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2008年6月25日 (水)

人を「測って」いた私

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昨日は千葉馨さんのお悔やみを挟みましたのですが、今回は一昨日の続きです。 ただし、団体としてのTMF(東京ムジークフロー)に向けての反省はこの前でおしまいです。 今日は、自省の文です。・・・野次馬がしたい、とその気になって下さった方だけが、野次馬としてお目通し頂ければ、充分です。

明日以降、音楽史やモーツァルトなどの話題に戻っていきます。



He was more than the child to me.(チャップリン「殺人狂時代」)

明日、家内が死んで1年半目の日を迎えます。三回忌までが一区切りかな、と思っているうちに、それもあと半年にまで迫ってしまいました。
「早いもんだなあ」
ということは、けれど、一日たりとも思ったことはありません。
スタートは、私達双方の親きょうだい、叔父叔母、みんなに安心してもらうために家内の骨はどう埋まるべきか、で一年を費やしてしまったところからでした。長くかかってしまったために、娘の受験志望をどうするか、に併行して取り組むことになりました。志望が固まったのを見計らって、倒れたその日まで家内が気にしていた息子のダイエット問題を解消しようと、結果的には半年限りとなってしまいましたが、柔道を習わせました(そのまま中学校で柔道部へ、と、親としては思っていたのですが、息子は・・・母親と旅行したときに卓球をしたのが楽しい思い出だったから、らしいのですが・・・卓球部に入りました)。
3つあった課題は、理想的とまでは言えなかったかも知れませんが、おかげさまで、3月までに順次いいかたちで解決できました。
家内の顔の骨は住まいからそう遠くないところで私たちを見つづけることが出来るようになりました。
娘は第2志望校には見事不合格!・・・でも、第1志望に合格しました。(あれ?)
息子は、私の背をあっという間に通り越し、標準体型まであと少し、に漕ぎ着けました。

目先の課題が片付いてみると、しかし、今度は、自分自身が抱えていることに、はた、と気づかざるを得ませんでした。

どうしようもない孤独、というやつでした。

課題の解決を待つまでもなく、私はずっと「悲しい・寂しい」とわめいていましたし、都度、助け舟を出してくれるネット上の貴重な恩人にも恵まれました。ネット上だとヴァーチャルだ、とイメージされやすいかと思いますが、そうではなくて、現実にお会いもして言葉を交し合えたり、それがさらに紐帯となって、「うつ」の薬についての情報交換やら、本を読むことの楽しみ方やら、教育の立場からの若い人たちとの接し方やら、いろいろ学ぶことも出来ました。ネット上で綴っていることから「お、どうやらkenは今、様子が怪しいぞ」となると、間髪をいれず、冷静に戻れるようなメッセージを下さったりもして頂きました。
むしろ、こちらの出会いの方が、現実との葛藤にあたっては自分を「客体化」する上でありがたかったものでした。

にもかかわらず、なんとか家内や子供たちが落ち着くところへ落ち着いた、と、ホッとした途端に、どういうわけか、へなへなと力が抜けていくのを感じました。
・・・悲しい・哀しい・寂しい・ひとりぼっちだ・・・言葉の意味としての「孤独」はそうした気分の集合体なのかも知れません。
でも、実際に襲ってきたものは、そんないろんな意味に当てはめようのないものでした。

それまでは、たとえば顔見知りの人や職場の人に優しい言葉をかけられると、ついふらっ、と気持ちが揺さぶられ、言葉をかけてくれた人の中に、もしかしたら自分の「さびしさ」を埋めてくれるなにかがあるんじゃないか、と空しい期待を抱いては、結局がっかりしたり、ということもありました。

ふりかえってみると、そんなことは、しかし、たいしたもんじゃなかった。

これは、恩人中の恩人のYさんが、まだドタバタやっているさなかの私に教えて下さったのですが、
「無形のもの、無形の心の中に救いを求めるのが、人間、案外効果的なのです」
とのことで、
「じゃあ、無形のもの、無形の心ってなんだろうか」
そんな模索を始めるようになりましたが・・・遺憾ながら、模索すればするほど、私は即物的な俗物である自分に気づかされるばかりで(長いスパンで考え得るなら、じつは、そう気づくことがYさんの仰る主旨にたどり着くための最初の関門なのは分かりました)、右往左往するばかり。

本当の「孤独」は、感情としては表現出来そうにありません。ただひたすら「空っぽ」だ、というのが、言葉にしたときには、最も近いでしょうか。



チャップリンの『殺人狂時代』は、ご覧になったことがありますか?
正月、娘の壮行会と称して、都合よくチャップリンファンでもある息子も連れ、子供たちと見に行ったこの映画が、私のいまの思いに強烈にダブっているのを感じます。

