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2008年6月 6日 (金)

一つの理想としての通史〜岡田暁生『西洋音楽史』

火曜日には、とんでもない記事を綴りました。(でも、ホンネです。)

その中で、対照的な良書のひとつとしてご紹介する腹積もりでちょっと名前を出しておいた、

・岡田暁生『西洋音楽史』中公新書(<クラシック>の黄昏、という副題の方は、うーん、どうかなあ、とは思いますが、現実ではないのか、というと、そうでもありませんので・・・

について、あえて引用を交えず、かいつまんでお話したいと思います。



私は素人目の、本当に漠然とした<音楽ってなんだろう>という疑問の一環として、耳に入る限りの世界あちこちの音楽を時間軸の上で横並びで捉えられないか、と思いつつ、「曲解音楽史」なるカテゴリを設けて、音楽の歴史を見直すことを自分の課題の一つにしています。
何故世界のあちこちか、といえば、

・メディアがそれをある程度許すようになった
・一方で、それを「時代を追って」眺めた史資料は、まだないか、横断的ではない
・豊富に目にするのは専ら西欧音楽に限られるが、それには特殊な要因がある
・しかし、音楽を享受してきたのは別に西欧人やその文化に接した人種・民族だけではない

からでして、2・3点面に関しては、世間一般では暗黙の了解のうちに受容されているのが現状ではないか、であれば、その先の4つ目の視点を開く試みは・・・過去の新しい視点がおおよそ素人文化を発祥としていることに力づけられるならば・・・私なんぞがやってみても、悪くないんじゃないか、という発想からだけです。資料も、
「次はどっち方面をしらべるかな・・・」
という方向が見えて初めて揃えだすので、綴る当初は明らかに不足していまして・・・打ち明けた話が、古代ギリシャについて綴った頃には手に出来ていなかった当時の音楽理論書はやっと最近入手し、難しくて分からなくてふうふう言いながら読んでいて、
「ああ、あの時綴ったことでは不足だったなあ」
と、痛感しているところです。

などという無駄話をしても仕方ないのですが、いちおう、この話は、岡田さんが「個人で」なさった通史の価値を正当に評価する上で、対照的となる一つの事例にはなるかと思います。



こうなると、最初に、「個人で通史を書いた」ということの意味の大きさをアピールしたいですね。
通常、「西洋音楽史」の本は、岡田さんが著書の中で言っているとおり、何冊もに分かれていたり、そうでなくても分厚すぎたりして、まず、一般には(好奇心を抱き始めた人にとっては特に)通読に向きません。
1冊物の場合も、複数の執筆者が各自の専門分野を受け持つことが圧倒的に多く、連続性がないために、読んでいて戸惑うことも必定です。
岡田さんの『西洋音楽史』は、その点、岡田さん自身が言っているように、「岡田さんの音楽史」であって、岡田さんの「私」を貫いた言葉で一貫して読めますから、少なくとも心象上での不連続なひっかかりは感じることなく、読者は著者の作った流れに安心して身を委ねることができます。
(実は、この点では、岡田さんがせっかく個人で書いたのに、という最大の引っかかりが私には感じられるのですが、それは後述します。)

次に、岡田さんがこの本を書く決心をした経緯、この本で貫こうとした定義は、それぞれ「あとがき」と「はじめに」に明示されていますが、その精神が明朗かつ輪郭のクッキリしたものであることは、非常に好感が持てます。
経緯については措くとして、著述に当たっての定義は、欲張らず、西洋の「芸術音楽に限定する」と領域を確定しているのが前もって読者にあきらかにされていますから、これによっても、読む上での安心感が私たちに保証されることになります。

内容は、岡田さんが過去に数年に渡って行なってきた「西洋音楽史通史」の講義をベースとしているだけに、「芸術音楽」作品そのものを俯瞰する上では、小著でありながらよくぞここまで、と驚嘆するほどにムラなく万遍なく網羅されていますし、たとえば私のようなマニアが陥りやすい「細目へのこだわり」はばっさりと切り捨て、「音楽作品の・音楽としての」時代のイメージを、ピンボケにする愚は全く冒していません。

・・・と、まずいい点をご紹介しましたし、これは本気で感動していることでもあります。



が、大枠で3つの引っかかりが、私には残りましたので、その3つだけについて、付記します。

1点目は、「岡田さんの音楽史」という精神的な一貫性は保たれているにも関わらず、それでも書く章ごとには断層がある・・・非連続な印象をぬぐえない、という点です。これは、「音楽史」というトピックにこだわるあまり、その音楽の社会的・政治的・経済的背景をも併せて一貫した史観をもとに検討する、というところまで気が回らなかったからではなかろうか、と推測しています。音楽の話に付随して時折出てくる社会史の話題は、音楽とは違って断片としてしか顔を現さないため、読んでいて突拍子もない印象を受けます。

