« CDで臨む「クラシック音楽」 | トップページ | 「自」と「法」(TMF本番を前に) »

2008年6月19日 (木)

「解読 アルキメデス写本」(書籍紹介)

Tokiomusikfroh

来たる6月22日は、私共のアマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会です。詳しくはバナーをクリック下さい!20名様(ペア換算10組)まで無料ご招待申し上げます。ご希望の方は本ブログのプロフィールページから、記事掲載者宛メール下さい。・・・バナーは、sergejOさんがご好意で作って下さったものです。



「こんなタイトルの本が、何で音楽に関係あるの?」
・・・というのが、お読み頂く前に抱かれる疑問になるでしょうね。

ご紹介するのは、西欧音楽理論の原点である古代ギシリアの「音楽論集」(2編)の翻訳を、偶然店頭で見かけた、というのが、この本を私が読むことになった、そもそもの始まりだったからなのです。



先に、「カール5世の時代1」と銘打って、いつものへそ曲がりな音楽史記事を綴り始め、参考に当時の音楽の再現演奏を耳にしながら、16世紀の西欧音楽が、どうやら「教会や大学で説かれていた<音楽理論>」と全面的には直結してはいないようだ、ということを、「なんとなく」といういい加減さからではありながらも、感じずにはいられませんでした。

ですが、中世当時大学で用いられていた「音楽理論」のテキスト、さらにはその大元となった「古代ギリシャの音楽理論書」を、私は読んだことがありませんでした。
それでも上のような感触を抱いたのは、

・第一に、中世から近世の音楽を話題にした啓蒙書に、カトリック教会が築き上げた音楽理論の断片的な知識が必ず出てくること

・第二に、その知識は「古代ギリシャの音楽理論」を元に構築されたと明記されていること

・第三に、上の2点にも関わらず、啓蒙書で触れられている「音楽理論」は、実作された曲と符合するのは「旋法(音階)の中の音の並び」に限られており、<聖歌>以外は必ずしも「旋律はこの音で歌いだされ、この音で終止する」というルールと合致しているとは思えなかったこと(これは厳密に調べたわけではありませんが、「グリーンスリーヴス」のメロディでもいえることでして、このメロディは近代的な短音階という捉え方は誤りであり、中世でいうドリア旋法である、というのが正しい・・・より正しくはドリア旋法と短音階の入り混じったもの、なのですが・・・にもかかわらず、歌いだしの音は理論上のファ、ソ、またはラ、ではなくてレですし、4つあるフレーズの第1フレーズと第3フレーズに関して言えば、終わる音もまた理論上のレではなくてラなのです。※)

という理由からでした。
また、中世の理論では、実作品に活き活きと現れるリズム、ロンド的その他さまざまな形式の規則性については、おそらくは触れていないだろう、ということも推測されましたが、何せ、大元となるものに触れていないのですから、「理論化されたもの」と「実際に作られたもの」の乖離(へだたり)について、本当のところは全く確かめようがありませんでした。

※「グリーンスリーヴス」を短音階で読んだ場合とドリア旋法で読んだ場合の階名唱(第1フレーズ)
  短音階で読んだ場合:ラ|ドーレミーファ#ミ|レーシソーラシ|ドーララーソラ|シーソミ・
  ドリア調で読んだ場合:レ|ファーソラーシラ|ソーミドーレミ|ファーレレードレ|ミードラ・
・・・ただし、偶数フレーズは理論どおり「レ」を終止音としています。それでドリア旋法だと確認できるわけです。
このとき、「ド」の音は上行導音化し、「ド#」になります。
これが、のちにドリア旋法のシがラに向かう際半音下がることと結びつく、などの事情と複雑に絡み合って、近世には「旋律的短音階」というものを形成することになります。ついでに勝手な憶測を付け加えるなら、「短調」はミクソリディアから起こったとよく言われるのですが、これは誤りであるはずです。短調の起源はドリア旋法にあるはずです。
なお、「ラ」は厳密には曲の最後の終止を示しているのではないので、これも一応教会旋法上の「吟唱音」であると見なせば、中世の音楽理論には合致はします。・・・ただし、オクターヴ下、という「朗誦」には適さない高さになっていると言う点では理論からはみ出します。
なお、「グリーンスリーヴス」全体をこんにちの特定の旋法(音階)で一貫してみるとすば、ニ短調とイ短調を行き来する、という、転調を挟んだ難しい構造になってしまいます。