『殺人狂時代』でチャップリン演ずる、銀行を首になった主人公の殺人狂には、息子と病弱な妻がいます。彼はそれをひた隠しに隠し、偽名で独身貴族になりすまし、お金持ちの未亡人や年配女性と重婚しては、その女性達を殺して財産を奪う悪を繰り返します。それもこれも、実の妻と子供には失職を隠しておきながら、これまでと変わらずその療養費や養育費を稼ぐためなのです。
映画の中では、殺した財産家の女性の金庫から札束を取り出して数える、元銀行員の巧みな手さばきを見せる主人公が映し出されます。
そんな主人公が、たった一人殺意を持たなかったのは、雨宿りしているところを偶然見かけた若い女性でした。主人公は最初彼女を「ばれないで殺せる毒」の実検の為に仮の住まいに連れて行くのですが、その身の上話を聞いて思いとどまったのでした。この女性、夫が獄死し、生きる希望を失いかけていたのでした。・・・身の上話を聞いていた主人公自身も、心の根っこでは生きる希望なんてとうに失っていたのではないかと思います。だから、彼は気が変わった。彼女の前に置いた毒入りワインをさりげなく取り除けたのは、そんな心理からきたものではなかったのかな、と思います。

翻って、私自身が演じている喜劇は、どうでしょうか?
たとえば、こんなものでしょうか。
適齢の女性と、チャンスがあればこんな会話をする。
「え? 明日、お暇なんですか?」
「そうなんですの」
「だったら、僕なんかでいかがでしょう」
「何が、ですか?」
「もちろん・・・」
「あら、やだ」
「ヤモメで子連れですが、それでもよろしければ!」
こんなセリフで、本当に翌日現れてくれる女性なんて、まずいません。チャップリンに比べるとなんという出来の悪さでしょう。・・・当然、現れない女性には罪はないどころか、正しい判断をしたわけです。
「あの男、きっと下心しかないのよ」
・・・それは、当たっているかも知れません。

チャップリンに比べて不出来なのはもうワンシーン、お金を数える場面です。その日その日、とまでは言いませんが、私は始終、子供の養育費と自分が使える冗費を天秤にかけるために・・・というのも、子供たちはこれから学校やレッスンに最もお金のかかる時期を迎えますから・・・預金残高を神経質に確認し、口座から下ろして財布に入れるお金は最小限に絞る、というどケチぶりを発揮します。気前のいい『殺人狂時代』の主人公に比べて、なんとぶざまで、お寒いギャグでしょう!

ただ、私は『殺人狂時代』の主人公といまの自分の共通点がなんであるかに、ふと気づきました。
相手と話すとき、
「この人はどういう人か」
を「測って」いる。
意識していなかったのですが、家内の死後、自分の見た「人の様子」を愚痴ってみたり、家内の話す「人の様子」を聞くことがなくなってしまった分、自分で勝手につけた目盛の<ものさし>で、人を測ってみていることが当たり前に身についてしまったな、と、演奏会がはねて、打ち上げも終わって、雨の中を子連れでふらふら濡れて帰りながら、ぼんやりした頭で、そのことに思い至りました。・・・そうしてはじめて、正月にこの子達と見た『殺人狂時代』の意味するところも理解できたように感じたのでした。

ところが、私の「測り」は、チャップリン演ずる主人公と違って、妻を亡くしたことも子供のあることも隠しおおせていませんし、給与以外の収入源もありませんし、「測ってしまう」失礼をした相手に対して更に何かを求めようか、などということを思いつく知恵もありません。

本番を終えて、子供をある意味では無理やり連れて打ち上げにも行き(飽きちゃった娘にはベソをかかせてしまいました)、話し相手はほんの限られた人に絞られましたが、それだけにかえってひとり一日を・・・いえ、この日に至った1年半を思い返す時間にも恵まれました。
そして今度は、『殺人狂時代』の主人公と自分の決定的な違いにも思い至りました。

