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2008年6月11日 (水)

凡人だから考える、愚鈍だから思索する

Tokiomusikfroh

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音楽史の稿も用意を終え、モーツァルトの次の作品もコメント部分の追加のみにまで至っている(どちらも手書き状態のまま)のですが、今日は保留とさせて下さい。

「狂人」の常なのでしょうが、ひとたび胸に引っかかったことが、なお心を捉えて離れませんので。
しかし、自分が「狂っている」ことには囚われないことにしましょう。「狂」をキーワードにしてしまうと、最近は勘違いされてしまうような事件が頻発しています。そういう事象とは、自分は隔たりを置いておきたい。

それにしても、人間と言うものを観察していると、おそらく大半は賢い人なのだろうな、つまりは、「賢人」なのだろうな、と、つくづく感じます。官庁には官庁の、企業には企業の、学校には学校の、任意のグループにはまたそれぞれのグループの<規則>なるものがあって、「賢人」たちはそれを「疑わないで遵守する」ことを徳としている。そこからはみ出した者を見つけたら、声高に「遵守、遵守」と叱責するのが最高位の「賢人」で、叱責されれば心静かに従うのが準「賢人」の徳である。最高位の「賢人」は<規則>を100%遵守出来ていることを自負なさっていますから、周囲の都合・状況がどうであろうと、自信を持って動じることなく、ご自身を律する<規則>に基づき、たとえば有給休暇100%取得に邁進する。これが出来ないヤカラは、準「賢人」であっても、最高位から見れば、所詮は「凡愚」に毛が生えただけなのです。・・・とはいえ、準「賢人」を「賢人」以下と軽んじることは、「愚鈍」の私は控えましょう。

さて、「凡愚」には「凡愚」で、その度合いにランクがあるようでして、大括りには
・賢人に近い凡人
・賢人ではないが愚かではない「凡人」
・ちょっとは「凡」を理解できるかも知れない可能性を秘めた「愚人」
・まったく見込みのない愚人=これは「愚鈍」と呼ぶことにしましょう
くらいには区分できるようです。

ダラダラ綴っても仕方ありません。「賢人に近い凡人」のかたがたは、この際「賢人」に昇格していただきましょう。残りのうちの最初の一つを「凡人」、後の二つを「愚人」としてみることから仕切りなおしましょう。

「凡人」と「愚人」に共通するのは、<規則遵守>を盾に「賢人」から責を問われたとき、どう振舞っていいのか、はた、と困ってしまう点です。で、そこから先が違います。

「凡人」は、<規則>が正義であるらしいことは薄ぼんやりとはわかっているのかも知れません・・・「愚人」の最下級にいる私には推測でしかそう言えませんが・・・。この前提が間違っていなければ、「凡人」は、考えます。
「しかし、どうやって<規則>を守ったらいいのか?」
気の毒なくらい、考えに考え抜いているのかも知れません。
考えたところでどうなるものでもない、と意を決したら、「凡人」はもはや正義の実行をためらいません。そうしなければ、生活に行き詰まりますから。・・・税金課金が集まらない、給料がもらえない、友達から遠ざけられる、住処を失う、等々。
ですから、「凡人」は、「エンタの神様」に出てくるフランチェンを超えるだけの智恵は備えています。すなわち、行き詰まったら「思考停止」、更にその先がフランチェンより優秀でして、「とにかく正義を実行してしまう」のが、今日一日の人生喜劇に、ひとまず安全に幕を下ろす術なのだ、ということを知っている。

「愚人」は、まず全般的に言ってしまえば、<規則>の何たるかを理解していません。許し難い罪を犯す輩のことを人々が「愚か者!」と怒って憚らないことから、まずこれが真であると証明できるでしょう。


ここからは、私が変であることの裏づけになるかもしれない発言なのですが、私は上にランク分けしたとおり、「愚人」にも2つの段階があると思います。
・ちょっとは「凡」を理解できるかも知れない可能性を秘めた「愚人」
・まったく見込みのない「愚人」=「愚鈍」

