませんし、私たちがそれを心に描く時に用いる筆記用具なのでもないのです。

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2009年2月13日 (金)

きうつ

人さまには極力そう見えないように振る舞っていますし、ものも綴っていますが、(それで、どうも勘違いもされてしまうようですが、2月も気候の変動が激しく、打ち明けますと、今日も上司に

「このまま私のような者が働いていていいのですか?意識が急に飛んで行って、それまで集中できていたのがウソのようになるんです。それを30分くらい、他所を徘徊して何とかごまかすしか手がないんです。」

と泣きつきました。

いまは経済情勢も経済情勢ですが、それとは関係なく、私の職場の仕事は昨年9月の保険業法改正以来(小規模ではあるものの、それに関係する仕事ではありますので)、誰も彼もが忙しい。
そんななかで、私は、日に必ず一度は、上のような状態に見舞われるのです。ひどい時は回数はもっと増えます。
それを了解してもらっているのは、今日相談した上司だけです。
ただし、もちろん、子供たちの進学が続く限りは平常勤務を装わなければなりませんから、内緒に、とはお願いしています。
ですので、当然、上のような行動は、同僚から見ればサボりにしか見えません。
・・・やはり、良心がとがめます。

「でもなあ」
私の勤務先は世間様の中ではまだマシな方で、産業医という人が相談に乗ってくれるのですが、私はこの産業医さんが、あまり信頼できません。で、そのことを上司も知っています。
「だから、仕方ない、デコボコが激しい時が大変なのは分かるけれど、それは誰にでもあることで、kenさんはその程度が人より強くなっているだけなんだよ。素人だから、僕にうまくは言えないけれど。だから、もう少し辛抱してみたらどうだい?」
そう言ってくれました。

来週末にカウンセリングを受けるので、今日は性急に結論を出さず、カウンセリングの結果でもう一度相談することにしました。

子供たちに心配もかけられませんし、稼ぎも確保しなければ、子供たちを夢の入り口にも立たせてやれませんから・・・少し冷静に戻って、まあ、ここは信頼する上司の言ってくれたことを力に、もう少し踏ん張ってみようかな、と思っております。

他にネタが思いつかなかったので、みっともないお話ですみません。
かつ、時々メールで励まして下さる方には、あらためて御礼申し上げます。


今週綴った記事
・YUIスクールライヴ再現! 場所は大宮光陵高校:日本テレ、2月17日(火)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/yui17-abd3.html
 ※ CMの回数が減ってソニーさんの苦戦も気になりますが・・・

・テンポ備忘録(聴き手のための楽典:番外)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-2e01.html
 ※ クヴァンツ、L.モーツァルト、バドゥラ=スコダのテンポ説明
   を引用しました。

・曲解音楽史54)オペラのイタリア
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/54-3b4b.html
 ※ 1600年に出版された史上初の3つの歌劇、聴いたことあります?
   ほんのちょっと、こちらでお聴き頂けます。

・チャイコフスキー「冬の日の幻想」から:好きな曲023
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/023-723c.html
 ※ 家内との思い出、学生時代の思い出が重なり合っての選曲

・アリストテレース『詩学』:(古代ギリシアの音楽観1)曲解音楽史番外
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-7705.html
 ※ イタリアバロックを考える上では古代ギリシアの音楽理論知識は
   欠かせません。ちょっと出し、でご紹介していきます。

・モーツァルト:「新たなる作品1」ヴァイオリンソナタ7曲(マンハイム-パリ)
 http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/--6c1c.html
 ※ 2年半で、やっと22歳の彼にたどりついて半ばに達しました。
   遅いよ!

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2009年2月 6日 (金)

ことば

この夏(8月2日)、ある志をお持ちの方が、私の地元、埼玉県越谷市で、チャリティコンサートを開きます。曲目はモーツァルトが2曲なのですが、メインは「レクイエム」です。
私も出演しますし、とくに弦楽器メンバーをお願いする方にはまたあらためてお願いのし直しも必要で、そろそろ動き出さなければいけないのですが、大変恐縮なことに、サボっております。
ですが、トロンボーンだけは娘の恩師とそのお知り合いの二人の「プロ」にご依頼が済んでおり、その気にもなって頂いております。
娘も、そのあおりで出演することになりました。
今日、師匠から3番トロンボーンのパート譜の写しを渡され、
「コピーを取ったら、音符の下に曲の<言葉>を書いておいて。スコアあります? あ、お父さんが持ってる。じゃあ、借りて、チャンと写してね。トロンボーン奏者には鉄則だから」
とお話を受けていました。

言葉のついた曲では、本来、伴奏を受け持つ器楽奏者は娘の師匠の仰る通りのことをしなければなりません。
ですが・・・私も反省ですけれど・・・殆どしていませんね。

言葉のない曲でも、旋律には必ずセリフがあるはずです。それを大切にすれば、音楽の持っている「メッセージ」は、キチンと汲み取れるはずです。
ところが、アマチュアオーケストラで、とくにエキストラで来られる方の場合、このメッセージを出先のアマチュアオーケストラがどう捉えているのかを理解せぬままでいることが多く(先般の「仮面舞踏会」でも、今だから正直に申し上げますが面食らった箇所がいくつかありました)、お手伝い頂くからにはそれを団員がきちんと伝えられることは非常に大切なのではないかと思っております。
・・・プロの世界で、エキストラの人がそんな「汲み取り不足」をやったりしたら、その人は二度と、エキストラに呼んでもらえないでしょう。
本来のプロの世界はそれだけ厳しいものです。
アマチュア相手だからいいや、程度の人を、ですから「プロ」と見なしてはいけません。本物のプロ根性をお持ちの方だったら、私たちを、お仕事の時とまるきり同等に扱って下さるし、だからこそ厳しい指摘も仰ってくれますが、過去の経験から言えば、そう言う方ほど、一緒にお酒を飲んだりすると優しいものです。

話は全く違いますが、昨日、母から、はがきが来ました。
「あんた(幼時だった私のこと)をおとうさんが作った箱ゾリに乗せて雪の上をずっと引っ張って歩いていた頃がいちばん幸せだったかも知れない」
と書かれてありました。
これは、上のケースとは正反対の、「ことばいらず」の幸せの記憶です。当時の私はまだ3歳だったはずですが、私自身、鮮明に記憶に残っているのは、「ことばいらず」に母の幸せが、ことばもろくろく知らない幼児にも充分伝わることの証拠の一つですね。

その場その場で、「ことば」の有無、必要性は変わるかもしれません。
ですが、究極は、「ことば」を理解して「思い」を感じ、「ことば」を超えていくところにあるのでしょうね。


今週綴った記事
・音楽美の認知(11):音の「受容野」
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/11-5f0f.html

・マスカーニ『カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲:好きな曲022
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/022-0ac9.html

・クヴァンツの言葉から
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c1eb.html

・「作品98」・・・作品番号の意味するもの:聴き手のための楽典005
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/98005-c401.html

・DVD「ウィーンフィル・ニューイヤーコンサート2009」
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/dvd2009-01a9.html

・1月31日練習記録(東京ムジークフロー)
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/131-8ae4.html

・モーツァルト:フルート協奏曲 およびオーボエ協奏曲断片
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-9185.html

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