世の中、よくしたもので、そんな疑問をもって初めて、少し出来た時間の合間にふと立ち寄ったと言うだけの書店で、古代ギリシャの「音楽論集」の翻訳が、実はとっくに発行されているのをたまたま目にし、入手できる、という偶然に恵まれるのです。(中世の方はあいかわらず見つけていませんが、あっても高価なうえに読み解くまで時間がかかるでしょう。)

ところが今度は、この「古代ギリシャの「音楽論集」が、めくれどめくれど、さっぱり理解できない。
翻訳がわるいわけではありません。とても真っ当な日本語です。注釈も丁寧すぎるくらいについていて、古代ギリシャ語の知識のない私には非常に助かります。それだけの配慮はしてある。
・・・でも、分からない。
理由は二つありました。

一つ目は、古代ギリシャの「音楽理論」の記述は、現代に出回っている「楽典」とか「和声学」とか「対位法」とか「楽式論」の、どれにも当てはまらない。あえて近いものを上げるとすれば、今の日本語の書籍には該当するものがありませんが、「旋律論」くらいのものでした。演奏に関する書籍には載っている、前古典派以前の「音程(音律)」についての記述が最も近いのですが、現代のその類いの記述はあっさりしたものが多く、比較できません。(*)

*大バッハの弟子、キルンベルガーの著作(最近、東川清一さんが翻訳なさいました)では詳しい記述が巻頭の章にあり、こちらならば比較するのに好都合です。

ふたつめは、それが「数理哲学」的に記述されている、ということ。しかも、これは最近の、音程を論じたさまざまな書籍と違って、たとえば「ドとソの比は具体的に何分の何である・・・それを綺麗に響くようにするためにはコンマいくつ分だけ音程を調整しなければならない」といった類いの数値的な記述が見つけにくく、音程比の数表が掲載されているわけでもない。・・・記述する上での発想が、近代以降とは全く違うらしいのです。

理由の二つとも、おそらく、古代人と近代人の「もののみかた」の差に原因するのではないか?
であれば、古代ギリシャ人は「数(すう)」というものに対してどう考え、それを文章にするときにはどんな流儀を使ったのかを、是非知らなければなりません。

「そんな本、素人向けには絶対出てないよな」
私はもう、匙を投げていました。



ところが・・・あったのです!

これもまた、昼休みにふらりと覗いた本屋さんの棚にさりげなく置かれていたのを、つい手にした・・・そして仰天し、夕方慌てて買いに走った・・・という偶然の出会いを強引に捉えた結果なのでした。

そして、この本からは、単に当初の「ギリシャ人の数についての記述法」(極めて概略的に説明されているだけですが、素人にはそれで充分でした)を知りたいという目的をかなえてくれただけではなく、もうひとつの、より汎用的な・・・つまり、日々の私たちが「文化的財産(これにはたくさんの意味をこめたいと思います)」をどう考えたらいいのか、について暗示されている、いわば「財を大切に生きる」方法を知るという思わぬ収穫も得ることになったのでした。



話は逸れますが、夕べ私の尊敬するY先生(音楽の先生ではないのですが)と歓談するチャンスがあり、子供に頼み込んで時間を作り、お話をしました。
その際、Y先生から、ビル・ゲイツが言ったというこんな言葉を教えて頂きました。正しい記憶でもなく、英語で教えていただいたものの正しい訳でもないかもしれませんが、それはこういうものです。