安全性の為に確認しておいて頂きたいのは、最下位ランクの「愚鈍」は、人様の命をあやめるような犯罪すら、思いつくことが出来ません。「犯罪」というのは、まだ「知恵」のカケラがどこかに残っていて、それを「欲」によって動かされることにより、初めて起こされるものだからです。
「愚鈍」には、みせかけはこのようになんだか難しげな言葉を使っていても、本質的には「知恵のカケラ」さえ持ち合わせていませんから、動物的な「欲」があっても、それでもって行為を起こさせるべき何者をも所有していない。あるとすれば、ただ本能的な「情動」のみでしょうか。

「愚鈍」な者は、思います。
自分には知恵がない。どうしたら、自分がするべきことへの道しるべを得られるのか。

時代の今昔を問わず、そのような「愚鈍」な存在が少なくなかったことの最大の証拠は、「哲学書」と称するものの存在かも知れません。
これらの書物の著者は「賢い人だ」、と、たとえば高校の倫理の授業なんかでは誰もが教え込まれます。
そのくせ、「賢人」はこうした書物には一生手を出さない。だって、開いてみれば、そこに記されていることは、「賢人」からみれば、愚かしい、バカバカしい、そんなことにはいちいちかまけていられない、実生活には全く無益なことばかりだからでして、「賢人」は「哲学書」の著者が「愚鈍」であることを、ちゃんとご存知な訳です。(それでも、書物を何百年にもわたって残しえた「愚鈍」の人々は、私のようなスケールの小さな「愚鈍」に比べると、なんと偉大な存在であることか!)


「愚鈍」の者以外の誰が、生活に無益な、あるいはその変形としての有害な、社会に影響を及ぼすだけの価値がないことを執拗に思索しつづけたりするでしょう?



私のように、なんだか知らないが難しげな語彙を少しは知っている(だが、その意味までは知らない)、というのは、「愚鈍」の中でも最も卑しむべき「愚鈍」であるかもしれません。

私の母が精神薄弱者のかたの施設に勤務していた関係上、私は子供時代に精神薄弱のかたたちとの接触が何度かありました。彼らは世間の<規則>などというものは、当然ながら全く知りません。ですが、彼らには驚くべき特質があります。
「これを覚えよう」・「この単純作業をやり遂げよう」
と決めたら、通常人を自負する人には想像できないほど、覚えること・単純作業を遂行することに集中できるのです。
一人ではシモの世話も出来ない、赤子のままの状態なのに、世界の国旗を全部覚えていたりします。おしぼりのビニール袋詰めの作業を、昼食までの3時間、いっさい手を止めずにやり遂げます。
・・・彼らは(今は過去形になっているようでしたら嬉しいのですけれど)私の出会った当時は心理学・精神医学上では「知能指数」というもので量られ、その数値が低いために「愚鈍」と呼ばれましたが、ここにあげた例のように、数値などでは測りようのない特殊な能力を持っている、というのが事実です。

それにくらべれば、「言葉を弄する」ことしか知らない「愚鈍」は、はるかにたちが悪い。この「愚鈍」は、過去の尺度であった知能指数では「愚鈍」の括りには入りませんので、自分が「愚鈍」かどうか、全く理解できないのです。

私が、「自分は実は愚鈍なのだ」と理解出来たのは、家内の死がきっかけだったかも知れません。
ほかに道具の持ち合わせがないために、「言葉」によって、自分の「愚鈍」ぶりを人様にお見せするくらいしか思い及ばない・・・これが「愚鈍」である以外の何だと言えるでしょう?

