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2008年6月20日 (金)

「自」と「法」(TMF本番を前に)

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。



釈迦(釈尊)の言葉に、
「自灯明、法灯明」
というのがあるそうです。

これは、釈迦の臨終のとき、弟子が泣く泣く
「これから、だれを<あかり>に仰げばよろしいのでしょう?」
と嘆きながら問うた時に答えとして述べられたもの、とのことです。

「自らを(見直して)<あかり>としなさい、(それがダメなら)方法を(見直して)<あかり>にしなさい」

おおよそ、そのような意味だと思って頂ければよろしいかと思います。(サンスクリット、もしくはパーリ語の原典では、ほんとうは全く違う意味の言葉だったのかもしれませんが、そちらを当たってみることは敢てしません。漢語としてまとまった、この文について述べます。)

そのまま読み下せば、
「自らを明かりとせよ、法(のり)を明かりとせよ」
というふうにしかなりませんので、ともすれば
「自分の信じるそのままに従え、あるいはそれで周りを従わせよ。それが出来ないのだったら法律的な決まり事を作って、それを頑固に守って生きていけ」
という強引な読みが成り立ちますし、現にそのような読みをした人がいないわけではありません。

ですが、釈迦の、とくにその言葉を忠実に映した(書写したのではなく、寸分の間違いもない記憶から再現されたものですから「映した」という字を使いました)とされる原始(初期)仏典には、そのような発想が生まれる余地のある言動は、一切なされていません。

この言葉、裏側から読めば、

「自分というロウソクに灯をともしてみなければ、自分はいったいどれだけの明るさなのかは分からないままなのだよ。自分への灯のともしかたが分からないのだったら、それをなんとかして見つけ出さなければいけない。だから、まずはどんな方法で、と『書かれた』心に灯りを当てて、その心を熟読してご覧なさい」

ということになるのです。



定期演奏会でお客様に潤って頂くための音楽が、ささやかながら1ℓの水だとします。で、それは、絶対に「一度」にふるまわれなければならない量だとします。
でも、その水を用意するための私たち、というのは、せいぜい500㎖の器でしかないのだとします。
たかだか1ℓ・・・でも、私たちはその半分の量までしか入れられない器のままで、ここまで来てしまったのだったら、さて、どのようにして1ℓの水をお客様のために汲んで差し上げることができるでしょうか?

いちばん簡単に思いつくことは、2回に分けて差し上げる、という手です。
でも、「音楽」という総量は、初めから1ℓを一度に、と決まってしまっているのですから、この手は使えません。

さて、どうするか・・・

私たちが500㎖である、という、その容積は、もう変えられないものなのか?・・・それは最新技術のセラミックで出来た、どうしようもなく可塑性の高いシロモノなのか?

それを見直す時間のゆとりが、あと少し残っていますね。
よく吟味し、内省して演奏会に臨みますので、いらして下さった皆様は是非忌憚のないところをご教示下さいますように。

団員各位と、僭越ながら、お聴きになって頂ける皆様への、ささやかなお願いです。



クラシック音楽のCD探しには、下のバナーをクリック!
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便利です。

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