私の感覚には仕事の時間と家庭の時間という生活区分がもともとない。ただこの時刻になれば出勤し、この時刻になれば退勤し、帰宅すれば子供と食事をし、あとはパソコンに向かい、というパターンだけで、その場その場でやっていることの違いにはとんと鈍いたちなのですけれど、そんなせいで、おそらく企業の中では変わり者の部類に属します。
ですが、世の中というのは思いのほか厳密に出来ていまして、「職場」というところでは、まずプライベートな会話なんて殆どなく、談笑することもありません。
楽隊は楽隊で、いまでは練習後の飲み会なんかにはとても行けませんから、はい、練習に行きました、演奏を巡って四の五の言いあいました、帰りました、だけ、という感触しか、自分の中にはなかったかも知れない、と思いました。
ですが、どんな場所にいたって、根が能天気なのは家庭環境の変化にも関わらずまったく同じで、すぐにつまらん馬鹿話をしたり、愛想を売ったりして
「kenさんは誰にでも声をかけるからな、だから顔が広くなるんだよな」
なんてことを上司に言われたこともありますが、本人はまったくその意味が分かっていなかったのです。

・・・だから、条件反射で愛想を振り撒きつづけていただけで、中身は「空っぽ」だったのでした。受け止めて、自分と言う器に入れるべきなにものをも、私には見つけられずにいたからです。

自分が、見つけるべきものの存在に気づかないから、私は「空っぽ」という、究極の孤独に、自分で陥ったのでした。

雨の中、楽隊での自分の周りをふと振り返ってみれば・・・

ずっと背中を見つづけてくれていた人がいました。・・・私のほうも常々、その生き方に(って、詳しくは何も本人から聞いたことはないのですけれど)感心し、敬意を持っていた人でした。

大編成の中でのアンサンブルで、要所できちんと見守って、私の下手な演奏につけてくれていた人がいました。・・・当日はベソをかく娘まで上手にフォローしてくれたりしました。

娘が合格したときには誰よりも喜んでくれ、今回はいちばん厳しい曲で合わせなければならない個所に真剣に賭けてくれ、練習途中で励ましてくれた上に、終わったときには感極まってくれた人もいました。

一日休んで、翌日には、中途で会社に入ってこられた大ベテランの先輩が
「子育ての経験上で役に立てるお話ならして差し上げられますから、遠慮なく相談して下さいね」
とも言って下さいました。



「ああ、『空っぽだ』というのは、自分の中の一つの幻なのかも知れない」
と、思いました。

もとより、毒入りワインも、それと取り替えるべき新鮮な飲み物も、私は持ち合わせておりません。

ただ、私の「空っぽ」が「幻」だったのなら、そう気づかせてくれた何人かの、私をちゃんと見つめて下さったかたたちを、みんな幸せに出来るだけの力が、私にあればいいのですが。

これは残念ながら、私が魔法使いでもなんでもない、ただのオッサンであるがゆえに、出来ることは、私が祈る神様に、きちんとかなえてもらう以外にあるのかどうか、どうしても分かりません。

かつ、自分がほんとうに「空っぽ」ではない、ということを、自分が確信を持てるようになるまでは、まだまだ時間がかかるのかもしれません。

それでも、今度はシェークスピアの『夏の夜の夢』のように、みんなをも、自分自身をも、子供たちをも、命ある限り「生きる幸せ」を謳歌させてあげられる大団円を迎えるべく、私は、もっと「分かる」ことに努め、全てをきちんと整えて、楽しい舞台の準備が出来るようにしなければなりません。

ともあれ、人を「測る」ものさしは、捨てましょう。
これからは、新しい「ものさし」を用意して、舞台の寸法を測り、充分な明りの入る窓を用意し、収まる小道具を捜し歩かなければ、と、かように思っております。

拙い長文、お読みくださった方には心から感謝を。

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コメント

「うつ」になつたことをきつかけに、「自分は何の爲に生きてゐるのだらう」と今更ながら考へるやうになりました。
會社のため?家族のため?たんに自分が生きるため?

私の周圍には樣々な人たちがゐますが、私もその人たちを「自分を理解してくれようとしてくれる人かどうか」といふ物差で測つてゐるやうな氣がします。
なんとも自分本意で恥づかしいですけれど。。。

でも、私はきつとさういふ自分でしかないのでせう。
それはそれで良いのだと思ひ込まうとしてゐます。
それが成功するかどうかはわかりませんけれど。

投稿: 仙丈 | 2008年6月25日 (水) 23時51分

仙丈さん、コメントありがとうございます。

「うつ」悪化のまっただ中に、こんなことを綴っていました。去年の4月、今回の記事の1つ目でつまづいていた頃のものです。
お恥ずかしいのですが、よろしかったらこちらも読んでみて下さい。
仙丈さんが寄せて下さった思いに近いかな。・・・今回の記事の方が「不純」の懺悔みたいです。。。

ものさし

投稿: ken | 2008年6月26日 (木) 06時14分

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