「あなたは、この<知識>に対していくら(の対価)を払うかね?」

お話している最中には失念していたのですが、実は、ビル・ゲイツという「線分」は、今回ご紹介する『解読 アルキメデス写本』の描く世界が円であるとすれば、彼が言ったこの言葉という「点」を<接点>として、円に対する接線をなしています。・・・なんとも、古代ギリシャの幾何学的な関係です!・・・奇縁ですね。

このことに触れる前に、ビルの言葉を日本で言う「知的財産権」なるものと結びつけることは、今回の話では避けておくことをお断りしておきます。

同時に、これから少しだけ垣間見る『解読 アルキメデス写本』の世界は、ビルの言葉と併せ、とかく「知」を巡っても事務的に集合し、<(有形無形の)財の価値>に対してではなく事務にのみ出資をしあい、「知」の提供者には「事務としてのペイ」しか与えない日本の「知(痴)的社会」と見事な対照を見せていることをも、先に申し上げておきましょう。



「解読 アルキメデス写本」の構成には、面白い特徴があります。

奇数章は、「解読する」ことになったアルキメデスの羊皮紙製の書物を巡って、
・着手前のその書物(ある民間人がオークションで落札したのですが)がいかにひどい状況にあったか
・復元に当たって、オーナーが、しかしどれだけ資金提供を惜しまなかったか
・資金の問題を考えずに済みながら、しかし、まず書物の復元にどれだけの年数と手間がかかったか
・さらに、書物はオリジナルのアルキメデスのテキストを消した上に別の文が綴られていたため、アルキメデスの文を読み取るにはどれだけの学問的知識と画像処理技術が必要だったか
・アルキメデスを読み取ることが出来るようになった副産物として、他にどれほど面白い発見があったか(書物の元来の製本過程・アルキメデス以外の人物の貴重な文献が併行して使用されていたことの判明・更には何故この書物がずっと行方不明であったかの理由までが判明したという奇跡的な事実)
と、もっぱら書物そのものの復元技術に払われた多くの努力およびその努力の結実について記されています。

アルキメデスその人が「どういう発想でモノを考えたか」については、各奇数章に続く偶数章で、古代ギリシャ数学の現代最高の専門家ネッツ氏が、直前の奇数章に対応する範囲をベースに据えながら、可能な限り平易に綴っています。
重要なのは、これが、アルキメデスの数学的証明の「全て」を記すのではなく(もし「全て」が書かれていたら、私などにはお手上げだったでしょう)、途中の過程は省略してでも、アルキメデスその人が、数学的証明を「どのような語り口で」語っているかを明確にしてくれている、偶数章の記述方法です。
そのおかげで、私にも、なんとなく、ギリシャ人が数について述べるときの「クセ」が理解できるようになりました。
それでもなおアルキメデス固有の発想があって、それは「図形」をユークリッドのように「完全な抽象概念」としてではなく、ときには「物体」に変身させてしまい、本来は平面に書かれた単なる模様であるのはず物(これでは位置が羊皮紙の上に固定されてしまいます)を自由自在に他の場所に移動させる・・・つまり、彼の頭の中でアニメーションを用いて、「図形」を動的に扱うことにより、実際にそこに物質は存在しないのに、図形だけで「ものとものが釣り合う点(重心)」を見つけ出したり、曲線で囲まれた図形が直線で囲まれた図形と分数で表されるという非常に単純な面積・体積の関係にあることを証明したりしていることには、読者としては興奮を覚えざるを得ませんでした。・・・普通は、数学の入門書がアルキメデスの考えたことを述べる際に「近代数学」の図形を用いてしまっているために、アルキメデスその人が考えたとおりの手順では、アルキメデスの「発見・証明」が述べられておらず、このことが「古代ギリシャ音楽論」の数理的な文章を読むときにも私の先入観となってギリシャ人たちの発想法を読み取る妨げになっていましたので、内容そのものは「アルキメデス固有の」であっても、同時代人の発想法に近づくためには最もよい導き手となってくれました。