思い、索り求めること以外に、「愚鈍」の者の出来得ることはありません。

私という「愚鈍」の特徴は、上にあげた例のかたがたに準じてお披露目しますと、
・クラシック音楽については異様にマニアである
・ピアノは弾けないくせに、古典派だけは、スコアを見れば何故か響きが想像できる
 (ピアノに限らず、いちばん「弾ける」はずのヴァイオリンも、さほどの技量ではない)
・想像した響きが実際に演奏されると、おおよそ、想像していたものと合っている
といったくらいのものです。

・・・ホントに、たったそれだけです。

楽譜を見て、どうしてもここは文脈上重要、ここで崩れたら楽隊全体の演奏をぶち壊しにする、という個所については、ですから、自分の技術が追いつかないとなると、非常な緊張を覚えますし、なんとかしなければ、ということだけに目先が向きます。(結果的には本番で失敗ばかりしているのが、大変なコンプレックスでもあります。)
そして、音楽をやる上では、音楽の「文脈」を考える行為以外のいかなるものに対しても、許容範囲が非常に狭い、といえます。「文脈」を思索している最中に妨げがあることに対しては、ケダモノ以下と評価されてもいいほどに、反発の唸りを上げることしか知りません。・・・むき出すべき牙が生えていないので、迫力はありませんが。

それでも、今の私には、「音楽」を通じて思索する以外に、いま、自分が生きている意味を見出すことが出来ません。「音楽」というものの狭間に「賢人」の知恵が挟み込まれることには、違和感以外のなにものをも感じられません。なぜなら、「愚鈍」な者にとっては、「思索」だけが全てだからです。

昨日、シューマンが狂っていく過程を簡単に見てみました。
そして今日は、それに比較するとはるかに小さな存在である自分が、それでもシューマンと大して違わない精神構造であることを観察してみたい、そのことで安心を得られれば幸いである、と思いつき、このような駄文を重ねて綴ってしまった次第です。

お詫びに。
YouTubeから、愚者パルジファルを主人公にしたヴァーグナーの楽劇からの引用です。

といいつつ、舞台映像ではありません。

・ちょっと面白い、クナッパーツブッシュの指揮

※この映像も、DVD販売初期には見られました・・・
家内に見せて大笑いさせましたが、もう遠い思い出のような気がします。

DVDワーグナー:舞台神聖祭典劇《パルジファル》


販売元:ユニバーサル ミュージック クラシック

発売日:2005/02/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ワーグナー:パルジファルMusicワーグナー:パルジファル


アーティスト:クナッパーツブッシュ(ハンス),バイロイト祝祭合唱団,ロンドン(ジョージ),タルヴェラ(マルッティ),ホッター(ハンス),トーマス(ジェス),ナイトリンガー(グスタフ),ダリス(アイリーン),メラー(ニールス)

販売元:マーキュリー・ミュージックエンタテインメント

発売日:1999/07/23
Amazon.co.jpで詳細を確認する


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コメント

私も「パルジファル」好きです。一時期は何度も繰り返して聞いてきました。

>
「思い、索り求めること以外に、「愚鈍」の者の出来得ることはありません。」
>

音楽のことであれ、何のことであれ、そういった「愚鈍」には「哲学者」(philosopher, 知を愛する人)という呼称が与えられていますよね。私はそのような「愚鈍」になりたいと常々願っていますし、もう既にそうなのでしたら正直嬉しく思います。

ソクラテスを借用・歪曲していうなら、そのような「愚鈍」でない生き方に、どのような意味があるのかとすら思えてきます。

投稿: イワン | 2008年6月12日 (木) 08時18分

イワンさん、コメントに心から感謝申し上げます。

「哲学者」と呼ばれるほどでしたら、浮かばれるのですけれどね・・・
私の場合は、「愛する」ことまで知らないままで「知とは何か」を考える「愚鈍」は、そこまでには至らないような・・・いや、「大好き」なんですけどね!

ちょっと「自虐」ギャグ的な記事になってしまいましたかね・・・

投稿: ken | 2008年6月12日 (木) 22時07分

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