2点目は、それに関連して、ですが、各々の時代の「音楽家」の位置付けについて、その背景にあるものに対する見誤りがある可能性があり、この点では、時代を限って著述できた『<バラの騎士>の夢』に比べると、考察の非徹底さが避けられていません。
一例として、作曲家の「個人の地位確立」の萌芽をマショーに見る記述がありますが、その理由を彼が大学出の学識者だった点にも求めている、となると、これは(岡田さんの視野からは避けられている)遍歴学生の存在と矛盾します。マショーは(6月9日付記:たしかにこの人に限って言えば、個人の詩と曲の集成を作ったという意味においては岡田さんの仰る通りなのかな、と、ちょっと私の方が見直しを迫られていますけれども)音楽家としての「個人」は確立したかもしれませんが、地位については確立したとは言える環境下にはありませんでした。それは、続くフランドル楽派から18世紀までの音楽家達についても言えることでして、やはり、ここは「社会との関わり合い」の視座を失わずに考察していてくれたらよかったのにな、と、惜しまれます。(なお、<ルネサンス>で括られる時代の音楽がなぜ本家のイタリアではなくフランドルから始まったか、ということについても、岡田さんの埒外になさっている社会史の連続性を取り入れなければ理由付けできません。そのせいでしょう、岡田さんも、過去の良心的な方々同様、ではありますが、フランドル楽派の位置付けについての明言はしていないように見受けます。バロック期、古典派時代、ロマン派時代それぞれに、そうした小さな課題・・・しかも概ねはどこかで誰かがそれを解決している・・・が未解決のまま放置されている点は、「楽しい」はずの本書を、やや「学校の教科書」に近いものにしてしまっているので、非常に惜しいと思います。)

3点目、これは岡田さんの著作の全般的な傾向でもあるかと感じていることですけれど(と言いながら全てを目にしていないので、この部分は、お読みくださるかたには断言だとは受け止めて欲しくないのですけれど)、岡田さんの歴史観が「終末論的」であることで、これは20世紀についての記述から非常に強く擦り込まれてしまい、若年層がこの本を手に取るときには「終末論」へのアンチテーゼを見出し難くなりますので、心配です。
本書を読み通した印象は、私にとっては、実は平安末期(鎌倉初期)の名僧、慈円の著した日本通史である『愚管抄』と非常に似ていました。
それでも、もうひとかた、私の好きな研究者である別の「O」氏が、私の待望していた「交響曲」関連書籍の第2巻(19世紀を扱ったもの)をやっと出したので喜び勇んで手にとったら、内容が思いのほかまとまりを欠いていてOさんらしくないな、とがっかりした(Oさんは19世紀作品の物量に圧倒されたまま、総括的な見解をまとめそこなったようにしか思えませんでした)のに比べれば、著述の最初から一貫した姿勢で臨んだ岡田さんは、19世紀ばかりか20世紀までを、実に綺麗にまとめていらっしゃるし、自分の終末論的史観が「歴史」を見る目の全てではない、ということもはっきり言っているのですから、このことに関しては問題視しすぎてはいけないのだろう、とは受け止めております。
ただ、せいぜいブーレーズあたりまでで、あるいはジャズが非大衆化してしまったところまでで観察を停止するのではなく、せっかく2年前に書いたばかりの本なのですから、(西洋「芸術」音楽、という範疇でいえば)ペルトタン・ドゥンあたりまで対象を引っ張っても良かったし、そうであったら同じ終末論でも少しは光も見えたかな、と思っています。



ともあれ、手軽に読め、「西洋芸術音楽」とはどういうものか、を俯瞰するには、現時点では本書は最良のものだと信じていますし、多くの読者もそう確信できたからこそ、この本は最近の新書版としては比較的長い寿命を保っているのでしょう。・・・芸術、に下線を打ったのは、じつは、わたしはこの言葉があまり好きではないからでして、他意はありません。

個人が、個人として、俯瞰的に歴史観を持つことは、諸刃の刃ではありますが(ヘーゲルをご存知でしたらヘーゲルが、また、マルクスが、必然的にそういう危険性を内包してしまったことはご承知の通りです)、人間が「受け継ぎ、改変し、引き継いでいく」(とくに「改変する」という点が最大の特徴ではないでしょうか)生き物である以上、必須のことでして、本書は人間にとっての「必須モデル」とはどういうものかを、心と体を張って示してくれた好著であることは、断言してもよろしいかと思います。

個人が、「個人史」にではなく、どんな断面を採用するのであれ、俯瞰的に「歴史観」を持てるということには、非常な憧れを感じます。岡田さんは、それを見事に体現なさったわけで、本書は、そんな<理想としての通史>の恰好の例となっていますから、一度は手にとってみて下さる価値が充分にあります。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)Book西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)


著者:岡田 暁生

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コメント

あえて本名で書きますが、この本は良書ですよ。

歴史というものをどうとらえるべきかという高い意識があり、それに対する明瞭な方法論がある。拙著の序章や終章を書く際にもどこか影響を受けた部分があるだろうなあ、と思う一冊です。