本書の内容は、ざっと以上のようなものです。
読んで得られる充足感は、ぜひ実物を手にとって味わっていただければと存じます。

偶数章の素晴らしさは(言葉がヘタで恐縮ではあるものの)上に述べた通りですが、奇数章の魅力については、さらに付言しておかなければなりません。

まず、奇数章を書いた学芸員さん(何も知らぬままアルキメデスの書物の解読作業プロジェクトという重責を担わなければなくなった人、ノエル氏です)が、作業の当初から何度も見舞われた大きな障害を前にし、いかに「適任者の協力」を仰ぐ努力と根気を惜しまなかったかを謙虚に語っていること。

次に、そこにかかれた人々が、それまで持ち合わせた知識では対応しきれないような新たな難問に次々とぶつかりながら、それに対し、殆ど「無私」ともいえる精神で「知識・技術の仕切り直し」を行ない、そのためには自分の中や外にあるどのような制約をも乗り越えようと、作業を楽しみつづけたかがくまなく記されていること。(殆どの人にとって、しかも、解読のための作業は本業と併行しながら行なったボランティア的活動であるにも関わらず、手抜きは全くしていないのです。)

最後に、これは奇数章の著者が述べていることの主旨ですが、
「この書物の買い手が公的機関や大学や、ビル・ゲイツでなくてよかった」
というくだり。

さきほど、ビルの「知識に対していくら払うのか」という発言を「線分」と見なしましたが、この本に記されたアルキメデスの解読作業は、単純に一本の線で表されるようなものではなく、大きな円をなしているのを、私の拙い紹介文から察していただけるなら、ビルの言い方は確かに「点」としてはこのプロジェクトに接しているかも知れませんが、円の中に入り込んでもおらず、入り込むだけの方向性も持っていないことが、併せてご理解いただけるのではないかと存じます。

このあたりの差異を詳しく知りたければ、これも最近刊行された
「ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?」
に描かれた、まったく別質の「知」の求め方」についてご一読くださるとよろしいでしょう。



長々綴ってしまいましたが、この本を読んだ後、ホンネは「あ、これはすぐにでもアルキメデスそのものに触れたい」衝動に駆られました。というのも、本書の解説をなさっている日本人数学者も、このプロジェクトの当事者のお一人だったからですし、そのかたによるアルキメデス紹介書も、比較的最近発行されています。もっと知るには絶好の条件は揃っているのです。

ですが、それはとりあえず数学にお詳しい方にお任せしなければなりません。

私は当初の目的に戻って、今日、また最初からギリシャ「古代音楽論集」を読み直し始めました。
前にはチンプンカンプンだったのがウソのように、こんどは彼らの言いたいことがすんなりと頭に入ってくるのを実感しています。

・・・ある過去を、可能な限りあるがままに知りたい、と希求するようになったら、今現在から見える風景ではなく、やはり原典そのものの発想がどうであるか、自分の頭脳を、原典を記したその人の頭脳に置き換えてみる(これも、こうやって記してみると、アルキメデス的な発想であることを実感します)くらいの努力はしなければならないのですね。

貴重な読書経験を、また一つさせて頂いた次第です。
願わくば、愚鈍の私にも、その経験が充分活かせるだけの根気がありますように。

解読! アルキメデス写本Book解読! アルキメデス写本


著者:ウィリアム・ノエル,リヴィエル・ネッツ

販売元:光文社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?Bookビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?


著者:ウィリアム パウンドストーン

販売元:青土社
Amazon.co.jpで詳細を確認する


クラシック音楽のCD探しには、右のバナーをクリック! L4WBanner20080616a.jpg 便利です。 


|

« CDで臨む「クラシック音楽」 | トップページ | 「自」と「法」(TMF本番を前に) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/95716/21745963

この記事へのトラックバック一覧です: 「解読 アルキメデス写本」(書籍紹介):

« CDで臨む「クラシック音楽」 | トップページ | 「自」と「法」(TMF本番を前に) »