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2008年6月 6日 (金)

オーケストラとは何のための集団か?

歴史的なことは、今回は措きます。
プロの団体については、その存在意義に文化政策が大きく関わっており、その自覚が自治体にあるかないかについてはたくさんの疑問点もあります。・・・ですが、それも今回は問題にしません。

もっと原点的な話にしてみたいと思います。

ただし、
「そこにオーケストラ音楽があるからだ」
式の答えでは意味がありません。あくまで、
「オーケストラ作品があって、それを演奏するためにある」
というのは自明のこととして扱います。

となると、この問いは、
「オーケストラ音楽を演奏するとはどういうことか?」
という問いとイコールと見なしても構わないかも知れません。

すると、まず根本には、
「オーケストラとは、集団が一つの楽器をなすものである」
ということが、前提条件に置かれることになります。
・・・そのことに思いを致しながらオーケストラに参加なさっているでしょうか?
オーケストラというものの一員となっているかた全てに、まず問いたいことです。

集団であるがゆえに、しばしば取り違えられているのではないか、と考える最大の疑問は、学生時代に先輩が吐いた言葉に対して私が感じた「ウソ」が、根本にあります。

曰く、
「オーケストラは社会の縮図である」
理由
組織を統括する指揮者がいて、各パートがあたかも官庁や企業のように<部署>を受け持って、音楽作りの仕事を進める。それでは充分ではないので、運営幹部が必要となる」

・・・断言しますが、こんな話は、ウソです。指揮者は「組織の」ではなく、「音楽」の統括者であり、各パートはオルガンのパイプのごとく巨大なひとつの楽器の、それぞれが音楽表現に必要な音程と音色とニュアンスを受け持つ重要な笛であり、<部署>などというものの持つ「曖昧さ」が許容される余地はありません。運営幹部については、敢て今回は言及しません。運営幹部をなさっている方ご自身が、「音楽との兼ね合いの上で」ご自身を突き詰めて熟考なさって下さるとを望みます。

音楽は、行政やビジネスではありません。したがって、自ずと、「社会の縮図である」などということは否定されます。



昨日は、それでも採算の話をモデリングしました。
いまや音楽が「商品」である以上、採算を考えることは避けては通れないからです。
ただし、その採算をどうやってとるのか、というのは、ひっくり返せば、採算を取れるだけの「音楽」をどうやって提供するのか、という「質」の問題に直結するのです。・・・これは、現代の「演奏」についてのみ当てはまる、特殊要因です。そのかわり、そこから、オーケストラはオーケストラの「特殊相対性理論」を構築し、その理論が正統かどうかの検証をしなければなりません。

それに話を絞りたいので、先ほどの「ウソです」主張は、今回は、表明するに留めます。
単に私の思い込みだからかも知れないからです。主張だけにします。



客観的に見るためには、採算を前提とした場合に、どういう「特殊相対性理論」が成立するかだけ考えればいいでしょう。

・音楽は、貨幣経済市場の中に組み込まれている以上、その「質」の向上は貨幣で量られる。(それが公平かどうかは、「一般相対性理論」の話に含まれることであって、現在時点での「質」の議論には組み込まれません。)
・従って、貨幣で相応の・・・というのは、少なくとも一度の演奏会については赤字を出さないか、年間総数の演奏会の中では赤字を出さない状態を維持する・・・純利益を上げられることをもって、「音楽の質」は、貨幣経済支配下の特殊な状況下では良いものと見なしえる。もちろん、これは現代という与件の中での、特殊な「質の良否」でしかない。
・となると、ペイするに充分な「音楽の質」を求めることが、現代のオーケストラに貸された課題である。

まず、オーケストラと言う存在を、そのように直視なさっているかどうかを、オーケストラに所属する全てのかたに問いたい。
ペイするに充分な「音楽の質」とは何ですか?

・観客を充分動員出来る知名度
・コスト回収に見合うだけの最少限の支出
・作品の文脈を理解していなくとも、「組織的」規律を優先させ、その日その日の安定した存続を求めること

違いますか?

これが、
・演奏される音楽の内的に求める質と矛盾せず
・「一般相対性理論」を確立した場合、その中に間違いなく包含される
のであれば、正しい「特殊相対性理論」となるわけです。

あとは、読んで下さった方各自のご考察に委ねます。



「理論」から離れて、もうひとつだけ申し添えます。
音楽を突き詰める上で練習中に楽員同士に齟齬が生じることは、別段構わないことだと思っています。そこで一旦もめたとしても、最後は相互に理解し合える、と信じます。むしろ、音楽の中でぶつかって来るメンバーにこそ、オーケストラの中では信用出来るものを感じます。

「組織」の秩序に拘泥する事務的な「事前注意」等がなされることは、受容出来ません。他のことがいかに適切な対処であるかに見えても、「組織秩序」を規則のように明示して遵守を求める、という行為は、私は適切であるとはどうしても感じられません。・・・とくに、演奏会が近づいた時点で「あれもこれも」列挙されてしまったら・・・精神をそのことでかき乱されます。(私は異常者ですし。・・・集団の構成員には適さないのだろうな、と、つくづく思いました。)

従って、上記の「特殊相対性理論」が正しい、と証明されたその瞬間には、私はオーケストラでの演奏はやめるしかなかろうと思っております。
家内の生前、家内と幾度も話したことでもありました。

6月6日付記)趣旨が極端なままですが、そのままにしました。言い過ぎと思う部分は削除しました。なんでこんなことを綴るのか、ピンときて下さらないかもしれません。そこには希望は持っていません。「そもそもの公転軸・自転軸」がずれていれば、私たちは所詮別々の人間で、それを補正しようとすること自体が誤りです。キチガイの独白だと思って下さい。

最後の部分の曖昧な箇所は、感情的だったところを少し修正しました。

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