こう書くと人ごとみたいですが、影響ってそういうものだと思うのですね。

投稿: 杉山欣也 | 2008年6月 6日 (金) 18時42分

杉山様、ありがとうございます! 仰る通りだと思います。

実は、「通史」はわざと避けていたので、本書も背表紙だけ見て敢て開かずにいたのですが、私の中の「岡田さん」の、<バラの騎士>を通じての鮮烈なイメージがあって、とうとう手を出してしまった次第です。まだ売っていてよかった! 良書を手にせずに終わっていたかもしれないところでした!・・・いや、これはまだまだ増刷されるだろう、と信じています。

前書きは、杉山さんの「『三島由紀夫』の誕生」と双子か兄弟なんじゃないかと思って引きつけられたのでした。問題の明瞭な切り出しから始まり、記述して行くにあたって、どのような姿勢を芯とするかを示しているため、その力に引きずられるようにして本文を夢中で読んでしまう・・・こんな立派な前書きがあれば、中身はもう問わないでもいいくらい、なんですが、肝心の中身も、本書は小著でありながら緊張を保ち、そこに短い弛緩をテンポよく挟んでいて、魅力的でした。

若干『負の評価」をしてしまったのは、岡田さんの本の中で私が初めて読んだ『<バラの騎士>の夢』が本書とはまた比べ物にならないほどの手に汗握る読み物だったからなのかな。。。本当は、このような単なる「紹介記事」では、批評のまねごとなんかしてしまったのは大きなミスだったかもしれません。・・・私は批評家じゃない、享受者なのだから。

でも、「終末史観」は杉山さんのご本にはないですよ! 曲がって来た軸をどう是正すべきか、との、未来に対する積極性がある。
・・・岡田さんは、そのあたり、ちょっと、寂しい気が、どうしてもしてしまうのです。岡田さんのせいではなく、素材のせいなのかなあ。
ただ、こちらも「受けとめかたの問題」に過ぎませんで、本書が優れたものだということを否む要因には全くなりません。

本当に、誰にでも読んで欲しい本のひとつですね。

投稿: ken | 2008年6月 6日 (金) 22時30分

今日、ちょっと読み返してみました。

笑っちゃったのが、購入当時(新聞の書評を見てから買ったので2006年の中頃だと思います)線を引っぱったり書き込みをしていて、P42「「作曲家」の誕生」の「作曲家とはつまり、自分の名前を作品に署名する人々のことだ」というところに線を引っ張って、「初期三島に置き換えてみたらどうか」と書き込んでありました(笑)

拙著タイトル、ここから来てたんですね。
その後の改稿・加筆作業の忙しさにすっかり忘れてました。

投稿: 杉山欣也 | 2008年6月 7日 (土) 22時08分

あれまあ、そんないきさつもあったんですね!

これは、楽しい!

「ピンと来る」言葉に出会わせてくれる書、その発想というのは、有り難いものですね。
それが、杉山さんのあれだけのご著書を仕上げる原動力になった、というのは、うらやましいお話だなあ。。。

昨日コメントしたことのうちの、「終末」云々の岡田さんと杉山さんの違いは、この箇所に感じているものなので、ズにのって並べてみますね。

・「神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。」(岡田さん230頁)
・「近年の日本文学研究は、作家の固有名に付随する諸々の物語や伝説、あるいは小品としての価値付与を一種の権力ととらえ、その権力構造そのものを研究対象としてとたえる方向に進みつつある。(中略)『文学そのものの美』に近づくために、まずは『あらゆる伝説』と『盲目的崇拝』とを払拭する努力が払われなければならない。」(杉山さん308頁)。

如何でしょう?

投稿: ken | 2008年6月 7日 (土) 23時43分

返事遅れてすみません。

私の著書だってある種の終末観はあって、それをタイトルにひきつけて言うと「「三島由紀夫」イメージの死と再生」みたいなことだと思うんですよ。古いイメージに引導を渡し、新しいイメージに灯をともす。そういうものでありたいと思って本は書かれるのですが、その前半部を強調して言葉にするか、後半部を強調するか。表出の仕方の問題でもあるでしょう。死を語ることによって、生を得る場合もある訳です。

でも西洋音楽の場合は、ベートーヴェンからシェーンベルクまでの間に急激に進化していって、20世紀音楽はその右肩上がりの勢いを引き受けざるを得なかった。その結果として聴衆の「楽しみ」から遊離してしまったという部分はどうしてもありますねえ。

投稿: 杉山欣也 | 2008年6月15日 (日) 22時36分

>20世紀音楽はその右肩上がりの勢いを引き受けざるを得なかった。その結果として聴衆の「楽しみ」から遊離してしまった

このあたりの、日本文学との差が、記述の差になっている、ということなのか。。。

表現する、ということは難しいですねえ。。。
岡田さんの他著作からの類推も、私の感じかたに影響を及ぼしていたかもしれませんので、ここは平たくしきり直して読まないとダメかな。

投稿: ken | 2008年6月15日 (日) 23時05分

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